「歴史に名を遺す」と称して大事件起こす奴が時折いるけど、これも結局は「他人からの評価」を目的とした欲望の歪んだ形に過ぎないんじゃないかと思うのだ。
本当の意味で主体的目的として行っていることなら、それ単体で満足出来るから他人からの評価なんて要らないし、別に歴史に名前なんか遺らなくて良いと思う。
他人からの評価欲しさに中毒になっている者っていうのは、他人からの評価が思ったように得られなかった場合に無差別殺人に暴走する場合が少なくない。
「それしかないから簡単に挫折する。」というのは、実際には他人からの評価中毒特有の症状であって、純粋行為の方ではない。
多数他人からの評価なんていうのは一貫性や論理性がある訳ではなく、その場限りの思い付きでしかない。だって誰もアカの他人の人生のことなんて興味ないでしょ。親でさえ特定個人の人生について本気で考えたりしない場合がほとんどなんだから、それ以外の大多数の他人の評価なんて何の責任も考えも存在しないのよね。
ウチの認知症になりかけの婆さんも、行き当たり場当たり的に「偉い」だの「凄い」だの言い出すけど、その基準なんて「大学の教授だから」だとか年収を基準にしているだけであって、何ら合理的根拠なんて一切ない。
いわゆる「勝ち組」なんていう基準も、その場限りな小銭稼ぎの話であって。世間的にどんなに成功して収入が多くても社会にとって本当に必要な人物であるかどうかとは無関係。 ブラック経営者でも「勝ち組」なのが世間の評価。
そうした一貫性も論理性もない世間多数の評価なんぞ欲しているから行動が支離滅裂になってしまい、結果的に無差別殺人でも構わなくなってしまう。
「分別」とか「了見」、自律的な社会的責任判断というのは、その場限りな他人からの評価によって得られるものではなく。あくまで個人の本質的主体性によって得られるものであり。選択可能性の基礎となる意識の広さがなければならない。
しかし、他人からの評価に流されている無意識状態においては、自律判断が働く余地はなく。充分な評価をしてくれる相手が見つからない場合には不満を社会に対して無差別にぶつける形で暴力的行動に暴走する。 これが一番社会的には迷惑なのである。
Ende;
本当の意味で主体的目的として行っていることなら、それ単体で満足出来るから他人からの評価なんて要らないし、別に歴史に名前なんか遺らなくて良いと思う。
他人からの評価欲しさに中毒になっている者っていうのは、他人からの評価が思ったように得られなかった場合に無差別殺人に暴走する場合が少なくない。
「それしかないから簡単に挫折する。」というのは、実際には他人からの評価中毒特有の症状であって、純粋行為の方ではない。
多数他人からの評価なんていうのは一貫性や論理性がある訳ではなく、その場限りの思い付きでしかない。だって誰もアカの他人の人生のことなんて興味ないでしょ。親でさえ特定個人の人生について本気で考えたりしない場合がほとんどなんだから、それ以外の大多数の他人の評価なんて何の責任も考えも存在しないのよね。
ウチの認知症になりかけの婆さんも、行き当たり場当たり的に「偉い」だの「凄い」だの言い出すけど、その基準なんて「大学の教授だから」だとか年収を基準にしているだけであって、何ら合理的根拠なんて一切ない。
いわゆる「勝ち組」なんていう基準も、その場限りな小銭稼ぎの話であって。世間的にどんなに成功して収入が多くても社会にとって本当に必要な人物であるかどうかとは無関係。 ブラック経営者でも「勝ち組」なのが世間の評価。
そうした一貫性も論理性もない世間多数の評価なんぞ欲しているから行動が支離滅裂になってしまい、結果的に無差別殺人でも構わなくなってしまう。
「分別」とか「了見」、自律的な社会的責任判断というのは、その場限りな他人からの評価によって得られるものではなく。あくまで個人の本質的主体性によって得られるものであり。選択可能性の基礎となる意識の広さがなければならない。
しかし、他人からの評価に流されている無意識状態においては、自律判断が働く余地はなく。充分な評価をしてくれる相手が見つからない場合には不満を社会に対して無差別にぶつける形で暴力的行動に暴走する。 これが一番社会的には迷惑なのである。
Ende;
サンケイスーパー 亀戸
カズンとかまいばすけっとの裏にひっそりとあるそうで、賞味期限切れ商品が激安らしい。
ヤスノ公式ページ
ヤスノ高島平店 東京都板橋区高島平6-6-6
周囲はトラックターミナルばっかなのでお店があるような場所ではない。
ヤスノ練馬店 東京都練馬区高野台2-5-15ベジフル食品館内
外観上一般人立ち入り禁止っぽくて入るのに勇気が要りそう。
超プライスセンター川口もそうだけど、やっぱ地代が安くないと安売りは成立しないんだろうな。
そういや中仙道のアコレは3月いっぱいで潰れるらしい。 29円コーラを何本か買っておこうかな。
◇追記:ヤスノ高島平店に行ってみたけど、店頭でマヨネーズが天日に晒してあってビビった。基本的に倉庫形式なので段ボール山積み。激安店とは言ってもさすがに超プライスセンター程ではなくて、やっぱり都内は地代が高いんだろうね。売り場は3フロアもあって商品数だけは凄いんだけど何となく「売れ残り」感のある商品も多いのでガッカリ。
あと階段が物凄い急なので怖いけど、エレベーターはある。元々が倉庫なので客が階段を使うようには出来ていないのかも。
業務用商品の品揃えが結構あって、1リットルのドレッシングとか18リットルの植物油とか1kgのクノールコーンスープ(寸胴用)とかあった。
そういや3階にお酒もあったね。おいら飲まないので価格はわからんが。
価格的には西友やOSCおりーぶよか高いものもあるのでちゃんと比較しないと安くはない。お菓子類に関しては一本堂の方が安いかも。
ノザキのニューコンミートが税込み\178-だったので一個だけ買ってきた。味の素のオリーブオイルも安かったんだけど、これは最近カズンで買ったので安いと認識出来たからなので買ってこなかった。一遍価格をメモってこないと何が安いのかわからないね。
Ende;
カズンとかまいばすけっとの裏にひっそりとあるそうで、賞味期限切れ商品が激安らしい。
ヤスノ公式ページ
ヤスノ高島平店 東京都板橋区高島平6-6-6
周囲はトラックターミナルばっかなのでお店があるような場所ではない。
ヤスノ練馬店 東京都練馬区高野台2-5-15ベジフル食品館内
外観上一般人立ち入り禁止っぽくて入るのに勇気が要りそう。
超プライスセンター川口もそうだけど、やっぱ地代が安くないと安売りは成立しないんだろうな。
そういや中仙道のアコレは3月いっぱいで潰れるらしい。 29円コーラを何本か買っておこうかな。
◇追記:ヤスノ高島平店に行ってみたけど、店頭でマヨネーズが天日に晒してあってビビった。基本的に倉庫形式なので段ボール山積み。激安店とは言ってもさすがに超プライスセンター程ではなくて、やっぱり都内は地代が高いんだろうね。売り場は3フロアもあって商品数だけは凄いんだけど何となく「売れ残り」感のある商品も多いのでガッカリ。
あと階段が物凄い急なので怖いけど、エレベーターはある。元々が倉庫なので客が階段を使うようには出来ていないのかも。
業務用商品の品揃えが結構あって、1リットルのドレッシングとか18リットルの植物油とか1kgのクノールコーンスープ(寸胴用)とかあった。
そういや3階にお酒もあったね。おいら飲まないので価格はわからんが。
価格的には西友やOSCおりーぶよか高いものもあるのでちゃんと比較しないと安くはない。お菓子類に関しては一本堂の方が安いかも。
ノザキのニューコンミートが税込み\178-だったので一個だけ買ってきた。味の素のオリーブオイルも安かったんだけど、これは最近カズンで買ったので安いと認識出来たからなので買ってこなかった。一遍価格をメモってこないと何が安いのかわからないね。
Ende;
花だけ切り出すとタンポポっぽいけど
もっと背の高い植物です。
花が散ると種が出来て
もふもふ。
◇追記:「ノゲシ」っていう植物らしい。
Ende;
もっと背の高い植物です。
花が散ると種が出来て
もふもふ。
◇追記:「ノゲシ」っていう植物らしい。
Ende;
研究者倫理として「誠実な心を持つことが不可欠。」だと「教え」ておけば具体的に不正捏造が無くなるという短絡的なものではない。
そもそも「嘘をついてはいけません。」などという幼稚園児レベルの話を研究者にしている時点でバカげている。
不正捏造がなぜ行われるのか、その原因とは研究者自身の自律の欠落である。自律が欠落する原因とは研究自体に対する純粋さ、研究内容そのものに対する本当の科学的好奇心が存在していないからである。 この最も根源的原因を無視したまま、上っ面に「嘘をついてはいけません。」などと説いても全く無駄である。
業績を捏造する原因とは、研究内容そのものに対する主体的意欲がないために手っ取り早く目先の評価報酬を得ることを優先してしまうからである。 なぜそうなるのか、それは結構単純なメカニズム構造で、要するに進学のための学力競争にばかり意識を奪われ、目先の評価だけしか見ないように「教育」されてしまった結果だからである。
養老孟司の解剖学と同様、「親に医者になれと言われたが臨床が嫌だったから。」などという極めて消極的な消去法選択だけで行っている研究にはほとんど何の業績も得られないのである。
なにせ「教えてもらっていないことは、教えられないじゃありませんか。」などというほとんど痴呆とも思えるバカげた屁理屈しか養老孟司の脳からは出てこないのであるからして。そんな脳から誰からも教わっていない新しい発見が出てくるわけがないのである。
「成功体験」などと称して、行ったことに対して他者からの評価報酬を得ることばかりを行動の動機としていれば、失敗や困難に対して簡単に挫折し、安易に不正を行うようになるのは必然的結果であるからだ。
漫画家のような安易な大衆からのウケ狙いであればそれでも良かろう。何の責任もないフィクション(嘘)を陳列して儲けるのは勝手だからだ。 だがしかし、公費を用いて公的研究を行うのであれば、目先の安易な評価報酬を目当てに行われたのでは迷惑というものである。
茂木健一郎のように無責任な脳科学者達は、おしなべて安易に「成功体験」などと称して気分と行動動機を直結させるような「教育」法を勧めるが。これこそが研究内容そのものに対する真摯さを後回しにして目先の評価報酬ばかりを追い求めるバカを大量生産する原因なのである。
ノーベル賞受賞者の多くは、決してこうした安易な教育法は勧めず、むしろ「何度でも失敗して下さい。」だとか、「自分はこれならな一生続けられるものを見つけなさい。」といった、いわば大衆にとっては気分の悪い、都合の悪い話しかしないのである。
人生を賭けてまで没頭出来るような研究テーマを見つけるなどというのは、単に目先の個人的生活を成立させることにしか意識の働かない大多数の凡民にとっては窮屈な話でしかないらしい。
子供の頃から学力競争ばかりを強要されて来た者にとっては、他者とは「蹴落とすもの」でしかない。それなら嘘をついてでも業績を捏造するのは必然的結果である。そんな者に対して上っ面に倫理を説いても、養老孟司よろしく「倫理、倫理の大合唱。ヒトはいつからスズムシになったんだ。」などとはぐらかすだけである。
本当に人生を賭けて研究する対象が存在すれば、こうした無責任な言動が出て来ることはない。なぜなら他者からの目先の評価報酬が目的ではなく、研究そのものを真摯に続けたいからである。
自己内部の欲求としての持続可能性を持つからこそ、社会に対する持続可能性への意識も働くようになるのであって。「他者から与えられる脳への報酬」にはそれがない。だから業績の捏造などの不正が横行するのである。
従って、研究者倫理などと称して真摯さを形式的に求めてどうにかなるという単純安易なものではないのである。
本当の研究者を求めるのであれば、学生に学力競争ばかりに意識を奪う進学ビジネスのエサにするシステム自体を見直す必要性がある。どんなに学力が高くても、その場限りに他者から評価されることでしか行動動機にならない者に、本質的な自発的純粋行為を求めることは原理的に不可能だからである。
世間的な評価ばかりを求める無意識な親や、進学ビジネス利権者達の勧めるままに、何も疑うことなく学力競争に邁進してきた生徒が、東京大学に入った途端に学長から「全てを疑え」などと言われても、反って困惑するだけであって。何の意味も成さないのである。
「他者から与えられる脳への報酬」でしか行動動機が働かないという意識狭窄というのは、いわば子供の頃から強迫観念的に刷り込まれた一種のトラウマのようなものであり。形式的に倫理を説いても簡単には解けるようなものではない。
研究組織の責任者として、安易に研究倫理を念仏のように唱えるだけというのは、あまりに無責任で適性に欠ける。
たとえ業績主義を廃止して「落ち着いて研究出来る環境」を整えたとしても、本心から研究に没頭出来ない研究者にとってはぬるま湯天国であり、税金の無駄遣いにしかならず、極めて社会的に無責任である。
どのような研究環境であろうとも、業績捏造などの不正を行わない自律的な社会的責任意識を持った研究者でなければ、研究者としての社会的価値は存在しないのである。
本当に誰も踏み込んだことのない研究領域であれば、それは評価してくれる他者が存在しない領域である可能性も充分にある。誰もやったことのない研究であれば失敗や試行錯誤ばかりであり、進学テストのように答が予め用意されているわけでもない。それでも続ける地道さ、真摯さというのは、研究内容そのものに対する本質的自発性しか存在しない。
にも関わらず念仏の如く研究者倫理を説くという無責任な研究組織の責任者が存在する理由というのは、二つの場合が想定される。
一つは組織責任者自身が他者からの評価に左右されたりしない純粋な研究者であるために、安易に業績捏造などという不正を行う心理自体が最初から理解出来ていない場合である。
もう一つは自身も研究者倫理になど興味を持たず、世間的ポーズとして形式的に倫理を説いているだけの場合である。
どちらにせよ研究組織の責任者として社会的責任を果たしていないことに違いはない。とは言うものの、具体的に実際の研究者の誰が本質的自発的研究者意欲があるのかなど判断する方法論が確立されているわけでもないが、ただ漫然と倫理を説くだけで「対策」だと言うのは許されない。
Ende;
そもそも「嘘をついてはいけません。」などという幼稚園児レベルの話を研究者にしている時点でバカげている。
不正捏造がなぜ行われるのか、その原因とは研究者自身の自律の欠落である。自律が欠落する原因とは研究自体に対する純粋さ、研究内容そのものに対する本当の科学的好奇心が存在していないからである。 この最も根源的原因を無視したまま、上っ面に「嘘をついてはいけません。」などと説いても全く無駄である。
業績を捏造する原因とは、研究内容そのものに対する主体的意欲がないために手っ取り早く目先の評価報酬を得ることを優先してしまうからである。 なぜそうなるのか、それは結構単純なメカニズム構造で、要するに進学のための学力競争にばかり意識を奪われ、目先の評価だけしか見ないように「教育」されてしまった結果だからである。
養老孟司の解剖学と同様、「親に医者になれと言われたが臨床が嫌だったから。」などという極めて消極的な消去法選択だけで行っている研究にはほとんど何の業績も得られないのである。
なにせ「教えてもらっていないことは、教えられないじゃありませんか。」などというほとんど痴呆とも思えるバカげた屁理屈しか養老孟司の脳からは出てこないのであるからして。そんな脳から誰からも教わっていない新しい発見が出てくるわけがないのである。
「成功体験」などと称して、行ったことに対して他者からの評価報酬を得ることばかりを行動の動機としていれば、失敗や困難に対して簡単に挫折し、安易に不正を行うようになるのは必然的結果であるからだ。
漫画家のような安易な大衆からのウケ狙いであればそれでも良かろう。何の責任もないフィクション(嘘)を陳列して儲けるのは勝手だからだ。 だがしかし、公費を用いて公的研究を行うのであれば、目先の安易な評価報酬を目当てに行われたのでは迷惑というものである。
茂木健一郎のように無責任な脳科学者達は、おしなべて安易に「成功体験」などと称して気分と行動動機を直結させるような「教育」法を勧めるが。これこそが研究内容そのものに対する真摯さを後回しにして目先の評価報酬ばかりを追い求めるバカを大量生産する原因なのである。
ノーベル賞受賞者の多くは、決してこうした安易な教育法は勧めず、むしろ「何度でも失敗して下さい。」だとか、「自分はこれならな一生続けられるものを見つけなさい。」といった、いわば大衆にとっては気分の悪い、都合の悪い話しかしないのである。
人生を賭けてまで没頭出来るような研究テーマを見つけるなどというのは、単に目先の個人的生活を成立させることにしか意識の働かない大多数の凡民にとっては窮屈な話でしかないらしい。
子供の頃から学力競争ばかりを強要されて来た者にとっては、他者とは「蹴落とすもの」でしかない。それなら嘘をついてでも業績を捏造するのは必然的結果である。そんな者に対して上っ面に倫理を説いても、養老孟司よろしく「倫理、倫理の大合唱。ヒトはいつからスズムシになったんだ。」などとはぐらかすだけである。
本当に人生を賭けて研究する対象が存在すれば、こうした無責任な言動が出て来ることはない。なぜなら他者からの目先の評価報酬が目的ではなく、研究そのものを真摯に続けたいからである。
自己内部の欲求としての持続可能性を持つからこそ、社会に対する持続可能性への意識も働くようになるのであって。「他者から与えられる脳への報酬」にはそれがない。だから業績の捏造などの不正が横行するのである。
従って、研究者倫理などと称して真摯さを形式的に求めてどうにかなるという単純安易なものではないのである。
本当の研究者を求めるのであれば、学生に学力競争ばかりに意識を奪う進学ビジネスのエサにするシステム自体を見直す必要性がある。どんなに学力が高くても、その場限りに他者から評価されることでしか行動動機にならない者に、本質的な自発的純粋行為を求めることは原理的に不可能だからである。
世間的な評価ばかりを求める無意識な親や、進学ビジネス利権者達の勧めるままに、何も疑うことなく学力競争に邁進してきた生徒が、東京大学に入った途端に学長から「全てを疑え」などと言われても、反って困惑するだけであって。何の意味も成さないのである。
「他者から与えられる脳への報酬」でしか行動動機が働かないという意識狭窄というのは、いわば子供の頃から強迫観念的に刷り込まれた一種のトラウマのようなものであり。形式的に倫理を説いても簡単には解けるようなものではない。
研究組織の責任者として、安易に研究倫理を念仏のように唱えるだけというのは、あまりに無責任で適性に欠ける。
たとえ業績主義を廃止して「落ち着いて研究出来る環境」を整えたとしても、本心から研究に没頭出来ない研究者にとってはぬるま湯天国であり、税金の無駄遣いにしかならず、極めて社会的に無責任である。
どのような研究環境であろうとも、業績捏造などの不正を行わない自律的な社会的責任意識を持った研究者でなければ、研究者としての社会的価値は存在しないのである。
本当に誰も踏み込んだことのない研究領域であれば、それは評価してくれる他者が存在しない領域である可能性も充分にある。誰もやったことのない研究であれば失敗や試行錯誤ばかりであり、進学テストのように答が予め用意されているわけでもない。それでも続ける地道さ、真摯さというのは、研究内容そのものに対する本質的自発性しか存在しない。
にも関わらず念仏の如く研究者倫理を説くという無責任な研究組織の責任者が存在する理由というのは、二つの場合が想定される。
一つは組織責任者自身が他者からの評価に左右されたりしない純粋な研究者であるために、安易に業績捏造などという不正を行う心理自体が最初から理解出来ていない場合である。
もう一つは自身も研究者倫理になど興味を持たず、世間的ポーズとして形式的に倫理を説いているだけの場合である。
どちらにせよ研究組織の責任者として社会的責任を果たしていないことに違いはない。とは言うものの、具体的に実際の研究者の誰が本質的自発的研究者意欲があるのかなど判断する方法論が確立されているわけでもないが、ただ漫然と倫理を説くだけで「対策」だと言うのは許されない。
Ende;
川崎の中学生殺害事件の加害者側の親のコメントに言い知れぬ違和感を感じてたんだけど、具体的に何がおかしいのかがわからなかった。
そしたら3月8日のテレビ番組で尾木ママが「他人事みたいだ。」と述べていて、なるほどそこかと納得した。
自分の息子が重大犯罪を犯したかも知れないという状況でありながら、コメントがまるで中途半端な大企業から来たメールのようにキッチリしているのも不自然である。
自分の社会的責任よりも何よりも、その場限りの上っ面な取り繕いとか言い逃れにばかり意識が働いているからこそ、こういった「他人事」みたいなコメントが出てくるのではないだろうか。 マトモな「人間」ならそんなに冷静にマスコミコメントなんて書いている精神的余裕はないと思うぞ。
自分の子供が重大犯罪を犯したかも知れないのであれば、普通は「自分の育て方に問題があったのかも知れない。」という当事者意識があるものだろうけど、それが全くなくて子供に対して「警察の捜査に協力しろ」だとか言っている。
いや、お前が育てた子供だろ。 お前も協力しろよ。
この親は当初「自分の子供は絶対に犯罪に関わっていない。」などという盲信的態度をとっており、まるで振り込め詐欺に騙される痴呆老人みたいなことを言っていた。 「子供を信じる」というのはそういうことではないんだけどね。
Ende;
そしたら3月8日のテレビ番組で尾木ママが「他人事みたいだ。」と述べていて、なるほどそこかと納得した。
自分の息子が重大犯罪を犯したかも知れないという状況でありながら、コメントがまるで中途半端な大企業から来たメールのようにキッチリしているのも不自然である。
自分の社会的責任よりも何よりも、その場限りの上っ面な取り繕いとか言い逃れにばかり意識が働いているからこそ、こういった「他人事」みたいなコメントが出てくるのではないだろうか。 マトモな「人間」ならそんなに冷静にマスコミコメントなんて書いている精神的余裕はないと思うぞ。
自分の子供が重大犯罪を犯したかも知れないのであれば、普通は「自分の育て方に問題があったのかも知れない。」という当事者意識があるものだろうけど、それが全くなくて子供に対して「警察の捜査に協力しろ」だとか言っている。
いや、お前が育てた子供だろ。 お前も協力しろよ。
この親は当初「自分の子供は絶対に犯罪に関わっていない。」などという盲信的態度をとっており、まるで振り込め詐欺に騙される痴呆老人みたいなことを言っていた。 「子供を信じる」というのはそういうことではないんだけどね。
Ende;
先日、テレビで漫画家と工業デザイナーの対談番組があった。
その番組内で「やりたいことが決まっている人は、それしかないから挫折すると立ち直れない。」などという話を共有していた。
しかし、そいつらというのは「やりたいことなんてわからない。」と言い、その上「他人の顔色ばかりが気になってしまう。」とまで述べていた。
「一生賭けてやりたいこと。」を持たない奴が、どうして「それしかないから挫折する。」などと決め付けられるのであろうか。
たかが漫画家や工業デザイナーが、その業界内部での評価を得て小銭を稼げたからといって、何でノーベル賞受賞者達が提唱する「一生賭けてやりたいこと。」を否定出来るというのであろうか。 これは身勝手な傲慢でしかない。
そもそも「挫折」するという時点で、既に一生を賭けていない証拠であり。こいつらの基準では世間的評価が得られないことを短絡的に「挫折」だと言っているだけで、本当に「一生賭けてやりたいこと。」を持っているのであれば「挫折」自体が成立しない。
世間的評価が得られないとしても続ける覚悟、本質的な自発的意志としての純粋行為というものに「挫折」とか「諦め」などという概念自体が存在しないのである。
本当に一生を賭けられるような純粋行為が見つからない者にとっては、ノーベル賞受賞者達の勧めは息苦しい窮屈なものなのかも知れないが。 これは人間性の確立においても重要な事柄であり、目先の世間的/経済的成功などという小銭稼ぎレベルの話ではない。
通り魔が無差別殺人を行う大きな理由の一つが「世間が認めてくれないから。」である。 たまたま世間大衆から評価を得て、小銭稼ぎに成功したからといって、あたかも自分達が人間として優秀な存在であるかのように錯覚しているからこそ身勝手な妄想を陳列しようとするのであり。 こうした「他人からの評価」ばかりを追求する発想自体が根源的に間違っているのである。
「小銭が稼げるよ~。」的な話をすれば、愚かな大衆の人気取りをすることは簡単であり。あたかも人間として優秀であるかのように錯覚妄想することも簡単であろう。それはとても簡単であるが故に、世間的評価が得られない場合に「挫折」し、通り魔のような「報復」感情の暴走をも招くのである。
ノーベル賞受賞者達が重要だと考えるものというのは、目先の多数や大衆世間的評価に惑わされることなく。本当に知りたいこと、挫折することなく本当に純粋に追求したいと思えるものを持ち続ける本質的主体性である。
この本質的主体性こそが、自律的な社会的責任判断の源であって。これを持たずに他人の顔色ばかりを窺っているからこそ「自律」を失うことに陥るのである。
本当の意味でのイノベーションをもたらすような研究というのは、誰も踏み込んだことのない領域であり。その過程では世間的評価が得られないばかりか山中伸弥教授のように「ジャマナカ」とまで言われることも充分ありうる。
山中教授はこうも述べる、「何度でも失敗して下さい。」と。
何度失敗しても挫折することなく続けるという、本当の意味での自発性こそが最も重要だという意味である。
しかし安っぽい成功者達は安易に「成功体験を子供に植え付けることでやる気を引き出す」などと述べるのである。 茂木健一郎などが典型であろう。
他人から提供された「成功体験」などというものでしか動機が得られないからこそ、通り魔達は簡単に「諦め」「挫折」し、自律的な社会的責任など糞喰らえとばかりに無差別報復へと暴走するのである。
これはISILに参加する若者達にも言えることである。
「挫折」などというのは本質的自発性に基づく純粋な研究テーマなど持たず「他人の顔色を窺うことでしか行動動機が得られない者の泣き言。」に過ぎないのである。
たまたま世間的に評価され、小銭稼ぎのコツを会得したからといって。それが人間としての重要性の全てだと勝手に妄想し、偉そうに語ることも簡単であろう。
こうした安易で簡単な事柄に流されているから「意識がない。」「意識が低い。」というのである。
一生賭けて行う研究というものは、必ずしも世間的評価が得られるとは限らず、死後に再評価されても当人の経済的成功には結びつかないこともしばしばである。
その覚悟も持たない小銭稼ぎが偉そうに自発的純粋行為を否定するというのは傲慢という他ない。
当人達は他人の顔色を窺うことを謙虚さか何かと勝手に妄想勘違いしているようだが、それこそが「卑屈」の根源であることを認識していないのである。
安易で簡単なことをして満足するのは簡単である。 これは自明である。
犯罪者に刑法懲罰を与えて「解決」とみなしておけば大衆の多くは満足である。だが、それこそが犯罪者の無責任さと同じ無責任で意識の低い選択であることにまでは意識が働いていない。
働いていない意識は無意識である。
世間の大多数の大衆達は、「気分的にやさしい気持ち」にさえなっていれば短絡的に人間性か何かと勝手に妄想するであろうが。 これは「気分感情が当人の意志や意識そのものである。」という大衆観念に基づいた妄想錯覚に過ぎない。
「単純作業は心がキレイになる。」などというのも、要するに単純作業で気分が良くなったことを短絡的に「心がキレイ」だと勝手に妄想しているからこその発言である。
東京電力社内において、原発の危険性を指摘することは上司や同僚から疎まれ嫌な気分に陥るような事だったに違いない。だからこそ東京電力の社員達は原発の危険性を放置したのである。
本当の意味で「心がキレイ」とは何かすら本気で考えたこともない一般大衆の人気取りをするにはそれで充分かも知れないが。 その安易な人気取りこそが本当の問題点への意識を喪失させ、「自律的な社会的責任判断」の重要性を認識せず、身勝手な妄想で満足してしまうという無意識へと誘うのである。
こうした「自分達の無責任さ」を認識せずにいた方が気分は良かろう。
バカのままでいることは気分的満足や安心感を与える麻薬のようなものだからである。その意味においては残虐なテロリストや通り魔達も、何も問題意識を持たずに漫然と懲罰や賠償だけで「解決」だと信じ込んでいる一般大衆も、無責任さの構造的には何の違いもないのである。
進化生物学的な脳の構造に由来する情動行動には何の保障も存在せず、ヒトという種の生物には先天的危険性が存在することを認識することは、大多数の大衆にとって気分が悪い話であろう。 むしろチンパンジーやヒトが特定環境下における限定的な利他行動の抽出を科学的業績か何かと勝手に勘違い妄想しておいた方がさぞかし気分が良いに違いない。
それはもはや科学でも何でもなく、実証不能の観念以外の何物でもない。 ならば何の問題解決にならないのも必然というものである。
Ende;
その番組内で「やりたいことが決まっている人は、それしかないから挫折すると立ち直れない。」などという話を共有していた。
しかし、そいつらというのは「やりたいことなんてわからない。」と言い、その上「他人の顔色ばかりが気になってしまう。」とまで述べていた。
「一生賭けてやりたいこと。」を持たない奴が、どうして「それしかないから挫折する。」などと決め付けられるのであろうか。
たかが漫画家や工業デザイナーが、その業界内部での評価を得て小銭を稼げたからといって、何でノーベル賞受賞者達が提唱する「一生賭けてやりたいこと。」を否定出来るというのであろうか。 これは身勝手な傲慢でしかない。
そもそも「挫折」するという時点で、既に一生を賭けていない証拠であり。こいつらの基準では世間的評価が得られないことを短絡的に「挫折」だと言っているだけで、本当に「一生賭けてやりたいこと。」を持っているのであれば「挫折」自体が成立しない。
世間的評価が得られないとしても続ける覚悟、本質的な自発的意志としての純粋行為というものに「挫折」とか「諦め」などという概念自体が存在しないのである。
本当に一生を賭けられるような純粋行為が見つからない者にとっては、ノーベル賞受賞者達の勧めは息苦しい窮屈なものなのかも知れないが。 これは人間性の確立においても重要な事柄であり、目先の世間的/経済的成功などという小銭稼ぎレベルの話ではない。
通り魔が無差別殺人を行う大きな理由の一つが「世間が認めてくれないから。」である。 たまたま世間大衆から評価を得て、小銭稼ぎに成功したからといって、あたかも自分達が人間として優秀な存在であるかのように錯覚しているからこそ身勝手な妄想を陳列しようとするのであり。 こうした「他人からの評価」ばかりを追求する発想自体が根源的に間違っているのである。
「小銭が稼げるよ~。」的な話をすれば、愚かな大衆の人気取りをすることは簡単であり。あたかも人間として優秀であるかのように錯覚妄想することも簡単であろう。それはとても簡単であるが故に、世間的評価が得られない場合に「挫折」し、通り魔のような「報復」感情の暴走をも招くのである。
ノーベル賞受賞者達が重要だと考えるものというのは、目先の多数や大衆世間的評価に惑わされることなく。本当に知りたいこと、挫折することなく本当に純粋に追求したいと思えるものを持ち続ける本質的主体性である。
この本質的主体性こそが、自律的な社会的責任判断の源であって。これを持たずに他人の顔色ばかりを窺っているからこそ「自律」を失うことに陥るのである。
本当の意味でのイノベーションをもたらすような研究というのは、誰も踏み込んだことのない領域であり。その過程では世間的評価が得られないばかりか山中伸弥教授のように「ジャマナカ」とまで言われることも充分ありうる。
山中教授はこうも述べる、「何度でも失敗して下さい。」と。
何度失敗しても挫折することなく続けるという、本当の意味での自発性こそが最も重要だという意味である。
しかし安っぽい成功者達は安易に「成功体験を子供に植え付けることでやる気を引き出す」などと述べるのである。 茂木健一郎などが典型であろう。
他人から提供された「成功体験」などというものでしか動機が得られないからこそ、通り魔達は簡単に「諦め」「挫折」し、自律的な社会的責任など糞喰らえとばかりに無差別報復へと暴走するのである。
これはISILに参加する若者達にも言えることである。
「挫折」などというのは本質的自発性に基づく純粋な研究テーマなど持たず「他人の顔色を窺うことでしか行動動機が得られない者の泣き言。」に過ぎないのである。
たまたま世間的に評価され、小銭稼ぎのコツを会得したからといって。それが人間としての重要性の全てだと勝手に妄想し、偉そうに語ることも簡単であろう。
こうした安易で簡単な事柄に流されているから「意識がない。」「意識が低い。」というのである。
一生賭けて行う研究というものは、必ずしも世間的評価が得られるとは限らず、死後に再評価されても当人の経済的成功には結びつかないこともしばしばである。
その覚悟も持たない小銭稼ぎが偉そうに自発的純粋行為を否定するというのは傲慢という他ない。
当人達は他人の顔色を窺うことを謙虚さか何かと勝手に妄想勘違いしているようだが、それこそが「卑屈」の根源であることを認識していないのである。
安易で簡単なことをして満足するのは簡単である。 これは自明である。
犯罪者に刑法懲罰を与えて「解決」とみなしておけば大衆の多くは満足である。だが、それこそが犯罪者の無責任さと同じ無責任で意識の低い選択であることにまでは意識が働いていない。
働いていない意識は無意識である。
世間の大多数の大衆達は、「気分的にやさしい気持ち」にさえなっていれば短絡的に人間性か何かと勝手に妄想するであろうが。 これは「気分感情が当人の意志や意識そのものである。」という大衆観念に基づいた妄想錯覚に過ぎない。
「単純作業は心がキレイになる。」などというのも、要するに単純作業で気分が良くなったことを短絡的に「心がキレイ」だと勝手に妄想しているからこその発言である。
東京電力社内において、原発の危険性を指摘することは上司や同僚から疎まれ嫌な気分に陥るような事だったに違いない。だからこそ東京電力の社員達は原発の危険性を放置したのである。
本当の意味で「心がキレイ」とは何かすら本気で考えたこともない一般大衆の人気取りをするにはそれで充分かも知れないが。 その安易な人気取りこそが本当の問題点への意識を喪失させ、「自律的な社会的責任判断」の重要性を認識せず、身勝手な妄想で満足してしまうという無意識へと誘うのである。
こうした「自分達の無責任さ」を認識せずにいた方が気分は良かろう。
バカのままでいることは気分的満足や安心感を与える麻薬のようなものだからである。その意味においては残虐なテロリストや通り魔達も、何も問題意識を持たずに漫然と懲罰や賠償だけで「解決」だと信じ込んでいる一般大衆も、無責任さの構造的には何の違いもないのである。
進化生物学的な脳の構造に由来する情動行動には何の保障も存在せず、ヒトという種の生物には先天的危険性が存在することを認識することは、大多数の大衆にとって気分が悪い話であろう。 むしろチンパンジーやヒトが特定環境下における限定的な利他行動の抽出を科学的業績か何かと勝手に勘違い妄想しておいた方がさぞかし気分が良いに違いない。
それはもはや科学でも何でもなく、実証不能の観念以外の何物でもない。 ならば何の問題解決にならないのも必然というものである。
Ende;
載せようか迷っていて死蔵してた写真を載せてみる。
確か三郷周辺だった気がする。
ワルナスビ ◇追記:タマサンゴかもしれない。
千住汐入大橋だったと思う。 確かジオログか何かに載せた記憶があるんだが…。
東京スカイツリーまで行ってこんな写真撮ってくるひねくれ具合。
上野駅前。
南千住駅近くの極狭架道橋 こういうやわらかい光好き。
外環道の下を通るトンネル。
Nikon S230でも日中はそれなりに鮮明に写る。
荒川 鹿浜橋。
pixlrで彩度と明るさをいじってみた。
撮影日時:2015:01:04 16:34:53
フォトショの「レベル補正」でいじった。
Ende;
確か三郷周辺だった気がする。
ワルナスビ ◇追記:タマサンゴかもしれない。
千住汐入大橋だったと思う。 確かジオログか何かに載せた記憶があるんだが…。
東京スカイツリーまで行ってこんな写真撮ってくるひねくれ具合。
上野駅前。
南千住駅近くの極狭架道橋 こういうやわらかい光好き。
外環道の下を通るトンネル。
Nikon S230でも日中はそれなりに鮮明に写る。
荒川 鹿浜橋。
pixlrで彩度と明るさをいじってみた。
撮影日時:2015:01:04 16:34:53
フォトショの「レベル補正」でいじった。
Ende;
茂木健一郎が提唱するような、「これさえやっときゃ創造力がつく。」といった方法論は大衆迎合に過ぎず、単なる嘘に過ぎない。
アインシュタインやニュートンなど、大多数の人が気付かないようなことに気付く能力というのは、むしろ特定の「これさえやっときゃ」的方法論では発揮されることはない。
むしろ、本当に創造性を発揮するためには、「こうすれば発揮されるはずだ。」という思い込みに陥らないことであって、茂木健一郎が提唱するように天才達の真似をしておけばどうにかなるようなものではない。
本当の天才達というのは、特定の手法や考えに囚われないからこそ大多数の人が気付かないことに気付くことが可能になるのであって。既に誰かが行った手法を踏襲している時点で独創性が失われているのである。
逆に考えれば、「なぜ大多数の人達は気付くことが出来ないのか。」こそが凡人の凡人たる所以なのである。
言われてみれば誰でも気付くことが可能な事柄でありながら、なぜ大多数の人達はそれに気付くことが出来ないのであろう。
「気付く」ということがなぜ出来ないのであろうか。
「天才達の手法を真似して踏襲しておけば自分達も天才と同様誰も気付かないことに気付くことが可能になるはずだ。」という、短絡的でバカげた独創性のカケラもない大衆迎合的嘘を鵜呑みにしていることにすら、多くの人は気付いていない。
人気取りは可能であろう。「アインシュタインはこうやった。」とか「ニュートンはこうやった。」という事例を挙げて共通点を抽出しておけば、それこそが天才になることの出来る方法論だという嘘を鵜呑みにする大多数のバカを騙すことは簡単だからである。
その程度の嘘にも気付くことの出来ないバカが、天才達の既に行った手法を踏襲して何か画期的発見や発明が可能であろうか。
無理に決まってるだろw。
Ende;
アインシュタインやニュートンなど、大多数の人が気付かないようなことに気付く能力というのは、むしろ特定の「これさえやっときゃ」的方法論では発揮されることはない。
むしろ、本当に創造性を発揮するためには、「こうすれば発揮されるはずだ。」という思い込みに陥らないことであって、茂木健一郎が提唱するように天才達の真似をしておけばどうにかなるようなものではない。
本当の天才達というのは、特定の手法や考えに囚われないからこそ大多数の人が気付かないことに気付くことが可能になるのであって。既に誰かが行った手法を踏襲している時点で独創性が失われているのである。
逆に考えれば、「なぜ大多数の人達は気付くことが出来ないのか。」こそが凡人の凡人たる所以なのである。
言われてみれば誰でも気付くことが可能な事柄でありながら、なぜ大多数の人達はそれに気付くことが出来ないのであろう。
「気付く」ということがなぜ出来ないのであろうか。
「天才達の手法を真似して踏襲しておけば自分達も天才と同様誰も気付かないことに気付くことが可能になるはずだ。」という、短絡的でバカげた独創性のカケラもない大衆迎合的嘘を鵜呑みにしていることにすら、多くの人は気付いていない。
人気取りは可能であろう。「アインシュタインはこうやった。」とか「ニュートンはこうやった。」という事例を挙げて共通点を抽出しておけば、それこそが天才になることの出来る方法論だという嘘を鵜呑みにする大多数のバカを騙すことは簡単だからである。
その程度の嘘にも気付くことの出来ないバカが、天才達の既に行った手法を踏襲して何か画期的発見や発明が可能であろうか。
無理に決まってるだろw。
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被害者のことをかわいそうだと言うのは簡単で、加害者をキチガイだと非難することも簡単。
だけど18歳かそこらで残虐な殺人を「しなければならない」程追い詰めた環境とか状況というのも憐れなのであって。短絡的に結果論だけで「加害者がキチガイ」で済む話ではない。
もちろん加害者当人の自律が重要なんだけども、自律の素となるべき本質的主体性すら持たせてもらえない環境とか状況があるとすれば、これは加害者当人だけの問題ではない。
現在の司法制度上においては加害者の懲罰科料の妥当性を決めるだけであって、「加害者がなぜ加害に至ったのか」、「なぜ自律的に自分を抑制出来ないのか」についての具体的で論理的検証としての原因究明が全く放置されてしまう。しかし、こうした「悪者を探し出して攻撃する。」といったその場限りな対応で気分的に安心満足してしまうという大多数の「ヒト」の短絡性こそが、「ヒトという種の生物」の危険性を放置しているのであり。ここに言及しない限りあらゆる「人災」に対する再発防止策は永遠につながらないばかりか、阻害しかしない。
ハイリッヒの法則から鑑みれば、一つの重大事象の裏には無数の事象が隠れているのであって。実際に社会(マスコミが取り扱う)に露見した事柄にだけ対処しておけば良いというものではない。
司法懲罰制度の不毛性を放置しているというのは、いうなれば子供がイジメを傍観放置しているのと構造的には同じであり。イジメの傍観放置というのは大人の無責任さの反映だとも言える。
自分達の無責任さを棚上げにして、実際に重大事象が起きてから「悪者」を糾弾非難しているだけならバカでも出来る。
すなはち、自分達自身のバカさ、愚かさを認識しようとしないからこそ、様々な「人災」への原因究明にも再発防止策にもつながらないのである。
ヒトの多くは「自分だけは絶対に大丈夫」だと盲目的に信奉する。 そう思っておけば気分的に安心で満足だからだ。
だからこそ重大事象の「悪者」だけを非難して、刑法懲罰の判決を「解決」であると見なし、本質的な原因究明を放置してしまうのである。
ヒトという種の生物の危険性というものが、どのようにして生ずるのか。その過程や原因といったものを共有して次世代に伝えてこそ教訓財産ともなるのであって、これを行わずに加害者を非難するだけの短絡性こそが、本当の非難対象だと認識すべきである。
恐らく、ISILの構成員のような残虐行為を行っている者も、「自分達だけは絶対に大丈夫」だという盲目性が働いているからこそ、自分達の行為に何の疑問も持たなくなることが可能なのであり。これは一般市民における「司法懲罰や加害者非難で満足解決だ」という無責任性と構造的には何の違いもない。
本質的原因究明をせずにその場限りの懲罰非難で満足しているということは、すなはち「何度残虐行為が繰り返されても俺の知ったことではない。俺様がその場限りに安心で満足出来ていれば充分。」という残虐性なのである。
ましてやチンパンジーの行動習性の観察だの、特定環境下におけるヒトの行動習性の抽出から「ヒトは先天的に人間性を持ち合わせている。」という妄想で満足することは、もはや科学でも何でもない。科学的思考から逸脱していれば進歩がないのは当たり前の話である。
Ende;
だけど18歳かそこらで残虐な殺人を「しなければならない」程追い詰めた環境とか状況というのも憐れなのであって。短絡的に結果論だけで「加害者がキチガイ」で済む話ではない。
もちろん加害者当人の自律が重要なんだけども、自律の素となるべき本質的主体性すら持たせてもらえない環境とか状況があるとすれば、これは加害者当人だけの問題ではない。
現在の司法制度上においては加害者の懲罰科料の妥当性を決めるだけであって、「加害者がなぜ加害に至ったのか」、「なぜ自律的に自分を抑制出来ないのか」についての具体的で論理的検証としての原因究明が全く放置されてしまう。しかし、こうした「悪者を探し出して攻撃する。」といったその場限りな対応で気分的に安心満足してしまうという大多数の「ヒト」の短絡性こそが、「ヒトという種の生物」の危険性を放置しているのであり。ここに言及しない限りあらゆる「人災」に対する再発防止策は永遠につながらないばかりか、阻害しかしない。
ハイリッヒの法則から鑑みれば、一つの重大事象の裏には無数の事象が隠れているのであって。実際に社会(マスコミが取り扱う)に露見した事柄にだけ対処しておけば良いというものではない。
司法懲罰制度の不毛性を放置しているというのは、いうなれば子供がイジメを傍観放置しているのと構造的には同じであり。イジメの傍観放置というのは大人の無責任さの反映だとも言える。
自分達の無責任さを棚上げにして、実際に重大事象が起きてから「悪者」を糾弾非難しているだけならバカでも出来る。
すなはち、自分達自身のバカさ、愚かさを認識しようとしないからこそ、様々な「人災」への原因究明にも再発防止策にもつながらないのである。
ヒトの多くは「自分だけは絶対に大丈夫」だと盲目的に信奉する。 そう思っておけば気分的に安心で満足だからだ。
だからこそ重大事象の「悪者」だけを非難して、刑法懲罰の判決を「解決」であると見なし、本質的な原因究明を放置してしまうのである。
ヒトという種の生物の危険性というものが、どのようにして生ずるのか。その過程や原因といったものを共有して次世代に伝えてこそ教訓財産ともなるのであって、これを行わずに加害者を非難するだけの短絡性こそが、本当の非難対象だと認識すべきである。
恐らく、ISILの構成員のような残虐行為を行っている者も、「自分達だけは絶対に大丈夫」だという盲目性が働いているからこそ、自分達の行為に何の疑問も持たなくなることが可能なのであり。これは一般市民における「司法懲罰や加害者非難で満足解決だ」という無責任性と構造的には何の違いもない。
本質的原因究明をせずにその場限りの懲罰非難で満足しているということは、すなはち「何度残虐行為が繰り返されても俺の知ったことではない。俺様がその場限りに安心で満足出来ていれば充分。」という残虐性なのである。
ましてやチンパンジーの行動習性の観察だの、特定環境下におけるヒトの行動習性の抽出から「ヒトは先天的に人間性を持ち合わせている。」という妄想で満足することは、もはや科学でも何でもない。科学的思考から逸脱していれば進歩がないのは当たり前の話である。
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