ポーランドにあったナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは600万人のユダヤ人を効率的に殺害するための計画書を作成した
ナチス政権下においてはユダヤ人殺害は評価になった
他人からの評価を目的にしていれば 自律的/主体的には物事を判断することをしなくなる
他人の評価基準が本当に正しいのかどうかを判断するのは 結局は自分であって これを多数や権威(多数承認)に丸投げしているから人間性を喪失するのである
ヒトは哺乳類であるため 産まれてくれば初期的に「子」である
「子」とは何かというと 「親」に服従する存在という意味であり この服従性は哺乳類の先天的な本能習性であり 条件反射的な無意識行動バイアスとして働くため 結果的に封建的な統率協調性においても機能する
統率協調性に基づく役割分担を 生物学においては「社会性」と呼び これを短絡的に人間性の一部であるかのような解釈の仕方を長年してきたが 統率協調性というのは必ずしも人間性を伴うわけではなく ヤクザや特殊詐欺集団やテロリストにおいても発揮されるものである
軍隊とは ヒトの先天的な統率協調性を利用した集団組織であり 統率協調性を発揮させるためには階級順位序列への価値観を「学習」させることで盲目的に上官の命令に服従するよう「訓練」するのである
ここにおける「学習」とは AIの深層学習と同じものであり 論理的に物事を考えることなく 単なる区別分類として無意識下に刷り込み「学習」させているに過ぎず 主体的自律判断力を喪失させるものでもある
「ネコ」か「イヌ」かを分類するように 「服従対象」か「そうでないか」を分類するだけであって 服従対象と見なした相手の命令に人間性が伴っているかどうかの自律的判断力は後回しにすることで盲目的に服従するよう順位序列意識を植え付け「学習」するのである
「順位序列意識」とは言っても これは無意識であって意識ではない
一般に「○○意識」と呼ばれるもののほとんど全ては意識ではなく むしろ「○○」という特定の価値観に基づいた無意識のことを「○○意識」と形容しているに過ぎない
本当の意識の本質とは 特定の価値観に拠らない自発的論理検証性であって むしろ特定の「○○意識」に左右されることのない現在時点における選択可能性のことを指すのである
特定の服従対象に盲目的服従をする「序列意識」というものは 現在時点においては選択不可能性の原因となるものであって 疑問も持たなければ自発的に論理検証することもしなくなる思考停止しか促すことはない
「○○意識」と一般的に形容されているもののほとんど全ては 「○○感情」と形容すべきであって 既存の価値観を刷り込み学習することによって主体的な論理検証に基づく行動選択を阻害するものである
自己の脳に刷り込み「学習」されたあらゆる価値観は思考停止による錯覚を促す
観念的恐怖心を論理的危険性と錯覚し 観念的安心満足を論理的安全性と錯覚させるのは 自己の内部における既存のあらゆる価値観が作り出す無意識な行動バイアスである
既存のあらゆる価値観に執着(中毒)することなく自発的主体的に論理検証することによって 錯覚が促す無意識な行動バイアスに無為に流されるという頭の悪さ(愚痴)から脱することが出来るのである
執着とか愚痴などという仏教用語を用いてしまうと宗教的洗脳か何かと勘違い錯覚を促し 観念的拒絶反応を示す者もいるかも知れないが 釈迦の発想というのは科学分析的な要素が含まれているため利用価値が広いために用いている
特定の価値観への執着心というものは ドーパミンの持つ常習性によって作り出されるものであり 常習性とはすなはち中毒であり これが執着心としてヒトの行動に顕れるのである
国際的経済競争というチキンレースのために危険な原発稼働を正当化することは合理的とは言えず そもそも「経済(世を経て民を救済する)」としての主旨を逸脱している
ヒトの多くは合理性というと短絡的に金銭的価値観を絶対基準だと錯覚しがちであり 民事訴訟では金額を基準に争うことしか出来ず 社会制度上の問題については議論することすら出来ない 故に「要は金目でしょ」などという発想が出てくることにもなる
犯罪者に懲罰を与えて満足してしまうことにより 犯罪というものの構造原理に対する論理科学的分析を放棄して「解決」にしているからこそ 似たような犯罪が何度も繰り返すことになるのである
執着は分類を作り出す
「服従対象」か「そうでないか」の分類も 価値観序列意識という無意識が促す行動バイアスであり 錯覚の源でもある
イヌは訓練次第では非常に従順に服従するようにもなるが 逆に手順に従った訓練を怠りイヌの自主性や主体性のようなものを尊重すると イヌは先天的本能が求める服従対象を見失い欲求不満に陥り狂暴になる
イヌの脳に自主性や主体性はないのだが ヒトはどうしてもイヌを擬人化してしまい 自主性や主体的意識があるものだと錯覚することでイヌの訓練を怠ってしまう原因となる
では ヒトの場合も先天的に服従対象を求める習性があるのならば「訓練」によって盲目性を発揮させ 自律的には何も考えない従順さを発揮させておけば良いのかと言えば これは大間違いである
あらゆる「人災」とは ヒトが自律的に社会的責任を負わないことで生ずるものであり 人格や人間性や倫理は自発的論理検証性という本質的な意識によって発揮されるのである
現在時点における選択可能性が意識の機能であり 既に存在している自己の中にあるあらゆる価値観 特定可能な「○○意識」に惑わされることのない純粋な主体性に基づいた論理検証性こそが人間性として働くのである
主観的価値観としての趣味がペドフィリアでも構わない 妄想の中だけで幼女に何を求めても実害がなければ人間性には関係がないからだ
他人の迷惑を考えなくなることが犯罪などの「人災」の原因であって 他人の痛みや苦しみを認識出来なくなるのは 自分自身の痛みや苦しみを忘れてしまっているからである
自己自身で熱中出来る純粋行為が何なのかを知らないからこそ 自分の感覚が失われ 結果的に他人の感覚にも配慮が及ばなくなるのである
自律とは自発の中にあり他にはない
他律とは多数派迎合や同調性に過ぎず フロイトの言う「超自我」というのは無意識な多数派からの精神的抑圧のことを指しているだけであって これは人間性の源である自律とは全く別のものである
ヒトの多くは人間性というものがヒトという種の生物には先天的に組み込まれていると「思いたい」らしいのだが その「思いたい」という欲求は実証不能な妄想錯覚に基づく身勝手な願望に過ぎない
「神がいないのであれば 何をしても許される」という旧約聖書の幼稚な屁理屈が真であるならば 「神がいさえすれば 世の中からあらゆる人災は無くなる」はずである
社会安全性を求めているのは神ではなく ヒトである
神は関係がない
ヒトの多くが「理性や人知を超越した実証不能の謎の叡智」などという身勝手な妄想を鵜呑みに出来るのも ヒトの意識以外の何かによって自動的(自然)に人間性が発揮される優秀な生物種であるという身勝手な錯覚に基づいたものである
ヒトはバカでいた方が気分が良い
バカ同士で統率協調的に差別排除でもしていれば ヒトは満足するのである
ヒトは誰しも自らの意思でこの世に産まれてきた者はいない
自己の遺伝子は自己では選択不可能なものであり 自己の脳の構造もまた然りである
そして自己の成育環境である社会や時代も自己選択不可能なものであり 環境から刷り込み学習されたあらゆる価値観も自己選択が介在する余地はない
しかし ヒトには客観的論理検証性が存在し 客観的事実を見極める能力もある
それが意識の本質である
Ende;
ナチス政権下においてはユダヤ人殺害は評価になった
他人からの評価を目的にしていれば 自律的/主体的には物事を判断することをしなくなる
他人の評価基準が本当に正しいのかどうかを判断するのは 結局は自分であって これを多数や権威(多数承認)に丸投げしているから人間性を喪失するのである
ヒトは哺乳類であるため 産まれてくれば初期的に「子」である
「子」とは何かというと 「親」に服従する存在という意味であり この服従性は哺乳類の先天的な本能習性であり 条件反射的な無意識行動バイアスとして働くため 結果的に封建的な統率協調性においても機能する
統率協調性に基づく役割分担を 生物学においては「社会性」と呼び これを短絡的に人間性の一部であるかのような解釈の仕方を長年してきたが 統率協調性というのは必ずしも人間性を伴うわけではなく ヤクザや特殊詐欺集団やテロリストにおいても発揮されるものである
軍隊とは ヒトの先天的な統率協調性を利用した集団組織であり 統率協調性を発揮させるためには階級順位序列への価値観を「学習」させることで盲目的に上官の命令に服従するよう「訓練」するのである
ここにおける「学習」とは AIの深層学習と同じものであり 論理的に物事を考えることなく 単なる区別分類として無意識下に刷り込み「学習」させているに過ぎず 主体的自律判断力を喪失させるものでもある
「ネコ」か「イヌ」かを分類するように 「服従対象」か「そうでないか」を分類するだけであって 服従対象と見なした相手の命令に人間性が伴っているかどうかの自律的判断力は後回しにすることで盲目的に服従するよう順位序列意識を植え付け「学習」するのである
「順位序列意識」とは言っても これは無意識であって意識ではない
一般に「○○意識」と呼ばれるもののほとんど全ては意識ではなく むしろ「○○」という特定の価値観に基づいた無意識のことを「○○意識」と形容しているに過ぎない
本当の意識の本質とは 特定の価値観に拠らない自発的論理検証性であって むしろ特定の「○○意識」に左右されることのない現在時点における選択可能性のことを指すのである
特定の服従対象に盲目的服従をする「序列意識」というものは 現在時点においては選択不可能性の原因となるものであって 疑問も持たなければ自発的に論理検証することもしなくなる思考停止しか促すことはない
「○○意識」と一般的に形容されているもののほとんど全ては 「○○感情」と形容すべきであって 既存の価値観を刷り込み学習することによって主体的な論理検証に基づく行動選択を阻害するものである
自己の脳に刷り込み「学習」されたあらゆる価値観は思考停止による錯覚を促す
観念的恐怖心を論理的危険性と錯覚し 観念的安心満足を論理的安全性と錯覚させるのは 自己の内部における既存のあらゆる価値観が作り出す無意識な行動バイアスである
既存のあらゆる価値観に執着(中毒)することなく自発的主体的に論理検証することによって 錯覚が促す無意識な行動バイアスに無為に流されるという頭の悪さ(愚痴)から脱することが出来るのである
執着とか愚痴などという仏教用語を用いてしまうと宗教的洗脳か何かと勘違い錯覚を促し 観念的拒絶反応を示す者もいるかも知れないが 釈迦の発想というのは科学分析的な要素が含まれているため利用価値が広いために用いている
特定の価値観への執着心というものは ドーパミンの持つ常習性によって作り出されるものであり 常習性とはすなはち中毒であり これが執着心としてヒトの行動に顕れるのである
国際的経済競争というチキンレースのために危険な原発稼働を正当化することは合理的とは言えず そもそも「経済(世を経て民を救済する)」としての主旨を逸脱している
ヒトの多くは合理性というと短絡的に金銭的価値観を絶対基準だと錯覚しがちであり 民事訴訟では金額を基準に争うことしか出来ず 社会制度上の問題については議論することすら出来ない 故に「要は金目でしょ」などという発想が出てくることにもなる
犯罪者に懲罰を与えて満足してしまうことにより 犯罪というものの構造原理に対する論理科学的分析を放棄して「解決」にしているからこそ 似たような犯罪が何度も繰り返すことになるのである
執着は分類を作り出す
「服従対象」か「そうでないか」の分類も 価値観序列意識という無意識が促す行動バイアスであり 錯覚の源でもある
イヌは訓練次第では非常に従順に服従するようにもなるが 逆に手順に従った訓練を怠りイヌの自主性や主体性のようなものを尊重すると イヌは先天的本能が求める服従対象を見失い欲求不満に陥り狂暴になる
イヌの脳に自主性や主体性はないのだが ヒトはどうしてもイヌを擬人化してしまい 自主性や主体的意識があるものだと錯覚することでイヌの訓練を怠ってしまう原因となる
では ヒトの場合も先天的に服従対象を求める習性があるのならば「訓練」によって盲目性を発揮させ 自律的には何も考えない従順さを発揮させておけば良いのかと言えば これは大間違いである
あらゆる「人災」とは ヒトが自律的に社会的責任を負わないことで生ずるものであり 人格や人間性や倫理は自発的論理検証性という本質的な意識によって発揮されるのである
現在時点における選択可能性が意識の機能であり 既に存在している自己の中にあるあらゆる価値観 特定可能な「○○意識」に惑わされることのない純粋な主体性に基づいた論理検証性こそが人間性として働くのである
主観的価値観としての趣味がペドフィリアでも構わない 妄想の中だけで幼女に何を求めても実害がなければ人間性には関係がないからだ
他人の迷惑を考えなくなることが犯罪などの「人災」の原因であって 他人の痛みや苦しみを認識出来なくなるのは 自分自身の痛みや苦しみを忘れてしまっているからである
自己自身で熱中出来る純粋行為が何なのかを知らないからこそ 自分の感覚が失われ 結果的に他人の感覚にも配慮が及ばなくなるのである
自律とは自発の中にあり他にはない
他律とは多数派迎合や同調性に過ぎず フロイトの言う「超自我」というのは無意識な多数派からの精神的抑圧のことを指しているだけであって これは人間性の源である自律とは全く別のものである
ヒトの多くは人間性というものがヒトという種の生物には先天的に組み込まれていると「思いたい」らしいのだが その「思いたい」という欲求は実証不能な妄想錯覚に基づく身勝手な願望に過ぎない
「神がいないのであれば 何をしても許される」という旧約聖書の幼稚な屁理屈が真であるならば 「神がいさえすれば 世の中からあらゆる人災は無くなる」はずである
社会安全性を求めているのは神ではなく ヒトである
神は関係がない
ヒトの多くが「理性や人知を超越した実証不能の謎の叡智」などという身勝手な妄想を鵜呑みに出来るのも ヒトの意識以外の何かによって自動的(自然)に人間性が発揮される優秀な生物種であるという身勝手な錯覚に基づいたものである
ヒトはバカでいた方が気分が良い
バカ同士で統率協調的に差別排除でもしていれば ヒトは満足するのである
ヒトは誰しも自らの意思でこの世に産まれてきた者はいない
自己の遺伝子は自己では選択不可能なものであり 自己の脳の構造もまた然りである
そして自己の成育環境である社会や時代も自己選択不可能なものであり 環境から刷り込み学習されたあらゆる価値観も自己選択が介在する余地はない
しかし ヒトには客観的論理検証性が存在し 客観的事実を見極める能力もある
それが意識の本質である
Ende;