書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○空とぶサイダー。

2015年06月30日 12時02分10秒 | 日記
三ツ矢サイダーの自販機に貼付けてあるフィルムが風でとんで路上に落ちてた。

拾ってきて水洗いしたんだけど、貼付けてた両面テープにゴミが凄かったので引き剥がしたら印刷まで剥がれてしまった。

やっぱ使い棄てなのね。

モバイルサイトだと画像採れる。


けど、もうちょっと大きい画像欲しいなぁ。

空とぶ小松菜ちゃんのイラストの大きいのが欲しい。描いているの誰なんだろ。

広告の写真ってクライアントの審査が厳しいので良い絵が多いんだけど、逆にタレント写真集とかポスターってあんまり良い絵がなくて残念なことが多い。

Ende;
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○誰のための刑法か。

2015年06月28日 12時07分05秒 | 意識論関連
基礎医学だか糞医学だか知らないが、「生きてりゃいいんだろ」的延命治療ばっかり目的にしているからQOLの低い医療ばっかり蔓延する。そんな医療は患者のためではなく医者のための医療でしかない。

組織の利益ばかりを優先しているから患者のための医療にならないのであって、「自分を大切に。」だとか言っている時点で利己性しか発揮していない。 それなら医療組織による不祥事がなくならないのも必然的結果である。

どっかの病理診断医みたいに「権威による査読がない。」だとかいう甘ったれた観念に溺れているから批判精神が欠如する。 そんな奴は科学者としてポンコツでしかない。 自律的判断をしなくて良いのであるならば、そんな仕事は人工知能にでもやらせておけば良いのであって、そこに人間性は必要ない。

原発の運転のみならず、個人が自律的に社会的責任を負わないから社会安全性が低くなる。それはあらゆることにおいて言えることであって、特定技術者だけに倫理を丸投げしておけばどうにかなるようなものではない。

自分の判断の無責任さを棚上げにしておいて、他人の責任ばかりを追求するのは身勝手極まりない。

他人の無責任を追求する前に、刑法懲罰制度自体の不毛さを理解し、本当の意味での論理的な犯罪再発防止策を立てる社会制度作りへのコンセンサスが得られない限り、どんなにその場限りの厳罰化を推し進めても具体的な再発防止にはならない。

酔っ払い運転のような無責任な行動を採る者の心理や思想といったものに言及せず、ただ裁判で「身勝手」だと主張しても、具体的にどこが身勝手なのかや身勝手さの原因究明にもつながらない。

ISILやナチズムのような狂気の集団というのは、「普通の人」が持つ無責任さが凝縮した「結果」であり。普通で平凡な人の異常性を全く認識していないから発生するのである。

ハインリッヒの法則に則れば、一つの重大事象の陰には無数の原因が隠れているのであって。子供のイジメがなぜ起こるのかや、ヘイトスピーチや暴力団の発生原因についての分析研究が全く為されてこなかったからこそ、ISILのような狂気集団の発生を抑止出来なかったのである。

刑法懲罰というのは、いわば暴力で民衆を抑圧するための制度であり。そんなものに依存する以外に何も対策が思い付かないのは、当人達に自律的目的意識が全く存在していないからである。

行き当たり場当たりに厳罰化ばかりに邁進しているという社会的無責任さを棚上げにして、社会安全性が高まらないのは当たり前の話である。

罰ではなく、なぜ犯罪者の多くは無責任な行動を採るのか、自律的に社会的責任を負おうとしないのか。その原因究明をするためには、犯罪者だけでなく、普通一般人にも普遍的に存在する無責任さにも言及する必要性がある。

単に学力偏差値が高いだけで権威になったような高学歴なバカの言っていることを鵜呑みにせず、個人が自律的に論理検証するという本質的な意識を持たないから優生学が70年以上も論理反証されずに温存されたのである。

ヒトは他人との関係性に序列を規定しがちである。 相手を「上」とか権威と見なした場合には、盲目的に服従してしまう性質があるために、言われてみれば誰でもわかるような簡単なことですら誰も考えなくなってしまう。

こうしたヒトの性質があるからこそ、ヒトの多くはバカに陥り。結果的にバカげた迷惑行為にも加担してしまうことに陥るのである。

北海道砂川ひき逃げ事件の古味(こみ)竜一のような無責任な者が、どうして実際に他人に危害を与えるまで放置されたのかと言えば。刑法という実際に被害者が出なければ何のお咎めもない司法制度の無責任さに因るものである。

警察は刑法という制度に従って書類送検をしてこその評価であるから、自分達の評価だけを考えていれば実際に被害者が出ない以前の安全対策などせず、重大事故や重大犯罪でも起きてから検挙した方が「得」なのである。 つまり、その場限りの厳罰化というのは、警察の権益を助長することはあっても、構造的な不具合については全く手付かずなのである。

それは、あたかも「医者のための医療」と同じであり。「警察のための刑法」に過ぎない。

それが実際には社会にとって利益にはならないことを認識していないからこそ、刑法厳罰化などという不毛なことを漫然と、しかも感情的に繰り返すだけのスパイラルに陥るのである。

その社会的無責任さを認識すべきである。

Ende;
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○欲得づくの成功。

2015年06月26日 22時26分39秒 | 意識論関連
やたらと「脳活性」云々という話が取り沙汰され、その結果として「世間的に成功しているかどうか。」ばかりを論拠にしている時点で、一人の人間として自律的に社会的責任判断が出来るかどうかという、人間として最も重要な観点を無視している証明でもある。

どんなに世間的に成功しようとも、自律的に社会的責任判断をしないのであれば。これは人間として失格である。

単に現状社会に迎合し、現状社会における「成功」が出来たとしても。現状社会の問題点への認識が働くわけではない。

どこぞの病理診断医のように現状社会的に成功していようとも、自律的には何も問題意識も持たない事例は数限りなくある。

実際、現状世間的に成功している奴は山ほどいるが。その大部分は現状の社会体制における「結果」的成功者に過ぎず、現状社会体制そのものの問題点を認識しているわけではない。 だからこそ様々な社会問題の多くは一向に解決しないのである。

現状社会における持続可能性や安全性の欠如といった問題点を認識し、これを改善するといった明確な「目的」意識がないまま現状世間における成功例をどんなに取り上げても、人間としての価値基準にはならない。

「人間」のいない社会がどのような末路を辿るのかは、論じるまでもないことである。

やれ「一流大学に入学出来た。」だの、「一級建築士になれた。」といった断片的結果だけを抽出してきて、これを短絡的に人間としての優秀さか何かと勝手に妄想しておくことは簡単である。

有名大学に入学出来たとしても、それが短絡的に人間としての優秀さの論証にならないことは明らかであり。オウム真理教幹部やISILのメンバー達の多くも高学歴なのである。

一級建築士免許を取得していても、耐震強度を偽装していたのでは話にならない。

一級建築士国家免許は人間性の論証には全くならないのである。

有名大学に進学し、なをかつ研究職にまで就いていながら、進化生物学者の多くは優生学に対する論理反証すら70年もしてこなかったのである。 こんな奴らは社会的には税金泥棒のデクノボウでしかない。

脳科学というのも生物学に分類されるものであり、脳科学者であれば必ずしも論理的に正しいことを述べられる保証などなく、いうなればデクノボウ生物学者の一味に過ぎず、金儲けのためなら平気で嘘もつく可能性も充分にある。



ヒトという種の生物が先天的に持つ競争心を利用して、幼児に逆立ち歩きをさせても、こんなものは「猿回し」に過ぎない。

猿にどんなに芸を仕込んでも、それはエサという脳への報酬に対する反射でしかなく。器用に世渡り出来るように育てれば人間性まで育つわけではない。

現状世間においての成功者であれば、「ヒト」としては優秀だと言えるのかも知れないが。そんな基準は人間としての社会性にはつながらない。

文科系大衆観念者であれば、自律的な社会的責任判断力といった人間としての社会性と、現状世間における成功をバランス問題か何かと勝手に「解釈(論理的理解ではない。)」することは簡単であろうが。自律的な社会的責任判断力というのは絶対的な人間としての社会性であり、程度問題などではない。

ソニー創立者が何を言ったのかは知らないが、4期連続経常赤字の「大企業」の創設者の教育論なんぞ、社会的成功の論証にすらならないではないか。



「甘え」については明確な定義がないまま論じても空論にしかならないが、単純に「甘やかすことは悪い。」と言うのであれば、虐待でもしていれば善人に育つわけでもない。

「甘え」の最も社会的害というのは、自律的に論理検証をしなくなる点であり。これはむしろ子供時代に虐待などの精神的抑圧こそが最大の原因であり、幼い子供が親を頼る「甘え」を否定しておけばどうにかなるなどという短絡的なものではない。

子供の自主性を尊重し、自発的に物事を判断するように育てるためには。子供自身の意向に真摯に耳を傾け冷静に物事を考えられるような精神的余裕を与える必要性がある。これを「甘え」だから解釈して否定したのでは論外である。

あれこれ何でも強制的にやらせることは「甘やかす」ことではないが、それこそが子供の自主性を蔑ろにする最悪の教育方針である。

文科系大衆観念的に「甘え=悪い」といった短絡的解釈をしてしまえば、虐待体罰による「しつけのため。」を正当化しかねない。

ウサギ用のケージに閉じ込め数日に一度しか食事を与えないことは「甘やかし」ていないことになるが、それで「人間としての社会性」が育つとでも言うのであろうか。

親が権威性を振りかざし、「飯を喰わせてやっているから命令に従え。」といった観念に基づいて盲目的服従をさせているから自発的に物事を考えることが出来なくなるのであり、「甘え」を短絡的に全て悪だと決め付けることは社会的に無責任でバカげている。

子供が自発的に行っていることを静かに見守ることは「甘え」には該当しないのか、その辺りの定義が「クボタメソッド」の理論には決定的に欠けており。その場限りに「あれは良い、これは悪い。」と断言することで、あたかも全てを脳科学的、論理的根拠が存在するかのような雰囲気を醸し出し、それが大衆にウケているに過ぎない。

大衆の多くは「ズバリ言う」などと称して自信タップリに断言しておけば気分的に満足し、占いだろうと脳科学だろうと何でも鵜呑みにする習性がある。 それが一番バカの証明に他ならない。



テレビも含めて任天堂3DSやオキュラスリフトなどの3Dコンテンツなども、幼児期の脳の発達に有害である可能性は高い。

モニター画面というのは焦点深度のない平面であり、しかも時間的には一秒間に数十フレームしか更新しないため。時間的解像度が低く現実の空間とは異なるものであり、幼児があまり長時間見ていて視覚認知能力の発達に良いとは言い難い。

近年ではLEDに含まれる470μmの波長(青色LEDのピーク)が、加齢黄斑変性の原因である可能性も取り沙汰されており、LEDバックライトを長時間見続けることは大人でも推奨出来るものではない。

都市では10m以上遠くの景色が非常に少なく。また緑の種類も圧倒的に少ない。

森林で育った人の場合、相対的に色相環の緑色部分の分解能が高いと言われており。都市部で育った人の場合は赤色部分の分解能が高いことからも、森林で育った人と都市部で育った人の見ている色世界は全く異なるものであると言われている。

デジタルカメラの写真を詳細に検証してみるとわかるのだが、人工的なものの多くは空間周波数が単純な傾向が高いため。ビルなどの人工的な構造物はデジタルカメラでは鮮明に写るのだが、樹木などの天然物の多くは空間周波数が非常に複雑なため細部の再現が苦手な傾向が見られる。 これは裸眼における空間周波数認知能力の発達にも影響を及ぼすはずである。

都市部で育った人(私も含めて)にとっては、森林はほとんど一色の緑にしか見えないが、森林で育った人には様々な緑に見えているということになる。 こうした傾向というのは、絶対音感のように幼児期に決定されてしまうものであろう。

視細胞の密度から最大解像度が決定されると考えがちであるが、実際にはアフリカ原住民の中には視細胞密度を超越した視力を発揮する人もいる。 これはおそらく近年デジタルカメラで採用され始めた超解像処理のようなものが脳に存在する可能性もある。 そしてこうした超解像処理能力のようなものは都市部で育った視力の低い人にはあまり発達が期待出来ないであろうことも、予測に難くはない。

これらのことから幼児期の脳の発達は、その後の人生にとって大きな影響を及ぼすであろうことは言えるのだが。そうした特定能力の高さというものは、人間性に直結するわけではない。

様々な特定能力が低くても、自律的な社会的責任判断能力が低いことの根拠はなく。様々な特定能力の高さだけでも自律的な社会的責任判断能力の高さの論証にもならない。

このように、幼児期にしか獲得出来ない特定能力というものが存在するであろうことは確かであろうが、だからといって強迫観念的に必死になって獲得しなければならないようなものでもないのである。

「クボタメソッド」では、何か幼児期にしか獲得出来ない能力があるから、何が何でも全員獲得しなければならないかのように勧めているが。これは金儲けのための扇動でしかない。

人はそれぞれ能力に違いがあり、互いに補いあうことでより効率的な社会を作ることが出来るのであって。むしろ重要なのは人それぞれの違いを受け入れる理性であって、特定能力の方にあるのではない。

だが、人間性としての自律的な社会的責任判断というものは、「違っていてよい」という話にはならない。これは絶対問題であって、相対的バランス問題ではない。

ヒトという種の生物が、人間として行動するための最も基本的な能力が自律的な社会的責任判断能力であり。これは可能な限り多くの人が獲得して頂かないと迷惑なのである。 それは幼児期にしか獲得出来ないような特定能力とは全く異なるレベルの話であるからだ。

「クボタメソッド」にそそのかされて逆立ち歩きが出来たとしても、そうしたそそのかし環境に依存した迎合性こそが、自律的な人間としての社会的責任判断能力を喪失する大きな要因である。

流行りものに興奮して同調し、冷静さを失って強迫観念的に勝ち負けや成功ばかりを追求する根性が、そもそもの間違いである。



ここで再度アインシュタインの言葉を引用しておこう。

個人を不具にしてしまうことが資本主義最大の悪だと私は考える。私たちの教育制度全体が、この悪にむしばまれている。学生は過度に競争的な態度をたたきこまれ、将来の出世の準備として欲得づくの成功を崇拝するようしつけられる。
アルベルト:アインシュタイン (アインシュタインは語る アリス:カラプリス編 大月書店刊より)

子供の特定能力の獲得に異常執着する原因とは、親のエゴであり、欲得づくの成功を崇拝している証拠でもある。

子供の特定能力を心配する前に、まずは親自身の価値観から疑う必要性がある。

親がバカなら、子供もバカに育つ可能性は非常に高いからだ。

バカしかいない社会の末路がどういうものなのか。そこまで意識が働かないことには、社会安全性が高まるわけがないのである。

こうした頭の悪さ、意識の低さというものは、あらゆる事柄に言えることでもある。「クボタメソッド」に限らず、教育制度全体がむしばまれていることを前提に、全てを疑う必要性がある。

ISILに勧誘されてしまう高学歴な者達がなぜ後を絶たないのか。

「脳トレ」類がこれだけ蔓延していながら、一向に振り込め詐欺被害が減らないばかりか増える一方なのは、大衆の多くがバカだからである。 無論「騙す方も含めて」ではあるが。

バカを大量生産している現在の教育制度全体を疑い、論理的に検証するのは特定研究職だけの責任ではない。民主主義というのはバカしかいなければバカ主義にしかならないからである。

Ende;
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○神話。

2015年06月20日 10時56分42秒 | 意識論関連
本当の安全保障というのは、話し合いが出来ないような「ヒト」を作らないことであって。武力だの権力的懲罰といった威圧に対する服従性にばかり頼ろうとする考え自体が間違っている。

人間としての倫理性を確立することは地道で地味な積み重ねが必要であり、短絡的に武力抑圧で服従させるような安易なものではない。

犯罪者などの「気に入らない相手」に懲罰を与えて気分的に安心満足することは簡単である。しかし、懲罰では本質的な人間性を取り戻すことは構造原理的に不可能であり、振り込め詐欺は数年で出所して再び詐欺を行うようになるのである。

国家間の武力による威圧も同様であり。「怖いから服従する。」といった価値観に基づいているからこそ、武力行使を法的に容認しておかなければ「話しを聞いてもらえない。」などという話が出てくるのである。

経済力がなく、武力を充分に用意出来ない発展途上国が相手であっても「話し合いに応じる。」ことが人間としての安全保障であって。武力威圧を外交カードとして用意しようとするのは、「相手が武力威圧を外交カードとして振りかざしている。」ことに対する無意識的条件反射(感情論)に過ぎない。

「だって、相手が。」というのは子供じみた屁理屈である。

国際社会という「環境」に対して、無意識条件反射で武力行使容認などという短絡的対応をするのはバカの論理である。

むしろ武力威圧を振りかざしているからこそアメリカは安全ではないのである。世界最強の軍隊を持っていてもWTCすら守ることは出来ない。 武力は国民を守ることにはつながらないことを、右寄りの者達は理解していないのである。

子供じみた観念として、「拳銃持っていれば最強」などという話があるが。日本社会で拳銃なんて持っていたらうたた寝も酒を飲むことも出来ない恐怖と緊張の毎日になってしまうのがオチである。 アメリカ社会の危険性とは、正に自衛のための武装を容認していることに起因するものである。

たとえ大量の核兵器を保有しても、「国民を守る」ことには全くならないばかりか。むしろ他国に核兵器保有の理由にもなってしまい、危険性を増やすだけなのである。

「相手が話し合いに応じてくれない。」ことであっても、そこには生物学的な原因がある。 それは「ヒト」という種の生物の習性に起因するものであり、これは「ヒト」の行動全般に言えることでもある。

子供同士のイジメであろうと、国際社会での話し合いであろうとも、規模の違いはあっても「話し合いに応じない。」という論理性放棄や思考停止の原因究明をしなければ、あらゆる「人災」の根源的予防にはつながらない。

子供じみた短絡的感情論を振り回しているからこそ危険性が増すのであって、もっと「大人」として、「人間」としての対応をすべきなのである。

国民の意向に全く耳を貸さず、武力威圧で他国侵略をしたかつての日本の姿を鑑みれば、現在の中華人民共和国や北朝鮮やロシア政府がどのような行動を採るべきなのかは自ずと「理解」可能なものである。 相手に「理解」を求めるのであれば、先ず自らが理性に基づいた行動を採るべきであり、国際環境に条件反射的につられて無反省に同じことを繰り返していたのでは何の解決にもならない。

石破茂のように、「地球の裏側の人間が何を考えているのかなど、絶対にわからない。」などと短絡的に決め付けることは簡単である。その安易さこそが話し合いに応じなくなる子供じみた観念であり原因である。

相手が子供じみているからといって、短絡的にカウンターのような条件反射をするから問題がこじれるのであって、物事に表面だけしか見ていないから短絡的対応しか出来ないのである。

相手が子供であるのなら、こちらは大人対応をすべきであって。「拳銃を振り回している子供をどう取り扱うか。」が問われているのである。

災害時には自衛隊や軍隊は国民を守ってくれるであろうが、いざ戦争になれば市民を楯にしてでも作戦行動を遂行するようになるのが軍隊である。それは過去の戦争を見れば明らかであり、「軍事力が国民を守る」などというのは大衆観念的妄想に過ぎない。 それは「拳銃持っていれば最強。」という子供じみた短絡的観念と同根なのである。

自衛隊や軍隊に限らず、警察ですら国民のために行動してくれるとは限らない。 「自国民だから安心」などというのは、単なる気分の問題であって、論理的根拠があるわけではない。

より広い視野に立って考えれば、武力は安全保障にはならないことは明らかである。 それは刑法懲罰が犯罪の原因究明にも、具体的な再発防止策にもならないのと同じことである。

気分的な安心満足の追求こそが、社会安全性を蔑ろにしてしまう原因なのである。 それは国際外交であろうが原発の運転であろうが同じことである。

「武力行使=安全保障」などという「神話」に頼るべきではない。 そんな論理的根拠のない観念こそが、社会を危険に曝すからである。



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○普通であることの危険性。

2015年06月14日 12時24分18秒 | 意識論関連
伊勢崎賢治が提唱する紛争予防学っていうのも危険学や失敗学と共通した手法や概念が使えるんじゃないだろうか。

どちらも「ヒト」という種の生物が引き起こす「人災」なんだから、生物種としての「ヒト」とはどういうものなのかを踏まえて考えを組み立てる必要性がある。

「ヒト」という種の生物の先天的本能習性として、他人との比較において順位序列をつけたがる性質があって。自分や自分達より劣っているとみなした相手を差別排除するために暴力を振るう性質というのが普遍的に見られる。

こうした性質というのは、子供のイジメからナチスやポルポトによる虐殺まで、程度の差こそあれ心理構造的には何の違いもない。

ヒトの多くはもたらされた結果の大きさで物事を分類しがちだが、ハインリッヒの法則から鑑みれば結果の大きさに依らず小さな事象から地道に検証することが重要なのである。

優生学などという、非科学的な観念が進化生物学でまかり通っていたのも、差別意識という無意識性がヒトの意識の根底にあるからだ。

あたかも先天的な本能習性こそが絶対的な人間としての価値であるかのように錯覚し、先天的な本能習性には誰も抗うことが構造原理的に不可能であるかのように勝手に思い込み。ヒトの先天的な遺伝要素を事後的に正当化するような優生学などの根本的間違いを誰も疑うことをしなかった。

「オノレはイヌだカブトムシだと称して先天的な本能習性には逆らえない。」などという話も、先天的な遺伝要素の事後正当化である。

先天的要素が促す行動や思考のバイアスという無意識に対し、論理検証的に客観的に自らの行動を変えることが可能であるという点において、ヒトが人間たりうるのであって。先天的本能習性を事後正当化するだけであれば、大脳辺縁系が促す行動バイアスに流されているだけに過ぎない。

先天的な本能習性に抗うことに慣れていない者にとっては、それは過酷な絶望感を伴うバカの証明であるのだが。

そもそも先天的本能習性に抗うことなく社会生活が送れているのはなぜだろうか。それは他人からの抑圧を「怖れ」ているに過ぎないからである。

どこぞの病理診断医が「自分を大切に」だとか「攻めすぎ」だとか言い出すのも、結局は世間多数派からの見た目を気にしての発言である。そこに自律的な判断が介在する余地はない。

東電原発安全担当者が原発の危険性を放置したのはなぜか。それは社内における自分の地位を守るための「自分を大切に」した結果である。

上司や社内の多数派に逆らわず、「守り」に入った結果として、組織の利益を優先し。自律的な社会的責任判断を放棄したのである。

「怖い」かどうかで物事を判断しているというのは、要するに幼児の判断基準である。自律的に物事を判断する能力がない幼児の行動抑制は、他律的に「叱られる」だとか「恥ずかしい」といった判断基準だけである。

そういえばどこぞの病理診断医も「はずかしい」かどうかを基準にしていた。

「普通」はそういうものである。

だが、私が論じているのは。そうした「普通の人」の凡庸で無思考な感覚や観念が引き起こす危険性のことである。

普通で平均的な多数派に属していれば、普通のヒトは安心満足して何も疑うことをしなくなるであろう。当然何も考えないようにもなる。

ヒトの脳というのは、そういう風(先天的)に出来ているからである。

先天的にバカに陥る習性があるのであれば、バカにならないためには気分的安心満足だとか「怖い」だとか「恥ずかしい」などといった気分的バイアスに条件反射的に流されずに、意識的に何が正しいのかを自律的に判断する必要性がある。

「戦争で死んだ人達がいたから今の平和がある。」などという、単なる既製事実の事後正当化で満足することは簡単であろうが。その平和には論理的根拠が全く存在しない。

ヒトの多くは物事を深く考えることを嫌う。 すぐに短絡的結論をこじつけて考えないようにするのが「普通」である。

その「普通」の凡庸さこそが、ナチズムや原発の暴走を傍観放置したのである。

ヒトとは先天的にバカで、失敗や間違いをするものであることを前提にしないから、刑法懲罰などという不毛な制度にも何の疑いを持たなくなる。

刑法懲罰というのは、ヒトの先天的な処罰感情を満たすための制度に過ぎず。具体的に犯罪や過失の原因究明にも再発防止策にもつながらない不毛なものであることを、多くのヒトは認識するつもりもない。

その無意識性をどんなに多数で共有して気分的に安心満足しても、その安心満足感から社会安全性には全くつながらないばかりか。むしろ、その安心満足こそが社会の安全性を脅かす最も根源的原因なのである。





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○ゆらゆら。

2015年06月12日 15時34分32秒 | 日記
電車の揺れ的なものを再現しようとしたら 人魂的な不気味なものになってしまった。

ゆらゆら


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○目的を見失う原因。

2015年06月09日 20時26分32秒 | 意識論関連
尾木直樹ママが言ってたことなんだけど、教諭時代に自分を慕ってくれてた同僚までもが体罰をしてしまっていたそうだ。

尾木ママはそれがキッカケで学校教師を辞めることにしたそうです。



評価承認中毒に陥っている人の場合、自分よりも上と見なした相手には従順で扱い易い性質を発揮する。ところが、この従順さというものには自律的な責任意識というものが全く働いていないために。命令には従うんだけれども、その命令を実行するためには手段を選ばなくなってしまう。

新銀行東京というのは、銀行の貸し渋りを解消するために作られたはずなんだけど。その審査が物凄く甘くなってしまった原因というのは、お金を貸出すことを「目的」にしてしまって、ただひたすら貸出金額を増やすことだけで上司からの評価を得ようという、貸出を増やすことの趣旨とか大局的な目的を忘れて利己的な評価を目的にしてしまったことが原因なんじゃないかと思うのだ。



何でそんな話始めるのかって?。 いや、尾木ママを慕っていた同僚の体罰も、尾木ママに評価されることを目的にしてしまって、尾木ママの思想とか哲学を無視してしまっていたのと同じことなのではないかと思ったのだ。



従順で盲目的に信頼してくれる相手であれば、それは服従させる方にしてみれば便利で気分が良いのかも知れないけれども。その従順さというものが実は理念とか哲学に基づいて自律的に考えて行動してくれているとは限らないんだよね。

それこそ、人気の尾木ママに迎合しさえしとけば自分の社会的評価も上がるんじゃないかといったゲスい考えに基づいて尾木ママを慕っていた風味を装っていた可能性というのもある。



イスラム教徒でありながら、ISILのような暴力思想に染まっているというのも。結局は神に対する忠誠心を満足させることが目的で、クルァーンの趣旨とか理念を逸脱してしまっているのも同じことなんじゃないかと思うのだ。

ヒトは誰かに対して忠誠忠実に服従することで満足感が得られるような構造があるんじゃないかと思うのだ。

左側頭葉の一部に強力な磁気刺激を与えると神を感じることがあるそうなんだけど。そもそも神を「感じる」っていうのは、快楽だからそう「思う」はずなので。神のような絶対的に信じていても構わない存在を、脳が求めている結果、実証不能の神を「信じたい」という願望でしかない。

先天的なり、後天的にせよ。神を欲する欲望自体は利己的な欲望でしかない。

ムハンマドなりキリストが求めた平和な世界への理念とか哲学を逸脱して、ただ自分の願望のおもむくままに無差別な社会への報復へと走っているから十字軍とかISILになっちゃうんじゃなかろうか。

社会主義革命っていうのも、本来は資本主義の暴走とか独裁に対しての解放を趣旨として行われたはずのものなのに。連合赤軍みたいな過激派が出てくるのも、結局は目的と手段の区別を論理的に検証する意識が欠けているのが原因なんだと思うのだ。

だから、宗教が悪いんじゃなくて。イデオロギーでも制度でも何でもそうなんだけど、趣旨とか目的を逸脱して、無差別な社会への報復を目的にすることで、処罰感情を満たすことを目的にすりかえちゃっているから過激派なんじゃないのかね。

新銀行東京の場合は暴力ではないけれど、尾木ママの同僚は明らかに体罰という暴力につながってしまった。 でも新銀行東京の場合においても、甘い審査でやたらと貸出すことによって銀行経営が破綻するかも知れないというところにまで配慮が行かない点においては盲目的で暴走的な部分には共通点がある。

太平洋戦争時の日本軍の特攻隊なんかも、特攻が本当に国とって有益かどうかなど一切考えずに、ただ敵に対して命懸けで暴力を振るうことに何の疑問も持たなくなった。 しかも「英霊」だとか言って、あたかも「特攻隊が命懸けで戦ったから今の平和がある。」なんつう事後正当化も未だにまかり通っている。

特攻隊と今の平和は関係ないでしょ。



程度の差こそあれ、ヒトの行う様々な行動の中には、共通して盲目的暴走が存在しており。こうした盲目的暴走性が引き起こした様々な問題を、単なる個人の努力だとか懲戒処分で「解決」だと見なしてしまうから、根本的原因の究明にならず、必然的に具体的実効性のある再発防止策にもつながらない。



通り魔や銃乱射事件などの無差別殺人犯の頭の悪さというのは、いうなれば「普通の人」にも普遍的に見られる頭の悪さと程度の差こそあれ同じものであって。 ISILや連合赤軍だからといって彼らだけに特異に見られる異常性なのではなく、あくまで現象の結果の程度問題でしかない。

「ヒヤリ、ハッと」重大事象が発生した時だけ世間ウケを狙って大騒ぎするのは簡単なことで、こうした簡単なことで問題解決だと思い込むという、日常の普通の人に見られる頭の悪さが重大事象への発展を放置してしまうことにもなっている。

事象の大きさは、それによって引き起こされる感情の大きさとも比例するものであるが。感情強度を意識と勘違いしていれば、事象の大きさ程度だけで丸めて「分類」してしまい、無数に普く存在する「ヒヤリ、ハッと」事象との共通部分を見逃してしまう原因でもある。

「自分だけは絶対に大丈夫。」だと盲信しておけば気分的には安心で満足感が得られるんでしょうけれども、その盲目性というのも、程度の差こそあれISILやナチズムの盲目性と構造的には同じものだということを認識する必要性があるのです。

同じ「ヒト」が引き起こした様々な「失敗」というものを、単に懲罰だの報復だのといった感情論で「解決」だと見なしてしまうから、振り込め詐欺の被害者を特別に「バカだから騙された。」などと誹謗中傷して満足しようとする。

人は誰でもバカな部分が先天的に存在していて、誰でも騙される可能性があり。詐欺であろうと犯罪であろうと、過失であろうと。それらはどんな人にも共通して存在するものであって、誰かを特別にバカ扱いしたり、処罰しておけば「解決」だと見なしてしまう短絡性こそが、様々な「ヒト」が引き起こす問題の本質を見失わせる最も大きな要因なのである。



Ende;
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○学力偏差値が高い愚か者。

2015年06月08日 14時16分25秒 | 意識論関連
まず挙げておかなければならないことは、学力偏差値というのは認知科学的な本質的知能の論証にはならないということだ。

学力偏差値というのは、教えられたことに対して何の疑いも持たず、鵜呑みにしていても得られるものであり。いわゆる承認欲求中毒との親和性が非常に高く、学力評価という抽象化された脳への報酬系に直接作用してしまうと権威が促す考えには異常執着するのだが、逆に権威として「見なす」ことの出来ない相手に対しては異常なまでに誹謗中傷をすることで、自己の優位性を正当化しようと必死になる傾向が見られる。

例の病理診断医にも見られたが、マイケル:サンデルのような既存の権威(実際には科学的根拠はない)を盲信すると同時に、自分の気分が少しでも悪くなるような話に対しては条件反射的に拒絶反応を示すようになり。身勝手な価値観に基づいて自然科学を専門家しか論じてはいけないかのような閉鎖性をも作り出してしまう。

権威性がなく、自分よりも「下」だと見なした相手に対して異常なまでに噛み付き。「論破した。」「バカしかいねぇ。」などと言い張るのだが。権威に教えられた内容に対する論理的批判精神も何もなく、ただ教えられたことを鵜呑みにすることしか出来ないという、学力偏差値が高いだけの凡人に過ぎない。

学力偏差値の高い者というのは世界中に大変たくさんいるのだが、そのほとんど全員が進化生物学のこじつけ論証(優生学の源)への反論すら出来なかったことからも、彼らは単なる「学力サヴァン」のようなものに過ぎない。

こうした学力偏差値偏執狂が学力に執着する動機とは、学力の高さを短絡的に「本質的知能」だとか「人間としての優位性」か何かと勝手に勘違いしていることが根底にある。

学力偏差値が知能や人間としての優位性だと「思う」のは、別に認知科学的根拠があるわけではなく。単に大衆の多くがそう「思い込んでいる」ことを短絡的に鵜呑みにしているに過ぎず、自律的には何も検証することも、調べることすらしないという頭の悪さを証明してもいるのである。

通り魔や銃乱射事件などの無差別殺人犯の多くに、学生時代の学力偏差値が高いという傾向性が見られる。

また、ISILやオウム真理教幹部達にも学力偏差値の高さは見られるものであり。学力偏差値というのは一人の社会的人間としての自律的な社会的責任判断能力とも無関係なのである。

もちろん学力偏差値が高ければ短絡的に無差別殺人犯になるというわけでもなく、学力などの既存の価値観で「勝負」できないと諦めた場合には狂暴性を基準とした序列競争で優位に立とうとする場合も珍しくない。

ここで留意しておかなければならないことは、「勝負」への異常執着性である。

なぜ彼らは勝たなければならないのか。 それは他人との関係性において順位序列をつけることで、「誰に従っていれば良いのか。」を規定しておきたいからである。

こうした順位序列への異常執着というのは、イヌなどの本能的な社会形成習性に基づいた行動バイアスであり。イヌが「自分よりも上」と見なした相手に対して異常なまでの執着を発揮するのと全く同じものである。

イヌも「自分より下」と見なした相手に対しては暴力性や差別排除的行動を採ることがある。

イヌなどの本能的な社会形成習性というのは、「自分よりも上」だと見なした服従対象に対してだけ盲目的に信用することが気分的に安心で満足感が得られるのと同時に。「自分よりも下」だと見なした相手に対しては異常なまでに蔑んだり、大して論理的根拠もないのに誹謗中傷することで差別や排除をも生じさせる原因でもある。

これは脳のドーパミン報酬系のシーケンシャルな行動パタンである。

ヒトは今までずっと「生きて」来たため、「生きて」いることが安心であると同時に。「生きて」いない状態に対して論理的根拠もない拒絶反応をも示す。

大脳辺縁系に直結したドーパミン報酬系というのは、定常安定状態を好むことが結果的に生存につながったために組み込まれた動物としての最も基本な情動システムではあるのだが。このシーケンスが促す行動というものは必ずしも生存や持続可能性につながる保証は何もない。

危険な薬物への中毒や、DV男に対する恋愛感情などもドーパミン報酬系が促す行動バイアスの結果であり。そこに「目的」が介在する余地はない。

イヌが飼い主の手を噛んだりすることがあるが、これはイヌが飼い主に対して「上」であると見なさなくなった場合の行動結果なのだが。この行動には特に目的もないので、訓練次第では飼い主を「上」と見なして従順に服従するようにも出来る。

イヌの価値観には平等というものは存在せず、服従対象か差別対象かの2択しか行動として組み込まれていない。

よく訓練された命令に従う従順なイヌやヒトの子供に対して、ヒトの多くは短絡的に「賢い」という錯覚を感じる性質がある。

実際には「自分にとって都合が良い行動をしてくれる。」だけか、若しくは「気分が良くなる行動をしてくれる。」だけなのであって。その行動に倫理的人間性が伴っているのかどうかは考慮に入っていない。

マイケル:サンデルの講義を聴いて、気分が良くなったことを短絡的に「サンデルは頭が良い。」とか、「サンデルの講義を聴くと自分の頭が良くなった。」などと「思う」らしいのだが。実際には茂木健一郎が勧める「アハ体験」同様に、あたかも「自分の頭を使ったような気分。」になっているだけであり。 サンデルや茂木の講義を聴いても、統計的に自律的な考えが出来るようになったといった実証データがあるわけではなく。単に学生や大衆から「人気がある。」ことから、短絡的に効果があるという、勝手な大衆妄想でしかないのである。



このように、感覚的に「思う」ことという価値観には、合理性のある科学的根拠を必要としない。そこにはただ、ドーパミン報酬系が促した気分的安心満足感さえあれば良いのである。

そこで問題となるのが、本能的な社会形成習性が促す順位序列への異常執着である。

通り魔や銃乱射などの無差別殺人犯達に共通して見られるのが、「思ったように世間から注目や評価報酬が得られなかった。」ことへの腹いせ、報復的な処罰感情である。

彼らは社会というものの規範にさえ従っておけば、何でも必ずそれに見合った評価報酬や注目が得られるという勝手な思い込みに基づいて。社会規範や制度、権威性に対する何の批判もせずにただ従順に服従するに気分が良くなる相手を求めているだけなので、社会の何が具体的にどこが問題点なのかとか、それに対する具体的対策といった論理的「考え」が全く働いておらず。

漫然と多数や、多数の承認した権威が促す行動にさえ従っておけば常に自分の利己的欲望にとって有利な結果が得られるものであるという勝手な妄想に囚われているため。自分が勝手に思った程の評価報酬が得られない場合に短絡的に暴力的報復や処罰といった感情的行動しか選択することができないのである。

それは、まるでエサが思ったように貰えず暴れる日光いろは坂のニホンザルの狂暴性と酷似している。

彼らは、なぜ自分が他人を無差別に誹謗中傷しているのかといった、気分的行動バイアスの原因すら自分では認識することが出来ないため。気分感情が促す行動バイアスのままに最も気分が良くなる行動として報復的な処罰感情へと暴走するのである。

論理検証的に何が最も重要なことなのかといった「考え」は働かず、それゆえに気分感情の強度程度だけで行動が決定してしまっており。そこに自律的な意思選択が介在する余地はない。

評価承認中毒に陥っている場合。その行動や言動といったものには合理性は必要なく、その場限りに自分の気分が良くなるようにしか行動選択することは出来ず、その行動選択というものには自律的な「考え」が全く存在せず、当然目的意識も存在せず、気分感情が促すシーケンシャルな条件反射的選択という無意識選択しか出来ないのである。



ヒトという種の生物は、その場限りの「勝ち負け」や「優劣」ばかりを決定したがり。雰囲気的に「勝った」ように多数から見なされることだけで充分な気分的安心満足感得ることが可能である。

その場限りに言いくるめ、あたかも自分の主張には普遍的価値観や合理的根拠が存在するかのような錯覚を多数大衆にアピールすることで、その場限りに満足するのである。

だが、実際にはそんなことでは評価承認欲求を充足することは叶わず。最終的には盲信するための権威への忠誠忠実な服従欲求を満たすまで暴走は止まらない。

「イヌにとって服従はアヘン。」なのである。

一度何らかの理由でISILだのオウム真理教などへの忠誠忠実さを発揮し盲信的な忠誠忠実さを発揮すると、彼らは本能的な服従欲求を満たし、死ぬまで服従を誓うのである。

そういった盲信出来る組織集団が見つからない場合には、通り魔や銃乱射などの無差別殺人にも発展することもある。

「自分よりも上」と見なした相手からの評価承認を得ることが彼らの「目的」なのだが。この「目的」というものには自律的な考えや意思が全く介在しておらず、本能欲望が促す無意識な行動選択の結果的な「目的」に過ぎない。

こうした「無意識な目的」というのは、利己的金儲けなどと同じものであり。社会全体にとって普遍的な価値などを一切持たず、その場限りに自己の本能欲求のおもむくままに流されているに過ぎず。本質的な目的選択も自由意思も介在しない。

予め組み込まれた情動行動が促すシーケンシャルな行動バイアスに無意識に流されるだけでは、そこに「自己」も「意識」も「自由意思」も存在しないのである。 こうした論理的事実から目を背ける習性もヒトの脳にはあるため、「オノレはイヌだカブトムシだから先天的本能習性には抗うことが出来ない。」などという身勝手な言い逃れが出てくるのである。

言い逃れや取り繕い、はぐらかし、ごまかし、開き直りの類というのは。認知症の初期症状でも見られる簡単なお仕事である。

それらは何の考えもせずに無意識的条件反射でいくらでも出てくる屁理屈に過ぎず。何の論理的根拠も持ち得ないからこそ、大脳が萎縮し始めていても可能なのである。

大脳辺縁系というのは、ヒトをバカであろうと導く性質がある。

学力偏差値を短絡的に知能や人間としての優位性か何かと勝手に勘違いしたまま、何も気付かないバカであれば。実社会においては「教えたこと以外何も出来ないデクノボウ。」であることは明らかである。

おそらくは、その無能さに起因する社会的評価の低さから、SNS上で匿名アカウントを使って無差別的に他人を蔑んだり、誹謗中傷に邁進することで現実逃避をしているのではないだろうか。



おいらの育ちがもう少し良ければ、尾木直樹ママのように「どうしたの?。」と相談にのってあげることも出来るのかも知れないが。 残念ながらおいらは育ちがあまり良くないので、評価承認中毒患者のご機嫌取りには興味がない。

ヘイトスピーチの類というのは、評価承認中毒患者が、世間からの評価や注目を集めることで本能欲求を満たすことを「目的」とした行動である。 無論、この場合の「目的」とは無意識が促す条件反射の結果に過ぎず。本人の自律的な論理検証性に基づいた意識的「目的」ではない。

だが、ヒトの多くはヘイトスピーチのような理不尽な差別に怒りを感じ。うっかり条件反射的に処罰感情のおもむくままにカウンターに入りがちであるが、それは解決にはならない。

順序としては処罰感情に基づいた刑法罰による「解決」というものへの疑義から認識する必要性がある。 そのためには、先天的な本能としての処罰感情が社会的には目的でも意識的選択でもないことを認識することから始める必要性がある。

「あれはダメ、これもダメ」と心理的抑圧ばかりを子供達に強制し、規範意識などという盲目性を植え付けてしまうから自律的に何も考えることが出来ない者が増えてしまうのであり。こうした悪しき因習への執着もまた、ドーパミン報酬系が促す中毒の結果に過ぎない。

学力偏差値というものを短絡的に知能や人間としての優位性か何かと勘違いしている評価承認中毒患者であっても、その自律的な論理検証性の欠落には成育環境における原因があるはずである。

ただ漫然と嫌いな相手を排除するだけではヘイトスピーチと何の違いもないのである。



ヘイトスピーチをしている者を差別しているだけであれば、それもまたヘイトにしかならず。レイシストであることに違いはないと教えてくれたのはれにさんさんでした。

母は強いな。



Ende;
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○温泉とか原発だけ救済するのっておかしいと思う。

2015年06月07日 10時09分51秒 | 日記
火山で観光業が打撃を受けているから公的補助をしろとか言っているけど、そもそも温泉なんて火山噴火のリスクと隣り合わせで営業しているんだから保険とか積立とかしておくべきものであって。まあ積立を公的にやるとかなら意味もあるかなとは思うけど、何でもかんでも補助すんのはおかしいと思うぞ。

原発問題でも雇用がなくなるとか言ってるけど、世の中の仕事なんてどんどん移り変わってゆくものであって、温泉観光業とか原発だけが特別に雇用を維持しなければならない理屈はおかしいと思う。

そんなん言うなら、どんなに廃れた商品サービスでも雇用を確保するために税金注ぎ込むんかい?。 そんなんおかしいでしょ。

どんな業種だって業務の再構築、リストラクションに伴う雇用停止なんてどこにでもある。それまであった商品サービスが時代とか状況の変化で廃れることはあるんだから、新しい商品サービスをどんどん展開できるよう起業を後押しするような行政的支援の方が重要なんじゃないのかな。

地震や火山といった天災で住む所を失った人達を税金で救済するのはわかるんだけど、観光業なんて風評で簡単に吹き飛ぶ業種なのは始めからわかっていることであって、そのリスクを前提に営業してなきゃおかしい。

もっと税金で救済しなきゃならない人っているはずだし、何かマスコミ報道で目立ったからといって短絡的に税金投入だとか言い出すのは、優先順位というものに合理的根拠が乏しい。

と、思った。


Ende;
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○月と太陽。

2015年06月06日 14時28分37秒 | 写真
日没や日の出、月の出入りの方位を計算してくれるサイト っていうのを見つけたので、芝川水門から見えるダイヤモンド富士がいつ頃なのか調べてみた。

Fig:



11月30日か12月1日辺りが狙い目かな。 あと、年が明けて1月14日か1月15日辺りにも富士山頂と日没方位が重なる。


そいから7月2日に浅野駅から弁天橋方向に満月が沈む。

Fig:

日の出 4:29 (±2)
月の入り 4:30 (±2)

日の出と月の入りがほぼ同時刻になる。

プラットフォームと架線鉄骨越しに満月が沈むのを妄想してみた。



ウチからだと自転車で3時間30分くらいなので、1時頃に出れば間に合う。

けど帰り8時頃になるので暑いかな。 やめとこ。 (ヘタレ

◇追記:12月25日の夕方には水路の東側に満月が昇る。


東北東の方角が開けた水路は浜安善とかの他に複数ある。

StreetViewの右側に写っている鉄塔ってフレアスタックかしら。

炎焔と満月。 晴れればだけど。 寒そうだな。 クリスマス。 プラントが稼動していない可能性もあるね。

フレアスタック狙いなら11月25日という選択肢もあるな。




Ende;
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○イヌに意識はない。

2015年06月05日 12時10分29秒 | 意識論関連
イヌに意識がないことは明らかである。目的意識がないからこそ、社会形成習性を利用してヒトにとって便利に行動誘導をすることが可能だからである。

イヌは単にエサに釣られて脳の報酬系が促した行動学習のままに行動しているに過ぎない。

ヒトであっても評価報酬のためにユダヤ人殺害計画書を作成することもあるように。脳の報酬系に学習された無意識な行動というものには目的意識が存在しない。

たとえチンパンジーの一種ボノボがセクハラ痴漢行為で満足することで直接暴力行為に至らないことであっても、そんなことで倫理性の証明にならないことは当たり前の話である。 バカなんですか?。

気分が悪いからといって、誰彼構わずチンポコなすりつけて満足したから直接暴力行為に至らないことが倫理性の論証になんかなるわけないでしょ。 どんだけバカなんすか。



イヌが、その先天的本能習性によって、統率的に役割分担を行うことが「高度」であると見なしても、その「高度」さ自体には知能の論証にはならない。 所詮は特定能力の程度問題でしかないからだ。

サヴァン症候群における特定能力をどんなに世間的に評価しても、自律的な社会的責任判断力とは無関係な特定能力についての尺度でしかない。

それと同じでイヌや振り込め詐欺やISILがどんなに高度な統率役割分担を行ったとしても、そんなものが人間性を伴った本質的知能の論証になどならないのである。

先天的に何らかの特定能力が高いことはあるだろう。それが一般的なヒトよりも優れていたとしても、短絡的に「知能が高い。」ことの論証にはならないし。ましてや人間性の論証にもならない。

人間性を発揮しない特定能力の高さだけをどんなに抽出枚挙しても、それは人間としての知能の論証にはならず。非常に偏った普遍性を持たない知能論に過ぎない。


ヒトは自分の気分が良くなる相手を「賢い」と錯覚する性質がある。そのため動物好きな生物学者達の多くは動物に対して過剰な知能を妄想しがちでもある。

相手を「賢い」と見なせば、ヒトはその相手にとって有利な行動をもするようになる。

オウム真理教教祖を「賢い」と信じ込んだ幹部達は、教祖にとって有利になるような行動しか採らなくなった。それは決して特殊なものではなく、ナチス政権下のドイツ人の多くも陥ったものであり。同じヒトという種の生物であれば誰でも陥る平凡な特性でもあるのだ。

進化生物学におけるこじつけ論証に対して、おいら以外の誰も反論しなかったことも。その顕れである。

こうした先天的な頭の悪さを認識せず、「自分だけは絶対に大丈夫。」だと盲目的に信じ込んでいれば気分的には安心で満足感が得られるのであろう。

気分的な安心満足感というのは、ヒトの論理検証性に対して阻害するよう働くことはあっても、論理検証性を働かせるようには出来ていないのである。


Ende;
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○人間性というものに対する錯覚。

2015年06月05日 11時30分19秒 | 意識論関連
鈴木敏昭による記事 グルーディング夫妻の提唱する「禁止令」

このテの心理学的分析の記事の多くは、「世間的に成功するかどうか。」を基準にしているというのが、意識の低さを顕している。

こうした傾向というのは、経済学でも同様で。とにかく世間的に成功することばかりを基準にしており。結局は利己的欲求を満たすための方法論としてしか論じられていない。

社会にとって最も重要なのは、安全性と持続可能性であって。これは単に個人が利己的欲求さえ叶えればどうにかなるという短絡的なものではない。 利己的利益を基準にして物事を論じるというのは、世間ウケを基準とした大衆迎合性の顕れであり。科学者として無責任な発言でもある。

グルーディング夫妻らも含めて、心理学や経済学における大衆迎合的記事というのは。「多数大衆からの評価報酬」ばかりを目当てにしたものであり、社会的価値の低いものであることを認識しておく必要性がある。



グルーディング夫妻らの提唱する、幼児期に受ける親や大人からの「禁止令」というのは、無意識下の超自我的行動抑圧としては働くであろうことは言えるのだが。意識そのもの、自分自身で論理的に考え、本当の意味で自分自身が望む「選択」を行うことで、成育環境から受けた無意識な行動バイアスに左右されずに済むのである。

社会的に最も重要な点とは、「自律的に社会的責任判断を行わなくなる」ことが社会にとって最も損害を産むのであって。ヒトが「自律的に社会的責任判断を行わなくなる」根源的原因というのは、そもそも自発的に物事を考えていないからである。

他人からの評価報酬という、言い換えれば他者から与えられる「脳への報酬」に対する条件反射的な行動原理というのは。脳の報酬系に作用する中毒症状を作り出し、麻薬中毒患者のように他者からの評価報酬への異常執着をするようになる。

こうした成育過程における環境依存的行動「学習」によって。評価報酬とセットで教えられたことには何の疑問も持たずに鵜呑みにし、自発的には何も考えないようになり。結果的に社会的責任判断をしなくなることが社会的に有害なのであって、個人が世間的に成功するかどうかなどは副次的な結果論に過ぎない。

東京電力社内において、事故が発生する以前に原発の津波に対する危険性を提唱することで、社内での居場所を失い失職する可能性があるとしても。自分が属する組織の利益を優先して保身に走らず、自律的に社会的責任判断を行うことが人間として必要なのであり。 これは深層心理的な行動バイアスでどうにかなるようなものではない。

成育環境に依存した、自己肯定感という「感覚」が行動に及ぼす影響というものは。その場限りの世間的成功にとっては有利に働くことはあるかも知れないが。権威や体制、多数大衆からの評価が行動に直結していることで生ずる「自律」の欠如には、こうした「感覚」の有無は無関係である。

ナチス政権下における、ユダヤ人絶滅収容所の吏官が、戦後国際法廷において「自分は体制に忠誠忠実な一吏官に過ぎない。」などと称してホロコーストに加わったことを事後正当化することも、また自己肯定感が促す傲慢さでもあるからだ。

そもそも、「自分がダメ」だとか、「他人がダメ」といった感覚の源というのは、自己や他者に対する順位序列感覚が促すものであって。それ自体が先天的本能に由来する思考バイアスに過ぎないことを認識し、自己検証していれば出てくることはない感覚なのである。

人はそれぞれ個性があり、得手不得手が存在し、それぞれが得意なことや好きなことを分担することで結果的に効率が上がったり、自分の仕事に責任を持つようにもなるのであって。 他人を蔑んだり盲目的に尊敬したりといった序列をつけるからこそ、「自分がダメ」とか「他人がダメ」といった感覚が出てきてしまうのであって。 そんな「感覚」は社会的には意味がない。

気分的な感覚が行動に直結している状態を「無意識」と言うのであって、感覚に左右されずに論理的に物事を客観視出来ていれば気分的感覚に左右されずに純粋に分析することが可能になるのである。

気分的感覚が行動に直結することで起きる典型的問題行動の一つが「虐待の連鎖」である。

虐待を連鎖してしまう原因とは、自分がかつてされた虐待を事後正当化する形で、「そこには意味があったんだ、そう思わなきゃ、やってられないじゃぁありませんか。」といった感覚的行動バイアスが働くことで虐待を連鎖することを自己内部で正当化しているから、何の疑問も持たずに虐待を行えるようにもなるのである。

「苦労は必ず報われる。」だとか、「苦しい思いをたくさんすれば、優しい人になれる。」などといった大衆迎合的な嘘も、結局は事後正当化バイアスが作り出した妄想に過ぎない。

無駄な努力は、どんなに頑張っても無駄なのである。 こうした客観的事実というものは気分的には嫌なものであるかも知れないが、何が無駄で何が無駄ではないのかを客観的に直視し、分析出来ないからこそ、無駄な異常行動に執着して問題が全く解決しないというスパイラルに陥るのである。



グルーディング夫妻らが提唱する「禁止令」の類などというものは、あくまで無意識下に刷り込まれた後天的な思考や行動バイアスであって。自律的に自己の行動や言動を客観視出来ていれば、成育環境から受ける行動抑圧なんぞに左右されずに済むのである。

何でもかんでも成育環境の処為であると称していれば、あらゆる「人災」も「自分の育ちが悪いからだ。」という言い逃れをも正当化してしまう。

本能が促す先天的な行動バイアスと、成育環境から受けた後天的な行動バイアスが複雑に絡みついてヒトの行動に影響を及ぼしているというのは確かであるが。何が無意識なバイアスなのかを自分で認識出来ていれば、自ずと本質的「意識」というのは導き出されるものでもある。

気分感情が促す行動バイアスに流されているという無意識性こそが、人間としての客観的論理検証性を喪失させ、結果的に社会にとって有害な行動にも発展するのである。

「自律的な社会的責任判断」というのは、社会にとって最も重要なものではあるが。自律というものを個人が出来るようにするためには、他人からの影響でしか行動選択が出来ないという「他律」性を植え付けてしまっているからである。

一人の大人として、指導者の立場の者が自律的に責任を負えないなどというのは許されることではない。しかし、そうした無責任な者が無責任な判断を「してしまう」のも、成育環境から及ぼされた影響が存在することは確かである。

とは言え、「オノレはカブトムシだイヌだ本能には逆らえないんだと称して事後正当化する奴なんぞにはスイカの皮でも与えとけ。」という話になるのである。

虐待を受けて育った親が子供にも虐待を連鎖する言い訳として、「自分はそういう育て方しかされていないから、そういう育て方しか出来ない。」といった論法も、事後正当化バイアスが促す思考停止の一つである。

キェルケゴール著「死に至る病」における、「絶望して自己自身であろうと欲する絶望」というものは、気分感情が促す無意識な事後正当化バイアスが促す、無意識な「結果」に他ならない。

また、「絶望して自己自身であろうと欲さない絶望」というのも、単に「自分は愚かだ」と嘆いて気分的に凹んでいるに過ぎず。結局は「自分は愚かだから、仕方ない。」などという諦めを持ち出して事後正当化することで気分的憂鬱から逃れることしか出来ないのである。

本当に重要なのは「気分的に凹む」だとか「事後正当化の強弁をすること」ではなく、むしろそういった気分という無意識性に流されないという本質的な意識を持つことである。

自己の気分感情を客観視し、その感情が促すバイアスに本当に意味があるのかどうかを論理的に検証することで、自己の感情が促す無意識な行動バイアスに流されることのない行動選択も可能となる。 それをしないと、どうなるか。 原発の危険性を放置したり、ナチズムに迎合してユダヤ人殺害計画書の作成に邁進するようになるのである。 そりゃヘイトスピーチなんぞ簡単に出来るようになるのも必然である。

気分感情を後回しにして論理的に検証することに対して、大衆の多くは観念的に冷酷さか何かと勝手に妄想しがちであるが。アドルフ:アイヒマンの外見的冷酷さというものは、アイヒマンの気分的感情バイアスが促した、極めて「情熱的」な行動結果なのである。

オウム真理教による「人類の救済」も、太平洋戦争における「お国の為」も、決して論理検証性が導き出した行動ではなく。むしろ気分感情が促した「情熱的な無意識」の結果である。

振り込め詐欺に騙されることも、同様に強い感情に左右されることが原因である。

当然、詐欺をする方も利己的欲望に基づいた行動である。

利己的欲望も含めて自分の感情やバイアスに流されることなく、何が本当に自分が求めているものなのかを客観的に検証することが出来ないからこそ、目的を見失い実証不能の観念に囚われ他人に多大な迷惑をかけることに陥るのである。



生物というものは、生存を目的として生きているわけではない。あくまで結果的に生きているものを生物と分類しているに過ぎないことを忘れているからこそ、進化生物学も含めて事後正当化のこじつけに満足しようとするのである。

大脳辺縁系が促す気分感情のバイアス自体は自己の選択を介していない。なぜなら自己の遺伝子を自己では選択していないからである。

さらに言えば、成育環境から受けたあらゆるバイアスであっても同様である。

先天的、或は後天的なバイアスという無意識性でしか行動が決定出来ないというのであれば、それはただのバカとしか言いようがあるまい。そんな「カブトムシ男の屁理屈」に意味などない。

ヒトという種の生物として産まれて来た不条理に歎き絶望するのではなく。むしろ不条理性を認識可能であるという「素晴らしい特性」を持ち合わせていることを忘れるべきではない。 これこそが単なる「ヒトという種の生物」と「人間」を分けるものであるからだ。




Ende;
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○感受性万能論への反証。

2015年06月03日 14時23分00秒 | 意識論関連
個人の主観的好き嫌いを互いに尊重する必要性がある。

自分の個人的主観に基づいた好き嫌いを他人に強要してしまえば、他人の個人的主観に基づいた好き嫌いを拒絶する権利もなくなるということになる。 それは主観のなすり合いにしかならず、双方の傲慢に過ぎず、全く意味がありません。

イジメ対策と称して、大人から「優しい気持ち」を強要されても、それは大人の主観を押し付けていることにしかならないので。子供達の間で生ずる「優しくない気分」を大人が全く受け入れていないことにもなるのです。 これは大人の傲慢でしかありません。

「自分の感受性だけは常に絶対に正しい行動しか促されることのない、完璧な人間である。」という前提に基づいているからこそ、「感受性=人間性」という方程式が出てきてしまうのであって。こうした傲慢に基づいて気分感情をその場限りに押し付けても、むしろ子供達は傲慢さを身につけてしまうだけで、何一つ自律的な行動選択を出来なくもなるのです。

他者から促された感情に流されている限り、差別排除はなくなりません。

個人の好き嫌いを尊重し合う社会というのは、個人的に嫌いであることも受け入れる社会ということでもあります。

自分の個人的な好き嫌いを根拠に、他人の好き嫌いを頭ごなしに否定していたのでは、あまりに一方的で傲慢なのです。

個人的な好き嫌いは、それぞれ違っていて良い。

重要なのは、個人的好き嫌いを他人に押し付けないことであって。そのためには何が個人の主観的好き嫌いなのか、それとも客観的に善悪なのかを判断出来なければなりません。

そうした判断を下すのは論理検証性であって、決して「感受性」だのといった気分感情の問題ではないのです。

文系の人達の多くは、「感受性が人間性を作る。」などという論理的根拠のない話をしたがりますが。それは多数という大衆への迎合に過ぎず、その場限りのご機嫌取りにしかならないのです。

ヒトという種の生物が先天的に優秀で、あたかも本能習性に流されてさえいれば常に正しい結果が得られるかのような錯覚を促しておけば、大衆の多くは気分的に安心満足し、何の疑問も持たずに受け入れてしまいます。

そうした傲慢さこそが、進化生物学におけるこじつけ論証を科学的証明か何かだという錯覚を促してきたのです。

感受性というのは、大脳辺縁系が促す行動バイアスです。 その場限りに「優しい気持ち」になるように大人達が誘導しても、むしろ誘導されて簡単に変わる気分ではイジメの根絶にはならないのです。

重要なのは、環境条件に誘導されるような無意識性に左右されず、自律的に行動判断出来る論理検証性(本質的意識)を持つことなのです。

その場の空気に流されて、何も自律的には判断出来ないことこそが、差別排除に限らずあらゆる「人災」の根源的原因として隠れているのです。




子供の行動というのは、大人の写し鏡のようなものですから。子供達の間で差別排除や身勝手な序列を形成してしまう原因というものには、必ず子供達が接している大人の方の差別排除や序列意識が関与しているのです。

差別排除という行動には、必ず序列意識が背後に隠れています。 「自分達の方が優秀だ。」といった傲慢な考えに基づいて、多数派同調バイアスがそれに気分的安心感を与え、条件反射的無意識に差別排除をしてしまうのが「ヒトという種の生物」の先天的習性でもあります。

ナチズムがユダヤ人迫害の根拠とした優生学というのも、民族の優劣を正当化するものでした。

ヒトという種の生物には、先天的に自己と他者との間に優劣序列を規定したがる習性があります。しつけを間違えた小型犬が飼い主の手を噛んだり、逆に訓練によっては飼い主に忠誠忠実に服従するようにもなるように。イヌなどの動物の行動習性としての先天的な社会形成習性には、個人が自律的に物事の良し悪しを判断する性質など組み込まれてはいないのです。

物事の善悪を判断するためには、自律的に「考え」選択する必要があります。自分の方が優位だと「思いたい」感情に基づき、他人を蔑んで良い理由には全くなりません。 個人的に嫌いなのは仕方ありませんが、それはあくまで個人の主観的好き嫌いに過ぎないという分別に基づいて行動選択する必要性があるのであって。たとえ犯罪者であるとしても、処罰感情の促すままにただ差別しておけば良いということにはならないのです。

論理検証的「考え」が成立しないことにも、何らかの理由があるはずです。 それは評価承認中毒が原因かも知れませんし、先天的な序列感情が働いているからかも知れません。ですが、原因を自分自身で認識出来れば、そういった思考バイアスから逃れ、自律的に自分の感情や本能から自由になることも可能となるのです。

先天的に序列感情が強過ぎて、他人との間に順位をつけておかないと不安で仕方ない人というのもいるかも知れません。しかし、だからといって、先天的本能習性の促すままにしか行動が出来ないことの論理的証明にはならないのです。

ヒトの脳には可塑性があります。本能習性に流されないよう自分の行動を客観的に見る癖をつけることで、それまで出来なかったことも簡単に出来るようにもなるのです。

最初は難しいでしょう。何だってそうです。最初は何でも不器用なのは当たり前であって、少しずつ慣れることによって、少しずつ出来るようになるのは当たり前の話です。

必要なのは意志です。自分がどうあるべきなのかといった「目的」意識がなければ、その場限りの気分感情が促す行動バイアスの「結果」しか得ることは出来ません。

「意志」というと、大衆的にはあたかも努力辛抱根性的な精神論か何かと錯覚しがちですが。そうではありません。むしろ、様々な感情にその場限りに流されずに、心静かに「自分が本当に望むものが何なのか。」を考えることで導き出されるものであって。それは多数他人から促されるようなものではないのです。

ヒトが他人に何かを強要する原因には、少なからず「自分が強要されたことを受け入れた事実」を事後正当化する形で他人にも何かを強要するようになるのです。 しかし、これこそが無意識な条件反射であり、「虐待の連鎖」の原因メカニズムでもあります。

「自分は他人から何かを強要され、それを受け入れた。」という、ある種の諦めを事後正当化し、「受け入れた自分は間違っていない。」ことにしておくことで、何の疑問も持たずに他人にも何かを強要するようになるのです。

ヒトの脳は、「自分だけは絶対に大丈夫」だと思い込んでおけば、何も考えずに行動出来るので安心満足を得ることが出来ます。 これは、「ヒトというのは何も考えずにバカでいた方が気分的に楽でいられるバイアスが存在する。」という意味でもあるのです。

ヒトは自分の愚かさを認識すると、「あぁ、自分はバカなんだ。」と決め付け、気分的に落ち込み憂鬱になります。しかし、それもまたヒトの脳の先天的なバイアスでしかなく。その気分的な憂鬱から逃れようと、「自分はバカだから。」という決め付けをすることで、バカのままでいることまでをも事後正当化しようとするのです。

ヒトの脳というのは、自律的には考えないようにしようとするバイアスが先天的に組み込まれているために。すぐに短絡的に何かを決め付け、何も考えないようにする性質があるのです。

気分感情の大部分は、論理検証的「考え」を阻害する方向にしか働かないと思っても丁度良いくらいなのです。

キェルケゴール著「死に至る病」の岩波翻訳本は、言い回しが難解なこともあって、10回や20回読んだくらいではちんぷんかんぷんで何を言っているのかちいともわからないでしょうけれども。ヒトが陥る思考バイアスの傾向性についての考察でもあることが、何となく解ってきます。(正直言うとおいらも9割方わからんけど。)

気分感情が促す固定観念に左右されずに冷静に理論的「考え」だけを純粋に組み立てれば、「感受性」が短絡的に人間性ではないことは理解出来るはずです。

感受性という大脳辺縁系が促す感情というものは、ほったらかしておいても勝手に湧いてくるものであって。人間として、社会的に責任ある行動を採るために必要なのは、個人の主観的好き嫌いと社会的責任判断との区別が自律的に出来ることなのです。



キェルケゴールやサルトルは、読んでも気分が良くなったりしません。むしろ不条理性を目の当たりにさせられて嫌な気分にしかならないので、北大の澤口俊之は進化生物学的こじつけ論証が未だにまかり通る脳科学に逃げました。澤口は臆病者のdqnに過ぎないのです。

逆に、マイケル:サンデルの講義だの、麻原彰晃の説法だの、ISILのネット勧誘のように。簡単に気分が良くなって、その気分を短絡的に「正しいことだ。」と勘違い錯覚妄想することの方が簡単なのです。

「感受性」万能論も同じことです。

ヒトの脳というのは、「悩ましい」命題を与えられると、本当は何ら自発的考えなど出てきてなどいないにも関わらず、あたかも何かを自発的に「考えた」ような錯覚に陥ります。 振り込め詐欺というのは、被害者に対して気分的に恐怖心を煽るような悩ましいことを陳列し、被害者に「何かを自分から考えた」ような錯覚に陥れることで、本当は何も考えていないことに気付かせないよう誘導します。

誘導されて出てくる考えなどというものは、予め予測可能な範囲から出ることは出来ません。サンデルが予め決めた条件の範囲内だけで、どんなに何かを考えたような錯覚に陥っても、世の中の諸問題を自発的に考えるようにはならないのと同様。 振り込め詐欺が促した条件や情報だけで何かを考えても、実際には内容を抽象化して単純化し、「振込みさえすれば、全ては解決」という短絡的行動しか出て来ないのです。

ヒトの脳は抽象化をします。民族や国籍、性別で人格が決まるといった、短絡的で個人の人格性を何も検証しない雑な分類を絶対だと信じるからこそ、ヘイトスピーチに何の疑問も持たなくなるのです。

分類抽象化というのは、物事を考えるための道具に過ぎず。それ自体は目的ではありません。

分類そのものが暴走するからこそ、論理検証性がなくなるのであって。分類というもの、抽象化されたあらゆる概念にも論理的根拠が必要であることを忘れてはならないのです。

何度でも言いますけど、「感受性=人間性」などという、論理的根拠のない固定観念に囚われ暴走しているからこそ、イジメの原因究明にもならないんですよ。 それがどれだけ社会的に無責任なのかを認識してください。

「感受性=人間性」とでも述べておけば、多数派の賛同を得られて安心満足なんでしょうけれども、科学的真理というものは多数決で決まるようなものではなく、徹頭徹尾論理的根拠と証明によって導き出されなければならないのです。 それをやらないから具体的な再発防止策にまで至らず、同じ過ちを何度も繰り返し続けることに陥るのです。

どんなにその場限りに気分的に「優しい気持ち」になっても、自律的な社会的責任判断力は身につきません。気分感情の強度程度は人間性の証明には一切ならないからです。

主観的にどんなに「感受性=人間性」という方程式を肯定したいと思っても、それは人間性の論理証明にはならないのです。 そこ分別つけろよって話です。


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○フェミ系クラスタのツィートを読んでいて。

2015年06月02日 12時49分31秒 | 日記
主観的な趣味が悪趣味なのを、女子が「気持ち悪い」と思うこともまた主観なので。それは、それなりには尊重するとしても個人的主観であることに違いはないので、あんまり意味はないと思う。

ただ、「オノレをカブトムシだ犬だ本能は抑えられないんだ」という理屈を持ち出して開き直るというのは傲慢としか言いようがない。それこそ俎上のサバヒー*さんが言うように、「そんな奴にはスイカの皮でも与えときゃいいんじゃないの。」という話になるのも当然でしょうね。

幼稚だったり変態だったりするのは仕方ないにしても、それは嫌いな他人にまで強要したり正当化するべきものではなくて。あくまで個人が主観的に楽しんでおくべきもの。

「男はカブトムシみたいなもの」という話も、あくまで「女子が男を見ていちいち理解不能でイラつく必要はないよ」という意味で使われる理屈であって。「本能習性を自律的に抑えることが構造原理的に不可能であることの論理的証明」にはならん。 アホか。

超ミニスカートで「パンツが見えることも気にしないことを潔よしとしている女子」もたまにいるこたいるんだが、その事例だけを取り上げて女子全般に「パンツぐらい見せろ」と言い出したら個人の意向を全く尊重していない。

dqn男が「俺ってバカだからさー。」などとやたらと主張したがるのも、それが他人の迷惑に配慮することが構造原理的に不可能であることの証明か何かにすり替えており。言い逃れや取り繕いにすらなっていない。

自分の欲望だの願望だのを事後正当化しているだけであれば、そんなものは一人の「人間」としての意志でも何でもない。

男が女子に身勝手な願望を抱くことを拒絶するのと同様に、女子勢も男に幻想を抱くのもやめて頂きたい。外見的に女子の観念にとって気分の良い男を演じることは簡単で、だからこそ女子の多くはDV男やカブトムシ男に引っ掛かるんですよ。

変態じみたフィギュアであっても美術表現としてであれば個人の主観的趣味の範疇に入るものであって、世界的に有名になった村上隆のフィギュアも充分変態じみている。 ただ、幼児が自慰行為をしているフィギュアをガチャガチャという自動販売機で売るというのはナンセンスとしか言いようがない。 (ググってみたら既に販売中止だそうだ。当たり前だけどね。)




*オノレをカブトムシだ犬だ本能は抑えられないんだと言って幼稚さを正当化するなら、給料もスイカの皮か骨でいいん じゃないの? 2015年4月25日 -3:21pm 俎上のサバヒーさんのツィートから




Ende;
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○感受性依存から脱却する必要性について。

2015年06月01日 13時11分40秒 | 意識論関連
イヌをしつける時には、若干スパルタ的に飼い主の方がイヌよりも上位であることを強制的にわからせるよう訓練する。

イヌに飼い主の方が上位であることを「わからせる」というのは、論理的に理解させているわけではない。

「わかった」という感覚は、必ずしも「論理的に理解している。」こととは限らないのだ。

イヌの先天的本能として、自己以外との関係性に順位という「見なし」を必要とする。 自分以外の他者が、自分よりも順位が上なのか下なのかを決めておくことで、誰に服従しておけば良いのかに迷わずに済むためだ。

役割分担をして統率的な組織行動を行う場合には、こうした「誰に服従しておけば良いのか。」が明確になっている必要性がある。

ネコの場合には、一応他の個体との間に順位のようなものはあるが、それはエサや場所の奪い合いなどの基準にするだけであって、統率的な組織行動を促すには至らない。

統率的な組織行動が発生するためには、自分より上位と見なした相手に服従する習性が必要なのである。

イヌの場合、時折飼い主が好き過ぎて興奮し、尿まで漏らすという失態まで犯すこともある。イヌは自分より「上」と見なした対象相手に異常な快楽を感じるようになっているからだ。

イヌに対して飼い主を上位と見なさせるための訓練方法というのは、既に確立されていて。手順や手法に従って訓練すれば大抵のイヌは飼い主を上位と見なすようしつけることが出来る。

逆に言えば、育て方を間違えると飼い主を上位と見なさなくなってしまうため。服従対象と見なさなくなると狂暴になり、飼い主の手を噛んだりするようにもなる。

イヌの先天的な社会形成習性とは、そういうものである。

イヌの場合、自分以外との関係性には「上」か「下」のどちらかに分類する以外に選択肢はない。

野生の状態における哺乳類の社会形成習性では、順位は狂暴性によって決定する。とは言っても、本当に決闘をしてどちらがより強いのかをいちいち見極めていては種として自滅してしまうので、欲望の強度程度としての狂暴性によって順位を決定する。

イヌとトラを一つのケージで飼った場合に、イヌの方がトラよりも上位になる場合もある。トラはそもそも本能習性的に社会形成性を持たないために、順位に対する執着がイヌ程はないためだ。

本当に殺し合いをすれば、強さという点においてはトラの方がイヌよりも圧倒的に強いはずであるが、それは集団内部における順位の基準にはならないのだ。

順位に対する執着心の強度程度が強く。自分よりも「下」と見なした相手に対して狂暴性を発揮する習性がイヌにはあるため、実際に強いかどうかはともかく、より狂暴性の強い相手を上と見なして服従するという習性の結果として、集団統率的な行動をするようになるのである。

イヌが集団統率的な行動を採るのは、目的のためではなく。結果として狩りをする時などに有利であったという、これまた「結果」でしかないのだ。

進化生物学が長い間、結果に対してこじつけ論証をしてきたのは、本能習性が促す行動結果に何らかの目的意識が介在しているはずだという勝手な妄想が働いていたためである。

イヌの脳には目的意識などない。統率的集団行動を採るのも「結果」以上に意味はなく。それが証拠に機械手続き的な訓練をすることによって、ヒトにとって便利な行動を採らせることも可能になる。

こうした結果に対して、「イヌがヒトの命令に従うのは、それが種の保存に適しているからだ。」などという「説明」までも出てくる始末である。 もはや「こじつけ」というよりは「言い逃れ」とか「取り繕い」のレベルであり、到底科学的論証には値しないのは明らかである。

イヌの行動習性はヒトにとって便利に応用利用することが可能であるため。ヒトの気分的にはイヌを「賢い」などと形容することもあるが。イヌの行動習性を利用すれば、軍事利用することも可能であり。イヌの習性が便利だからといって、その気分満足感に基づき短絡的に「賢い」と称して「知能の高さ」の論証か何かだと思い込むのはオカルト観念に過ぎない。

ヒトの脳においても、自分にとって便利だったり、或は快楽を与えてくれる相手を短絡的に「賢い」と思い込む習性があり。こうした思考バイアスが存在するために非科学的オカルト妄想であっても何の疑いも持たなくなるのである。

どんなにイヌの気持ちが「わかった」ような気分になっても、それは論理科学的な理解ではない。

それは従来の進化生物学的こじつけ論証に対しての「わかった」ような気分においても同じである。

イヌに対して飼い主などのヒトの方が順位が上であると「わからせる」ことにおいても、イヌは論理的に何かを「理解」しているわけではなく。ヒトの方が順位が上であると見なしておいた方が気分的に楽なように誘導された結果として、ヒトを上と見なすようになるだけであって。イヌの選択基準は常に快楽と苦痛の強度程度だけで決定されるに過ぎない。

ヒトであっても、イヌの行動と同じように快楽と苦痛の強度程度が行動の基準になる場合は少なくない。大脳辺縁系の構造自体はイヌであってもヒトであってもさしたる違いなどなく。促される本能的行動習性においても同様である。

だが、ヒトの場合には論理的に物事を検証することで、先天的本能習性が促す行動の結果が目的とは異なると認識出来る場合には、本能習性が促す行動バイアスを自律的に抑制することも可能である。

だが、どんなに記憶や知識の「量」があっても。他者からの評価承認とセットで教えられたことをただ漫然と「知っている。」だけでは目的そのものすら認識することも出来ないことは珍しいことではない。

観念的に「わかった」ような気分と、論理的理解との区別を自律的に出来なければ、どんなに大量の知識を「知っている。」としても本質的には知能ではない。



権威というものも、結局はヒトという種の先天的本能習性が促す盲目的服従対象としての「見なし」に過ぎない。

権威というのは、先天的本能が促す服従バイアスとして「わかった」ような気分によって見なされているに過ぎず。権威への服従こそが自律的な社会的責任判断力を個人から奪う大きな要因ともなっている。

服従対象として相応しいのかどうかは個人の自律的判断によって選択すべきものであって、単に多数決で決定し(見なし)ているだけであれば科学的には何の意味も持たないのである。



ヒトはとかく、感じていることや思っていることを、短絡的に論理検証的な考えか何かだと混同錯覚する性質がある。

記憶や知識の「量」を競いあって順位を決定しても、それが本質的な知能の認知科学的論証には一切ならない。特定能力の高さだけを基準として「勝ち負け」を決定しても、それはむしろ順位欲に基づいた観念的な「わかった」感を満足させているだけに過ぎないのだ。

イジメ対策と称して気分的に優しい気持ちに誘導するような授業が行われることがあるが、衆人環視下において他者から促されたその場限りの感情気分ではイジメなどの差別排除の対策としてはお粗末と言う他ない。 他者から促された感情気分に流されているだけであれば、それはイジメを促すような環境下になれば簡単にイジメに加わったり傍観放置をするようにもなるからである。

感受性の全てが人間性の源であるかのように「思って」おけば、気分的には満足感を得ることも簡単であろう。しかし、そうした満足感による思考停止というのは、自分の先天的な本能習性が絶対的に優秀であるという傲慢から導き出されていることにまで認識が働いていないことが原因である。

特殊詐欺の研究をしている作家までもが振り込め詐欺に騙されるというのは、「感受性こそが人間性である。」という身勝手で傲慢な固定観念に基づいているからに他ならない。

イジメなどの差別排除が発生するのは、ヒトの先天的な本能習性としての「感受性」が原因である。その現実を直視せずに他者が作り出した環境に依存したご都合主義的に、その場限りに「優しい気持ち」に誘導しておけば解決だと思うのは大間違いである。

マイケル:サンデルの講義のように、促されて考えただけでは自分から自発的に検証するようにはならないのと同様。促されたその場限りの気分でも自発的に問題解決をするようには構造原理的にならないのである。

イジメを行ってしまう子供には、何らかの原因があるはずである。それは親大人から抑圧的ストレスが原因かも知れない。そもそも暴力的威圧や人工的権威性を用いて恐怖で子供達を支配しておけば、子供個人から自律的な責任判断選択が喪失するのも必然的結果である。

先天的に他人との順位を決定しておかないといられないような、本能欲望が優先してしまっているケースもあるだろう。しかし、その場合においても、先天的本能欲望が促す「感受性」のままに行動していることは自由意志ではないことを理解させ、本当に個人が望む社会とはどういうものであるのかを自発的に考えられるようにしてあげることで、自ら自分の感情気分を抑制できるようにすることも不可能ではないはずである。 余程の重症でもない限りは。



暴力団やISILのように、暴力的威圧による恐怖心を用いた統率に対して、「カッコイイ」という感情を抱いて憧れることは、むしろ動物的には普通のことである。イヌもハダカデバネズミも暴力性の強度程度でしか順位を決定することはしないからである。

たとえボノボが暴力的威圧の代わりに性的威圧にすり替えていても、ヒトの行動に置き換えればセクハラ痴漢行為で気分的に満足して暴力性が抑えられているだけに過ぎず。ほとんど「バカの屁理屈」レベルの話に過ぎない。 自然環境下での動物の行動習性を観察することは重要であろうが、その観察結果に対して大衆からの評価承認が得られそうな屁理屈をこじつけるというのは、大衆迎合的な業績の捏造でしかない。

学校でのイジメにおいても同様で、学級内部において観念的に「カッコイイ」と見なした学級内ヒエラルキーに基づいて上位の者が差別排除を促せば、子供は簡単にイジメに加わったり傍観放置をするのも必然である。

子供じみた動物的観念に基づいて暴力的な配偶者を選択するからこそ、バカ女はDV男に引っ掛かるのである。

飼い犬が飼い主の手を噛む行動も、結局はイヌの感受性に起因する結果である。

ヒトという種の生物が、その進化(変化)過程の大部分において狂暴性によって生存に適してきた以上、先天的に狂暴性を持っていることは逃れようのない厳然たる事実である。 その先天的な狂暴性が「感受性」という大脳辺縁系が促す気分感情に由来するものである以上。それを客観的に認識し、自律的に抑制出来るようにするためには、その場限りの感受性に頼らない自発的論理検証性を育む必要性がある。

それは簡単でもなければ手間のかかることかも知れないが、学力成績よりも一人の「人間」として自律的な社会的責任を負うように育てることの方が優先されなければならない。 学力学歴がどんなに高くても、無責任であれば社会にとって負担にしかならないのは当たり前の話だからである。

通り魔や銃乱射事件などの犯人の多くには、学生時代に学力が高かった傾向が見られることからも、学力成績というのは就職にとって有利という利己的利益には供するであろうが、本当の意味で社会的に価値があるわけではない。

ヒトの子供を育てる時に、戸塚ヨットスクールのように「飼い主に対して従順なイヌの育て方。」をそのまま応用するというのは。子供の自主性を喪失させ自律的な社会的責任判断力を奪う社会的に無責任な行為である。

ヒトであってもイヌと同じような本能的社会形成習性は存在するために、人工的権威や暴力的威圧に対する恐怖心を利用して盲目的に服従させることは、むしろ簡単なことである。 だがそれは無責任な「手抜き」に他ならない。





異端や少数派であるというだけで、「仮説に過ぎない」と言い張ることは簡単である。仮説が間違っているといった論理反証せずに、漫然と「仮説に過ぎない」と言い張るのであれば、それこそが「論理的根拠もない仮説」に他ならない。

理解もせず、論理反証もしないというのは、むしろ問題意識の低さに起因するものであろう。

その場限りの気分的満足感ばかりを追求していれば、そりゃ何の問題意識も働かないのも当然である。






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