「原発事故を踏まえて再発防止策を立てれば原発を継続出来る。」的なことを原発推進派は良く言うんだけど、航空機事故とは違って被害が数万年に渡って継続してしまうものだけに同列にするべきものではない。
工学的分析においても、メルトダウンした福島第一原発の中身は誰もわからないのであって、ちいとも原因究明になど結びつかない。
そもそも「なぜ東京電力社内では原発の危険性が放置されたのか。」という社会心理学的分析には至っておらず、本当の意味での再発防止策は全く立たないのが現状であり、原発推進派の論理は「お花畑」に過ぎない。
社会心理学的分析としての危険性放置に関しては、イジメからイスラム国に至るまであらゆる場面において応用可能性を持っているだけに、これを「多数派のコンセンサスが得られない。」などというふやけた「理由」でやらないというのは大間違いである。
本当の意味での合理性とか効率性を考えれば、既存の社会の無駄は無数にあり。これを放置したまま電源だけ議論するのは間違いであり。その意味では原発推進派も反対派も不毛な言い争いが多過ぎる。反対するのであれば代替案を出すべきであり、国会議事堂前で騒いでいる暇があるなら自然エネルギーの研究をするとか、本当の意味での合理的行動も可能なはずである。
ヒトの多くは目先の感情のままに行動するばかりで、論理的合理性を持った行動選択をせずに不毛な争いばかりを繰り返す性質がある。
「悪者探し」というのは懲罰さえ加えておけば気分的に満足だからであって、何の合理性も存在せず。現状の司法刑罰システム自体も税金の無駄にしかなっていない。
ヒトは誰でも間違える。
これはヒトである以上誰でも言えることであって、罰を与えるというのであれば一切の罪を持たないものが与えればよろしい。もちろんそんな奴は現実にはおらず、司法刑罰システムも「妥当性」とか「既存の判例」という因習に則っているに過ぎない。むしろ、こうした因習を繰り返しているという「過失」に関しては誰も言及しないというのが現状である。
これこそが非合理的であることを、ヒトの多くは認識していない。
東京電力社内においては、「津波の危険性を考慮に入れれば、日本の何処にも原発は造れない。」などという観念に屈した理由は、社員の「気分」である。
放送大学では技術者倫理などと称して、あたかも技術者だけが自律的な社会的責任の全てを負わなければならないかのような洗脳をしており。「勇気がわく」だの「元気が出る。」などといった気分の問題にすり替えた話を垂れ流している。
社会的責任のために組織内部での地位や権益を放棄するのが「自律的な社会的責任判断選択」というものであり、社会的危険性を放棄するくらいなら会社をクビになっても構わないという選択が必要になる。それは家族を路頭に迷わせるような決断であり、決して簡単なものではない。
だがしかし、もし東電社員のほとんど全員が自律的に社会的責任判断選択をしていれば、ほとんど全員をクビにするわけにもいかないわけであって、むしろそんなことをする上司自体の方が排除対象になったであろう。
これを「勇気」の問題だと言うのはすり替えである。「勇気」だの「元気」などというのは所詮は気分の問題であって、文科系特有の精神論へのすり替えに他ならない。
こうした文科系特有の様々なすり替えを、すり替えだと認識していないからこそ、様々な問題の原因究明が紛らわされているのである。
「法律が怖いから、犯罪をしない。」からこそ、法律のないイスラム国に人気が集まるのであり。イスラム国というのはイスラム教が原因ではなく、むしろ「怖い」かどうかで行動が短絡的に決定するしか選択の余地が存在しないかのように言い張る文科系大衆観念の産物、「ヒトという種の生物が持つ先天的行動習性の結果」に過ぎない。
イスラム国のような暴力組織は昔からあった、決して新しいものなどではなく中世ではむしろ平均的で多数派だったといえる。
「怖い」かどうかで行動が抑制されている時点で、「怖く」なければ平気で何でも出来ることを「自由」だと錯覚することに陥っている。これこそが個人の自律を喪失させる文科系特有の観念である。
なぜ、このような観念に陥るかと言えば、個人が人工的権威や力によって抑圧され続けた結果、行動学習的に無意識な条件反射行動に陥っているからであり。これはアインシュタインが懸念した、「しばしば後に有害な影響を及ぼす。」の一言に集約されている。
イジメやイスラム国、原発の危険性放置など、あらゆる「人災」の全ては個人の自律の喪失によってもたらされたものであり。個人の自律が及ばない災害であれば、最初から「人災」ではない。
ヒトという種の生物には、目先の多数派に迎合するという「社会形成習性」が存在する。ヒトという種の生物は神などの特定意志や目的意識によって作り出された特別な存在などではなく、あくまで「生存に適した」という自然淘汰の結果でしかなく。本能習性のおもむくままに行動していれば常に正しい結果に導かれるなどという妄想に取り憑かれていればヒトの多くは安心して様々な危険性を放置することが簡単に可能なのである。
ヒトの多くは意識というものを、「興奮状態に陥ること。」だと勘違いしている。国会議事堂前で騒ぐことも、劇場型詐欺に騙されることも、不毛な精神論を強要することも、全ては意識というものの本質を見誤っていることから生ずる錯覚である。
本当の意識とは、冷静に論理検証分析して行動選択を行うことであって、気分的興奮はそれを阻害することはあっても促すことはない。これはヒトという種の生物の先天的、構造原理的「バグ」であり、いわば「パッチ」として錯覚を錯覚として認識することが必要なのである。 無論、そんなことは今の学校では教えたりはしない。それはなぜか、実は簡単である。親も教師もそんなことは「教えられていない」からである。
自分で考えることが出来ない者にとっては、「教えられていないこと」は教えることが出来ない。
これは言うなれば、「思考停止の連鎖」である。
バカはバカげたことしか教えられないということでもある。
しかもバカにはバカの自覚もない。だから巨大人間ピラミッドなどという戦時中の日本軍みたいな無茶な行為に疑問を持つこともない。なにせ気分が行動と直結しているので論理検証なんぞ行動には影響しないのである。
そりゃ原発の危険性も放置するでしょうよ。
東電社内において、原発の安全責任者が自律的に社会的責任を優先するという保証でもあれば再稼動も致し方ないと思うが、現実には「規制委員会の審査さえ通れば良いんでしょ。」的な手続き上の開き直りにしか見えず、体質が変化した形跡が全く見受けられない。
工学的に見ても西欧のようにメルトダウンした燃料デブリを広げて冷却するといったシステムは自発的には導入しておらず、そこまで安全対策をすればコスト的には全く採算が合わないことも既に判明しているのである。
そもそも断層だらけの地震大国日本に核廃棄物を地層処分出来る場所があるとも思えない。むしろ地上の耐震施設で永久管理して欲しいと思う人も少なくないのではないだろうか。そのコストまで計算に入れれば原発推進は「将来への借金」でしかないことは明らかである。
Ende;
工学的分析においても、メルトダウンした福島第一原発の中身は誰もわからないのであって、ちいとも原因究明になど結びつかない。
そもそも「なぜ東京電力社内では原発の危険性が放置されたのか。」という社会心理学的分析には至っておらず、本当の意味での再発防止策は全く立たないのが現状であり、原発推進派の論理は「お花畑」に過ぎない。
社会心理学的分析としての危険性放置に関しては、イジメからイスラム国に至るまであらゆる場面において応用可能性を持っているだけに、これを「多数派のコンセンサスが得られない。」などというふやけた「理由」でやらないというのは大間違いである。
本当の意味での合理性とか効率性を考えれば、既存の社会の無駄は無数にあり。これを放置したまま電源だけ議論するのは間違いであり。その意味では原発推進派も反対派も不毛な言い争いが多過ぎる。反対するのであれば代替案を出すべきであり、国会議事堂前で騒いでいる暇があるなら自然エネルギーの研究をするとか、本当の意味での合理的行動も可能なはずである。
ヒトの多くは目先の感情のままに行動するばかりで、論理的合理性を持った行動選択をせずに不毛な争いばかりを繰り返す性質がある。
「悪者探し」というのは懲罰さえ加えておけば気分的に満足だからであって、何の合理性も存在せず。現状の司法刑罰システム自体も税金の無駄にしかなっていない。
ヒトは誰でも間違える。
これはヒトである以上誰でも言えることであって、罰を与えるというのであれば一切の罪を持たないものが与えればよろしい。もちろんそんな奴は現実にはおらず、司法刑罰システムも「妥当性」とか「既存の判例」という因習に則っているに過ぎない。むしろ、こうした因習を繰り返しているという「過失」に関しては誰も言及しないというのが現状である。
これこそが非合理的であることを、ヒトの多くは認識していない。
東京電力社内においては、「津波の危険性を考慮に入れれば、日本の何処にも原発は造れない。」などという観念に屈した理由は、社員の「気分」である。
放送大学では技術者倫理などと称して、あたかも技術者だけが自律的な社会的責任の全てを負わなければならないかのような洗脳をしており。「勇気がわく」だの「元気が出る。」などといった気分の問題にすり替えた話を垂れ流している。
社会的責任のために組織内部での地位や権益を放棄するのが「自律的な社会的責任判断選択」というものであり、社会的危険性を放棄するくらいなら会社をクビになっても構わないという選択が必要になる。それは家族を路頭に迷わせるような決断であり、決して簡単なものではない。
だがしかし、もし東電社員のほとんど全員が自律的に社会的責任判断選択をしていれば、ほとんど全員をクビにするわけにもいかないわけであって、むしろそんなことをする上司自体の方が排除対象になったであろう。
これを「勇気」の問題だと言うのはすり替えである。「勇気」だの「元気」などというのは所詮は気分の問題であって、文科系特有の精神論へのすり替えに他ならない。
こうした文科系特有の様々なすり替えを、すり替えだと認識していないからこそ、様々な問題の原因究明が紛らわされているのである。
「法律が怖いから、犯罪をしない。」からこそ、法律のないイスラム国に人気が集まるのであり。イスラム国というのはイスラム教が原因ではなく、むしろ「怖い」かどうかで行動が短絡的に決定するしか選択の余地が存在しないかのように言い張る文科系大衆観念の産物、「ヒトという種の生物が持つ先天的行動習性の結果」に過ぎない。
イスラム国のような暴力組織は昔からあった、決して新しいものなどではなく中世ではむしろ平均的で多数派だったといえる。
「怖い」かどうかで行動が抑制されている時点で、「怖く」なければ平気で何でも出来ることを「自由」だと錯覚することに陥っている。これこそが個人の自律を喪失させる文科系特有の観念である。
なぜ、このような観念に陥るかと言えば、個人が人工的権威や力によって抑圧され続けた結果、行動学習的に無意識な条件反射行動に陥っているからであり。これはアインシュタインが懸念した、「しばしば後に有害な影響を及ぼす。」の一言に集約されている。
イジメやイスラム国、原発の危険性放置など、あらゆる「人災」の全ては個人の自律の喪失によってもたらされたものであり。個人の自律が及ばない災害であれば、最初から「人災」ではない。
ヒトという種の生物には、目先の多数派に迎合するという「社会形成習性」が存在する。ヒトという種の生物は神などの特定意志や目的意識によって作り出された特別な存在などではなく、あくまで「生存に適した」という自然淘汰の結果でしかなく。本能習性のおもむくままに行動していれば常に正しい結果に導かれるなどという妄想に取り憑かれていればヒトの多くは安心して様々な危険性を放置することが簡単に可能なのである。
ヒトの多くは意識というものを、「興奮状態に陥ること。」だと勘違いしている。国会議事堂前で騒ぐことも、劇場型詐欺に騙されることも、不毛な精神論を強要することも、全ては意識というものの本質を見誤っていることから生ずる錯覚である。
本当の意識とは、冷静に論理検証分析して行動選択を行うことであって、気分的興奮はそれを阻害することはあっても促すことはない。これはヒトという種の生物の先天的、構造原理的「バグ」であり、いわば「パッチ」として錯覚を錯覚として認識することが必要なのである。 無論、そんなことは今の学校では教えたりはしない。それはなぜか、実は簡単である。親も教師もそんなことは「教えられていない」からである。
自分で考えることが出来ない者にとっては、「教えられていないこと」は教えることが出来ない。
これは言うなれば、「思考停止の連鎖」である。
バカはバカげたことしか教えられないということでもある。
しかもバカにはバカの自覚もない。だから巨大人間ピラミッドなどという戦時中の日本軍みたいな無茶な行為に疑問を持つこともない。なにせ気分が行動と直結しているので論理検証なんぞ行動には影響しないのである。
そりゃ原発の危険性も放置するでしょうよ。
東電社内において、原発の安全責任者が自律的に社会的責任を優先するという保証でもあれば再稼動も致し方ないと思うが、現実には「規制委員会の審査さえ通れば良いんでしょ。」的な手続き上の開き直りにしか見えず、体質が変化した形跡が全く見受けられない。
工学的に見ても西欧のようにメルトダウンした燃料デブリを広げて冷却するといったシステムは自発的には導入しておらず、そこまで安全対策をすればコスト的には全く採算が合わないことも既に判明しているのである。
そもそも断層だらけの地震大国日本に核廃棄物を地層処分出来る場所があるとも思えない。むしろ地上の耐震施設で永久管理して欲しいと思う人も少なくないのではないだろうか。そのコストまで計算に入れれば原発推進は「将来への借金」でしかないことは明らかである。
Ende;