書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

何だか痛そうだな。

2013年04月25日 16時04分46秒 | 意識論関連
○事故。

 エスカレーターの金属部分にカバンか何かが引っ掛かってめくれ上がり、動く手すりとの間に指が挟まれ怪我をするという事故があった。

 社会安全性の観点からは、実際にどういった荷物が、どうような形でエスカレーターの金属部分を破損したのかを明らかにし、情報を周知共有することで再発防止につながるのであって。刑事懲罰はこれに対して当事者を萎縮させるだけで意味がない。

 こういった一般的には予測が困難な事故については、超法規的に原因究明を優先して国が損害を補償してあげて、当事者には罰を一切与えないなどの措置を採るべきなのである。

 原発事故の時に当時の管直人首相の悪口をWeb上に書き込むことで集中攻撃し、同じ観念を共有して安心満足したように。文科系大衆観念的には悪者探しだの悪者特定規定によって、気分的満足を得ることばかりに終始してしまう性質がある。こうした文科系大衆観念、すなはち気分的安心満足の追求によって、論理的な原因究明とか具体的再発防止策といったものが蔑ろにされてしまうのである。


 特定個人を攻撃すると、あたかも自分や自分達集団が正義であるかのような錯覚をもたらす性質がヒトにはある。特定個人を悪者と規定することで自分達の正当性を勝手に妄想しているのである。

 むしろ、こうした気分感情のメカニズムこそが学校でのイジメや差別といったものを醸成するのであって、ヒトの気分感情といったものを短絡的に「心」だとか形容するのは無責任極まりないペテンである。

 エスカレーターにカバンを引っ掛けちゃった当人は、たまたま運悪く引っ掛けちゃっただけであって。こんなもの誰が引っ掛けてもおかしくはなく、当人に懲罰を与えることに何の意味も社会的価値もないのである。

 どういった荷物が、どのような形で引っ掛かったのか。その再現実験をすることで事故の起きにくい改造改良も可能であり、既存の施設においてもどこに注意すれば良いのかも解明される。それによって具体的対策といったものが施されるのであって、司法刑事罰というのは社会的には「バカをシツケる。」程度の価値しかないのである。

 司法刑事訴訟とったものが絶対的な完全無欠の対策であると錯覚している頭の悪さを放置していること自体が社会的罪であると言える。

 平たく言えば、バカがバカをシツケて満足しているだけであって。具体性のある対策に全くなっていないのである。

 だから刑法廃止論なのである。少なくとも意図的ではない偶発事故については些細な事故であっても政府直属で事故調査委員会をこさえて、原発や航空機の事故同様工学的分析によって。具体性のある再発防止策を立てることを優先すべきであって、刑法というのはこれに対して害しかもたらさない。

 更にこうした考えを進めれば、個人が自律的に社会的責任を負わなくなる心理的メカニズムについても言及可能なのであって。事故以外の犯罪についても具体的対策を立てることは不可能ではない。

 原発事故における最も根源的原因というのは、東電社員や幹部達による無責任さであり。これを「組織の体質の処為。」などと文系観念で薄めるべきではない。

 エスカレーター事故についても、事故を起こした当人に予測が絶対に不可能であったとは言い切れない。しかし、ヒトというのはそんなに四六時中あらゆる危険性について注意を払える程完全無欠な存在ではないのである。

 ヒトの多くは「自分だけは大丈夫。」などと勝手に妄想しているからこそ、懲罰によって他人に完全無欠を強要することだけで満足したがるのである。

 「ヒトは間違えるものである。」ことを前提にしていないからこそ、自分の判断の全て常に絶対であると錯覚するのであって。だからこそヒトの多くは刑法懲罰さえ実行しておけば全ては解決したものであると妄想するのである。


 通り魔を極刑にしてしておけば、気分的には安心で満足であろうが。それでは「ヒトが通り魔になる原因。」を全く解明しておらず、再発防止に全くつながらない。だからといって、動機だの背景を明らかにすることでどうにかなるという短絡的なものでもないのである。

 動機だの背景といったものは、犯罪者が犯罪を犯す一つのきっかけにはなっているとしても、同じ動機や背景を持つ者の全てが短絡的に犯罪者になるわけではなく。あくまで個人に主体的「自律」が欠落していることが本当の原因なのである。

 自律というのは他者から与えられる懲罰によって醸成されるものではなく、あくまで当人の自発性によって養われるものであって。規範意識だの法令遵守といった手続き依存体質こそが、個人から自発性を喪失させる最も根源的原因なのである。


 個人が自律的に社会的責任判断を行うためには、どうすれば良いのか。それは簡単ではないかも知れない。それを「難しいからやりたくない。」などと拒絶することこそが社会的「甘え」というものである。

 学生には難解な入試問題を強要しておきながら、大人になった途端に簡単なことばかり要求するのは。当人に本質的主体性がないからである。

 ほとんどの学生が解けないような難解な入試問題を解くことが出来ても、それは入試脳を「鍛え」ているだけであって、そんなものは「ゲーム脳」とさしたる違いはない。進学ビジネスに関わる者にとっては入試脳を「鍛え」ることを短絡的に「頭が良くなる。」ことだと錯覚させておく必要性があろうが、これこそがペテンというものである。

 脳は「鍛え」ても、特定の条件反射的能力しか養われることはなく。言うなれば脳というのは「鍛えると、バカになる。」のである。脳を「鍛える」ことで特定のクイズやスポーツなどの能力が向上して世間的に評価されるとしても、そんなものは個人的利益に過ぎず、社会的価値利益にはならない。そんなものは「占いペテンで金儲けをしている。」のとほとんど一緒なのである。

 なぜ、その学校に進学するのか。その主体的目的意識もないまま、漫然と他者との比較競争意識に流され他者との比較優位性を錯覚して満足しているからこそ、高学力なバカが大量生産されることに陥るのである。

 司法なんていうのは学力が高いだけで自発的には何も考えていないバカが就く仕事である。「法律さえ守らせておけば全ては上手くゆく。」という「常識」に基づく身勝手な妄想だけで司法システム組織というのは維持されているのである。

 「法律さえ守らせておけば、社会持続可能性も安全性も担保される。」という短絡的で夢みたいな話は要らない。個人が主体的に社会安全性や持続可能性を追求していれば、むしろ法律なんていうのは最低限で構わないのである。

 既存の社会システムが絶対で完璧なものであると「思う。」のは簡単である。

 完全完璧であると錯覚しているからこそ、既存の社会システムに混入している間違いを認識出来ないのである。

 誰かが構築した社会システムを鵜呑みにしておけば気分的には安心で満足であろう。誰かが作ったマニュアルに則っておけば自律的に何も判断しなくても責任を負う必要性はないと「思う。」であろう。

 そういう多数の東電社員達によって原発の危険性は放置され続けたのである。

 こうした無意識性こそが、あらゆる「人災」の根源に潜んでいるのであって。論理的根拠のない「普通」だの「常識」に意識を奪われずに、論理検証性に基づいた批判精神や疑いを持つことが重要である。

 東大学長が入学式の際に述べた、「全てを疑え。」というのは。観念的猜疑心によって他人のやること為すこと全てを疑うことではなく。むしろ自分自身の内部に刷り込み学習された常識的「思い込み。」こそを疑うことの重要性を述べたのである。

 社会心理学者達が提唱するような、「信頼さえしておけば全ては上手くゆく。」などというバカみたいな話というのは。結局大衆への気分的安心満足感しか提供しておらず、全くの大衆迎合に他ならない。

 気分的安心満足感に溺れているからこそ、「考え」というものが成り立たなくなるのであって。「考え」が失われるからこそあらゆる危険性が放置されることに陥るのである。

 暴走破綻といったものの全ては、無意識の所産である。気分感情という無意識に溺れて何も検証しないから暴走破綻に陥るのである。

 自然界が暴走破綻して大絶滅を引き起こしても仕方はない。しかし、ヒトが検証可能な暴走性に歯止めがかからないから「人災」というのである。

 「人災」というのは「迷惑」のことである。ヒトが実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけることに陥るのは。「自分の常識は絶対だ。」という身勝手な妄想から引き起こされるのである。

 自分の常識を疑うのは純粋な好奇心であり、これこそが科学的検証の最もプリミティブな姿である。

 「あれ?。いままで疑ったことはないけれど、もしかしてこれって間違っているんじゃないのかな。」という素朴な疑問を捨てないことが重要である。

 ヒトは多数の他人や権威が疑わないことを自分で自律的に疑うことを恐れる性質がある。多数派迎合性や権威服従性といった本能的「社会形成習性」こそが、ヒトから自発的自律判断を奪い、集団組織的に暴走破綻や組織腐敗を招くのである。

 検証予測や想定不可能な事象で事故が起きても、これは天災であって人災ではない。想定範囲を意図的に小さく見積もるからこそ人災になるのであって、「自分の想定が絶対だ。」と妄想するから想定範囲を小さく見積もるようになる。




 他人や社会に猜疑心を持つ前に、まず自分の常識に論理的根拠があるのかを疑うことが先であり。多数派や権威といったものを鵜呑みにしない自律判断こそが社会の安全性に貢献するのである。

 それを「人間性」と言うのである。





Ende;
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戦略。

2013年04月25日 16時03分30秒 | 意識論関連
○戦略。

 「生存戦略。」などというのは頭の悪い生物学者の妄想に過ぎない。

 生物が結果的に生存に適した種に淘汰されているとしても、淘汰されなかったというのは偶発的「結果」に過ぎず。そこに意図的「目的」意識による戦略などというものが介在する余地などない。

 多剤耐性菌の淘汰過程において、菌自体が意識的に耐性を獲得「しよう。」として変異するわけではなく。あくまで結果的に耐性を獲得「してしまっている。」だけであって、菌自体に選択の余地などどこにも存在しないのである。

 そもそも「生存」自体が生物の「目的」であるとは言えず、結果的に「生存」していたものを生物と分類しているに過ぎないことを、多くの生物学者達は忘れているのである。



 ヒトは分類が好きである。

 「あの人は、こういう人だ。」などというレッテルを貼ることで気分的に安心満足することからも、ヒトという種の生物学は断定的規定による分類自体を目的と錯覚する習性があるのだ。

 分類は本来思考を整理するための手段であって、手段自体を目的と錯覚するのは思考の過剰整理に他ならない。

 ドーパミンは思考や行動を整理するが、その快楽というのは機械行動学習的に簡単に過剰整理に陥る性質がある。

 ニューラルネットワークによる人口知能/機械学習というのは、特定の能力を高速にこなすことには長けているが、あくまで機械的条件反射であることに変わりはないのである。

 どんなに言語能力が高く口達者なコミュニケーション能力の高い者であったとしても、それが短絡的に「自律的な社会的責任判断能力。」の論証にならないことと同じである。

 「知能」というものを文科系大衆マスコミが短絡的に学力だのコミュニケーション能力といった断片的な基準だけで測ろうとするのも、「知能とは、こういうものである。」という短絡的機械学習の結果であると言える。

 短絡的機械学習による多数派観念に意識を奪われているからこそ、文科系特有の大衆迎合というペテンが簡単に成立してしまうのである。

 現在の生物学者が「生存戦略」などと称して、あたかも生物の全ては生存のために知能を働かせているかのように形容したがるのも、従来のレッテルを鵜呑みにしている大衆の頭の悪さを利用して現状の組織体制維持のために利用しているのであって。これはいわば詐欺集団と構造的には同じである。

 「自然界は素晴らしい。」だの「生物は賢い」ことにしておけば、バカな文科系大衆の多くは気分的に安心満足して何も論理検証することはない。

 「全てを知り尽くしたような錯覚。」に陥っているからこそ、「自然界は絶対的。」などという観念に囚われているのであって、現在の生物学者の論理検証性の欠落というのは「結果」に対する事後正当化のための断片的論証によって、あたかも「結果」の全てが何者かの「目的」意識によってもたらされているかのようなオカルト観念によって、自分の考えが絶対であると勘違いして満足したいだけなのである。

 科学というのは本来「わかること。」と「わからないこと。」を明確に分別するものでなければならない。それこそ養老孟司のように「わからないなら、わからないなりに、わかったとする。そういうわかり方もあるのかと思って頂ければ幸いである。」などと支離滅裂な話を鵜呑みにするのを文科系大衆観念というのである。

 現在の生物学というのは、「生物は絶対的に最適化されている。」などと言い張るが。絶対的に最適化された生物とは一体なんであろうか。

 常に絶対に環境調和して種の存続や個体の生存に有利な行動を採る生物など実存するであろうか。

 ある特定環境に適応して、その環境において個体の生存だの種の存続だの環境調和に適しているとしても、それは特定環境に依存した「結果」以上の何も論証していないのである。

 「生物の目的は生存。」などと勝手に規定していること自体が現在の生物学のオカルト性なのであり。そこに何ら疑問を持たない時点で科学者としては出来損ないであり、論理検証性の欠如を意味するのである。

 自然は神が意図意識的に作り出したものなどではなく、あくまで自然という偶発性の「結果」に過ぎない。

 どんなに高度な生存のためのメカニズムを獲得しているとしても、それは結果的に生存していたという偶発性の産物に過ぎないのであって。如何なる意図目的も、それに伴う「戦略」も介在しえないのである。

 これを理解出来ない時点で科学者としてはポンコツである。どんなに学力偏差値が高くても、至極当然の理論を理解出来ないというのは科学者としての素養が全く出来ていないとしか言いようがない。




 竹が花をつけて交配し種子を作ったとして、親となる竹林が日差しを遮っている限り種子は成長出来ずに意味を為さない。その結果、種子を作った後に竹林全体が枯れるメカニズムを偶発的に持った種の竹だけが結果的に遺されただけであって。竹自体が目的意識をもって「戦略」として枯れるようになったわけではない。

 数十億年の生物進化の「結果」である現在の高等な生物相だけを観察していれば、あたかもそこに何らかの意図目的が存在するかのような錯覚を抱きかねないのかも知れないが。あくまで生物というのは結果的に生存していた「結果」以上の何も介在する余地は原理的にない。

 「結果」に対して正当化の屁理屈を並べ立てることは科学的論証には一切ならない。それが圧倒多数の文科系大衆やマスコミのご機嫌取りにはなっても大衆迎合以外の何物でもないのである。そして、こうした大衆迎合こそが社会的な科学としての役割の無責任な放棄でもある。




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結果。

2013年04月23日 17時50分54秒 | 意識論関連
○10㏄。

 精液っていうのは一度に出る量が決まっています。なぜだかわかりますか?。

 一人の配偶者に持っている全ての精子を托すよりも、複数の女に小出しにした方が種の保存に適した「結果。」だと考えられるのです。

 ヒトの本能習性や機能といったものは、結果的に生存に適していさえすれば遺されるものであって。そんなものに神の意志が介在する余地など一切ありません。

 これはあらゆる生物全般に言えることです。

 自然界というのは神が作ったものではなく、あくまで自然の「結果」以上の何の意味もないのです。

 生物学者達は自然の結果の全てが常に絶対的に正しい結果を導く完全なものであると論証したがりますが、そんなことは原理的に不可能なのです。

 「神様は最適なものしか作らない。」などという話は大衆迎合に過ぎず、科学者としてはポンコツと言わざるを得ません。

 原発や高速バスを暴走させ、虐殺を繰り返す「ヒト」という種の生物は神が作り出した完全無欠なものなどではなく。あくまでその場限りに都合良く生き残った種の性質が受け継がれているに過ぎません。

 生物史において度重なる大絶滅が発生することからも、これは偶発的な暴走ゆえの結果であって。「生存」という結果自体にも何の保証も存在せず。生物自体、生命自体に「目的」意識など介在する余地など全くないのです。

 「生命は素晴らしい。」だの、「自然は素晴らしい。」などと述べておけば、文科系大衆の多くは気分的に安心満足し、「生物学ならわかる。」などと勝手に科学的論証であると錯覚するが、これは現在の生物学自体が非科学的観念に基づいた大衆迎合に過ぎないからであって、全くもって科学としての社会的役割を果たしていない。

 生物学者達は自然の結果の全てが常に絶対的で、これからも永遠に正しい結果をもたらすものであると錯覚させて大衆の脳を酔わせることで現状の組織体制を維持するというペテンを繰り返しているのである。

 自然の結果が常に正しく、ヒトが完全無欠であるならば、どうしてヒトがこれ程バカなのであろうか。どうして何度も同じ過ちを繰り返すのであろうか。

 ヒトという種の生物が作り出される進化過程において、そこに神が介在する余地など一切なく。あくまでその場限りに都合良く生存していた種の遺伝要因が遺されたに過ぎない。

 すなはち、どんなにバカでも残虐でも「生きて」いさえすれば構わない。それが自然の「結果」というものの正体であり、こんなものに「神の意志」が介在する余地などあるわけがない。

 ヒトが権威や多数派に服従迎合して暴力的差別排除を行う性質があるのも、加害者に回った者の方が生存に適した「結果」であると言える。

 つまり、加害者の遺伝要因しか遺されていないのであり、ヒトというのは罪人の子孫、罪人の遺伝要因を持っているものなのである。ヒトという種の生物自体はサルやイヌと同じ「動物」に過ぎず、結果的に生存してさえいれば「生物」として存続することが可能であり、こうした「結果」だけを採り上げて絶対視するというのは言い換えれば「犯罪の事後正当化。」にしかならないのである。

 自然というものは常に不完全なもので、その場限りの「結果」以上の何物ももたらすことはなく。「神の意志」などという「完全無欠な目的方向性。」など介在する余地は全くない。

 野生に「罪」などという概念が存在するはずもなく。単にその場限りに気分的に嫌か好きかといったバイアスしか大脳辺縁系はもたらすことはない。だからこそヒトは原発の危険性を放置したり、戦争だの虐殺を繰り返すことに陥るのである。



 自らの頭の悪さを認識することを、「プライドが傷つく」などと称して拒絶する習性がヒトにはあり。「プライド」などという気分的満足ばかりを追求しているからこそ、ヒトはバカから脱することが出来ないのである。

 振り込め詐欺師に騙された者の多くが、「自分だけは大丈夫だと思っていた。」などと証言することからも、自分の頭の悪さを認識することを観念的に拒絶しているからこそ騙されるのである。

 「自分を完全無欠の絶対神か何かだ。」とか「ヒトは神様が作ったものだ。」などと勘違いしているからこそ、ヒトはいつまでもバカが治らない。ヒトという種の生物は他者を出し抜き蹴落とし差別と暴力の結果によって淘汰されたケダモノの子孫に過ぎないのである。

 「ヒトは素晴らしい。」などと称して生物種としての事後正当化の満足に溺れているからこそ、ヒトはいつまでも自分達の危険性や愚かさを認識することが出来ず。「プライド」などという身勝手な気分的満足ばかりを追求し続けるのである。

 ヒトとはバカで暴力的な生物であるという前提に基づき、その危険性を認識しなければならないのである。そこに「プライド」などという観念論はクソの役にも立たないばかりか、害しかもたらさない。

 いつの間にか「だ、である」調になっちゃったけど、くだらない観念に執着していることは無責任な社会的犯罪行為であると認識しなければならないのである。

 「ヒトという種の生物は愚かで暴力的である。」とか、「お前さんがたの主張するプライドなんぞ、鼻クソだ。」などと言えば大衆人気が得られないのは充分承知の上である。本論は大衆迎合ではなく、あくまで社会持続可能性と安全性を追求することを目的としているのであって。その場しのぎのバカのご機嫌取りなど、どうでも良い些末な話に過ぎないからである。

 「生命は素晴らしい。」だの「ヒトは平和的である。」などと言っておけば、バカな大衆の多くのご機嫌取りになり人気を得ることが可能であろう。だが、こうした非科学的大衆迎合で満足して論理検証を放棄しているからこそ、「これさえやっときゃ頭が良くなる。」的なエセ脳科学で満足し、あらゆる「人災」に対する根本的対策が全く進まないのである。

 おいらの説明が下手くそなのはわかっている。それはおいらの頭の悪さに起因することもわかっているが、説明するスキルを向上させるつもりは特にない。バカで困るのは一義的にはおいら個人ではないからだ。

 それでもバカが多いと社会全体の損失になり、結果的においらも放射性セシウムなどの被害を被ることにもなるので、面倒臭いし不本意だけど下手くそな説明を続けているのである。

 それは非常に「微力」ではあるが、それを行使することを放棄するつもりは今のところない。

 気分を害する話に対して、「心がない。」などと形容したり。「人間としていかがなものか。」などと実証不能の大衆観念を振り回すのは簡単であろう。それならバカには「心」があるのか、大衆迎合で人気取りをしておけば「人間」性の証明だとでも言うのであろうか。

 何も「考え」ずに多数派大衆迎合に意識を奪われているからこそ「人間」としてポンコツなのである。







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 ちなみに「10㏄」というのは3人合わせての量を意味するらしい。


Ende;
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遅い。

2013年04月19日 15時27分36秒 | ネタ帳

○ノンフライヤー。

 フィリップスのノンフライヤーって、取り扱いも簡単そうだからコンビニでも導入すれば店員さんの負担も減って良いのではないかと思う。安全性も高そうだし。

 四月下旬発売で2万9800円

 業務用に大型化してもフライヤーよか安くつくれそうだし。

 揚げたまま忘れたりしてもタイマー式だから焦げたりしないし。

 日曜芸人でベッキーちゃんが絶賛してから随分時間がかかっているけど、フィリップスって仕事遅いな。

 そもそもコンビニって店員さんの仕事が多過ぎるんじゃないかと思う。揚げ物固有の付属品をつけ忘れたりするのも一概に店員さんだけの問題じゃないと思う。

 そういえばLチキに付属していたスパイスって、いつの間にか廃止になったんだね。

 Lチキで思い出したけど、セブンイレブンのフライドチキンは肉は厚いけど硬くてパサつき気味なのに165円でガッカリした。巷ではファミチキがおいしいって話だけど、コロモはサクサクしているけど肉の柔らかさではLチキの方が上回っていると思う。お店固有の調理技能とかも関係するのかも知れないけど。

 そういえばイトーヨーカドーのPBソーセージステーキがおいしいので、これにコロモつけてノンフライヤーでこんがり焼いたのセブンイレブンで扱ったら人気出るのではないだろうか。

 コンビニ向け業務用フライヤーの企画も遅いのかなフィリップスって。



Ende;
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ファインテック2013。

2013年04月19日 15時22分42秒 | ネタ帳
○FineTech2013。

○トチュウエラストマー

http://www.hitachizosen.co.jp/news/2013/04/000837.html

 日立造船株式会社がトチュウエラストマーっていうのを出展してたんだけど、「トチュウ」ってどっかで聞いたことあるような気がしてググってみたらお茶だった。

 有機化学的にはトランス型ポリイソプレンっていう樹脂になるそうで、硬質ゴムっぽい硬さの軟質樹脂。

 ユニークなのは低温熱可塑性つって融点が63℃だとか。

 63℃っていうと、湯煎にするまでもなく、多分ドライヤーでトロトロに溶けちゃうんだと思う。型取り材料としても使えるかも知れない。

 精製原料状態はとろろ昆布状態。一旦溶かして塊にすると褐色透明になる。

 分子量が100万程度あるので、多分溶けてもベトベトなのではないかと思う。細い糸状にするには適しているのかも知れない。予測の範囲だけど。

 溶剤としてクロロホルム、トルエン、テトラヒドラフラン、ベンゼン、ヘキサン、エーテルが挙げられていて、テトラヒドラフランは塩化ビニールの接着剤としてホームセンターでも市販されているけど、最初から塩化ビニールが混ざっているタイプだとダメかも知れない。板橋区にある前野合成とかで原液買えば良いのかな。

 植物由来のバイオポリマーなのでカーボンニュートラル。



 プラスチックの特性表にはよく「ガラス転移点」っつうのがあるけど、「ガラス」っていうのは分子結合がランダムな状態を指すそうで。いわゆる珪酸ガラスとかのガラスっていうのは固体でもガラスなのでガラスというらしい。

 説明が下手かな。そもそも正しい知識なのかどうかも怪しい。




○アンフィニソレイユ

 日本信号っていう会社名は、踏切の遮断機などの鉄道関係の機器類で鐵系のマニアには有名なんだろうけど、今回は3次元形状認識センサーっていうのを出展していた。

InfiniSoleil
http://ecoscan.jp/


 赤外線レーザーを用いて粗い赤外線画像を表示すると同時に、画素一つ一つに距離情報が含まれていて、30cmから5m(Max15m)までの立体深度を画像として表示出来るそうです。

 InfiniSoleilの技術の素として、既にECO SCANっていう空間センサーが商品化されていて。新幹線のホームドアに使われているとのこと。MEMS技術利用の角度可変ミラーを用いているそうで、シリコン基板にトーションバー(ねじれバネ)を形成することで鏡の角度を自在に変えられるんだとか。最大でミラーサイズ5×6㎜、光学角±34度まで制御出来るものが製品化されている。(ちなみに「±」の区点コードは0162。)

 基本的に赤外線ミラーなので金ミラーなんだけど、銀ミラーにできたらカメラの手ブレ補正に利用可能だったりするかも知れないね。赤外線カメラならそのまま使えるのかも知れないし。

 赤外線望遠カメラ商品化したら学術記録や盗撮に需要があるんだろうな。



○ミラバケッソ

 クラレが医療用内視鏡カテーテルに使う光ファイバーを紹介していて、6,000本のポリスチレンのコアをアクリルのクラッドで固めて6.1μmの太さまで延伸させてあるとのこと。(外径は0.5mm)極細ファイバーの断面に6,000画素の映像を映し出すことが出来るんだそうです。

 さらに10,000画素、素線径4.6μm、外径0.8㎜のものも開発中。

 従来のガラス系ファイバーと異なり、曲げに強く柔軟性が高いらしい。

 そもそもポリスチレンってそんなに透明度が高く出来るものだったんだ。多分精製プラント自体をクリーンルームにするなどの大規模精製施設が必要なのかも知れない。

 光ファイバー製品は他にも放射線測定やに応用できるシンチレーションファイバーとか波長変換ファイバーなんかも展示していた。

 確かフッ素化合物ガラスの光ファイバーに光を通すと波長が長くなる性質があるって話をきいたことがあるようなないような。この性質って白色LEDの波長域の平坦化に応用できないのかな、波長域が平坦な照明っていうのは美術関係や印刷関係で需要が見込めると思うんだけど。



 ちなみに姪はクラレのTVCMを見て、「これファービーだよね。」って言ってた。



○超撥水

 SCiVAXって会社がモスアイ加工ガラスに超撥水効果があると紹介していた。

http://www.scivax.com/nil/sample_products.html

 接触角150度以上とのことなので、雨の日の屋外動画ロケでカメラレンズに水滴がつくのを防ぐのに使えるかも知れない。

 水滴が小さくても撥くように超音波振動と組み合わせたら効果的かも。

 もしかするとモスアイ構造のフィルムはメーカーに関わらず全部超撥水効果があるのかも知れない。

 実は以前別の会社から高親水性フィルムのサンプルを貰ったことがあるんだけど、知らない間に親水効果がなくなってしまっていて、どうも親水性ポリマーっていうのは耐久性に難があるのかも知れない。

 プラスチックフィルムは比較的安価なものだからその都度購入しても良いんだろうけど、まとめ買いをすると痛い目に遭うかも知れない。




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 新木場のハシケがだいぶ沈んで来た。

Fig:

 上の写真の奥に黄色い物体が浮いていて、隅田川造船のものらしい。

Fig:

http://www.sumidagawa.co.jp/menu.htm






Ende;
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蜜の味。

2013年04月19日 15時16分53秒 | 意識論関連
○他人の不幸。

 「他人の不幸は蜜の味。」と言われる。他人を不幸に陥れると、その他人と比較して自分が優位になったような錯覚によるものである。

 実際にはヒトはサバイバーズギルドのように目の前で他人の不幸を目撃してしまうと、生き残ったこと自体に罪を錯覚したりする性質もある。

 他人の不幸に快楽を感じるのは、目先の比較優位性による錯覚に過ぎず。本質的な自己内部の楽しみとは無関係であるため、酒や薬物などで脳を麻痺させ本質的意識を遠ざけようとするのである。

 「悪銭身につかず。」と言われ、悪いことをして得た金銭というのは下らないことで散財しないといられない性質もヒトにはある。

 他人との比較優位性でしか快楽を感じられないというのは、「他人との比較」という環境依存的快楽に過ぎず。そこには本質的自己の純粋な快楽を伴わないため、麻薬常習的にエスカレートしてしまう性質がある。

 こうしたエスカレートというのは、それが気分感情バイアスによる無意識な行動であるが故の暴走性であり。脳内麻薬が促す行動バイアス(無意識)の奴隷に過ぎない。

 ヒトの社会というのは他人との調和互助によってのみ持続可能性や安全性が確立されるものであって、他人を不幸に陥れていればこれが崩壊することは本当は誰でも「知って」いるのである。だからこそ悪人というのは自滅暴走から逃れることが構造原理的に出来ない。

 相互に他者を陥れる社会に持続可能性がないことは、余程の知能障害でもなければ大抵誰でも「理解」可能であり。こうした論理性/意識を遠ざけるために暴飲暴食だの薬物依存といった逃避行動に破綻暴走「しなければならなくなる。」のである。

 自律的に社会的責任を負わないというのは、自分が生活する社会の安全性や持続可能性を他人任せにする社会的「甘え」であり。こうした無責任性というものは個人から本質的自発性が失われていることから生ずるものである。

 ヒトに限らず生物学的「社会性」を持つ種の生物には、集団内部においての優位性によって遺伝要因が遺る習性があり。その集団が環境に依ってはシエラレオネのゲリラのように残虐な集団ほど「生存に適する。」ため、より残虐な集団を形成する種へと淘汰されているとも言えるのである。

 実際に野生に暮らす原住民の多くがこうした残虐さを持たないのは。結果的に残虐性の高い民族は生存繁殖にはあまり適していないからである。特定の環境においては残虐性は生存に価するのだが、その特定性が非常に狭いことによる結果であり、残虐な集団には持続可能性が低いことの証明でもある。

 その意味においてヒトの多くは残虐性が低い種へと淘汰されているとも言えるのだが、これは傾向性や程度問題に過ぎず、絶対に残虐な行動をヒトが採らないことの論証には全くならない。特定の行動だけを抽出して「ヒトは残虐ではない。」などと勝手に結論付ける社会心理学者というのは、目先のバカマスコミ大衆からのウケ狙いに血道をあげて科学的証明を放棄しているペテンに過ぎない。

 「ヒトは残虐ではない。」と結論づけてしまえば、ヒトの暴力性に対しての研究は行われなくなるのは当然である。これは科学としての怠慢であり社会的犯罪でもある。

 イジメ体罰暴力といったものがなくならないのも、ヒトの残虐性の証明であり。先天的個人差や成育環境によっても異なるが、ヒトには暴力性残虐性といったものが切り離すことが出来ない。

 現代日本社会だけを見ればヒトの多くは残虐ではないが、ほんの数十年前までは暴力による覇権争いが行われていた種であり。生物種としての淘汰変異はヒトの世代交代単位から見て数万年以上必要とするものであって、中世におけるヒトの暴力性は現代のヒトにも受け継がれていることに反論の余地などない。

 故に「他人の不幸は蜜の味。」などと言う話が出てくるのである。蜜は甘いが採りすぎれば毒である。正当な競争以外に他人を不幸にすることは自分の健康も害することになる。

 ヒトの残虐性というものは実在し、それは環境依存的な無意識的行動バイアスによって生ずるものであり。意識という自発的論理検証性が伴わなければヒトは人間ではないのである。



 個人的純粋行為であっても一種の「錯覚」ではある。所詮は脳内麻薬がもたらす快楽であることに変わりはないが、他人との比較を伴わず社会的には外見上禁欲的で社会との調和性の高さをもたらすのである。

 他人との比較に明け暮れている限り、本質的な自己内部の充足は得ることが出来ないため。破綻暴走的に他人の不幸を求めるようになり、その典型が無差別殺人犯という末路に至るのである。

 無差別殺人犯が少なからず学生時代に学力偏差値が高いのも、学力成績という価値観だけを鵜呑みに絶対視する短絡性に基づいた、「飴と鞭」への条件反射的無意識行動バイアスの結果だからである。

 ヒトは自分が今まで採ってきた行動を事後正当化しようとする性質がある。これは自分の過ちを認めたくないという拒絶反応によるものであり、自らの頭の悪さを認識「したくない。」という気分感情的思考バイアス/思考拘束が働くからである。

 自己の行動の論理検証というのは、本質的自発性がなければ働くことはない。「バカにつける薬はない。」のはそのためである。薬物ではバカは治らず、あくまで意識(自己論理検証性)によって「変わる」のが意識であって、変わらない意識は無意識に過ぎない。



 バカであることはアヘンである。

 バカでいた方が大脳辺縁系が楽であり、思い込みだけで行動が決定していれば何も「考え」ずに済むからである。

 ところがヒトの多くは自分の思い込みを自分の「考え」だと錯覚勘違いする習性があり、思い込みを思い込みであると認識出来ずに自分自身で選択した行動の結果であると勘違いする習性がある。

 自分の意識の全てが自分の論理検証性によって把握出来ているものであると、ヒトの多くは勘違いするのである。

 10回クイズというのがあって、「ミリン」と10回言わせた後に、「鼻の長い動物は。」と問うと、「ミリン」につられて「キリン」と答えがちな性質を利用したトリックの一種である。

 ジャンケンの前に相手から両手で強く握手されると「グー」を出しがちなのも無意識が促すものである。選挙で立候補者がやたらと握手を求めるのも、それによって観念的な親近感という錯覚を植え付けるための手口である。

 このようにヒトの行動というのは、そのほとんどが無意識的条件反射行動に支配されているものであり、意識=論理検証性というのはヒトの意識の1割にも満たないのである。

 ましてや環境依存的な外見的優位性という無意識的思考バイアスに意識を奪われていれば、本質的な自発性は失われて自己論理検証性は全く働かなくなるのである。

 自律とは自発性の中にあり、他にはない。環境依存的強迫観念に意識を奪われていれば自律が働かないのは必然的結果なのである。

 自発性の喪失というのは成育環境において他者との比較による均質性への強迫観念によって、他者との比較に意識を奪われてしまうことが原因である。

 ヒトは集団内部において他者より優位に見られたい習性があり、それによってより多数からの協力や統率協調性を得ることが出来るからである。だが、それは生存価には適していても社会全体の持続可能性や安全性の確立には直結するものではない。

 ヒトは生物であるから、現実には社会持続可能性を求めるようには出来ておらず。目先の快楽を追求するようにしか大脳辺縁系は出来ていないのである。

 コカイン中毒患者のように、脳というのは快楽を優先するだけの臓器であって、人間としての論理検証性というものは大脳が肥大した結果的に不随したオマケのようなものでしかないのである。

 生物本能的にオマケであっても、これを放棄して良い理由には全くならないばかりか。むしろこれこそが人間として最も重要な「知能」なのである。

 社会持続可能性や安全性に配慮が伴わない限り、あらゆる特定能力は人間としての本質的知能とは言うことが出来ない。

 ネズミやイヌの行動から断片的に特定能力を抽出しても、それは人間としての本質的知能の論証には全くならないのは当たり前の話である。ネズミに原発の運転を任せておいたからこそ福島は放射性セシウムまみれにされたのである。

 振り込め詐欺師がどんなに高度な「知能」を発揮しても、それは「ネズミの知能」に過ぎない。スーパーコンピュータがどんなに高速演算を出来ても原発の運転を任せられないのと同じことで。特定の能力の高さだけを挙げて人間としての本質的「知能」であると言い張るあらゆる研究者達は、従来の見解を事後正当化することによって権威体制を維持することだけを目的とした言い逃れ/取り繕いによって保身に血道をあげているのである。

 これを腐敗と呼ばずに何と形容するのであろうか。



Ende;
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報復アプリ。

2013年04月19日 15時15分32秒 | 日記
○報復攻撃。

 振り込め詐欺師の電話番号に不特定多数から一瞬だけ非通知コールするアプリをこさえてみんなで一斉に実行したら封じ込めが出来そうな気がする。運悪く相手が出ちゃった際の電話料金をどこかの企業で宣伝費として提供してもらえば良いかも知れない。

 そのためには先ず振り込め詐欺師の電話番号をネット上で共有する必要性がある。ただ、詐欺師でも何でもない相手を攻撃しないようにするための対策も必要になるな。

 何十件かの振り込め詐欺報告によって多数決で攻撃対象を特定すると良いのかな。

 サイバー攻撃というものをクラッカーの専売特許にしとく必要性はないと思う。

 スマホだったら既に判明している電話番号からのコールなら自動的に録音して警察に通知するようなアプリがあっても良さそうな気もする。警察なら怪しい電話番号は一括して把握しているはず。

 ただ、アプリ全般に言えるんだけど、ダウンロード警告をキチンと確認してからロードする必要がある。一瞬だけ非通知コールするアプリに「個人情報」も「位置情報」も必要ないのは当たり前だからね。

 報復アプリだからって必ずしも善人がこさえているとは限らない。むしろこの記事読んで振り込め詐欺師が利用する可能性の方を考慮に入れておいた方が良い。

 とは言え、制作者の名前を載せる訳に行かないだろうし、ややこしいかな。



Ende;
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ですます調。

2013年04月19日 15時13分44秒 | 意識論関連



 マズかった食べ物の記憶は強烈に記憶に残るんだけど、美味しかった食べ物の記憶っていうのは残りにくい。

 動物の脳というのは先天的に嫌な記憶は強烈に残るように出来ていて、それに対して良かった記憶はあんまり残らないように進化的に淘汰されてしまっているのです。

 本能的、生理的な好き嫌いバイアスというものが、偶発的たまたま「生存」に適していた種の遺伝子が淘汰によって遺った結果であって。本能の全てが必ず生存に適していることの論理的証明など存在しません。

 先天的本能習性というのはあくまで概ね生存に適した行動バイアスを促す傾向性を持っているだけであって、本能習性の全てが絶対的必ず生存に適するという科学的証明など存在しません。

 動物的行動学習というのは機械学習に過ぎないので、意識的に選択することが出来ず、反射的に記憶バイアスが決定してしまうものであって。論理検証的根拠の必要性がありません。それは意識的目的行動選択にはならないのです。

 ヒトに限らず脳というのは嫌なことを忌避するように出来ていて、これが論理検証的な意識的行動選択を阻害する性質があります。

 多数派同調バイアスというのは、多数派が行っていることに安心し、少数派が行うことを反射的に忌み嫌う性質のことであり。あくまで気分感情が促す機械的行動バイアスに過ぎません。



 自分の遺伝子は自分では選択不能ですから、自分の脳の構造に由来するあらゆる行動バイアスは自己の意識的選択を介しているわけではなく。あくまで遺伝的に遺された本能習性の「結果」以外の何物でもないのです。

 遺伝的要素に限らず、ヒトは自分の産まれてきた社会も時代も自分では選択しておらず、従って社会や時代から受けてきた好き嫌いバイアスの刷り込み機械学習の結果というのは本質的には自分の「意志」でも何でもありません。

 こんなことを言うと、文系のヒトの多くは観念的に「自由意志など実存しない。」などと短絡的な結論を導き出す傾向があるようですが。これは思考停止によって論理検証を放棄するための逃避に過ぎません。

 ヒトの意識の9割以上は無意識であり、先天的行動バイアスや後天的行動学習の結果、機械条件反射的に決定した選択によって行動が決定「しがち。」な傾向があります。でも無意識というのは10割ではない。

 ヒトの脳というのは他の動物に比べると大脳容積が大きいので、結果的に多少の論理検証性も可能ではありますが。個体差はあれ本質的な意識的目的行動選択というのは非常に希薄な傾向があります。

 現在の生物学者達が主張する「潜在知」などと称する無意識な行動バイアスを意識的目的であるという主張には論理的根拠が全くなく。非科学的な寝言に過ぎないのです。



 ヒトが自発的論理検証を出来なくなるのは、そこに心理的余裕が失われているからであって。強迫観念的拒絶に意識を奪われていることによって自発的ではない環境依存的/外的抑圧に思考を拘束されてしまうのが原因です。

 振り込め詐欺の手口というのも、被害者を感情的に煽って焦らせることによって論理検証性を喪失させるものであり。先天的な脳の「焦る」という性質を利用しているわけです。

 「焦る」とか「ビビる」といった習性は、本能生理的に嫌なものから逃れようとする行動バイアスであって。これは動物的には非常に強烈に働く傾向があります。

 ヒトの多くは本能習性的に騙されやすい傾向がありますが、こうした習性までもが生物的に絶対「生存に適している。」というものではありません。

 お化け屋敷というのは商業的に実質的危険性を全く伴わないものであるにも関わらず、ヒトによっては異常に恐怖を感じることがあります。タレントの芹菜さんは典型ではないでしょうか。わざわざ自腹を切って怖がりにお化け屋敷に入るというのは論理的には支離滅裂な行動なんですが、これは個人的な好き嫌いの範疇ですから自由というものです。

 問題となるのは個人的好き嫌いの多数決を、あたかも「人間として正しい。」行動選択であるかのように錯覚する性質であって。これは論理的には「多数のヒトの傾向性。」に気分的に安心しているに過ぎず、こうした気分的行動バイアスこそがイジメだの多数派同調などといった非人間的行動の大きな原因ともなってしまうのです。

 「カッコイイ。」というのは、いわば「格好悪い。」ことに対する異常なまでの拒絶反応が作り出す価値観であって。「カッコイイ。」ことをどんなに追求しても社会安全性にも持続可能性にも寄与しないことは明らかであるにも関わらず、ヒトの多くは格好外見に異常執着する性質があります。

 格好外見に対する拒絶反応というのは、成育環境によって大きく異なるものであり。その土地の「文化」に根差すものに過ぎず、実質的には個人の主体的「選択」を介さない多数派同調に過ぎないのです。

 「人は見た目が9割。」なんて言いますが、これはヒトの意識の9割以上が無意識であることの証明でこそあれ、見た目外見が人間の価値であることの論証には全く無関係です。客商売のように第一印象と売上が直結する話においては有効ではありますが、これはあくまで個人的利益/世間的成功に関わる話であって、社会安全性や持続可能性を確保するものではありません。

 東電社員や天下り官僚がどんなに体裁を整えていても、実態には関係がありません。



 本論は多くのヒトにとって気分が悪く、拒絶反応を生じやすい傾向があるようですが。それは産まれてから一度も「考え」たことのない話に「馴れて」いないからでしょう。

 「馴れて」いないことに生理的拒絶反応を示すのは、とても「自然」なことです。その「自然」というものが常に必ず社会持続可能性や安全性を確保してくれるものではありません。

 ガリレオ:ガリレイの地動説と同様、ヒトというのは馴れていない話を受け入れるまでに時間期間を要するにことがあります。「馴れ」というのは気分的安心であって、本能生理的拒絶反応の有無に過ぎず、論理的危険性の論証とは無関係なのです。

 ヒトの脳というのは安全無害なものに恐怖を「感じ」、拒絶反応を示すのと同時に。危険なものに安心して「馴れて」しまう性質も同時に持ち合わせているため、ヤクザだのテロリストだのイジメ集団やゲリラ組織に簡単に迎合してしまうものなのです。

 自分が所属している社会が絶対的に安全であると、ヒトの多くは勘違い錯覚する傾向があります。だからこそ自国の軍備増強には安心するのであって、軍拡競争というのは国内部の価値観によって激化暴走するものなのです。

 特攻隊というのは、いわば当時の社会環境が作り出した錯覚の犠牲者ではありますが。「特攻隊が国を守った。」というのは当時の社会環境が作り出した錯覚すらも正当化する戯言に過ぎません。

 アメリカが原爆投下や無差別爆撃を「戦争を終結させるため。」などと称して正当化するのと構造的には全く同じものであり。これは北朝鮮が核武装する論理と何ら違いはないのです。

 現状社会において抑止力は必要ではあります。ヤクザ相手に警官に丸腰で立ち向かえと言うのは単なる無茶というものであって、それなら「警察官が核兵器を保有したら通り魔がいなくなる。」という話にはならないのです。抑止力というのは現状世界における「対処」ではあっても根源的解決には全くなりません。平たく言えば相手に対する「脅し」に過ぎないのです。

 ましてや「対処」をシステム化した司法法律制度を目的と勘違いするのは、思考停止のバカげた錯覚に他なりません。「対処」とは「手段」であって目的ではないことを、ヒトの多くは簡単に勘違いする傾向があります。「規範意識」などという観念も、あくまで論理的に自律検証出来ない幼児に用いる方便であって、本来個々個人が自律的に社会安全性を論理検証するように育てることが教育の目的でなければならないのです。

 個人が自律的に論理検証するためには、川島隆太的に脳トレで「鍛える」のは逆効果であり。むしろ自主的に問題に挑む主体性を育むことが重要なのです。

 振り込め詐欺に引っ掛かる人達というのは、要するに相手のご機嫌を損ねないように「しつけ」られた従順な人が、詐欺師の話に無意識に「つられて」しまうことによって荒唐無稽な話を鵜呑みにさせるのであって。相手からの印象を気にすることだけに意識を奪われているからこその結果なのです。

 振り込め詐欺に引っ掛かる人というのは、相手のご機嫌を損なわないように脳が「鍛え上げられた。」人なのです。

 脳を鍛えるというのは動物的な機械的行動学習に過ぎません。強迫観念的に思考を拘束されたまま特定能力さえ獲得できれば全てが解決するという短絡性こそが、脳がバカになる最短ルートなのです。

 F1レーサーになるための英才教育学校の生徒達は、エンジニアとの会話を目的とした英語能力を習得しているため、学習意欲が非常に高く。これは普通の学校における成績評価との引き換えで行われる英語教育とは根本的に異なり、個人の主体的「意思」動機によって養われているからであって、こうした主体性というのは数学でも同じことが言えます。

 写真や天文学に興味を持つ生徒なら、レンズ光学に関する数学に興味を持つでしょうし。具象絵画や3Dゲームに興味を持つ生徒なら遠近法に関連する数学に興味を持つはずです。鉄道に興味があれば緩和曲線の計算方法に興味を持つでしょう。

 主体的動機(純粋な興味)に基づいた学習というのは、教師が噛んで含めるように教え込まなくてても、教材さえ作っておけば生徒は勝手に覚えるものです。教育の目的というのは生徒の自主的興味に応えることであって、生徒の学力を揃えることではないのです。

 生徒が社会に出て生活するにおいて、学力が他人と揃っていることに意味があるでしょうか。むしろ突出して「その人にしか出来ない能力。」があるからこそ、社会から必要とされるのです。

 クソゲーの作り方を学校で教えてくれないでしょ、だから景気が悪いんですよ。グラビアアイドルの仕事だって芸人の仕事だって学校では教えてくれません、現状経済の要求に学校が応えていないからです。笑いというものを脳科学的に検証する学問があっても良いはずで、笑いというものが免疫力を高める医学的有益性を持っているんですから学校で教えても罰は当たらないでしょう。

 ゲームだって芸術性が高ければクソゲーとは言わないんでしょうから。おいらはゲーム自体に興味がないので芸術性の高いゲームがどういうものなのかは知りませんけど。「クソゲーとは言わせないぜ。」という気概があれば、ゲームプログラマを目指すのもアリなのではないでしょうか。クソゲーがクソゲーたる所以とは、ユーザーの無意識的心理バイアスを利用して金儲けばかりを追求しているからであって。ユーザーに本質的満足感を提供しておらず、焦燥や虚無感しか残さないからです。

 現在の教育というのは、生徒を有名大学に合格させることだけが教師の評価成績として扱われますが。これは極めて断片的な評価基準に過ぎず、東大を卒業してギャンブルに明け暮れたり、天下り役人だの無責任な東電社員を育てたり、ましてやカルト宗教の幹部を育成していたのでは社会的には犯罪に過ぎないのです。

 単に学術権威であるというだけで権威性を鵜呑みにしているからこそ、教育が腐敗するのです。科学は本来学術権威だけの専売特許ではなく、誰でも間違いを指摘して構わないものであり。指摘を甘んじて受けない現在の生物学というのは科学としての社会的役割を放棄していると言えるのです。

 「弁証法」というものを、「言い逃れ」や「話のすり替え」にすり替えるのが文科系大衆観念者の手口であり。ペテンの手法でもあります。こうしたすり替えが可能なのは聞いている方の自律的論理検証性の欠落によるものであって、平たく言えばバカだからです。

 生物学の多数の生徒達というのはバカしかいないからバカ教授の嘘や間違いを指摘出来ないのであって。間違った知識を鵜呑みにしておかないと成績評価に関わるという理由で組織に迎合していると言えるでしょう。

 それって「頭が良い。」と言えるんですかね。





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空気圧。

2013年04月19日 15時12分11秒 | 意識論関連
○空気。

 文系の人間はイジメの原因というものをやたらと「空気のせい。」にしたがるんだけど、「空気。」だとかいう具体性のない抽象化された概念に落としこんで思考を停止したいだけなんじゃないのかね。

 この場合における「空気。」とは、要するに個人の気分感情による行動バイアスが作り出すものである。意識していないからこそ「空気。」と形容するのである。それが多数である場合に「空気。」などと抽象化されてしまうのであるが、現実にはあくまで個人の気分感情が作り出すものであることに変わりはない。

 他人の顔色をうかがいたがるのは、ヒトの本能的行動習性である。多数派同調バイアスというのは多数派に同調していさえすれば「恥ずかしくない。」ことを優先することによって、これを論理的安全性と勘違いさせる錯覚を促す。

 ヒトは「恥ずかしい。」ことを異常に忌避する習性がある。

 実際には人畜無害なことであっても、多数派からの外見的評価に対して異常な強迫観念を「感じる」のである。

 これは同時に、社会的危険性を含む事柄であっても目先の多数派に同調することで危険性を放置する原因でもある。

 文系マスコミは「空気。」だとか言っておけば個人の判断が放棄出来るとでも思っているのかね。それこそ大衆迎合であり、マスコミとしての社会的責任放棄に他ならない。




Ende;
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パウエリズム。

2013年04月19日 15時11分01秒 | 意識論関連


 NHKアーカイブズでイラク戦争関連の話を放送してたんだけど、イラク開戦時にパウエルがCIAから嘘の情報を吹き込まれたことが戦争の引き金になったのだと言う。

 どんなに優れた指導者であっても、部下が嘘を吹き込んでしまえば意味がない。

 北朝鮮の金正恩の場合も同様なのではないだろうか。

 極端な話オウム真理教の麻原も、組織幹部による組織の正当化によるウケ狙いを目的としたでっちあげを鵜呑みにした結果としての暴走に過ぎない。

 なので、麻原自身に「なぜテロを命令したのか。」の理由を聞いても、麻原自身も「わかんな~い。」のである。

 虐待とかイジメの激化においても、実行している主導者や集団内部の個人も、誰にも目的など存在しないからこそ破綻暴走にまで至るのであって。気分感情という無意識に流されている限り目的も意識も働いてはいないのである。

 意識というと、大衆観念上や現在の生物学上では情動バイアスの大きさを指しているものであると勝手に勘違いしているが。情動バイアスというのは大脳辺縁系が勝手に作り出す機械条件反射に過ぎず、主体的意志を持った人間個人の行動選択ではない。

 自分にとって気分の良い話だけを鵜呑みにしていれば論理検証性が失われるのは必然である。警察や検察による冤罪というものも、彼らにとって気分の良い話、すなはち逮捕者が犯罪者である証拠だけを都合良く選択しているからこそ冤罪が生まれるのである。

 一旦逮捕した被疑者が犯罪者ではないとなれば誤認逮捕になるため、既に逮捕した被疑者は何としても犯罪者に仕立てあげなければ業績に関わることになるので、真犯人かどうかなど警察や検察にとってはどうでも良い話になってしまうのである。役所が一度決めたプロジェクトを変更できないことや余剰予算返納を忌避するのも、既に決定した事項を事後正当化しておかなければ個人の業績に関わるからである。



 北朝鮮においても金正恩のご機嫌を損なうような話を無視し、問題の全ては相手国というご都合主義的「解釈」によって全てが決定してしまうのである。

 まあ、でも金正恩氏が自律的に論理検証して部下から提供される情報を選択していれば、部下から嫌われて暗殺されるのがオチであろう。これは学校でのイジメにおけるイジメ対象の相転移と同じである。

 それまでイジメによって共通の「敵」排除対象を攻撃することで多数派迎合していた者が、ある日突然イジメを止めるように促せば「裏切り者」として多数派の気分を害することになり、逆にイジメの対象となってしまうのである。

 イジメの場合は監視カメラを設置するなど、衆人環視状況を作っておけば抑止は可能である。ただし、これはカメラや問題意識のある大人の目が届く範囲における対処的対策に過ぎない。

 振り込め詐欺師集団や北朝鮮指導部に監視カメラは設置出来ないからだ。

 だからこそ教育というのは個人の自律を育むことが重要なのであり、「規範意識」的な権威服従性の刷り込み学習では社会の根源的安全性の向上には寄与しないのである。

 「難しいから、やらない。」というのであれば、これは大人の社会的「甘え」に他ならない。こうした社会的「甘え」こそが、あらゆる「人災」の最も根源的原因であり、これを放置するのは社会的犯罪なのである。






Ende;
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暴走。

2013年04月19日 15時09分49秒 | 意識論関連
○暴走

 北朝鮮が何を目的にしているのかは知らないが。

 多分何も目的はない。

 太平洋戦争の時に「天皇陛下のために。」と称して、半ば自暴自棄に国家的暴走をしたのと同じで、「金正恩同志のために。」命懸けで何らかの「成果」を達成しようとしているだけであって。

 その「成果」っていうのの結果が戦争だろうと破綻だろうと、誰も責任を取るつもりはない。

 ヒトという種の生物が持つ本能的な社会形成習性っていうのは、ことほど左様に個人から自律的な社会的責任判断というものを不具にしてしまうものなのである。

 本能由来の行動バイアスの結果的行動というのは、個人が自律的な論理検証によって選択したものではなく。これは「意志」でも「目的」でもない。

 ヒトの多くは自分の意識というものが全て自分自身の論理検証的選択に基づいて行われているものだと勝手に錯覚する性質があり、実際には意識のほとんどが無意識的条件反射に過ぎないことを認識出来ないばかりか、むしろ認識することを拒絶する傾向があり。

 そのため生物学上では「潜在知」などと称して無意識な行動バイアスすらも個人の主体的意志であるかの如く論じており、それは「通り魔の行動選択」や「虐待の連鎖」までをも個人の目的行動選択によるものであると規定するのと同義の非科学的観念に過ぎない。

 こうしたバカげた基準に基づいた論証を重ねている限り、本当の意味での人間というものの科学的検証に至らないのは当然の話なんですが。生物学界の無意識的組織的腐敗によって論理検証性が蔑ろにされているのである。

 学校でのイジメが無意識に行われているのと同様、組織腐敗というのは組織を構成する個人の無意識性の集積によって構築されるものであり。個人が自律的主体的に論理検証して社会的責任を果たしていれば組織腐敗は起こらない。

 軍備増強によって「国民を守る。」などというのは実は嘘で、警察権力を増強しても犯罪自体の抑止にはならないことや、北朝鮮が軍備に血道をあげても「国民を守る。」ことにはならないのと同じことである。

 大東亞戦争の時に軍備増強した日本が「国民を守る。」ことになったか。

 なんないんですね。

 軍備武力による対外的抑止力を増強すると、大衆(ヒト)の多くは気分的に安心満足する性質がある。

 北朝鮮の指導部においても、組織内部での価値観評価ばかりを追求することに血道をあげており、国家政府の持続可能性も安全性も自分達では自律的に追求するつもりが全くない。

 「一億玉砕。」って安全保障にならないでしょ。「英霊。」などと称して命懸けで暴走した頭の悪さを事後正当化して気分的満足している限り、社会安全性なんぞ確立されることはないんですよ。そりゃ死んだ人間に意味があることにしておけば多数大衆のご機嫌取りにはなるんでしょうけど、それこそがやらなくてよかった戦争自体を事後正当化していることになるわけです。

 「お国のため。」などと称して命懸けで特攻攻撃をしても、それは「人類の救済。」と称して命懸けで毒ガステロをするのと構造的にはさしたる違いはない。

 これを理解出来ないのであれば、北朝鮮の暴走をとやかく言えた義理ではない。



Ende;
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飲酒強要。

2013年04月19日 15時08分03秒 | 意識論関連


○飲酒強要

 歓迎コンパでの飲酒強要で大学生が急性アルコール中毒で死亡した原因を伝統や雰囲気が原因であると裁判所も認めたそうだ。

 体育会系序列による命令服従には人間性が伴わないことは、何度も述べたはずである。権威に服従することは「従順」ではあっても「素直」ではなく、命令に対して機械条件反射的に服従してしまうことこそが自律的な責任判断を放棄することに陥るのである。

 主体的意思の欠落によって死ぬのは勝手だが、原発や高速バスを暴走させることは自己責任の範疇ではない。

 服従は罪である。従順であることは自律の欠如であり、責任放棄を意味するからである。

 この世のバカのいちいちを、国家権力によって法令遵守させることなど絶対に不可能であり。社会安全性というのは国家を構成する個人の自律によってのみ醸成されるものなのである。

 大多数がバカでなければ暴走になんて陥らない。一言で言えばそういうこと、そのための教育でなければならない。




Ende;
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育児休暇。

2013年04月19日 15時04分51秒 | 意識論関連
○育児休暇。


 育児休暇制度があるにも関わらず、会社の経営利益を優先して企業がこれを嫌がるというのは。企業自体の社会的「甘え。」に他ならない。

 企業が率先して少子化を推進してしまえば社会全体の持続可能性を破壊する行為であり、企業としての社会的役割を果たしておらず、極めて身勝手な話である。

 「組織の利益を優先し、社会的責任を放棄。」した典型が東電原発である。組織の利益を優先するような企業は社会にとって無用なゴミであり、存続の意味を持たない。

 ピーター:ドラッカーを読まずしても、企業というものは社会にとって必要でなければ存在する意味など最初からないのである。

 企業とは、株式会社でなくても取締幹部達の私有物でも、利益だけを追求するためのものでもなく、あくまで社会にとって有益なものでなくてはならない。そんな当たり前の話すら認識出来ないような取締役幹部ばかりの企業など、早々に市場から退場して頂くべきなのである。



 カルチャー文化云々でどうにかしようというのは、要するにバカ相手にご機嫌取りをするような話であって、無意識なバカ相手にご機嫌取りをしても「ゲリラを副大統領にする。」ような丸め込み結果にしかならず、場当たり的な対処療法にしかならない。

 「ワクワクするような。」だとか、「元気が出るような。」などという観念では根本的問題への対策にはならないのである。

 理論に対して観念というのは気分的「甘え」以上の何の意味も持ってはおらず、無能者の言い逃れ/取り繕い以外の何物でもない。

 文化だの空気だのに無意識に流されているからこそ原発の暴走を許し、太平洋戦争を許し、地下鉄に毒ガスを撒き散らすことに陥ったのである。こんな無責任な「傾向性」なんぞに依存していること自体が悪しき「文化」に他ならず、徹頭徹尾論理によって正すことが根本的対策となるのである。

 マイケル:サンデルなんぞ真に受けている宇野なんちゃらだとかというのは多数大衆のご機嫌取りによって人気を得ているだけであって。根本的な問題解決には全く到達することはない。

 改革革命の時には必ずし痛みを伴うものである。この「痛み」というのが物理的なものに変質してしまうのは、改革の時の文化の変革に伴う恐怖感が作り出すのである。

 ヒトは恐怖感によって物理的破壊行動を引き起こすのであって、文化の変革というのはおうおうにして恐怖を生み出すのである。

 恐怖を克服するのは新しい文化への気分的安心感などではなく、あくまで論理検証的自己抑制によって克服されるべきものであって、自律がないからこそ破壊暴走へと陥るのである。

 一人一人の意識改革なくして文化の改革も有り得ない。ポピンズ社長が「宇野の言っていることも正しい。」的な丸め込みをしていたが、これは社交辞令に過ぎない。本当は宇野の固定観念こそが悪しき「文化」が作り出す恐怖感に他ならない。だからこそ宇野は異常なまでに「文化」に執着するのである。



 古い「文化」を持った相手に対し、新しい「文化」をゴリ押ししようとするのは。古い「文化」に囚われているのことと何ら変わらず観念論の域を出ていない。

 観念を観念でどうにかしようとすること、文化を文化でどうにかしようとするのは、言い換えればバカをバカでどうにかしようとするバカげた不毛な行為である。

 バカを治すためにはバカではない論理検証性によって克服すべきものなのである。それが気分的嫌悪感を伴うのは当たり前の話であって、その嫌悪感を克服することこそが固定観念的「文化」からの解放になるのである。

 文科系大衆観念的にはバランス問題だの程度問題にすりかえようとするのであろうが、文化に伴う観念をどんなに強く主張しても合理性のある結論には到達することはないのである。

 東電福島第一原発の無責任な体質を嫌い、東電を辞めて四国で農家をやっても根源的問題解決にはならないのと同様。観念だの気分だのを満たすことに社会的価値などないのである。そんな短絡的で安易な観念に依存していること自体が人間としての根源的間違いなのである。

 「ヒトの多くは観念だけで行動が決定している。」ことをどんなにたくさん枚挙しても、ヒトが観念以外でしか行動が決定され得ないことの論証にも、多数派が自律的に論理検証することが絶対に不可能であることの証明にもならなし、ましてや観念だけで行動が決定していて論理検証を放棄して良いことの根拠理由にもならない。

 多数派に自律的論理検証を出来るようにすることは簡単ではないであろう。簡単な解決策で全てを解決しようとすること自体がその場限りの対処療法しか導かないのであって、これこそが根源的対策を蔑ろにしてしまう原因なのである。

 宇野なんちゃらみたいに簡単で気分の良い話をしておけば多数大衆のご機嫌を取ることは簡単であろう。それで全てが解決すると錯覚するのは極めて簡単なのである。

 観念で社会安全性や持続可能性を構築することは出来ない。

 原発の危険性を改善するためには、固定観念(東電内部の文化)に対して論理検証的指摘によってでしか成立しないのであり。気分感情云々でどうにかなるようなものではない。

 現状ヒトの多くは気分感情という無意識でしか行動が決定しない。だが、それこそが社会持続可能性や安全性を崩壊させる暴走破綻へと人類を導くのであり。気分感情が優先されてしまうという現状世界を変えること、自律的論理検証を個々個人が行うという「微力」を行使することを忘れないことが重要なのである。

 多数派に迎合したり、権威に服従しておけば気分的には安心で満足であろう。ヒトとはそういうものであり、本能習性としては変えようのないものである。しかし理性によって行動結果自体は変えることが可能であり、それこそが本当の意味での「意思」であり意識なのである。

 本能習性が促す気分感情に流されることしか出来ないのであれば、それはヒトではあっても人間ではない。

 人間がいない社会に人間としての社会性が成立しないのは当然の結果というものである。




 これはいちいち論じないといけないことなのかね。






Ende;
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危険な排水溝。

2013年04月05日 17時14分43秒 | 日記


 秋月電子通商三郷店に行く途中で発見。

 場所は以下に。

http://map.ultra-zone.net/g/35.801558/139.829086/201.5_-16.9_1.0
 StreetView上ではちゃんと蓋があるように見える。

http://map.ultra-zone.net/g/35.801479/139.829127/16

 昼間はまだしも、夜はこわいね。
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神様?。

2013年04月05日 17時01分49秒 | 意識論関連


 「お客様は神様です。」と言ったのは誰だったか忘れたが、金を支払う方が一方的に偉いという観念には根拠がない。

 顧客に対する異常なまでの卑屈さというものは、逆に自分が顧客の立場になった途端に異常なまでの横柄な態度を採るようにもなる。

 自分が顧客に対して卑屈な態度を採った対価として、自分に対しても卑屈な態度を採らせようとする条件反射行動であろう。

 相手に金を支払わせる立場としての最低限のマナーはあるとしても、客は絶対神ではなく同じ人であり。社会の中で相互関係性を持つ平等な関係である。

 雇用に関しても、違法な背任行為などがなければ決して雇用者の方が「偉い」ことにはならない。

 金に限らず特定の事柄に対する過剰で無意識な価値観がヒト社会には蔓延しており、これが人の「心」を喪失させているのである。

 ヒトという種の生物には、本能習性的な社会形成習性があり。他者と自己との関係性において上下関係を規定しておかないと不安に陥る性質がある。

 こうした習性を生物学的に説明すれば、「集団統率的協調行動を採ることが出来た集団程生存に適していた結果。」と言うことが出来る。

 だが生存してさえいれば人間として正しいことにはならず。「残虐なゲリラが生存に適していた。」結果だけを正当化するのはキチガイの論理に過ぎない。その意味において「個体の生存自体に意義はない。」のである。

 生物が生存していたのは目的のためではなく、あくまで偶発的「結果」として生存していたものを「生物」と分類しているいるに過ぎない。これが理解出来ないバカは科学者を辞めるべきである。

 金に対する異常な価値観同様、生存というものへの異常なまでの価値観というものが、科学的論理検証性を喪失させているのである。

 生存だけが絶対的価値であるならば、詐欺や暴力を用いてでも生存に有利な行動を採ることは正当化されてしまう。それを現在の生物学は「賢い」と形容するのである。

 結果的に生存していたゲリラは「賢く」て、結果的にゲリラ達に殺害された人達は「愚か」である論理的根拠はあるであろうか。無論そんなものは一切なく、単に結果的に生存していたという結果の事後正当化のための文科系大衆観念的こじつけに過ぎない。




 現在の生物学では、本能習性的な行動バイアスの結果論だけを抽出して、あたかも本能習性的行動バイアスが絶対的に正しくて優秀であると言い張る。

 津波被害の際に問題となった正常性バイアスや多数派同調バイアスといったものも、先天的本能習性による行動バイアスであり、これらはあくまで機械的条件反射行動、すなはち無意識に過ぎない。

 たまたま偶発的に生存に有利な行動を促した結果だけを論じて本能習性の存在価値を絶対的意義の論証であると言い張るのは、科学的論理証明を目的としたものではなくヒトという種の生物の優位性を事後正当化しているだけの観念に過ぎない。

 「自分が生存し続けるのは、生存に適した種であるからだ。」と「思う」ことで気分的に安心満足したいだけなのである。ナチズムの素となったフランシス:ゴルトンの優生学も、民族の優位性を立証することによる気分的安心満足を目的としたものであって、何ら科学的論理証明として全く成立していないのである。

 先天的疾患によって遺伝的に「生存に不利」であることが、生存に値しないことの論証にはならないし、人間としての存在価値をおとしめる論証には全くならない。

 優生学のような観念を科学的論証であるかの如く一切反論してこなかった従来の生物学というのは、科学としての社会的役割を全く果たしておらず、怠惰怠慢による「未失の故意。」的犯罪行為であると言える。




 金は本来道具である。経済を便利で円滑にするための道具であって、道具という手段自体を目的だと勘違いしてしまうのは、そこに論理検証的「考え」が伴っていないからである。

 論理検証的「考え」という「人間としての社会性」が伴わないからこそ、人間としての「心」が失われることに陥るのである。

 その場限りの本能的感情を「心」と称するのは、通り魔の動機や感情までをも正当化する戯言に過ぎない。人間としての「心」というものを厳密に検証せず安易に「感情=心」として取り扱うのは、無責任な犯罪的行為であることを文科系マスコミは認識すべきである。

 哲学界においては論外である、怠慢にも程がある。論理検証的に「考える」ことが嫌なら哲学など辞めればいいのである。



 貨幣を一切用いなくても経済を成立させることは可能である。労働に対する正当で公平な対価さえ成立すれば、経済というものは成立可能なものであって。対価の公平性を社会から乖離させ個人の絶対所有物であるかのような錯覚を促すのが貨幣というものである。

 労働も対価も循環することで経済は円滑に働くものであって、個人所有私財として停滞させてしまう貨幣の性質こそが経済を崩壊させてしまう一つの要因ともなるのである。

 「貨幣は道具であり、相互協力社会のための手段に過ぎない。」ことを認識していれば、異常なまでの報酬への執着も働かないはずである。





Ende;
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