書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

失敗学という薬

2019年08月29日 14時29分01秒 | 意識論関連

「客観的事実などない」だの「意識に意味はない」だのという養老孟司の大嘘をマスコミは鵜呑みにし 「本が売れた」とか「(多数)人気がある」ことを根拠にあたかも科学者として優秀であるかのように錯覚しているバカが多すぎる

意識に意味がなく 感覚こそが人間性だと言うのであれば 無意識なまま感覚的に行動しておけば人間性が自動的に発揮されるという意味になる

そんな訳ねぇだろ バカか

養老孟司は相手によって言う内容をコロコロ変えており 話に一貫性が全くない それはつまり「間違えて」いるのではなく 意図的に「嘘」を言っているのである

相手が論理的思考の出来ないバカだと判断すると「禁煙と書かれた看板の前でタバコを吸う ほら 私は脳化していない」などという どうにも意味不明な訳のわからぬ屁理屈を言い出すペテン師である

もしかすると野依良治が「主観が重要」だとか言い出したのは養老孟司に丸め込まれて思考を撹乱されている可能性もある

東電社内において原発の津波に対する脆弱性を指摘できるかどうかというのは そこに自己客観性に基づく論理検証性が働くかどうかにかかっているのであって 単なる主観的「感覚」だけでは個人が自律的な社会的責任判断が自動的(自然)にできるわけではない

なぜ東電社員が原発の津波に対する脆弱性を誰も指摘しなくなったのかと言えば 先天的な社会形成習性が促す権威服従性や仲間内での多数派同調性や迎合性による「感覚」的な恐怖心が原因である

養老孟司に限らず 生物学者の多くは遺伝的進化による先天的本能習性が促す条件反射的な感覚こそが意識の本質だと言い張るが それがトンデモナイ非科学的なオカルト誤謬なのである

科学というのは多数決ではなく 論理的に正しいかどうかで決定されなければならないのであって ましてや「本が売れた」だの「人気がある」などといった多数決的結果は到底科学的に言っていることが正しいことの論証には全くならない

マスコミや大衆の多くは科学的な論理検証が苦手なうえ 権威肩書の言っていることを唯々諾々と鵜呑みにする「従順さ」を発揮することで 簡単に「東京大学名誉教授」の言っていることを盲目的に信頼してしまうのだが それは報道機関として社会的に無責任な「垂れ流し」にしかなっていないのである

「ヒトという種の生物が先天的に常に人間性を発揮するものである」かのように言っておけば バカな文化系マスコミや大衆の多くは あたかも「自分達は先天的に常に人間性を発揮できる優秀な存在である」かのように錯覚を促され それによって主観的な気分が良くなることで養老孟司などの生物学者達の進化万能論を短絡的に鵜呑みにするようになるのである

「自分の気分が良くなる」というのは あくまで先天的な条件反射に過ぎず 科学論理的に正しいことの証明には全くならない

ペテン師や占い師というのは ヒトのこうした先天的な錯覚を利用することで ありもしない嘘に現実味を抱かせることでヒトを騙すのである

 

個人が自律的な社会的責任判断を行うには 統合的な観点から検証する自己客観性が不可欠であり 「社会安全性を優先しないことには いかに自分や自分が属する組織体制にとって目先の有利を追求しても 人生全体においては意味がない」ことまで「考え」てこそ発揮されるものであり これは単なる主観的「感覚」だけで発揮されるものではなく 自己客観的な論理検証性が充分に働いてこその「感覚」なのである

「感覚」という言葉ヅラだけを抽出してきて あたかも「感覚」こそに人間性が伴うかのように言いくるめることは そんなに難しことではない

「意識」という言葉ヅラだけを用いて 「そうした意識が問題だ」などと言えば あたかも意識の全てが問題であるかのような錯覚を促すことも簡単である

実際には「そうした意識」こそが無意識な条件反射を指しているにも関わらず 単に「意識」という言葉ヅラだけを用いて「意識に意味はない」と言われれば 大多数のバカな大衆は「意識に意味はないんだな」と短絡的に鵜呑みにするのである

養老孟司は言った内容を録画録音されたり記録されることを嫌う それは言っている内容に論理整合性がないことがバレるからである

既に著作として文章化されている内容だけからでも養老孟司の嘘を判別することは可能だが マスコミや大衆の多くはその場限りに気分が良くなるように誘導されれば疑うことをしなくなることを 養老孟司というペテン師はよく知っているのである

主観的 感覚的に好きになった相手を疑わなくなる習性というのがヒトにはある

それなら 「感覚」や「本能習性」や「無意識」や「主観」こそに意味があることにしておけば バカなマスコミや大衆はその場限りに主観的に安心満足して何も疑うことをしなくなる

それは洗脳以外の何ものでもない

洗脳状態のヒトというのは 決して何か苦悩しているわけではなく むしろ何の疑問ももたずに盲目的に信じ込んでいるために 部外者の話に一切耳を貸さなくなるのである

オウム真理教の信者に対して「お前のところの教祖は頭がおかしいぞ」と教えても一切耳を貸さないのと同様 養老教に洗脳されている「信者」達に何を教えても一切耳を貸さなくなるのである

ヒトは 一度自分が信じてしまったものに対して あとから疑うことを嫌う習性がある

それは 自分の過去の判断選択を否定しなければならず 「自分の頭が悪かった」ことを認めなければならないため 気分的に「嫌」だからである

「嫌」というのは「感覚」である

「感覚こそが人間性だ」と鵜呑みにしておけば もはや何を言っても「馬の耳に念仏」である

 

養老は「嫌な相手とどう付き合うか」と称して 「無視する 意識から外す」などという思考停止の逃避行動を勧めている

その方が主観的感覚として「気分が悪くならない」からである

自分が信じていたものが 本当は大間違いだったことを認識することというのは 自分の頭の悪さを認識することでもあり 「気分が悪い話」でもある

さらに ヒトの多くは自分の頭の悪さを認識することで 気分的に落ち込むことばかりに気を取られ 「なぜ間違ったのか」についての仕組み構造を検証することをしなくなる先天的習性がある

その場限りに気分的に「悔やむ」だけで 原因究明や再発防止のための工夫や教訓にはしないため 何度でも似たような間違いを繰り返すのである

こうした「感覚」が促す無意味なスパイラルから抜け出し 合理性のある対策や教訓にまで高めるのが失敗学や危険学の考え方である

懲罰によって精神論的に「悔やむ」ことを一時的に停止し 間違いの論理的構造メカニズムを分析理解することで 同じ間違いに陥らないように工夫することで再発防止への合理的で有効な対策につなげるのである

危険学や失敗学に精神論は出てこないのだが 養老孟司は「努力辛抱根性」や「修行」ばかりを勧めてくる それは大衆の多くが精神論的な話の方が気分的に満足出来るからであり 論理的に構造を検証するという面倒臭くて気分の悪い話に耳を貸さなくさせるための手口である

 

養老孟司の言っていることを鵜呑みにしておけば気分的には安心で満足することが出来るのであろうが それは社会安全性において重大な欠陥をもたらすペテンである

それを「信じたいか 信じたくないか」という主観(感覚)で判断されたのでは話にならない

自分の頭の悪さを自覚認識して頂かないことには 一向にバカは治らないのである

 

Ende;

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コーヒーとドライアイ

2019年08月28日 23時47分46秒 | 日記

カフェインの摂取によって涙を促しドライアイの改善になるんだそうな

とはいえ一日3杯までが適量だそうで それ以上は中毒になるのでやめたほうが良いらしい

そういやコーヒー飲まないと目がショボショボしてくるのだが それって眠気のせいなのかと勘違いしているのかも知れない

本当は眠いんじゃなくて 単に目が乾いて集中力が出ないだけかも

マイボーム腺が脂で固まってしまうのもドライアイの原因だそうで 適度に温めると解消するという

マイボーム腺ってのは涙腺とは別に油脂分を分泌するための器官だそうで 涙と油脂分とのバランスが目の健康において重要なんだそうな

PCなどのディスプレイを目の高さよりも下にすることで 眼球の露出を減らすことになるというので デスクトップPCよかノートPCの方が良いのかも

スマホみたいに手元のディスプレイだと頭まで下を向いてしまい「スマホ首」の原因になってしまうが 適度に低い場所にディスプレイがあるのはドライアイ対策になるらしい

 

Ende;

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意識のないバカでは知能は働かない

2019年08月28日 23時23分01秒 | 意識論関連

ビル・ゲイツは別に天才ではないけどな

IQ基準というのも結局は学力偏差値と一緒で 認知科学的な知能の論拠にはならない

特定能力が高くても 例えば計算能力であれば機械の方が圧倒的に高いのであって それが「人間としての知能」の論証には何ら該当しない

どんなに学力偏差値が高くても 誰も気づかない発見や発明や指摘ができなければ本質的な知能の論証にはならない

オイラは中学2年の時の幾何数学だけは何の予習復習もしてないのに異常に成績が良かったが それ以外は全部苦手だったな

 

「君は一人じゃない」という話は嫌いだな 誰もが世界で一人なのに 何で他の人と共通点を持たなければならないのかと言えば 主観的感覚としての孤独感が作り出す錯覚に過ぎない

誰もが死ぬときゃ一人なんだよ

人生の最後に最も求めるものとは何かといえば 安心して死ねる社会への希望だけである

何の希望も持てない殺し合いや潰し合いや奪い合いの社会では 何を「勝ち取って」も意味がない

人は何かを競うことを目的にする必要はないのだが 先天的な順位序列への意識(無意識な行動バイアス)が無駄なチキンレースへの強迫観念を生み出しているに過ぎない

その競争には勝者はいないのだが 競争の全てには勝者がいるはずだという錯覚妄想によって ありもしない勝利へと突き動かされているだけなのである

 

ヒトの多くは他人との比較にばかり執着する習性があり 何が何でも他人よりも何かが優れていなければならないかのような強迫観念に苛(さいな)まされているが こうした他人との比較に依存した価値観というのは環境依存であって本質的には主体性がないため 自律的な判断力が働かなくなる性質がある

文化だの社会だのと称して環境依存性を主張したがる時点で本質的主体性の欠如を事後正当化することで認知的不協和を解消したつもりになっているのだけなのである

人間性の本質というのは 「自律的な社会的責任判断選択」が絶対条件であり 自律というのは環境依存性からの脱却なくしてあり得ないものである

アルベルト:アインシュタインが相対性理論を書いたのは 大学での職を得られず特許局勤めをしていた時期であり 社会環境だの文化だのに依存しないことこそが本質的な人間としての知能なのである

東電社内における「文化」だの「体質」だのといった環境に迎合したからこそ 原発の津波に対する脆弱性は放置されたのであって 文化だの社会だのといった環境なくして何も出来ないかのように言い出すダニエル:デネットのように自分からは何も気づかないバカの発想というのは 自身の頭の悪さを事後正当化するための言い訳言い逃れ取り繕いはぐらかしに過ぎない

誰からも教えられていない事柄に気付くためには 環境に依存しない自発的発想が必要不可欠であり 文明だの環境だのに依存しなければ何も気付くことが出来ないデクノボウには どう逆立ちしても不可能なのである

 

Ende;

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おいしいものは体に悪い

2019年08月28日 16時25分16秒 | 日記

洋菓子職人は仕入れた小麦粉を半年くらい寝かすんだとか

若しくはオーブンの上に2週間くらい放置することによってグルテンの結合を弱めることでカステラなどがふっくらと膨らむんだそうな

なので ホットケーキミックスも粉の状態からフライパンで焦げない程度にカラ煎りしてから使うとぶ厚く膨らむんだとか

まだ実際に試したわけではないのでよくわからんけど

NHKの「ガッテン」でそう言っていた

洋菓子職人って銅製のぶ厚いフライパンとか使うんだけど

そんなん持ってないわ

ホットケーキ屋だとホイップクリームてんこ盛りになってて体に悪そうだけど

やっぱ脂と糖がうまいんだろうな

「おいしいものは脂肪と糖で出来ている」

脂肪と糖をより多く摂ろうとした個体への淘汰圧力が祖先で働いたんだろうな

ヒトって ヒトになる以前の方が圧倒的に長いんだよね

だから何でも罰とか暴力で解決しようとしちゃう

そういう残念な生き物

わかっていてもやめられない

というか

わかろうともしない

そういや養老孟司がこんなこと言ってたことあるな

「頭に血がのぼって怒鳴り散らしている時には 前頭葉(理性)なんぞ邪魔なだけだ」ってね

怒鳴りちらしている方が意識の本質だと思っているから「理性が邪魔」だと言い出す

そういう非論理的な大衆観念的デマの方が人気が出るんだろうな

大衆の観念にとって都合のよい 大衆の気分が良くなる話の方が人気が出る

そういやオウム真理教教祖麻原彰晃も「皆さんの気持ちはよくわかる」なんて言ってましたな

そう言われれば気分がよくなって信用するようになる

言っている内容に合理性がなくても

気分が良くなりゃ満足

それが洗脳ってやつだよ

以外と簡単なのよ

養老にいわせりゃ「チョロいもん」なんだろうね

 

Ende;

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お教養

2019年08月28日 14時30分12秒 | 意識論関連

「願ってやまない」の「やむ」は「已む」と書く。「己」や、十二支の「巳」と紛らわしい字ではある。安倍氏が手にした原稿では教養のある官僚が漢字で書いていたため、なんと読むかためらって、「願っていません」と言ってしまったのではないかとも思われる。

こういう誰も知らない教養を強要しないで欲しいわ

「誰も読めないかも知れないからルビふっておこうか」という配慮を欠いた「お教養」にはウンザリだわ

知識の「量」だけひけらかして知能だと思っているバカが多すぎるわ

 

Ende;

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人間性とは

2019年08月28日 14時02分30秒 | 意識論関連
メンタリストのDaigo君がいくら腹を立てても 所詮は主観的「感覚」という先天的行動バイアスによる条件反射に過ぎないので それだけでは意味を為さない

被害がなぜ起きるのかを徹底的に原因究明し 再発防止の対策を立てなければ 被害はいくらでも繰り返されてしまうのである



東池袋自動車暴走事故の被害者遺族 松永莉子パパが「加害者が逮捕すらされない」ことに対してどんなに気分的に憤慨しても それ自体には意味がないのも同じことである

それは私が主観的に「腹が立つ」ことにも意味がなく 誰の主観的「感覚」にも それだけでは意味がないのである

「腹が立つ」だけなら常磐自動車道アオリ男の感情と同じであり 感情の強度程度で行動が決定していたのでは合理的な「解決」には至ることはない



ヒト個人の中には様々な感情や感覚があり その様々な主観を統合的に論理検証する客観性に基づいて行動選択をすることによって はじめて人間性として機能するのである

個人的感情という無意識に流されることなく 客観的論理検証性によって 「本当に優先されることとは何か」という統合的目的行動選択こそが 人間性として機能するのである

厳罰化に安易に共鳴してくれるヒトは多いのであろうが 厳罰化自体は事故の再発防止にとってほとんど意味がなく 時間が経てば事故や事件は簡単に風化し忘れ去られてしまえば効果は薄れるものである

東池袋事故の報道の後に減った踏み間違い事故は6%程度でしかなく 自動ブレーキの対人事故低減率60%以上にくらべても遥かに小さな値である

厳罰化による抑止効果というのは 罰に対する恐怖心を煽っているだけであって こうした精神論的な行動抑圧というのはJR福知山線脱線事故の原因となったJR西日本による懲罰的「教育」と同じものである

広告代理店の電通における「鬼十則」などというのも 強迫観念を煽るものであり どちらも会社の利益にとってわずかに効果があるとしても 有害な副作用の方が圧倒的に大きいのである

ヒトという種の生物は どうしても感情的な行動にこそ意味があると錯覚しがちな習性があり それによって本当に合理性のある効果的な対策というものを蔑ろにしてしまうのである

実際 生産現場においても 張り紙による注意喚起や罰則よりも ポカヨケ的な構造的改善の方が圧倒的に効果が大きいことは明らかである

ところが 生産現場以外の一般的対処においては合理的工夫よりも精神論的懲罰ばかりが優先されがちであり これは一般人の「意識」の低さ(感情が優先して合理性が後回しになる性質)に由来するものである

工場とかによく大きく書いてあるでしょ「安全第一」って 本当に安全を優先するために必要なのは張り紙とか懲罰ではなくて 構造的改善なんですよ

被害者や遺族だからといって 厳罰化といった精神論的抑圧を優先して良い理由にはならない そんな特権に合理性はないのである

実際に事故や事件の被害者や遺族になってから感情的になってしまいがちなのは致し方ないとも言えるのだが 実際に自分が被害をこうむるまで他人事として何も合理的で有効な対策を誰も採ってこなかった無責任さによって 回避可能だった被害である可能性は充分にある

「被害に遭ったから報復的懲罰だ」という感情的スパイラルを漫然と繰り返していても 本当の意味での事故や事件の再発防止に対する合理的で有効な対策にはならないのである

司法役人達はそれで充分であり 機械手続き的に判決さえ出しておけば合理的な再発防止策になろうがなるまいが どうでも良いのである

刑法裁判というのは 一種の因習に過ぎず「お祈り」と「かおまじない」レベルの話でしかないのである

航空機事故が起きたからといって 安全祈願のお札やお祓いをしたからといって安全性が高まる合理的根拠がないのと同様

刑法に基づいた判決が下っても事故や事件の再発防止に対する合理的対策になるわけではない

多数による気分感情的同調共感共鳴を得られれれば 気分的には良くなるのであろうが それは一種の集団心理が作り出す錯覚であり 合理性があるわけではない

合理的に事故や事件を減らすことを優先しないのであれば 回避可能だった危険性が放置されることになるのであり それを「人間性」や「心」と言うことは出来ないのである



ヒトの多くは 気分を良くしてくれる相手を主観的に好きになり 好きな相手の言っていることを盲目的に信用していれば安心で満足になる習性がある

その場限りに気分的に安心満足することによって 個人は自律的な責任判断を簡単に放棄するようにもなる

だが 統合的 客観的な視点に立脚して「考え」れば それは社会的には無責任な行動なのである

人災が人災たりうるのは そこに「人間」がいないからである

知恵や工夫なくして「人間」ではない

知恵や工夫は論理的な「考え」によって導き出されるものであって 感情的な「思い」の強度程度はむしろ「考え」を阻害する原因にもなるのである

「ヒトという種の生物」は 先天的には「人間」ではない

どんなに金もうけが得意でも 多数大衆から人気があろうとも 学歴や学力偏差値が高かろうとも 「自律的な社会的責任判断選択」ができなければ人間性の論証にはならないのである

養老孟司のような嘘つきであっても大衆やマスコミは「著作が売れた」とか「多数から人気がある」といった「根拠」に基づいて疑うことをせず 「客観的事実などない」と断言し「誰が退官してまで解剖なんていう辛気臭いことをするんですか」などと言い放った養老を 未だに「解剖学者」として扱う始末である

学者として自分が専門でやっていた領域を「辛気臭い」などと形容するというのは言語道断である

本来学者というのは公金を使って研究する領域を自分で選んでいるのであり それを否定するというのは社会に対する背信である

「脳化」などという非科学的オカルト観念に染まった養老を学者扱いしているマスコミや大衆は頭がおかしいことを自覚していないからである

養老のような非科学的オカルト観念に染まった「学者」というのは他にもたくさんおり 「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すればなくなる」などという訳のわからぬことで人気を得たマルクス:ガブリエルを鵜呑みにしたマスコミや大衆の頭の悪さを 全く自覚していないのであろう

「なぜマルクス:ガブリエルの言っていることを鵜呑みにしたのか」を 論理的に原因を理解していない状態だからこそ リチャード:ドーキンスのお伽話を鵜呑みにし マイケル:サンデルやジャレド:ダイアモンドや松沢哲郎や山極寿一の嘘や間違いを誰も指摘出来ない痴呆状態から抜け出せないのである

自分達の頭の悪さを理解せずに オウム真理教信者の洗脳をとやかく言えた義理ではなし ISILの野蛮性は何が原因なのかも語ることは出来ない

そんなことだから「被害者の実名報道を今後の教訓に活かす」などという大嘘を平気で言い出すことになるのである

一体どうやって被害者情報を教訓に活かせるというのか 全くもって意味がわからないのだが バカというのは自分の頭の悪さを自覚していないので一向に治らないのである

それは女子中学生監禁事件の寺内樺風の自覚の欠如と構造的には同じものである



Ende;
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お励まし

2019年08月28日 10時32分53秒 | 意識論関連
メンタリストのDaigoがYouTubeで被害者実名報道に怒り心頭らしい

具体的にはようわからんのだが「心ないひとたち」による「お励ましのお言葉」的なものが殺到して非常に迷惑なんだとか

NHKをはじめ 報道各社は「今後の教訓とするため」とか言っているんだが 事故や事件の再発防止において被害者の情報は意味がない

国会原発事故調査委員会報告書のどこにも「被害者の情報」なんぞ出てこない

証言者(加害者)の実名すら書いてないのに 被害者の実名が原因究明や再発防止に意味があるわけがなく 合理性が何もない嘘である

「心ないひとたち」が非常に多いことも社会の病的側面ではあるのだが これもまた一種の「失敗」ではあるので具体的にどのような「心ないひとたち」による「心がえぐられる」ような遺族が受けるダメージというのを公開し 何をしてはいけないのかを周知すべきではないかと思う

多分 Daigo君がいくら「怒って」も 「心ないひとたち」にしてみれば「何が悪いのかわからない」のではなかろうか

こうした無神経さというのは女子中学生監禁事件の寺内樺風と一緒で 自分自身の気持ちというものがそもそも「よくわかっていない」ために 他人の気持ちもよくわからない故の行動であろう

社会的に大きく報道された事件の被害者に対し その場限りに「かわいそう」という感情の強度程度によって ほとんど条件反射的に「お励まし」をしないといられない無神経さを発揮しているのではなかろうか

何か自分の主観的感情(感覚)によって促される条件反射的行動を短絡的に「心」だとか思っているバカがあまりに多いという社会的病理が被害者実名報道の根源的問題点なのである

バカがいなければ「私刑」も「お励まし」による被害も起きないのであって 政府が率先して「罰を解決だ」とみなして危険学や失敗学的な合理的対策を放棄していることが諸悪の根源だと言える

学力偏差値ばかりを追求している癖に 「罰で解決」という短絡性については誰も言及しない頭の悪さを認識しない(見えていない)のが そもそもの原因だと言える

罰というのは気分的なものであって 具体的に原因究明や再発防止にならないのだが それを短絡的に「解決」だと錯覚しているトンチンカンさと 「お励まし」を被害者や遺族に押し付けないといられない自己抑制の欠如はメカニズム構造的に同じものである

Daigo君がいくら感情的に「怒って」も 「心ないひとたち」には何も影響を及ぼさない

それは刑罰をいくら重くしても治らない犯罪者と同じである

「お道徳で犯罪がなくなる」とか「規範意識(無意識)でイジメを無くす」などという「神話」を鵜呑みにしている頭の悪さから認識すべきである



Ende;
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お道徳

2019年08月26日 23時38分21秒 | 意識論関連
常磐自動車道アオリ運転の報道に対して「道徳の授業を拡充」だとか言っているバカが結構多くて笑うしかない

道徳の授業なんてのはイジメにすら効果がないのにアオリ運転なんぞ道徳の授業でどうにかなるわけなかろう

バカか

道徳で犯罪がなくなるなら苦労しないわ



Ende;
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法治とか人治とかの問題ではなく罰が間違いなのである

2019年08月26日 21時51分33秒 | 意識論関連
プレジデントオンライン

あくまで刑罰は犯した罪によって法律で定められたものが適用されるだけだ。「メディアで注目され、世間のより多くの怒りを集めた事件なのだから、厳罰に処するべき」という論理は、法治国家ではなく人治主義のそれに接近していく。

 「悪」を晒しものにし、これに私刑を加えることは、しばしば「正義の暴走」として批判される。ただし「正義の暴走」それ自体は「正義感に燃える人びとがこれを行使したくてうずうずしている」というわけではなく、「自分がただしい側にいることを相対的に保障してくれる存在で安心したい」と考える、人びとの不安の裏返しでもあるだろう。


*:「人治主義」とは - 有能な人物の裁量や裁断を中心に治める考え方。法規範などの社会規範を尊重しない統治。



著者の御田寺 圭(みたてら・けい)自身が述べているように

「刑罰は犯した罪によって法律で定められたものが適用されるだけ」なのである

これはつまり刑法罰というのは機械的な手続きを行っているに過ぎず それが社会安全性にとって有効かどうかなど どうでも良い話なのである

法治にせよ人治にせよ「刑罰で解決」という短絡性が根本的に間違っているのであって 機械的手続きを目的にするのではなく 社会安全性を高めるために様々なアプローチを行う柔軟な対応を行うにおいて刑罰というものは害にしかならないのである



■自分は「ただしい側の人間だ」と思いたい

 だれもが無遠慮に罵倒し、石を投げてもよい存在が世間にはいつでも求められている。なぜなら「ただしくない」存在を規定し、これを糾弾・非難することによって、自分の「ただしさ」が保証されるからだ。自分のただしさを確認してくれる証人は多ければ多いほどよい。世間のだれもが糾弾する「悪」を、みんなで一斉に制裁することによって、その場に参加する全員が「自分はちゃんとして生きている側なのだ」という肯定や安心を手にすることができる。


このくだりについては決して合理的に「正しい」ことが証明されているのではなく あくまで悪者を多数で糾弾することによって自分を観念的に正当化しているに過ぎず あくまで「思いたい」という感覚(先天的行動バイアス)に無意識に流されているだけなのである



本当の意味で「正しい」とは何かといえば 法治であろうと人治であろうと「罰で解決」することではなく 論理的分析による原因究明と それに付随する再発防止対策を構築することである

法治であろうと所詮は裁判官の心情に依存している以上 人治と構造的に違いなどなく 一応形式的には「刑罰は犯した罪によって法律で定められたものが適用されるだけ」ということになっているのだが 実際には冤罪再審請求が棄却されることもあり 何ら「法律で定められたものが適用」されているとは言い難いのである

公的資金を投入して何を目的とするのかと言えば 何よりも社会安全性を高めることが最も公益的に重要なのであって 役所の機械的法手続きだけでは到底意味を為さない

最も根源的な「罰で解決」という短絡的で合理性のない「単なる手続き」だけを漫然と因習のように続けるというのは ヒトという種の生物の先天的欠陥(錯覚)に起因する一種の洗脳である



Ende;
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優先順位

2019年08月25日 11時42分43秒 | 意識論関連
東池袋のプリウス暴走事故が報道されてから高齢者事故が減ったという

まあ あれだけの事故が起きれば一時的には慎重になる人は多いんだろうけど 厳罰化は根本的な対策には全くならないのよね

踏み間違いという「過失」は誰でも起こす可能性があって これはアクセルとブレーキが見えない足元に並んで配置されているという構造的欠陥に由来するものなので「ポカヨケ」的な構造的対策をしないと根本的な対策にはならない

ポカヨケの観点からは どんなにヒトが注意しても ヒトである以上間違いはなくならないので 構造的に間違えないように対策するのが重要

そもそもマトモな人なら「罰が怖いから注意」するわけではないので 厳罰化というのは合理性がない

「気をつけて」なんていう精神論というのは「頑張れ」と一緒で長続きするものではないし そもそも間違えやすい構造そのものは放置されることになる

日本人に限らず ヒトというのはどうしても精神論で何かを解決しようとしてしまう習性があって 頑張るとか努力することに「美しい」という主観的感覚(行動バイアス)を抱いてしまうことで合理的な対策を忘れてしまう性質がある

そういう美的「感覚」に頼るから小中学生の自殺も止められないことになる

注意力とか 頑張る なんてのはそんなに長続きするものではないので 普通にしていて起こるミスなら構造的に対策をすべきだし

東池袋の事故の場合 事故が起きる前から「運転が危なっかしい」という前兆があったわけで 具体的にどのような状態を「危なっかしい」のかを定量化して免許の強制取り消し制度とかも視野に入れた方が良い

ヒトって そんなに四六時中「頑張って」いられるわけではないし 松永莉子パパだって間違いを絶対に起こさないわけではない

本当に事故を減らすために必要なのは 加害当事者への懲罰ではなくて 誰もが起こしうる過失であるなら構造的対策を徹底する必要がある

小池都知事が踏み間違い防止装置に補助金出しているけど 構造的対策というのは一つだけではなくて 原発のように重層的に行うべきであって シングルペダルや左手レバー式アクセルなども併用すべき

現状可能なあらゆる対策を採るべきであって それに対して刑罰というのは加害当事者だけを悪者にする「はぐらかし」になってしまう性質がある

交通事故が年間何万件と起きているにも関わらず 具体的に有効な対策を採らなかった警察や自動車メーカーをはじめ 私も含めてあらゆる国民全員にも薄く広く責任の一端はあると考えるべきで 警察任せや法手続き任せにして何も考えなくなることが一番危険性放置につながる

「罰で解決」というのは神話です 「原発は絶対に安全」というのと一緒で 合理的根拠がありません

しかし ヒトというのは合理的根拠よりも目先の気分的安心満足を優先してしまい 合理的根拠のない神話の類いを信じ込みたがる習性がある

意図的に通り魔やテロをやらかすことであっても そういう意味のない訳の判らぬ行動をとる「原因」を徹底的に究明し 具体的に実効性のある対策につなげないと恒久的な再発防止の知見にはならない

「文明」と称しておきながら 具体的に合理性のある原因を明文化しないというのは もはや「文明」とは言えないんですよ

東池袋の暴走事故を起こした爺さんは もはや逃亡の恐れもないので逮捕勾留されないだけであって 事故を起こした爺さんだけを拘束したところで予備軍的に存在する「運転の危なっかしい爺さん」への対策にはならない



先日 近所のスーパーの駐車場で 別に狭いわけでも何でもないのに駐車スペースに自動車を収められない爺さんを見かけて 怖いので遠回りして避けた

何をもってして「危なっかしい」のかを論理的 定量的に測定できるようにして 事故を起こす可能性があるかどうかを判定して強制的に免許を停止させる制度は必要であろう

都知事による補助金だけとか 厳罰化だけとか そういう「これさえやっときゃ全ては解決」という短絡的判断ではなく 重層的に安全確保のための対策というものをすべき

それは国家プロジェクトとして行うべきものであって 松永莉子パパにはそういう要望を政府にして欲しい

現時点で可能なあらゆる対策を行うためには むしろ刑罰は逆行することになる

主観的な「感覚」に頼らず 客観的合理性のある判断をしないと 具体的実効性のある恒久的対策には結びつかず 再び同じような惨劇が起きる可能性を放置してしまうことになる



ヒトというのは 何か重大事象が起こると悪者探しをして罰を与えて満足してしまう先天的習性がある

それは アオリ運転をしているバカの感情論と程度の違いはあっても同じものであって 腹を立てても何かの社会的な役に立つわけではない

「罰(暴力)を与えれば解決だ」というのは ヒトの脳の先天的欠陥による「錯覚」に過ぎない

逮捕もされないことが「悔しい」のかも知れないが そうした主観的感情論は社会安全性において意味がない

莉子パパの気持ちがわからないわけではないけれど 気持ちという感情よりも具体的に事故を減らすための理性的対策を優先することの方が重要

自動車事故であっても 航空機事故や原発事故と同じように再発防止を優先すべきであって そのためには罰というのは邪魔な感情論でしかなく ヒトの先天的な欠陥(錯覚)に過ぎないことを認識すべき



Ende;
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モスキート音

2019年08月24日 14時15分54秒 | 日記

boco社製のearsopenっていう骨伝導イヤホンを数年前に購入したことがあるので

モスキート音が聴こえるのかと思って試してみたら

かろうじて14000Hzが聴こえる程度で

モスキート音(18000Hz)なんぞ何にも聴こえなかった

普通にスピーカーで聴くのと違いはなかったよ

骨伝導っつっても一概に超音波まで聴こえるわけではないらしい

モスキート音 リオネットグループ

このサイトの音声ファイルってダウンロードできるようになってたんだけど

実際にダウンロードしてみたらどういうわけかファイルが *.txt 形式になっちゃって再生できなかった

仕方ないのでソースコードからファイルのURLを探して開いたらファイル形式 *.m4a でダウンロード出来た

https://www.sainokuni-rionet.jp/_files/choice/puretone_9000Hz.m4a

https://www.sainokuni-rionet.jp/_files/choice/puretone_10000Hz.m4a

https://www.sainokuni-rionet.jp/_files/choice/puretone_12000Hz.m4a

https://www.sainokuni-rionet.jp/_files/choice/puretone_14000Hz.m4a

https://www.sainokuni-rionet.jp/_files/choice/puretone_15000Hz.m4a

https://www.sainokuni-rionet.jp/_files/choice/puretone_16000Hz.m4a

https://www.sainokuni-rionet.jp/_files/choice/puretone_18000Hz.m4a

 

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想像の3倍

2019年08月24日 13時53分40秒 | 日記

歩道の端にある排水溝が鋼鉄製のグレーチング(格子)で覆ってあるんだけど

これが外れた状態で放置されていたのだ

多分イタズラとかはなくて 排水溝に小銭とか鍵みたいな小物を落として それを拾おうと外したんとちゃうかなと思うんだけど

スマホ歩きなんぞしてて足許見ないで歩いてたら(いやオラはせんけどな) 端に足引っ掛けてコケたり 踏み外して足首いわしちまうから「ちゃんと戻せよ」って思いながら家から手袋持って直しにいったんだが

想像の3倍くらい重くてビビった

しかも前後のグレーチングとの隙間がなくてビッチビチなので 戻すのに結構力が必要だったのだ

50過ぎのジジイが腰をいわしちまうところだったわ

要するに 外すには外せたんだが 戻すに戻せなくなって放置せざるを得なかったらしい

そういう時はTwitterとかで「誰か助けて」ってつぶやいてはどうかと思う

 

Ende;

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愛だの心だの

2019年08月23日 21時02分18秒 | 意識論関連

ある生物学者は

「鳥が卵を温めるのは プログラミングされた反射行動に過ぎない」

と述べた

 

あのね 鳥類に限らず動物の情動や感情の全ては先天的にプログラミングされた反射であって 先天的本能習性というものは必ずしも常に「正しい行動」を促すとは限らない

先天的本能習性によって促された統率的協調行動というものが 戦争や組織的詐欺や差別イジメの原因になることからも 感情という先天的行動バイアスの全ては目的のない「結果」以上の意味はない

そもそも感情という先天的行動バイアスというものは 進化の過程で結果的に残った性質に過ぎず そこに合理性のある目的が介在しているわけでもなく 目的の存在しない先天的行動バイアスが促す行動が どのような結果をもたらしても 誰も責任を負ってはくれないのである

感情のままに行動した結果 残虐な殺し合いになろうとも 絶滅しようとも 誰も責任を負ってはくれないのが遺伝的進化であり 先天的本能習性もまた遺伝的進化によって促された結果に過ぎない

 

遺伝的進化というものは数十億年に渡って洗練されたものであるため 生存にとって非常に有利な性質を獲得してはいるため たかだか数百年程度しか文明を持たぬヒトよりも優れた特定能力を持っているとしてもおかしくはない

だがしかし 遺伝的進化というものはあくまで膨大な失敗の上に成立するものであって ヒトが論理的に考えて合理性のある行動選択を行うこととは全く別次元のものである

ヒトは 先天的感覚によって促された錯覚を 錯覚として認識出来るため 錯覚に惑わされることなく合理的に行動を修正することも可能だが 遺伝的進化で同じように行動修正を実現するためには膨大な失敗 膨大な屍の末に偶発的に成功する必要があり

こうした遺伝的進化における「成功」というものは あくまで偶発的 確率的に発生するものであって どんなに稀な「成功」であっても膨大な変異と淘汰さえ繰り返せば起きる可能性は存在してはいるのである

だが ゆめゆめ間違えてはならないのは 遺伝的進化というものはあくまで「膨大な失敗」の上に成立するものであって 決して「進化任せにしておけば 全てうまくゆく」というような夢物語ではないのである

「膨大な失敗」の上に成立する進化を 「全てうまくゆく」と言い張るのは 膨大な失敗を無視したご都合主義的こじつけ以外の何ものでもない

 

ヒトが子供を大切にする感情であっても 順位序列感情に基づいた無責任さであっても 先天的本能習性が促す行動バイアスの結果であることに違いはない

しかし 社会的に無責任であることが社会安全性にとって逆行するものであることを検証出来る自己客観性があってこそ はじめて人間性として発揮されるのである

社会安全性への配慮が出来ることが 果たして「愛」や「心」として分類可能かどうかは知らないが 社会的に最も優先されるべきなのは目先の感情ではなく理性に基づいた選択であることに疑う余地などないのである

 

Ende;

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生存に価する社会

2019年08月23日 14時50分59秒 | 意識論関連

生存そのものに意味があるのではなく

生存に価する社会にどれだけ近付くことが出来るのかという希望ありきの生存である

毎日のように子供が自殺するような社会なら たとえ永遠の命が得られたとしても

そんなもんむしろ地獄でしかないだろ

「生きているだけで意味がある」なんつう その場限りの薄っぺらな「嘘」なんぞ要らん

学校が嫌なら行かなくて良い

イジメが蔓延している学校で協調性と称して同調性や迎合性を発揮していてもマトモな人間なんぞなるわきゃねぇだろ

折角日本にいるんだからネットで学習出来るよう整備すりゃ良いんだ

金出さなきゃ学習も出来ないなんつう「進学ビジネス」ばっかり流行らせやがって 結局高学力なバカを大量生産するだけじゃねぇか

原発の津波に対する脆弱性を放置するような「エリート」が一番要らねぇんだよ

 

Ende;

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老害

2019年08月23日 11時18分23秒 | 意識論関連

統率的協調性というものは必ずしも人間性に適するわけではない

協調性というものは同調性や迎合性も含まれており むしろ個人の自律的な社会的判断選択を阻害する性質でもある

「敵」とみなした対象を 集団で協調的に攻撃することで仲間意識(無意識な行動バイアス)という感覚的快楽を醸成することができる

こうした仲間意識(先天的快楽)というものには中毒性があり その中毒性ゆえに暴走の原因ともなる

ヒトがなぜ 実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけるのかと言えば そもそも実証不能の観念とは先天的本能習性によって促される行動バイアス(快楽)が作り出すものであり それゆえ極めて動物的な野蛮性をも持ち合わせているからである

学級内や職場でのイジメや ヘイトスピーチ ISILやオウム真理教によるテロなど これらに共通するのは統率的協調性に対する快楽への中毒であり 個人が自律的な社会的責任判断を放棄出来るという無責任さを促すことが可能だからである

ヒトは 誰かの命令に唯々諾々と従っていた方が気分が楽なのである

自分で行動選択に責任を負い 多数他人に迎合せずに自律的に「どうすべきか」を選択することは ヒトという種の生物には先天的習性として組み込まれてはいないからである

自律的判断を行う理性や客観性というものは先天的なものではなく むしろ環境によって後天的に発揮するかどうかが大きく左右される性質のものでもある

幼児期から虐待されて育った子供が 大人になって自分の子供に対しても同じように虐待を繰り返し連鎖するのも その行動を自己検証する客観性や理性が働かなくなっていることが大きな要因である

自分が親から虐待されて育った事実を認知的不協和的に解消するためには 虐待行動は正当化しなければ「気分的にやってられない」からである

主観的な気分や感覚が優先することによって 自己客観性というものが失われるのであり 客観性がなければ理性も働くことはない

理性が働かなければ無意味な因習の類いであっても漫然且つ必死になって継続しようとする

伝統だの文化だのに異常な執着や正当化をしたがるジャレド:ダイアモンドやダニエル:デネットといった保守的生物学者や哲学者達は「ヒトという種の生物は先天的に常に正しい行動しかしない」という進化万能論という非科学的妄想に基づいた観念に囚われており 気分的安心と論理的安全性を完全に取り違えている

文明から隔絶された原住民の文化や伝統というものは 要するに「結果的に絶滅せずに済んだ」集団に遺された文化や伝統だからこそ上手く機能しているのであって 文明から隔絶された原住民の全てが常に平和であるわけではなく 人肉を喰らう集団や 割礼(幼女の性器を切り取り縫合する)を行う「文化」や「伝統」というのも実在しているのである

たまたま平和な集団だけを都合よく抽出してきて あたかも「文化や伝統の全てが常に正しい結果をもたらす」かのように解釈するのは もはや科学でも何でもないオカルト宗教である

遺伝的進化というものは あくまで「膨大な失敗」の上に成り立つものであって 「進化にまかせておけば全てうまくゆく」などというのは 「うまくいっている結果」だけを抽出したこじつけに過ぎない

伝統などと称して機械手続き的に「これさえやっときゃ 全ては解決」という妄想を促しておけば バカな大衆の多くはその場限りに気分的に安心満足し そこに普遍的な論理的根拠に基づいた安全性が存在するのかどうかは誰も考えなくなるのである

伝統的手続きさえこなしておけば ヒトは安心する

永く続いていることというのは それだけで気分的安心という中毒を促すからである

しかし その気分的安心という中毒こそが個人から自律的な論理的安全性の追求を喪失させるのである

断片的 且つ一面的な結果だけを都合よく抽出してきて あたかも文化や伝統の全てが常に正しい結果しかもたらさないかのように言い張るジャレド:ダイアモンドらは もはや老害と言う他ない

 

Ende;

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