「客観的事実などない」だの「意識に意味はない」だのという養老孟司の大嘘をマスコミは鵜呑みにし 「本が売れた」とか「(多数)人気がある」ことを根拠にあたかも科学者として優秀であるかのように錯覚しているバカが多すぎる
意識に意味がなく 感覚こそが人間性だと言うのであれば 無意識なまま感覚的に行動しておけば人間性が自動的に発揮されるという意味になる
そんな訳ねぇだろ バカか
養老孟司は相手によって言う内容をコロコロ変えており 話に一貫性が全くない それはつまり「間違えて」いるのではなく 意図的に「嘘」を言っているのである
相手が論理的思考の出来ないバカだと判断すると「禁煙と書かれた看板の前でタバコを吸う ほら 私は脳化していない」などという どうにも意味不明な訳のわからぬ屁理屈を言い出すペテン師である
もしかすると野依良治が「主観が重要」だとか言い出したのは養老孟司に丸め込まれて思考を撹乱されている可能性もある
東電社内において原発の津波に対する脆弱性を指摘できるかどうかというのは そこに自己客観性に基づく論理検証性が働くかどうかにかかっているのであって 単なる主観的「感覚」だけでは個人が自律的な社会的責任判断が自動的(自然)にできるわけではない
なぜ東電社員が原発の津波に対する脆弱性を誰も指摘しなくなったのかと言えば 先天的な社会形成習性が促す権威服従性や仲間内での多数派同調性や迎合性による「感覚」的な恐怖心が原因である
養老孟司に限らず 生物学者の多くは遺伝的進化による先天的本能習性が促す条件反射的な感覚こそが意識の本質だと言い張るが それがトンデモナイ非科学的なオカルト誤謬なのである
科学というのは多数決ではなく 論理的に正しいかどうかで決定されなければならないのであって ましてや「本が売れた」だの「人気がある」などといった多数決的結果は到底科学的に言っていることが正しいことの論証には全くならない
マスコミや大衆の多くは科学的な論理検証が苦手なうえ 権威肩書の言っていることを唯々諾々と鵜呑みにする「従順さ」を発揮することで 簡単に「東京大学名誉教授」の言っていることを盲目的に信頼してしまうのだが それは報道機関として社会的に無責任な「垂れ流し」にしかなっていないのである
「ヒトという種の生物が先天的に常に人間性を発揮するものである」かのように言っておけば バカな文化系マスコミや大衆の多くは あたかも「自分達は先天的に常に人間性を発揮できる優秀な存在である」かのように錯覚を促され それによって主観的な気分が良くなることで養老孟司などの生物学者達の進化万能論を短絡的に鵜呑みにするようになるのである
「自分の気分が良くなる」というのは あくまで先天的な条件反射に過ぎず 科学論理的に正しいことの証明には全くならない
ペテン師や占い師というのは ヒトのこうした先天的な錯覚を利用することで ありもしない嘘に現実味を抱かせることでヒトを騙すのである
個人が自律的な社会的責任判断を行うには 統合的な観点から検証する自己客観性が不可欠であり 「社会安全性を優先しないことには いかに自分や自分が属する組織体制にとって目先の有利を追求しても 人生全体においては意味がない」ことまで「考え」てこそ発揮されるものであり これは単なる主観的「感覚」だけで発揮されるものではなく 自己客観的な論理検証性が充分に働いてこその「感覚」なのである
「感覚」という言葉ヅラだけを抽出してきて あたかも「感覚」こそに人間性が伴うかのように言いくるめることは そんなに難しことではない
「意識」という言葉ヅラだけを用いて 「そうした意識が問題だ」などと言えば あたかも意識の全てが問題であるかのような錯覚を促すことも簡単である
実際には「そうした意識」こそが無意識な条件反射を指しているにも関わらず 単に「意識」という言葉ヅラだけを用いて「意識に意味はない」と言われれば 大多数のバカな大衆は「意識に意味はないんだな」と短絡的に鵜呑みにするのである
養老孟司は言った内容を録画録音されたり記録されることを嫌う それは言っている内容に論理整合性がないことがバレるからである
既に著作として文章化されている内容だけからでも養老孟司の嘘を判別することは可能だが マスコミや大衆の多くはその場限りに気分が良くなるように誘導されれば疑うことをしなくなることを 養老孟司というペテン師はよく知っているのである
主観的 感覚的に好きになった相手を疑わなくなる習性というのがヒトにはある
それなら 「感覚」や「本能習性」や「無意識」や「主観」こそに意味があることにしておけば バカなマスコミや大衆はその場限りに主観的に安心満足して何も疑うことをしなくなる
それは洗脳以外の何ものでもない
洗脳状態のヒトというのは 決して何か苦悩しているわけではなく むしろ何の疑問ももたずに盲目的に信じ込んでいるために 部外者の話に一切耳を貸さなくなるのである
オウム真理教の信者に対して「お前のところの教祖は頭がおかしいぞ」と教えても一切耳を貸さないのと同様 養老教に洗脳されている「信者」達に何を教えても一切耳を貸さなくなるのである
ヒトは 一度自分が信じてしまったものに対して あとから疑うことを嫌う習性がある
それは 自分の過去の判断選択を否定しなければならず 「自分の頭が悪かった」ことを認めなければならないため 気分的に「嫌」だからである
「嫌」というのは「感覚」である
「感覚こそが人間性だ」と鵜呑みにしておけば もはや何を言っても「馬の耳に念仏」である
養老は「嫌な相手とどう付き合うか」と称して 「無視する 意識から外す」などという思考停止の逃避行動を勧めている
その方が主観的感覚として「気分が悪くならない」からである
自分が信じていたものが 本当は大間違いだったことを認識することというのは 自分の頭の悪さを認識することでもあり 「気分が悪い話」でもある
さらに ヒトの多くは自分の頭の悪さを認識することで 気分的に落ち込むことばかりに気を取られ 「なぜ間違ったのか」についての仕組み構造を検証することをしなくなる先天的習性がある
その場限りに気分的に「悔やむ」だけで 原因究明や再発防止のための工夫や教訓にはしないため 何度でも似たような間違いを繰り返すのである
こうした「感覚」が促す無意味なスパイラルから抜け出し 合理性のある対策や教訓にまで高めるのが失敗学や危険学の考え方である
懲罰によって精神論的に「悔やむ」ことを一時的に停止し 間違いの論理的構造メカニズムを分析理解することで 同じ間違いに陥らないように工夫することで再発防止への合理的で有効な対策につなげるのである
危険学や失敗学に精神論は出てこないのだが 養老孟司は「努力辛抱根性」や「修行」ばかりを勧めてくる それは大衆の多くが精神論的な話の方が気分的に満足出来るからであり 論理的に構造を検証するという面倒臭くて気分の悪い話に耳を貸さなくさせるための手口である
養老孟司の言っていることを鵜呑みにしておけば気分的には安心で満足することが出来るのであろうが それは社会安全性において重大な欠陥をもたらすペテンである
それを「信じたいか 信じたくないか」という主観(感覚)で判断されたのでは話にならない
自分の頭の悪さを自覚認識して頂かないことには 一向にバカは治らないのである
Ende;