書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

背内側前頭前野。

2012年01月11日 22時06分09秒 | 意識論関連
 NHKの「ためしてガッテン。」が言うところの「客観視くん。」というのは、どうも「論理的思考。」を無視した気分的解消方法を提示しているだけである。背内側前頭前野の機能というものは、気分的な不安による行動選択を促しているだけであって、これは動物的行動選択機能の一種に過ぎない。

 つまり、背内側前頭前野というのは「客観視くん。」ではなく、むしろ「主観くん。」或は「観念くん。」であって、論理的客観性とは異なるものである。だからこそ客観視を阻害する意識狭窄を招く原因ともなるのである。

 気分的に不安であるかどうかと、論理的に安全であるかどうかを区別できないことには、ただバカになっているだけであって、これは論理的行動選択とは無関係である。

 認知行動療法的に、論理的思考によって気分的な「安心。」と論理的「安全。」の区別を自律的にできないことには、ただ気分だけ解消するだけならカルト宗教と何の違いもなくなってしまう。

 臨床においては目先の日常生活における不自由だけ取り除ければ良いのであって。座禅などの瞑想によって、論理的思考までをも喪失してしまったのでは、気分的に楽になると同時に論理的思考すら失いかねない。これでは「人間。」として出来損ないである。

 瞑想という手法はオウム真理教でも使われていたものであり。気分的な精神疾患に対しての効果を持つとしても、論理的思考までも喪失してしまう可能性が有り得る。従って、瞑想などの手法を用いることを絶対的有効性のように論じるのは臨床心理学における精神衛生上の問題を対処療法的に解決しているだけである。

 精神疾患において重要なのは、論理的に考えれば些末な気分的「不安。」に意識の全てを囚われてしまうことが問題なのであり。背内側前頭前野の活動云々といった表面的な現象論だけを絶対的正義のように論ずるのは間違いである。物事の重要度をその場限りの気分によって優先度を決定してしまっては「ヒト。」としては健全であろうが「人間。」としては出来損ないである。

 原発や高速バスの運転において気分的な「安心。」を追及されては困るのである。

 気分的に「安心。」して飲酒運転をされても困るし、気分的に「安心。」して「自分だけは振り込め詐欺には引っ掛からない。」と思い込まれても困るのである。

 そもそも、「感情=行動。」という短絡性こそが問題なのであって。論理的思考による気分に依らない感情制御ができれば、余計な気分的「不安。」になど意識を奪われたりはしないのである。

 認知行動療法的に、自己の気分的不安というものを一つ一つ丹念に合理性に照らし合わせるという丁寧さが、瞑想類には欠如しており。短絡的で安易過ぎる。

 そもそも「気分(感情)=行動。」という意識の欠如こそが精神疾患や論理的思考停止の原因であり。この基本構造を無視して、その場限りに気分だけ良くなれば良いというような短絡的解決方法は容認できない。

 「気分=行動。」であれば、既に存在しているだけの自己の機械条件反射行動に対して、本質的には自己自身の選択が介在していないのである。

 臨床的な解決策だけを論ずるのであれば、カルト宗教にも精神衛生上の改善効果はあることになる。気分的に「安心。」することばかりに意識を奪われ、論理的に「安全性。」を求める思考までも失ってしまったのでは話にならない。原発推進派の者達が気分的に「安心。」して原発を正当化しているのは、彼等が気分的「安心。」だけでしか行動判断をしなくなってしまっているからである。

 ヒトという種の生物というのは、目先の気分さえ良くなれば、それで満足して何も考えなくなってしまう性質がある。気分だけの問題で全てが解決したと「思う。」のがヒトの習性なのである。

 別に「不安に陥れ。」と論じてるのではない。行動や思考が気分的な不安や安心でしか働かないことこそが無意識であると論じているのである。気分的にどんなに不安に陥っても問題の解決にはならない、放射能をどんなに「恐がって。」も放射線の影響が無くなるわけではないのである。重要なのは物事の危険性を論理的に認識し、どのようにすれば解決できるかどうかを「考え。」ることである。物事の優先度を気分だけで決定しない意識の広さが人間性の論証でもあるからだ。

 何に「怖がるか。」が重要なのではない。「恐い。」かどうかは大脳辺縁系の反射に過ぎないことを論理的に認識することによって、気分に左右されずに論理的に「考え。」るようになることなのである。しかし、こうした論理的思考を身につけるためには、瞑想のような短絡的で簡便な方法論ではどうにもならない。ましてやある程度の年齢に達してしまっていると頭が堅くなってしまって柔軟な適応能力、自由度が失われてしまい「今更できない。」などと称して、絶対に不可能であるかのような錯覚に勝手に陥る者も少なくない。「難しい。」というのであれば容認できるが、論理的に絶対不可能であるかのように論ずるのは、身勝手な固定観念による感情的拒絶反応に過ぎないからである。

 瞑想などによる気分的改善効果というものには、のべつまくなし無関心に陥る危険性が避けられない。あくまで副作用が伴うことを認識すべきである。

 教団による重大事件が発生したにも関わらず、オウム真理教信者の多くが無関心に続けるのは、彼等の脳がバカになってしまっているからである。そりゃ信者達は精神的には「安心。」だろうし、また精神衛生上も教団に迎合しておいた方が精神医学的には「健康。」というものであろう。



 やはり、些末なことに意識を奪われ不安に陥る精神疾患に対しては。自発的な純粋行為に「熱中。」できるようになることが最も副作用も少ないと考えられる。

 どこの馬の骨とも知れぬウケ狙いの臨床医などより。小柴昌俊や多くのノーベル賞受賞者や天才達の勧めることを優先すべきである。別に社会的成功云々の話をしているのではなく、純粋行為の持つ個人の人生における価値、生き甲斐というものを優先することによって、結果的に「自律。」的な社会的責任判断もできるようになることも人間として必要不可欠なことであるからだ。

 別にNHKで放送することが常に正しいという保証など、どこにもないのである。それこそ「メディアリテラシー。」というものである。

 精神的にあまりに苦痛で、急場しのぎで瞑想などの手法を用いるのも場合によっては仕方ないのかも知れないが。あくまで副作用の危険性を無視すべきではない。毒の類というのは少量なら薬にもなるが、限度を超えればただの毒にしかならないことを、忘れるべきではない。

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3 コメント

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Unknown (Unknown)
2012-02-13 14:28:40
書いてあることは納得できる。
しかし、不安な気持ちで満ち溢れてしまっている、ある種の人達にとって「客観視くん」は、自死を踏みとどまらせる有効な手段かもしれないと思う
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Unknown (sar)
2012-12-28 23:01:45
論理性が失われると考える理由を論理的に論じて頂きたいものですねw
返信する
確かに (へかべ@逆説君 https://mobile.twitter.com/tea_odorata)
2018-10-02 09:42:26
不安抑制、冷静になるための器官であるならばお説の通りなのですが、
背外側前頭前野は認知的共感性を担う器官であると認識しておりましたのでたいへん興味深いです。
機能定義の違いについて
ぜひ詳しくお願いいたします
(中野信子氏に関するご意見にも賛同いたします。取り急ぎ)
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