教育の目的とは 本来個々の生徒が自ら主体的に安全で平等な社会を築きあげてゆくことができるようにすることである
ところが 就職に有利な学力学歴偏差値だけが目的とした教育ビジネスによって 生徒は自分の主観的な安心満足ばかりを追求するようになり 自発的に物事を考える能力を失い 間違った内容を教え込まれても一切疑問に思うこともなく 唯々諾々と既存の世間の価値観に迎合し 既存の体制に忖度し 既存の権威に服従するだけの無能者ばかりが再生産され続けるのである
本来の目的を忘れ 制度上の手続き的に学力成績という基準だけが絶対的な「正義」になってしまう
目的のための手段であるはずの学力なのだが 学力成績という数字だけが目的にすり替わってしまっているのである
目的と手段がすり替わってしまっていることに対し ヒトの多くは気づくことができない
こうした認知上の欠陥というものは学力成績とは無関係で 既存の学力成績がどんなに高くても 教えられたことを教えられた通りに覚えるだけで 教えられた内容が本当に正しいのかどうかを自分の頭で考え 検証するという主体性はなく
東大医学部に入れる程の学力がありながらも 毒ガステロという無差別殺人を「人類の救済だ」と教え込まれれば唯々諾々と鵜呑みにするようにもなるのである
警察官が業務上の「業績」として点数稼ぎばかりを優先し 本来警察が担うはずの安全性の追求という「本当の目的」を忘れ 個々の警官は点数稼ぎのための取り締まりしかしなくなり
検察もまた本来の社会的役割を忘れることによって 冤罪と明らかにわかっていながら都合の悪い証拠を隠蔽することで不祥事は繰り返されることになるのである
冤罪などの間違いは起こる 間違えないヒトなどいないからだ
間違えた時に間違えたことを正直に明らかにし 企業のリコールのように丁寧な訂正や是正を行う誠実さを 警察や検察は持ち合わせていない
それは 衆愚からの印象として 間違えることが短絡的に「悪」だという観念によって 外見上の威厳を保つための「取り繕い」をするからである
ヒトは誰でも間違える アクセルとブレーキを踏み間違えたことで取り返しのつかない重大事象が起きた際には 本来「罰」ではなく再発防止を優先して徹底した原因究明を行うことこそが 社会的には最も価値があるはずなのだが
警察は自分達も踏み間違えによってビルに激突したことや 交差点で5歳児を轢き殺した事実をごまかすために 運転技能の訓練だけで「再発防止策」だと言い張り 外見的な威厳を保とうとするだけで根源的な原因究明は一切しないのである
もちろん訓練は大切である だが それはむしろ当たり前のことであって 外見的な印象としての威厳だけを保つことよりも 警官も含めた一般運転者における「失敗」についても同列に検証し 自動車の構造についてまで言及する徹底した対策まで行う社会的責務がある
あるはずなのだが 外見的な威厳だけを取り繕うことで安心し 満足し 警察の「本当の目的」としての「やるべきこと」は行わないのである
二輪車事故による頭部損傷が死亡の大きな要因であることを基にヘルメットを義務化するのと同様に 踏み間違えによる暴走が問題となっているのであれば 踏み間違えが起きないような構造への義務化もできるはずである
それを「踏み間違えること(過失)は罪」という法制度上の規定に則って 被害程度によって罰の程度を変えるだけの手続きしか司法は行わず 本来の社会安全性にとって優先されるべき施策が全く放棄されることになるのである
「意識」とは 本来論理客観的な合理的「目的」を見定め 見分けるためのものである
決して衆愚の気分感情を満足させるための外見的印象としての威厳を保つことではない
「上級国民」に対する私刑で満足している衆愚も含め 被害当事者ではない無責任な衆愚の外見的な満足を目的とした現状の司法刑罰制度の根本的な「間違い」を改め 再発防止を優先した徹底的な原因究明を行うための制度手続き改革が必要なのである
松永莉子ちゃんのパパは 「再発防止のために一緒に考えて欲しい」「真実を語ってくれること」を願っているのであって 手続き上の「罰の程度」は問題にしていない
たとえ5歳児を轢き殺した警官を刑務所に何年ぶち込んでも 警官の過失の原因究明にも再発防止にもならない
罰の軽重と原因は無関係だからだ
これは犯罪においても同じことが言え 「女子中学生を誘拐監禁することが強盗殺人よりも罪が軽い」などと称した「犯罪者間における罰の公平性」などという 犯罪者以外には何の公平性もない司法手続き上の根拠のない基準によって「懲役9年」という判決だけで「解決」だとみなされているのである
誘拐監禁犯を何年刑務所に入れておいても 原因究明と再発防止には貢献しない
それこそ「俺のような人間は死刑になったら良いんじゃ!」などと自暴自棄になっている通り魔に対して 死刑判決を下すことは「望みを叶えてやった」だけにしかならず
「どうして自暴自棄な観念に陥って身勝手な無差別殺人を引き起こしたのか」についての論理客観的な原因究明の検証は一切行われていないのである
テロや通り魔のような無差別殺人や暴力というものには何ら合理性がない
ヒトは暴力を振るうことで脳が快楽を感じる先天的仕組みが存在するからこそ 何かにつけて暴力によって何かが解決すると錯覚しているだけであって これは「刑法判決で解決」という発想と根本的には同じ主観的満足である
言うことをきかない子供は 殴れば一時的に服従する
怖い相手には逆らわない方が「楽」だからである
だが こうした育て方をされた子供は 主観的な「楽」の追求のためには自分よりも弱そうな相手を殴って服従させることを「覚えて(機械学習して)」しまうのである
「楽」とは すなはち主観的気分感情であり 本能的欲望である
チンパンジーならそれでも罪に問われることはなく 予め鋼鉄製の檻にでも監禁しておけば良いのだが 「人権」を持った「ヒト」の場合には そうはいかない
刑事裁判においては「刑事責任能力の有無」が問われるが 刑事責任能力があるにも関わらず犯罪を犯す非合理性の原因については一切議論も検証もされることはない
暴力によって他人に危害を加えても 利己的利益にすらならないのに どうして暴力を「解決」だと錯覚しているのかと言えば 国家権力が「罰で解決」だと見なしている刑法罰が むしろ「根拠」にされているのである
思い通りにならない時に 駄々を捏ねて暴力的に振る舞えば 一時的には周りの者は「面倒くさい」ので思い通りにさせてもらえることは多い
怒っている相手は「怖い」ので 「怖い」相手には逆らわずに迎合しておいた方が「冷静」だと思っている者は多い
「恐怖」の感情に流されて理不尽な要求でも飲むことは 一見冷静なようにも「見える」のだろうが これは主観的な印象に過ぎず 到底客観性を伴う合理的判断とは言えないものである
刑法というものは国家権力を用いた「恐怖(主観)」によって民衆を支配するための制度である
本来民主主義国家であれば 民衆自ら社会安全性や公平性を求めるべきものでなくてはならないのだが 民衆の中には自律的に社会的責任を負う意思を持たない者が存在するため 社会的責任意識の有無に関わらず国家権力による主観的「恐怖」を用いて一律に民衆の行動を抑圧するという時代遅れな制度が温存されているのである
民衆が率先して社会安全性や公平性を求めるという 民主主義の根幹を民衆が見失うのは 学校教育が学力偏差値という基準だけで生徒の優劣を測るだけのトンチンカンな学力ビジネスのシステム化が進み過ぎていることが原因で「教育の本当の目的」を見失っているからである
メンタリストのDaiGoのように 心理学の学術論文を片っ端から読み漁っていながらも「ホームレスは死ね」などという差別排除に陥ることがある
他人の感情(主観)は読めていても 自分が何を客観的目的としているのかは見えていないのが原因である
その場限りに多数からウケの良さそうな話だけをしていれば人気が出て金が儲かり満足感が得られるため これを機械的に「学習」する形で自分の主観的満足だけが絶対的正義だと錯覚することによって 論理客観的な「人間としての目的」を見失ったのである
DaiGoの発言は法的には「思想信条や言論の自由」の範疇であり 罪に問われることもないが 明らかに人道には反したものであり 犯罪者に普遍的に見られる典型的な思考パターンでもある
「失敗」は その原因を徹底的に究明し 再発防止のための知見にまで昇華させれば むしろ社会的には「教訓」という財産にすることも可能である
犯罪者が身勝手な観念に基づき非合理な犯罪を犯すメカニズム構造を解明すれば 犯罪を犯すような者を減らすことも可能となる
最も根源的な原因を放置して 結果的に起こった過失や犯罪に罰を与えて「解決」するという法手続き制度の根本的欠陥を 誰も認識することができないのは 目先の懲罰感情を満たすことしか意識が働いていないという無意識性に起因するものである
犯罪者が犯罪者になる原因というのは非常に複雑な要因が絡み合っているはずであり 簡単には解明できないことは確かである
先天的に「何かを短絡的に決めつけたがる性格」であったり 「主体的意思を尊重してもらうことができなかった生育環境」だったり 「学力成績が下がることへの恐怖心から自分が本当にやりたいことが探せなかったという心理的要因」だったり 非常に多様で複雑な原因があるだろう
だが 犯罪者に共通する普遍的傾向性が突き止められれば再発防止にとって重要な知見となることは間違いがない
それを刑法罰というのは全て蔑ろにする「因習」なのである
ヒトは 長く続くことは永遠に続くものだと錯覚する
「長く続いたもの」は主観的に安心感を醸成してしまうからである
主観的安心感には合理性がない 「産まれて今までずっと生きている」からといって「永遠に生きること」に意味がないのと同じことで 先天的な脳の構造に由来する主観的安心感というものは論理客観的合理性が伴うわけではない
刑法廃止とは言っても 別に「危険人物を社会に放置しろ」と言っているわけではなく 犯罪者が自らの行為の非合理性を自覚させることを優先させ 社会安全性を優先することが目的である
特に幼女性愛などは再犯率が高く 刑法上の罰だけではほとんど再犯防止に役立たないことが明らかであり たとえ厳罰化をしても根源的原因の究明や再発防止のための実効性ある対策には全くつながらないのである
更生治療によって「治る」までは社会から隔離するという仕組みが必要であり 刑法裁判による手続きで「懲役○年」などという判決を判事が下しても 再犯の責任は誰も取る仕組みが全く存在していないという根源的欠陥が存在しているのである
死刑制度を廃止した北欧のとある「刑務所」では罰を廃止することによって 犯罪者自身が自分の犯した行為の非合理さ 無意味さを自覚するようになり 高い更生率を果たしているという
「誰一人として取りこぼさない」という人道的観点からは たとえ凶悪な犯罪者であっても更生治療や原因究明を優先し 同じような犯罪を繰り返さないことこそが 社会安全性にとっては最も合理的で有効な施策である
凶悪犯罪者は多くの人が忌み嫌い蔑むものであろう 私個人も大嫌いである だが「嫌い」なのは個人の主観であり 「同じヒトという種の生物」であることに違いなどないのである
ヒトは先天的な「社会性」によって自分と他人との間に順位序列を決めておこうとする習性があるため どうしても「犯罪者には罰を与えておけば良い」という短絡的な主観的満足を求める傾向が強い
「気に入らない相手は殴って服従させておく」という短絡的発想は 犯罪者であっても 犯罪者に罰を与えたがる多数民衆も同じ先天的な「主観」に起因するものである
フランシス:ゴルトンによる優生学などの「合目的的な遺伝的進化万能妄想」が生物学界で「常識」になってしまったのは ゴルトンが上流階級出身で 高名なチャールズ:ダーウィンの従兄弟だったことによる観念的な「説得力」が原因である
ヒトという種の生物は 自分よりも「上」と見なした相手の言うことに疑いを持たず 盲目的に信用したがる習性があり 権威肩書さえあれば養老孟司であろうとマルクス:ガブリエルだろうと 言っている内容に論理客観的根拠がなくても簡単に鵜呑みにするものなのである
更に 主観的に気分が良くなるような内容でありさえすれば その主観的安心満足によって益々盲目的に信用し 内容がオカルトだろうが何だろうが誰も疑うことがなくなり 世間的には「常識」になってしまうのである
ダーウィンによる遺伝的進化のメカニズムの説明は ランダムな変異と環境などからの淘汰圧力による自然現象(結果)だと結論しているのであって 遺伝的進化に目的だの戦略があるという説明とは論理整合性がない
にも関わらず フランシス:ゴルトンによる遺伝的進化万能観念に基づいた優生学が信じ込まれ しかも未だに私以外誰も論理反証もしていなければ 逆に「目的のために進化した」とか「生存戦略」などという非科学的観念を信じ込んでいる生物学者や哲学者や医師までもが後を絶たない
方向性も目的もないランダムな変異にも その後の淘汰圧力による収斂進化にも どこにも主体的目的選択可能性など存在せず 全ては「生存」や「種の保存」に適した結果に対する必然性以外何もないのである
目的意識というものは 「論理客観的に合理性のある選択をする」ものであって 選択可能性のない遺伝的進化に目的をこじつけるのは科学を逸脱したオカルト妄想でしかないのである
遺伝的進化による形質や習性というものは 必ずしも全てが生存や種の保存にとって合理的に働くわけではなく 非合理で意味の全くわからない形質や習性も存在しているのである
ヒトの生活習慣病の原因も 祖先の生息環境に由来するものであり ヒトは医学的知識や医療によって合理的(本質的意識)に行動選択を行うことによって 先天的習性に無意識に流されることなく生活習慣を変えることも可能となるのである
本能的な食欲のままに暴飲暴食をしていた方が脳は気分が良いのであろうが その先に破綻が存在していることを「知って」いながらやめられないというのは 脳が「人間」としての意識(理性)としては働いていないからである
権威服従性や迎合的な忖度によって集団組織に執着する習性もまた 一種の「社会的生活習慣病」であり 原発事故の根源的原因においても指摘されている「組織の利益を優先し 自律的な社会的責任を負わなかったこと」もまた同じである
ヒトは大きな力を持った集団組織に同調し 迎合的に忖度服従していた方が安心満足感が得られるため 組織に危険性があると認識していても無視し 都合良く勝手な解釈をこじつけて正当化をして意識から外すことで破綻するまで暴走するのである
ナチスの絶滅収容所の吏官であっても 東電原発安全担当者であっても 当人達は破綻の可能性を自覚していても暴走している自覚はなく 安心して危険な選択を漫然と続けているのである
これらはひとえに 個人が主観的に安心であることを 短絡的に客観的な安全性と錯覚していることが原因である
ヒトは基本的には動物であるため 主観的感覚が意識の大半を占めており 客観的根拠に基づいた論理的検証は必ずしも働く保証はない
「ヒトの意識の9割は無意識」とは そういう意味である
ヒトの脳というのは動物的な主観的感覚が優先するという認知的な欠陥(錯覚)が先天的に存在しており これによってフランシス:ゴルトンや養老孟司やマルクス:ガブリエルらの「嘘(或いは間違い)」でも簡単に鵜呑みにし 誰も疑いを持たなくなってしまうのである
言っておくが 養老孟司は相手によって話の内容をコロコロ変えるペテン師である 相手が論理的に考えることができると思えば支離滅裂なことは言わず 逆に相手が論理的には考えられないバカだと思えば「禁煙と書かれた看板の前でタバコを吸う ほら私は脳化していない」だとか「約束を守るのは脳化だ」といった訳のわからぬ持論を展開して撹乱する 天才的な「嘘つき」である
養老の著作は 実際には何も論証などしておらず 後からどうにでも解釈をこじつけることができる「寝言」のようなものであり 養老に説明を求めても 後からどうにでもはぐらかすことができる ただの大衆迎合的戯言に過ぎない
それでも 多くのヒトは養老の「説明」で気分的に安心満足させられることによって その主観的安心満足によって気分が良くなることで 嘘を嘘だと認識できなくなるのである
そんな奴に東京大学は「名誉教授」という肩書を与えているのである
その点においては遠藤秀紀も含めて職員一同も同罪であろう
養老は著作が大衆人気を集め 金儲けに長けた「成功者」である
多数大衆からの人気によって あたかも「多数によって内容が検証され正しいことが保証されている」とでも勘違いするのは簡単である
フランシス:ゴルトンの優生学が蔓延したのも同じメカニズムである
「世間的成功者」や「上流階級出身者」といった順位序列に大衆は信頼のバイアスがかかる傾向が非常に強いため 内容に科学的根拠が伴わなくても 勝手な決めつけであっても 安心して信用して疑わなくなるものなのである
◇
宗教には2つの側面がある
一つは「主観的満足安心感を得るため」であり
もう一つは「人間としての真理(真実)を求めること」である
テロリスト達の多くは 自分が死後に神からの祝福を受けて永遠の命を得るという利己的目的のためにテロをやるのであって これは「主観的満足安心感」の暴走した果てである
「あの世」での神からの評価承認を承ることが目的になっているため 「この世」における行動責任を一切負わないようにもなるのである
だが パレスチナの女性救急隊員による自爆テロはこの限りではない ここでの説明は省く
神とは 野蛮な暴力者による封建的で不公平な統率に抗い 「勇気」を持って人権や平和を主張する「人間としての理想」のことである
写真用レンズの設計においても「理想レンズ」という概念がある
様々な物理光学的現象によって ガラスやプラスチックや結晶を組み合わせて作る写真用レンズには 画質性能を劣化させる「欠陥」があり 決して完全無欠の写真用レンズは実現できないとされる
それでも 概念上の理想に基づき様々な材料開発や技術開発によって より高い画質のレンズへと近付ける努力が日々なされている
写真用レンズの場合は理想に近づけば企業の業績収益につながるが 人間の理想は追求しても必ずしも得になるわけではなく むしろ「正直者がバカを見る」ことも少なくはない
戦争に積極的に加担した特攻隊は「英霊」扱いだが 戦争自体を反対した政治犯は「裏切り者」なのも一例である
それは 企業などでの内部告発者の扱いにおいても同じである
集団組織に忠誠忠実に服従する者は「純粋」でイノセントな存在として扱われ たとえ社会的に責任ある行動選択だとしても集団組織に抗う者は「裏切り者」として扱う観念がヒトには普遍的に存在し 原発の危険性を放置した社員に対しては「組織の体質が悪いからだ」などというはぐらかしも平気でまかり通り 個人の自律的な責任判断は「なかったこと」にしておくことで正当化するのである
「組織の体質」というものも 結局は組織を構成している個人の責任意識に依存したものであり まるで個人には責任を問えない免罪符のように言い張ることはできない
中東由来の一神教の信者でなくとも 人間としてどう行動選択をするべきなのかの理想は理解判別可能である
むしろ「神がいないなら何をしても赦される」などという自律の欠如こそが 人間としての理想からの著しい乖離を生み出すのである
社会安全性や持続可能性や平等や公平性を求めているのは「人間」であって 神ではない
しかし ヒトという種の生物は主観的な安心満足を優先することによって 神に行動責任の全てを丸投げしておけば自律的に自分で責任判断選択をしなくても済むと勝手に勘違いして満足することで 人間としての理想を簡単に見失う原因ともなるのである
神や宗教を「偉大だ」と「思う」のは主観である 主観は主体的には選んでいない
むしろ「偉大だ」と主観的に思っているものを神だとみなしているのであって 「偉大だ」と思わないものは当人にとって神ではない
「欲望そのものを欲することはできない」のであって 主観的に「偉大だ」と思う対象もまた選択はできない
「偉大だ」と思っている自分は自分では選んでいないからだ
貧困スラムのギャングの中で育てば ギャングのボスを「カッコイイ(偉大だ)」と思うであろうし
残虐なゲリラに育てられればゲリラこそが「正義」だと思うものであり
イスラム原理主義組織の中で育てば暴力破壊こそが栄誉ある「殉教」だと思い込み
ナチス政権下であればヒトラー総統がカリスマになる
学力偏差値競争の中で育てば学力偏差値の高さだけが知能の基準だと勘違い錯覚する
主観の中には錯覚が混入するものであり 錯覚を錯覚だと自覚認識するのは客観性であり 論理的検証(考え)という「人間としての意識の本質」である
論理客観的根拠に基づいた真実というものは 時に主観的錯覚との間に乖離が生じることがあり 真実の方に感覚的違和感や拒絶反応を引き起こすこともある
その場合にヒトは 認知的不協和を解消(気分が悪くならないように)することを優先し 真実の方を拒絶するものなのである
こうした先天的な認知上の欠陥が自分にも存在することを自覚し 自分の主観的感覚に頼らず 論理客観的な根拠のある事実に基づく判断をしなければ 無意味で不毛な因習に囚われたり 逆に意味のある有効な対策を理解できずに一蹴したりするようにもなる
その姿は あたかも振り込め詐欺師に騙されていることを理解せずに 何が何でも振込もうとしている認知症の老人のようである
ナチス政権下における絶滅収容所の吏官も ポルポト派の兵隊も 香港警察の警官も 太平洋戦争時の日本軍の兵隊も 上官からの命令に唯々諾々と何も考えずに服従し続け むしろ暴力破壊を率先して「自発的」に行ったようにも見える
ナチスの絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは 率先してユダヤ人殺害計画を立案実行したが 言うまでもなくナチス政権からの評価承認(他人から与えられる脳への報酬)を目的とした行動であり 他律であって自律ではない
自分が主観的に「思った」ことが 短絡的に「自律」になるわけではなく あくまで主観的な「思い」に混入する錯覚と 論理客観的な「考え」に基づいた「嘘と真実」の区別ができることを「自律」というのであって 客観性なくして自律も人間性も自由も意思も成立しないのである
観念論者の解決策は基本的に暴力破壊である
それは 野生動物が基本的に他者を喰うことで生物としての存在を維持し続けてきた遺伝的な「名残り」であり
ヒトにまで進化する以前の祖先は野生動物の一種にすぎなかったため 暴力破壊への本能的な行動バイアス習性が快楽となるよう収斂進化した結果である
「コールオブデューティー」や「フォートナイト」のような殺人ゲームに人気があるのは ヒトは暴力破壊が本能的に楽しいからである
アメリカ映画の多くも殺人や破壊が大好きである
悪人と見なした相手を勧善懲悪の正義の名の許に殺害して満足する話の方が多数大衆の人気は得やすいからである
ビンラディン容疑者は 容疑者のまま米軍によって殺害されたが これを当時のバラク:オバマ大統領は「正義の鉄槌を下した」などと正当化したが それでテロの原因が解明されたわけでも 具体的な再発防止策が確立されたわけでもなく 別のテロリスト達による自爆攻撃も アメリカ国内での無差別銃乱射事件も後を絶たない
これは北欧での「死刑も罰も廃止した刑務所」における再犯率低下 更生率向上と全く逆行する「罰で解決」という「無駄な因習」に囚われているからである
刑罰というのは観念論であり 社会安全性が高まる論理客観的根拠は何もない
首都高速で暴走しているバカを速度違反で取り締まっても 元々無法者である以上免許停止になっても暴走を繰り返すことまであり 罰も取り締まりも「無謀なキチガイ」に対してはほとんど抑止効果すらない
自律的に社会的責任判断選択をしない「無謀なキチガイ」というのは 暴走に取り憑かれた「中毒者」であって 「死んでも良いから暴走がしたい」という どうにも訳のわからぬ非合理で軽薄な人生以外が選択できない状態だからこそ 他に楽しみを見つけることができないのである
「他に楽しみを見つける」自由が損なわれているため 他人の迷惑に配慮する余裕すらなく暴走に取り憑かれ 自滅破綻するまで暴走を続けること以外には何も「見えていない」のであり この「見えていない」病理に言及しないことには どんなに警察が取り締まりで「頑張って」も問題解決にはならない
他人との比較競争に依らない純粋な個人的楽しみを知っていれば 脳内麻薬を自給自足できることになり 結果的に他人に対する迷惑にも配慮ができるようになるが
どんなに他人と脳内麻薬の量を競っても 大脳辺縁系が別ものである以上は他人との比較に意味はないのである
意味がないのに必死になって他人よりも優位に立とうとするのは むしろ純粋に楽む術を知らぬ精神的渇望によって 他人への配慮もできない程に盲目になっているためである
他人への迷惑に配慮ができない迷惑者というのは 自己に対する肯定感も希薄になり その自己肯定感の希薄さ故に更に精神的渇望に陥ることで 他人を貶めることでしか自分の優位性を感じることができなくなるという悪循環に陥り 無間地獄から抜け出せなくなるのである
フリードリヒ:ニーチェは明らかに承認欲求中毒であり 承認欲求中毒者にとって都合の良い 気分の良くなる「迷言」を陳列して人気を得たに過ぎず 精神病患者が精神病患者同士で仲良く病気自慢をしているようなものであり 病が悪化することはあっても改善することはない
カルト宗教の信者同士が仲良く共鳴しているのと同じで 承認欲求中毒が益々ひどくなることはあっても 治ることはない
ヒトの多くは承認欲求中毒であり 差別主義者である
だからこそSNS上ではMicrosoft社のTwitterAIが深層学習してヘイトスピーチをやらかすようなるほどの大量のヘイトスピーチが蔓延しているのである
ヒトという種の生物は遠藤秀紀が言うように生物としても欠陥品である上に 人間としても認知上の欠陥を抱えている存在なのである
錯覚が促す間違いを それと認識しないことには真実は見極め区別することはできない
「上級国民」や「へずまりゅう」に対する「私刑」が激しいのも 「罰で解決」という観念に基づいた「他人への暴力破壊」による満足感が動機であり 社会安全性や公平性には一切興味がない観念論者が合理性のない違法な「私刑」を実行して満足しているのである
それは被害者や遺族による真摯な公益的「再発防止」の願いとは無関係な「身勝手な満足」が目的であって 本当は攻撃の標的は「誰でも良い」のであって それこそ山梨県での女児行方不明事件の母親でも構わないのであって 身勝手な正義の達成感満足感を得るための「ネタ」でしかない
差別することによる満足感が欲しくて差別しているのであって 差別によって社会的利益のようなものを目的にしているわけではない
田島木綿子(たじまゆうこ)は遺伝的進化について「生物は、自分の置かれた環境が変わると、その環境に適応するために、体の構造や機能などを大きく変化させる能力を発揮し、生き残ろうとする」などという説明をしているが
環境が変わった時だけ体の構造や機能を大きく変化させる能力など存在せず 田島の勝手な妄想観念に過ぎない
更科功は「本来生物は、生きるために生きているのであって、生きる以上の目的はないのだろう。生きるために大切なことはあっても、生きるよりも大切なことはないのだろう。まあ、生きていれば、それだけで立派なものなのだ。」などという「説明」をしているが これはもはや科学的な説明ではなく 従来の遺伝的進化に対する誤謬をはぐらかしているだけの「寝言」レベルの話に過ぎない
「生きるために生きている」などというのはチャールズ:ダーウィンの進化の説明とは異なるものであり ダーウィンはあくまで「自然現象」だとしか言っていないのである
「〜だろう」という予想にも根拠はなく 更科の勝手な観念的こじつけ以上に意味はない上 更に「生きていれば、それだけでも立派なものなのだ」などという結論には 何ら論理科学的根拠がなく ただの個人的主観や感想の羅列に過ぎない
このように生物学者の大半は科学的根拠のない勝手な決めつけや妄想を科学的論証であるかのように錯覚している論証ばかりであり 工学や物理学や天文学の研究者達が「訳がわからない」と忌避するのはこのためである
最初から論理的には意味のない勝手な決めつけや妄想である以上「訳がわからない」のは当たり前の話である
むしろ科学論理的に支離滅裂な話を「わかって」しまっている大半の生物学者や大衆マスコミの方が「どうかしている」のである
NHKのEテレでも 時折「進化には目的などない」という正しい説明をすることはあるものの 番組制作者は全く理解しておらずに別の放送回では「目的のために進化した」などと従来の生物学上の誤謬に基づいた説明をし始めることもある
解説のために呼んだ生物学者が間違った説明をしていても 番組制作者達は誰も間違いに気づくことすらできていないのである
論理客観的な論証をいくら繰り返しても 論理的に理解していないのであればどうにもならない
遠藤秀紀や五箇公一に徹底した遺伝的進化のメカニズム説明を周知する義務がNHKに限らず報道各社にはある
そうでなければ「ウイルスは弱毒化する」などというデマも平気で蔓延する原因ともなるのである
報道各局には責任ある判断選択をして頂きたい
Ende;