書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

意識論

2021年10月31日 22時03分52秒 | 意識論関連

教育の目的とは 本来個々の生徒が自ら主体的に安全で平等な社会を築きあげてゆくことができるようにすることである

ところが 就職に有利な学力学歴偏差値だけが目的とした教育ビジネスによって 生徒は自分の主観的な安心満足ばかりを追求するようになり 自発的に物事を考える能力を失い 間違った内容を教え込まれても一切疑問に思うこともなく 唯々諾々と既存の世間の価値観に迎合し 既存の体制に忖度し 既存の権威に服従するだけの無能者ばかりが再生産され続けるのである

本来の目的を忘れ 制度上の手続き的に学力成績という基準だけが絶対的な「正義」になってしまう

目的のための手段であるはずの学力なのだが 学力成績という数字だけが目的にすり替わってしまっているのである

目的と手段がすり替わってしまっていることに対し ヒトの多くは気づくことができない

こうした認知上の欠陥というものは学力成績とは無関係で 既存の学力成績がどんなに高くても 教えられたことを教えられた通りに覚えるだけで 教えられた内容が本当に正しいのかどうかを自分の頭で考え 検証するという主体性はなく

東大医学部に入れる程の学力がありながらも 毒ガステロという無差別殺人を「人類の救済だ」と教え込まれれば唯々諾々と鵜呑みにするようにもなるのである

 

警察官が業務上の「業績」として点数稼ぎばかりを優先し 本来警察が担うはずの安全性の追求という「本当の目的」を忘れ 個々の警官は点数稼ぎのための取り締まりしかしなくなり

検察もまた本来の社会的役割を忘れることによって 冤罪と明らかにわかっていながら都合の悪い証拠を隠蔽することで不祥事は繰り返されることになるのである

冤罪などの間違いは起こる 間違えないヒトなどいないからだ

間違えた時に間違えたことを正直に明らかにし 企業のリコールのように丁寧な訂正や是正を行う誠実さを 警察や検察は持ち合わせていない

それは 衆愚からの印象として 間違えることが短絡的に「悪」だという観念によって 外見上の威厳を保つための「取り繕い」をするからである

ヒトは誰でも間違える アクセルとブレーキを踏み間違えたことで取り返しのつかない重大事象が起きた際には 本来「罰」ではなく再発防止を優先して徹底した原因究明を行うことこそが 社会的には最も価値があるはずなのだが

警察は自分達も踏み間違えによってビルに激突したことや 交差点で5歳児を轢き殺した事実をごまかすために 運転技能の訓練だけで「再発防止策」だと言い張り 外見的な威厳を保とうとするだけで根源的な原因究明は一切しないのである

もちろん訓練は大切である だが それはむしろ当たり前のことであって 外見的な印象としての威厳だけを保つことよりも 警官も含めた一般運転者における「失敗」についても同列に検証し 自動車の構造についてまで言及する徹底した対策まで行う社会的責務がある

あるはずなのだが 外見的な威厳だけを取り繕うことで安心し 満足し 警察の「本当の目的」としての「やるべきこと」は行わないのである

二輪車事故による頭部損傷が死亡の大きな要因であることを基にヘルメットを義務化するのと同様に 踏み間違えによる暴走が問題となっているのであれば 踏み間違えが起きないような構造への義務化もできるはずである

それを「踏み間違えること(過失)は罪」という法制度上の規定に則って 被害程度によって罰の程度を変えるだけの手続きしか司法は行わず 本来の社会安全性にとって優先されるべき施策が全く放棄されることになるのである

 

「意識」とは 本来論理客観的な合理的「目的」を見定め 見分けるためのものである

決して衆愚の気分感情を満足させるための外見的印象としての威厳を保つことではない

「上級国民」に対する私刑で満足している衆愚も含め 被害当事者ではない無責任な衆愚の外見的な満足を目的とした現状の司法刑罰制度の根本的な「間違い」を改め 再発防止を優先した徹底的な原因究明を行うための制度手続き改革が必要なのである

松永莉子ちゃんのパパは 「再発防止のために一緒に考えて欲しい」「真実を語ってくれること」を願っているのであって 手続き上の「罰の程度」は問題にしていない

たとえ5歳児を轢き殺した警官を刑務所に何年ぶち込んでも 警官の過失の原因究明にも再発防止にもならない

罰の軽重と原因は無関係だからだ

これは犯罪においても同じことが言え 「女子中学生を誘拐監禁することが強盗殺人よりも罪が軽い」などと称した「犯罪者間における罰の公平性」などという 犯罪者以外には何の公平性もない司法手続き上の根拠のない基準によって「懲役9年」という判決だけで「解決」だとみなされているのである

誘拐監禁犯を何年刑務所に入れておいても 原因究明と再発防止には貢献しない

それこそ「俺のような人間は死刑になったら良いんじゃ!」などと自暴自棄になっている通り魔に対して 死刑判決を下すことは「望みを叶えてやった」だけにしかならず

「どうして自暴自棄な観念に陥って身勝手な無差別殺人を引き起こしたのか」についての論理客観的な原因究明の検証は一切行われていないのである

テロや通り魔のような無差別殺人や暴力というものには何ら合理性がない

ヒトは暴力を振るうことで脳が快楽を感じる先天的仕組みが存在するからこそ 何かにつけて暴力によって何かが解決すると錯覚しているだけであって これは「刑法判決で解決」という発想と根本的には同じ主観的満足である

言うことをきかない子供は 殴れば一時的に服従する

怖い相手には逆らわない方が「楽」だからである

だが こうした育て方をされた子供は 主観的な「楽」の追求のためには自分よりも弱そうな相手を殴って服従させることを「覚えて(機械学習して)」しまうのである

「楽」とは すなはち主観的気分感情であり 本能的欲望である

チンパンジーならそれでも罪に問われることはなく 予め鋼鉄製の檻にでも監禁しておけば良いのだが 「人権」を持った「ヒト」の場合には そうはいかない

刑事裁判においては「刑事責任能力の有無」が問われるが 刑事責任能力があるにも関わらず犯罪を犯す非合理性の原因については一切議論も検証もされることはない

暴力によって他人に危害を加えても 利己的利益にすらならないのに どうして暴力を「解決」だと錯覚しているのかと言えば 国家権力が「罰で解決」だと見なしている刑法罰が むしろ「根拠」にされているのである

思い通りにならない時に 駄々を捏ねて暴力的に振る舞えば 一時的には周りの者は「面倒くさい」ので思い通りにさせてもらえることは多い

怒っている相手は「怖い」ので 「怖い」相手には逆らわずに迎合しておいた方が「冷静」だと思っている者は多い

「恐怖」の感情に流されて理不尽な要求でも飲むことは 一見冷静なようにも「見える」のだろうが これは主観的な印象に過ぎず 到底客観性を伴う合理的判断とは言えないものである

刑法というものは国家権力を用いた「恐怖(主観)」によって民衆を支配するための制度である

本来民主主義国家であれば 民衆自ら社会安全性や公平性を求めるべきものでなくてはならないのだが 民衆の中には自律的に社会的責任を負う意思を持たない者が存在するため 社会的責任意識の有無に関わらず国家権力による主観的「恐怖」を用いて一律に民衆の行動を抑圧するという時代遅れな制度が温存されているのである

民衆が率先して社会安全性や公平性を求めるという 民主主義の根幹を民衆が見失うのは 学校教育が学力偏差値という基準だけで生徒の優劣を測るだけのトンチンカンな学力ビジネスのシステム化が進み過ぎていることが原因で「教育の本当の目的」を見失っているからである

メンタリストのDaiGoのように 心理学の学術論文を片っ端から読み漁っていながらも「ホームレスは死ね」などという差別排除に陥ることがある

他人の感情(主観)は読めていても 自分が何を客観的目的としているのかは見えていないのが原因である

その場限りに多数からウケの良さそうな話だけをしていれば人気が出て金が儲かり満足感が得られるため これを機械的に「学習」する形で自分の主観的満足だけが絶対的正義だと錯覚することによって 論理客観的な「人間としての目的」を見失ったのである

DaiGoの発言は法的には「思想信条や言論の自由」の範疇であり 罪に問われることもないが 明らかに人道には反したものであり 犯罪者に普遍的に見られる典型的な思考パターンでもある

「失敗」は その原因を徹底的に究明し 再発防止のための知見にまで昇華させれば むしろ社会的には「教訓」という財産にすることも可能である

犯罪者が身勝手な観念に基づき非合理な犯罪を犯すメカニズム構造を解明すれば 犯罪を犯すような者を減らすことも可能となる

最も根源的な原因を放置して 結果的に起こった過失や犯罪に罰を与えて「解決」するという法手続き制度の根本的欠陥を 誰も認識することができないのは 目先の懲罰感情を満たすことしか意識が働いていないという無意識性に起因するものである

犯罪者が犯罪者になる原因というのは非常に複雑な要因が絡み合っているはずであり 簡単には解明できないことは確かである

先天的に「何かを短絡的に決めつけたがる性格」であったり 「主体的意思を尊重してもらうことができなかった生育環境」だったり 「学力成績が下がることへの恐怖心から自分が本当にやりたいことが探せなかったという心理的要因」だったり 非常に多様で複雑な原因があるだろう

だが 犯罪者に共通する普遍的傾向性が突き止められれば再発防止にとって重要な知見となることは間違いがない

それを刑法罰というのは全て蔑ろにする「因習」なのである

ヒトは 長く続くことは永遠に続くものだと錯覚する

「長く続いたもの」は主観的に安心感を醸成してしまうからである

主観的安心感には合理性がない 「産まれて今までずっと生きている」からといって「永遠に生きること」に意味がないのと同じことで 先天的な脳の構造に由来する主観的安心感というものは論理客観的合理性が伴うわけではない

刑法廃止とは言っても 別に「危険人物を社会に放置しろ」と言っているわけではなく 犯罪者が自らの行為の非合理性を自覚させることを優先させ 社会安全性を優先することが目的である

特に幼女性愛などは再犯率が高く 刑法上の罰だけではほとんど再犯防止に役立たないことが明らかであり たとえ厳罰化をしても根源的原因の究明や再発防止のための実効性ある対策には全くつながらないのである

更生治療によって「治る」までは社会から隔離するという仕組みが必要であり 刑法裁判による手続きで「懲役○年」などという判決を判事が下しても 再犯の責任は誰も取る仕組みが全く存在していないという根源的欠陥が存在しているのである

死刑制度を廃止した北欧のとある「刑務所」では罰を廃止することによって 犯罪者自身が自分の犯した行為の非合理さ 無意味さを自覚するようになり 高い更生率を果たしているという

「誰一人として取りこぼさない」という人道的観点からは たとえ凶悪な犯罪者であっても更生治療や原因究明を優先し 同じような犯罪を繰り返さないことこそが 社会安全性にとっては最も合理的で有効な施策である

凶悪犯罪者は多くの人が忌み嫌い蔑むものであろう 私個人も大嫌いである だが「嫌い」なのは個人の主観であり 「同じヒトという種の生物」であることに違いなどないのである

ヒトは先天的な「社会性」によって自分と他人との間に順位序列を決めておこうとする習性があるため どうしても「犯罪者には罰を与えておけば良い」という短絡的な主観的満足を求める傾向が強い

「気に入らない相手は殴って服従させておく」という短絡的発想は 犯罪者であっても 犯罪者に罰を与えたがる多数民衆も同じ先天的な「主観」に起因するものである

 

フランシス:ゴルトンによる優生学などの「合目的的な遺伝的進化万能妄想」が生物学界で「常識」になってしまったのは ゴルトンが上流階級出身で 高名なチャールズ:ダーウィンの従兄弟だったことによる観念的な「説得力」が原因である

ヒトという種の生物は 自分よりも「上」と見なした相手の言うことに疑いを持たず 盲目的に信用したがる習性があり 権威肩書さえあれば養老孟司であろうとマルクス:ガブリエルだろうと 言っている内容に論理客観的根拠がなくても簡単に鵜呑みにするものなのである

更に 主観的に気分が良くなるような内容でありさえすれば その主観的安心満足によって益々盲目的に信用し 内容がオカルトだろうが何だろうが誰も疑うことがなくなり 世間的には「常識」になってしまうのである

ダーウィンによる遺伝的進化のメカニズムの説明は ランダムな変異と環境などからの淘汰圧力による自然現象(結果)だと結論しているのであって 遺伝的進化に目的だの戦略があるという説明とは論理整合性がない

にも関わらず フランシス:ゴルトンによる遺伝的進化万能観念に基づいた優生学が信じ込まれ しかも未だに私以外誰も論理反証もしていなければ 逆に「目的のために進化した」とか「生存戦略」などという非科学的観念を信じ込んでいる生物学者や哲学者や医師までもが後を絶たない

方向性も目的もないランダムな変異にも その後の淘汰圧力による収斂進化にも どこにも主体的目的選択可能性など存在せず 全ては「生存」や「種の保存」に適した結果に対する必然性以外何もないのである

目的意識というものは 「論理客観的に合理性のある選択をする」ものであって 選択可能性のない遺伝的進化に目的をこじつけるのは科学を逸脱したオカルト妄想でしかないのである

遺伝的進化による形質や習性というものは 必ずしも全てが生存や種の保存にとって合理的に働くわけではなく 非合理で意味の全くわからない形質や習性も存在しているのである

ヒトの生活習慣病の原因も 祖先の生息環境に由来するものであり ヒトは医学的知識や医療によって合理的(本質的意識)に行動選択を行うことによって 先天的習性に無意識に流されることなく生活習慣を変えることも可能となるのである

本能的な食欲のままに暴飲暴食をしていた方が脳は気分が良いのであろうが その先に破綻が存在していることを「知って」いながらやめられないというのは 脳が「人間」としての意識(理性)としては働いていないからである

権威服従性や迎合的な忖度によって集団組織に執着する習性もまた 一種の「社会的生活習慣病」であり 原発事故の根源的原因においても指摘されている「組織の利益を優先し 自律的な社会的責任を負わなかったこと」もまた同じである

ヒトは大きな力を持った集団組織に同調し 迎合的に忖度服従していた方が安心満足感が得られるため 組織に危険性があると認識していても無視し 都合良く勝手な解釈をこじつけて正当化をして意識から外すことで破綻するまで暴走するのである

ナチスの絶滅収容所の吏官であっても 東電原発安全担当者であっても 当人達は破綻の可能性を自覚していても暴走している自覚はなく 安心して危険な選択を漫然と続けているのである

これらはひとえに 個人が主観的に安心であることを 短絡的に客観的な安全性と錯覚していることが原因である

ヒトは基本的には動物であるため 主観的感覚が意識の大半を占めており 客観的根拠に基づいた論理的検証は必ずしも働く保証はない

「ヒトの意識の9割は無意識」とは そういう意味である

ヒトの脳というのは動物的な主観的感覚が優先するという認知的な欠陥(錯覚)が先天的に存在しており これによってフランシス:ゴルトンや養老孟司やマルクス:ガブリエルらの「嘘(或いは間違い)」でも簡単に鵜呑みにし 誰も疑いを持たなくなってしまうのである

言っておくが 養老孟司は相手によって話の内容をコロコロ変えるペテン師である 相手が論理的に考えることができると思えば支離滅裂なことは言わず 逆に相手が論理的には考えられないバカだと思えば「禁煙と書かれた看板の前でタバコを吸う ほら私は脳化していない」だとか「約束を守るのは脳化だ」といった訳のわからぬ持論を展開して撹乱する 天才的な「嘘つき」である

養老の著作は 実際には何も論証などしておらず 後からどうにでも解釈をこじつけることができる「寝言」のようなものであり 養老に説明を求めても 後からどうにでもはぐらかすことができる ただの大衆迎合的戯言に過ぎない

それでも 多くのヒトは養老の「説明」で気分的に安心満足させられることによって その主観的安心満足によって気分が良くなることで 嘘を嘘だと認識できなくなるのである

そんな奴に東京大学は「名誉教授」という肩書を与えているのである

その点においては遠藤秀紀も含めて職員一同も同罪であろう

養老は著作が大衆人気を集め 金儲けに長けた「成功者」である

多数大衆からの人気によって あたかも「多数によって内容が検証され正しいことが保証されている」とでも勘違いするのは簡単である

フランシス:ゴルトンの優生学が蔓延したのも同じメカニズムである

「世間的成功者」や「上流階級出身者」といった順位序列に大衆は信頼のバイアスがかかる傾向が非常に強いため 内容に科学的根拠が伴わなくても 勝手な決めつけであっても 安心して信用して疑わなくなるものなのである

 ◇

宗教には2つの側面がある

一つは「主観的満足安心感を得るため」であり

もう一つは「人間としての真理(真実)を求めること」である

テロリスト達の多くは 自分が死後に神からの祝福を受けて永遠の命を得るという利己的目的のためにテロをやるのであって これは「主観的満足安心感」の暴走した果てである

「あの世」での神からの評価承認を承ることが目的になっているため 「この世」における行動責任を一切負わないようにもなるのである

だが パレスチナの女性救急隊員による自爆テロはこの限りではない ここでの説明は省く

 

神とは 野蛮な暴力者による封建的で不公平な統率に抗い 「勇気」を持って人権や平和を主張する「人間としての理想」のことである

写真用レンズの設計においても「理想レンズ」という概念がある

様々な物理光学的現象によって ガラスやプラスチックや結晶を組み合わせて作る写真用レンズには 画質性能を劣化させる「欠陥」があり 決して完全無欠の写真用レンズは実現できないとされる

それでも 概念上の理想に基づき様々な材料開発や技術開発によって より高い画質のレンズへと近付ける努力が日々なされている

写真用レンズの場合は理想に近づけば企業の業績収益につながるが 人間の理想は追求しても必ずしも得になるわけではなく むしろ「正直者がバカを見る」ことも少なくはない

戦争に積極的に加担した特攻隊は「英霊」扱いだが 戦争自体を反対した政治犯は「裏切り者」なのも一例である

それは 企業などでの内部告発者の扱いにおいても同じである

集団組織に忠誠忠実に服従する者は「純粋」でイノセントな存在として扱われ たとえ社会的に責任ある行動選択だとしても集団組織に抗う者は「裏切り者」として扱う観念がヒトには普遍的に存在し 原発の危険性を放置した社員に対しては「組織の体質が悪いからだ」などというはぐらかしも平気でまかり通り 個人の自律的な責任判断は「なかったこと」にしておくことで正当化するのである

「組織の体質」というものも 結局は組織を構成している個人の責任意識に依存したものであり まるで個人には責任を問えない免罪符のように言い張ることはできない

中東由来の一神教の信者でなくとも 人間としてどう行動選択をするべきなのかの理想は理解判別可能である

むしろ「神がいないなら何をしても赦される」などという自律の欠如こそが 人間としての理想からの著しい乖離を生み出すのである

社会安全性や持続可能性や平等や公平性を求めているのは「人間」であって 神ではない

しかし ヒトという種の生物は主観的な安心満足を優先することによって 神に行動責任の全てを丸投げしておけば自律的に自分で責任判断選択をしなくても済むと勝手に勘違いして満足することで 人間としての理想を簡単に見失う原因ともなるのである

 

神や宗教を「偉大だ」と「思う」のは主観である 主観は主体的には選んでいない

むしろ「偉大だ」と主観的に思っているものを神だとみなしているのであって 「偉大だ」と思わないものは当人にとって神ではない

「欲望そのものを欲することはできない」のであって 主観的に「偉大だ」と思う対象もまた選択はできない

「偉大だ」と思っている自分は自分では選んでいないからだ

貧困スラムのギャングの中で育てば ギャングのボスを「カッコイイ(偉大だ)」と思うであろうし

残虐なゲリラに育てられればゲリラこそが「正義」だと思うものであり

イスラム原理主義組織の中で育てば暴力破壊こそが栄誉ある「殉教」だと思い込み

ナチス政権下であればヒトラー総統がカリスマになる

学力偏差値競争の中で育てば学力偏差値の高さだけが知能の基準だと勘違い錯覚する

主観の中には錯覚が混入するものであり 錯覚を錯覚だと自覚認識するのは客観性であり 論理的検証(考え)という「人間としての意識の本質」である

論理客観的根拠に基づいた真実というものは 時に主観的錯覚との間に乖離が生じることがあり 真実の方に感覚的違和感や拒絶反応を引き起こすこともある

その場合にヒトは 認知的不協和を解消(気分が悪くならないように)することを優先し 真実の方を拒絶するものなのである

こうした先天的な認知上の欠陥が自分にも存在することを自覚し 自分の主観的感覚に頼らず 論理客観的な根拠のある事実に基づく判断をしなければ 無意味で不毛な因習に囚われたり 逆に意味のある有効な対策を理解できずに一蹴したりするようにもなる

その姿は あたかも振り込め詐欺師に騙されていることを理解せずに 何が何でも振込もうとしている認知症の老人のようである

ナチス政権下における絶滅収容所の吏官も ポルポト派の兵隊も 香港警察の警官も 太平洋戦争時の日本軍の兵隊も 上官からの命令に唯々諾々と何も考えずに服従し続け むしろ暴力破壊を率先して「自発的」に行ったようにも見える

ナチスの絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは 率先してユダヤ人殺害計画を立案実行したが 言うまでもなくナチス政権からの評価承認(他人から与えられる脳への報酬)を目的とした行動であり 他律であって自律ではない

自分が主観的に「思った」ことが 短絡的に「自律」になるわけではなく あくまで主観的な「思い」に混入する錯覚と 論理客観的な「考え」に基づいた「嘘と真実」の区別ができることを「自律」というのであって 客観性なくして自律も人間性も自由も意思も成立しないのである

 

観念論者の解決策は基本的に暴力破壊である

それは 野生動物が基本的に他者を喰うことで生物としての存在を維持し続けてきた遺伝的な「名残り」であり

ヒトにまで進化する以前の祖先は野生動物の一種にすぎなかったため 暴力破壊への本能的な行動バイアス習性が快楽となるよう収斂進化した結果である

「コールオブデューティー」や「フォートナイト」のような殺人ゲームに人気があるのは ヒトは暴力破壊が本能的に楽しいからである

アメリカ映画の多くも殺人や破壊が大好きである

悪人と見なした相手を勧善懲悪の正義の名の許に殺害して満足する話の方が多数大衆の人気は得やすいからである

ビンラディン容疑者は 容疑者のまま米軍によって殺害されたが これを当時のバラク:オバマ大統領は「正義の鉄槌を下した」などと正当化したが それでテロの原因が解明されたわけでも 具体的な再発防止策が確立されたわけでもなく 別のテロリスト達による自爆攻撃も アメリカ国内での無差別銃乱射事件も後を絶たない

これは北欧での「死刑も罰も廃止した刑務所」における再犯率低下 更生率向上と全く逆行する「罰で解決」という「無駄な因習」に囚われているからである

刑罰というのは観念論であり 社会安全性が高まる論理客観的根拠は何もない

首都高速で暴走しているバカを速度違反で取り締まっても 元々無法者である以上免許停止になっても暴走を繰り返すことまであり 罰も取り締まりも「無謀なキチガイ」に対してはほとんど抑止効果すらない

自律的に社会的責任判断選択をしない「無謀なキチガイ」というのは 暴走に取り憑かれた「中毒者」であって 「死んでも良いから暴走がしたい」という どうにも訳のわからぬ非合理で軽薄な人生以外が選択できない状態だからこそ 他に楽しみを見つけることができないのである

「他に楽しみを見つける」自由が損なわれているため 他人の迷惑に配慮する余裕すらなく暴走に取り憑かれ 自滅破綻するまで暴走を続けること以外には何も「見えていない」のであり この「見えていない」病理に言及しないことには どんなに警察が取り締まりで「頑張って」も問題解決にはならない

他人との比較競争に依らない純粋な個人的楽しみを知っていれば 脳内麻薬を自給自足できることになり 結果的に他人に対する迷惑にも配慮ができるようになるが

どんなに他人と脳内麻薬の量を競っても 大脳辺縁系が別ものである以上は他人との比較に意味はないのである

意味がないのに必死になって他人よりも優位に立とうとするのは むしろ純粋に楽む術を知らぬ精神的渇望によって 他人への配慮もできない程に盲目になっているためである

他人への迷惑に配慮ができない迷惑者というのは 自己に対する肯定感も希薄になり その自己肯定感の希薄さ故に更に精神的渇望に陥ることで 他人を貶めることでしか自分の優位性を感じることができなくなるという悪循環に陥り 無間地獄から抜け出せなくなるのである

フリードリヒ:ニーチェは明らかに承認欲求中毒であり 承認欲求中毒者にとって都合の良い 気分の良くなる「迷言」を陳列して人気を得たに過ぎず 精神病患者が精神病患者同士で仲良く病気自慢をしているようなものであり 病が悪化することはあっても改善することはない

カルト宗教の信者同士が仲良く共鳴しているのと同じで 承認欲求中毒が益々ひどくなることはあっても 治ることはない

 

ヒトの多くは承認欲求中毒であり 差別主義者である

だからこそSNS上ではMicrosoft社のTwitterAIが深層学習してヘイトスピーチをやらかすようなるほどの大量のヘイトスピーチが蔓延しているのである

ヒトという種の生物は遠藤秀紀が言うように生物としても欠陥品である上に 人間としても認知上の欠陥を抱えている存在なのである

錯覚が促す間違いを それと認識しないことには真実は見極め区別することはできない

「上級国民」や「へずまりゅう」に対する「私刑」が激しいのも 「罰で解決」という観念に基づいた「他人への暴力破壊」による満足感が動機であり 社会安全性や公平性には一切興味がない観念論者が合理性のない違法な「私刑」を実行して満足しているのである

それは被害者や遺族による真摯な公益的「再発防止」の願いとは無関係な「身勝手な満足」が目的であって 本当は攻撃の標的は「誰でも良い」のであって それこそ山梨県での女児行方不明事件の母親でも構わないのであって 身勝手な正義の達成感満足感を得るための「ネタ」でしかない

差別することによる満足感が欲しくて差別しているのであって 差別によって社会的利益のようなものを目的にしているわけではない

 

田島木綿子(たじまゆうこ)は遺伝的進化について「生物は、自分の置かれた環境が変わると、その環境に適応するために、体の構造や機能などを大きく変化させる能力を発揮し、生き残ろうとする」などという説明をしているが

環境が変わった時だけ体の構造や機能を大きく変化させる能力など存在せず 田島の勝手な妄想観念に過ぎない

 

更科功は「本来生物は、生きるために生きているのであって、生きる以上の目的はないのだろう。生きるために大切なことはあっても、生きるよりも大切なことはないのだろう。まあ、生きていれば、それだけで立派なものなのだ。」などという「説明」をしているが これはもはや科学的な説明ではなく 従来の遺伝的進化に対する誤謬をはぐらかしているだけの「寝言」レベルの話に過ぎない

生きるために生きている」などというのはチャールズ:ダーウィンの進化の説明とは異なるものであり ダーウィンはあくまで「自然現象」だとしか言っていないのである

〜だろう」という予想にも根拠はなく 更科の勝手な観念的こじつけ以上に意味はない上 更に「生きていれば、それだけでも立派なものなのだ」などという結論には 何ら論理科学的根拠がなく ただの個人的主観や感想の羅列に過ぎない

 

このように生物学者の大半は科学的根拠のない勝手な決めつけや妄想を科学的論証であるかのように錯覚している論証ばかりであり 工学や物理学や天文学の研究者達が「訳がわからない」と忌避するのはこのためである

最初から論理的には意味のない勝手な決めつけや妄想である以上「訳がわからない」のは当たり前の話である

むしろ科学論理的に支離滅裂な話を「わかって」しまっている大半の生物学者や大衆マスコミの方が「どうかしている」のである

NHKのEテレでも 時折「進化には目的などない」という正しい説明をすることはあるものの 番組制作者は全く理解しておらずに別の放送回では「目的のために進化した」などと従来の生物学上の誤謬に基づいた説明をし始めることもある

解説のために呼んだ生物学者が間違った説明をしていても 番組制作者達は誰も間違いに気づくことすらできていないのである

論理客観的な論証をいくら繰り返しても 論理的に理解していないのであればどうにもならない

遠藤秀紀や五箇公一に徹底した遺伝的進化のメカニズム説明を周知する義務がNHKに限らず報道各社にはある

そうでなければ「ウイルスは弱毒化する」などというデマも平気で蔓延する原因ともなるのである

報道各局には責任ある判断選択をして頂きたい

 

 


Ende;

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荒川河川敷(写真)

2021年10月30日 21時16分31秒 | 写真

岩淵水門より

 

扇大橋の下

 

 

五色桜大橋の下

 

 

ショウリョウバッタ

他にも大カマキリとかコオロギとかバッタの一種やタテハチョウも なぜかアスファルト上にとまって動かないので

時折無残な状態の子もみかける

 

 

Ende;

 

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客観的事実

2021年10月30日 15時12分29秒 | 意識論関連

遺伝的進化の結果だけを見れば あたかも「生存」や「種の保存」を目的として合理的に形質や本能習性を選択しているかのようにも「見える」のかも知れないが

これが根本的に間違いなのである

「見える」という主観的印象は 論理客観的な証明にはならない

どんなに多数の主観的印象を集めてきても論理客観的論証にはならない

 

遺伝的進化の「結果」だけを見ているから こうした間違った解釈に陥るのであって 遺伝的進化のプロセス過程を検証すれば 特定環境下において「生存」や「種の保存」に適さなかった個体種が死滅することによる収斂(置き換わり)が進化のメカニズム構造であり

遺伝的進化の結果的形質や本能習性が「生存」や「種の保存」という結果に対しての必然性は存在しても そのプロセスのどこにも目的や戦略は介在する余地がなく 決して完全無欠の合理的最適化の論証にもならない

実際に現存する生物には生存や種の保存にとって不都合な形質や本能習性が存在しており ヒトもまた生物としては「欠陥品」だと遠藤秀紀は言うのである

「死なずに子孫を遺したものを生物と分類」しているだけであって 「死なずに子孫を遺そうと自らの遺伝的形質や本能習性を都合良く選択すること」は構造原理的に不可能なのである

結果をどんなに大量に抽出枚挙したところで 結果の多数が目的の論拠にはならない

ヒトが塩分や糖質や脂質を過剰摂取して生活習慣病になりがちな結果をどんなに大量に抽出してきても 「ヒトの目的は生活習慣病になることだ」という話には全くならない

ヒトが差別やイジメや紛争を繰り返すことを どんなに大量に抽出してきても 「ヒトは暴力による民族浄化をすることを目的としている」ことの論証にはならない

ヒトは 多数や権威の意見の方を盲目的に信用したがる性質があり 内容に論理客観的誤謬や齟齬があっても自らは誰も検証することなく鵜呑みにする

それこそ気分的に安心満足感が得られようものならオカルトだろうが嘘だろうが平気で鵜呑みにし 疑うことを一切しなくなる

ヒトはその先天的な本能習性としての「社会形成性」によって 多数派に同調し 盲目的に権威に服従迎合忖度することで主観的に満足するようにできている

自分では何も判断せずに「自分よりも順位序列が上」の権威と見なした相手の命令に唯々諾々と服従し 権威の言っている内容に論理客観的な根拠や証拠があるのかどうかという批判精神を持たなくなる先天的習性があるからだ

これは狩猟採集生活をしていた祖先の生息環境への適応という結果であって 統率的な協調行動を採ることが生存にとって有利に働いた結果に過ぎず 決して「人間社会の目的」にとって適しているわけではない

「人間社会の目的」とは 安全で持続可能な差別のない平等公平な社会を作ることである

自分が差別を受けないためには 自分も他人を差別しないことが必要なのは バカでなければわかるはずだが バカだと理解することができず 身勝手に個人的な好き嫌いで他人に多大な迷惑をかけ続けるのである

ミャンマー政府軍や香港警察による弾圧が起こるのは 権威と見なした相手に唯々諾々と服従し 「敵」と見なした相手を殲滅しようとする動物的な「社会形成性」が促す盲目性が原因である

ヒトはすぐに盲目になる

多くのヒトが催眠術にかかるのも 詐欺にカモられるのも 意識の大半が無意識な情動バイアスしか働いていないからである

 

ヒトの大半は安心満足感が得られさえすれば相手の話を信用し 疑うことを簡単に放棄し 内容に論理客観的な根拠が伴うのかどうかには関心(意識)が全く働かなくなる

ヒトは主観的感情が意識の大半を占めており 客観的論理検証性はごく一部しか働かない上に 恐怖や不安に誘導すれば簡単に客観性が全く働かないようにもなるのである

「意識の9割は無意識」と言われるのも このためである

 

「自分だけは絶対に騙されることはない」という過剰な自信は それ自体が主観的安心満足感を得られるからであって 「自分はもしかしたら簡単に騙されるのではないか」と「思った」ら不安で嫌な気分になるので 不安で嫌な気分(認知的不協和)を解消する形で根拠のない自己過信で満足したがるからである

意識の全部が主観的な気分感情や「思い」だけで完結し 客観性や論理的根拠は伴わない

だから「考え」ないのである

 

養老孟司はこう述べたことがある

「(私の話は)論理整合性がないだけ 開かれているではないか」と

実際には養老は自分の観念を「閉じる」ために論理整合性の方を「開いて」いるのであって 無責任で支離滅裂な話を論理客観的に考えることが苦手な大衆やマスコミに信用させておくための「根拠のないはぐらかし」に過ぎないのだが

多くの大衆やマスコミは 「自分達がはぐらかされている」とは全く夢にも思っていないのである

養老が主張し続けていた「脳化社会」云々の説明には 何の一貫した根拠も証拠もなく ただ大衆が何となく「思って」いる観念的「常識」に沿って 行き当たり場当たり的にこじつけただけの話であって 何の役にも立たない「寝言」レベルの戯言に過ぎない

それを大多数の大衆やマスコミは未だに信用しているのである

結局 養老の言っている内容は誰も論理客観的には「理解」などしていないのであり 読み手がその場限りに安心満足をして気分が良くなったことで盲目的に信用し あたかも科学的に根拠がある「正しい話」であるかのように勝手に錯覚して満足することで大衆人気を集めたに過ぎない

著作が売れて世間的に成功したという結果だけを根拠に マスコミは養老を盲目的に信用し 疑うことを全くしない

「客観的事実などない」などという科学を根底から否定する発言をしている時点で 養老は科学者としてはポンコツ極まりないデクノボウである

「客観的事実などない」などという科学を根底から否定する論説の説明においては 主観的な好き嫌いと論理客観的根拠のすり替えや混同によるものであって 到底論理的証明にはなっていないのである

客観的事実が存在しないのであれば それを客観的に証明不可能になる以上 自己矛盾であり 意味がない

事実が存在しないのであれば 原発事故も子供が酔っぱらい運転で轢き殺されたことも「存在しない」とでも言うのであろうか あまりにバカげており話にならない

量子物理界隈では実在がない可能性が出てきているが 物質や時間を構成するものが実在ではないからといって 物質や時間そのものまでが実在しないことの論拠にはならない

通貨に実体がないからといっても貧富格差問題がなくなるわけではないのと同じで

物質に実在がないとしても 物質が持つあらゆる性質や法則が消えてなくなるわけではなく 死んだ子供は生き返らない

世界という客観的事実は存在するのである

 

ヒトは限られた感覚器官からの入力だけでしか世界を知覚することはできないが 論理客観的に他人と共有可能な事実は実在する

だが 共有可能でありさえすれば論理客観的根拠が伴うわけではなく 主観的な共感共鳴をどんなに多数で共有しても 客観的事実の論拠にはならない

ヒトは客観的事実の根拠などなくても 多数で主観的感覚を共有しさえすれば満足して思考を停止させる

思考が停止すると行動は暴走に陥る 思考はブレーキであって 感覚は行動を促すからである

養老孟司を信用しているということ自体が既に暴走であり カルト宗教の教祖を信用しているのと同じ状態である

更科功による「生きているだけでも 立派なものなのだ」などという主観的感想を あたかも科学的な論証であるかのようにはぐらかされていても 誰もおかしいとは「思わ」ない

ヒトは「話がおかしい」と主観的に「思わ」なければ深く検証して考えることはなくなるし

逆に不安や恐怖を感じて気分が悪くなる話は論理客観的に検証することなく頭ごなしに拒絶する

そうやって認知的不協和を解消することでヒトは盲目なバカになるのである

ヒトにはそういう先天的な認知上の欠陥が存在する

これは「客観的事実」である

 

 


Ende;

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Gmailが見れない(日記)

2021年10月30日 10時28分10秒 | 日記

Gmailを起動しても妙なウインドウが開いて

右下の「次へ」を押しても何も反応がなく メールが全然見れない

Googleに通知したいんだけど

どっから通知すれば良いのかわからん

 

 ◇追記:いつまで経っても治らないので あちこちいじり倒してたらWeb版Gmailを開いてからアプリに移行したら治った 何だったんだ

 ◇追記2:いやまたダメになった なんなん

 

 

Ende;

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軽石の取り扱い(日記)

2021年10月30日 09時24分49秒 | 日記

軽石をユンボで回収しようとしているんだけど

ちょっと効率が悪すぎる

オイルフェンス的なもので集めて波の力で岸に打ち上げさせてからナントカ(ナントカ?)した方が良いんじゃないかな

水に浮くほど軽いんだから 土砂と同じ扱いをしても効率が悪い

発泡スチロールの粒みたいな扱い方をする方が正解だと思う

見た目に騙されてはいけない

 

これから本州の近海にも軽石が漂着して原発の冷却にも問題が出る怖れがあるという

軽石とかクラゲで簡単に冷却できなくなる原発って信頼性が低すぎて悲しい

海水以外の冷却システムも多重に設備しておくべきだと思う

そういや氷で地下水をせき止めて汚染水を減らすっていう計画

結局ダメだったのかしら

当時の東電経営陣を何人刑務所にぶち込んでも何の解決にもならない

ほんと刑罰って意味ないわ

 

 

 

Ende;

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合理性

2021年10月29日 23時59分18秒 | 意識論関連

順位序列への執着が激しく 他のオスとメスを独占しようと争う習性があると 結果的に争いに強い個体が遺伝的性質を受け継ぐことになる

過酷な弱肉強食の自然環境下では より暴力的で力の強い遺伝子を持った個体の方が生存にとって適しているため 同種間で争わない個体種よりも暴力的な行動習性を持った個体の方へと収斂(置き換わり)が生じ 「進化」が起きる

 

従来の生物学のパラダイム上では オスは自分から「より強い遺伝子を遺そう」という意図目的に則って暴力的行動を主体的に採っていると「説明」しているが これは科学的な説明にはなっていない

先天的な本能習性というものは 遺伝的に決定しているものであって 主体的には選択不可能な「結果」であって 合理性のある目的意識に基づいて選ぶことは構造原理的に不可能である

 

遺伝的進化の結果だけに注目すれば 「生存」や「種の保存」にとって合理的なようにも「見える」が

一面的に「見える」からといって遺伝的進化の結果の全てが合理的であることの論拠にはならない

遺伝的進化というものは 特定環境下においての適応結果であって 環境が変われば「生存」や「種の保存」にとっての合理性は損なわれることになる

時速100キロ以上の速度で走ることのできるチーターも 西表島には適応できず 自然繁殖することは不可能である

チーターは見通しの良い広い平原に適応したのであって チーターは「速く走ろう」と意図的に努力したわけではなく 逃げ足の遅い獲物から淘汰した結果 逃げ足の速い獲物への淘汰収斂を及ぼした結果 自らも足の速い個体以外が全て淘汰され 共進化した結果 非常に速く走る個体種への進化が生じたのである

チーターが速く走れるように進化した過程では 走るのが遅いチーターの祖先が大量に淘汰される必要性があり 膨大な死滅の果てにしか収斂進化は生じないのである

 

ヒトにおいて何らかの遺伝的進化が促されるためには 何らかの環境に適応的な形質能力や習性の偏りによる淘汰圧力が必要であり

大量に死滅し続けないと遺伝的進化は促されることはない

そんな大量死滅はヒトの文明社会では生じないので ヒトはここ数万年ほとんど進化をしていないのである

ヒトであれば 一度天敵に襲われて誰かが犠牲になれば ナントカ工夫をして天敵に襲われないように濠を掘るとか 柵を作るといった対策をするものである

他の草食獣のように 天敵に襲われた時だけただひたすら逃げ回るというバカみたいな行動しかできないわけではないから 逃げ足が速くなるような進化はしなくても死滅することは免れられる

 

ヒトは遺伝的進化は起きないが 変異はなくならず 多様性は否応なく拡大せざるを得ない

そのために紫外線耐性を失った色素性乾皮症のような先天性の疾患を持って産まれてきてしまう子供もいる

ヒト以外の生物でも先天的に紫外線耐性を失った変異が起こることも充分あり得るのだが ヒト以外の野生動物が自然環境下において先天的に紫外線耐性を失っていればすぐに死んでしまうのだが ヒトは論理的に原因を究明し 死なないように対策を採ることで子孫を守ろうとするものである

疾患でなくとも変異は多様性を拡大し 様々な見た目や性格へとバリエーションが拡大されるものである

合理的に考えれば 各々の個性や能力を社会の中で最適化すれば良いのだが 残念なことにヒトには祖先から受け継いだ民族浄化バイアスが存在するため ちょっとした見た目の違いや性格の違いだけで差別排除を始め 本能的に同質な個体だけで集団組織を形成しようとする習性があるため 非合理な差別や序列を作り上げてしまい 結局社会効率を悪化させてしまうのである

先天的本能習性は 環境が違えば非合理な行動を促すことも少なくはない

ヒトという種の生物は ここ数万年ほとんど進化しておらず 狩猟採集生活時代の祖先の形質や行動習性をそのまま受け継いでいるため 現代の文明社会において合理性のない本能習性は非常に多いと考えるべきである

封建的統率による協調性が発揮されるのは 先天的な本能習性であり これは狩猟採集生活においては獲物を獲るには適しているが 獲物を狩ることをしない現代社会においては統率協調性は集団内部での差別イジメの原因ともなりうるものでもある

統率協調的に獲物を狩ることに快楽を感じる本能習性を満たすことができない現代社会では 差別対象を「獲物」の代用とすることで 仲間意識を満足させる形でイジメ差別は始まるのである

生活習慣病が祖先の生息環境における本能習性の「名残り」に起因するものであるのと同様に 暴力者に唯々諾々と服従迎合同調忖度することが安心満足してしまうのも 本能習性としての統率協調性が現代社会においては先天的欠陥として現れているのである

 

こうした先天的本能習性に起因する欠陥というものは もはや現代社会の中では都合良く「進化」が促されることはなく 欠陥を前提として主体的な目的意識に基づいた行動選択によって欠陥を補うように工夫する知能を発揮すべきであり 他に選択肢などない

そのためには主体的選択能力 「自分の頭で考える能力」が必要であり

根拠の乏しい「規範意識で統率する」や 「文武両道」といった非合理な教育方針からの脱却が不可欠であり

「人間ピラミッドで感動」という教育など論外である

大人の主観的「感動(満足)」のために子供を危険にさらして利用すべきではない

 

 

Ende;

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最も根源的な原因

2021年10月29日 20時49分52秒 | 意識論関連

情動行動とか本能習性というものは遺伝的に決定しているものであって 目的意識に基づいて合理的に選択したものではない

「欲望そのものを欲することはできない」のである

従って本能欲望のままに行動することは何ら「自由」ではない

主体的に選択不可能な行動バイアスは「自由」でも何でもないからだ

 

ヒトは誰も自らの主体的選択によって産まれてきた者などおらず

自分の肌の色や瞳の色や体格などの遺伝的形質や 脳の構造に由来する本能習性も自分では選択することが構造原理的に不可能である

しかし 本能欲望というのは決して社会安全性や公平性にとって反するものだけではなく 赤ちゃんのほっぺた見て意味もなく幸せな気持ちになることもあれば 近所の子供がイジメで自殺してしまったり 自動車に轢かれて死んでしまったりしたら自分も嫌な気分になることもあり 社会持続可能性や安全性や公平性にとって適する本能欲望も存在するのである

目先の欲望の大きさに依存せず 本当に求めている社会のあり方がどのようなものであるのかを主体的に「選択」してこその本当の「自由意志」と言えるのであり

遺伝的進化の結果に過ぎない本能欲望任せに権力だの物質的豊かさだのを求めても 「人間」としての意識の論証にはならない

 

従来進化生物学上では 生物や遺伝的進化は目的に則って合理的に選択しているかのように説明してきたが 生物やその遺伝的進化というものは全て「その環境」への適応結果であって その先に目的が存在するわけではない

「生物の全ては力を求める」などという「結果」をどんなに陳列しても ヒトが権力を求めなければならない根拠にはならない

フリードリヒ:ニーチェの論説は「遺伝的進化には目的が存在している」という間違った前提に基づいたものであり 論説の基礎となる前提が間違えている以上 ニーチェの論説は全て意味がない

そもそもニーチェの言っている内容というのは具体性が乏しく 読み手が自分の気分が良くなるように都合良く勝手に解釈して満足することができる観念論に大衆人気があるだけで 到底論理的根拠に基づいた「真理」の論証にはなっておらず 到底「哲学」とは言えないのである

大衆の多くは哲学を「気分が良くなるもの」だと勘違いしているが 哲学は本来「嘘と真理を区別するためのもの」である

 

 

欲望が満たされないことにフラストレーションが溜まれば「不条理」だと感じることになるが 様々な欲望の中から社会的迷惑にならない個人的な楽しみを「選択」することは決して不可能ではない

主体的に楽しめる純粋行為を 子供の頃から見つけるためには 子供の主体的好奇心を大切にし 安心して好きなことに熱中できるようになれば 付随して様々な知識や主体的な考え方も身につくようになり 結果的に社会安全性や平等への配慮も働くようになるのだが

既存の価値観に則った基準で学力偏差値などを他人と比較され続けていると 他人との間の優劣の比較だけが学習動機になり 平等を嫌い利己的利益ばかりを追求するバカが出来上がるのである

一度他人との比較競争に依存した評価承認中毒に陥ると 物事の判断の全てが他人との比較だけになってしまい 多数他人や権威からの評価や利益ばかりに執着する(中毒)ようになり 自律を失い 自律的に物事を検証判断せず 目先の気分的な安心満足ばかりを追求するようになるため 教えられた内容に間違いがあっても全く気づくことができないバカが出来上がるのである

たとえ学力偏差値が高くても 自分の頭で物事を検証する「考え」が働かないため 教えられた内容が間違っていても気づくことはできない

学力成績の評価基準が動機であれば 評価だけが目的になり 教えられた内容が間違っていようがなんだろうが 教えられた内容を教えられた通りにしか覚えようとはせず 自分の頭では客観的に論理検証することはなくなるからである

「ウイルスが困るから 適応した変異がどんどん起こる」などという荒唐無稽な進化プロセスを主張し 「自分の言っていることが論理客観的に正しいのかどうか」という自己客観性は働かないのである

なまじ学力偏差値が高く 国家試験に合格していることによって あたかも「自分は頭が良く 絶対に間違えることのない存在だ」という過信によって 他人から間違いを指摘されても認知的不協和を解消する形で無視し 耳を貸さなくなる

 

「臨床は科学ではない」と言われる

臨床医学は決して全てが科学的に解明されているわけではなく ヒトの人体においても謎の部分は膨大で 到底全てを理解把握することなどできておらず

医者というのは厚生労働省が慎重に安全性を確かめた医薬品や治療法だけを機械手続き的にこなしておいても成立する仕事であり 個別の医師が科学的な論理客観的根拠や証拠を検証判断する能力は特に必要ないのである

厚生労働省が把握していない医療処置上の危険性であれば 責任は厚生労働省に丸投げできるのであって 個別の医師が自律的に危険性を判断できなくても責任は問われない

成熟した制度システムの中では 機械手続き的に決まった手順さえ踏襲しておけば 責任逃れができるように出来上がっているため 進化生物学上の誤謬であっても 間違った解釈をしたままでも責任逃れができると勝手に勘違い錯覚しているのである

 

政治家も同じように「既存の知見に基づいた判断さえしておけば全ての問題は解決するはずだ」と錯覚しているため 「文武両道や規範意識でイジメを無くす」などという客観的根拠の乏しい観念にすがりついて安心満足するだけだから 問題の本質が見極められず 問題が一向に解決しないのである

経済対策においても 未だに「トリクルダウン」などというアダム:スミスの「見えざる神の手」妄想を鵜呑みにしているからこそ貧富格差が一向に是正されないのであり

理化学研究所理事の野依良治が 研究者の論文不正事象に対して「嘘をついてはいけません」などという幼稚園レベルの「教育」を「再発防止策」だと言い張ったのも 問題の本質を見極める意欲も具体策もない無能な老害だからこそ 外見だけ取り繕った「対策」以外 実効性のある対策には興味すら持たない

 

データ改竄などの論文不正というのは 研究者の評価承認欲求が原因であって 個人の人格性や人間性や倫理観に依存したものであり 自律的な社会的責任判断能力の欠如は幼少期からの教育の仕方に原因があり 学力偏差値が高くてもバカはバカなので 研究に対する真摯な姿勢を発揮できるかどうかは大人になってからでは判別が困難である

ましてや「論文データを改竄してはいけません」などと口頭で注意してどうなるものでもないことは よほどのバカでもなければ気づくはずである

しかし 気づいていても誰も指摘はしない

ノーベル賞受賞者の野依に忖度しているからである

組織が腐敗するのは 組織を構成する個人が自律判断選択をしないからであり

原発事故における「最も根源的な原因」と同じものである

 

 


Ende;

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根源的な間違い

2021年10月29日 11時55分27秒 | 意識論関連

「動物のオスが メスを巡って争うのは より強い遺伝子を遺すため」

という説明を 多くの進化生物学者はするんですが

これが遠藤秀紀の言う遺伝的進化の説明における「典型的な間違い」の一つなんですね

 

オス同士が互いに相手を嫌って争う本能があると より強い個体の遺伝子の方が遺ることになります

その結果として オス同士が互いに相手を嫌って争う本能を持った個体種への収斂(置き換わり)進化が生じた結果 オス同士は本能的に争わないといられない習性を持つことになった

 

実は オスは「自分の遺伝子を遺そう」なんて「考え」てなんかいないんですね

オスはただメスと交尾したいだけであって メスと交尾した後子育てなんかしない種も多いんですよ

猫とかそうですね

オオカミとかだと群れの中では子供が危険なので 妊娠したメスは群れから離れて複数の子供をワンオペ育児を余儀なくされたりする

オオカミって本能習性としてDVが組み込まれている

 

ヒトも実は本能的には「ヤリたい」だけで 妊娠できない幼女相手に性的暴力を振るったり 酷い場合には犯行を隠蔽するため殺害したりすることまである

本能的には全然「自分の遺伝子を遺そう」なんて「思って」も「考え」てもいない

オスはただ 本能的にメスと交尾がしたいだけであって そもそも「遺伝子」なんていう知識概念はヒトであっても教わらなかったら知る由もない

 

それでは 何で交尾をしたがるのかと言えば より交尾をしたがる個体への収斂進化の結果です

より積極的に交尾をしたがるオスの方が 結果的に繁殖に適していた

ただ それだけの結果です

あんまり交尾に興味がない個体は 結果的に繁殖には適さないので より交尾をしたがるオスへの収斂(置き換わり)が起きた結果です

別に目的があって 合理的に行動を選択しているわけではない

野生動物の多くは 自分が生きることで精一杯で 本当は子供のことも他者のことも 「どうでも良い」と思っている

中には共同で子育てをする生物もいますが 割合としては非常に稀で 積極的に子育てをしないと死滅してしまう環境の場合に 子育てをしない個体が死滅して より積極的に子育てをする個体への収斂進化が起きた結果です

ヒトが赤ちゃんの顔見て意味もなく幸福になるのは 祖先の生息環境では子供に対して「かわいい」と思う本能習性を持った個体への収斂進化の結果です

ところが 厄介なことに 子供を好きになる習性というのは目的とか方向性とか意図があるわけではないので 性的欲望の対象として子供を扱ってしまうこともある

「かわいい」と思う先天的本能習性には目的意図とか方向性とか戦略があるわけではないためです

幼い顔の女子なら 年齢に関係なく「かわいい」と思ってしまう

それが子育てに役立つこともあれば 幼女強姦に働くこともある

本来 合理性に基づけば 見た目が幼いけど身体は成熟した「幼形成熟」個体を選ぶことによって脳の肥大進化の原因ともなったと言えるのですが

本能習性というものは合理的に目的や戦略に則って主体的に選択したものではなくて 偶発的に「その本能習性や形質を持っていた」個体への収斂進化の結果でしかないため 時に合理性もヘッタクレもない意味不明な行動習性として表出することもある

 

ヒトも男同士で争ったりすることがあります

かつて祖先の生息環境下では より身体が大きくてケンカの強い個体の方が生き残れた場合 ケンカをしたがらない個体は子孫を遺さない結果になる

そもそもヒトは ヒトにまで進化する以前の期間の方が圧倒的に長いので ヒト以前の動物的本能習性の方が強く現れるものなのです

しかし 文明社会においては身体が大きい必要性がないので オス同士で争う合理的意味は何もない

意味がないなら ケンカをしない個体への収斂進化でも起きるのかと言えば

起きないんですね

遺伝的進化っていうのは目的のために合理的に起きるわけではなくて 「死なずに子孫を遺せた」個体種への収斂の結果でしかないので 「死なずに子孫を遺せた」という結果に対する必然性はあっても 合理的目的とは無関係だからです

それこそ暴力的な個体が片っ端から死んでゆくような淘汰圧力でもあれば 非暴力的個体への収斂進化も起きるんでしょうけど そんな淘汰圧力なんか文明社会環境下ではあり得ません

むしろ暴力的な個体が非暴力的個体を攻撃して淘汰圧力として働くことの方が多い

 

身体が大きくて 丈夫で ケンカが強いと「カッコイイ」と思う人って少なからずいると思います

人それぞれではありますが それはヒトが文明社会の中で淘汰圧力がかからなかったことによるバリエーション(多様性)の拡大の結果です

「カッコイイ」という感情にも目的意図とか方向性とか戦略はありませんから ヤクザをカッコイイと思ってヤクザに憧れ ヤクザ組織に入ってヤクザになるバカも少なからずいます

暴走族を見て「カッコイイ」と思うこともあれば 軍隊や自衛隊や警察官を見て「カッコイイ」と思うこともあるでしょう

「カッコイイ」という感情は 自分よりも強い力を持った集団組織への依存的服従を促す本能的な行動バイアスです

より強い力を持った集団組織に属することによって 自分の世間的な地位を獲得することが安心満足感を得られるからです

でも どの集団組織を「カッコイイ」と思うのかは方向性とか合理性はないので 学級内でイジメが起きると イジメている加害者集団の方に「カッコイイ」と思ってしまう人が多く 被害者の方は「カッコ悪い」とか「惨め」とか「哀れ」だと蔑むことで 大半の子供は傍観放置しておいて何とも思わない

「怖い相手には逆らいたくない」という卑屈な感情の方が 「イジメや差別や暴力は社会安全性や公平性に適さない」という理性よりも優先してしまう

ヒトとは そういう「残念な生き物」だからです

イジメというのはヒトという種の生物に限った習性ではなく 様々な先天的習性としての「社会性」を持った種の生物に普遍的に見られる習性であり イヌは自分よりも「上」だと見なした「勝てそうにない」相手に対しては仰向けに腹を見せて屈服服従するという卑屈な態度を平気で行い 逆に自分よりも「下」だとみなした「勝てそう」な相手に対しては急に威嚇して屈服させようとします

イヌは平等とか公平が先天的に嫌いで とにかく群れの中での自分の順位序列を決定しておかないと 誰に服従忖度しておいたら良いのかがわからなくなるのが不安で仕方ないので ひたすら誰彼構わず暴力を振るって自分の順位序列を確認したがるのです

生物学上の「真社会性」を持ったハダカデバネズミは女王自ら家来を「おド突き回し」になられます

自分よりも順位序列が「下」だと見なした相手に暴力を振るって屈服させることが 集団を統率的協調行動させる上において必然的に「生存」や「種の保存」にとって有利に働いた結果です

遺伝的進化というものは 人間性とか安全性とか公平性が進歩するようには働きません

遺伝的進化というのは常に「生存」と「種の保存」に適した結果に対する必然性しかなく その果てに絶滅が起きようが無駄な殺し合いが起きようが誰も保証はしてくれないのです

要するに 「死滅していなければ生物」なだけであって どんなに非合理だろうが暴力的であろうが不公平だろうが生き残れさえすれば「生物」であり その遺伝的進化という結果(自然現象)もまた同じことなのです

 

生物の多くは遺伝的進化によって非常に高い恒常性を持っています

それは数十億年に亘る様々な環境適応の結果であって 非常に高度な環境適応能力を遺伝的に獲得してはいますが 決して完全無欠の完璧なものではありません

高い恒常性は持っていますが それは結果的必然性しかなく 環境が変われば逆効果として働くこともあり 生活習慣病やヒト同士での紛争が絶えないのもそのためです

先天的本能習性のままに行動してさえおけば 必ず正しい結果に至るかのような妄想を 遺伝的進化に抱くべきではありません

ヒトの統率協調性というものは ヒトにまで進化する以前の祖先から受け継いだものであり 決して合理的な「考え(目的意識)」に基づいて主体的に選択したものではなく 「死滅しなかった」という結果以上の意味はないのです

いままで死滅せずに生き残れたからといって これからも永遠に絶滅しない保証は一切ありません

ヒトは その欲望のままに環境資源を喰い尽くして絶滅への道程を突き進んできました

しかし ヒトは自分の行動を先天的本能習性だけで無意識に流されるだけの存在ではなく 本能習性に抗い より合理的な目的意識に基づいた行動選択「も」可能な存在でもあります

主体的な行動選択「も」可能ではありますが 主体的に選択するには主体性が必要です

当たり前体操ですね

書いているこっちがバカらしくなる話です

 

人間としての存在として 如何にあるべきかを考えれば 社会安全性や持続可能性や平等や公平性への配慮が不可欠です

「生き残るためには犠牲も必要だ」といった あたかも自然界における生存競争原理(結果)を文明社会に持ち込むというのは 理性が充分に働いておらず 主観的に「死にたくない」という感情が優先しているからこそ 不必要な差別や過剰な競争を正当化しようとしているだけなのです

差別や過剰な競争こそが 人類を絶滅への道へと誘(いざな)っている現実が見えていない「バカの論理」でしかありません

「1つのパンを10人で分け合えば全員死ぬ」という屁理屈を持ち出すヒトがいますが 現実には「100個のパンを1人で独占しているから9人が飢えている」のです

他人が飢えているのを見過ごして自分だけが生き延びたとして それが「人間」としての生き方だと言えますかね?

そんな殺し合いが正当化される社会が「人間」としての目的だとでも言えるんでしょうかね?

 

他人への迷惑に配慮ができないヒトというのは 実は自分自身も存在している意味や価値がわからないから 他人の存在も尊重することができない

だから他人との比較で 「俺の方が優秀だ」という外見上の序列に執着して他人を貶め かりそめに満足することしかできない

どんなに他人を貶めても 本当の自分は満たされないので 結局「他人を貶めている自分」への肯定感を益々喪失して精神的渇望のスパイラルに陥ることになる

これは中毒ですから 歯止めが効かない

自分で自分の欲望をコントロールする「自由」が全く効かないのに 目先の欲望が満たされることを「自由」だと勘違い錯覚している

本当に哀れなのが自分であることを自覚できず 貶めている他人を蔑んで「俺の方が有利に立っている」と満足する

誰が本当に愚かで哀れなのかが「見えて」いない

その原因は 主体的に目的意識を持って行動選択をする能力を養われたことがないからです

自分の頭で考えず 他人から教わったことや 刷り込み学習された価値観や根拠のない常識に無意識に流されているだけだから 「本当のこと」が見えなくなっている

こうした「愚かさ」というのは学力偏差値とは相関がなく 東大医学部の学生であってもオウム真理教の教祖によって主観的な気分が良くなるように誘導されれれば簡単にテロリストにもなってしまう

そもそも大学の教養学部ではフリードリヒ:ニーチェなんぞを「哲学」として教え込んでいる時点で酷い大間違いを犯している

わざわざ奨学金などと称した借金まで背負わされてまで嘘を教え込まれて鵜呑みにしている「愚かさ」には誰も気付かない

 

それでも「多数や既存の権威の方が正しいはずだ」という観念的安心から どんなに理論的に説明しても誰も「理解」しようともせず

少数異端であるというだけで無視黙殺していても「怖く」はない

 

ヒトという種の生物は 論理客観的な根拠に基づく安全性よりも 主観的に安心満足できる話の方を「信じたい」からです

ヒトは 「信じたい話の方を信じようとする」習性があります

だから 気分が悪くなる話は無視する 意識から外す

そうやって満足することで益々バカになる

バカでいた方が自分が哀れであることを自覚せずに済み 認知的な不協和(嫌な気分)を解消しておくことができる

ヒトにはそういう先天的な認知的欠陥が存在していて 先天的であるということはハードウェア的な欠陥であるため これは後天的なソフトウェア的なパッチによって欠陥を補わなければ欠陥に起因する暴走は止められない

遺伝的進化のメカニズムでは 先天的欠陥を補うようなプロセスは働かない以上 これは目的「意識」の問題なのです

主観的気分や感情を「意識」の主体だと「思って」いることこそが 錯覚や勘違いの源であることを自覚する必要性があるのです

 

 

 

Ende;

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誤謬

2021年10月28日 16時20分09秒 | 意識論関連

動物の多くのオスがメスを巡って争うのは

別に「より強い遺伝子を遺そう」といった意図目的のために争っているわけではなく

暴力的に争いたがる個体が結果的に「より強い遺伝子」を遺すことに至ったことで生存にとって有利に働いた結果的行動習性であり これに意図目的をこじつけるのは科学的説明としては間違っている

ヒトの男も女子を巡って争いたがるが これは現代の文明社会の中では意味がない

意味があろうがなかろうが 先天的本能習性として他人との間に順位序列を決定しておかないと不安で仕方ないという 無意識な行動バイアスによって若い男は暴力的な行動を採りたがるのである

NHKは特に生物学に関わる番組が多いこともあり 進化生物学上の誤謬を理解しないまま 従来の生物学のパラダイムに則った説明をし続けるのは社会的に無責任である

東大の遠藤秀紀に遺伝的進化の説明における「典型的な間違い」についての徹底した検証を行ってもらい 今後科学的に間違った説明をしないようにする必要がある

生物学者の多くは従来の間違ったパラダイムを信じ込んでいた頭の悪さをはぐらかすために「生きているだけでも 立派なものなのだ」などという客観性もヘッタクレもないはぐらかしを繰り返すばかりで 真実を捻じ曲げ隠蔽黙殺を続けるばかりである

科学は多数決ではない

論理的に何が正しいのかを検証しないことには嘘の垂れ流しにしかならないのである

 

 


Ende;

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「できそうない」からといって「やらなくても良い」ことの根拠にしてはならない

2021年10月28日 11時54分05秒 | 意識論関連

できそうにないことは やらない方が良い

事実というものは存在しない。 存在するのは解釈だけである。 怪物と戦う者は自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。 長い間深淵をのぞきこんでいると、深淵もまたこちらを見ているのである。

 -フリードリヒ:ニーチェ

 


⇨「客観的事実などない」と養老孟司は言う

マルクス:ガブリエルも「世界は存在しない」と述べた

この手の話は衆愚や似非「哲学者」共には人気があり 論理客観的根拠に基づく真理の探求を否定することで 物事を論理客観的に検証する(考える)ことを放棄するのに都合が良いのである

論理客観的事実というものは 時に主観的感覚とのズレ(錯覚)が生ずることがある

客観的事実の方が感覚的に「嫌」な場合 ヒトは主観的に安心満足できる話の方を信じようとする

ヒトとは そもそも動物であるから 遺伝的進化の過程において気分が良くなる行動を優先することで生き残ってきた「経緯」がある

怖い相手には逆らわず逃げ回り 勝てそうな弱い相手を文字通り「食い物」にして生き残ってきたのである

ヒトという種の生物にまで進化したのは 長い生物史の中ではごく最近の出来事であって 大半は野獣として進化してきたのであって ヒトの情動の大半は野獣と同じものである

 という話をすると ヒトの大半は気分が悪くなるため 反射的に拒絶反応をするものである

チャールズ:ダーウィンの進化論に対しての拒絶反応も同じで 「ヒトという種の生物だけは他の野生動物とは異なり先天的に人間性や知性が存在しているはずだ」というアプリオリな感覚との齟齬によって ヒトは論理客観的事実を許容できなくなるのである

洗脳の話で良く扱われる「認知的不協和」とは 要約すれば「気分の悪くなる話を受け入れたがらない」からこそ 一旦洗脳状態に陥ると客観性を著しく欠いた認識しかできなくなるという先天的習性がヒトにはある

そのため 一般的には「進化は進歩だ」と錯覚し 「目的意図や戦略として自らの形質や習性を主体的に選択してヒトにまで進化してきた」かのような誤謬(デマ)が 長い間生物学では主張されてきたのである

こうした生物学上のデマは 生物学上における習性としての「社会性」にまで及び あたかも統率的協調行動や 断片的利他行動さえ抽出してくれば「生物学上の社会性=人間性」という方程式をでっち上げてきたのである

実際には動物の本能習性としての「社会性」というものは 封建的な順位序列による統率協調性に過ぎず その内部ではイジメなどの差別排除も伴う野蛮な動物的「習性」でしかない

サルの群れの中では 小さな弱い子供は若いオスからエサを奪われたり 怖いボスに服従迎合忖度するという卑屈な態度も平気でするのであって 到底「人間としての社会性」とは言えない「野獣の掟」を受け入れる以外に選択肢はない

 

ロシアにおけるキツネの人工繁殖実験では 数世代で多様な個体への変異が見られるにも関わらず 実際の自然環境下では多様性のある個体は全く見られず 見た目も性格もほとんど同じ個体しか群れを形成していない

これは群れの内部で多様性を許容しない差別排除(民族浄化)のバイアスが働くことによって 見た目や性格が同じような多数派が 珍しい少数派個体を群れから排除することによって多様な変異を抑制しているからである

ヒトの子供も集団で生活させておくとイジメが発生する

子供がイジメの標的にする相手は「誰でも良い」のであって 多数派で集団組織的に何か(誰か)を「狩る」ことの楽しみ(快楽)欲しさに無意識にイジメているのであって 標的に合理的根拠など要らない

ヒトはそもそも先天的に多様性を受け入れたがらない生物なのである

Microsoft社のTwitterAIがヘイトスピーチを深層学習してしまう程に SNS上には差別排除が溢れかえっているのも ヒトという種の生物が本当は差別排除に満足感を得られる先天的習性が存在するからである

 

ヒトは「権威」と見なした相手の言うことに対して 論理客観的に検証するという批判精神を持とうとしない習性がある

むしろ 唯々諾々と「上」に服従迎合忖度し 自分では何も判断せずに行動責任まで丸投げにすることで残虐行為も平気でできるようになる

これは一部の狂人だけの性質ではなく 普通のヒト全般に普遍的に見られる先天的習性であることがスタンレー:ミルグラムによる服従心理実験(通称「アイヒマン実験」)によって既に「立証」されている

ヒトという種の生物には先天的に認知上の欠陥が存在し 無意識に行動しているとバカげた結果に陥る可能性が高いという事実は 多くの大衆には受け入れ難いため 本論はマスコミにもアカデミーにも黙殺され続けているのである

たとえ遠藤秀紀が遺伝的進化に対する「典型的な間違い」だと主張しても 生物学界内部では少数派であるというだけで 多数派の「間違い」の方を優先して誤謬(デマ)に基づいた論証ばかりを取り上げ続けているのである

マスコミなどというのは 「密集密接を避けましょう」と言いながら尾身茂分科会座長などの後期高齢者への密集囲みぶら下がり取材を自分達からは率先して止めようとはしないバカの集団であり 上司から命令された慣習に唯々諾々と従うだけのバカ記者の集まりに過ぎない

民主主義において報道は 民衆の事実に基づいた行動選択における最も重要な礎であり 科学的誤謬(デマ)を放置しておけば民主主義がバカ主義に陥るのは必然である

 

生物学界は長い間「生物学上の社会性=人間性」という方程式をでっち上げてきたが 私がこれを誤謬だと指摘したことに対し 京都大学霊長類研究所の松沢哲郎は「先天的本能習性によって 人間としての社会性を立証できるかも知れない」などという根拠のない無責任なデマで大衆マスコミから人気を集めた

鋼鉄とポリカーボネートの檻の中におけるチンパンジーの断片的利他行動だけを抽出してきて あたかもチンパンジーが先天的に常に利他的行動しか採らないかのような印象操作をすることで マスコミや大衆を「気分が良くなる方向」へと誘導し デマを拡めたのである

ヒトが嘘やデマを信じ込み 疑ったり検証しなくなるという先天的な認知上の欠陥を利用すれば 衆愚を騙すことは簡単である

振り込め詐欺師が警察だの裁判所だの弁護士だの役所だのを装うのは 一般人が「上」とみなしている対象を装うことによって大衆の多くが疑うことをしなくなるバイアス(性質)があるためである

「上」とみなした「権威」には 「勝てそうにない」ので 最初から疑うことを放棄する方が気分的に「楽」だからである

養老孟司だのマルクス:ガブリエルは こうしたヒトの認知上の欠陥を重層的に利用することによって 論理客観的根拠の全くない荒唐無稽なデマで衆愚の人気を集め

何も検証しない衆愚の多数人気は「多数によって検証されている」という錯覚を生み出し 本当は誰も検証していないのに安心して人気に便乗して満足する

論理的思考が得意な天文学や工学 物理学系の研究者達は 生物学や哲学の支離滅裂な話を理解することができず 「専門外」を理由に検証することを拒否するが 同じ大学組織として無責任である

元京都大学学長の山極寿一は 安倍政権を「ゴリラと一緒で忖度だらけ」と批評したが 山極はゴリラには人間性が存在するかのように言い張り 「ヒトには先天的に人間性が存在するはずだ」などという根拠のない勝手な予想で論理的思考の苦手な大衆マスコミから人気を得ていた挙げ句 松沢哲郎による「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証できるかも知れない」などという論理的に実証不能の観念を支持していたのであって 言っている内容に論理整合性も責任も全くない その場限りの言い逃れや取り繕いしかしていないのである

ヒトが忖度するのは先天的な習性であり ゴリラにも見られる習性である

魚ですら配偶者には忖度すると言われており 動物の先天的習性としては普遍的なものでもある

忖度して「規範意識」に従い 順位序列を鵜呑みにして盲目的に唯々諾々と権威に服従する習性の 一体どこが「人間性」だと言えるのか 山極も 山極の言っている内容を鵜呑みにしていた衆愚やマスコミも 誰も責任を取るつもりはない

論理客観的に何が嘘で 何が本当なのかを誰も検証しない無責任さを 多数でシェアすれば責任が薄まるという感覚(錯覚)によって 衆愚やマスコミは傍観放置しているのである

 

 

ニーチェの言う「怪物」とは具体的に何か

その具体的な基準が曖昧である

観念的な「解釈」に基づけば 主観的に「怖いもの」や「嫌な気分になる話」を「怪物」や「闇」だと「解釈」することは簡単である

ナチス政権下においては ナチスは「元気や勇気が出る勇猛果敢な正義」だと認識され 「怪物」とも「闇」とも認識されていなかった

むしろ無謀にもナチスに反対したヴァルター:ベンヤミンの方が「イカれている」と「解釈」したからこそ ベンヤミンは粛清(排除)の対象にされたのである

できそうにないことは やらない方が良い」とニーチェは言った

勝てそうにない相手には逆らわない方が 利己的生存価にとっては有利で 利己的には「合理的」なようにも見える

だが そもそも「利己的である」ということ自体に合理性がないことを 衆愚は認識していない

「できそう」か「できそうにない」かは 主観的な「解釈」に依存したものであって 具体性がない

差別迫害に異を唱えることで差別迫害を止めることが「できそうにない」からといって 黙るという選択肢は「ヒト」にはあっても「人間」にはない

 

ニーチェの言う「闇」だの「怪物」だの「できそうにない」かどうかといった基準の全ては 読み手の主観的な「解釈」に依存したものであって 読み手が勝手に都合良くこじつけることができて勝手に満足するのに「便利」だからこそ ニーチェは大衆人気があるのだ

そして こうした勝手な「解釈」や「こじつけ」で満足することによって むしろナチスという「怪物」の暴走に歯止めがかからなくなったのである

事実というものは存在しない」などという荒唐無稽な嘘の方が 衆愚の脳にとっては面白くて気分が良くなる麻薬なのである

麻薬中毒になれば 物事を冷静に考えることはできなくなり 麻薬欲しさに暴走を始める

そして 「その麻薬は危険である」という警告は認知的に不協和(気分的に嫌な話)であるため 頭ごなしに無視黙殺され 他人事のように傍観されるのである

 

 

 

Ende;

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迷言集

2021年10月28日 00時22分12秒 | 意識論関連

『信念は嘘よりも危険な真理の敵である。』

 -フリードリヒ:ニーチェ

ニーチェは信念のことを真理の敵だと述べているが 以下のようにも述べている

“権力への意志”、つまり力を増大させたいという意志は、どんなものにもあると考えます。それは決して人間だけでなく、生物界のすべてが力の増大を目指すというのがニーチェの生命観なのです。そして、それらを全面的に肯定しようという発想が”超人”という概念に繋がり、力の増大を認めようとするのです。

 出典:https://toyokeizai.net/articles/-/461925?page=5

 


⇨「信念」と一言で述べても 「実証不能の謎の観念」だけが「信念」ではない

ガリレオ:ガリレイの地動説も「信念」であり

ヴァルター:ベンヤミンによるナチスへの反抗も「信念」である

「信念」なくして科学的真理の探求など成立しないのであり 「信念」の全てを「真理の敵」だと決めつけることはできない

 

重要なのは個人の「信念」に論理客観的根拠に基づく証拠が伴っているかどうかであって 決して「信念の全てが真理の敵」ではないのである

ニーチェは「生物界のすべてが力の増大を目指すというのがニーチェの生命観」という非科学的観念(信念)によって真理から遠ざかったのである

 

ヒトは「答え」を求める習性がある

だが 残念なことにその「答え」には 主観的に安心満足さえできれば論理客観的根拠に基づいた真理の証拠は必要ない

ヒトは真理を求めているのではなく 主観的な安心満足や快楽が得られる「答え」しか求めようとしない 先天性の認知的欠陥を持っているためである

 

人間として本当に求めているはずの「答え」とは 本来安全性にとって有効性のある論理客観的根拠に基づいた証拠のある「真理」のはずだが

ヒトという種の生物は先天的に主観的な気分的安心満足さえすれば「答え」に客観的根拠があろうがなかろうが検証する(考えること)を簡単に放棄してしまうのである

フリードリヒ:ニーチェによる「迷言」の数々は根拠のない決めつけが多く 衆愚が物事を論理客観的検証を放棄するのにおいて正当化に都合の良いものが多いため 衆愚からは多数人気を得られるのである

できそうにないことは やらない方が良い」などというのが典型である

主観的に「できそうにない」ことを とにかく「やらない方が良い」という精神的怠慢を ニーチェは正当化するのに都合が良いのである

 

「信念は真理の敵だ」などと言っておきながら 「生物界のすべてが力の増大を目指す」とい生命観に基づき 全面的に肯定しようという発想が超人妄想という実証不能の謎の観念をでっち上げ ナチズムを精神的に支えたのである

ニーチェ教 ゾロアスター教の信者達はニーチェの「迷言」を都合の良い解釈にだけこじつけ ニーチェ自体の危険性については全く自覚していないのである

 

弱さから生じる全てのものは悪

⇨障害者や貧困者は頭ごなしに「悪」だと決めつけるのに便利な「迷言」である

 

事実というものは存在しない 存在するのは解釈だけである

⇨客観的事実認識を放棄して主観的観念を信じ込むのに便利な「迷言」である

 

考え過ぎたことはすべて問題になる

⇨思考放棄の正当化に便利な「迷言」である

 

たくさんのことを生半可に知っているよりは、何も知らないほうがよい

⇨無知の正当化に便利な「迷言」である

 

 

 

Ende;

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結果と目的

2021年10月27日 14時24分07秒 | 意識論関連

いくら説明しても遺伝的進化のメカニズムを理解しない大衆やマスコミやバカ生物学者が多くてウンザリさせられる

チャールズ:ダーウィンによる遺伝的進化のメカニズムの説明は あくまで自然現象という結果であって 目的や意図や戦略があるわけではない

バクテリアがヒトにまで進化したからといって ヒト以上の何者かにならなければならない理由があるわけではない

 

遺伝的進化という結果を 短絡的に目的にすり替えるから優生学に陥るのであって 最も根本的な間違いを認識していただかないことには優生学というデマをフィックスすることができない

 

遺伝的進化のメカニズムというのは ゲノムが放射線などの影響によってランダムに変異を起こし 種としてのバリエーションが拡大した後

様々な淘汰圧力によって環境に適応した個体種以外が死滅することで 環境に適応した個体だけへの収斂が生じた結果を遺伝的進化と呼んでいるのである

アフリカのサバンナであればネコ科の哺乳類はライオンだのチーターだのが環境適応して収斂進化が起こるが 西表島ではイリオモテヤマネコが適応して収斂が起こった

しかし ネコ科の生物があらゆる環境に必ず適応できるわけではなく あくまで適応に「成功」した場合以外は全て死滅しているのである

遺伝的進化というのは あくまで環境適応の結果であって 予め「生存」だの「種の保存」だのといった目的に則って起こるわけではなく

「死滅せずに子孫を遺せた」個体種への収斂という結果であって 「生存」や「種の保存」という結果に対する必然性が伴うのは当たり前の話である

「結果に対する必然性」と「合理的目的」との区別ができないなら 科学者としては無能である

 

時折数億年もほとんど姿を変えない生物というのがいる

シーラカンスとかオウムガイが有名だろう

深海などの変化の少ない環境下においては 変異によって姿や形質が変化すると適応できなくなってしまうため 形質が何億年も変わらないまま その環境に適応し続けた結果である

北極海の氷の下では まるでエディアカラ植物群みたいな奇っ怪な生物がウジャウジャ生き残っている

遺伝的進化というのは進歩ではないため 洞窟の奥底では眼が退化したり色素を失ったりもする

「退化」なのか それとも「進化」なのか どっちなんだと「思う」かも知れないが これは「どっちでもない」のが正解である

正解は 「その環境に適応変異した結果」に過ぎない

「進化というものに方向性や目的が存在しているはずだ」という 大衆観念的妄想に基づいているからこそ 進化という自然現象(結果)を合理性ある目的と勘違いするのである

酷い場合には「意識の上では知覚できない謎の無意識な行動バイアスによって知らない間に正しい行動へと導かれている」などという荒唐無稽なファンタジーまで出てくる始末である

遺伝的進化というものに 予め神だか何だか知らない謎の目的意識みたいのが存在していて 自覚することも知覚することもできない謎の行動バイアスによって無意識に正しい行動へと導かれているという妄想を抱いておけば バカで何も考えなくても許されるとでも思って満足できるのかも知れない

バカが何を考えているのかなど知る由もない

衆愚の精神的怠慢を正当化するのに都合が良いから遺伝的進化に目的をこじつけ 認知的不協和を解消しているのであろう

そして「自分達は知的生命体だ」などと勝手に勘違いして満足する

満足して安心すれば それこそが安全性だと勘違いして 論理客観的根拠のないデマや嘘でも鵜呑みにするようになる

 

一部の医師は「ウイルスは弱毒化する」などと言い出しているが その説明は「ウイルスが困る(?)から 環境に適応した変異がどんどん増える」などという 到底科学的とは言い難い謎のプロセスやメカニズムの説明しかしていない

変異自体は常にランダムであり バリエーションを拡大する作用しか働かない

RNAウイルスというのは 一般的な生物とは異なりDNAのような堅牢な自己保持恒常性機能を持たないため 桁外れに膨大な変異を繰り返す流動性を持っており どんな僅かな免疫の隙間(セキュリティーホールのようなもの)でも見つけ出してすり抜けることもできることで 存在を維持し続けてきた

ウイルスが存在するのも結果であって 目的はない

それはウイルス以外の生物においても同じである

赤潮ウイルスが特定生物種(この場合は赤潮プンクラトン)の異常繁殖を抑えて環境調和に役立つといっても それもまた結果であって赤潮ウイルスが環境保全を目的として存在しているわけではなく あくまで「結果的な役割」として働いているに過ぎない

生態系の調和であっても進化の結果であって 環境調和できなかった生態系が全て淘汰され 偶発的に生態系の恒常性を獲得して環境調和できた生態系への収斂進化の結果に過ぎない

だからこそ 生態系というのは少しでも環境変化が起こると簡単に崩壊することもある脆弱でクリティカルなものでもある

生態系の恒常性(安定性)というものは あくまで環境の安定性の上に成立しているものであって 急激な環境変化には追随することができずに あっけなく崩壊するものでもある

ほんの数℃の海水温上昇によって海藻類がウニによって駆逐される「磯焼け」が起きたりする

ウニはシーケンシャルに海藻を喰い尽くすだけであって 最終的には環境を喰い尽くして自滅への道を回避することはできない

急激な環境変化が生ずると 生態系は簡単に崩壊して大量死滅が起こる

過去に地球上で繰り返し起きた大絶滅は RNAウイルスほどの変異流動性を持たないDNAゲノムの生物の大半は環境に適応できず死滅する以外に何もできなかったからである

しかし 地球というのはとても大きいので 完全に全ての生物が絶滅するわけではなく 特定の場所では環境変化が緩やかな場所もあるため 徐々に遺伝的進化の適応が起きることもある

恐竜は6500年くらい前に絶滅したとされていたが 実際には恐竜類の一部は鳥類への変異が環境適応できて現在に至っている

恐竜類の99.99%以上は絶滅しているが たまたま鳥類への変異が起きた個体種だけが環境適応できたことで収斂進化し 鳥類として遺った

現在では地球上に多くの哺乳類が繁栄しているが そもそも哺乳類は爬虫類などから偶然変異した最初の1個体からのバリエーションである

しかも その変異が起きた時にはウイルス感染が関与していることがゲノム解析から解っており これもまた偶発的な結果に他ならない

ウイルスが宿主にどのような作用を及ぼすのかは 予め決まっているわけではなく 宿主に病気を引き起こすこともあればDNAの一部を書き換えて変異を引き起こすこともある

ウイルスによるDNAの書き換え現象自体も偶発的なものであり 書き換えによって宿主に何が起きるのかも全くのランダムで方向性や目的はない

たまたま哺乳類への進化を促すこともあれば 病気を引き起こして宿主ごと死んでしまうこともあれば 何も起きずに共生してしまうこともある

あらゆる遺伝的進化というものは 予め決まった目的のために生じたのではなく あくまで偶発的に環境適応して「死なずに済んだ」という結果でしかない

それは先天的本能習性や行動バイアスも同じことであり 多くのヒトが生活習慣病に陥るのは祖先がかつて生息していた環境による収斂進化の結果であって 無意識に塩分や糖分や脂質を摂り過ぎてしまうのである

 

天動説が信じ込まれていた時代には 地動説は火炙りにされたことがある

多数がバカの社会では 天才であっても生存には適さない

暴力が蔓延している社会なら より力の大きい個体や 強力な武器を持っている方が生存には有利だが 頭が良い個体への収斂進化が起こる淘汰メカニズムは存在しない

イジメが起きている学級では 自殺に追い込むイジメの標的は「誰でも良い」のであり イジメの加害者は集団統率的な協調性(生物学上の「社会性」)の強い個体である

イヌの統率協調性というのは 順位序列による封建性によるものであり イヌは平等が嫌いだからこそ自分よりも弱そうな相手には暴力的に威圧し 逆に自分よりも強そうな相手には迎合忖度して服従するのである

元京都大学学長の山極寿一は 安倍政権を「ゴリラ社会と同じで忖度ばかりしている」と批評したが 山極は普段は「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などと先天的本能習性を正当化していたのであり 言っている内容に一貫性がなく 極めて無責任である

ヒトという種の生物は 先天的に権力者などの「怖い相手」に迎合忖度して服従し 統率協調的な集団を形成することによって より強い力を持った集団組織に所属して安心満足する習性がある

これが学校での学級内で発揮されればイジメの原因となる

迎合忖度して服従する相手は「自分よりも上」と見なした対象であって 権力や暴力を振り回す「怖い相手」であって 人間性や倫理はどうでも良いのである

そして暴力者に服従迎合してしまえば 「暴力者に服従迎合している自分」を事後正当化する形で「自分よりも下」と見なした相手に暴力を振るうようにもなる

ナチス政権やポルポト政権 ミャンマー政府軍や香港警察 太平洋戦争中の日本軍など 暴力で民衆を統率したがる独裁集団が権力を掌握してしまうのは 独裁者を「自分よりも上」と見なして服従迎合忖度して独裁集団の威圧に便乗することで安心満足できる大多数の服従者が存在しているからである

アドルフ:ヒトラーが天才的独裁者だったのではなく ヒトラーに服従して評価されることでナチス政権内での地位権力を欲しがった多数の服従迎合者達による暴走なのである

「怖い相手に服従し 迎合忖度し 弱そうな少数派を暴力で服従させようとする行為」は 人間としては卑屈で恥ずかしい行動のはずだが 大多数が暴力者に迎合している環境下では「勝てそうにない相手に逆らう」ことの方が「恥ずかしいこと」にされてしまうのである

それは 生存こそが絶対的な価値としてみなされているからである

「勝てそうにない」ことは生存にとって合理的ではない

ナチス政権に反対すればスイス山中で自決を余儀なくさせられることもある

逆にナチスに迎合して戦後に生き恥をさらしたバカ(マルティン:ハイデガー)もいる

生き恥をさらしてまで生き延びたところで永遠に生きられるわけでもない

「生きるためには」などと称して生存を絶対価値にしてしまうから 人間性や倫理が後回しにされ 社会安全性や公平性が簡単に失われてしまうのである

 

「生存」は結果に過ぎない

誰も自分から「この時代や社会に産まれてこよう」としたわけではない

どんなに「死にたくない」と強く思ったとしても それは先天的な動物としての脳(大脳辺縁系)の常習性によって刷り込み学習された情動に過ぎず 主体的に選択した目的や絶対的価値の論証にはならない

社会安全性や公平性を蔑ろにしてまで生き延びても 人間としては既に死んでいるも同然である

ヒトという種の生物としては生き延びられても 人間として生きられないのであれば 生き地獄でしかない

「生存」は結果であって 目的ではない

人間としての目的とは 社会安全性や公平性への配慮を怠らない理性に基づく行動選択であって

たとえ生存にとって不利であろうとも 犠牲をはらってでも人間としての行動選択なしに生き続ける価値はどこにもないのである

 

より多くの人が社会安全性や公平性への配慮を優先していれば 無駄な犠牲者を減らすことができるのだが

衆愚というのは特定の「英雄」や「天才」のようなカリスマ的な何者かに全てを丸投げしておいた方が自分の怠慢が正当化できるものだと勝手に妄想しているため 無駄な犠牲が後を絶たないのである

衆愚は 何が真理で 何がデマや嘘なのかを自律的には区別せず 多数派や既存の権威を盲目的に信用しておいた方が気分的には安心満足であろう

ヒトとはそういう先天的な認知上の欠陥(バカ)が存在しているから 何度も同じようなバカげた結果に陥ることになるのである

 

衆愚はバカでいた方が安心満足であろう

バカでいることに安心満足しているから「衆愚」と言うのである

衆愚はゾロアスター教でも信奉しておけば安心できるのであろう

フリードリヒ:ニーチェを哲学だと勘違いして「カッコイイ」とでも主観的に思っておけば満足なのであろう

奨学金と称した借金まで背負って大学で教えられた内容には誰も疑問を持たない偏差値が高いだけのバカ学生が大半である

身銭を切って購入した「書籍」でありさえすれば 内容が必ず精査されていると勘違いすることも簡単である

どんなに多数のバカから人気を得ていても バカの多数決ならバカげた内容に過ぎないのは必然的結果である

大多数がバカの社会がどのような結末になるのかは もはや私の知ったことではない

そんなことまで責任負えるわけなかろう

 

 

 

Ende;

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昭和なもの

2021年10月26日 20時50分42秒 | 写真

浮間にあったバイク屋っぽいお店の店先にV型2気筒の「SRV」っていうバイクが置いてあった

ググってみたらビラーゴ250のエンジンを積んでいるそうで どっちかつうとゆる〜いバイクらしい

 

 

ば バキュームカー

何年か前にも夢の島で見たわ

仮設トイレはバキュームカーでナントカするらしいので

河川敷にあるトイレは水洗ではないのがあるのかも

下流の方だと水洗だったけどな

場所によるのかも

 

 

Ende;

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感染症対策(2021/10/26)

2021年10月26日 14時40分07秒 | 日記

時折感染対策としてグータッチとか肘タッチをすることが見られるんだけど

握りこぶしの外側って 指の背で鼻こすることあると思うんだが

エレベーターのボタンを指の背で押すのも 対策としては有効性に疑問がある

むしろ指の腹で普通に触ってから ちゃんと手を洗うとか 消毒するとかした方が安全なのではないかと思うのだ

逆に指の背でエレベーターのボタンを押したりすると それだけで対策になったような錯覚に陥ってしまって 手を洗う時に手の甲側をちゃんと消毒したり洗ってない人って多いんじゃないかと思う

ヒトってどうしても気分的満足や安心で思考が停止しちゃう傾向があるので 指の背でボタンを押したらそれだけで満足しちゃって指の背を洗ったり消毒していないことがあるんじゃないかと思う

 

あと 指なめてチラシとか本をめくるのも無意識にやってる人多い

酔っ払って脳が麻痺してくると そういう無神経な行動が増えることになる

自販機のボタンも 日陰だと危ないかも知れない 直射日光が当たっていればリスクは下がると思う

自販機のPETボトルも若い人が無症状感染で補充している可能性もある

缶飲料なんかだと缶に直接口つけて飲むので 一回洗った方が良いと思う

自販機の補充している人って 大抵若くて健康そうな若者なので しかも中身は冷蔵庫だからウイルスが保存されている可能性もある

ホットの方が安全かもしれない コロナは熱には弱いらしいから

ああ でも取り出し口の蓋怖いな 不特定多数で触るもの

子供にPETボトル飲料与えた時に ちっちゃい子だと無意識にナメちゃったりすることがあるので 一回水洗いしてから与えた方が無難だと思う

 

 

10月末になってから新規感染確認者数がだいぶ落ち着いてきた

ちゃんと対策してればデルタ株でも収束するらしい

感染すると66%もの人が後遺症で苦しむというから 感染して良いことは何もないらしい

子供は後遺症の話もきかないが 将来的にどうなるのかはわからない

 

あと 何度も言うけど弱毒化はあり得ないからね

厚生労働省の見解としては「弱毒化の兆候はない」としているんだから メカニズムやプロセスに拠らずとも弱毒化に期待すべきではない

少なくとも日本では

 

 

Ende;

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主観には錯覚が混入しているのである

2021年10月26日 14時06分09秒 | 意識論関連

私は個人的にはハゲヲヤヂ同士が手を握って「愛し合って」いることに共感できない

髪を染めることにも 厚化粧にも共感できない

だが かわいい女子同士が仲良くしているのは素敵だなと「思う」し

美形の男子が女装するのも違和感はない

 

これらは全て私の個人的な主観である

主観的な美的感覚などというものは 客観的にはどうでも良いことであるから ハゲヲヤヂ同士で手を握って歩いていることも 学校安全の研究者が金髪にしていることも許容するべきだと「考え」て判断している

山神明理が南野陽子みたいな顔立ちであるため 似合う髪型が限られていると「思う」のも 勝手な個人的好き嫌いの範疇である

社会的にはどうでも良い話である

 

大和民族など 日本人の人たちの中で育つと 海外にルーツを持つ人に対しての観念的違和感を抱きがちである

内容が聞き取れない他国の言語で話をされていると 聞き慣れないことに不快感を「感じ」ることは私にもある

だが それらは全て個人的な主観的好き嫌いの範疇であって 決してそんな違和感だけで他人を評価することなどできないのである

逆に言えば 詐欺師は日本語が流暢だからこそカモられるのであって カタコトの日本語では詐欺は成立しないのである

個人的 主観的に安心だからといって それが真実であることの証拠にはならない

人を「外来種」呼ばわりして差別することを正当化するバカもいるらしいが 外来種の全てが有害だったり敵対的だったりするわけではないし そもそも分子生物学(遺伝)的には「ヒト」は全て同じ種の生物であり 「他の種の生物」ではないのである

社会の変化に対して 気分的に追いつかないからといって 自分の主観的好き嫌いだけを根拠に他人を「外来種」呼ばわりするというのは身勝手極まりない

もし自分が海外に住む事になった時に 自分が「外来種」呼ばわりされ差別されることを許容できるわけもないのに あたかも先住民族だからというだけで他所者として差別するのは合理性がない

私の知り合いに父親がバングラデシュ人の子がいるが 外見は彫りの深いバングラデシュっぽいのだが 日本で産まれ育っているので中身は完全に日本人である 当然国籍も日本人である

確かタレントのローラちゃんもバングラデシュ人のハーフだった気がする 調べりゃわかるが

ローラちゃんとか池田エライザちゃんや藤田にこるんに対して「外来種」などと言い出す奴がいたら頭がおかしいとしか「思え」ないし 逆に日本人なら相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺犯の植松聖は許容できるものなのかと 「へずまりゅう」も日本人らしいが あんなもんが日本人であるということ自体 同じ民族であることが恥ずかしいとしか「思え」ない

そりゃ 中には外国籍の犯罪者もいるだろうが 犯罪者などというのは国籍や民族で区別できるものではなく オウム真理教の教祖も 無謀なインパール作戦司令官の牟田口廉也も日本人なのである

 

ヒトが暴力的排除をしたがるのは 主観的恐怖に因るものである

「見慣れないものを怖がる」という その「習性」自体は自分で選択していない

自己選択不可能な情動は 本質的には「意思」ではないのである

単に「見慣れない」というだけで他人を差別しているようであれば 簡単に詐欺にもひっかかるであろう

慣れ親しんだ日本人や日本語なら安心して信じ込むことが可能だからである

 

 

Ende;

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