詐欺師集団やカルト教団内部での「信頼関係」は人間性の論証にはならない
腐敗組織に同調迎合忖度服従しておけば安心満足で「身体性(気分感情)」的には健康であるとしても それが人間性の論証にはならない
山極寿一や養老孟司の言う「身体性」とは 要するに主観的な気分的安心満足のことであり 「信頼関係」などというのも「信じたい」という主観に基づいたものである
主観的に「信じたい相手」が言う「信じたい話」だけを信じていれば 嘘だろうがデマだろうが安心満足感は得られるものである
独裁体制内部での「信じたい話」だけを信じ込んでいるからこそ 個人から主体的で自律的な論理客観的判断選択性が失われ 「組織の利益を優先」することによって組織内部での立場権益利権といったものを維持することにしか意識が働かなくなる
何せ自律的には何も判断せず 「組織の利益」だけが優先されていれば 必然的に盲目となり 結果的に自律的責任判断は失われて洗脳状態にも陥る
ヒトという種の生物は その先天的な「社会形成性習性」によって 多数派に同調迎合し 権威に服従忖度しておいた方が安心で満足するという行動バイアスを発揮するものである
元々は子供が親に服従する性質が 共同体内部でのヒエラルキー封建体制組織を形成することによって 統率的協調性が生存にとって有利に働き 結果的にそうした本能習性の強い個体の遺伝子が拡がりやすかったという「結果」である
今まで何度も述べてきたが 遺伝的進化によって組み込まれた先天的本能習性というものは 目的に則って合理的に主体選択したものではなく あくまで「拡がりやすかった性質」が遺っただけの結果に過ぎない
現代人が生活習慣病に陥りやすいのも かつて祖先の生息環境における行動バイアスへの収斂結果であって 遺伝的進化というものは決して都合の良い結果だけをもたらすようなものではない
ヒトの進化過程においても 統率協調的に他の部族を殲滅して環境資源の奪い合い競争に勝ち抜くことで結果的生存や繁殖に至った結果を 「成功」だの「繁栄」だのと形容詞をこじつけ あたかも絶対的正義であるかのように倒錯しているのも 主観的安心満足が優先して論理客観性を失っているからに他ならない
自然環境というのは必ずしも常に安定的に恒常性が担保されているわけではなく 天候不順などによって環境資源の枯渇が生じることは珍しいことではない
環境資源が枯渇した際に 生き残れるのはどういう生物なのかと言えば 必然的に暴力性の強い生物であって 呑気に「共生」なんぞを望んでいたのでは全滅するだけである
「一つのパンを10人で分けたら全員死ぬ」という理屈である
過酷な自然環境下においての生き残りという結果をもたらすのは 環境資源の奪い合い競争に勝ち抜く暴力性であり ヒトのような統率協調性もまた他の部族との環境資源の奪い合い競争において有利に働くことになる
「生き残る」遺伝子 「拡がりやすい」遺伝子が遺るのが遺伝的進化であって 個体の都合や努力や望みや祈りや恨みや呪いは遺伝的要素に影響を及ぼすことはなく どんなに「戦争や暴力のない社会」を望んでもヒトは祖先の生息環境の影響によって本能的に暴力で物事を解決しようとする先天的習性からは逃れることは出来ない
先天的本能習性から「逃れる」ことは出来ないが 本能習性に「抗う」ことは可能であり それが論理客観的検証性という「考え」である
「欲望そのものを欲することはできない」が 欲望に無為に無意識に流されることなく 自律的に行動を選択することは不可能ではない
だからこそ「意識」が重要なのであり 本質的な人間としての「意識」が何なのかを理解し 区別できないことには話にならない
養老孟司は「意識に意味はない」と述べたが 養老の言う「意識」とは 一般大衆的観念に基づいた「情動」のことであって 大脳辺縁系(脳の古い領域)によって促される無意識な情動行動バイアスのことであって これはイヌやサルレベルでの「意識」ではあっても「人間としての意識」ではない
東大の脳科学者共が「自由意志などない」などと言い出したのも 情動行動バイアスを「意識」だと倒錯していることが原因である
情動行動バイアスという主観は意識ではなく 主体的に論理客観的に行動選択ができて初めて「人間としての意識」だと言えるのであり
殴りたいという感情が生じたからといって 殴る以外の選択が絶対に不可能であることの論証には全くならない
イヌやサルなら情動が行動と直結しているものだが ヒトの場合に情動と行動が直結していたのではイヌやサルと何ら違わなくなってしまうのであって だからこそ戦争などというバカげた結果にも陥ってしまうのである
衆愚の大半が 懲罰を「道徳」などと形容し 集団から排除差別することを絶対的正義のように倒錯するのは
暴力的懲罰や威圧によって多数派に迎合屈服させることこそが主観的に安心満足だからであり この主観的安心満足感によって懲罰を「正義」だと錯覚するのである
通り魔を何人死刑にしても通り魔事件は繰り返す
死刑という懲罰や威圧的抑圧は自暴自棄な通り魔に対して効力を持たない
「怖い相手に逆らわない」というのは情動行動であって これは独裁腐敗組織が形成されるプロセスにおける大きな要因でもある
主観的に「怖い」かどうかに関わらず 論理客観的に「正しい」かどうか 「合理的」かどうか 「実効的」であるかどうかを個人が自律的に検証し 主観的な「安心」ではなく論理客観的に「安全」かどうかを見極め区別してこその人間としての「本質的な意識」であり 医学上の意識の有無とはレベルの異なるものである
詐欺師や強盗殺人犯であっても自分の名前や年齢は答えられるものであり 医学上の意識は何ら本質的な「人間としての意識」の論拠にはならず それは「ヒトという種の生物としての意識」を論証しているだけである
詐欺師に騙されている最中の被害者も 医学上の意識なら充分働いているのだが 自分が騙されていることに関しては論理客観的に「考える」ことができずに情動のままにしか物事を判断出来なくなっているからこそ 「自分は絶対に騙されてなどいない」と言い張るのである
情動としての意識というのは 主観的な安心満足を追求するようにしか働かない
情動を司る大脳辺縁系というのは 主観的安心満足を追求する構造しか持っていないからである
従って 自分の情動というものが本質的な人間としての意識ではないことを理解し 主観的情動に脳を乗っ取られることなく論理客観的に「考え」てこそ人間としての本質的意識だと言えるのである
人間としての本質的意識が働かないような脳の構造を先天的に持っていることは理不尽ではあるが これは「天災」同様に選択不可能なものであり 遺伝的進化の「結果」に過ぎない情動行動バイアスというものが選択不可能な「無意識」に過ぎないことを理解する自己客観性が必要となる
そもそも自分の脳は自分で作ったものでも 選択したものでもなく
脳を作り出す遺伝的要素そのものも何ら自分では選択不可能なものであって 自己の脳の構造の理不尽性 不条理性というものは不可避な選択不可能なものである
こうした話は誰もしたがらないし すれば不安に陥るので嫌われることはわかっている
むしろ「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」的な都合の良い気分の良くなる話「福音」でも述べていた方が多数の衆愚から人気を得られることもわかっている
しかし 残念ながらヒトという種の生物には先天的人間性など組み込まれている証拠は何もなく 科学的には何の根拠もないデマや嘘に過ぎないのだが 主観的に安心感や満足感を得られる「信じたい話」の方が多数衆愚からは人気を得られるのもまた「結果」というものである
断片的な利他行動や統率協調性だけを抽出してきて「人間性だ」などと言い張るのは 衆愚を糠喜びさせるだけのデマや嘘であって 断片的利他行動や統率協調性というものは戦争や犯罪組織においても働くものであって 何ら人間性の論拠にはならない
脳波の同期がサッカーのプレイに有効だとか 直感が将棋の指し手に有効だとか称して あたかもこれら「世間的成功」こそが人間としての価値であるかのように錯覚させる手口を生物学者共は平気でやらかすが
サッカーだの将棋で世間的に成功しても それは利己的利益にとっての有効性に過ぎず 何ら社会安全性や公平性にとって意味を為すものではないのだが ヒトという種の生物は先天的にバカなので 世間的な利己的成功や評価報酬こそが人間としての価値であるかのように錯覚するのは 非合理なデマや嘘であっても主観的に安心満足を提供してくれる世間的成功評価に惑わされ「脳を情動に乗っ取られ」てしまうからである
短期記憶を司る海馬は大脳辺縁系の一部であり ヒトは短期的には主観的安心満足だけが優先し 論理客観的検証が働かないものである
しかし ヒトは大脳容積が肥大することによって 記憶全体から統合的に論理検証し 合理性のある行動選択「も」可能である
ただ 可能ではあるものの簡単ではない
大脳辺縁系は人間としての意識である論理客観性を簡単に乗っ取り 情動を優先してしまうが故に安心して嘘やデマを信じ込み 盲目的洗脳状態に簡単に陥るという先天性の認知的欠陥を持っているためである
別に集団でなくてもヒトはバカになる
ヒトは先天的には合理性のある論理客観的判断選択よりも 主観的安心満足を優先してしまう習性(傾向性)が存在しているからである
本能的習性というのは あくまで「傾向性」であって 断じて「先天的本能習性には逆らえない」ようなものではなく 犯罪者や独裁者のように先天的本能習性に逆らえない奴のことを「バカ」と言うのである
バカは「できそうにないことは やらない方が良い」などというフリードリヒ:ニーチェの「迷言」を鵜呑みにし 「諦める」ことを「悟り」か何かと倒錯することで自己欺瞞に溺れる安心満足感を「自分は頭が良くなった」と倒錯するものである
「できそう」かどうかは論理客観的に「絶対に不可能であることの論証」がない限りは主観に過ぎず 根拠がない
だが 衆愚の大半は主観的観念と論理客観的根拠の区別がつかず むしろ主観的に満足することを優先してしまうが故に嘘やデマでも簡単に鵜呑みにしてしまうという頭の悪さを発揮するのである
脳がバカだと腐敗組織にも同調迎合忖度服従し 組織内部での自分の立場や権益を保守維持するという利己的選択こそが「賢い」と倒錯する
腐敗組織が破綻した際には「組織は頭から腐る」だの「組織の体質が悪かった」などと称して あたかも組織のトップだけに責任をなすりつけておけば 自分達が自律的な社会的責任判断を放棄していた無責任性の免罪符にすりかえようとする
「組織の体質」というものは 組織を構成する多数によって作り出されるものであって 「多数であれば責任が薄まる」という主観的感覚によってヒトは自律的な社会的責任判断選択を簡単に放棄するようになるのである
腐敗組織に対して個人の自律判断選択はほとんど効力を持たないが 完全な無力ではない
微力を無力にすりかえるのは 主観的に「怖いからやりたくない」という恐怖心を正当化するための「言い逃れ」や「はぐらかし」に過ぎない
ところがヒトというのは 主観的に「悩ましい」ことを論理客観的な「考え」か何かと錯覚し ニーチェのような都合の良い「迷言」をこじつけることによって自己欺瞞の満足に溺れ あたかも「自分は賢い」と勝手に倒錯することで 益々バカになるのである
「哲学」というものを大多数の衆愚は主観的な「悩み」を解消して安心満足することだと倒錯しているバカが大半だが
「哲学」は本来「科学」同様に論理客観的に真理(本当のこと)を見極め 嘘やデマと区別識別するためのものである
嘘やデマを信じ込んでいた場合 既に信じ込んでいた嘘やデマが本当は嘘やデマだと認識するためには 自分が今まで信じ込んでいた頭の悪さも認識しなければならず これが主観的気分にとって「嫌」であるため 認知的不協和を解消する形で「バックファイア効果」のような拒絶反応によってバカが治らなくなる
ヒトという種の生物は 「自分だけは絶対に大丈夫だ」という根拠のない過信に溺れていた方が気分的には安心満足だからである
こうした情動による思考撹乱というものは先天的な認知上の欠陥であり 誰に文句を言うこともできない一種の「天災」であって 不条理だろうが不安だろうが受け入れる以外に選択肢などない
Ende;
山極寿一は持論に対して「細田千尋や川崎真弘の主張と通じるものだ」などと主張していたが
嘘である
ゴリラに限らず「信頼関係」というものは主観的感覚に依存したものであり 細田千尋の主張は「自己客観的に検証する必要性」を説いたものであって 山極の主張と細田の主張は論理的には相反している
ゴリラの信頼関係というものは あくまで主観的感覚としての安心感や満足感という脳内麻薬による働きであり 集団心理によってバカになるヒトの習性と同列のものである
ゴリラやチンパンジーの「信頼関係」というものは 順位序列に基づき 差別や排除も含まれるものであって こうした先天的本能習性としての「信頼関係」には人間性が伴う論証には全くならない
それはヒトにおいても同様で プーチン政権下においてロシア人同士で「信頼関係」を築いても ナチス政権下においてドイツ人同士で「信頼関係」を築いても 日本大学内で田中英寿理事体制内部での「信頼関係」が維持温存されていても 東京電力福島第一原子力発電所において「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わない」としても そうした集団組織内部での偏った「信頼関係」こそが集団を構成する個人に盲目性を発揮させ 組織腐敗を傍観放置温存に加担してしまう原因なのであって そんな先天的「社会性(本能習性としての社会形成習性)」に人間性が伴う論拠には全くならない
「信頼したいか したくないか」「信じたいか 信じたくないか」という主観的感覚によって ヒトは簡単に客観的論理検証性を喪失するものであり これは別に集団密集がなくても生ずるヒトの基本的な思考認知上の欠陥である
短期記憶を司るのは海馬だが この海馬というのは大脳辺縁系の一部であり 脳の古い領域であり 動物的情動行動を促すための機構に過ぎない
しかし 論理客観的に真偽判定を行うのは大脳新皮質の前頭葉の働きであり 物事の真偽を論理客観的に検証するためには自発的に「考え」 地頭 自頭として働かせないと情動が優先してしまい 相手の主張を疑いもなく鵜呑みにして受け入れてしまう
大脳新皮質の記憶や思考というのは 海馬や小脳などの大脳辺縁系程は思考速度が伴わないため 短期的にはヒトは物事を深く論理客観的に検証して真偽を判定することが先天的に苦手なのである
短期記憶を司る海馬などの大脳辺縁系は欲望を満たすことが「目的」であり その「目的」達成に合理的選択を付与するのが大脳皮質であって 短期的即応としては主観が優先し 客観性や論理検証性は働きづらいものなのである
人間としての目的意識とは 自己内部の様々な欲望の中から 統合的に優先順位をつけ 目先の欲望や安心満足に惑わされることなく社会安全性や公平性に基づく行動選択であって これは先天的本能として組み込まれているものではなく 単に大脳新皮質の肥大の結果的認知能力に他ならない
これを養老孟司や山極寿一や衆愚マスコミは「理不尽」だと称して否定したがるが ヒトという存在は別に「神」などによって合理的に保証された存在ではなく 遺伝的進化によって偶発的に発生した「結果」以上の存在でしかないのであって 選択不可能な自己存在の中において 本当に自由選択可能なものが何なのかを理解認識しなければ 本当の自由意志選択にもならないのである
情動としての安心満足に溺れているのであれば それは辺縁系に脳がジャック(乗っ取り)されている「バカの状態」そのものである
よく知能の試験で思考速度を知能の基準として用いることが多いが 深く物事を検証する際にはむしろ思考速度が速いことは思考が短絡的で 既知の知識や思考パタンをなぞるだけの能力しか測っておらず どんなに思考速度が速かろうが 短時間暗記能力が高かろうが 論理客観的検証能力とは相関がない
山極の主張する「身体性」云々の話は 養老孟司の主張を引用したものであるが これは要するに主観的安心感や満足感を優先する主張であり むしろ客観的論理検証性を否定するものでもある
ヒトは別に集団密集状態でなくとも そもそも短期的には客観的論理検証が働かないという先天的な認知上の重大な欠陥を先天的に持っているため 空間を共有して権威肩書を持った山極のような相手の主張には疑ったり検証したりする客観性を簡単に喪失し 嘘やデマでも当たり前のように鵜呑みにするものなのである
「信頼」とは すなはち「安心」のことである
「信じるものは救われる」とはキリスト教の一節だろうが 観念的「信頼」は盲目性の源であって むしろ「救われない」原因である
本論や私のことは 別に観念的に「信頼」して頂かなくて結構である 多数衆愚に信頼されて人気を集めて金儲けをすることが私の目的ではないからである
重要なのは 誰の話であっても真偽を検証する主体的な論理客観性であって 「テレビやマスメディアで言ってた」とか 「カズレーザーが納得していた」などという「他人の判断」を鵜呑みにしないことである
ヒトは盲目的に誰かを信頼しておいた方が安心できる
これは哺乳類として 子供が親を盲目的に信頼(甘え)する習性が共同体に転移した形で発現する
相手は誰でも構わなくて 宗教の教祖だろうが 学術権威(肩書)であろうが マスメディアやクイズ芸人だろうが構わず 主観的に安心さえできれば誰でも良いのが先天的習性(本能的な社会形成によって促される情動行動)である
自分の頭で真偽を検証するためには 自己の主観的安心をもたらす盲目性をも疑う必要があり 精神的には「安心」であるとは限らない
ヒトは一度信じ込んだ相手や論説を疑うことに拒絶反応を示し 「既に信じてしまっていた自分」の頭の悪さを認めないことで認知的不協和を解消し 主観的な安心満足に溺れて思考停止に陥る習性がある
「バックファイア効果」のメカニズムも一緒である
コロナ禍以前では 選挙運動において候補者はやたらと有権者との握手を求めていた
その行動は客観的にはまるで流れ作業を「消化」するかのように機械的に行われていたものであるが 有権者であるヒトというのは接近して握手をして肌を触れ合うことによって観念的な「信頼」を獲得できるため 得票数を得るのに有効であるため 選挙の手法として経験則的に確立された「手法(手口)」である
だが こうした手法で有権者が「信頼」した候補者が 本当に候補者としてふさわしいかどうかとは関係がなく 単なる無意識な情動バイアスを用いた「結果」しかもたらすことはない
候補者が嘘つきだろうが 差別主義者だろうが 有権者には候補者の真意はわからなくても 観念的「信頼」さえ獲得すれば得票数を水増しすることは簡単なのである
養老孟司や山極寿一による思考撹乱は 詐欺師や占い師ペテン師のそれと手法は同じである
論理的には嘘であることが明確であっても 観念的「信頼」を獲得することによって相手の論理検証性の欠落を利用して鵜呑みにさせ 主観的安心満足感だけを与えて何かが「わかった」ような錯覚に陥れ 思考を撹乱し信用させる
こうしたペテンは哲学界や生物学界に蔓延しているものであり イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「理性を超越した悟性」だの「純粋統覚」だの 実証不能の謎の「叡智界」を 「哲学者」共や衆愚マスコミは主観的安心満足によって鵜呑みにし100年以上も誰もマトモな反論をしてこなかったことや 生物学界においては遺伝的進化には目的や戦略が存在していないにも関わらず「目的のために進化を選んだ」などという非科学的「説明」を続けているという大失態を未だに継続しているのである
これは特定の集団組織による陰謀のようなものではなく 単に多数衆愚の論理客観的検証性の欠落による痴呆状態に過ぎず マスコミも含めてバカであることにおいて同罪である
脳肥大と集団規模との相関は おそらく実証的な事実であろう
だが それだけでは「集団規模が大きくなったから脳が肥大した」のか それとも「脳が肥大したから集団規模が大きくなった」のかはわからない
もし集団規模が大きくなったのが先であるならば 脳が肥大進化するためには 脳が小さい個体が生存や繁殖に不利になるなどの淘汰圧力が働く必要がある
より脳の大きな個体が脳の小さな個体を淘汰するような圧力が必要になる
言い換えれば 「記憶容量の小さなバカは殺してしまえ」という差別による淘汰圧力が必要になる
SNS上の差別や民族同士の紛争からも ヒトは差別排除をするのが大好きな習性があることからも こうした差別による「正義の振り回し」が本能的快楽として進化の過程で組み込まれていてもおかしくはない
もしそうだと仮定すれば ヒトに先天的人間性など組み込まれていないことの論証になる
逆に 配偶者選択による幼形成熟によって偶発的に脳肥大が生じて 結果的に集団規模も大きくなった場合にも 見た目のより幼い配偶対象以外が繁殖や生存のできない差別(ルッキズム)による淘汰圧力が必要となる
どのみち脳肥大の過程には差別による淘汰圧力は必要であり 差別は人間性から乖離した野獣の本能的情動行動に過ぎない
脳肥大化の進化が止まった原因は 一定の大脳肥大によって認知能力が高まり「本能的な差別意識(無意識的情動行動バイアス)に人間性が伴わない」ことに気づいたことが原因かも知れない
先天的本能情動的には差別序列を求めたがるのだが こうした先天的行動バイアスに踊らされていることに「自由」意志選択可能性がないことが自覚できる程に脳肥大が起きたため バカげた差別行動から決別したことで脳容積やそれに伴う記憶容量を基準とした差別による淘汰圧力が働かなくなったことで脳肥大が止まった可能性がある
そうした「気付き」が人間性であるとするならば これはむしろ理性による先天的本能習性からの決別が人間性を作り出しているのであって 山極寿一が主張するような主観的感覚に過ぎぬ「信頼関係」などの本能習性的安心満足とは全く別の能力である
先天的本能習性や それに伴うあらゆる情動行動バイアスの全ては選択不可能な「既存在」であり無意識だが 先天的本能習性に無為に流されずに主体的に合理性ある選択ができて初めて「人間」として機能するのである
大脳辺縁系にジャックされ(乗っ取られ)ていて自由意志もスッタクレもない
「欲望そのものを欲することはできない」が 欲望のままにしか行動が決定しないなどという不自由性には自由はない
欲望に抗えば安心満足感は得られないこともあろう
ナチスに反対してスイス山中で自決を余儀なくされれば 到底安心でも満足でもなかろう
イジメに反対して自分がイジメの標的にされても同じである
内部告発によって組織から「裏切り者」扱いされても同じだろう
むしろ腐敗した暴力威圧的権力組織に対しては 同調迎合忖度服従して正当化しておいた方が安心で満足できるものである
多数派に同調しておいても安心満足だろう
そうした主観的安心満足や「信頼関係」というものに 論理客観的信憑性が伴うかどうかは 全く別の話である
それを衆愚マスコミの大半は誰も気づかない
理由は簡単である
自分の頭で論理客観的に考え検証しないバカだからだ
バカが治らなくて誰も望まない結果に陥ったとしても それは私の所為ではない
Ende;
細田千尋 東北大学
2022年 神経伝達物質アミリン 隔離させると減少する 6日で枯渇
脾臓から分泌
MITでの実験 背側縫線核 孤独を体験すると活性する
山極寿一 一人ゴリラ 不安で仕方ない
カズ:ゴリラにも排除差別があるんすか
集団になるとバカになる
集団は「集合知」のメリットもあるが デメリットもある
内側前頭前野の活動(理性)が低下
他人の痛みに共感する島皮質の活動も低下
実験だと20~30人で集団はバカになる
15人なら自覚がある(山極寿一)
集団に流される快感
扁桃体ジャック
扁桃体(情動)が前頭葉(理性)をジャック 脳全体を情動でジャック(乗っ取り)される
理性のブレーキが働かなくなり暴走する
対策:自分のことを客観的に見る
○同期脳
川崎真弘 大学院情報科学研究科
生徒と教員も脳波が同期することがある
オックスフォード大学 共同でボートを漕ぐと痛みがやわらぐ
脳同期を引き出す動作 アイコンタクトが効果的
下前頭回
目を見て話すと脳波同期を促すと考えられる
2022年スタンフォード大学での研究で脳波同期率がリモートだと低下する
⇨脳波同期にもデメリットがあり 論理的根拠のない話にも脳波が同期してしまうと話の内容を鵜呑みにしてしまいバカになる
○山極寿一 ゴリラ研究
集団コミュニケーション
「一旦ゴリラになってみる」 メスに襲撃された ⇨まあ 無謀なだけ 何の自慢にもならん
ヒトと共通の祖先を持つ
10~15頭の一夫多妻の家族だけ
家族は見返りを求めないが
チンパンジーは共同体なので
ヒトは家族と共同体の重層構造の社会を持つ
唯一人間のみ ⇨厳密には「ヒトのみ」
ヒトの脳はゴリラの3倍
集団サイズが大きくなったために脳肥大が必要となった
ロビン:ダンパー説 集団規模と脳容積の相関
現代人の集団サイズの上限は150人程度と想定される
ヒトは進化の過程で集団規模と脳容積の相関が途中で途切れている
言葉を持つことで脳に記憶する必要性がなくなった
⇨まあ 無駄に脳肥大してもデメリットもあるだろう
言葉によって情報を圧縮(抽象化)することで
言葉は気持ちを伝えるためのものではなく 情報を伝えるための道具
信頼関係を作れない
信用社会を築けなくなっている
言葉を持たぬゴリラ 身体を共鳴させ「信頼」「同調」するコミュニケーション
ヒトの目は白目がある
嗅覚味覚触覚にはリアリティー(主観的感覚)があるが 視覚聴覚にはない
カズ:相手が悪意を持っていれば騙されることもある
⇨主観的感覚に基づく「リアリティー」とは 所詮は情動としての気分的安心満足感に過ぎず 山極の主張する「信頼」というのは自発的論理検証に基づいた真偽の判定よりも 主観的感覚としての「信じたい」という情動に過ぎない
主観的感覚として「信じたい」と思ったとしても 「相手が悪意を持っていれば騙されることがある」のも 主観的感覚としての情動が優先して論理客観的真偽の検証が後回しになってしまうという先天的な認知上の欠陥が存在しているからである
詐欺師が面と向かって話ていても 嘘かどうかは見抜けないことも珍しくはない 詐欺師は騙して金品をまきあげる欲望によって全力で丸めこもうとするが 騙される方は詐欺師の必死さにほだされて丸めこまれてしまうのであり 「信頼」さえすれば何でも解決するかのような山極の論説は論理の飛躍 論理的穴があり 都合の良いこじつけである
ヒトは理性によって観念的猜疑心に依らぬ論理的理解によって無駄な懲罰的暴力に陥らずに済ませることも可能であり ゴリラのコミュニケーションを模倣しなければ信頼できないというのは「ゴリラの正義」にしかならない
実際には山極はゴリラから信頼されずに襲撃されているのであって 著しく説得力を欠いている
山極の主張における論理の飛躍や穴を誰も見抜けないのも 観念的「信頼」に因るものであり 観念的に「信頼」してしまうことで自発的論理検証を誰もしなくなってしまうのである
Ende;
エピジェネティクスとは 親世代の行動が遺伝子発現に影響する現象であるが
どのように遺伝子発現に影響するかは後天的には選択できず あくまで遺伝的進化のアルゴリズムに則った収斂進化の結果でしかない
一例として母親が妊娠期に過度なダイエットをすると子供世代が肥満になりやすくなるといったものがエピジェネティクスであるが 別に母親は「子供が肥満になりやすくなる」ことを目的としてダイエットをしたわけではない
むしろ現代社会においては肥満にならないように遺伝子を選択しておきたいと後天的に「思って」も そんな遺伝子発現を選択することも 遺伝子改変をすることも構造原理的に不可能であることに何の違いもないのである
アセチル化やヒストン修飾も条件に応じて先天的に決定しているものであって 決して都合よく制御できるようなものではない
親世代の行動選択によって子供世代が肥満になりやすいことで生活習慣病になりやすくなる遺伝子発現そのものや遺伝子変異を後天的に都合よくコントロール制御できるメカニズムなど一切立証されておらず
エピジェネティクスとて様々な変異の中で環境適応的に淘汰された結果以上の何のアルゴリズムも働いていないのである
エピジェネティクス現象というのは 遺伝子の発現の仕方が遺伝子だけでは決定していないことを示しているだけであって 何ら「遺伝的変異の後天的選択可能性」の論証には全く該当せず 論理の飛躍も甚だしい科学を逸脱したバカ生物学者共の「こじつけ」である
バカ生物学者共は従来「〇〇(目的)のために進化を選んだ」といった生存戦略概念に基づいた「説明」を散々してきてしまっているため 今更「間違いでした」と認めれば権威性的地位権益を喪失しかねないという打算の基に科学的に根拠のない荒唐無稽なデマや嘘を持ち出して「はぐらかし」ているだけなのである
もはや会計検査院(行政)が介入して生物学界や哲学界から嘘やデマを排除するべきであろう
学生に嘘やデマを教え込んで授業料を徴収するというのは社会的大損害であり 組織的詐欺でしかない
大学を不可侵な「聖域」にすべきではない
それは日本大学の組織腐敗を見れば明らかである
京都大学霊長類研究所による11億もの研究費不正流用というのは生物学界全体の組織的腐敗の一端に過ぎず 山極寿一の主張する「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」などという話にも論理客観的根拠は何もなく ただ衆愚マスコミを安心満足させて人気を集めているだけのデマに過ぎない
総合大学院大学学長の長谷川眞理子も 一方では「進化に目的はない」「進化は選べない」と言いながら 一方では「○○(目的)のために進化を選んだのよ」などという「説明」をしており 論理整合性を欠いた「嘘」を平然と しかも公然と主張しているのである
多くの衆愚マスコミは 権威とみなした相手の主張を疑おうとはしない先天的習性があり 権威の主張を鵜呑みにしておいた方が安心で満足で自律的責任判断を放棄できるため バカ生物学者共の公然の嘘も平気で傍観放置するのである
あらゆる先天的本能習性というものは 進化的に決定しているものであって 後天的には何も選ぶことができない
断片的利他行動や 統率的協調性をいくら大量に「立証」しても それが社会安全性や公平性に基づいた「人間としての社会性」にとって常に適した行動習性を促す証明には一切ならない
実際にウクライナやパレスチナやミャンマーで行われている虐殺は ヒトの先天的本能習性に因る「結果」の立証であって 都合の良い衆愚マスコミにとって耳障りの良い「立証」だけを陳列して衆愚人気を集めることが「科学」の役割ではない
科学や哲学というものは 主観的安心満足や 「悩みを解消」を目的としたものではなく あくまで真偽の判定 真理の追求が目的であり 社会的役割でもある
だからこそ独立行政法人として国費を優遇されているのであり 社会的役割から逸脱した金儲けや人気取り 大衆迎合を目的とした現状の生物学界や哲学界というものは 社会に対する大ペテンであり 組織的な大規模詐欺に他ならない
これは陰謀などという複雑なものではなく 単に騙している方も騙されている方もバカであるが故に嘘に気づかないという痴呆を論じているだけである
厄介なことに バカというのは「自分だけは絶対に騙されてなどいない」という自己過信に溺れることで精神的安定を得ているため 自分の頭の悪さを自覚することを反射的無意識に拒絶し 本能的に「バックファイヤー効果」を存分に発揮することで激しい難治性を発揮する
認知行動療法の手法を用いて「なぜ そう思うのですか?」という問いかけを繰り返すことによって あたかも「自分で自分の間違いに気づいた」かのような錯覚を他人が誘導しないと間違いを自覚しようとはしなくなる
だが こうした認知行動療法的手法で気づくのは 「他人から誘導された自分の間違い」だけであって どうして間違えた観念に陥っていたのかも どうしたら間違いに陥らないようにできるかも 一切自覚することはなく 結局全て「他人から誘導される」という環境依存性からは逃れることはできず 先天的な認知上の欠陥を自覚することはない
先天的な認知上の重大な欠陥を自覚するためには 主観的な感覚を一切排除する論理客観性が必要である
「誰であっても間違える可能性がある」ことを前提に 「自分も間違える可能性が充分にある」ことを自覚していれば 暴力威圧的懲罰で何かが「解決」したなどという結論には陥らないのである
ところがヒトというのは 「自分がバカだった」と主観的に「悔やむ」ことに意識を奪われ 「なぜバカに陥ったのか」「どうやったらバカに陥らないようにできるのか」については論理客観的には検証しようとはしない習性(傾向性)によってバカが全然治らなくなってしまうのである
懲罰だの禊だの観念的反省だの 努力だの辛抱だの根性だのといった精神論こそが人間性だと倒錯しているから ヒトはバカが治らない
人間性とは 何かを盲目的に頑張って得るものではなく むしろ脳の「デフォルトモード(ボーッとしている状態)」の活動によって間違いに「気づく」とができ 真偽の論理客観的で正確な判別が冷静にできてこそ発揮されるものである
大学入試だの入社試験だの 多くのヒトが羨む特定の関門さえクリアすれば人間としての価値になるものであるかのように衆愚は倒錯しているが
そもそも学力偏差値は知能の本質とは無関係なものであり 学校で教えていることが全て正しいと思い込む盲目性もまた 頭が悪くなる大きな要因である
世が世なら地動説は「火炙り」であり ヒトラーやプーチンは救世主にもなれる
「世」という世間の価値観には普遍性はなく ファシズム(その場の多数)であって そこに普遍性のある真理はない
バカが多数派だからといって 「バカが正常である」ことの論理的証明にはならない
衆愚マスコミはヒトの傾向性や多数を短絡的に「人間性」などと安易に形容するが それは大多数の衆愚に対する迎合同調人気取りに過ぎず 真実の論証にはならない
多数衆愚に迎合しておいて 「信頼できるメディア」などと標榜するのは詐欺である
Ende;
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どっかにバグがあるらしい
まあいいや
* * *
アセチル化やヒストン修飾も所詮は遺伝的に決定しているものであり 遺伝的進化のアルゴリズムに基づいて収斂進化が促されたものであることに違いはなく
エピジェネティクスであろうとも後天的行動選択が遺伝的進化に影響を及ぼさないことに違いなどない
どの遺伝子にエピジェネティクスが生ずるかを後天的には選択することはできず 既に存在するエピジェネティクスは後天的行動選択によって選択することも また 遺伝子にも影響を及ぼすメカニズムもアルゴリズムも一切立証されていない
エピジェネティクスと言っても遺伝的進化のアルゴリズムの範疇の話であって 後天的に選択できないことに何ら違いなどない
ただ 遺伝子だけで全てが決定しているわけではなく 親世代の行動や環境が子供世代の遺伝子発現に影響を及ぼしているだけであって 都合よくゲノムを改変するメカニズムがあるわけでも 都合よくエピジェネティクスが生じるように変異をコントロールできるわけでもない
エピジェネティクスも所詮は先天的に決定しているものであって 後天的には選択不可能であることに何の違いもない
なんでこんなバカみたいな話を私がしなければ誰も気づかないのか
そんなに世の中バカしかいないものなのかと絶望しか「感じ」ないが
絶望もまた私個人の主観なので 諦めずに地道に説明を続けてゆく以外にヒトの頭の悪さを改善する術はないのであろう
何せバカ(先天性認知欠陥)というのは「死ななきゃ治らない」とも言われるほど難治性が酷いらしい
Ende;
気を抜くと安藤サクラとヒコロヒーが混同する
声が似ているのかしら
顔もちょっと似ているかな
キョコロヒー 齊藤京子の代打で川田陽菜 ハルロヒー
◇追記:「ヒナロヒー」だった いろいろ気が抜けている
Ende;
ヒトは権威肩書を持った すなはち「順位序列が上」とみなした対象の主張を鵜呑みにし その真偽を自分の頭で検証したりはしない習性がある
アセチル化やヒストン修飾などのエピジェネティクス現象というものは 何一つ「遺伝子を主体的に選択できる可能性」の論証にはなっていない
どの遺伝子がアセチル化やヒストン修飾されるのかは 個体の意図目的で選択できるようなものではなく あくまで生息環境による淘汰圧力の働きによってもたらされる収斂進化の「結果」以上の何も論証されておらず
エピジェネティクス現象も所詮は遺伝的進化のアルゴリズムの範疇に入るものである
エピジェネティクス現象が発見される以前においては 遺伝子だけが遺伝を決定するものだと「思われて」いたが 遺伝はそれだけでは決定せずに親世代の環境は行動が遺伝子発現に影響を及ぼしていたことが発見されただけに過ぎず
何一つ「遺伝的要素を選べる可能性」の論証には結びつかない
こんな簡単なことすら 大多数の衆愚マスコミ 学術研究者の大半も気づかない程に ヒトという種の生物はバカなのである
バカの原因はわかっている 既に幾度も説明済みである
自分の頭で主体的に真偽を検証しないからバカなのであり
権威肩書を持った 順位序列を上とみなした対象の主張を盲目的に信頼して鵜呑みにするから 存分にバカを発現するのである
権威肩書を持った対象の主張を鵜呑みにしておいた方が 気分的には安心で楽である
自発的な真偽の判断を放棄しても責任逃れができると「思って」いるからであり 大多数のヒトは多数が疑わなければ 疑わないことの方が「正常」だと「思って」いるからである
これらの「思い」込みを作り出すのが 生物学上の「社会性(社会形成習性)」であり 盲目的統率的協調行動によって「大きな力」を発揮したことで 生存や繁殖において有利に働いた結果的収斂進化によって組み込まれた本能的習性である
統率的協調行動は 環境資源の奪い合い競争において有利に働くものであり 暴力団やヤクザは独裁政府などというバカげた集団組織が現存しているのも 組織を構成する個人が誰も主体的行動選択をせずに盲目的に組織に服従し 組織の利益を優先することで組織内部での地位権益を獲得することで 現状体制を維持し続けられるため 生存や繁殖において有利に働くことで 収斂進化が促された遺伝的進化の「結果」でしかない
ヒトという種の生物の遺伝子やゲノムは 誰の意図目的も介在しておらず それゆえヒトは頭の悪さを発揮してバカげた腐敗体制組織集団への同調迎合忖度服従や傍観放置を平気で行う本能的習性が存在しているのである
イジメに反対すれば イジメの標的にされるし
ナチスに反対すればスイス山中で自決を余儀なくされる
東京電力福島第一原子力発電所において 原発の津波に対する脆弱性を主張すれば 東京電力を退職して四国で農業に就くことにもなる
内部告発者は「裏切り者」として組織から排除の対象となり 誰も守ってなどくれない
「怖い相手」には逆らわず 「怖くない相手を攻撃排除」しておけば主観的に安心満足感を得られるため 自分が属する集団組織の腐敗の責任は自分にはないと「思う」ことにしておくという 先天的な認知上の重大な欠陥を持っているのである
こうした欠陥は 自分では選択できない
「欲望そのものを欲することはできない」のであって 遺伝的進化のアルゴリズムによって収斂進化が促された「結果」でしかないからだ
ヒトも含めたあらゆる生物には「目的」など存在しておらず 現存している結果的存在が「生物」と分類されているに過ぎない
どんなに無責任でバカな先天的本能習性があるとしても その本能習性の存在そのものは誰にも責任を問うことはできず 選択することもできない
「自由」意志とは 選択可能性の中に存在するのであり 選択不可能な先天的本能習性や情動の中には存在しない
意識するよりも先に 脳内に情動の発火が生ずるとしても その情動の発火そのものは何ら選択不可能なものであり それそのものは「自由」選択可能性は存在せず 「自由」意識とは無関係である
「殴りたい」という情動が働いたからといって 殴る以外の行動選択が一切不可能であることの証明はなく 合理的行動選択によって「殴るべきか それとも殴る以外の選択をすべきか」を選択することは可能であり この選択可能性の中にこそ「自由」意志は存在するのである
凶悪な殺人犯に対して 死刑などの極刑や懲罰を与えれば主観的には満足安心感が得られるため ヒトは司法裁判の判決を「解決」だと倒錯し 合理性や実効性のある原因究明や再発防止には一切興味を持たなくなる
これをヒトは「道徳」などと称して 主観的満足安心を「正義」だと勘違い錯覚するのである
こうした盲目性もまた ヒトの権威服従性や統率的協調性や社会形成習性による先天的行動バイアス(錯覚)によって促されるのである
「自分だけは絶対に錯覚などしていない」 そう「思って」おけば安心である
振り込め詐欺師に騙される被害者が一向に減らないのも 主観的安心満足が優先して自己客観的危機意識や危機管理がおろそかになってしまうからであり 主観的に「怖い」とか「安心」して信じているものを一切疑わなくなるという 自己客観性の重大な欠落が働くからである
生物学者共による論理的根拠のないデマや誤謬を 大衆マスコミの誰も自覚認識できずに鵜呑みにしているのも メカニズムは同じである
「自分は認知機能が衰えた高齢者ではないから 絶対に騙されたりはしていない」と主観的に「思って」いるからこそ 何の根拠もない生物学者共の嘘やデマにも気づくことができず 大多数が気づかないことを根拠に 気づかないことの方が正常だと倒錯し 嘘やデマが公然とまかり通ってしまう結果をもたらしているのである
イマヌエル:カントやオルテガ:イ:ガセットの主張した 理論的には何の根拠もない「叡智界」なんぞを現状の「哲学者」共や衆愚マスコミは鵜呑みにし
論理整合性もスッタクレもない養老孟司の屁理屈を鵜呑みにし
何ら倫理とは無関係な「トロッコ問題」で「悩む」ことを「考え」だと錯覚してマイケル:サンデルを盲信し
日本大学田中英寿理事体制に大多数の職員が同調迎合忖度服従し
東京電力福島第一原子力発電所においては大多数の職員が原発の津波に対する脆弱性を放置し
生物学者共のデマや嘘によるはぐらかしを鵜呑みにするのは
結局詐欺師やペテン師や占い師や宗教を信じ込んで安心する盲目性と メカニズム構造やプロセス過程は一緒である
「信頼」とは 主観的に安心する相手に対する盲目性であって 論理客観的真偽の判定とは全く別のものである
別のものであるにも関わらず ヒトは先天的にはこれが区別できないという認知上の重大な欠陥を持っている
だからヒトは騙されるし 何度も同じ過ちを繰り返すし 「歴史から学ぶこと」もままならいのである
過ちを漫然と繰り返さないために必要なのは 失敗学や危険学による論理客観的な徹底した原因究明と再発防止策の策定であり 事故以外の戦争や犯罪も含めたあらゆる「人災」においても失敗学や危険学のメソッドは有効なのである
凶悪事件が発生した際に 実行犯を確捕すれば その地域の安全性は一定程度確保されたことにはなるものの 凶悪事件の原因究明や再発防止にはならず 潜在的危険性は放置されたままである
通り魔やテロリストを死刑にしても 「なぜテロや通り魔などの無差別的暴力破壊による最終解決を選択するという非合理な行動を採るようになったのか」についての具体的で論理的根拠を伴う原因については闇の中である
だが 現状の社会制度上では司法裁判による判決だけが唯一絶対的な「解決」だとみなされ 大多数の衆愚マスコミは一切疑うことはない
こうした根源的原因究明がなされないことの責任は 衆愚マスコミによる「多数」によって共感されることで 個人の主体的判断責任が多数によって薄まると倒錯し 傍観放置されているのである
これは陰謀論のような複雑怪奇で主観的に「面白い」ものではなく 単なるヒトという種の生物が持つ先天的な認知上の重大な欠陥に起因するものであって 自分の頭で考え判断すれば真偽を見極めることはそれほど難しいものではないはずである
理論的には何ら難しいものではないにも関わらず 理解が一向に進まないのは 「自分の頭で考え真偽を判定する主体性」が 大半の衆愚マスコミには欠落しているからである
論理客観的な「考え」が働かなければ 行動を左右するのは主観的な「思い」という先天性の情動バイアスだけであり こうした行動選択はイヌやサルのそれと何ら違わない「バカの選択」に過ぎない
原理的に選択不可能な情動や「思い」に振り回されているからこそ ヒトは主体的に真偽の判定をしなくなりバカになるのである
Ende;
「従来、学校は苦労を美徳とし、我慢を強いて、100点を目指して足りないところを埋めるために頑張らせるところがあるけれど、目が見えにくかったら眼鏡を掛けるように、できないことがあるなら、どうすれば困らないようにできるかを考えることが合理的配慮だ」と藤井先生は言います。
↗出典:「特別支援と通常学級の子は違う」を取り払う、インクルーシブ教育の本質 -東洋経済
⇨苦労を美徳とし 我慢を強いて 文部省の基準で決めつけた能力や評価基準に則った「教育」に適した子供が本当に知能的であることの論拠は何もない
そもそも教えた内容を 教えたままに鵜呑みにし 自律的には真偽かどうかを判定しないのでは到底人間としての知能としては働かないのである
「苦労を美徳 我慢を強いる」という因習体質もまた 「そう教わること そう教えること」を全く無批判に鵜呑みにする頭の悪さもまた「人間としての知能」が働いていない証拠である
ヒトという種の生物は 先天的には親大人を盲目的に信頼し 教えられたことを無批判に鵜呑みにする習性があり これは幼児期には生存に関わる本能的「習性」ではあるものの あくまで「結果」であって「目的」ではなく 決して万能ではない
「目的」意識に基づいた主体的行動選択をする上においては 教えられた内容に対しても真偽を検証判断する必要性があり そのためには先天的な盲目性や服従性に抗う必要性もある
頭の悪い教師や大人は 自分が強要された教育方法こそが「正しい」と行動学習的(刷り込み学習的)に「学習」してしまうために 生徒や子供達に苦労を美徳とし我慢を強いるようになってしまう頭の悪さを存分に発揮してしまうのである
宮台真司が生徒に対して「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」などと言い出したのも 宮台当人が「自分はそう教えられた」と公然と自慢げに述べている
こうした因習の連鎖はヒトという種の生物に普遍的に見られる先天的習性であり 自分が強いられた我慢や苦労を事後正当化する形(認知的不協和を解消する形)で何が何でも「正しい」と盲目的に連鎖するようになる習性が普遍的に存在しているのである
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における 論理的根拠の全くない実証不能の謎の「叡智界」について 100年以上も誰も批判してこなかったのも 教えられた内容を盲目的に鵜呑みにするヒトの先天的な認知上の重大な欠陥に起因するものである
こうした先天的な認知上の重大な欠陥というものは 決して都合よく進化によって解消するようなものでは決してなく むしろ盲目的に権威の命令に服従するヒトの多数による統率協調的行動習性を持った個体への収斂進化を促してしまうものでもある
つまり ナチス政権下においてはナチスに同調迎合忖度服従し プーチン政権下でも 日本大学田中英寿理事体制でも 東京電力福島第一原子力発電所においても 組織を構成する大多数のヒト(個人)は「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」が故に組織腐敗や組織の暴走に歯止めが効かなくなったのである
赤字で引用したのは畑村洋太郎による「国会原発事故調査委員会報告書」における「原発事故の最も根源的原因」として書かれていたものを引用したものである
クイズ芸人のカズレーザーは 安易に「ヒトは歴史からは学べない」と断言したが 「なぜ学ぶことができなかったのか」を論理客観的に理解認識し 合理性のある具体的対策を施せば歴史から「過ち」を学ぶことは不可能ではない
それこそが本当の「人間としての本質的な知能」なのであり クイズの正解率や学力偏差値は相関がなく 無関係である
自分の頭で真偽を判定できないのであれば 如何なる基準も全く「人間としての本質的な知能」としては機能することはなく あらゆる「人災」も再発防止の具体的対策も放置されることになるのである
それで迷惑を被るのは全人類共通であり 個人的利益は無関係である
Ende;
エピジェネティクスによって親世代の行動や環境が子供世代に影響を及ぼすことは知られている
どの遺伝子にメチル化やヒストン修飾が起こるように変異するのかは 結局ゲノムや遺伝子同様に主体的に「選択」することなどできない
親世代 例えば母親が妊娠期に充分な糖分を摂っていないと 子供世代が肥満になりやすいと言われているのだが こうしたエピジェネティクスが生ずるかどうかは個体が主体的に選択することなどできず
あくまで祖先の生息環境において親世代の環境が子供世代に影響を及ぼした個体種への収斂進化の結果であることに何ら違いなどない
エピジェネティクスと言えども生存や繁殖にとって不利な変異種の全てが死滅した結果 生存や繁殖にとって有利な性質を持った遺伝子やゲノムを持った個体種への収斂進化が起きたに過ぎず 都合の良いエピジェネティックが生ずるように主体的に選択したのではなく あくまで生存や繁殖にとって都合の良いエピジェネティック性を持った個体種への収斂進化の結果でしかない
生存や繁殖に不利なメチル化やヒストン修飾が起きるようなゲノムに変異が起きれば必然的に淘汰され 現存生物としてはいなくなるのである
要するに エピジェネティクスと言えども所詮はゲノム発現の仕方に依存するものであって 従来「遺伝子だけで全てが決定していた」という根拠のない常識(固定観念)を覆しただけの話であって どのようなメチル化やヒストン修飾が生ずるように変異するかは個体には選択不可能なものであり どのようなエピジェネティクスが生ずるのかは個体の意図目的が影響を及ぼすメカニズム構造やプロセス過程は一切論理的にも実証的にも証明されていない
そもそも母親は「子供が肥満になるように」という意図目的のために妊娠期にダイエットをするわけではなく むしろ意図目的とは無関係に子供世代が肥満になりやすくなってしまっているのであり 親の意図目的は遺伝子に影響を及ぼしてなどいないのである
妊娠期にダイエットをしても 子供世代が肥満にならないように変異することを選択することはできず 何ら親世代の意図目的選択は遺伝的変異に影響を及ぼすことは出来ない
進化生物学者共は従来の「生存戦略」概念を事後正当化するためにエピジェネティクスにこじつけているだけであって 論理的にも実証的にも一切何も論証していないのである
エピジェネティクスと言えども所詮は突然変異によってもたらされ 生存や繁殖において有利な性質を持った個体種への収斂進化の「結果」であって どのようなエピジェネティクスが生ずるのかは誰にも「選択」などできず あくまで淘汰による収斂進化の結果以上の何も論証できないのである
Ende;
ヲヲ 秋月電子通商でダイアフラムポンプの取り扱いが出たじゃんか
↗ダイアフラムポンプ
-秋月電子通商
ヘルメット冷却ソリューションの開発に使えるかもかも
八潮店では店頭にはまだ出ていないらしい
画像から測ったらチューブ接続部分の直径は6mmだった
いや PDFには6.3mmって書いてあった
顧客リクエストで販売開始したそうなので
だったら水冷ブロックも出してくれないものかと要望しておいた
本当に出してくるかどうかは知らんが
◇追記:モーターの端子にはリード線がついていないので
多分「ファストン端子」ってのを使えば抜き差しできるようになるんだと思う
秋月のサイト内検索かけると数種類出てくるのだが
どれが適合するのかはわからない
店員さんに聞いてわからなければ
大抵1個10円なので一通り買って挿してみればわかるんだと思うが
Ende;
ロピニロール塩酸塩がALS(筋萎縮性側索硬化症)の治療に効果があることがiPS細胞を用いた実験によって発見されたという
ALSの変異遺伝子をねずみに組み込んでも発症しないため 患者のiPS細胞を用いることでどの薬に効果があるのかを片っ端から試せるという
斎藤通紀(京都大学)は「ヒト細胞固有の性質がある」とは述べたが これに対してNHKは番組内で「ヒト細胞特有の性質がわかれば 人間とは何かがわかる」などという科学的に根拠のない解釈をでっちあげた
「ヒト」という種の生物の細胞固有の性質で「人間」とは何かを規定することなどできない
なぜならば 「ヒト」という種の生物でありさえすれば「人間」であることの論証にはならないからだ
残虐な通り魔であろうと独裁者であろうと 独裁者であろうと「ヒト」という種であることに違いはなく 残虐性を発揮しておいて「人間」とは言えない
「人間」性というものはヒトという種の生物の先天的「結果」だけから導き出されうようなものではなく 「目的」意識に基づいた主体的行動選択が伴って初めて「人間」だと言うことができるのであって 遺伝子が「ヒト」なら必ず「人間」性を発揮する保証など全くない
「ヒト」という種の生物特有のあらゆる性質は全て遺伝的進化の「結果」であって 「結果」をいくら陳列枚挙しても「人間」としての「目的」行動選択とは何かがわかるわけではない
Ende;
バイクのプラモデルってM2のネジで部品を留めて組み立てる部分があるんだけど
◇追記:組み立て説明図のPDF見たら1.6mmとか1.4mmとか1.2mmのネジだった 規格品じゃないな
ナベ頭のプラスネジが何かスケール感に違和感があって 何とかならんものかと思ってたら
タミヤのミニ四駆パーツにM2ネジのキャップビスというのが売っていた
↗M2キャップビスセット -タミヤ
頭のサイズが適合するのかわからないんだけど キャップビスの方が違和感が少ないかなと思ってみたりする
実写ではフランジナットが用いられていることも多いので 緩みどめナットをうまく代用できたらリアルかもしれない
モンキー125の排気管カバーのネジは 大きさは違うけど一応ナベ頭のプラスネジではある
それ以外は大抵六角フランジナットやボルトだな
Ende;
「心に刺さる」などと称して主観的好き嫌いかどうかで選ぶのが「哲学」の目的ではない
哲学というのは主観的好き嫌いを根拠に衆愚人気を集めることが価値になるわけではなく
科学同様に真理を追求し 真偽を判定し デマや嘘に惑わされたり騙されたりしないことが目的や価値である
どんなに多数の衆愚から人気を集めようとも 論理客観的真理に適わない話は「哲学」ではない
フリードリヒ:ニーチェの「名言(迷言)」が どんなに多数の衆愚から人気を集めても 基準が曖昧だったり 個人的主観が基準だったり 論理客観的根拠が伴わなければ「哲学」でも何でもない衆愚迎合に過ぎない
衆愚や「哲学者」共の大半はイマヌエル:カントの「純粋理性批判」における実証不能の謎の「叡智界」を鵜呑みにし 主観的に安心満足して何の疑問も持たないものであり これこそがヒトという種の生物における先天的な認知上の重大な欠陥に由来するものである
認知的不協和理論も スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験も バックファイア効果も 衆愚の主観的気分を良くし安心満足を与えて「心に刺さる」ようなものではなく むしろ気分的に不安や恐怖を与えるため
何の根拠も挙げずに「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと勝手に決めつけることで 意識から外し 無視し 他人事として忘れようとするのが衆愚の習性である
結果的事実だけを陳列枚挙しておいて「考え」だと倒錯しているというのは 養老孟司が死体を担ぎ出して来て「実証だ」などと主張しているのと同様に「バカの立証方法」に過ぎない
どんなに大量の結果的事実を陳列枚挙しても その結果の中から論理客観的な根拠に基づいて「なぜそのような結果に至ったと言えるのか」を論じなければ客観的「真理」とは言えない
衆愚マスコミの大半 ほぼ全員は 論理客観的な「考え」と 単なる「悩み」の区別ができないバカである
江川紹子ですら「適切な裁判で判決を下すことが本当の解決」などと言い出す始末である オウム真理教の教祖や幹部に罰を与えても カルト宗教などの洗脳集団がどうして出来上がるのかについての徹底した原因もわからなければ 必然的に再発防止にもならず 全く持って「解決」になどなっていないのである
ヒトの多くは法手続きさえ踏めば「正義」だと倒錯しているが そもそもヒトの作った「法手続き」が完璧で万能であることの保証など どこにもないのである
国際法ではプーチンを裁くことができないのも 戦争をやめさせることもできないのも 法手続き制度の根源的欠陥であり そもそも腐敗組織が出来上がるメカニズム構造やプロセス過程を刑法判決を理由にして厳密に検証しておけば防げた可能性も充分にある
防げた可能性が存在するにも関わらず これをやらない無責任さについては 衆愚の多数は多数によって責任が薄まると倒錯しているからである
何をすべきか 何を優先すべきか それを個人が自律的に選択してこその人間としての「意識」だと言えるのであって 漫然と主観的安心満足に溺れてニーチェやカントなんぞを「哲学」だと倒錯しているというのは もはや犯罪レベルの無責任である
あまりにも頭が悪すぎて呆れるばかりである
Ende;