人は「理由。」がなければ生きている権利がないわけではない。これは、理由がなければ人を殺して構わない権利も同時に存在しないことでもある。
結局、権利というものは法手続き上の約束に過ぎず。どんなに約束事を詳細に決定しようとも、殺人に代表される危害の全てに対しての表面的な抑止にはなっても根源的な防止にはならないのである。
ヒトがヒトを殺してはいけない理由なんぞなくても構わない。問題は人間がなぜ人間を殺すことを望まないのかが重要なのである。
社会持続可能性として、人間同士が殺し合う社会というのは有り得ない。人間として、本質的な意識に基づき広い視野で社会がどのようにあるべきか。そんなことは実は通り魔でも知っているのである。
知っていながら通り魔はシエラレオネに亡命しないのは、持続可能性のない社会には行きたくないからなのである。目の前の出来事だけに意識を奪われ、感情だけが行動原理になっているからこそ目先の他人に「理由。」を求めるのである。
中東由来の一神教特有の「理由。」として、「神がいないのであれば、何をしても許される。」という屁理屈がある。許す許さないという自分以外の非自律的許諾云々に行動が左右されている時点で、既に子供の論理に過ぎないのである。
以前にも書いたが、神には二種類ある。行動責任をなすりつけ、自律的行動判断を放棄するための「他者。」としての神と、自らの行動の規範として自律的行動判断の「理想。」とする神である。
「理想。」とは形而上の予測ではある。残念なことに意識の狭窄な者が望むものであっても「理想。」と形容される場合が大変多いので、本質的な「理想。」についての屁理屈を許す言語規格上での「穴。」にもされてしまうことがある。
絶対不変の理想というものは誰にも定義することはできない、それは目的と同義であり、有限の知識しか持つことのできない人間の原理的限界によるものである。
それは、それで構わない。大したことではないからだ。
問題なのは人間としての「理想。」を鑑みることなく、ただ目先の欲望の羅列を「理想。」と混同する頭の悪さである。
頭が悪いのは意識が狭窄であるからだ。
ヒトの眼球には盲点というものがあり、これは無意識的には認識することができない。視野に見えない部分があることが認識できてしまうと鬱陶しいため、通常認識しなくても構わない障害としての盲点は認識しないように大脳辺縁系が「整理」してしまった結果である。
だが、こうした「結果」というものは、生物学的には意味をこじつけることは可能であっても、安全性に関わる論理的証明としては機能することはない。
キチガイが社会持続可能性について認識できないのも、要は大脳辺縁系の構造原理の結果として、意識の上から外し、無視し、盲目であるからである。
厄介なのは、盲目な者程気分的安心や満足に溺れているために、自らの盲目の危険性自体には全く意識が働かないというスパイラルに陥ることである。
危険を危険であると認識できなければ、危険なことを安心して続けることが可能なのである。
大脳辺縁系は、その進化過程において、概ね安全な行動を促すように進化した傾向はある。だが、こうした傾向性というものは全て結果論であり、大脳辺縁系が促す行動の全てが安全であることの論理的証明ではない。
事実、自然界においてはアクシデントは日常茶飯事である。共食いであろうとレイプであろうと、そんな概念すら存在しない。
自然界というのは、アクシデント自体も含めて環境全体でのツジツマが合っていさえすれば食物連鎖として持続可能性を持っている「結果」だけであり。そこには個体としての存在価値など全く意味を持たない。
シエラレオネのゲリラしかいない世界であっても、死んでいなければ「正しい。」のが生物学なのである。
大抵、こういう議論をしようとすると、生物学者は各論に持ち込み相手を撹乱することに徹する。認知症の初期症状と同じ「取り繕い。」に邁進するのである。
単に生存価だけを論じてしまえばゴキブリでもエイリアンでも構わないということである。これは動かしようのない事実であり、どんな屁理屈を並べても正当化することは不可能なのである。
生存しているかどうか、そんなことは人間性自体とは無関係である。問題なのは生きるに値する社会を望むかどうかであって、その基準が単なる大脳辺縁系が促す目先の欲望だけであるか。それとも本質的意識に基づく人間としての「理想。」にまで言及できるかが問題なのである。
「言及可能。」としたのは、理想自体が絶対ではなく。あくまで常に暫定的なものであり。より「近づく。」ために常に「言及し続けるもの。」でなくてはならないからである。
絶対不変の「目的。」が存在しないことに気分的「不安。」を感じるとしても、それを意識から外して無視して良いわけではない。ニーチェだのプラトンだのドストエフスキーで満足している西洋哲学カブれ達というのは、目先の気分さえ良くなれば「救い。」と称して思考停止を正当化することしか意識の上にはない。
強盗殺人犯が気分的に「救われる。」ことに、社会的価値など全くないのである。それと同じで、大衆凡民がマスコミの垂れ流しによって気分的に「安心。」することと、社会の安全性確保とは無関係なのである。
茂木健一郎や、それに続く「柳の下のどぜう。」狙いの認知科学者達も、振り込め詐欺に騙されないようにする研究など一切興味がない。どんなに脳血流の増加を促すクソゲーの類をやっても、感情を制御して論理的思考を失わないようにはならない。むしろ、「脳血流が増えるから、頭が良くなる。」などという観念に満足している時点で充分バカになっているのである。
「何もやらないよりはマシ。」というのは、完全に事後正当化の「取り繕い。」であり、語るに足らない。
人間は「理由」のために生きているのではない。単なる強迫観念的な生存欲に「生かされて。」いるだけなら人間であることの価値とは無関係なのである。
自分自身の自発的行動選択、自律的判断が伴わない「生存。」には。人間としての価値はない。
自分以外の「理由。」を求めていることを、仏教では「外道。」という。別に仏教が他の宗教より優れているとか言うつもりはない。仏教においても死後の世界を「エサ。」に正しい行いを促している教典も多く、論理整合性がなく、単なる宗教に過ぎないからである。
本質的意識について論ずると、多くの人は「悩み。」にさいなまされる傾向がある。仏教ではこれを「煩悩。」と呼ぶ。「悩む」というのは「考え」ではない。ところが一生懸命悩むと、あたかもたくさん考えたような錯覚に陥るので頭の悪い者というのは必死になって「悩み」たがる。
気分的な「不安。」はどうでもよろしい。それは本質的な「意識。」とは無関係であるだけでなく、むしろ論理的思考を阻害する最も大きな意識障害の原因であるからだ。
一人の人間が生きるのは、そこに運命論的な「理由。」は必要ない。あくまで自己自身の本質的選択による自発的存在価値によるものでなければならない。
社会が崩壊に向かうような選択をしてまで、自己、個体が生存する価値はないのである。この価値観を共有すれば、自ずと持続可能性は必然となるのである。それを「理由。」とするかどうかは私の知ったことではない。外部的な「理由。」がなければ何をしても「許される。」という自律の欠損こそがバカげたパラダイム、思考パタンであることを認識するべきである。
チンパンジーは持続可能性など考えてはいない。あくまでその行動習性の結果として環境と調和しているにすぎず、そのためには大脳の肥大などなくても構わない、或は肥大しない方が既存の自然環境には適応するということなのであろう。いずれにせよそこには個体としての存在価値など存在しないのである。
個体としての価値がなければ、当然殺人も正当化される。それはサルの正義に過ぎない。
End;
結局、権利というものは法手続き上の約束に過ぎず。どんなに約束事を詳細に決定しようとも、殺人に代表される危害の全てに対しての表面的な抑止にはなっても根源的な防止にはならないのである。
ヒトがヒトを殺してはいけない理由なんぞなくても構わない。問題は人間がなぜ人間を殺すことを望まないのかが重要なのである。
社会持続可能性として、人間同士が殺し合う社会というのは有り得ない。人間として、本質的な意識に基づき広い視野で社会がどのようにあるべきか。そんなことは実は通り魔でも知っているのである。
知っていながら通り魔はシエラレオネに亡命しないのは、持続可能性のない社会には行きたくないからなのである。目の前の出来事だけに意識を奪われ、感情だけが行動原理になっているからこそ目先の他人に「理由。」を求めるのである。
中東由来の一神教特有の「理由。」として、「神がいないのであれば、何をしても許される。」という屁理屈がある。許す許さないという自分以外の非自律的許諾云々に行動が左右されている時点で、既に子供の論理に過ぎないのである。
以前にも書いたが、神には二種類ある。行動責任をなすりつけ、自律的行動判断を放棄するための「他者。」としての神と、自らの行動の規範として自律的行動判断の「理想。」とする神である。
「理想。」とは形而上の予測ではある。残念なことに意識の狭窄な者が望むものであっても「理想。」と形容される場合が大変多いので、本質的な「理想。」についての屁理屈を許す言語規格上での「穴。」にもされてしまうことがある。
絶対不変の理想というものは誰にも定義することはできない、それは目的と同義であり、有限の知識しか持つことのできない人間の原理的限界によるものである。
それは、それで構わない。大したことではないからだ。
問題なのは人間としての「理想。」を鑑みることなく、ただ目先の欲望の羅列を「理想。」と混同する頭の悪さである。
頭が悪いのは意識が狭窄であるからだ。
ヒトの眼球には盲点というものがあり、これは無意識的には認識することができない。視野に見えない部分があることが認識できてしまうと鬱陶しいため、通常認識しなくても構わない障害としての盲点は認識しないように大脳辺縁系が「整理」してしまった結果である。
だが、こうした「結果」というものは、生物学的には意味をこじつけることは可能であっても、安全性に関わる論理的証明としては機能することはない。
キチガイが社会持続可能性について認識できないのも、要は大脳辺縁系の構造原理の結果として、意識の上から外し、無視し、盲目であるからである。
厄介なのは、盲目な者程気分的安心や満足に溺れているために、自らの盲目の危険性自体には全く意識が働かないというスパイラルに陥ることである。
危険を危険であると認識できなければ、危険なことを安心して続けることが可能なのである。
大脳辺縁系は、その進化過程において、概ね安全な行動を促すように進化した傾向はある。だが、こうした傾向性というものは全て結果論であり、大脳辺縁系が促す行動の全てが安全であることの論理的証明ではない。
事実、自然界においてはアクシデントは日常茶飯事である。共食いであろうとレイプであろうと、そんな概念すら存在しない。
自然界というのは、アクシデント自体も含めて環境全体でのツジツマが合っていさえすれば食物連鎖として持続可能性を持っている「結果」だけであり。そこには個体としての存在価値など全く意味を持たない。
シエラレオネのゲリラしかいない世界であっても、死んでいなければ「正しい。」のが生物学なのである。
大抵、こういう議論をしようとすると、生物学者は各論に持ち込み相手を撹乱することに徹する。認知症の初期症状と同じ「取り繕い。」に邁進するのである。
単に生存価だけを論じてしまえばゴキブリでもエイリアンでも構わないということである。これは動かしようのない事実であり、どんな屁理屈を並べても正当化することは不可能なのである。
生存しているかどうか、そんなことは人間性自体とは無関係である。問題なのは生きるに値する社会を望むかどうかであって、その基準が単なる大脳辺縁系が促す目先の欲望だけであるか。それとも本質的意識に基づく人間としての「理想。」にまで言及できるかが問題なのである。
「言及可能。」としたのは、理想自体が絶対ではなく。あくまで常に暫定的なものであり。より「近づく。」ために常に「言及し続けるもの。」でなくてはならないからである。
絶対不変の「目的。」が存在しないことに気分的「不安。」を感じるとしても、それを意識から外して無視して良いわけではない。ニーチェだのプラトンだのドストエフスキーで満足している西洋哲学カブれ達というのは、目先の気分さえ良くなれば「救い。」と称して思考停止を正当化することしか意識の上にはない。
強盗殺人犯が気分的に「救われる。」ことに、社会的価値など全くないのである。それと同じで、大衆凡民がマスコミの垂れ流しによって気分的に「安心。」することと、社会の安全性確保とは無関係なのである。
茂木健一郎や、それに続く「柳の下のどぜう。」狙いの認知科学者達も、振り込め詐欺に騙されないようにする研究など一切興味がない。どんなに脳血流の増加を促すクソゲーの類をやっても、感情を制御して論理的思考を失わないようにはならない。むしろ、「脳血流が増えるから、頭が良くなる。」などという観念に満足している時点で充分バカになっているのである。
「何もやらないよりはマシ。」というのは、完全に事後正当化の「取り繕い。」であり、語るに足らない。
人間は「理由」のために生きているのではない。単なる強迫観念的な生存欲に「生かされて。」いるだけなら人間であることの価値とは無関係なのである。
自分自身の自発的行動選択、自律的判断が伴わない「生存。」には。人間としての価値はない。
自分以外の「理由。」を求めていることを、仏教では「外道。」という。別に仏教が他の宗教より優れているとか言うつもりはない。仏教においても死後の世界を「エサ。」に正しい行いを促している教典も多く、論理整合性がなく、単なる宗教に過ぎないからである。
本質的意識について論ずると、多くの人は「悩み。」にさいなまされる傾向がある。仏教ではこれを「煩悩。」と呼ぶ。「悩む」というのは「考え」ではない。ところが一生懸命悩むと、あたかもたくさん考えたような錯覚に陥るので頭の悪い者というのは必死になって「悩み」たがる。
気分的な「不安。」はどうでもよろしい。それは本質的な「意識。」とは無関係であるだけでなく、むしろ論理的思考を阻害する最も大きな意識障害の原因であるからだ。
一人の人間が生きるのは、そこに運命論的な「理由。」は必要ない。あくまで自己自身の本質的選択による自発的存在価値によるものでなければならない。
社会が崩壊に向かうような選択をしてまで、自己、個体が生存する価値はないのである。この価値観を共有すれば、自ずと持続可能性は必然となるのである。それを「理由。」とするかどうかは私の知ったことではない。外部的な「理由。」がなければ何をしても「許される。」という自律の欠損こそがバカげたパラダイム、思考パタンであることを認識するべきである。
チンパンジーは持続可能性など考えてはいない。あくまでその行動習性の結果として環境と調和しているにすぎず、そのためには大脳の肥大などなくても構わない、或は肥大しない方が既存の自然環境には適応するということなのであろう。いずれにせよそこには個体としての存在価値など存在しないのである。
個体としての価値がなければ、当然殺人も正当化される。それはサルの正義に過ぎない。
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