生物が恒常性や安定性を持っているのは 恒常性や安定性を持たない個体種が全て死滅した結果であって 恒常性や安定性であっても所詮は遺伝的進化という「結果」的なものに過ぎない
「死ななければ生きている」と称して不公平な順位序列を正当化したり
「絶滅を免れさえすれば良い」と称して多様性を正当化するというのは 生物の遺伝的進化の事後正当化であって人間としての「目的」の論証にはならない
国連による持続可能な開発目標が17も挙げられているのも 「特定の一つの目標(目的)だけ達成しておけば良い」というものではないからだ
ヒトという種の生物も所詮は地球環境においては環境資源の一部であり 決して環境から逸脱して持続可能な存在ではない それを忘れて(意識の俎上から抜け落ちて)しまうのは思考の主体性が欠落しているからである
自分の頭で物事を考えず ただ既存の提供された知識や根拠のない常識を鵜呑みにしてしまっているからこそ 自己存在の全体像を見失い目先の欲望に囚われることで「生きることが目的」などという特定の偏った価値観に陥ることで 社会的な責任判断能力を喪失することになるのである
ヒトが「死にたくない」と思うのも 所詮は「死にたくない」と強く思った個体種への収斂の結果であって どんなに強く思おうとも それが目的であることの論証にはならない
自己の生存を優先すれば 社会持続可能性や安全性や公平性は蔑ろにすることが正当化されてしまうのである
持続可能性や安全性や公平性を誰も担保せず 無責任なバカしかいない社会を一体誰が目的として「求めて」いると言えるであろうか
ヒトという種の生物は 所詮は野生動物から進化した結果に過ぎないため 祖先の生息環境の影響を色濃く反映しているため どうしても特定の価値観(偏った欲望)に囚われてしまい 「生きること自体が目的」などという無責任な帰結で満足しようとするが これは言うなれば「生存中毒」であり健康マニアが「死んでも良いから健康でいたい」と取り憑かれているのと同じような状態である
「生存や繁殖が継続さえしておけば社会持続可能性や安全性や公平性はどうでも良い」という「生存中毒」に人間性は宿らない
ヒトの脳というのは どうしても特定の価値観だけに中毒的に執着してしまう性質があり これも遺伝的進化における結果的な認知上の欠陥によるものである
「思い込み」というのは先天的な脳の常習性によって作られるものであり 過酷な野生環境下におけるサヴァイバルにおいて収斂強化されてきた性質である
「怖いと思ったら 逃げる」とか 「怖い相手には服従忖度してご機嫌取りをする」といった卑屈でその場限りな行動というのは 先天的本能習性として脳に組み込まれた無意識な行動バイアスであり どんなに強く「思った」としても人間としての意識の論拠には全くならない
イジメや迫害差別などの「危険から逃げること」は悪いことではない 逆に危険であるにも関わらず根拠のない責任感や強迫観念によって逃げるべき状況から逃げないことの方が客観性や理性を欠いているのである
集団統率的に暴力者が実権を掌握しているような無能な忖度迎合集団に無理に立ち向かうべきではない
そういう集団は洗脳状態であって 誰一人としてマトモな「人間」としては機能していないからである
「人は一人では生きてゆけない」とは言え イカれた洗脳集団に迎合忖度することは全く合理性がないのである
逆に「生きるため」と称してイカれた洗脳集団に同調服従することの方が人間として「どうかしている」のである
人は皆最後は必ず死ぬのであって 永遠に生き続ける必要性すら存在しないのであり 「生きるため」と称して社会安全性や持続可能性や公平性を蔑ろにしてまで個体の生存や繁殖の継続に囚われることに 人間としての存続の合理性はないのである
ヒトという種の生物として繁殖を継続しているだけなら 別に文明も医療も何も必要はない
実際に野生環境下でもヒトは「生きて」はいられるのであり たとえ部族単位で死滅することがあるとしても地球全体から絶滅する確率は高くはない
遺伝的進化というものには目的がないので 長い生物史の中では幾度もの大絶滅が起きており 決して究極的なゴール(目的・目標)が遺伝的進化にあるわけではなく
あくまで特定環境への適応の結果として生存しているものを「生物」と分類しているに過ぎないのである
従って遺伝的進化によって脳に組み込まれた本能習性という無意識な行動バイアス任せに行動していれば絶滅しても何の不思議もないのである
ヒトという種の生物が先天的に平等を嫌い 順位序列に異常執着して多数や権威に服従迎合忖度同調する習性によって それらの卑劣な行動に主観的安心満足感が得られるという先天的欠陥が正当化できるわけではない
生物や その遺伝的進化というものの全ては「結果」であって 先天的本能習性のままに主観的な気分が良くなる安心満足ばかりを追求していれば 人間としての「本当の目的」を簡単に忘れることになるのである
組織腐敗というものは社会全体に蔓延しているのであって 学校や職場でのイジメや SNS上での差別 国家単位での迫害といったものは全てヒトという種の生物の先天的な認知上の欠陥が原因である
温室効果ガス削減において 最も重要なのは政府による政策ではなく 個人の主体的行動変容にある
個人が自律的に行動しないことには 政府が如何なる政策を立てようとも効果は希薄である
経済界は原発稼働は容認せざるを得ないという見解で一致しているが 原発の安全性とて最終的には運転する「個人が自律的な社会的責任を負う(国会原発事故調査委員会報告書)」ことが重要であって 「これさえやっときゃ全て解決する」ような都合の良い施策が存在するわけではない
原発規制委員会がどんなに警察のような「取り締まり」をしても 原発を運転している個人の責任意識が働かなければ 何らかの危険性は必ず放置されることになるのである
ヒトはすぐに自分を「無力」だと絶望(諦め)し 微力であることを忘れ 微力を合わせて大きな力として発揮させることを放棄してしまう習性がある
「絶望するが故に人間」だが 絶望と称して無能になる選択を正当化することは人間性ではない
「絶望的」であるとしても諦めずに 合理的(無理をせずに)に自分のできる範囲で努力することが 本当の意味での人間性だと言えるのである
人類が絶滅や 文明崩壊の危機を避けられるかどうかは「わからない」が できる範囲のことをやらないという選択肢は「人間」にはない
フリードリヒ:ニーチェ的に基準のあやふやな虚無主義に誘われていた方が 主観的には安心満足感が得られることは知っている だからニーチェは衆愚やバカな「哲学者」共には人気があるのだ
大衆人気のあるニーチェでも引用し「できそうにないことは やらない方が良い」などと称して 主観的に「できそうなことだけ」を行動選択しているから組織腐敗は傍観放置されるのである
自律的な「人間」としての判断選択をせずに 自分ができる範囲での責任すらも放棄しておいた方が気分的には「楽」であろう そういう精神的怠惰の正当化を「哲学」だと錯覚しているから人類はバカが治らない
ヒトも含めて生物というものは環境なくしては存続することはできない
ヒトも所詮は地球環境という生態系循環の一つでしかないという謙虚さを忘れ 主観的な特定の欲望や願望だけに中毒的に囚われてしまうという 先天的な認知上の欠陥が存在しているという客観的事実を認識すべきなのである
誰もが自分はいつか必ず死ぬ存在であり 子どもたち次世代に安全で公平な社会をどうやったら受け継ぐことができるのかを 主体的に「選択」しなくてはならない
そのためには先ず 自分が主体的(純粋に)「生きる」ことが必要である
「社会から生かされている」などと称して 「生きるため」に既存の社会の常識に迎合することが正当化できるわけではない
何年生きていたかを競うゲームをしているわけでも 資産をいくら持ったかと競うゲームをしているわけでもない
他人と比べて「俺の方が優れている」ことをいくら主張しても 本当の自己が満たされるわけではない
他人とは脳神経接続があるわけではないので 他人と自分との快楽の比較をすることには意味がないのである
ヒトは不毛なチキンレースに囚われる先天的習性(欠陥)があり その場限りの外見的優位性をひけらかすことばかりに中毒になる習性がある
インスタグラムで「いいね」をいくら集めても 本当の自分が満たされないことに気づくことができなくなるのも 純粋に主体的に「生きて」いないからである
ヒトは哺乳類であるため どうしても誰かからの評価承認を求めがちな習性を持っているものであり 故に純粋に主体的に「生きる」ことができなくなり 他人からの評価承認に流される形で不毛なチキンレースに駆られてしまうのである
遺伝的進化によって促される先天的本能習性に無意識に流され囚われていて「自由」ではないのである
どんなに利己的・外見的・物質的に「豊か」さを追求しても 難民が虐殺され 小学生が酔っぱらい運転で轢き殺される世界で生き続ける意味などないのである
「俺はアカの他人がどうなろうと知ったことではない」と言っている奴を お前さんは心から尊敬することができるであろうか
自分がそういう奴だとすれば そういう自分を心から肯定できるであろうか
自己肯定感の希薄な奴ほど自信だけは過剰にあるのは 自信過剰だからこそ自分では何も考えず バカでいることの満足感に溺れて「本当の自分」を見失っているからである
世の中 そういうバカの方が圧倒的多数であるため どうしても多数に流される形で主体性も見失いがちである
多数の「常識」に 本当に論理客観的根拠が伴っているのかどうかを 主体的に考え検証し 論理客観的根拠のある「真理(本当のこと)」を見極める義務が 全てのヒトにはある
権力や暴力に服従忖度同調迎合する卑屈さを自覚しなければ あらゆる組織腐敗はなくならず 人類は破滅への暴走をやめることはできないのである
ヒトはどうしても先天的に哺乳類であるため 誰かの命令に唯々諾々と盲目的に服従できることばかりを求める習性があるが それこそがヒトの認知的欠陥(盲目性)の根本原因である
原発事故の教訓とは 「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」が根本的原因であると結論付けており これは原発事故に限ったことではなく 犯罪や環境破壊も含めたあらゆる「人災」の根本原因でもある
自分の主観的感覚や印象は一回棚上げにし 論理客観的理解をすることが必要である
話の内容が「真実」なのかどうかは 自分の頭で考え 反論可能かどうかを導き出す必要がある
大学で教えていることが間違っていることもあるし 書籍化されていても間違っている内容は存在する
多数が「常識」だと思っていても 実際には論理客観的根拠が伴わないこともある
真実かどうかの判断を他人に丸投げしておいたのでは 誰も責任を負わない「バカの暴走」にしかならないのである
ヒトはいままで実証不能の観念に囚われ他人に多大な迷惑をかけてきたが 何が実証不能の観念なのかを見極める本当の人間としての知能を 今まで大多数が発揮してこなかったことが原因である
バカのままで困るのは自分達であることを自覚すべきである
Ende;