ヒトが他者の顔を見ている時、その顔の大部分は脳で作られている。
例えば脳梗塞で一時的に脳機能の一部が失われたりすると、顔面の半分が垂れ下がって来たりするのだが。それは逆に言えば脳が働いてるからこそ「普通の顔」が維持されているということでもあり。顔の大部分は脳機能によって維持された顔を私達は「正常な顔面」として認識しているのである。
一般的に美術学校では造形の基礎としてモデルを座らせてデッサンや彫刻彫塑を行わせたりするのだが、これは実は弊害がある。
モデルを一定時間座らせたり、立たせたりしておくということは、表情はいわゆる「素」の状態にならざるを得ず。無表情な顔の造形しか出来なくなってしまうからである。
美術学校を出た学生の多くは、こうした傾向があり。表情の乏しい顔の造形しか出来なくなってしまうことがしばしばある。
広告などのメディアで露出している、いわゆる「かわいい女子」の写真というのは。一定時間座らせておいたり立たせておいた顔ではなく、あくまで一瞬の表情を捕らえたものであって、広告写真では何千枚ものショットの中から最も良い表情の写真をセレクトするといったことが普通である。
逆に言えば、一般に美人と認められているモデルであっても、気分によってはブサイクな顔をする瞬間というのもあり。芸能人を蔑むことで読者が自己満足に陥ることを目的とした写真週刊誌などでは、意図的にブサイクな写真をセレクトして掲載したりする場合も多い。
ブサイクな小野真弓の例 (表示されなかった。)
きゃりーぱみゅぱみゅが意図的にブサイクな顔をした例
この顔を高い精度のスキャナーでスキャン造形すれば間違いなく「不気味」な顔であるが。こうした不気味な顔というのは、一人のモデルにおいてもスペクトル的に存在するのであって、意図的にブサイクで不気味な表情でなくても、普段の無表情な顔の大半は広告写真としては使われることはなく。
大多数のヒトが「美形」とか「かわいい」と認識する顔というのは、対象となるモデルにおいても特定の表情や角度アングルに依存するものであって。それ以外の顔というのは広告メディアなどには露出しておらず、私達が普段見ている美形というのは、極めて特殊なものであると考えるべきである。
一般にかわいい顔、或は美形な顔として認識している顔というのは、あるモデルにおいての一瞬の表情であり。また、かわいいとか美形な顔というのは「反不気味」顔でもあり、見ていて気分的に安心出来る顔でもある。
「不気味」として認識している顔というのは、見ている個人が主観的に安心満足出来るかどうかであって。不気味でないことが「人間として認識している。」ことの論証には全くならない。
ハンセン病では脳梗塞と異なり抹消神経の麻痺が原因で表情筋の機能が失われることで、顔面が垂れ下がることで大多数のヒトからは「不気味な顔」として認識されてしまい、大多数からの気分的な安心満足が得られないことから非合理的な隔離差別の対象として扱われる大きな要因ともなった。
不気味かどうかというのは、個人の主観的な問題であって。こうした「感覚」の問題をどんなに追求しても人間性の論証には構造原理的に辿りつくことはなく、むしろ非人間的差別排除の原因にすらなる。従って、アンドロイド研究で有名な石黒浩による「感覚」的な研究からは、本質的な人間性が何かを分析/論証することは出来ないのである。
石黒のアンドロイドというのは、むしろ気分的安心満足感を得ることが目的であって、人間性そのものの研究ではないことは、本来言うまでもないことのはずである。
ヒトの多くは、主観的な感覚的「安心感」を短絡的に「正しい」と認識する傾向があるが。これこそが錯覚であり、自分の感覚を絶対的なものであるという身勝手な妄想がその根底にある故の傲慢さを発揮するのである。
「ヒトは見た目が9割」という話があったが。その9割の残りの1割を無視して外見上の安心感や満足感を絶対的なものであると見なしてしまうからこそ、見た目のわからない電話での振り込め詐欺に簡単に騙されるようにもなるのである。
振り込め詐欺の被害者の大半は、実際に詐欺に遭うまでは「自分だけは絶対に大丈夫」だと盲目的に信じ込んでいたからこそ、その傲慢さこそが騙される大きな要因なのである。
ハンセン病患者の差別に限らず、差別排除というのは、それを主導する者の主観的感覚としての安心感が得られないことから生ずる身勝手な「不気味さ」の観念が行動に直結することで生ずるものであり。 また、多数で同一の「敵」とみなした対象を協調的に攻撃することによって得られるその場限りの安心感もまた、差別排除行動を促進してしまうのである。
これはつまり、ヒトという種の生物というのは先天的に差別排除によって集団組織的協調行動をする本能習性が存在していることを意味し。これは学校学級内などの衆人環視環境以外における様々な場面において普遍的に生ずるものであって。わざわざ監獄実験のような環境を作る必要もなく、ヒトという種の生物は先天的に差別排除をしたがることに疑う余地などないのである。
科学において、業績として見なされるかどうかに「再現性」というのがあるが。ヒトという種の生物における先天的社会形成習性というのは、むしろ特定環境を作り出す必要もなく、様々な状況において普遍的に見られる現象であり。こうした現象を「実証」として見なさないというのは、むしろ手続き上の問題に過ぎず。お役所的な頭の固さや意識の低さに起因する傲慢さでもある。
再現実験などする必要もなく、日々差別排除や暴力というのは繰り返されているものであって。こうした実質的現象を無視して実験室での再現性ばかりに執着するというのは科学者としての社会的役割を放棄しており、無能と言う他ない。
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あたかも話が逸れているかのように見えるかも知れないが、不気味とは何かを認識しなければ不気味ではない状態の意味をも認識することは出来ないので、一概に話が逸れているというわけでもない。
結局は不気味かどうかや個人的にかわいいと思うかどうかは主観的な問題、趣味趣向の問題であって、これを社会的行動に直結させて良いものではないことは、言うまでもなかろう。
逆に言えば、個人の主観的な好き嫌いや安心感を基準に、目先の多数派に迎合する形で差別排除というのは発生するのである。
こうした先天的本能習性による行動の話をすると、少なからず「先天的な本能習性には逆らうことが出来ない。」などと言い出すバカが必ず出てくるので厄介である。
先天的な本能習性に流されることしか出来ずに、一体何が自由意思だと言うのであろうか。こうした短絡的な意識の低さというのは、短絡的でいた方が、その場限りに気分的に楽で安心だからである。
つまり、バカがバカ足る所以とは、自らの内部にあるバカさを認識せず、バカのままであろうと欲する先天的本能から逃れる意志の欠如のことである。
「自己中小的な者には自己はない。」という言葉があり、これは一見自己矛盾のように思えるのだが、「自己中心的な者」における「自己」とは、先天的な既存の自己を意味するものであって。こうした自己選択を介していないデフォルトの自己に抗う意志としての自己選択可能性を喪失しているが故に身勝手で「自己中心的」な行動しか出来なくなるのである。
本質的な自己とは何か、意志とは何か。
それは先天的な本能習性が促す行動や思考のバイアスに左右されることのない、自律的な論理検証性に基づく選択可能性であり。これは単なる条件反射的な「主義」とは全く異なるものである。
単なる「主義」とは、主観的な好き嫌いに基づいた条件反射な行動パタンとして規定しているに過ぎず。これこそが現状現在における自己の選択可能性を阻害する意識狭窄性の源に過ぎない。
他者の顔を見て、不気味か不気味でないかを判断しているという、その感覚自体がそもそも不気味な先天的本能に基づいたバイアスに過ぎない。 そしてそれはどんなに多数派と同じ観念を共有しても、観念であるということからは逃れることは出来ないのである。
ところが文科系大衆観念上においては、観念であろうと何であろうと、多数派で共有してさえおけば、それが促す気分的安心満足感を短絡的に「正しいこと」であるという錯覚に流され、非合理的な観念ばかりが蔓延してしまうのである。
非合理観念が蔓延していれば、これこそが洗脳状態である。
ヒトが洗脳状態に陥ることというのは珍しいことではない。振り込め詐欺の電話だけでもヒトは簡単に論理検証性を喪失するものであり。ましてやマスコミや進化生物学、哲学などの権威性が無責任な嘘を垂れ流していれば、大衆の多くは何の疑問も持たなくなることも珍しいことではない。
疑わなくなること、これこそが洗脳の第一歩である。
科学的な検証というのは、先ず「全てを疑う」ことが必要であり。これは「教えられたことを鵜呑みにする。」ことこそが最悪な頭の悪さを醸成してしまうのである。
こんなことを言うと、「一体何を信じたらいいの。」などと言い出す者も少なくないが。何を信じるべきなのかを自律的に検証する個人がいてはじめて民主主義が成立するのであって。信じる対象を求めている時点で宗教か何かと勘違いしているのであろう。
何度も言うが、「疑う」といってものべつまくなし観念的猜疑心を抱いて不安に陥ろと言っているわけではなく。むしろ何の合理的根拠もないのに信じ込んでしまっている事柄を洗い出すことが必要であるという意味である。
ヒトの多くは、何かを決め付けておけば検証し直す必要性がないと見なすことで気分的に安心満足することが出来るため、その決め付けに合理的根拠があるかどうかを意識から外し、既に決め付けてしまった自己を事後正当化する形で「主義」に陥る。
ことほど左様にヒトという種の生物というのは先天的にバカに陥るようなバイアスが脳に組み込まれているが故に、様々な「人災」が一向に減らないという事態に陥っているのである。
Ende;