書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○ブンタン湯。

2016年02月27日 22時12分28秒 | 日記
近所の知り合いからブンタン貰ったのでヨーグルトに入れて食べたら皮が大量に残ったので風呂に入れてみた。

そしたら油が凄くて、普通お湯に10分も浸かってればお湯が肌に馴染むもんだけど、お湯弾きまくり。

発汗作用が凄くて、身体が冷めてからも汗が止まらんので、湯冷めしそうで危険。

しかも副作用というか、膝の下とかおいなりさんがチリチリしてくるので、肌の弱い方はやめておいた方が良いかも。

Ende;
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○荒川ライトアップイベント。

2016年02月27日 19時03分47秒 | 日記
荒川河川敷を自転車で走ってたら、お揃いのスタッフジャンパーを着た若い女子がいっぱいいて、一人がプラカード的なものを持っていたので近付いて見てみたら荒川ライトアップイベントってのやってた。

荒川下流河川事務所

今日限りらしい。(ダメじゃん)



Ende;
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○SD QUATTRO。

2016年02月26日 21時18分01秒 | 日記
シグマがミラーレス機を出してきた



ミラーレスとは言ってもフランジバックは一眼レフと全く同じらしくて、DNシリーズは使えないらしい。

まあDNシリーズ使うんだったらdp使えって話なんだろうけども。



Ende;
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○暴走。

2016年02月22日 16時45分05秒 | 意識論関連
若者達が荒れるのは、根拠のない抑圧をするからである。

若者に限らず、「気持ちが荒れる」というのは精神的に余裕が失われて逃げ道がないからであって。荒れる以外の選択肢が失われてしまっているからである。

嘘つきや無責任な奴というのは、社会の中で生活していると結構いるもので、そういう奴らにいちいちムカついていても生活が成り立たないので。熱中出来ることに熱中して忘れてしまうという精神的逃げ道を持っておけば、いちいち荒れずに済む。

だから問題なのは熱中出来ることを見つけられない程の抑圧や、多数派からの評価に左右されてしまうという同調圧力に流されてしまうことである。

社会の中で生活していれば、それなりの制限というものは存在するのだが。実質的には誰にも迷惑がかからないようなことまでをも制限をしている場合は少なくない。

学力競争なんていうのも、生徒の学力偏差値が上がったり、進学率が上がることが教師の評価や成績に直結しているわけで。学力が高いことが本当に生徒個人の将来にとって必要な事なのかどうかなど、教師は本気で考えているわけではない。

親も親で、自分の子供の成績が低いことが多数他人から外見上恥ずかしいから「勉強しろ」と言っているだけであって。子供個人にとって必要かどうかを本気で考えているわけでもない。

そもそも親なんていうのは、そこらいらへんにいる男女がチンコ突っ込んで気持ち良かったら出来ちゃったという行きがかり上の結果として親に「なっちゃっている」だけであって。 そうではなくて本気で子供の将来にまで真剣に考えて子育て教育をしている親の子供なら、こんな記事を読む必要性なんて最初からない。

このように親教師の大多数は、本気で生徒子供の将来を考えて行動制限をしているわけではなくて、いきがかり上、何となく多数派に同調しているに過ぎないことを、あたかも合理的根拠に基づいて制限しているような気になっているに過ぎない。

面倒臭いのは、気分的には「本気」だということである。

合理的には何の根拠もないのに、気分的には「本気」で、観念的な強迫観念に基づいて「あれはダメ、これもダメ。」と制限をしているので。口先だけは「自由に何でもやってみれば良い。」なんて言うこともあるのだが、実際には何のアドバイスも協力もせずに、上手く行かなかった時には「そんなことやっても無駄だ。」などと頭ごなしに腐すだけである。

例えば、子供が「宇宙飛行士になりたい」と言った時に、親大人がどこまで真剣にサポート出来るのか。それが重要なのである。 大抵の場合は無難な選択を強制するだけで、生徒子供の主体性など全く認めないのが一般的である。

勿論、子供がその場限りに何となく外見上「カッコイイ」から憧れているだけであるなら、それはマトモに聞くだけ無駄かも知れないのだが。本当に本気で目指したいと思っている事程、子供は一度しか言わないもので、 それを聞き逃してしまうのが親として最悪なのである。

その場のノリと勢いで「あれがカッコイイ、あれやりたい。」といった風に、子供が言うことの多くは聞くに価しない戯言なのかも知れないが。 本気で目指している事の場合は気分や感情を伴わずに、ほんの一言「ボソッ」とつぶやくものである。 これを聞き逃してしまったり、或は頭ごなしに否定してしまうと、子供は主体性とか自主性といったものを失ってしまうのである。

子供が本当に何を目指しているのか、それを見極めるのは、子供が何をしているのかを日頃見ていれば判るはずなのだが。大抵の親は子供の行動を真剣には観察しておらず、「あれはダメ、これもダメ」と頭ごなしに否定するだけである。

にも関わらず、親は気分的には「本気」で「子供の為を思って。」否定しているのでタチが悪い。

気分感情的にどんなに「思って」も、それは観念的なものに過ぎず。合理的根拠を伴うとは限らない。

そもそも親自身が、子供の頃に自主性や主体的意向といったものを認めてもらうという育て方をされていない場合には。無意識条件反射的に子供の自主性や主体的意向を否定するような行動を採りがちでもある。

これは一種の軽い「虐待の連鎖」である。

以上のように、親教師の直接的要因以外にも、間接的な要因というのもある。

■先天的本能としての社会形成習性

ヒトという種の生物というのは、先天的に多数他人と同調することで気分的に安心し。権威などの特定他人に服従することで統率的協調性を発揮する行動習性がある。

しかし、この行動習性というものは、自然界においては生存のために必要なものであったとしても。自然界から隔絶された現代社会においては、こうした先天的な行動習性というものは、しばしば目的もない暴走の原因ともなることが少なくない。

川崎での学生殺人事件を起こした学生も、「空気に流された。」とか、「気が大きくなってしまった。」などと供述していることからも。当人の意図目的とは無関係に、先天的な行動バイアスが暴走した結果として殺人にまで至ってしまっているのである。

「その場の空気に流された。」とか、「気が大きくなってしまった。」などというのは、要するに無意識条件反射的行動を意味するものであって。その動機としても「仕返しや警察にばれることが怖かった。」といった気分感情と行動が直結していることこそが、無意識条件反射的短絡行動の原因なのである。

その場限りに「怖い」かどうかというのは、その場限りの気分であって。その行動によってどのような結果が生じるのかといった合理的予測に基づいた行動選択が出来ていれば、何も殺人にまで至らなくても済んだはずなのである。

暴力的威圧によって服従させようとする者というのは、暴力的威圧によって服従させられるような育て方しかされていないからであり。これもまた一種の「虐待の連鎖」の顕れである。

「ナメられたら、負け。」という強迫観念が意識を支配していれば、ナメられないためには必死になって暴力的威圧を増大させなくてはならず、インフレーション的に暴力性を加速暴走させなくてはならなくなるのである。

自分の人生棒に振ってまでナメられないようにする必要性がどこにあるのか、そんな合理的判断は先天的本能習性が促す行動バイアスからは出てくることはない。 なぜなら先天的本能習性というのは気分感情の強度程度という無意識な「結果」であって、意識的、論理検証的目的行動選択とは無関係だからである。

ヒトが上下関係、主従関係といったものに異常執着するのは。イヌのそれと同じで先天的行動習性の「結果」であって、目的があるわけではない。

人間としての社会的目標としては、平等や公平といったものがあるが。それに対してヒトの先天的な社会形成習性というものは、平等や公平とは相容れない行動バイアスとして働いてしまうのである。

ことほど左様に、先天的な社会形成習性というものからは、人間性を伴った倫理や社会性といったものが機能するようなメカニズムは存在しておらず。むしろ人間性を喪失されるような行動バイアスを促してしまう危険な無意識なのである。

それを京都大学霊長類研究所は、「先天的な社会性から、人間としての社会性を立証可能かも知れない。」などという、「かもしれない」形式の反証され得ない非科学的話で大衆人気取りをしたのであり。こんなオカルト進化生物学を鵜呑みにしているからこそ、ISILのような暴力集団の暴走をも許してしまったとも言えるのである。

宗教というのはそもそもが先天的な服従欲を満たすという気分的安心満足のためのものであり、預言者や教祖の意図した平和や調和といった意識的目的とは正反対な暴走をも招くものでもある。

宗教というものの正しい側面と、悪い側面を区別するためには。宗教というものを論理的に理解し、その扱い方を知る必要性がある。 その場限りの気分的満足を目的とした安易な神と、本当に平和を求める敬謙な信者とを区別出来ないからこそ。その場限りの気分的満足を目的としたナショナリズムを用いた安易なポピュリズムの暴走をも招いてしまうのである。

区別が正確に出来ていれば、トランプ共和党大統領候補とISILは同じものであることが明確になるのである。

そこに宗教宗派は関係がないのだが、そうした論理的区別が出来ないからこそポピュリズム(大衆迎合)なのである。





Ende;
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○なにこれかっこいい。

2016年02月21日 14時16分47秒 | 日記
これは上手い絵だな。



単純に大きなポスター欲しいしフィギュアにしても売れそう。




Pixivのページには貼付け用スクリプトっていうのがあったので貼付けてみた。

<script src="http://source.pixiv.net/source/embed.js" data-id="55330884_918f3ac01371d3a1c17510976f17cc61" data-size="large" data-border="on" charset="utf-8"></script><noscript>

by neco on pixiv

</noscript>

ああやっぱりgooブログだと動かないのね。

Ende;
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○自律判断選択。

2016年02月18日 14時21分56秒 | 意識論関連
自己の遺伝子は自己自身では選択不可能であり、故に自己の脳の構造もまた自己選択不可能である。

自己が成育環境において刷り込み学習されたあらゆる価値観の全てもまた、自己選択は不可能であり。既に存在している自己の中に存在する価値観のほとんどは自己自身による選択が介在していない。

以上のことを述べると、文科系大衆観念者のほとんど全員は「自律的選択など存在しない。」とか「自由意思など存在しない。」などという短絡的結論に至るという、全く合理性を欠いた身勝手な「解釈」に陥り。それ以上の論理的「理解」を自律的には全く考えようとしなくなる。

自律的に物事を考えることが嫌いである以上、バカなのは当たり前であろう。たとえ学力偏差値がどんなに高くてもである。

自己の選択というものは、二つに分類することが出来る。

一つは既に自己内部に刷り込み学習された価値観に基づいた無意識なバイアスによる条件反射的選択であり、これを「既存在」と呼ぶことにする。

もう一つは、以上のような無意識な思考バイアスに依らない自律的な論理検証性に基づいた、現在時点における選択可能な本質的意識であり。これは「現選択可能性」と呼ぶことにする。

文科系大衆観念者には、現選択可能性というものの存在が見えないのであろう。 自己の行動の全ては先天的本能習性や成育環境によって刷り込まれた行動バイアスだけでしか決定されることはないと勝手に決め付けることで、気分的に安心満足感に溺れ思考を停止させるためである。

文科系大衆観念者というのは、気分感情と行動が直結している者であり。自分の気分感情的に安心満足な選択以外は自律的には選択することに観念的恐怖心が植え付けられてしまっているために、自分の気分が悪くなるような自律的選択などというものはなかったことにしておきたいバイアスが働くことによって、「自律的な選択など存在しない。」などという非論理的な帰結を主張し、それ以上のあらゆる可能性を否定しようとするのである。

◇脳神経科学的見地

半側無視という症状がある。

脳の視覚野において梗塞などの原因によって網膜の半分が認識出来なくなった患者では。時折見えていない領域そのものが存在していること自体を認識出来ずに、目の前の視野の全てを把握していると勘違いする症状のことである。

実は、こうした見えていない領域自体が認識出来ない現象というのは。脳に特別異常のない人においても生じているものであり。いわゆる「盲点」というのがそれである。

眼球の網膜上には、視神経が密集している領域には視細胞がないため。例えば右目においては視野の右側に見えていない領域というのが存在しているのだが、それを大抵の人は認識することなく、全てが見えているかのように錯覚している。

これは、見えていない領域が認識されてしまっていると、日常生活における視覚認識をする上において無駄な認識処理が必要となるために、左右の眼球で補完可能な盲点が存在することを認識しないよう、脳が勝手に自動的に無視しているのである。

しかし、こうした自動的な無視のメカニズムというのは、時に補完不可能な視覚領域の欠損までにまで働いてしまい。その結果として半側無視といった症状として現れるのである。

こうした錯覚というのは視覚的な現象だけに限らず、視覚以外の思考においても生ずるものであり。これが様々な意識狭窄性をも生じさせる脳の構造的欠陥の原因でもある。

文科系大衆観念者においては、自律的論理検証判断というものは存在しては困るもの(恐怖の穴)である。

逆に言えば、自律的論理検証判断力がない者のことこそが、文科系大衆観念者であり。自律的には何が正しいのかを全く判断することをせず、ただ漫然と多数派や多数派によって認証された権威者の意見を鵜呑みにするばかりの凡庸な人であろうと欲するのである。

何せ自律判断よりも他人からの見た目を優先するために、その場の気分感情が行動と直結しているために自律的判断などというものは存在しては困るのであるため。必然的に自律的な社会的責任判断もせず、権威や多数派に迎合することで安心満足することしかしないのである。

承認欲求中毒の者が権威の査読に依存したがるのも、自律的な論理検証よりも、観念的安心を優先してしまうことによって、「恥ずかしい」などといった観念論が優先してしまい、科学論理的議論が全く出来ないことになってしまうのである。

そもそも承認欲求というのは、他者からの承認に依存していることを意味し、自律的な論理検証よりも多数他人や権威者からの承認ばかりを求める症状であるから、目先の気分が行動や言動と直結しており、無責任発言をしても何ら反省すら自律的にはしないという傲慢さをも発揮するのである。



そもそもこうした自律的論理検証性の欠如というのは、一種の症状であり、病気であるから、畑村洋太郎がぶん殴っても治るようなものではないのだが。 京都大学の准教授が「自律的判断など存在しない。」などというオカルト観念を信じ込んでいて良い訳がないのは明らかである。

困ったことに大多数の大衆の多くは、こうした先天的な病を病として認識しておらず。病人の多数決が民主主義を支配しているために、自律的判断の重要性など「なかったこと」として無視されるのである。

危険学や失敗学において最も重要とされる帰結が、「自律的な社会的責任」であるのだが。文科系大衆観念的にはこれは原発や航空機などの運転運用上などの「技術者」だけに要求される倫理であると解釈し、「自分達には関係がない」こととして無視するのである。

重大事象の裏には、無数の小さな事象が隠れている。 いわゆる「ハインリッヒの法則」である。

重大事象だけを見ていたのでは、無数の小さな事象に目がゆかず。結果的にこれから起こり得る潜在的可能性のほとんど全てを見逃してしまっているからこそ、似たような事例が何度も続くという結果を招くのであり。こうした文科系大衆観念的な「事象の大きさ」だけで分類するような解釈の仕方そのものが、問題解決を妨げる大きな要因となっているのである。

池上彰が「なぜ、戦争はなくならないのか。」などと称して、戦争だけを採り挙げて何かの解決策につながるのではないかのように言い出すのは。もはや大衆の頭の悪さを利用した詐欺行為とも言える無責任な話なのである。

死んだ人数を短絡的に倫理か何かと結び付けるような短絡性が文科系大衆観念者にはあり、重大事象だけを取り上げておけば倫理を論じたかのような大衆観念上の錯覚を利用しているだけであって。実際には視聴率を稼ぐだけで社会的には何の役にも立たない情報を垂れ流しているに過ぎないのである。

「動物的な目先の利己的利益」と、「これからも自分が生き続けるに価する社会のあり様に基づいた人間としての行動判断」との間にこそ倫理や人間性が存在するのであって。死んだ人数や被害の大きさは倫理とは無関係な話であり。

たとえ何の被害がないとしても、これから起こり得る可能性としての危険性を軽視することは人間として、倫理に欠ける行為なのであり。 これを無視して結果的な事象の大きさ程度だけを根拠に重大事象だけを採り挙げるというのは、問題の本質を無視した大衆迎合にしかならない。

これは福島第一原発における非常用電源喪失の可能性放置と同じことであり。実際に重大事象が発生する前に既に倫理は失われていたのであって、結果的被害の大きさと倫理は無関係なのである。

それこそ酷い場合には、「直接放射能で死んだ人はいない。」などという無責任な言い逃れを言い出すバカもいる程である。

バカな哲学者は死んだ人数だけが倫理か何かと勘違いし、やたらと「トロッコのジレンマ」を挙げようとするが。これは危険学や失敗学的な見地から見た本質的倫理を無視した、大衆の頭の悪さを利用した思考撹乱や言葉遊びにしかなっていないのである。

むしろ「トロッコのジレンマ」を採り挙げている時点で、哲学者としては無能なポンコツであることの証明でもある。



大衆の多くには、本質的意識としての自律的論理検証性はない。 だからこそ不毛な言葉遊びや合理的根拠のないオカルトが学問を撹乱している現状に何の疑問も持たないのである。

ヒトは、ヒトという種の生物は、気分感情が行動と直結「しがち」ではある。

だからといって、気分感情のままに行動することが「人間として正しい」論証にも。気分感情のままに行動する以外の現時点での自律的行動選択の不可能が立証されたわけでもない。 こうした「現実」を無視して、「自分はイヌやカブトムシだから本能には逆らえない。」などと言い出すバカが倫理を説く権利など道義的に存在するわけがなかろう。

「自律的判断が存在しない。」ということは、要するに「自分はバカだから、本能習性や既に学習した既存の価値観以外に自律的に行動選択することは出来ない。」という意味であり。こんなふざけたことを真顔で言い出すオカルト観念者が京大で准教授を勤めていて、一体学生に何を教え込むつもりなのであろう。

京大霊長類研究所の松沢哲郎が、「先天的本能習性から人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などと言い出すのも。人間としての社会性というものが先天的に何も考えずに自動的に成立しているという大衆迎合的妄想を利用した公然の嘘に他ならない。 それをマスコミの誰一人として訂正も意義も唱えないのである。 これこそがヒトの異常性の根源であることを認識すべきであろう。

倫理や人間性というものは、先天的な本能習性が促す行動バイアスからは成立するようなものではなく。むしろ先天的な本能習性が促してしまう無意識で条件反射的な行動バイアスに流されずに、自律的に論理検証し判断選択するという本質的意識や意思が働いて、初めて発揮されるものなのである。

ヒトの多くは誰かを悪者と規定して怒鳴り散らすような懲罰的行動だけで正義だと錯覚するが。こうした正義というのは先天的に組み込まれた習性が促す快楽が作り出した妄想錯覚に過ぎない。

勿論「畑村洋太郎にぶん殴ってもらった方がいいんじゃねぇのか。」などというのは大衆居酒屋的な冗談であるが。畑村洋太郎に京大も含めて文科系大衆観念者の異常性を指摘してもらった方が良いことは確かである。

社会にとって最も重要なのは、持続可能性と安全性である。これらを阻害する要因を放置しておいて、言葉面だけ「安心安全」などと言うのは、単なる大衆迎合でしかなく。無責任極まりない。

議事堂の前で太鼓叩いている暇があるなら、代替エネルギー案や省エネルギー対策案を提案するという建設的な行動がもっとあるはずで。 そもそも個人の自律に基づいた倫理や人間性が何なのかを論理的に理解していれば、あんな悪夢のような重大事象は起こさずに済んだはずなのである。



Ende;
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○キチガイの巣窟。

2016年02月16日 22時17分34秒 | 意識論関連
京都大学の大山泰宏は、個人の行動の全ては社会によって作られたものであって、自律的に判断して行動しているわけではないと断言している。

こいつ頭おかしいぞ。

多くの価値観において社会から作られたものであるとは言っても構わないかも知れないが、だからと言って個人の行動の全てが自律的選択が介在する余地が一切存在しないことの論証には全くならず。また、当然ながら自律的な社会的責任判断をしなくて良い論拠にも全くならない。

これもまた結果と目的を混同した文科系妄想観念による身勝手な錯覚であろう。

自律的な社会的責任判断選択というものが存在しないというのであれば、倫理もすったくれもあったもんじゃねぇ。

こいつ畑村洋太郎にぶん殴ってもらった方が良いんじゃねぇのか。

京都大学ってキチガイ教授の巣窟だな。


Ende;
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○不気味とは。

2016年02月16日 13時42分50秒 | 意識論関連
ヒトが他者の顔を見ている時、その顔の大部分は脳で作られている。

例えば脳梗塞で一時的に脳機能の一部が失われたりすると、顔面の半分が垂れ下がって来たりするのだが。それは逆に言えば脳が働いてるからこそ「普通の顔」が維持されているということでもあり。顔の大部分は脳機能によって維持された顔を私達は「正常な顔面」として認識しているのである。

一般的に美術学校では造形の基礎としてモデルを座らせてデッサンや彫刻彫塑を行わせたりするのだが、これは実は弊害がある。

モデルを一定時間座らせたり、立たせたりしておくということは、表情はいわゆる「素」の状態にならざるを得ず。無表情な顔の造形しか出来なくなってしまうからである。

美術学校を出た学生の多くは、こうした傾向があり。表情の乏しい顔の造形しか出来なくなってしまうことがしばしばある。

広告などのメディアで露出している、いわゆる「かわいい女子」の写真というのは。一定時間座らせておいたり立たせておいた顔ではなく、あくまで一瞬の表情を捕らえたものであって、広告写真では何千枚ものショットの中から最も良い表情の写真をセレクトするといったことが普通である。

逆に言えば、一般に美人と認められているモデルであっても、気分によってはブサイクな顔をする瞬間というのもあり。芸能人を蔑むことで読者が自己満足に陥ることを目的とした写真週刊誌などでは、意図的にブサイクな写真をセレクトして掲載したりする場合も多い。




ブサイクな小野真弓の例 (表示されなかった。)




きゃりーぱみゅぱみゅが意図的にブサイクな顔をした例

この顔を高い精度のスキャナーでスキャン造形すれば間違いなく「不気味」な顔であるが。こうした不気味な顔というのは、一人のモデルにおいてもスペクトル的に存在するのであって、意図的にブサイクで不気味な表情でなくても、普段の無表情な顔の大半は広告写真としては使われることはなく。

大多数のヒトが「美形」とか「かわいい」と認識する顔というのは、対象となるモデルにおいても特定の表情や角度アングルに依存するものであって。それ以外の顔というのは広告メディアなどには露出しておらず、私達が普段見ている美形というのは、極めて特殊なものであると考えるべきである。

一般にかわいい顔、或は美形な顔として認識している顔というのは、あるモデルにおいての一瞬の表情であり。また、かわいいとか美形な顔というのは「反不気味」顔でもあり、見ていて気分的に安心出来る顔でもある。

「不気味」として認識している顔というのは、見ている個人が主観的に安心満足出来るかどうかであって。不気味でないことが「人間として認識している。」ことの論証には全くならない。

ハンセン病では脳梗塞と異なり抹消神経の麻痺が原因で表情筋の機能が失われることで、顔面が垂れ下がることで大多数のヒトからは「不気味な顔」として認識されてしまい、大多数からの気分的な安心満足が得られないことから非合理的な隔離差別の対象として扱われる大きな要因ともなった。

不気味かどうかというのは、個人の主観的な問題であって。こうした「感覚」の問題をどんなに追求しても人間性の論証には構造原理的に辿りつくことはなく、むしろ非人間的差別排除の原因にすらなる。従って、アンドロイド研究で有名な石黒浩による「感覚」的な研究からは、本質的な人間性が何かを分析/論証することは出来ないのである。

石黒のアンドロイドというのは、むしろ気分的安心満足感を得ることが目的であって、人間性そのものの研究ではないことは、本来言うまでもないことのはずである。

ヒトの多くは、主観的な感覚的「安心感」を短絡的に「正しい」と認識する傾向があるが。これこそが錯覚であり、自分の感覚を絶対的なものであるという身勝手な妄想がその根底にある故の傲慢さを発揮するのである。

「ヒトは見た目が9割」という話があったが。その9割の残りの1割を無視して外見上の安心感や満足感を絶対的なものであると見なしてしまうからこそ、見た目のわからない電話での振り込め詐欺に簡単に騙されるようにもなるのである。

振り込め詐欺の被害者の大半は、実際に詐欺に遭うまでは「自分だけは絶対に大丈夫」だと盲目的に信じ込んでいたからこそ、その傲慢さこそが騙される大きな要因なのである。

ハンセン病患者の差別に限らず、差別排除というのは、それを主導する者の主観的感覚としての安心感が得られないことから生ずる身勝手な「不気味さ」の観念が行動に直結することで生ずるものであり。 また、多数で同一の「敵」とみなした対象を協調的に攻撃することによって得られるその場限りの安心感もまた、差別排除行動を促進してしまうのである。

これはつまり、ヒトという種の生物というのは先天的に差別排除によって集団組織的協調行動をする本能習性が存在していることを意味し。これは学校学級内などの衆人環視環境以外における様々な場面において普遍的に生ずるものであって。わざわざ監獄実験のような環境を作る必要もなく、ヒトという種の生物は先天的に差別排除をしたがることに疑う余地などないのである。

科学において、業績として見なされるかどうかに「再現性」というのがあるが。ヒトという種の生物における先天的社会形成習性というのは、むしろ特定環境を作り出す必要もなく、様々な状況において普遍的に見られる現象であり。こうした現象を「実証」として見なさないというのは、むしろ手続き上の問題に過ぎず。お役所的な頭の固さや意識の低さに起因する傲慢さでもある。

再現実験などする必要もなく、日々差別排除や暴力というのは繰り返されているものであって。こうした実質的現象を無視して実験室での再現性ばかりに執着するというのは科学者としての社会的役割を放棄しており、無能と言う他ない。



あたかも話が逸れているかのように見えるかも知れないが、不気味とは何かを認識しなければ不気味ではない状態の意味をも認識することは出来ないので、一概に話が逸れているというわけでもない。

結局は不気味かどうかや個人的にかわいいと思うかどうかは主観的な問題、趣味趣向の問題であって、これを社会的行動に直結させて良いものではないことは、言うまでもなかろう。

逆に言えば、個人の主観的な好き嫌いや安心感を基準に、目先の多数派に迎合する形で差別排除というのは発生するのである。

こうした先天的本能習性による行動の話をすると、少なからず「先天的な本能習性には逆らうことが出来ない。」などと言い出すバカが必ず出てくるので厄介である。

先天的な本能習性に流されることしか出来ずに、一体何が自由意思だと言うのであろうか。こうした短絡的な意識の低さというのは、短絡的でいた方が、その場限りに気分的に楽で安心だからである。

つまり、バカがバカ足る所以とは、自らの内部にあるバカさを認識せず、バカのままであろうと欲する先天的本能から逃れる意志の欠如のことである。

「自己中小的な者には自己はない。」という言葉があり、これは一見自己矛盾のように思えるのだが、「自己中心的な者」における「自己」とは、先天的な既存の自己を意味するものであって。こうした自己選択を介していないデフォルトの自己に抗う意志としての自己選択可能性を喪失しているが故に身勝手で「自己中心的」な行動しか出来なくなるのである。

本質的な自己とは何か、意志とは何か。

それは先天的な本能習性が促す行動や思考のバイアスに左右されることのない、自律的な論理検証性に基づく選択可能性であり。これは単なる条件反射的な「主義」とは全く異なるものである。

単なる「主義」とは、主観的な好き嫌いに基づいた条件反射な行動パタンとして規定しているに過ぎず。これこそが現状現在における自己の選択可能性を阻害する意識狭窄性の源に過ぎない。

他者の顔を見て、不気味か不気味でないかを判断しているという、その感覚自体がそもそも不気味な先天的本能に基づいたバイアスに過ぎない。 そしてそれはどんなに多数派と同じ観念を共有しても、観念であるということからは逃れることは出来ないのである。

ところが文科系大衆観念上においては、観念であろうと何であろうと、多数派で共有してさえおけば、それが促す気分的安心満足感を短絡的に「正しいこと」であるという錯覚に流され、非合理的な観念ばかりが蔓延してしまうのである。

非合理観念が蔓延していれば、これこそが洗脳状態である。

ヒトが洗脳状態に陥ることというのは珍しいことではない。振り込め詐欺の電話だけでもヒトは簡単に論理検証性を喪失するものであり。ましてやマスコミや進化生物学、哲学などの権威性が無責任な嘘を垂れ流していれば、大衆の多くは何の疑問も持たなくなることも珍しいことではない。

疑わなくなること、これこそが洗脳の第一歩である。

科学的な検証というのは、先ず「全てを疑う」ことが必要であり。これは「教えられたことを鵜呑みにする。」ことこそが最悪な頭の悪さを醸成してしまうのである。

こんなことを言うと、「一体何を信じたらいいの。」などと言い出す者も少なくないが。何を信じるべきなのかを自律的に検証する個人がいてはじめて民主主義が成立するのであって。信じる対象を求めている時点で宗教か何かと勘違いしているのであろう。

何度も言うが、「疑う」といってものべつまくなし観念的猜疑心を抱いて不安に陥ろと言っているわけではなく。むしろ何の合理的根拠もないのに信じ込んでしまっている事柄を洗い出すことが必要であるという意味である。

ヒトの多くは、何かを決め付けておけば検証し直す必要性がないと見なすことで気分的に安心満足することが出来るため、その決め付けに合理的根拠があるかどうかを意識から外し、既に決め付けてしまった自己を事後正当化する形で「主義」に陥る。

ことほど左様にヒトという種の生物というのは先天的にバカに陥るようなバイアスが脳に組み込まれているが故に、様々な「人災」が一向に減らないという事態に陥っているのである。







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○「恥ずかしい」とは何か。

2016年02月16日 13時26分44秒 | 意識論関連
川崎での学生殺人事件というのは、一つの重大事象である。

ハイリッヒの法則に基づけば、一つの重大事象の裏には無数の小さな事象が隠れているのであって。重大事象における首謀者に懲罰を与えて解決だと見なす現在の司法制度というのは、危険学や失敗学の観点からは全く原因究明にも再発防止策にもつながらない不毛な社会制度である。

実際に手を下した特定個人を悪者であると見なして懲罰を決定しても、ヒトが凶悪な行動を採るようになるメカニズムについての分析には全くならない。

刑法懲罰という制度は、何年刑務所などに監禁しておいても、再犯防止の合理的根拠が全くなく。刑を執行している方の単なる観念的精神論に基づいた妄想によって気分的に安心満足しているだけに過ぎないのである。

学生が集団形成し、暴力的差別行動を採るようになることは、決して珍しいことではなく。いわばヒトが引き起こす無数の集団暴力的行動の中の「氷山の一角」に過ぎない。

実際に重大事象として露出した事件だけに注目し、水面下の膨大な事象を全て無視していたのでは、本当の意味での再発防止策にはつながらない。

実質的に再発防止を求めるというのであれば、刑法懲罰に依らずに。どのような構造が事件にまで至るような暴力性をヒトに生じさせてしまうのかを分析する必要性があり、そのためには危険学や失敗学のような客観的検証のためにはむしろ刑法懲罰を停止し、徹底的に原因究明によって再発防止策を立てるべきなのである。

大衆の多くは実行犯や命令を下した特定個人を「悪者」と見なし、特定個人だけに懲罰を与えて気分的に安心満足するだけで。事象に至る全体構造については全く検証しなくなってしまう習性がある。 こうした不毛な刑法懲罰に依存した実質的効果を持たない制度だけで「解決」と見なす頭の悪さこそが、何度も同じような事件が繰り返される原因であり。これは政府国家だけの責任ではなく、あくまで民主主義国家では市民一人一人の意識(論理検証性)の低さの問題なのである。

重大な事象にまで至った事件の首謀者だけに責任の全てを転嫁し、それ以外の無数の小さな事象を無視しているという多数の無責任さを、多数派であるというだけで「正常」であるという妄想観念に基づいて正当化出来ていると勝手に勘違い錯覚しているからこそ、刑法懲罰などという実質的には再発防止策にはつながらない不毛な制度の維持につながっているのである。

川崎での学生殺人事件というのは、無数のイジメや集団暴力の中での突出した事象であり。「学級内ヒエラルキー」などという子供じみた観念を鵜呑みにしている学生の頭の悪さに起因するものである。

ヒトという種の生物は、先天的な社会形成習性があり。集団統率的行動に至るような行動バイアスが存在しており、その結果として集団統率行動バイアスが暴走する形でイジメ集団暴力などの重大事象にまで至るのである。

なにせ先天的な行動習性であるから、それは脳への報酬系と直結した動物的には「正常」な行動を引き起こす行動バイアスであり。麻薬のような常習性をも発揮するのである。

「死んでもいいから、安心したい。」

これは健康マニアによる「死んでもいいから健康でいたい。」と共通した観念であり。ヒトの大脳辺縁系が促す行動バイアスというのは、とにかく個人的に安心満足感を追求するだけであって。そこに目的や意味があるわけではなく、動物的に組み込まれた本能習性という「結果」でしかないのである。

実質的には意味のない暴走的行動に異常執着してしまうというのは、ある種の精神病であり。犯罪者に限らず刑法懲罰などという実質的には意味のない社会制度に何の疑問も持たない大多数の大衆もまた、この病の患者でもある。

ヒトの多くは多数派を短絡的に「正常」であると錯覚する。それは気分的に安心満足だからである。だが、こうした安心満足を促すバイアス自体もまた、ヒトという種の生物における「結果」でこそあれ、それは意識的(論理検証的)に選択された目的にはならない。

ヒトの多くは自分の気分感情を短絡的に意識や意思だと錯覚しているが。自分の遺伝子を自分では選択していない以上、自分の脳の構造も、その脳に価値観を刷り込み学習した成育環境もまた自分の選択ではなく。何の論理検証もせずに漫然とその場限りの気分感情に流されているだけでは、自由意思や意識にも目的行動選択にも全くならないのである。

日本では未だに安心と安全をセットにしたがる傾向があるが。安全性というのは論理的に構築するべきものであって、気分的に安心するかどうかとは無関係な話である。 そもそも論理的安全性の追求というのは、むしろ不安こそが原動力であって、安心感というのは怠惰を促すだけであり、セットにすべきものではないのである。

だが、大衆の多くは目先の安心感ばかりを追求し、観念的恐怖心による行動や言動をしがちなために、大多数の大衆は気分的安心満足ばかりを要求してくるのだが。こうした多数の観念論に耳を貸す必要性はない。 それこそがポピュリズム(大衆迎合)に過ぎないからである。

民主主義社会において本当に選択すべき行動とは、単なる目先の多数決ではなく。合理的根拠を持った具体性ある対策であって、その場限りの気分的安心ばかりを追求するような観念論の多数決というのは、意識的に除外する必要性がある。本来的には民主主義においては、市民の一人一人が自律的に社会的責任判断に基づき、実効性のある合理的選択を多数決によって選択されるべきものであるのだが。こうした意識は現在の社会には根付いておらず、その場限りに気分的安心満足ばかりを欲求する愚民が圧倒的多数派を占めている以上。何が合理的根拠を持った具体性ある対策なのかを説明する必要性がある。

個人の主観的安心満足の追求ではなく、社会的な持続可能性や安全性の追求であることの説明責任が個人にも必要なのであって。単なる愚民の多数決は意味を為さないのだ。

刑法懲罰の判決を「解決」であると見なすことに、合理的根拠を説明できるだろうか。できるものならやってみろという話である。 代議員の行動だけに説明責任があるわけではなく、民主主義制度国家である以上市民個人の主義主張においても、それに社会的意義があるのかどうかを説明する責任は存在するのである。

その場限りの安心満足の追求の多数決に終始してしまうからこそ、民主主義がバカ主義に陥るのである。

国家権力を用いた刑法懲罰による恐怖心によって犯罪を抑圧するという手法は、所詮恐怖心というバイアスに依存した行動誘導であって。むしろ川崎での学生殺人事件においては、こうした恐怖心のバイアスこそが殺人という重大事象にまで暴走した大きな要因でもあるのだ。

恐怖心を用いた「怖いから、やらない。」という行動バイアスに依存している限り。その場限りに怖いかどうかでしか行動が決定しなくなってしまい、自律的な社会的責任判断というものを合理的に考えるという人間性を無視した、愚民政策の一環にしかならない。



JR福知山線脱線事故においても、懲罰的指導が事故の引き金になったという結論が出ている。運転手が事故によって乗客に危険が及ぶことよりも、その場限りの気分的な恐怖心によって到着時間を優先した結果、無謀な暴走を招いた事故だと言える。

福島第一原発の事故においても、いつ起こるかも知れない津波に対する脆弱性よりも、社内での居心地を優先した結果危険性が放置された「人災」なのである。未だに福島第一原発事故を「天災だから仕方ない。」などという解釈をしているバカがいるようだが。畑村洋太郎が調査を行った国会原発事故調査委員会における結論として、あの事故は「人災」であることが証明されているのである。 津波が来れば非常用電源が喪失することは、事故前から想定されていたものであり、「人災」であることは明らかであり。これを「天災だから仕方ない。」などと言い出すのは無責任極まりない大嘘である。

川崎での学生殺害事件においても、「相手の仲間からの仕返しが怖かった」とか、「警察に捕まることが怖かった」などという、恐怖心のバイアスこそが、むしろ犯罪を助長したのである。

「怖い」かどうかというのは、その場限りの主観的バイアスであって。そこに合理的根拠が存在するわけではなく。あくまで動物的な行動バイアスとして大脳辺縁系に組み込まれた「結果」的な無意識性に他ならない。

無意識、すなはち条件反射的に行動していれば非合理な結果を招くのは必然である。

勿論犯罪者自身の意識、自律的な社会的責任判断も重要ではあるが。そもそも未成年であるならば、むしろなぜこの少年が自律的な社会的責任判断を出来なくなってしまったのかや、その場限りの気分的感情が優先してしまうのかといった精神構造的な分析を行い、同じような過ちに陥らないよう社会全体で共有し教育へもフィードバックする必要性がある。

こんなことを言うと、大衆の多くは短絡的に「親が悪い」だとか「学校が悪い」といった「悪者」を決め付け、懲罰さえ与えておけば解決か何かだと短絡的に解釈するのであろうが。こうした短絡性こそが様々な社会的危険性を分析するための最大の障害となっているのである。

特定個人を差別するという点においては、「悪者」を決め付けることで満足しようとする心理的バイアスというのはイジメや差別の心理構造と共通するものでもある。

個人的に誰かを嫌いなのは勝手であるが。だからといって「悪者」であると決め付け、これを社会的制度や行動に直結させて良い合理的説明は存在しない。 個人的好き嫌いというのは主観的感覚であって、客観的な社会的制度や行動とは切り離すという分別(ふんべつ)には、論理検証性というものが必要不可欠なのであり。 こうした区別や分別(ふんべつ)こそが人間性の論証でもあるのだ。

了見(人間性)とは、合理的に区別がつくことである。その場限りの気分感情に流されることなく、統合的に社会的価値にまで考慮が働いてこそ、本当の人間性だと言えるのであって。 「俺様は天才じゃないから、公共利益にまで配慮が働かなくても良いんだ。」などという屁理屈を述べるのであれば、これは社会的にはただの無責任に他ならず。発言権自体の放棄宣言と捉えるべきものであり、民主主義において最も不要な人格でもある。



ヒトの身体というのはホメオスタシスのように恒常性を維持するようなメカニズムも先天的に組み込まれてはいるが、大脳辺縁系が促す行動バイアスの全てまでもが常に社会的持続可能性や安全性までをも維持するようなメカニズムが組み込まれているわけではなく。社会安全性や持続可能性というものは、意識(自律的な論理検証)的な目的行動選択がなければ働かないものなのである。

先天的なメカニズムである本能や習性といったものは、あくまで特定条件下においては有効な場合もあるのだが。逆に言えば特定条件下以外においてはある種の暴走をも引き起こすものでもあり、高血圧患者が塩分を欲したり、振り込め詐欺師の口車に乗せられて大金を支払い続けたり、カルト宗教にのめり込むといった行動も、先天的行動バイアスの「結果」であって、そこに何らかの意識的目的行動選択が存在する訳ではない。

ヒトの多くは自分の先天的な行動バイアスや習性といったものを、あたかも大自然や神などから与えられた優秀な存在であるかのような錯覚を妄想することで安心満足しようとする傾向があり。こうした身勝手な傲慢さこそが自律的な論理検証性を放棄してしまう大きな要因ともなっているのである。

「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などという、理論構造原理的に不可能な京都大学霊長類研究所の大嘘を鵜呑みにする大衆やマスコミも。「自分達は先天的に優秀なので、先天的な行動習性のおもむくままに行動しておけば自動的に社会性が発揮されるかも知れない。」などという身勝手で傲慢な妄想が存在するから松沢哲郎の大嘘を短絡的に鵜呑みにしてしまうのである。

こうした傲慢な妄想に基づいているからこそ、「自分だけは絶対に大丈夫。」などという過信が生ずるのであって。あたかも「先天的な優秀さが立証されておけば何も心配要らない。」という勝手な気分的安心満足のための妄想に過ぎないのである。

ヒトの先天的本能である行動バイアスというのは、祖先が死なずに済んだという「結果」でしかない。死なずに済む行動というものが常に倫理や人間性を伴う必要性もなく、嘘や暴力性を発揮した方が死なずに済むケースが存在しない証明は不可能なのである。

祖先、それこそネズミのような姿の祖先が過酷な自然界においてどのような行動を採る習性があれば死なずに済んだのかなど、もはや今更検証することなど原理的に不可能であり。ヒトが地球上で異常増殖したという結果もまた、目的があるわけではない。 そこに意識的(論理検証的目的行動選択)が介在する余地などない。

文科系大衆観念的には、先天的な本能習性の全てが自動的に何らかの目的に沿うような形で常に働く優秀な生物であるかのような錯覚によって安心満足しようとする習性があるのだが。こうした妄想錯覚に囚われ論理的に検証しなくなる性質こそが、人類がバカに陥る最大の原因なのである。

絶対的健康状態が存在しないのと同様、ヒトという種の生物に限らず生物の先天的行動習性や行動バイアスというものには絶対などというものは存在しないのだが。ヒトの大脳辺縁系というのは、その常習性によって過剰な安心の追求をしてしまうが故に論理的根拠のない妄想に溺れることによって何も考えなくなってしまうのである。

こうした、いわば「安心中毒」とも言えるバイアスに囚われることによって、ヒトは物事を論理的に検証しなくなり、詐欺師の口車に乗せられたり、カルト宗教の観念を信じ込んでしまうといった愚かさを発揮するのである。

洗脳というのは、自律的な論理検証性を心理的に拘束され、考えないことこそが安心になるという先天的な習性バイアスが引き起こす意識狭窄性の結果であり。それは実際に重大事象に至ったカルト宗教の信者に限ったことなどではなく、むしろ「普通のヒト」に普遍的に見られる盲目性と同じものなのである。

「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証できるかも知れない。」などという、原理的にも不可能な大嘘を鵜呑みにする大衆の論理検証性の欠落というのは、まさに洗脳(思考停止)状態であり。それによって気分的に安心満足するという先天的バイアスが促す「バカシーケンス」の結果なのである。

松沢哲郎は、後にチンパンジーの利他的行動は一時的なものであり、自分に利益が得られないことが判れば利他的行動はしなくなることを述べ。今度は「想像力があるから人間かも知れない。」などという、これまた論理的には根拠のない「かもしれない」予測を言い出す始末である。

想像力が短絡的に人間性の論証になどなるはずもなく。詐欺師が相手を騙す時には相手がどのような嘘に騙されるのかを想像して嘘を言うのであり、川崎の学生は「相手の仲間から仕返しをされるかも知れない」とか、「警察に捕まるかも知れない。」という妄想に基づいて殺人に至ったのである。

合理的根拠のない妄想や観念もまた、想像力の一種であり。その意味においては松沢哲郎らの妄想観念も、それを鵜呑みにする大多数の大衆やマスコミもまた妄想によって気分的安心満足に溺れている洗脳状態なのである。

清原和博が見知らぬ酔っ払いの戯言にいちいち腹を立ててストレスになっていたことも、たかが酔っ払いの言っていることを鵜呑みにするという意識の低さが引き起こす妄想錯覚に過ぎない。 居酒屋の酔っ払いが何を言おうとも、「たかが酔っ払いに過ぎない。」という論理的検証判断が伴えば、むしろ「憐れな酔っ払いが他人を悪く言うことでその場限りに満足しようとしているのだな。」と分析できれば、いちいち腹を立てる必要性などないのである。

川崎の学生殺人においても、殺人をおかした少年は「バカにされているような気がした。」などという勝手な妄想によって、勝手に腹を立てて暴力性を暴走させている。

世の中というのは広く、多数のあらゆるヒトがいる以上、自分をバカにする相手がいてもおかしくはないし。そもそも合理的根拠もなく相手をバカにするような奴であれば、のべつまくなし他者をバカにしている方が人間としての程度が低いのであって。そんなことにいちいち腹を立てる必要性自体がないのである。

そもそも他人と自分との間に順位や序列のようなものを決め付けようとすること自体が、「イヌの価値観」でしかなく。そんな価値観で頭がいっぱいになってしまう意識狭窄性こそが精神的病理である。

ヒトは大多数に迎合しておいた方が気分的に安心満足であろう。だが、そうした安心満足という脳内麻薬が促す思考バイアスこそが、思考停止を促し何も考えないバカへと陥る大きな要因なのである。

「恥ずかしい」などというのも、結局は多数派迎合性に過ぎず、多数派の価値観がバカであれば、むしろ正しいことこそが「恥ずかしい」行動として認識されることも珍しいことではない。

ヤクザにとって恥ずかしい行動とは、ヤクザをやめることである。

ISIL構成員にとって恥ずかしいこととは、暴力によって領土拡大が出来なくなることである。

川崎での学生殺人を行った少年達にとって恥ずかしいこととは、自分をバカにする相手をいちいち暴力的に威圧して外見的に服従させられないことである。

これらの「恥ずかしい」行動に、一体何の社会的価値があると言うのであろうか。

司馬遼太郎は「恥ずかしい」かどうかが重要だと説いたらしいが、流石は文系であり、論理的検証性を欠いた観念の世界の住人に過ぎず、もはや語るにも足りない。

「恥ずかしい」というのは、要するに外見的な他人からの見た目の話に過ぎない。見ている相手がバカであれば、バカな価値観で「恥ずかしい」かどうかが決定してしまうのであって。そのバカがどんなに多数であってもバカが正当化出来るわけでもないのである。

合理的説明のない一般大衆の価値観に何の疑いも持たない目先の多数派に嘲(あざけ)笑われようとも、それが人間性の否定の論証には全くならない。

その場限りのご機嫌取りを短絡的に「人間として」などと言い出すバカは珍しくはない。合理的根拠のないその場限りの満足感を得るための身勝手な主張こそが、むしろ社会を破綻に陥れる「実証不能の観念」なのである。









Ende;
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○ケヴィン:ダットン。

2016年02月13日 10時50分38秒 | 意識論関連
サイコパス(精神病質性)というのは、概ね大脳辺縁系の活動と関連性を持っている。

大脳辺縁系というのは、いわゆる動物的行動を促すメカニズムであるから、人間性を欠いた精神病質性の源でもあるのだ。

サイコパス性が高いと世間的な成功につながりやすいという研究結果があるが、世間的成功というものは現在の社会における個人的成功を述べているに過ぎず。個人が成功することが社会の持続性や安全性につながるかと言えば、むしろ貧富格差を拡大したり、持続性のない目先の利益追求にしかならないのは、本来言うまでもないことである。

「サイコパス度を上げることで自信がついたり社会的成功に近付くことが出来るかも知れません。」ケヴィン:ダットン


ケヴィン:ダットンは、「世間的成功」などという、目先の利益をエサに大衆にサイコパス性の正当性を主張しているが。それこそが大衆迎合であり、社会全体の持続可能性や安全性を意識から逸らす屁理屈であって。このように現状社会における世間的成功を目的とした話というのは、社会にとって有益な話ではなく。要するにサイコパス性を事後正当化して大衆のご機嫌取りをしているに過ぎない。

サイコパス度を測るテストの中には「ジェットコースターが好き」という項目と、「嘘をついても平気」という項目が同じスコアで扱われており、明らかにバランスを欠いたおかしな基準である。

「トロッコ問題」を挙げている点においても、死んだ人数を短絡的に倫理であるとする短絡性を無視したバカの倫理であって、こんなものは倫理の本質から乖離した言葉遊びにしかなっていない。



サイコパス性というのは、大部分が大脳辺縁系の活動量との相関が見られるので。連続殺人型か衝動殺人型かの分類と同様スペクトルであり、先天的にサイコパス性が高い場合もあり、また、一概に先天的悪人であることの証明には全くならず。犯罪や暴力性との相関も必ずしも明確にあるわけではない。

サイコパス性というのは、目先の感情や欲望に流され易い傾向性を述べたものであると言える。

目先の感情や欲望に行動が支配されていれば、自ずと社会持続性や安全性といったものへの配慮や、それに伴う自律的な社会的責任判断能力も欠如しがちである。

サイコパス性の程度がどうあれ、気分感情と行動が直結していなければ人間としての社会性は保つことが出来るが。逆にサイコパス度が低い場合においても、権威服従性を発揮してただ従順なだけでも自律的な社会的責任判断にはつながらないので、サイコパス性というのは人間としての社会性とはあまり相関がない。

そもそも衝動殺人型はサイコパス性が低いのである。

結局は、先天的サイコパス性がどうのという話よりも、人間としての社会性にとって重要なのは自律的な論理検証性(思慮の深さ)であって、目先の感情気分に流されない理性が最も重要なのであり。気分的行動バイアスという「先天的結果」だけで決まるようなものではない。


Ende;
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○池上彰ってただの嘘つきじゃねぇか。

2016年02月12日 22時33分31秒 | 意識論関連
池上彰が「ISILはイスラム帝国を復活させようとしている。」ことを取り上げているけど、こんなもんを真に受けている時点で何の考えも成立していない。

暴走族が「世界征服」だとか、オウム真理教が「最終戦争」だとか述べているのと一緒で、言うなればキチガイの戯言でしかない。

文系観念者というのは、戦争だけを特別なものとして戦争だけを取り上げておけば原因が究明出来ると考えがちだが。危険学/失敗学的な観点からは、学生によるイジメやヘイトスピーチなどの小さな事象も「ヒヤリ、ハッと」事象として取り扱うべきであり、戦争などの重大事象だけを取り上げてヒトの暴力性を分析したつもりになっているのは傲慢である。

池上彰は所詮センセーショナルな内容を取り上げて大衆人気を得ることが目的で、戦争などのヒトの危険性について本気で考えるつもりは全くない。

ISILであろうと、川崎の学生殺人であろうと共通するヒトの暴力性というものが存在するのであって、暴力者の主張を鵜呑みにしていると言うのは、言うなれば殺人犯の観念を鵜呑みにしているのと同じことであり。全く意味がない。

殺人犯などの暴力者の主張というのは基本的に身勝手な観念であり、そんな話を鵜呑みにしていてマトモな考えなど成立するわけがない。

戦争というのはヒトという種の生物が持つ暴力性における重大事象であり。戦争という重大事象に至らないまでの中小の事象を見逃しているからこそ、戦争という重大事象の原因さえも見えなくなってしまうのである。

一般大衆の多くは、刑法懲罰の判決を「解決」であると勝手に勘違いしているが。懲罰という国家権力を用いた報復を解決であると見なす短絡性が一般大衆の多くにあることの証明でもある。

危険学/失敗学では、工学的立場からの対策に終始しがちだが。「ヒト」が引き起こすあらゆる「人災」において応用可能な合理的分析に基づく再発防止策を立てる上においては、刑法懲罰制度のような「悪者探し」は排除するのが常識である。

ところが重大ではない事故以外の犯罪においては、単なる「悪者探し」としての刑法懲罰の判決だけを「解決」と見なし、それ以上の原因究明もされなければ、当然再発防止策も立てられないのである。

ISILなどというのは、要するに通り魔事件とか銃乱射事件を起こすような奴らが自分勝手な行動をするための屁理屈の拠り所にしているだけであって、ISILの主張などというのは意味がない。 通り魔が「世間に復習してやる。」などと述べたところで、そんな話に意味があろうはずがないのと同様である。 それは暴走族の「世界征服」程度の妄想でしかないからだ。

川崎での学生殺害事件というのは、ISILから比べれば小さな事象に過ぎないであろうが。集団の空気に流されて「気が大きくなってしまった。」などという多数派同調性の暴走という点においては共通する部分は非常に多いのである。

多数派に同調し、「だってみんながやっているから大丈夫。」という合理的根拠のない行動バイアスに流されているという点においては。刑法懲罰制度などという不毛な国家権力による税金の無駄遣いに何の疑問も持たない一般大衆の頭の悪さにも共通する部分でもあるのだ。

池上彰というのは一般には知られていない情報をひけらかすことで、あたかも何かの解決策でも提示している風なキャッチーなタイトルで長時間番組を垂れ流しているが。 池上彰も所詮は文科系マスコミに過ぎず、合理的分析が出来ているわけではない。

まあ、こんなことをいちいち言わなければわからない大衆の頭の悪さこそが最も重大問題なのではあるが。



Ende;
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○磁石誤飲。

2016年02月12日 09時52分54秒 | 日記
小さな子供が複数の磁石を誤飲すると、腸などを挟んでしまって手術で取り出さなければならなくなるっていう報道があったんだけど。

「脱磁」っていうワードでググったら、こんなん出た。

大きなコイルの中に特に固定することもなく置いておくだけで磁力を消すことが出来るらしいんだけど、MRIのプログラム書き換えて脱磁とか出来ないのかな。

島津製作所で何とかしてくれないかな。 って思って島津のサイトから「問い合わせ」を開いたら「サポートと購入以外メールすんな。」って書いてあったのでやめた。

MRI持ってる病院から問い合わせてくれ。


Ende;
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○塔。

2016年02月06日 01時57分06秒 | 小説
線路が敷いてあって

一方は川の傍まで延びていて、舟から何かを小さなトロッコに載せて運んだのだろう。

いくつものトロッコが川の傍に何列かに並んでいる。

「何列かに並んでいる」ということは、線路には切替ポイントがあったはずなのだが

その記憶はもう定かではない。

線路のもう一方は緩やかなカーブを描きながら30mほど進むと線路は鐵骨で出来た塔に向かって上り坂になる。

その坂というのがとんでもない角度で、45度はあろう急な坂になっていて

塔の頂上付近にも数台のトロッコが停まっている

塔に上る線路の両脇には階段があるのだが、当然これも大変急で、確か手摺りはあったはずなのだが、既に塗装ははげ落ち塔全体が真っ赤に錆びた階段を登るのはとても恐かった記憶がある。

45度はあろう急な坂の頂上に数台のトロッコが停まっているので、もしこのトロッコが走り出したらとんでもないスピードで走り出すのではないかという恐怖感もあった。 大人になって考えれば、おそらくはこの坂の部分ではトロッコはケーブルか何かで上から吊り上げられていたはずであり、坂の頂上からトロッコが暴走するような機構にはなっていないはずなのだが、当時の私は塔の上からトロッコが暴走することを想像して「どうしてこんなふうになっているのだろう?。」と不思議に思っていた。

当時の私は、この塔が何なのか知らなかったのだが。 後にこの一帯は製鐵所の跡地で、高炉に鉄鉱石か何かを供給するためのものだったらしい。

だが、その時既に高炉も周囲の建物も全て取り壊された跡で、線路と、高炉につながっていたであろう塔以外は何も遺されてはいなかった。

広い敷地は一面低い雑草が生い茂っていたが、一本だけ細い獣道のような道が踏み固められていたので、時折誰かが通っていたのではないかと思うのだが。 自分以外の誰かが歩いているのを見たことはない。




そんなことを ふと急に思い出したのだ。

Ende;
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○粘土。(アナログ造形)

2016年02月03日 13時39分53秒 | 日記
久しぶりに造形したいと思って秋葉原のヨドバシカメラに行ってみた。

○Mrクレイ 情景用

GSIクレオスがMrクレイっていうのを発売しているらしいんだけど、残念ながらヨドバシ秋葉の実店舗にはなくて、Mrクレイ情景用っていうのはあった。

んでもって、Mrクレイ情景用っていうのは、Mrクレイとは異なる物らしくて、乾燥させると耐水性を発揮するとか書いてある。

練った感じが独特で、少し固いという以外に一度表面になった面同士を接合させようとしても、いくら練っても接合面が馴染まなくて、練れば練る程クラスタ状に分離しちゃってなかなか均一になってくれないので。最初に練る作業は結構手間が掛かる。 でも粘土系材料の場合は一通り形にしたら乾燥時間が結構空くので、他の材料を乾燥させている時間に水を加えて練りまくっておけば良いとは思う。

独特の粘りがあるので、成形中にヒビ割れは出ないんだけど、接合面が消えてくれないので造形用としてはあんまり向いてない気がする。 そもそも「情景用」だし。

乾燥前の粘土状だと接着性が悪いんだけど、一旦乾燥させたものに後から盛る分には接着性は悪くない。しかも強度もそこそこあって、切削性も悪くないので、手指のような繊細なものを削り出すには良さそうな感じ。 接着方法については後述。

乾燥は若干遅い方みたい。

○ソフトファンド

名前の通り柔らかいファンドでした。

伸びが良くて乾燥後の強度もあるので今回買ってきた中では一番使いやすいと感じましたね。あと3っつくらい買ってこようかと思ってる。

ソフトなだけにコシはあんまりないので、他の素材で芯を作ってから盛るのには最適。 接着性も良い。

○プチフォルモ

フォルモも買ってきたんだけど、まだ開封していない。 プチフォルモは一般的な石粉粘土と比べると石粉成分が若干少ない感じで、多少紙粘土寄りっていう感触。 コシはソフトファンドよかあるので中空芯(後述)を作るのには重宝している。

○紙粘土

石粉成分が入っておらず、コシがないのであんまり薄造りも出来ないこともあって乾燥に時間がかかるかな。乾燥後は削ろうが水で均そうが繊維のケバがなくならないので表面仕上げが出来ない。ただ、他の素材と比べて安価なので、大物を作る時の芯くらいには使えるかも。 完全乾燥させれば強度や剛性は石粉粘土とほとんど同じかな。


○軽量粘土系(買ってすらいないが。)

Mrクレイ(造形用の方ね)なんかもそうなんだけど、軽量粘土と呼ばれるものは発泡樹脂的な材料が混ぜてあるらしくて、押すと戻ってくる弾力性があるので、おいらは基本的に避けている。 乾燥は速いらしいんだけど、乾燥後の剛性が出ないらしいのに、やたらと高価だったりもするし。 どうも造花みたいなものを一発で作るための素材らしくて、フィギュア造形には向いてないんじゃないだろうか。


*:乾燥後の接着

既に乾燥させた物に粘土を盛る場合、指先程度の少量を接着面に強くなすりつけてから盛ると乾燥後に接着性が良い。Mrクレイ情景用は乾燥後に耐水性を発揮するそうだけど、接着性は悪くなく、ナイフで削っても接着面の強度が特に悪いという傾向は見られなかった。

充分に乾燥させた紙粘土などの場合、表面になすりつけてもくっつきづらい場合があるけど。こういう時は少量の水をつけてからなすりつけてやると良いと思う。

*:中空芯

粘土造形の教科書的には、発泡スチロールを削ったものを芯にするのが一般的なんだけど。水分を透過しない素材を芯に使ってしまうと水分が芯の方に溜まってしまって乾燥に時間がかかる傾向があるので、おいらの場合はプチフォルモなどをパイプ状や半球状にしたものを芯にして、ある程度形になるまでは穴を塞がないように盛り付けている。

半球状に成形する時は、和菓子職人さんが饅頭作る時のようにつねるように延ばすと丸くなってくれるので、参考にすると良いかも。

乾燥させる時に、ただテーブルの上に置いて乾燥させると、接触している部分が乾かないとか、半球状を伏せて置いておくと中が乾かないので。 おいらの場合はスーパーで段ボールを貰って来て2cmくらいに細長く切ったものを糊でくっつけた乾燥台を使っている。 念のため言っておくけど、切る方向を間違えるとあんまり意味がないので注意。

Fig:

また、半球状の端が平らじゃないと、乾燥中に変形してきちゃうので、成形したら端はハサミで平らに切ってから伏せるように置いて乾燥させると良いよ。

成形した際にヒビ割れや隙間が残っていると、その部分から乾燥して著しく強度が低下してしまうので、成形する時にはヒビや隙間が出ないようにしておいた方が良いと思う。 芯なしで一気に形を出してしまおうとすると、どうしてもヒビ割れが生じたりするので、手順を踏んで少しずつ地道に形を近付けてゆくようにすると良い。 そうしないと仕上げ段階でいきなり鼻や指が欠けてしまったりするので悲しい。


◇追記:段ボール製乾燥台をアップデートしてみた。

段ボールを裏表に切れ目を入れて曲げ


両端を固定した。


何でもいいけどストロボ焚いたら逆に暗い。

◇続追記

アーチスタフォルモを開封したんだけど モソモソしていて滑らかさがない

もしかするとプチフォルモより悪いかも

今回買った中ではプチフォルモとソフトファンドが使い易かったと思う。

◇続・続追記

アーチスタフォルモを使っていて気付いたんだけど、ゆっくりと応力をかけるとボソボソになっちゃうんのに、手早くサササと撫でてやると表面が滑らかになる。 とはいえ、思うようには形にならないので苦手なのは同じことなんだけど。

◇続・続・続追記

その後ニューファンドっていうのを試しに買ってきたんだけど、全く接着力がないのでビビった。 むしろ型取りに使えるんじゃねぇかって勢いでくっつかないのだ。 接着面にソフトファンドをなすりつけてから盛るとくっついた。 ちょっと独特な使い心地だったよ。 単体での盛りが効かないので、細かい部品作るのにも使えそうにないし、今のところ芯くらいにしか用途が思い付かない。



Ende;
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