書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

〇Miniaturepark。

2015年02月25日 11時49分21秒 | 日記
ミニチュアパークさんってお店がちょっとわかりずらいので案内してみる。

まず中央通りから東に蔵前通りに入って二本目の路地を左折

この道入ってゆくのね。

で、一つ目の交差点から右側の3軒目がミニチュアパーク。

ストリートビューだと開店前。

開店しててもわかりずらいかも。

http://miniature-park.com/images/map.jpg


↑公式アクセスマップはオサレ感優先でよくわからない。

Ende;
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〇メモ。

2015年02月21日 23時48分19秒 | 意識論関連
陰謀論というのは自分の優位性を感じられて気持ち良い。 自分自身を論理的に検証する意識の話に大衆人気が得られないのは必然と言える。

「〇〇の陰謀である」と称して「敵」を規定し、暴力的に攻撃糾弾排除さえしておけばヒトという種の生物の脳は満足することが可能である。 その身勝手な欺瞞こそがあらゆる暴力性の原因である。

こうした暴力性を抑えるのは個人の自己客観的検証性であり、これこそが人間としての「意識」なのである。




違法かどうかが重要なのではない。 合法ドラッグや合法危険物というのもあり、「飲食店の中で客が踊っていたから店長が逮捕される」のが法律というものであって、重要なのは法律そのものじゃなくて法律の主旨。

法律の主旨を逸脱して権力を振り回すことも、ある意味国家のオカルト化であって。 法手続きそのものに意味があるわけではない。

国会原発事故調査委員会の畑村洋太郎が述べたことだが、最も重要なのは「個人が自律的に社会的責任を負うこと」であり。これは原発事故だけではなく、社会のあらゆる場面において言えることである。

違法かどうかを絶対的基準にするのは間違いであり、本来基準にすべきは社会全体の持続可能性や安全性に基づくべきものである。




Ende;
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〇ペンタックスまでもが。

2015年02月21日 14時03分23秒 | 日記
ペンタックスのサイトを開くとこうなる。

なぁんも見れない。

レノボのサイトと似た症状でオペラモバイルで開いても同じ症状。

キヤノンとかニコンとかSIGMAとか東芝とかタミヤとか価格.comは問題なく見れるので、標準的なコードでは問題ないようなので、何かよっぽど変なコード書き込んでるんではないだろうか。

パナソニックとオリンパスは最近ちょっと動作がおかしい。

Ende;
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〇自分の探しは他人から強要されて出来るもんじゃない。

2015年02月19日 14時25分07秒 | 意識論関連
 一番厄介なのは本質的主体性を持たずに他人からの評価ばっかり求めてしまった挙げ句に、安易に誉めて貰える相手に流されてISIL的な集団に取り込まれること。

 だからノーベル賞受賞者の多くは「これなら一生続けられる、そういうものを見つけなさい。」って勧めるんだけど、それって他人から強制されるものじゃなくて。 むしろ「目先の権威や多数からの評価に流されないことが重要」だってことを教えるべきなのかもしれない。

 一生賭けて続けられるような研究テーマが見つかっている人からすれば、その重要性は優先度が高いから言うんだろうけども。見つかっていない人からすれば他人から強制的に「見つけなければならない。」的に強要されても居場所を失って反って居心地が悪くなっては本末転倒。

 「好きなこと」って他人から強要されても見つかるもんじゃなくて、肩の力抜いて気長に探すべきものなんじゃないかな。

 何か強迫観念的に自分探しを強要されても、反ってやりたいことが見つからなくなってしまうのではないだろうか。その結果目先の他人からの評価に流されてしまったのでは逆効果。

 そもそも他人から何かを強要されるという形こそが、本質的な主体性を喪失する原因であって。「他人からの評価」であれ「本質的主体性」であれ、「他人から強要されている」という形が根本的に間違っているのではないだろうか。

 「本当は何がしたいのか。」なんていうのは、気持ちに余裕がなければ見つけることは出来ないものなのではないだろうか。そこを置き去りにしたまま息苦しいまでに追い詰められても、そんなもの見つからなくなるものなのではないだろうか。

 追い詰められることで周りが冷静に見えなくなるのは、むしろ必然なのではないか。

 何でもかんでも追い詰めるような「文化」こそが、本質的主体性を喪失させている原因なのかもしれない。

 本質的主体性というのは他人から求められて身につくものじゃなくて、むしろ「他人からは一切何も求められていない状態」でなければ見つからないのかもしれない。


 なので、最も重要なのは意欲の方向性が目先の権威や多数から求められているものなのか、それとも本質的主体性としての個人的意欲に基づくものなのかが、自律的に区別出来る判断力だと思う。

 特に主張すべき中身もないのに発言力欲しさに犯罪に手を染めてしまうような「暴走」が迷惑なのであって、それさえなければ何の役にも立ちそうにないことに熱中しても良いんだっていう本当の意味での「ゆとり」を、ヲヤヂ達がどれだけ持てるのかが先なのではないだろうか。

 ヲヤヂ世代というのは追い詰められて育った世代であるため、「文化」として若者を追い詰めようとしてしまう習性があるのではないだろうか。それは一種の病気なので、若者の方も「ああ、このオッサンはゆとりを持たせてもらえなかった世代なんだろうな。」的に客観的に分析することも必要なのではないかな。

 「息苦しい」状態が一番良くない。 だって生きていて楽しくないじゃん。

 楽しくなかったら何の意欲だってわかないよ。それで「本質的自主性を発揮しろ」とか言われても無理。




Ende;
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〇シンプルTwitter。

2015年02月19日 11時20分09秒 | 日記
CSS的なものが読み込まれないらしい。


これTwitterなの。

Ende;
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〇表示拡大機能。

2015年02月13日 14時10分39秒 | 日記
古いCANON製レンズを未だに死蔵しているのでミラーレス一眼とか買えば使えるのかなと思って各メーカーの取説調べてみた。

もうどれがどれだかわからんけどフジフイルムX-M1とオリンパスE-PM1とキヤノンEOS-MとパナソニックGF-6の取説から抜粋してもうた。

もしかすっと許諾みたいなもんが要るのかもしれんがアフィリエイトとかしてないので許してね。

オリンパスE-PM1



これ確かフジX-M1



パナソニックGF6だったかな



EOS-M


どこのメーカーもライブビューで拡大表示とか出来るので問題なさげ。


Ende;

フジフイルムX-M1には歪曲収差補正機能まで装備されている。どうやらツァイスライカ製マニュアルフォーカスレンズの使用を最初から想定された設計らしい。
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〇EOSの叩き売り。

2015年02月07日 12時27分01秒 | 日記
コジマのチラシから

 でも22㎜と18ー55㎜のダブルレンズって焦点距離カブってて要らない感が凄いんだけど。マウントアダプターとストロボが付属してくるってのが売りなのかな。

 でもおいらはNew FDレンズしか持ってないから意味ない。 (未だに!



関係ないけどmatch.comの広告の女の子がカワイイ。

↑画像だけなのでクリックしても何も起こらないよ。
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〇公開監獄実験。

2015年02月05日 01時58分06秒 | 意識論関連
 なぜ軍隊や自衛隊というのは個人の自律的判断を尊重しない封建的組織でなければならないのか。

 「武器を扱うからだ。」的な意見が出そうだが、武器であろうが原発であろうが高速バスであろうが旅客機であろうが危険であることに変わりはなく、武器だけが特別に封建的組織でなければ安全性が確保出来ない論理的根拠は一切存在しないのである。

 福島第一原発事故においても「最も重要なのは個人が自律的に社会的責任を負うこと」の重要性を国会事故調査委員会の畑村洋太郎が述べていたように。 軍隊のように封建的組織こそがむしろ個人の自律判断を失わせてしまい無責任さを助長することに陥ることはあっても、むしろ安全性は損なわれる一方なのである。



 結果的であれ警察が「適度に治安が悪くないと存在意義を失う。」のと同様、アメリカ軍も適度に国際社会に不安定要素がないと存在意義を失うことになりかねないだけに、むしろ率先してイスラム過激派を「育てて」いる可能性もある。

 幾つかの大学で何度か行われた監獄実験のような残虐行為というのは、軍隊の刑務所や捕虜収容施設でも簡単に生ずるものであり。ましてや軍隊のように個人の自律判断を尊重しない封建的組織が管理する刑務所であれば、残虐性もよりエスカレートするであろうことは容易に想像出来る。

 それが結果的にイスラム過激派達に憎悪を醸成してしまうことでISILのような残忍非道な組織が出来てしまうとも考えられるのである。

 何せアメリカ軍はビンラディン「容疑者」を問答無用で殺害しておいて、「正義の鉄鎚を下した」などと平気で言い張るくらいだから、これを暴挙として扱わずにイスラム過激派だけを暴力的だと非難するのは公平性に欠けると私は思う。

 ISILのバグダディ容疑者もイラクの収容所に2度投獄されているという。彼がどのような不当な扱いを受けたのかも明らかにされずに一方的に狂人扱いするのは間違いなのではないだろうか。 もちろんテロリズムなどの暴力によって物事を解決しようとするのは間違いではあるが、パレスチナの女性救急隊員がやむにやまれず自爆テロ以外に出来ることを見失うような状況に陥ったように、ISILのメンバー達を迫害した米国軍隊や、それを放置することになった国際社会にも責任の一端があるように思える。

 アブグレイブだけが特別に収容者に残忍で屈辱的行為を行ったとは考え難く、むしろ米軍刑務所の多くでイスラム教徒が(本来何の罪もない収容者も含め)迫害された可能性は高い。それでも米軍兵士達はそれを問題だとは思っていないだろう。それは日本の警官がコソコソと交通取締を行ったりするのや、司法裁判さえやっておけば犯罪の全てが「解決」すると盲目的に信じている司法役人達と同様、「与えられた命令にさえ従っておけば自律的な判断責任の全てが放棄出来るものである。」という身勝手な妄想錯覚に由来する。

 兵隊であればこう主張したがるだろう。「命懸けなんだから、仕方ない。」と。 しかし、個人が主観的に命懸けでありさえすれば社会的責任を放棄出来るなどという理屈は存在しない。 そんな屁理屈は通り魔の論理と大して違いはないからだ。




Ende;
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〇Android2.2のディスク占有量。

2015年02月04日 13時29分26秒 | 日記


えっと、2.09GBってことだな。いやちがう1.19GBだった。 2.09GBってユーザー使用領域だった。

なんでもWindows8.1だと25GBも起動ディスクを占有するらしいので、もしかするとAndroid4.4のタブレットとかの方が軽くて良かったりするのかも。

AutoDesk123d Sculpt+はWindows版がないし。

でも123d DesignのAndroid版はないのよね。


もはや自分でCADやらない方が良いのかな。 データ作成を誰かにお金支払って依頼するとか、iShade3のデータをSTLに変換してもらうとか。

何をどうすれば良いのか全然わからん。

Ende;
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〇遅かった。

2015年02月03日 17時31分37秒 | 写真
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〇ISIL類への対策。

2015年02月03日 00時20分18秒 | 意識論関連
 ISILのように暴力を用いて恐怖で世界を統治しようとする集団というのは宗教や民族国籍に依存するものではない。

 太平洋戦争時の日本においても天皇を神とみなして野蛮行為を行ったし、オウム真理教でもナチスでも同様であり、中世においては「普通」で「一般的」なものであった。

 従って米軍による空爆によって物理的にISILを絶滅させても「ヒトという種の生物」が普遍的に持つ危険性の原因究明にも再発防止策にもつながることはない。

 ISILによる戦闘員勧誘では、「共産主義も民主主義も社会を良くすることはない、だからISILこそが世界を救う。」というネガティブキャンペーンによってISILを正当化するという短絡的で論理的根拠をすっ飛ばした論法である。こうした論法は様々な暴力集団において共通した短絡性であり、気分(感情)的に満足感を与え、あたかも「それさえ成功すれば社会のあらゆる問題が解決する」かのように錯覚することが可能なのである。

 こうした短絡的解決性というのは暴力集団に限ったことではなく、「刑法懲罰を用いて法令遵守さえさせることを解決とみなす。」という一般的法治国家における「常識」にも見られるものである。


 小さな子供に対して善悪を区別するための根拠を教えることは困難であるため、刑法懲罰などの規則を用いて気分的恐怖によって短絡的に服従させる場合がある。

 これは子供自身の安全にも関わる部分があるため、物事の善悪を区別するための論理的根拠を説明することを後回しにしても優先的に用いる必要性がある場合もあるためだ。 しかし、これはあくまで「方便」であって。大人になるにつれて自律的に善悪の判断が出来るように、自分自身で「考え」られるようにしなければならないものでもある。

 法律というのは手続きであり、法令遵守というのはそれ自体は目的ではなく、あくまで目的のための手段として法律という手続きが存在することを人の多くは忘れてしまっている。 故に司法刑罰の重罰化ばかりが議論されることになるのだが、これは手段の冗長化であって「社会安全性の確立」という目的を置き去りにした暴走に過ぎない。

 凶悪犯罪や重大事故が発生した場合、「悪者」を死刑などの重罰に処しておけば被害者感情などを満足させることは簡単であろう。しかし、死ぬことをいとわぬ自暴自棄な加害者に対して死刑という抑圧がどれほどの意味を持つであろうか。

 個人が主観的に「命懸けであれば人生の一大事」だと説いたのは養老孟司である。一方で9.11のテロを長い歴史の中では「さざ波」であるとも述べており、極めてご都合主義的「解釈」が可能な論理的根拠のない話が日本でも流行した。

 「太平洋戦争で命懸けで戦った兵士がいたから現在の平和がある。」などという話も、論理的には支離滅裂で命懸けで戦争を長引かせたからこそ平和が失われたとも言えるのであり。 過去に起きた出来事と現在の社会には必ずしも相関関係など存在しない。

 過去に熾烈な戦争を繰り広げたから平和になるという論理的根拠も、統計的証拠も全くないのである。

 主観的に命懸けで何かをやりさえすれば全ての問題が解決するという論理性をすっ飛ばした行動こそが暴走を引き起こし、それこそが個人から自律的な社会的責任判断能力を喪失させ、ヘイトスピーチやISILのような暴走の最も根源的原因だと言える。


 ヒトという種の生物には先天的な社会形成習性が存在し、論理的安全性よりも観念的安心を追求する行動バイアスが存在するため。特定の集団組織の仲間内の正義に同調し、仲間以外を「敵」とみなして暴力的攻撃さえしておけば自分達の異常性も検証することも意識から外すことが可能となる。

 ISILであれ、オウムであれ、天皇陛下万歳であれ。これらの構成員達には自律的な社会的責任意識は存在していない。だからこそ特攻崩れは戦後「荒れた」のであり、彼らに社会安全性についての意識など存在しなかった証明でもあり。戦争を無為に長引かせた軍司令部も同様である。

 「自律的な社会的責任判断の喪失」というものは原発事故においても指摘されたものであり、それこそが社会を破滅へと向かわせるものである。

 社会安全性というものは特定の社会制度や体制といった「結果」を維持することで確立出来るものではなく、あくまで制度や体制に生ずる「歪み」のようなものを常に修正し続ける個人の自律を必要とするものである。なぜなら社会というものは常に変わり続けるものであり、特定の制度体制手続きさえ維持しておけば良いというような短絡的で安易なものではないからだ。

 ISILとかヘイトスピーチといった暴力集団というのは、一般的庶民の感覚に根付いた短絡性から派生したものであり。それの異常性、問題点を認識(意識)しなければ無くなることはない。

 気分的に気に入らない相手に言葉や武器で暴力を振るっておけば満足感が得られるであろう。そういう風にヒトという種の生物の脳は出来ているからである。同調する仲間がいればなおさらである。理性の働かない者にとって行動原理は安心満足であり、どのような結果が導かれるであろうかという予測を判断する責任意識は存在しない。




 ただ、厄介な点があって。先天的に論理的思考の苦手な人が存在しうるという点である。

 これは一種の知能的障害であり、障害のある人に無理強いすることも過酷で人道的に間違ったことだとも言えるからだ。

 ヒトという種の生物は、神などの誰かによって保証されているわけではなく。あくまで自然淘汰の「結果」として情動行動が「遺された」だけに過ぎない。従って自律的に論理検証判断選択することが先天的に困難な個体が一定数存在してしまうことは不可避でもある。



 しかし、こうした傾向性というのはスペクトル(無段階傾向性)であり。必ずしも何かの基準で線引き出来るようなものではないはずなので、より多くのヒトに自律的な論理検証性を持たせる方法論は存在するはずでもある。

 大多数が自律的な論理検証性を持つことが出来れば、社会安全性や持続可能性は高まるはずである。だからこそ「教育」というものが重要なのである。

 ISILにせよ、ヘイトスピーチにせよ、ナチズムや大日本帝国にせよ、これらは時代や社会といったものに「流されて」いる結果に過ぎない。こうした「流されて」いる状態こそが無意識であり、無神経さを生み出すのである。

 時代や流行に左右されることなく、自律的に「何が正しいのか。」を判断選択するという本質的自己、本質的意識といったものが働いていないからこそ、様々な「暴走」が繰り返されるのであり。これらの暴走の原因というものが自分という「ヒトという種の生物」の中にも存在し得るという自覚が必要でもある。

 ブラック企業であれ、クレーマーであれ、ヒトのあらゆる無神経さの原因は自分の異常性を認識しようとする自覚が全くないが故の結果である。

 つまり、社会を破壊するのは特定暴力組織や為政者だけではなく。むしろ一般大衆(一般エリートも含む)の無意識性によってもたらされるものなのであり、ISILのような過激思想も一般人の異常性が凝縮された形の一つに過ぎないのである。



 かくいう私も金髪DQNに対して反射的に嫌悪感を抱き差別したいという「感覚」はある。ある種の生理的嫌悪感というものが全く存在しないわけでもない。だが、個人の主観的好き嫌いを社会安全性に持ち込むべきではないことは自覚しているつもりである。

 私が個人的に美少女を見てカワイイと思うということも一種の差別である。だが、こうした主観的好き嫌い差別を社会安全性や持続可能性の話と混同するつもりはない。だから学校安全性の研究者が金髪であっても言っている内容には賛同するし、逆にどんなに美人でも言っている内容が支離滅裂なら指摘する。

 重要なのは主観的好き嫌いと社会的責任判断を明確厳密に区別するという論理検証性こそが最も重要なのであって、これがないから「人を殺してみたかったから、殺してみた。」などというバカみたいな話が出てくるのである。これは「悪ノリ投稿」の動機と基本的に同じものである。

 「〇〇してみたい。」というのは欲望であって、脳の「結果」に過ぎない。こうした欲望という「結果」を短絡的に自由意思と混同している大多数の無責任さの結果として、悪ノリ投稿的な無責任行為が蔓延するのである。

 主体的「目的」としての社会安全性や持続可能性を求める人格とは、個人に主体的意欲が不可欠である。 自分が生きていて何をしたいのかもわからず、単に死ぬのが恐いから生きているだけであれば社会的責任判断もできないのは必然的結果であろう。





Ende;
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