多数他人から承認を受けたり、必要とされれば「うれしい」と「感じる」ことが出来るであろう。
しかし、そうした「感じ」というのは個人の主観的感想に過ぎない。
「ヒトは他者から必要とされることが最大の幸福だ。」などと宗教家などは言い張るが、何が最大の幸福と感じるかは人それぞれであり、特定の宗教家が決め付けるようなことではない。
たとえ他者から評価承認されることに中毒症状的に快楽を感じるとしても、東電社内で原発の危険性を放置することが正当化できるわけでもないし、ナチス政権下のドイツでユダヤ人殺害計画書を作成し続けることが正当化できるわけでもない。
文科系特有の観念論を振り回せば、あたかも先天的に組み込まれた幸福(快楽)を基準にした行動バイアスに従って個人的な快楽を追求することが正当化できるわけではないのである。
◇
ヘイトスピーチを行う者というのは、暴力的に怒鳴り散らすことで得られる快感を動物行動的に「学習」してしまっているために。差別排除にとって都合の良い情報だけを多数枚挙するようになる。
彼らは仲間内で同じ観念を共有することで、仲間内での評価承認が得られることも、差別中毒に拍車をかけている。
一般人の多くが処罰や謝罪を「解決」か何かと勝手に錯覚して、刑法懲罰などという事実上具体的には社会にとってクソの役にも立たない制度に依存しているのも、処罰感情さえ満足させてしまえば脳が満足してしまうことで解決だと錯覚しているからである。
処罰感情というのは、それ程に脳にとって快楽を感じるのである。
主観的な快楽が促す中毒症状によって、客観性を持った論理検証性が失われてしまうことがあるのだ。
そこで重要となるのが主観的快楽というものの取り扱い方法論である。
ノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏は、「これなら一生続けることが出来る、そういうものを見つけなさい。 そしてそれを探すには、ある程度自分でやってみないとわからない。」と述べている。
これを曲解すれば、ヘイトスピーチを生涯を賭けるに値する社会的使命か何かと勘違いすることも可能である。
小柴氏の発言の真意とは、他者からの評価承認に依らない自分自身の個人的で主観的な楽しみを持つことであり。それによって個人的で主観的な中毒性を自己の内部で消費することが可能になり。客観的な論理検証性を失わずに済むことが、一人の人間として社会的に価値があるという意味である。
要約すれば、「主観的快楽は主観的に消費しておけ。」ということになる。
主観的快楽を社会(他者)に要求するからこそ、自律的な社会的責任を負わなくなるのであって。それこそが社会にとって最も有害なのである。
◇
承認欲求中毒の場合、他人からの評価承認という、他者から与えられる脳への報酬ばかりを追求しがちで、個人的で主観的に楽しいと感じることが出来て他者からの評価承認を必要としない純粋行為を探すことを拒絶しがちでもある。
こうした拒絶は、いわば評価承認という快楽を棄てることに対する拒絶反応であり。麻薬中毒患者が麻薬に執着することと構造的には同じものなのである。
個人的楽しみとしての純粋行為のことを、「自慰的だ。」などと形容する者もいるが。それなら他者からの評価承認中毒などというものは「他慰的」であり。いうなれば「全裸コートの変態ヲヤヂ」のようなものである。だからこそナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官は殺害計画書を作成することに中毒になったのである。
「自分の快楽くらいは自分でなんとかしておく。」のが大人であり、人間性の素でもあるのだ。
危険学者の畑村洋太郎氏は、社会の安全にとって最も重要なことは、「自律的に社会的責任を負うこと。」であると述べている。 この言葉の要は、「自律的」であることであり。他者からの評価承認という環境依存性に頼らない自発的思考が必要不可欠なのである。
◇
麻薬中毒患者の治療は簡単ではない。そう考えると、他者からの評価承認中毒患者の治療も同様であろう。そこに差別中毒や処罰中毒が重なればなをのことであろう。
社会的負担を考えれば、そうした中毒症状なんぞ「自分で何とか処理しとけよ。」というのがおいらの感想である。しかし、子供のうちから大人の命令に服従することばかりを要求されて育てば、自律的に物事を判断する能力が失われるのも必然であり。教育において人工的な権威を振り回し「規範」と称して他律強制的に子供の行動を制御しようとするのは、最終的には社会安全性をも脅かす非常に無責任な教育方針なのである。
伊勢崎賢治氏が述べていた言葉に、「戦争しか知らずに育った子供は、戦争をすることしか出来なくなってしまう。(要約)」というのがある。
自発的に物事を判断することを知らずに育った子供が、自律的に社会的責任を負わなくなるのも必然である。
自分で判断するには知識情報量も、判断方法も、ましてや感情から行動を切り離すことにも慣れていない幼児期であれば、「規範」意識のように服従させておく必要性もあるが。徐々に大人になるにつれて少しずつ自発的意志を尊重し、最終的には自律的に何が正しいことなのかを判断出来るように育てるのが、子供に対しての大人の義務である。 これをやらないというのは、社会安全性を蔑ろにするということでもあり、人間として劣悪という意味でもあるのだ。
◇
尾木直樹ママが述べていたことなのだが、「悪いことをした子供を叱ったら、喜んでしまって。わけがわからない。」という事例があったという。
悪いことをした子供を叱ると、子供が喜ぶという事例は、意外と少なくない。
おいらに異常なまでに毎日怒鳴り散らしてくるキチガイ同級生がいたのだが、ある日おいらがぶちギレて怒鳴り返したら、翌日から急においらの顔を見るなり、嬉しそうな顔で「おはようございます。」などと挨拶をしてきたことがある。
これらの事例と共通する習性は、イヌにも見られ。狂暴で言うことをきかないイヌに対して、飼い主がボスであること、服従する対象であることをわからせるような訓練をすると、急に服従するようになるのだ。
こうした訓練では、イヌが勝手な方向に歩こうとすると、飼い主はわざと違う方向にリードを引っ張るなどして、イヌの自主性を意図的に失わせ、飼い主に服従することを強要することで。イヌは飼い主に対して「上」という順位を認識することで、服従することに快楽を覚えてシッポを振るようになる。
こうした、イヌに見られる服従性というものは、ヒトにおいても(個人差はあるものの)、似たような順位欲として発現するケースが見られるのだ。
イヌにとって服従はアヘンである。これは服従中毒のことである。
先天的に組み込まれた行動バイアスのままに、組織集団内部で服従することに快楽を感じる相手を見つけるために、他人に自分との順位付けをしなくてはいられない者というのが時折見られる。
こうした行動習性は、自己客観性があれば、自分がどれだけ卑しいのかを理解することは可能なはずだが。それが抜け落ちている者にとっては、脳が促す行動バイアスに逆らうことも出来ずに。とにかく他人に対して自分より「上」か「下」かといった順位を勝手に決定し、その順位に基づいて下と見なした相手に対して、あたかもシツケの悪い小型犬のようにキャンキャン怒鳴り散らしていなければいられないように陥るのである。
こうした行動習性がヒトにも存在するために、差別排除というのは異常暴走するのである。
差別排除という点においては、犯罪や過失を犯した相手に対して処罰や謝罪で「解決」とみなす一般人の「感覚」も、構造的にはさしたる違いがない。
間違いというのは誰でも犯す可能性があるものであって、たまたま間違えた相手を「下」と見なして処罰感情をぶちまけ、気分的に安心満足して「解決」だと見なしているというのは。 「自分も同じヒトである以上、同じ過ちを犯す可能性もあり。再発防止のためにはどういった対策をすべきなのか。」という論理的「考え」が存在していない傲慢に基づいた観念に過ぎないのである。
間違えを犯した者を処罰しておけば、その場限りに主観的満足は得られるであろう。ヒトの脳とはそういう風に出来ているからである。しかし、それは「結果」であって、意識的に選択した「目的」などではないことを、多くの人達は認識していない。 だから処罰を解決だと妄想して満足してしまっているのである。
こうした妄想による満足というのは、社会安全性にとってクソの役にも立たないばかりか、再発防止策を蔑ろにする社会的には極めて無責任なものであるということにも、また認識が働かないように導くのである。
処罰は感情論であって、解決策ではない。これは危険学や失敗学的には常識である。
何か重大事象が発生する度に、悪者探しに邁進し。「ヒトが間違える論理的原因究明」を放棄するという、最も根本的な間違いを人類は犯して来たのである。
それが、どれだけ社会的に無責任かは既に述べた。
自分の無責任を棚上げにしておいて、気分感情のままに「悪者探ししかしたくない。」というのであれば、それはヘイトスピーチに邁進している者達とさしたる違いはないのである。
そりゃ、社会安全性が失われて文句は言えないだろ。
Ende;
しかし、そうした「感じ」というのは個人の主観的感想に過ぎない。
「ヒトは他者から必要とされることが最大の幸福だ。」などと宗教家などは言い張るが、何が最大の幸福と感じるかは人それぞれであり、特定の宗教家が決め付けるようなことではない。
たとえ他者から評価承認されることに中毒症状的に快楽を感じるとしても、東電社内で原発の危険性を放置することが正当化できるわけでもないし、ナチス政権下のドイツでユダヤ人殺害計画書を作成し続けることが正当化できるわけでもない。
文科系特有の観念論を振り回せば、あたかも先天的に組み込まれた幸福(快楽)を基準にした行動バイアスに従って個人的な快楽を追求することが正当化できるわけではないのである。
◇
ヘイトスピーチを行う者というのは、暴力的に怒鳴り散らすことで得られる快感を動物行動的に「学習」してしまっているために。差別排除にとって都合の良い情報だけを多数枚挙するようになる。
彼らは仲間内で同じ観念を共有することで、仲間内での評価承認が得られることも、差別中毒に拍車をかけている。
一般人の多くが処罰や謝罪を「解決」か何かと勝手に錯覚して、刑法懲罰などという事実上具体的には社会にとってクソの役にも立たない制度に依存しているのも、処罰感情さえ満足させてしまえば脳が満足してしまうことで解決だと錯覚しているからである。
処罰感情というのは、それ程に脳にとって快楽を感じるのである。
主観的な快楽が促す中毒症状によって、客観性を持った論理検証性が失われてしまうことがあるのだ。
そこで重要となるのが主観的快楽というものの取り扱い方法論である。
ノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏は、「これなら一生続けることが出来る、そういうものを見つけなさい。 そしてそれを探すには、ある程度自分でやってみないとわからない。」と述べている。
これを曲解すれば、ヘイトスピーチを生涯を賭けるに値する社会的使命か何かと勘違いすることも可能である。
小柴氏の発言の真意とは、他者からの評価承認に依らない自分自身の個人的で主観的な楽しみを持つことであり。それによって個人的で主観的な中毒性を自己の内部で消費することが可能になり。客観的な論理検証性を失わずに済むことが、一人の人間として社会的に価値があるという意味である。
要約すれば、「主観的快楽は主観的に消費しておけ。」ということになる。
主観的快楽を社会(他者)に要求するからこそ、自律的な社会的責任を負わなくなるのであって。それこそが社会にとって最も有害なのである。
◇
承認欲求中毒の場合、他人からの評価承認という、他者から与えられる脳への報酬ばかりを追求しがちで、個人的で主観的に楽しいと感じることが出来て他者からの評価承認を必要としない純粋行為を探すことを拒絶しがちでもある。
こうした拒絶は、いわば評価承認という快楽を棄てることに対する拒絶反応であり。麻薬中毒患者が麻薬に執着することと構造的には同じものなのである。
個人的楽しみとしての純粋行為のことを、「自慰的だ。」などと形容する者もいるが。それなら他者からの評価承認中毒などというものは「他慰的」であり。いうなれば「全裸コートの変態ヲヤヂ」のようなものである。だからこそナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官は殺害計画書を作成することに中毒になったのである。
「自分の快楽くらいは自分でなんとかしておく。」のが大人であり、人間性の素でもあるのだ。
危険学者の畑村洋太郎氏は、社会の安全にとって最も重要なことは、「自律的に社会的責任を負うこと。」であると述べている。 この言葉の要は、「自律的」であることであり。他者からの評価承認という環境依存性に頼らない自発的思考が必要不可欠なのである。
◇
麻薬中毒患者の治療は簡単ではない。そう考えると、他者からの評価承認中毒患者の治療も同様であろう。そこに差別中毒や処罰中毒が重なればなをのことであろう。
社会的負担を考えれば、そうした中毒症状なんぞ「自分で何とか処理しとけよ。」というのがおいらの感想である。しかし、子供のうちから大人の命令に服従することばかりを要求されて育てば、自律的に物事を判断する能力が失われるのも必然であり。教育において人工的な権威を振り回し「規範」と称して他律強制的に子供の行動を制御しようとするのは、最終的には社会安全性をも脅かす非常に無責任な教育方針なのである。
伊勢崎賢治氏が述べていた言葉に、「戦争しか知らずに育った子供は、戦争をすることしか出来なくなってしまう。(要約)」というのがある。
自発的に物事を判断することを知らずに育った子供が、自律的に社会的責任を負わなくなるのも必然である。
自分で判断するには知識情報量も、判断方法も、ましてや感情から行動を切り離すことにも慣れていない幼児期であれば、「規範」意識のように服従させておく必要性もあるが。徐々に大人になるにつれて少しずつ自発的意志を尊重し、最終的には自律的に何が正しいことなのかを判断出来るように育てるのが、子供に対しての大人の義務である。 これをやらないというのは、社会安全性を蔑ろにするということでもあり、人間として劣悪という意味でもあるのだ。
◇
尾木直樹ママが述べていたことなのだが、「悪いことをした子供を叱ったら、喜んでしまって。わけがわからない。」という事例があったという。
悪いことをした子供を叱ると、子供が喜ぶという事例は、意外と少なくない。
おいらに異常なまでに毎日怒鳴り散らしてくるキチガイ同級生がいたのだが、ある日おいらがぶちギレて怒鳴り返したら、翌日から急においらの顔を見るなり、嬉しそうな顔で「おはようございます。」などと挨拶をしてきたことがある。
これらの事例と共通する習性は、イヌにも見られ。狂暴で言うことをきかないイヌに対して、飼い主がボスであること、服従する対象であることをわからせるような訓練をすると、急に服従するようになるのだ。
こうした訓練では、イヌが勝手な方向に歩こうとすると、飼い主はわざと違う方向にリードを引っ張るなどして、イヌの自主性を意図的に失わせ、飼い主に服従することを強要することで。イヌは飼い主に対して「上」という順位を認識することで、服従することに快楽を覚えてシッポを振るようになる。
こうした、イヌに見られる服従性というものは、ヒトにおいても(個人差はあるものの)、似たような順位欲として発現するケースが見られるのだ。
イヌにとって服従はアヘンである。これは服従中毒のことである。
先天的に組み込まれた行動バイアスのままに、組織集団内部で服従することに快楽を感じる相手を見つけるために、他人に自分との順位付けをしなくてはいられない者というのが時折見られる。
こうした行動習性は、自己客観性があれば、自分がどれだけ卑しいのかを理解することは可能なはずだが。それが抜け落ちている者にとっては、脳が促す行動バイアスに逆らうことも出来ずに。とにかく他人に対して自分より「上」か「下」かといった順位を勝手に決定し、その順位に基づいて下と見なした相手に対して、あたかもシツケの悪い小型犬のようにキャンキャン怒鳴り散らしていなければいられないように陥るのである。
こうした行動習性がヒトにも存在するために、差別排除というのは異常暴走するのである。
差別排除という点においては、犯罪や過失を犯した相手に対して処罰や謝罪で「解決」とみなす一般人の「感覚」も、構造的にはさしたる違いがない。
間違いというのは誰でも犯す可能性があるものであって、たまたま間違えた相手を「下」と見なして処罰感情をぶちまけ、気分的に安心満足して「解決」だと見なしているというのは。 「自分も同じヒトである以上、同じ過ちを犯す可能性もあり。再発防止のためにはどういった対策をすべきなのか。」という論理的「考え」が存在していない傲慢に基づいた観念に過ぎないのである。
間違えを犯した者を処罰しておけば、その場限りに主観的満足は得られるであろう。ヒトの脳とはそういう風に出来ているからである。しかし、それは「結果」であって、意識的に選択した「目的」などではないことを、多くの人達は認識していない。 だから処罰を解決だと妄想して満足してしまっているのである。
こうした妄想による満足というのは、社会安全性にとってクソの役にも立たないばかりか、再発防止策を蔑ろにする社会的には極めて無責任なものであるということにも、また認識が働かないように導くのである。
処罰は感情論であって、解決策ではない。これは危険学や失敗学的には常識である。
何か重大事象が発生する度に、悪者探しに邁進し。「ヒトが間違える論理的原因究明」を放棄するという、最も根本的な間違いを人類は犯して来たのである。
それが、どれだけ社会的に無責任かは既に述べた。
自分の無責任を棚上げにしておいて、気分感情のままに「悪者探ししかしたくない。」というのであれば、それはヘイトスピーチに邁進している者達とさしたる違いはないのである。
そりゃ、社会安全性が失われて文句は言えないだろ。
Ende;