書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○処罰は感情論に過ぎない。

2015年05月31日 11時03分39秒 | 意識論関連
多数他人から承認を受けたり、必要とされれば「うれしい」と「感じる」ことが出来るであろう。

しかし、そうした「感じ」というのは個人の主観的感想に過ぎない。

「ヒトは他者から必要とされることが最大の幸福だ。」などと宗教家などは言い張るが、何が最大の幸福と感じるかは人それぞれであり、特定の宗教家が決め付けるようなことではない。

たとえ他者から評価承認されることに中毒症状的に快楽を感じるとしても、東電社内で原発の危険性を放置することが正当化できるわけでもないし、ナチス政権下のドイツでユダヤ人殺害計画書を作成し続けることが正当化できるわけでもない。

文科系特有の観念論を振り回せば、あたかも先天的に組み込まれた幸福(快楽)を基準にした行動バイアスに従って個人的な快楽を追求することが正当化できるわけではないのである。



ヘイトスピーチを行う者というのは、暴力的に怒鳴り散らすことで得られる快感を動物行動的に「学習」してしまっているために。差別排除にとって都合の良い情報だけを多数枚挙するようになる。

彼らは仲間内で同じ観念を共有することで、仲間内での評価承認が得られることも、差別中毒に拍車をかけている。

一般人の多くが処罰や謝罪を「解決」か何かと勝手に錯覚して、刑法懲罰などという事実上具体的には社会にとってクソの役にも立たない制度に依存しているのも、処罰感情さえ満足させてしまえば脳が満足してしまうことで解決だと錯覚しているからである。

処罰感情というのは、それ程に脳にとって快楽を感じるのである。

主観的な快楽が促す中毒症状によって、客観性を持った論理検証性が失われてしまうことがあるのだ。

そこで重要となるのが主観的快楽というものの取り扱い方法論である。

ノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏は、「これなら一生続けることが出来る、そういうものを見つけなさい。 そしてそれを探すには、ある程度自分でやってみないとわからない。」と述べている。

これを曲解すれば、ヘイトスピーチを生涯を賭けるに値する社会的使命か何かと勘違いすることも可能である。

小柴氏の発言の真意とは、他者からの評価承認に依らない自分自身の個人的で主観的な楽しみを持つことであり。それによって個人的で主観的な中毒性を自己の内部で消費することが可能になり。客観的な論理検証性を失わずに済むことが、一人の人間として社会的に価値があるという意味である。

要約すれば、「主観的快楽は主観的に消費しておけ。」ということになる。

主観的快楽を社会(他者)に要求するからこそ、自律的な社会的責任を負わなくなるのであって。それこそが社会にとって最も有害なのである。



承認欲求中毒の場合、他人からの評価承認という、他者から与えられる脳への報酬ばかりを追求しがちで、個人的で主観的に楽しいと感じることが出来て他者からの評価承認を必要としない純粋行為を探すことを拒絶しがちでもある。

こうした拒絶は、いわば評価承認という快楽を棄てることに対する拒絶反応であり。麻薬中毒患者が麻薬に執着することと構造的には同じものなのである。

個人的楽しみとしての純粋行為のことを、「自慰的だ。」などと形容する者もいるが。それなら他者からの評価承認中毒などというものは「他慰的」であり。いうなれば「全裸コートの変態ヲヤヂ」のようなものである。だからこそナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官は殺害計画書を作成することに中毒になったのである。

「自分の快楽くらいは自分でなんとかしておく。」のが大人であり、人間性の素でもあるのだ。

危険学者の畑村洋太郎氏は、社会の安全にとって最も重要なことは、「自律的に社会的責任を負うこと。」であると述べている。 この言葉の要は、「自律的」であることであり。他者からの評価承認という環境依存性に頼らない自発的思考が必要不可欠なのである。



麻薬中毒患者の治療は簡単ではない。そう考えると、他者からの評価承認中毒患者の治療も同様であろう。そこに差別中毒や処罰中毒が重なればなをのことであろう。

社会的負担を考えれば、そうした中毒症状なんぞ「自分で何とか処理しとけよ。」というのがおいらの感想である。しかし、子供のうちから大人の命令に服従することばかりを要求されて育てば、自律的に物事を判断する能力が失われるのも必然であり。教育において人工的な権威を振り回し「規範」と称して他律強制的に子供の行動を制御しようとするのは、最終的には社会安全性をも脅かす非常に無責任な教育方針なのである。

伊勢崎賢治氏が述べていた言葉に、「戦争しか知らずに育った子供は、戦争をすることしか出来なくなってしまう。(要約)」というのがある。

自発的に物事を判断することを知らずに育った子供が、自律的に社会的責任を負わなくなるのも必然である。

自分で判断するには知識情報量も、判断方法も、ましてや感情から行動を切り離すことにも慣れていない幼児期であれば、「規範」意識のように服従させておく必要性もあるが。徐々に大人になるにつれて少しずつ自発的意志を尊重し、最終的には自律的に何が正しいことなのかを判断出来るように育てるのが、子供に対しての大人の義務である。 これをやらないというのは、社会安全性を蔑ろにするということでもあり、人間として劣悪という意味でもあるのだ。



尾木直樹ママが述べていたことなのだが、「悪いことをした子供を叱ったら、喜んでしまって。わけがわからない。」という事例があったという。

悪いことをした子供を叱ると、子供が喜ぶという事例は、意外と少なくない。

おいらに異常なまでに毎日怒鳴り散らしてくるキチガイ同級生がいたのだが、ある日おいらがぶちギレて怒鳴り返したら、翌日から急においらの顔を見るなり、嬉しそうな顔で「おはようございます。」などと挨拶をしてきたことがある。

これらの事例と共通する習性は、イヌにも見られ。狂暴で言うことをきかないイヌに対して、飼い主がボスであること、服従する対象であることをわからせるような訓練をすると、急に服従するようになるのだ。

こうした訓練では、イヌが勝手な方向に歩こうとすると、飼い主はわざと違う方向にリードを引っ張るなどして、イヌの自主性を意図的に失わせ、飼い主に服従することを強要することで。イヌは飼い主に対して「上」という順位を認識することで、服従することに快楽を覚えてシッポを振るようになる。

こうした、イヌに見られる服従性というものは、ヒトにおいても(個人差はあるものの)、似たような順位欲として発現するケースが見られるのだ。

イヌにとって服従はアヘンである。これは服従中毒のことである。

先天的に組み込まれた行動バイアスのままに、組織集団内部で服従することに快楽を感じる相手を見つけるために、他人に自分との順位付けをしなくてはいられない者というのが時折見られる。

こうした行動習性は、自己客観性があれば、自分がどれだけ卑しいのかを理解することは可能なはずだが。それが抜け落ちている者にとっては、脳が促す行動バイアスに逆らうことも出来ずに。とにかく他人に対して自分より「上」か「下」かといった順位を勝手に決定し、その順位に基づいて下と見なした相手に対して、あたかもシツケの悪い小型犬のようにキャンキャン怒鳴り散らしていなければいられないように陥るのである。

こうした行動習性がヒトにも存在するために、差別排除というのは異常暴走するのである。

差別排除という点においては、犯罪や過失を犯した相手に対して処罰や謝罪で「解決」とみなす一般人の「感覚」も、構造的にはさしたる違いがない。

間違いというのは誰でも犯す可能性があるものであって、たまたま間違えた相手を「下」と見なして処罰感情をぶちまけ、気分的に安心満足して「解決」だと見なしているというのは。 「自分も同じヒトである以上、同じ過ちを犯す可能性もあり。再発防止のためにはどういった対策をすべきなのか。」という論理的「考え」が存在していない傲慢に基づいた観念に過ぎないのである。

間違えを犯した者を処罰しておけば、その場限りに主観的満足は得られるであろう。ヒトの脳とはそういう風に出来ているからである。しかし、それは「結果」であって、意識的に選択した「目的」などではないことを、多くの人達は認識していない。 だから処罰を解決だと妄想して満足してしまっているのである。

こうした妄想による満足というのは、社会安全性にとってクソの役にも立たないばかりか、再発防止策を蔑ろにする社会的には極めて無責任なものであるということにも、また認識が働かないように導くのである。

処罰は感情論であって、解決策ではない。これは危険学や失敗学的には常識である。

何か重大事象が発生する度に、悪者探しに邁進し。「ヒトが間違える論理的原因究明」を放棄するという、最も根本的な間違いを人類は犯して来たのである。

それが、どれだけ社会的に無責任かは既に述べた。

自分の無責任を棚上げにしておいて、気分感情のままに「悪者探ししかしたくない。」というのであれば、それはヘイトスピーチに邁進している者達とさしたる違いはないのである。

そりゃ、社会安全性が失われて文句は言えないだろ。



Ende;
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○保守的?。

2015年05月30日 10時29分52秒 | 意識論関連
ちょっと引っ掛かる部分があったので、補足。


自然選択 の大部分が現状を維持する方向に働いており、したがって、進化というのはきわめて保守的な性質をもつのです。

布山 喜章 (ふやま よしあき) 進化をめぐるさまざまな誤解 より。



現在の自然環境というのは、過去の地球環境の変化と較べれば安定性が高いため。結果的に進化(変化)が環境適応にとってあまり有利に働かないため、外見的に保守的に「見える」のであって。進化が常に保守的であることの証明にはなっていません。

ヒトの体内で菌類が薬剤耐性を持つ過程というのは、いわば環境の激変状態にさらされている状態であるために起こるのであり。変化の多様性というのは環境激変の際にたまたま生き残れた生物種にとっては必要な性質だった結果であり。菌類やウイルスのように増殖能力の高い種程変異性が高く、「保守的」とは言えません。

増殖能力や繁殖能力の高い種の生物の場合、変異によって次世代の何割かが生存に適さないとしても、結果的には変異性が大きくても種が保存されるためには問題を生じず、時折発生する自然環境の激変にも適応することが可能であるため、結果的に遺された性質だと言えます。


◇ こっからは補足というよか、そこから発展したおいらの考えだけど。


生物は下等なものから次第に高等なものに進化してきたというもう一つの誤解がもとになり、さらに高等な生物は下等な生物より優れているのだろうという人間の勝手な思い込みがあるからでしょう。

生物種に対して「下等」などの順位付けをしたがることも、本能的な社会形成習性が促す順位欲が作用していると考えられる。

「勝手な思い込み」に基づいた論証であっても、「思い込み」という固定観念を満足させられると、そこで論理検証性が停止してしまう性質が「ヒト」の脳にはあり。こうした性質は他の様々な誤解においても見られる原因です。

ヒトは「長い間」とか「多数」という事柄に対して、観念的な安心感や満足感を感じるようになる性質があります。そのため、どんなに論理的に間違っていても、ある種中毒のように刷り込まれた観念に執着しがちなのです。



Ende;
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○感受性。

2015年05月29日 21時42分15秒 | 意識論関連
「感受性=人間性」という方程式も間違いである。

ヘイトスピーチを行っているヒトも、その「感受性」ゆえに「悔しい」だの「ズルい」といった感情に基づいて行っているのであって。「感受性」の全てが常に人間性の源になっているわけではない。

「感受性」や「共感性」といったものは、多数派同調バイアスをも生み出すものであり。イジメや差別の大きな要因でもある。

特殊詐欺の類というのは「感受性」を利用して被害者の思考を停止させるのであって、「感受性」というのは大脳辺縁系に先天的に組み込まれた条件反射に過ぎない。それゆえに同じ「感受性」を多くの被害者に共通して応用することが可能なのである。



権威への服従性というものも、ヒトという種の生物の先天的「感受性」が作り出すものであり。航空機事故においても権威への服従性が原因で起きた重大事故というのは大変多い。

航空機操縦士という、いわば学力も高く、冷静さも持ち合わせたエリートであっても。ヒトという種の生物が持つ先天的「感受性」が作り出した権威服従性によって重大な過失を犯すことがある。 このことから考えても、一般的で平凡な人であれば、感受性というものが促す行動バイアスによって重大な過失を犯すことは、むしろ「普通の出来事」だと考えるべきなのである。



振り込め詐欺被害者に対して「普通は引っ掛からない」とか「冷静に考えれば騙されない。」といった誹謗中傷があるという。

「冷静に考えれば騙されない。」というが、詐欺師は冷静さを失わせるように追い込む方法論を知っており。「冷静に考えれば…」という前提で論ずること自体が間違っている。

そもそも、マイケル:サンデルの講義も含めて、世の中のあらゆる物事を冷静に検証しているヒトが一体どれだけいると思っているのであろうか。 進化生物学におけるこじつけ論証であっても、何十年にも渡って誰も気付かず。ナチズムによる虐殺の根拠とした優生学に対する論理反証すら誰もしなかったのである。

ゆえに、「誰であっても騙される可能性はある。」と考えるべきであって。むしろ「普通は引っ掛からない」などという話も、単に騙された経験がない者の傲慢に過ぎず。それは特殊詐欺の被害者の多くが騙される前には「思って」いたことでもある。

「思って」いるからこそ、感受性なのであり。騙された経験のない者に普遍的に見られる感受性もまた、振り込め詐欺被害者への誹謗中傷の原因でもある。

その点においては、「冷静に考えれば…」などという誹謗中傷を述べている者の脳こそに冷静な論理検証性が欠如している証明でもあるのだ。



ヒトという種の生物の脳というものは、冷静に論理検証することには先天的に向いておらず、「思い」という感受性こそが様々な「人災」の大きな要因となっていることを認識すべきである。

感受性も含めてヒトの先天的な行動や思考のバイアスというものを、あたかも「ヒトという種の生物=人間性」といった方程式をこじつけて事後正当化しておけば、あたかも自分という生物が先天的に優秀性の論証か何かと勝手に妄想して安心満足することは、非常に簡単なことである。 だが、それこそが「冷静な考え(論理検証)」を阻害するのである。


Ende;
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○子供の部屋。

2015年05月28日 13時45分45秒 | 日記
お子さんのお部屋が散らかってしまうっていうのには何らかの原因があると思うんですよね。なので行政代執行的にお片付けしても、再発防止対策をちゃんとしないと同じように散らかしてしまうのではないかと思います。

例えば、収納場所があるのに片付けない場合であれば、「出したものは使い終わったら片付ける。」といった癖をつけるように教えるとか。

そもそも収納が子供にとって使い易いものになっていないから出すのも仕舞うのも億劫になっているのであれば、収納の仕方から一緒に考えてあげるとか。

棄てるべきものを棄てずにほったらかしてしまうのであれば、「なぜ棄てないの?。」の心理的理由とかも冷静に聞いてあげるようにして欲しいですね。

洗濯物をほったらかしてしまうといったケースの場合は、子供自身に洗濯物を手洗いで洗濯して脱水して干すといったところまで丁寧に教えたり手伝ってあげるようにするなどして、子供が持っている自主性を引き出してあげられれば、ほっといても片付けられるようになるんだと思うんです。

親御さんだと日々の生活も忙しくて、どうしても強制代執行的に親御さんが片付けてしまいがちなのかも知れませんが、それだけだとお子さんは自分で片付けることの意味とか価値を知らずに育ってしまうことにもなるので、自立生活をするときに苦労するのでかわいそうな気がします。

あと、天才タイプの人の場合。他人から見て乱雑に見える部屋であっても当人的に全部把握している場合というのもあるそうなので、「当人にとって使いやすい部屋。」であることを目的として考えた方が良いのであって。「他人からみて恥ずかしい。」といった外見とか見栄を動機にしないほうが良いと思います。

でもまあ、こういった話は尾木直樹ママの著作とかを読んだ方が良いかもしれませんね。



甥っ子が雑誌付録のペーパークラフトを、親に「作って」と頼むと親は自分がペーパークラフトが好きなもんだから全部作って与えてたんですね。

そしたら、その作ったものを全然大切にしない。

これは作ったペーパークラフトに限らず、何でも大切にしないように育ってしまった。

ある日、親が忙しくてペーパークラフトを作っている時間がないとの理由でおいらに作って貰えと親に言われたそうで、ペーパークラフトを持ってきたんですね。

で、おいらは「一緒に作ろう」って勧めたら、最初は「出来ない」と拒絶したんですけど、作り方を教えて難しいところは手伝ってあげながら一緒に何日もかけて作ったんです。

そしたら、その自作のペーパークラフトはとても大切にするようになって。それ以外のものも大切にするようになったんです。

子供が何かを出来るようにするために、懇切丁寧に教え手伝うというのは時間も手間もかかるんですけど。一度子供の自主性を引き出せれば、その後がほったらかしに出来るので、結果的には手間も減るんではないかなと思います。



日々ちょっとずつで良いと思うので、「子供自身が使いやすい部屋」ってどういうのなのかを一緒に考えてあげると良いんじゃないかと思うんですよね。

ただ単に「親から強制的に与えられた部屋」ではなくて、「子供自身が自分の所有として大切にしたい。」と思える部屋作りを目指してあげると良いんだと思うんです。





Ende;
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あちこちおかしい。

2015年05月28日 10時50分05秒 | 日記

いきなりリプライ欄が消えるという。



スタイルシート的なものがどっかに飛ぶ
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○ROOVICE (ルーヴィス。

2015年05月27日 10時33分11秒 | 日記
特定空き家問題に伴って新しいリフォームサービスが展開されているらしいんだよね。

マンションや戸建住宅の再生、賃貸物件の空室対策なら、リノベーション設計・施工の ROOVICE (ルーヴィス)東京・神奈川・横浜のリノベーション会社

↑これ、WBSで紹介してた。

ホームページ見てもあんまり情報がないんだけど、空き家をリフォームして賃貸料から毎月家賃収入も得られて、しかも6年ぐらいすると丸々自分の所有物件として戻る契約なんだそうなので、賃貸料収入が丸々入る的なこと言ってた。

借り手がつくような物件じゃないと難しいんだろうけど、その辺はまあ要相談なんでしょうね。



役所もこういう事業を積極的に推進すべきであって、固定資産税を上げるだとかいう脅迫的措置を行政がするのはいかがなもんかと思う。

Ende;
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○危険性の放置。

2015年05月26日 10時54分20秒 | 意識論関連
従来の進化生物学における結果と目的を混同したこじつけ論法は、ナチズムがユダヤ人虐殺の理由として挙げた優生学の否定を妨げて来ました。

進化生物学的なこじつけ論法が間違いであることは、最近になって浸透してきたようですが、それは単なる進化生物学上だけでの問題ではなく、倫理や人間性の問題や、社会性とは何かといった話までをも撹乱する大変危険な問題をも孕んでいるのです。

基礎医学だかクソ医学だか知りませんけど、特定個人が提起した命題に則った議論しか受け付けないなどという、身勝手で普遍性を持ち得ない議論は科学的議論ではありません。

なぜ、どこぞの病理医ちゃんのように普遍性を持ち得ない議論の殻の中だけで話を進めようするのかと言えば、それによって自分達の主観的満足感を得るための身勝手な動機であるため。都合の悪い話を拒絶するようにもなるわけです。

自然科学というのは専門家以外が議論してはいけないなどという排他的なものであってはなりません。物理的においてはこうした排他性は見られませんが、生物学や哲学などの多くでは専門家の内部だけで勝手に満足ばかりを追求し、優生学すら論理否定してこなかったなどというオカルトが平気まかり通っていたのです。

「気分感情というものには、何らかの意味だとか目的がある」といった身勝手な議論は、優生学をも肯定することになり。社会にとって害をなすことはあっても、科学的普遍性を一切持たないオカルトに過ぎないのです。

「学術界で充分に議論されている。」というのは、実際には議論をしたつもりとか、議論している風味を装っているだけであって。実際には未だに「ボノボの行動習性から先天的に倫理性を獲得したことを立証した。」などというトンデモ理論が提唱されているのです。

進化生物学界においては、「社会性」と称してイヌなどが統率的に役割分担を行うことを短絡的に目的論に基づいた知能であるかのように論じて来ました。しかし、そんなもので人間としての倫理(自律的な社会的責任判断)などというものが先天的に組み込まれていることの論証にならないことは明らかなのです。

どんなにイヌやサルの行動習性の中から、あたかも倫理性に「見える」行動結果を抽出してきても、それは目的意識的に選択された行動であることの論証にはなりません。

生物学的な社会性、すなはち先天的な社会形成習性というものは、シエラレオネの少年ゲリラやISILにも、ナチズムや暴力団などにも見られるものであり。特定集団組織の内部において、統率的に役割分担を行うためには必要不可欠なものでもあるのです。

凶悪な過激派組織の構成員の行動結果の中から、どんなに過激派組織の内部にとって倫理的に見える行動を抽出枚挙しても、それが過激派の狂暴性の反証にならないことは明らかであり。進化生物学的に先天的本能習性から倫理性を立証することは構造原理的に不可能なのです。

統率的に役割分担が出来さえすれば、これが短絡的に人間性を伴った社会性の論証になるわけではないことは既に自明であり。イヌやサルの行動習性の観測から都合主義的に本能習性という「結果」を抽出してきて「先天的に倫理性が獲得されている。」などという話はオカルト以外の何物でもありません。

ヒトという種の生物にも、イヌやサルに見られるような「社会形成習性」が見られます。先天的に組み込まれた様々な行動バイアスの「結果」として、権威に服従することや、多数派に同調することで集団組織的統率行動を採ることは可能ですが。こうした本能習性という「結果」が導く「結果」というのは、大部分において封建的で権威主義が蔓延した閉鎖的な集団組織の形成を促し、個々の個人が自律的な社会的責任判断を行うことの出来ない危険な組織形成の原因でもあるのです。

時折、イタズラをした子供を叱ると、叱られた子供が喜ぶという事例が見られます。これは、自分自身で自分の行動を抑制することを放棄し、「叱ってくれる大人」への服従する本能が満足させられたことから喜んでいるわけです。

暴走族も警察に逮捕されると、その場限りに大人しくなります。凶悪犯も刑務所の中では刑務官という権力者に対してだけは従順さを発揮するからこそ、凶悪性を内部に保ったまま釈放されて再犯を繰り返すのです。

ヒトという種の生物は、権威とみなした相手に服従することが安心なように先天的に出来ており。この気分的安心は、同時に権威に対する盲目性をも作り出し、結果的に個人が自律的な社会的責任判断を放棄する原因でもあるのです。

権威服従性の危険性については、スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」において立証されていますが。ミルグラムの論文にもあるように、「サイバネティクスの観点から」という、従来の進化生物学的こじつけ論法に基づいた考察もされており、これが間違いであることは既に述べました。

権威服従性の危険性については、失敗学や危険学においても危険性の原因として何度も採り挙げられているものであり。個人の自律的な社会的責任判断を蔑ろにする重大な要因でもあるのです。

「査読がついた論文でありさえすれば論理的に正しいものである。」という考え方は、審査を行った権威に対する批判精神を欠いた盲目性の原因でもあり。自律判断の放棄に他なりません。科学的考え方が苦手で判断出来ないというのであれば致し方ありませんが、頭ごなしに権威を盲信しておいて自分では何も検証しないという態度は科学者としてポンコツにも程があります。

権威に対して盲目的に「信頼」しておけば、ヒトという種の生物は先天的本能習性として気分的安心満足感を得ることができます。そのため、権威という「多数派の承認を得た相手の言っていること」に対して何の疑問も持たないようになるという思考停止バイアスが働くことで、自律的判断を放棄するようになるのです。

ヒトという種の生物の先天的な権威服従性の源は「甘え」に由来します。「甘え」とは子供が親に対して盲目的に信頼することであり、自律的に判断することの出来ない幼児の行動抑制に用いられる服従性の応用です。

ポーランドアウシュビッツ絶滅収容所の吏官がなぜユダヤ人殺害計画書の作成に邁進したのか、その動機はナチス政権からの「承認」欲しさに依るものです。

人体ピラミッドで悪名高い吉野義郎教諭が危険な組み体操に異常執着することも、結局は保護者達などの多数派からの「承認」を動機としているからです。

そもそも「権威」とは、多数派による承認に過ぎず、「権威」性自体には科学的根拠があるわけではありません。どんなに科学者達の多数決によって承認された権威であろうとも、その権威性自体には科学的根拠など存在しないのです。

ですから、学術権威が権威として相応しいのかどうかは、特定学術組織の内部だけで決め付けずに、外部からの監査を必要とすることは珍しいことではありません。

自律的に論理検証をしないバカが、どんなにたくさん集まって権威だと言い張っても、そこに科学的価値が存在することの論理証明には一切ならないのです。



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○思考バイアスの落とし穴。

2015年05月24日 14時01分04秒 | 意識論関連
ヒトという種の生物の脳というのは、一旦何かを思って他者と議論を始めたりすると、その議論の「勝ち負け」ばかりに執着してしまって、論理的根拠とか証明を聞き入れないように陥ることってよくある。

結論ありきの事後正当化の取り繕いというのは、脳にとっては処理が軽いので。認知症の初期症状にも見られる簡単なものです。

大脳辺縁系が促す思考や行動のバイアスというものは、科学的論理思考にとって不都合で不条理なものであるということは認識しておいてください。

振り込め詐欺師に騙される被害者が、自分が電話でのやりとりの中で信じ込んだ話ばかりを盲目的に信頼し、銀行員や警官の言うことすら聞かなくなるのは、こうした思考バイアスによるものなのです。

ですから「感情的になっている時こそ冷静になる。」という、自分の感情の制御が出来ないと、結論ありきの議論に陥り真実を見失うことがあるのです。

警察や検察による「結論ありき」の取り調べによって自白を強要されるという冤罪事件が時折発生しますが、こうした現象にも取り調べを行う警官や検察官の思考バイアスが働いているからです。

間違えることは誰にでもあることであり、ましてや学生のうちに間違えておくのであれば咎める必要性はなく。むしろ「たくさん間違えること。」は山中伸弥教授が薦めていることでもあります。

でも、間違えた時に、間違えたことを認識せずに間違えたままなのでは、教訓や経験としてこれからの人生に生かすことにはならず、単なる身勝手な暴走者でしかなくなります。ヘイトスピーチをしている人達というのも、「結論ありき」で自分の既に抱いている観念に都合の良い話以外を聞き入れなくなるのが原因です。



ヒトという種の生物は、他人が失敗すると頭に血がのぼってカッとなって反射的に懲罰を与えようとしがちです。その上罰を与えると脳内物質の相転移によって満足し、あたかも全てが解決したかのような錯覚をも促します。

どこぞの病理医ちゃんに限らず、多くのヒトはそれで満足感を得て解決したと錯覚しがちなのです。

DV男がカミさんに散々暴力ふるった後に、オキシトシンだかセロトニンだかが脳内に分泌して急に優しくなるという現象は、実はDV男の脳特有の現象などではないのです。

バカを糾弾すると満足かも知れません。 でもそれは主観的で社会にとって普遍的価値を持った結論ではないのです。

一体誰が間違えたのか、それを精密に論理検証し。その原因(心理的要因とかバイアスも含めて)を今後の対策に生かすことこそ、より社会にとって普遍的な価値を持つものです。

間違えが特定個人に起きうることは、遺伝的にさして違いのないヒトである以上、誰にでも起こり得る現象であり、「自分だけは絶対に大丈夫」という盲目的自己信頼というのは、むしろ振り込め詐欺師に騙される被害者に見られるものなのです。

繰り返しますけど、別に病理医の嘘なんて「ヒヤリ、ハッと」事象でしかなく、おいらが個人的に嫌な気分になるだけのハナクソみたいな事象に過ぎないのです。

重要なのは嘘をついたり拒絶的に差別をするヒトの心理を分析することで、ISILとか暴力団の構成員を更正への応用可能性があることです。

日本の法律手続き上では思想とか信条の自由は保証されていますが、論理的根拠のないいわゆる「実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかける」ことまで許されているわけではありません。

従って、自分の思想信条が間違っていないかどうかの責任は、ひとりひとりの個人に委ねられているわけであって。「思想信条が自由だから何を信条にヘイトスピーチをしようと許される。」なんて話ではないのです。

民主主義というのは民衆に権利があると同時に、その責任も負わなければならないということを忘れてはいけないのです。


Ende;
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○回答その7。

2015年05月24日 12時08分52秒 | 意識論関連
あなたの言うその命題は「原因→結果」。 あなたはそれを「結果→原因」という方向だと勘違いし批判したが、実際には的外れ。これを議論の世界では「すり替え論法」と言い、議論をする上 でのご法度です。 よって元の命題に瑕疵はない。 この説明をするのは四度目となりました。


「原因→結果」という命題に則った議論の中身が進化生物学的こじつけ論法に基づいているよって批判したのであって、病理医が提起した命題に則った議論しかしちゃいけない「科学的議論」に普遍性がないのです。

普遍性を持たない科学的議論から導き出される結論の危険性を述べているのに、それを「すりかえ」だと言い張り拒絶することは科学的議論だとでも言うのかしら。

そこ、わからんか。 困った人だ。

他の人にもきいてみな。

もうちょっと深く考えてからリプライください。 論理的議論が成立していないのでちょっと面倒臭いです。


◇追記:

これを議論の世界では「すり替え論法」と言い、議論をする上 でのご法度です。

ああ、なるほどね。法廷で何かを証明するための議論の場合に「すり替え論法」を持ち込むのはご法度だから。病理医の提起した命題に則った論証以外は認めないとか、そういうことらしい。

法廷においても、特定の証拠などを証明するための議論に対し、その議論の土台が間違っていると指摘することはご法度ではないよ。

そもそも「すり替えですからー」っつってたけど、事後正当化のための取り繕いが証明されているのにすり替えもすったくれもないよ。



Ende;
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○回答その6。

2015年05月24日 10時10分04秒 | 意識論関連
いや、おいらは嘘をついたり他人の話を無視したりする心理の原因究明が目的であって、サンプルとしての病理医ちゃんを誹謗中傷したいわけじゃないのよ。

病理医ちゃん「みたいな」排除差別発言をするヒトって、ヘイトスピーチとかイジメとか、普遍的(結果としてのね。)にどこにでも見られるものなので。そこに共通する心理構造を解明するのが目的なのよ。

別においらが病理医ちゃんにDisられたからって、そんなもんは「おいらが主観的に気分が悪い」だけなので、どうでもいいって言ってるんだけど、そこは理解しないのね。




人体ピラミッドで悪名高い吉野よしろう教諭「みたい」に、自分の観念を絶対だと信じ込んで、自分の主観的な気分に都合の悪い話を全く聞き入れないヒトに共通の構造を論じているんであって、そこに対する論理的反証説明とか、そういうのを全くしないで科学的議論もすったくれもないんですけどね。

病理医ちゃん「みたいな」ヒトに見られる普遍的な傾向性を論じることが科学的ではないって言い張って、どこぞの病理医ちゃんが提起した命題に則った閉鎖的なご機嫌取り議論が科学的だって言うんだろうか。

そういうトンチンカンな話要らないです。

なんだろ、自称法学生にとっても気分が悪い話だから観念的に否定したいだけなんじゃなかろか。

仮説に過ぎないっていうのであれば、きちんとした反証説明をしないと仮説に過ぎないことの証明にすらならないよ。

そこはがんばれ。




実はおいらの端末だとTwitterの動作が時折おかしくて、急に動かなくなることがあるのでブログに書いている。

ブログ上でもそんなに安定しないので、メモ帳に文章書いてコピペしているのです。

さらに言うとメモ帳も安定させるのにコツが要る。


◇追記:

特定個人が提起した命題に則った議論しか出来ないといった特殊なルールに基づいた議論から導き出される結論には普遍性がありません。

それは単なる気分的満足感のための身勝手な妄想にしかならないからです。

イジメとかヘイトスピーチといったものも、その集団内部では同じ構造があって。普遍的な価値観を無視して排他性を発揮することで、気分感情を満足させることが目的になっているからです。

素人目には科学的議論のように「見える」のかも知れませんけど、基礎医学だとか言いながら特殊なルール上でしか議論してはいけない議論にどうして科学的普遍性があると言うのでしょうか。

ま、この辺りは興味のない人にはわかんないのかな。

従来の進化生物学的こじつけ論法なんかも、特殊なルールに基づいた議論しかされていなかった典型です。ですからこういった議論からは普遍性を持った科学的議論として成立しないのです。




特定個人のルールに則って間違った土台(進化生物学的こじつけ論法)の上で議論している可能性が高いと判断して、「進化生物学的こじつけ論法は間違いですよ。」って説明したんですよ。

○ヒヤリ、ハッと。

それに対して病理医の偏ったルールに基づいた議論は都合が悪いもんだから

やはり素人考えでしたね。こんなブロ グを出してくるなんて論外です。現在学術の 世界できちんと議題にあがっている内容を、 reviewのついた論文で論じるならまだし も……。聞きかじりで恥を書き続けるのはお やめになったらよいと思います。もう話しか けなくていいですよ。

といった拒絶反応が来ました。

進化生物学的こじつけ論法が間違いであることは、既に「学術世界中できちんと議題にあがっている内容。」であるにも関わらず、病理医は頭ごなしに否定しており。病理医はそれを知らなかったことが証明されています。

にも関わらず、その後から「結果と目的の区別がついていた」かのような取り繕いをしているわけです。

嘘ついているのが立証されているのです。




ってな風に病理医の嘘を説明すればするほど、病理医の立場は悪くなる一方なので、法学部4年生が論理的反証もなしに弁護したつもりになっても、病理医の嘘が拡散されるだけなんですけどね。

病理医が私に嘘をついたからといって、何か具体的に損害の類が出ているわけでもないので、単においらが主観的に気分が悪いだけですから、それはどうでも良いんです。

問題なのは、こうした嘘とか閉鎖的議論を普遍性のある科学的議論だと勘違いしているヒトの心理構造を分析することであって。それは科学的に普遍性を持った議論として成立し得るわけです。

繰り返しますけど、病理医は検証サンプルに過ぎないのです。(個人的感情も時折入るけど、それはドローだよ。殴り合いに意味はないです。)

失敗学とか危険学の考え方に基づけば、「悪者探しをして罰を与える」だけの刑法懲罰感情論こそが、過失の原因究明にとって最も害になるものであって。懲罰感情を短絡的に正義か何かと勘違いしたままだから「原発事故に逮捕者がいないのはおかしい。」という話になってしまうのです。原発事故の本当の原因究明は、まだ途中中断しているだけであって、終わってなんかいません。

懲罰感情というのは、ヒトという種の生物の脳に先天的に組み込まれた感情(行動バイアス)に過ぎません。

ヒトが暴力で最終解決を図ろうとする短絡性というのは、こうした先天的な習性の結果であって。懲罰感情のままに短絡的に「悪者探しをして、罰を与えときゃ解決だ。」という錯覚こそが、ヒトの暴力性とか差別排除の原因でもあるのです。

なんだろ、法学部っていうのは刑法罰などの道具の使い方ばっかり習っていて、社会安全性とか持続可能性に対する配慮とかは習わないのかしら。 っていうか、自称法学部4年生ってのが嘘としか思えないんだけど。法律を学んでいるにしては議論が雑過ぎるもの。

法学上においては判決さえ出れば解決だと見なすんだろうけども、それって制度(手続き)上での話でしかないですから。

そこわかってない人って多いのかしら。法学部で習わないの?。だとしたら大問題なんじゃないのかしら。

社会にとって本当に重要なのは、刑罰科料の決定とか、罰の重さという基準なんかじゃなくて。ヒトという種の生物がどうして犯罪をしてしまうのかという普遍性を持った分析によって原因を究明し、再発防止のために社会にフィードバックすることなはずなのよ。 でもそれは現在の司法制度の中には組み込まれていない。

ヒトという種の生物は、長く続いていることに観念的安心感を抱くと同時に、それを喪失することに対しても不安や恐怖を抱くようになります。ですから、「刑法懲罰に社会的価値はない。」なんて話を持ち出すと反射的に拒絶反応を示す人は少なくありません。

法律家の多くは、「法の支配」とか「法律さえ守らせておけば治安が守られる。」という観念に囚われ、法律というものが絶対的正義か何かと勘違いしているフシがあります。 自分が専門で取り扱っている分野だから事後正当化的に絶対的なものでなければ気分が悪いというバイアスがそうさせているのでしょう。

それって「基礎医学」だと称して普遍性のない議論をしている病理医と同じ精神構造じゃないんですか?。

こうした集団組織内部の特殊な偏った正義を振り回す性質こそが、原発の危険性を放置したり、人種差別とかイジメとかを引き起こす原因だと考えられるのです。 反論反証があればどうぞ。

論理的な反証反論なしに「仮説に過ぎない」と言い張ることなんてのは、むしろ「論理的根拠のない仮説。」にしかなっていないんですよ。 その方がより非科学的だってことに気付いてください。 それが出来ないのに科学的議論もすったくれもあったもんじゃありませんよ。



Ende;
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○病理医のリツィート。

2015年05月23日 23時08分15秒 | 意識論関連
病理医がリツィートしたツィート

個々が勝手に自己の存続を願うことは、全体の多様性、環境の変化に適応する上で有利になる冗長性の確保につながるのではないでしょうか。自己肯定欲求は、「己を集団の利益に対し最適化したい」という欲求から出ているのではないかと。必ずしも合理的に働いてはいませんが。

このツィートは進化生物学的こじつけに基づいた論証なんじゃないの? 違う? おいらの理解力が足りてない? 少なくとも進化生物学的こじつけに基づいた論証の可能性があるツィートである以上、それに同意しているというのは、おいら的には傍観放置出来ないのよね。

病理医は以前にも進化生物学的こじつけに基づいた論証をしていた記憶があって、以前から気になっていたのです。

あんまり一般人を巻き込みたくはないんだけど、でも一般人が間違えている分には仕方ないとも言えるので、一応載せておきます。



いろいろ言ってくる法学部4年生さんにしてみたら、自律的な社会的責任判断の重要性なんて意識の上にはないんだろうなぁ。

全能感覚全開みたいだし。



Ende;
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○回答その5。

2015年05月23日 21時47分34秒 | 意識論関連
病理医の求めていた議論が「なぜこのような結果をみているのに過程がこれなのか」という命題を議論しているからといって、その議論の中身が進化生物的こじつけを前提としたものであることに対し、私は進化生物学的こじつけを前提とした議論の根本的間違いそのもの(議論内容の土台)を指摘しているのですから、別に相手が提示した命題に則る必要性はありません。

間違った土台の上で行われている議論に対し、土台そのものが間違いであることを指摘しているのであって、議論の階層とか議論内容が違っても、それは問題にはなりません。

そもそも科学的議論において、「特定個人が提案した命題」以外を排除するなどという閉鎖性があってはならないはずです。 一体病理医は何様なんですか。

「○○を読んだらすりかえだと言っていた→すりかえだ。」といった短絡的な決め付けしかしておらず。論理的思考過程の説明が全くないのが残念です。こちらが説明をしている内容は全く検証せずに反対論証もしていない以上、「主観的にそう思っただけ」ではないことの証明がなく、何を取っ掛かりに議論を進めれば良いのかすらわかりません。これでは議論は成立しません。

学生さんですから間違えがあっても仕方ないのですが、間違えを認識しないまま社会に出て法律の専門家になられたら大変危険な気がします。

学生さんだったら学校の先生とか同級生とも議論したり検証してもらってみてはいかがでしょうか。

それとも法学部では「その場限りの勝ち負けを追求するディベートのようなもの」しかしていないから、深く論理検証することに慣れていないとか、そういうことなんじゃないでしょうか。

話の理解が非常に上っ面で、浅い認識しかしていないように思えます。もっと精密な検証を行うようにしないと科学的議論にはなりませんよ。

病理医は私のブログを読み、その理論を「恥ずかしいからやめておけ」と否定しているのであって、世界中に知れ渡っていたからといって病理医が知っていた証明にはならず、否定している段階で「初めて聞いた」ことの論証になります。

「知れ渡っていた。」といいますけど、そもそもあなただって知らなかったじゃありませんか。ネット上の情報というのはググらないと出てこないものなので、病理診断医が知らないことがあってもおかしくはありません。


Ende;
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○危険な考え。

2015年05月23日 17時11分06秒 | 意識論関連
他人からの評価承認に依らずに自律的に社会的責任判断をして初めて一人前の「大人」とか「人間性」だと言えるわけですから。自分がいる組織集団の利益や個人的保身や承認評価を優先してしまうことは人間として間違いです。

もしかすると、今の法学部においては危険学とか失敗学の考え方は教えていないのかしら。だとしたら法学部のカリキュラムに問題があると思うなぁ。

刑法懲罰などを「目的」とした法律という道具や手段の使い方だけ覚えて、それを何にどう使うべきなのかを何も考えていないのであれば、冤罪だろうが法律の拡大解釈だろうが気にしなくなってしまう。それではナチスの絶滅収容所の吏官と同じ過ちに陥ることになってしまいます。

組織内部での評価承認基準だけしか意識が働いていないからこそ、アドルフ:アイヒマンは残虐な殺害計画書を作成することに邁進したわけで。こうした組織内部の評価基準に迎合してしまうことこそが、福島第一原発の津波に対する危険性放置の原因にもなったわけです。

法学部に限らず、それこそ大学に限らず中学生とか小学生レベルからでも危険学や失敗学の考え方に基づいた人間性の形成が必要なはずで。特定の技術者だけの倫理として扱うというのも間違いなんじゃないかと思う。

その辺、畑村洋太郎さんはどう考えているんだろうなぁ。


Ende;
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○回答その4。

2015年05月23日 16時37分55秒 | 意識論関連
ヤンデル先生がすり替えだと仰る前の議論を初めて見てきました。 最初のヤンデル先生のツイートに対するあなたの反論はすり替えでした。これは既にヤンデル先生が述べられた通りです。そして、その後あくまでも元の流れ(すり替えられる前の本筋)で議論しようとしているヤンデル先生。

それに対し、すり替えた筋でしか話そうとしないあなた。 こんなものは議論とは呼べません。 実際にヤンデル先生が最後の方に 「というか思考のレベル的におなじ階層の話になっていません」 と仰っているのはこういうことです。誤謬から発生して訂正もされない議論は議論ではない。


進化生物学的なこじつけ論法の間違いに基づいていなければ、結果と目的の区別は出来ませんから。その区別に基づいた議論を最初からしていたという病理医の言い逃れは嘘ということになります。

病理医は私の書いたブログを読む前には進化生物学的こじつけ論法に基づいた議論しかしていません。その上しかも一蹴無視した理論に基づいた考えを最初からしていたというのは論理整合性がない嘘だということです。

もう少し論理的に順序立てて検証する必要があると思いますよ。

そもそも進化生物学的こじつけ論法をきちんと理解していないまま検証されてはいませんか。

「同じ階層の話」という病理医の主張にも論理的根拠はありません。

「訂正もされない議論」だというのも病理医の主張の鵜呑みに過ぎません。そもそも論理整合性もない話に「訂正」も「階層」もすったくれもあったもんじゃないんですから。

そもそも「恥ずかしいからやめとけ」とか「もう話かけなくていい」と言い出し議論を放棄したのは病理医の方です。

私の主張を全く理解しないまま病理医の主張ばかりを鵜呑みにするというのは、何かの正解ありきというバイアスに基づいた検証としか思えません。それこそ議論になっていませんよ。


Ende;
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○亀山郁夫について。

2015年05月23日 11時23分09秒 | 意識論関連
亀山郁夫がドストエフスキーの「罪と罰」を読んで感動したという意味の話を放送大学で陳列しても、ドストエフスキーの「罪と罰」に何らかの科学的価値が存在する証明には一切なりません。

亀山は「現代の社会を予言した。」などと、脂汗かきながら必死になって感情的に主張していますけど。こんなんノストラダムスの大予言と同じ形式に後から予言風味にこじつけただけなんですよ。

科学的な予測や推理であるならば、予め科学的な予言として何らかのの対策にも応用可能になるのですが。亀山が主張する「予言」というのは、「雰囲気的に現代社会を予言したような感じがする。」と述べているに過ぎないのです。

放送大学で亀山の講義が垂れ流されていますけど、あれってオバケ学長が電子工学が専門なので「よくわかっていない」からなんだと思います。

ですから亀山郁夫が生徒に点数評価や単位を与える権限を持っているなんてのは論外なんですよ。普遍的価値が何もないんですから。 (敵だらけなのよね。おいら。)

哲学などの文系学部の多くも組織閉鎖性が凄くて、議論を公開せずにやたらと金を要求してきます。(やたらと高価な持論の書籍を買って読め的な。)

科学的議論であれば、物理学のように公然と議論が開かれてなければならないのに、随分とおかしな話なんですよ。本当は亀山のように主観的感想の羅列でしかなく、それこそ病理医みたいに「面白い」なんて基準で議論を進めている場合がほとんどなので、科学理論的には全く価値がないんです。

それでも一応東京大学から文系学部が一掃されましたから、まあ良いかなと思ってます。


Ende;
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