書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

信用。

2013年03月04日 15時10分43秒 | 意識論関連
○信用。

 「信用こそが全て。」

 これはメンタリストDaigoの言葉である。

 他者から信用されれば個人的利益にはなるであろうが、それが本質的な人間としての価値自体や、社会的存在価値/意義になるわけではない。

 信用によって世間からの評価報酬を得ることを絶対的価値だと言い張る文科系大衆観念は、世間自体の問題点を無視した現状世間への迎合服従に過ぎない。

 単に信用されるだけなら、カルト宗教の教祖でも、振り込め詐欺集団のリーダーでも同じことであり。単に信用されることは現状世間的な利己的利益にはなっても、人間としての社会的価値には無関係である。

 メンタリズムが「ビジネスにおいて有効活用出来る。」としても、これは単なる「金儲け。」の一つの手口に過ぎず、何ら社会的持続可能性にも安全性にも寄与せず、人間としての社会的価値には全くならない。

 大衆が要求する「信用」というものの真実は、単なる無思考な大衆の気分的安心感に起因する「信用したいかどうか。」の気分的行動バイアスに過ぎず。論理的根拠のある安全性の論証には全くなっていないのである。



 詐欺というのもメンタリズムの一種であり、意識誘導によって法外な金額の報酬を得る技術である。

 他者の意識を誘導し、自分にとって利己的利益を得ることが世間的価値であると大衆観念的には満足するのであろうが。それが社会の持続可能性や安全性には全く無関係なのは当たり前の話である。

 ヒトの多く、文科系大衆マスコミの類は利己的利益や、世間的評価報酬、世間的成功といったものを短絡的に人間としての価値であると簡単に錯覚するが。これこそが意識誘導であり、無責任なペテンの手口に他ならない。

 文科系大衆マスコミに、その無責任さの意識があるかどうかは無関係である。むしろ無責任であることを自覚せずに「人類の救済。」的意識を持っていることの方が余程有害なのである。



 金儲けや世間的成功を目的としている限り、そこには本質的な人間性である「自律的な社会的責任判断能力。」の必要性は全くない。

 他人を口車で丸め込み利己的報酬を得ることを、文科系大衆観念上では最優先の価値観であると簡単に錯覚するであろうが。こうした錯覚こそが社会持続可能性や安全性の崩壊を導くのである。

 「難しい話を抜きにすれば。」だとか、「ヒトは意外と単純なものだ。」などと称して社会持続可能性や安全性の価値を優先しないというのは、人間として無責任であり、本来社会的にはクズである。難しいことを理解出来ない頭の悪さを、あたかも正当化するような話で多数大衆を丸め込むことで、多数のバカ大衆を丸め込むことも簡単であろう。こうした多数派の短絡性こそが、あらゆる「人災」に対する合理性ある効果的対策を阻害しているのである。

 思考の根底となる基本的な価値、「目的」自体が軽薄な利己的利益であれば、結論もまた軽薄なものに帰結するのは当たり前の話である。

 ビジネス商売での利益追求なんぞで文科系大衆マスコミを丸め込むことしか論じられないメンタリズム/心理学というのも、所詮は大衆迎合に過ぎず、科学としての社会的役割は全く果たしていないのである。



 メンタリズムというのは、ヒトの無意識な行動バイアスを利用した意識誘導である。それなら本来詐欺の手口に引っ掛からないようにするための検証も可能であるが、そういった社会的役割を一切行わず。むしろ詐欺の手口を利用してビジネス商売にばかり意識を奪われている心理学も、それを鵜呑みにしているマスコミも、社会的な責任感が欠如していると言わざるを得ない。



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自然。

2013年03月04日 15時09分58秒 | 意識論関連


 本能由来の気分感情というものを短絡的に人間としての「心。」であるとしてしまえば、通り魔やテロリストの感情気分もまた人間としての「心。」であるということになってしまう。

 ヒトの気分感情は自然の産物である。大脳辺縁系に組み込まれた行動バイアスや習性といったものの全ては、生存の「結果」として遺されたものであって、そこには誰の「意思」も目的も介在していないのである。

 自然界における調和というものは、確かに数十億年もの淘汰によって大変洗練されて「美しい」ものであると言うことは可能であろう。しかし、どんなに自然界が現状において調和洗練されているとしても、これは数十億年に渡る淘汰の暫定的結果以上の何物でもなく。論理的な持続可能性や安全性を誰かが保証してくれるわけではないのである。

 とある男がいると仮定しよう。

 この男の気分感情が現代社会から受ける何らかの精神的ストレスによって「荒れた」場合、本能習性のままに他者に暴力を振るったとする。

 この男の行動を、「人間の自然な行動結果である。」と言うのであろうか。

 気分感情が思考や行動に直結していることは、チンパンジーでもゴリラでも同じであろう。しかし、ヒトの場合気分感情が思考や行動に直結していれば「人間」とは言えないのである。

 ヒトが人間足りうるためには、そこに論理検証性が介在しなければ人間とは言えないのである。

 現在の生物学者の多くは、気分感情的な満足安心さえ追求しておけば、あらゆるヒトは人間としての行動や思考をするものであるという、極めて環境依存的な「結果論」ばかりを論じており。これは論理的根拠のある具体的対策には全くならない。

 現代の文明社会自体は、ヒトの本能欲望が生み出したものであって。決して科学自体が現在の文明社会を作り出したのではなく、あくまで動物的本能欲望が科学を利用して来たに過ぎないのである。

 それゆえ、温室効果ガスの増加による地球環境の破壊が科学的に叫ばれていても、文明社会は効果的な対策すら充分に立てられないのである。

 特に金融証券関係や、経営経済学関係においては、ヒトの生物的本能習性を利用して私腹を肥やすことばかりを正義として扱い。個々の個人の主体的意思に基づいた社会持続可能性や安全性といったものを無視し続けて来たのも、現在の生物学による「個体生存絶対主義」に基づいて、経済学における目先の個体の利益追求性の正当化を助長して来たのである。

 社会持続可能性や安全性といったものは、決して個体の利益追求によって構築されるような短絡的なものではなく。各々の個人が主体的に社会全体への「意識」の広さを伴って初めて構築されるものであり。自然任せにしておきさえすれば全ては解決するような短絡的で安易なものではない。

 ましてや本能由来の気分感情さえ充足しておけば、あらゆるヒト/文科系大衆の全てが必ず物質的欲望を追求しなくなるといった短絡的でバカみたいな話は論外である。

 自然界の生物が、必ずしも精神的充足をしている保証など存在せず。草食動物などは天敵に襲われぬように常日頃恐怖の中で暮らしているのであり。肉食動物であっても必ずしも精神的に安堵が常に得られているようなものではない。

 現代文明社会におけるヒトにおいても、文明以前における食べ物の枯渇に苦しんでいた名残として、過剰なカロリー摂取などの不健康な食生活に陥るのであり。単純に気分感情さえ満たされておけば全てが健康になることの証明など全くないのである。

 科学技術を利用して武器を獲得したヒトが、同一種であるヒト同士での殺し合いを行うことは。むしろ文明以前における過剰な恐怖心や暴力性の暴走であり。そもそも科学技術を「利用」する動機自体は本能由来の欲望に由来するものである。

 ヒトという種の生物は、利用可能な科学技術であれば本能欲望のままに腹を満たし、同一種間においても殺戮を繰り返すような野蛮で暴力的な生物に過ぎないのである。

 自然界における調和を「美しい」などと形容し、あたかも自然のままに全てを受け入れていさえすればあらゆる「人災」が無くなるなどと思ったら大間違いである。そこにあるのは気分感情的な安心満足だけであって、何ら合理性のある論理的安全性の保証ではない。

 気分感情というものは自然の産物であり、ヒトという種における行動習性や思考バイアスを作り出すものである。こうした本能由来の無意識性こそが、個人の主体的「意思」に基づく目的意識を喪失させ、ヒトを気分的安心満足による思考停止に陥れ、組織的集団暴走へと導くのである。

 生物学における「社会性」とは、集団組織化さえされているもの全てを指すのであって。そこに人間としての社会持続可能性や安全性を確立する必要性はどこにも存在しないのである。

 肉食動物が環境と調和するためには、繁殖力の低下が必須であり、これは肉食動物が主体性自主的に獲得したような意思に基づくものではなく。あくまで繁殖力が高すぎることで環境と調和出来なかった「結果」として繁殖力の抑制された種へと淘汰されただけである。

 現在の生物学者達は、あたかも全ての生物が主体的に環境との調和を行って来たかのように言い張るが。実際には偶発的に環境と調和可能な生物種だけに淘汰された結果が現存するだけであって、環境と調和出来なかった種の生物の全てが淘汰されただけなのである。

 生物が生存しているのは、決して個体が主体的に目的意識に基づいて生存を求めたわけではなく。先天的本能欲望のままに行動していた結果として淘汰され、結果的に生存していたものを我々が「生物」と分類したに過ぎない。

 従って生物というものには個体の主体的目的意識など存在せず、目先の欲望を満たすこと以外に何ら「考え」など働いていないのである。

 それゆえ、僅かな環境変化に対応しきれずに、簡単に自然の食物連鎖は崩壊してしまうのである。

 これは食物連鎖を形成している種や個体に意識的目的が存在せず、その場限りに本能欲望のままに行動している「結果」以外に何も存在していないためである。

 そもそも肉食動物が集団組織的に他の動物を襲撃することが「心の平穏」だなどと言い張ること自体がキチガイじみた論理であり。何ら論理的根拠のない文科系大衆観念に過ぎない。

 こんなバカげた話を放置しているから、振り込め詐欺の集団組織化すら誰も主体的に止められないのであって、振り込め詐欺師が金儲けをして満足していることであっても「心の平穏」であるならば、具体的に誰にも危害を加えていない振り込め詐欺なら人畜無害ということになるのである。

 もちろん、その「人畜無害」性には社会持続可能性も安全性も考慮には入っておらず。その場限りに本能欲望のままに行動しておけば気分的に安心満足で「心が平穏」だということになるのである。



 人間としての「心。」というものは、単なる個人の気分的感情に依らず、あくまで主体的意思に基づき社会全体の持続可能性や安全性の観点から行動選択を行うことによって、結果的に「心。」と形容することが可能になるのであって。決してその場限りの気分的安心満足の追求を指すものではない。

 原発事故が発生する以前に、原発の危険性を上司に提言し、それが会社組織に受け入れて貰えないからといって気分感情的に嫌な思いをすることもある。場合によっては左遷されたり解雇されることもあるだろう、それなら「生きるため。」などという論理は全く社会安全性に寄与しないし、何ら気分感情的にも満足も安心も得られない。

 ヒトが原発の危険性を放置して来たのは、目先の経済性、目先の欲望本能を満たすためだけに意識を奪われ「虜」になっていたことが原因であり。こうした意識狭窄化というものはヒトの本能習性という「自然性」によって生ずる「結果」なのである。

 生物学者達は現代文明社会の全てが意識の産物であると勝手に規定しているが、現代文明社会は本能欲望というヒトの自然な行動バイアスの結果であり、無意識の産物に過ぎない。

 本当に意識的に作られた文明社会であるならば、これ程までの問題や「人災」を抱えるわけがないのである。



 現在の生物学者達がどんなに強く「思って。」も、具体的対策にならない観念である以上ペテン洗脳の類でしかないのである。こうした「思い込み」に囚われていることは、現実には社会安全性への妨害行為であり、もはや犯罪行為でもある。

 現在の生物学や脳科学は通り魔やテロリストの心理構造について全く言及しておらず、その場限りに「自然は美しい。」だの「人間は素晴らしい。」などといった観念をぶちまけることで文科系大衆マスコミを丸め込み、論理的な社会安全性の追求を妨害しているのである。

 当人達にその意識の有無は無関係である。むしろ妨害している意識もなく「人類の救済だ。」とでも思っている方がよっぽど問題なのである。

 当意識論は気分感情的な「救済」には一切感知しない。気分的に満足できなくても、安心できなくても、そんなことはおいらの知ったことではない。むしろ気分的安心満足によって論理検証的「考え」が停止してしまう頭の悪さを認識して頂くことが主眼である。



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錯覚。

2013年03月04日 15時08分46秒 | 意識論関連
○錯覚。

 ヒステリーとは心理的拘束のことを指すものであって、心理的拘束というのは感情気分による論理的根拠のない思考バイアスであり、思考を拘束するものである。

 思考が停止している相手に対し、何度も同じような説明を繰り返すのはヒステリーではなく。むしろ論理的に理解出来ない相手の思考停止/拘束の結果である。

 相手がバカなら、何度も説明しなければならないのは当たり前の話であって、「理解しないから諦める。」というのも気分の問題にすり替えているに過ぎない。

 文科系観念者というのは、少数意見を繰り返すことをヒステリーだと錯覚し、多数派意見に同調することはヒステリーではないと安心したがる習性があり。こうした気分的安心満足こそが観念的ヒステリーと論理検証的執着を区別出来ない状態へと陥らせるのである。

 多数派同調はヒステリーである。多数派に同調することは本能気分的に安心であり、同調しないことに対して異常なまでの拒絶反応を示すのが「ヒト」という種の生物に見られる社会性という本能習性である。

 現在の生物学のパラダイム上では、本能習性の全てには意味目的が予め存在し、全ては意味目的のためにあらゆる生物の機能や習性が作り出されたことになっているが。これはとんでもないペテンである。

 生物の機能や習性が生存にとって有利な場合が多いのは、生存にとって有利な機能や習性を持った種への淘汰の結果であって、種自体が自ら生存などの目的行動選択をした結果ではない。

 生存は生物の目的ではなく、結果的に生存していたものを生物と分類しているに過ぎないのである。

 分類はあくまで思考の道具や手段であって、分類自体を目的にすり替えてしまえば科学ではなくなる。現在の生物学や文科系観念というのは、こうした分類自体を目的にすりかえてしまう身勝手な観念を論理的証明であるかの如く取り扱う習性があり。ゆえに「死んでしまう。」ことが絶対的不正義であるかのように言い張るのである。

 そもそも本能習性の全てが常に生存などの目的に適し続けることの論理的証明など存在せず、あくまで偶発的な結果として生存に適した傾向性を持っているに過ぎない。習性とは傾向性を陳列しているだけであって、絶対に習性に抗うことが不可能であることの論理的証明が存在するわけではない。

 サルやイヌであれば予め組み込まれた行動習性に従って行動することしか出来ないかも知れないが、ヒトにおいては自らの行動習性という無意識が作り出す機械条件反射的行動を認識し、危険性を回避することも可能である。

 特に認知機能に異常でもなければ。

 だが、実際には多数派の認知機能の異常に対して、気分本能的安心満足によって異常性を認識認知することを簡単に放棄してしまう習性があり、こうした多数派同調性というのは、個人が主体的に自律判断をしないという本質的意識の欠落こそが集団組織的暴走を作り出すのである。

 「自分だけは大丈夫。」だと、文科系観念者の多くは思い込み、「そう思わなきゃ、やってられない。」などと具体的に何を「やってられない」のかすら論じることもせずに、結局は気分的嫌悪感だけで自らの頭の悪さを認識したがらないことを正当化しようとするための言い逃れ/取り繕いを繰り返しているだけなのである。

 「やってられない。」などというのは気分の問題である。原発技術者が上司に原発の危険性をいくら論じても理解してもらえないからといって、「やってられない。」で片付けられる問題ではない。

 ヒトの多くは気分感情が行動や思考に直結しているのであろうが、こうした短絡性こそが論理検証性を失わせ、本能習性のままに組織的暴走や洗脳状態を生み出してしまう最大の原因である。

 自分達の異常性、自分達の頭の悪さを認識せずに、他人の頭の悪さを指摘する権利はない。義務を放棄しておいて権利だけ主張するのは身勝手極まりない。



 ドストエフスキーを読んでどんなに感動しようとも、マイケル:サンデルの講義を聞いてどんなに頭が良くなったような錯覚に陥っても、具体性のある問題解決策には到達することは構造原理的にない。

 これらは全て気分的安心満足を得ているだけであって、主体性のある自律的な論理検証という「考え」を阻害することはあっても、促すことはないからである。

 カラマーゾフだのサンデルがどんなに多数派から「人気」があっても、その「人気」の源が文科系観念である以上、そこから具体性のある論理的社会安全性や持続可能性が導き出せないのは当たり前の話である。

 そもそも「人気」というもの自体が多数派迎合心理に由来するものであって、「人気」こそが個人の論理検証性を阻害するのである。

 ヒトラーの「人気」がもたらす多数派迎合性こそが、集団組織的暴走を生み出したことを忘れるべきではない。かつてのドイツ民族だけが特別に異常だったのではなく、ヒトという種そのものに集団組織的暴走性が存在することを認識しなくては、あらゆる「人災」への具体的再発防止対策には全くならないのである。

 司法制度は被害者の報復感情を満たすだけのシステムであって、これが具体的に犯罪という「人災」への再発防止対策を阻害していることに対して、ヒトの多くは認識しておらず、漫然と司法システムを放置している。

 自律のない者にとって、懲罰報復だけしておけば満足であり、刑罰を用いた抑圧だけが社会秩序をもたらすものであると錯覚するのであろう。ゆえに司法システムの根源的問題点は放置されるのである。

 法律による統治というのは万能ではない。機械的手続きだけで全てが解決するのであれば、どうして様々な社会問題や「人災」が減らないのであろうか。それはそもそも法律統治という機械的手続き自体がヒトに無意識性を促し、漫然と法律規範に従わせておきさえすれば安心満足であるがゆえに、具体的な対処対応能力としての論理検証性を喪失するからである。



 感情や気分は、それだけでは人間としての「心」にはならない。あくまで論理検証的対策を具体的に構築してこそ、人間であり、論理検証性なくして人間とは言えないのである。

 ヒトが引き起こす「人災」に対して具体性のある再発防止対策をせず、ただ漫然と気分感情的安心満足ばかりを追求しておいて、「心」もすったくれもあったものではない。

 「気分が荒む。」だのと称して、自分の頭の悪さを認識しないというのは、単なる身勝手な社会的「甘え」に過ぎず、無責任であり、人間としての社会性の欠如でもある。

 ヒトという種の生物である以上、自己自身の頭の悪さを認識するのは人間としての責任義務であり、これを気分感情の問題にすりかえ無視放棄して良いことの根拠には全くならない。

 どうしても動物的本能習性が促す気分感情のままに生きていたいと言うのであれば、ボルネオの山中で生活すれば良いのである。論理検証性のない奴にとっては文明社会には不必要であるからだ。






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生きるため。

2013年03月04日 15時07分46秒 | 意識論関連
○生きるためには。

 文科系の者の多くは「生きるためには。」などと称して、あたかも生存のためであれば何でも正当化しようとしたがるが、これは無責任な言い分である。

 生存という結果論だけを正当化するのであれば、詐欺やペテン師、天下り役人達の行動まで正当化することになり。これは普遍的価値として取り扱うべきものではない。

 結果的に生存しているペテン師は正しくて、結果的にカモにされた被害者は正しくないなどという結論をも導き出す観念というのは。その場限りの言い逃れ/取り繕いの類に過ぎず、統合的論理検証性の欠落したご都合主義に他ならない。

 ご都合主義丸出しで他者に自己犠牲を要求しておきながら、一方では「生きるためには。」などというふざけた話に普遍性など有り得ない。

 文科系観念というのは論理的合理性や統合的視点に欠けており、その場限りの気分的安心満足のための思考停止を促す洗脳の源である。

 洗脳が洗脳たりうるのは、統合的観点からの論理検証性を放棄し、目先の気分的安心満足だけを追求する盲目性にある。

 厄介なのは、当人達は危険性を認識しておらず、気分的安心を追求するあまりに社会安全性の確立を後回しにしたがることである。



 安倍晋三がやたらと「規範意識。」を用いて問題解決をしたがるのも、その問題点を全く認識しておらず、精神論と法手続きや規律さえ守らせておけば全てが解決すると思い込んでおり。個人の自律的な責任判断を全く無視している。

 こうした「自律」の重要性を無視した観念に取り憑かれているのは、当人自身に「自律」が全くない証拠である。

 自分にないものを、他人が持てるわけがないと、安倍晋三は「思って」いるのである。

 そこには論理検証的「考え」というものが全く伴っておらず、安倍にとってイジメ問題などというのは「小手先の精神論で粛正しておけばなんとかなる。」とでも思っているのであろう。

 まあ、「自律」のある政治家なんぞ現状においては存在しないので、バカはバカなりに余計なことに首を突っ込まなければ良いだけの話である。

 法統治は万能ではない。あくまで法律というのは主旨に基づいた手段であって、手段そのものを目的(主旨)にすり替えるのはバカな役人がやりたがる手口である。

 法律さえ守らせておけば、あらゆる問題が解決するわけではなく。法律に基づいて服従させておけば自分は何の責任も負わずに済むであろうという、極めて利己的欲望のために「規範意識」などという観念を強制しておきたいだけなのである。

 クソ役人たちはそうやってその場しのぎに「生存」し続けることが可能であるが、こうした身勝手な体制維持こそが社会を崩壊に導き、結果的に個人的生存すら維持出来なくなる状況に陥るのである。これは殺人ウイルスの「行動パタン」と全く同じバカげた行動であることすら、彼らは認識したがらないのである。

 個体の生存は最優先ではない。従って生存に適していない行動であっても、社会安全性や持続可能性を論理的に追求することこそが、真の「人間性」を伴う価値観なのである。



 「人間性」や「心」といったものについて、どういうわけか論理的検証や科学的普遍性の追求は従来行われておらず。こうした問題は全て文科系観念という、その場限りの安心満足の追求によって蔑ろにされてきた領域でもある。

 本来認知科学や脳科学といった領域が、こうした問題について取り組むべきなのであろうが。「記憶能力=知能」などの短絡的観念に基づいた知能論ばかりに意識を奪われ、本質的知能の存在そのものすら認識しようとしないというのは、もはや怠慢というよりも犯罪的である。





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社交不安。

2013年03月04日 15時06分46秒 | 意識論関連
○社交不安障害。

 社交不安障害っていうのは、もしかすると学校でのイジメと関連があるのではないだろうか。

 他者からの評価に過剰に敏感になってしまうというのは、「イジメられるのではないだろうか。」という恐怖感と結びついて、無意識下に行動「学習」されてしまっているための結果ではないかと考えられる。

 不特定他者との関係性において、他人からの見た目、一般的に言う「自意識」過剰性を植え付けられてしまっているために、恐怖不安を無意識に「感じて」しまうのである。

 一応述べておくが、一般的に言われる「自意識」というのは、「他者からの見かけに対する感覚」に過ぎず。本質的意識である自発的論理検証性とは無関係である。

 イジメのある学級で毎日生活するということは、他者からの外見、見た目に対する恐怖を感じ続けていなければならず。これが無意識下に多数他者からの外見的過剰反応を作り出してしまうのである。



 このように、イジメというのは直接被害者以外にも心理的恐怖感を植え付けてしまうものであり。直接可視化出来ない被害をも作り出してしまうものでもある。

 これはイジメに限らず、体罰の原因となっている体育会系幻想に基づく「規範意識」的な、恐怖を用いた抑圧でも生ずるものである。

 刑務所における懲役刑というものも、結局は体育会系幻想に基づく「規範意識」の刷り込み学習に過ぎず。故に実効性ある再発防止にならないのもこのためである。

 権威や威力抑圧を用いて服従させておけば、その場限りには外見上従順さを「感じる。」ことが出来るが。これを短絡的に人間性の回復と「見なす。」ことは非常に無責任な文科系大衆観念に過ぎないのである。

 合理性を伴わない観念に満足して、論理検証的に社会安全性の確立を放棄するというのは、原発の危険性を放置するのと構造的には全く同じ無責任性であるということを認識すべきである。

 これを「わからなかった。」で済ますのであれば、あらゆる「人災」の類がもたらす結果には誰も責任を取る義務などないことになる。そこまでバカならもはや何を論じても無駄というものであろう。



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報復。

2013年03月04日 15時05分35秒 | 意識論関連
○無差別報復。

 岩淵で連続放火があったらしい。犯人は今のところ捕まっていないらしく、ウチは岩淵も遠からず近からずな場所なので、ちょっと気持ち悪い。

 連続放火などの無差別破壊行動というのは、通り魔同様社会に対する自律的責任の放棄である。

 自律的、自発的に社会安全性を求めない者というのは、気分感情でしか行動が決定しないので、気分的に世間への不満を持つと簡単に通り魔的無差別破壊行動へと暴走するのである。

 自律的、自発的に社会安全性を求めないということは、すなはち規範意識的な他律抑圧でしか社会的責任を構造原理的に自覚出来ず、自律のない者というのは、自暴自棄になると構造原理的に歯止めが全く効かなくなる。

 自分自身で歯止めが効かない状態を指して「自律がない。」と言う。



 「罪の意識」というのも、実質的な被害を伴うものと感覚的錯覚によるものもあり。これを分別するのは感覚ではなく論理検証性である。

 サバイバーズギルトのようなものは罪の「感覚」であって、実質的には自分の行動が他者に被害を生じさせてはいない。

 これと同様、「被害者意識」というものにも実質的加害者が存在する場合と、感覚的な錯覚に過ぎない場合がある。

 無差別破壊行動を行う者というのは、多数他者社会に対する観念的被害者意識という勝手な思い込み錯覚が動機の根底に存在するからであって。こうした頭の悪さ、自律的論理検証性が欠落しているからこそ、不毛な反社会的無差別破壊行動へと暴走するのである。

 具体的に加害者が存在しない、或は加害者が特定出来ない場合における社会に対する無差別報復というのは合理性が全く存在しない。

 そもそも報復という行動自体に合理性など存在していないのである。

 司法システムにおける刑法罰というものも、あくまで被害者の気分感情的報復に過ぎず。こうした「悪者探し」にばかり意識を奪われ、「虜になって。」いるからこそ、合理的で実効性のある犯罪や事故の再発防止策が進まないのである。

 ヒトの多くは悪者を規定して罰を与えておけば、目先の気分感情的には安心で満足であろうが。こうした気分感情論こそが論理的合理性のない実証不能の観念の源となっているのである。

 イジメというものも、特定の「悪者」を規定することで多数同調の安心満足を得るためのものであり。差別排除は懲罰による快楽を促すのである。

 犯罪被害者の気分的満足というものと、犯罪の再発防止対策というものは構造原理的に全く異なるものであって。後者の方は現在の司法システムにおいては全く考慮されていないことを、多くのヒト達は報復だけで気分的に満足してしまい、放棄していることすら認識してはいない。

 社会安全の観点からは、被害者の報復感情の充足よりも、危険工学的な再発防止策の確立の方が重要であるが。従来の司法システムへの盲目的依存によって、具体的再発防止策の確立は全く進まないことに陥っているのである。



 報復による気分感情的満足ばかりを追求している頭の悪さを認識せず、無差別破壊行動者の頭の悪さを指摘することは出来ない。これらは共に同じ気分感情主体の文科系大衆観念であることに変わりはないからである。

 犯罪被害者の気分感情に寄り添って、気分感情的共感さえしておけば被害者のご機嫌取りも可能であろうが。これは大衆迎合に過ぎない。

 逆に言えば、被害者の感情論を否定することによって、大衆迎合を放棄すれば人気が得られないことも充分わかっている。それでも優先すべきは社会安全性であることに論理的異論など存在しないのである。




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大きなこと。

2013年03月04日 15時04分21秒 | 意識論関連
○大きなこと。

 通り魔行動などの犯罪行為というのは、本質的自発性によるものではなく、社会環境依存の結果である。

 「大きなことをしてやりたかった。」という動機における「大きなこと。」とは、あくまで多数他者からの外見的基準に基づくものであって、どんなに個人的で身勝手であっても本質的には自発性ではない。

 本質的な自発行為であれば、他者からの外見的な「事柄の大きさ。」に依存することなく、あくまで個人的に楽しむことが出来ていなければ本質的な自発行為とは言えないのである。

 「憧れ。」というものも、実際には本質的自発性、本質的主体性に基づく価値観ではなく。あくまで憧れうる他者ありきの価値観なのである。

 「大型クレーン車を運転したら、カッコイイ。」などという動機も、クレーン車を運転している他者への憧れに基づく価値観であって。これは暴走族を見てカッコイイと思うことと心理的には同じものである。

 外見上での「カッコ良さ」に執着するのは、個人が自己内部において主体的に楽しめる純粋行為を持たないが故の結果であり。「他者への憧れ=純粋さ。」というのは文科系大衆観念に過ぎず、論理的には自発的動機にはならない。

 自発的純粋行為というのは、あくまで個人内部において主体的に楽しむことの出来る行為であって。これには社会的な「大きさ。」を求める必要性が最初から存在しないのである。

 ヒトは相互関係性の動物であり、社会を形成する習性をも持つため、他者からの評価や外見に対する強迫観念的執着を本能的に持っており。これが個人の本質的主体性を喪失させ、多数他者からの外見的評価にばかり執着させてしまう原因なのである。

 暴力的だった子供が囲碁を覚えて冷静さを獲得したり、ケーキ作りを始めることで暴走族から更正したりするのも、多数他者からの評価を過剰要求しなくなるからである。



 個人が本質的な自発的純粋行為ではなく、他者からの評価報酬を要求している場合。多数他者が自分の思い通りに評価をしてくれない場合がほとんどであり、大抵の場合は欲求不満に陥り暴力的行動へと陥るのである。

 本質的な自発的純粋行為を行っている場合、あくまで個人的な探究心、好奇心を追求しているため。他者からの評価報酬に関わらないため、結果的に「純粋」さを発揮することになるのである。

 たまたま運良く、本質的な純粋行為でないにも関わらず他者からの評価報酬が得られたとしても。これは個人内部の本質的な心理的充足が得られないため、どんなに世間的に成功しても世間的評価報酬の欲求には際限がない。

 こうした欲求の際限のなさこそが、ヒトを通り魔やテロといった暴走性へと導くのである。

 純粋に自発的な動機を持つ場合には、こうした暴走性は持たず、あくまで社会との調和にも意識が働くようになるのである。なぜならば、純粋な自発的行為というのは、自己内部での持続可能性をも追求するようになるからである。

 社会との調和への意識とは、個人が主体的に純粋に楽しめる行為を持つことによって、初めて自律的にも働くものであって。文科系大衆観念的に多数他者からの強迫観念的抑圧によって無意識に強制されていたのでは、これは「自律」ではなく「他律」に過ぎず、これは気分感情の大きさによる抑圧しかされ得ず。そこに個人の主体的「意思」は構造原理的に働くことはない。

 個人が主体的に自律的社会責任を持つためには、多数他者や権威からの観念的抑圧に依存しない論理検証性が欠かせないものであり。文科系大衆観念的な「自意識」や「超自我」のような他律抑圧では構造原理的に構築され得ない。

 業績の捏造というのも、多数他者や権威からの評価報酬の過剰欲求が作り出すものであり。本質的純粋行為であれば多数他者や権威からの評価報酬が得られなくても自律的に抑制され得るのである。こうした「自律」なくして社会安全性や持続可能性は構築されることは構造原理的にない。
 



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