書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

自覚

2020年06月30日 00時10分36秒 | 意識論関連

いかなる犯罪者であっても必ず「叡智」なる謎の能力が働いているのであれば 常に罪を問うことが出来るという理屈だが

罪を問うて罰を与えたところで犯罪の原因究明や再発防止になるわけではない

罰というものは必ずしも社会安全性において唯一絶対的最適な選択であることの証明などなく

むしろ罰という暴力によって釈放された際には暴力性を助長している可能性すら否定できない

実証不能の謎の「叡智」などというカントの勝手な妄想ファンタジーに基づき社会安全性にとってより有効な方策の選択可能性を失っていて倫理もヘッタクレもないのである

それを「バカ」と形容する以外に何かあるなら教えていただきたいくらいである

「バカ」と言われて気分が悪いのであれば 少なからずバカである自覚がある証拠である

むしろ「なんとも感じない」方がよっぽど脳がイカれている

 

Ende;

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盲目性

2020年06月29日 23時53分07秒 | 意識論関連

他人の幸福への配慮をするためには 自分自身が主体的にこの世界で生き続ける理由が必要である

カントの如く頭ごなしに「他人の幸福に配慮することが道徳的で正しい」などという話に合理性はない

カントは「自分には叡智が働いている先天的に優秀な人物なんだ」と勝手に妄想し 勝手に満足しているだけであって ありもしない「叡智」妄想で満足して何も考えなくなることこそが むしろヒトという種の生物における習性であり シーケンシャルな「因果律」でもある

 

自己がこの社会の中で生き続ける理由なしに 他人への配慮も意味を為さない

なぜ教育において自主性や主体的判断を重んじられるのかと言うと それが個人の自律的な社会的責任判断選択の源となるからである

ところが 幼少期から虐待を受けて育った子供が大人になると 再び自分の子供に虐待を連鎖したり 他人に対しても暴力的行動を採る傾向というものがあり 同時に自律的な社会的責任判断選択もできなくなるのである

これもまた「因果律」ではあるものの 幼少期から脳に「学習」させられてしまった環境自体に選択可能性はない

子供の頃にどのような育て方をされるかについてはそれぞれであって 決して一律に公平だとは言うことは出来ない

劣悪な環境で育った場合程自律的判断能力が欠落しがちな傾向があり 決して犯罪の結果だけを基準に「罰の公平性」を問うても意味がない

犯罪者に特有な子供の頃の養育環境というものがあるのであれば それは改善しなければならない

なぜなら子供には自分の養育環境を選択する余地がないからである

「他人の幸福に配慮する」ことが道徳的だと言いながら 「叡智界」などという実証不能のファンタジーに基づき 犯罪の全ては自己責任だと言い張るカントは頭がおかしい

犯罪者と言えども 決して自ら犯罪者になろうと思って生まれてきた者などいないのである

環境依存性という「因果律」に左右されて自律的な社会的責任を負わないことは「悪いこと」ではあるが

自主性や主体的意思を一切重んじてもらえないという養育環境の不公平まで「叡智界」を根拠に一律に人間性を発揮しろというのは あまりに短絡的で慈悲に欠ける冷徹な発想である

カントの勝手な妄想に基づいた道徳法則などというものは実存せず あるのは論理的根拠に基づいた社会安全性の追求のみである

社会安全性を優先しない倫理など存在しないからである

カントの勝手な妄想によって満足することにより 回避可能な危険性が放置されていて倫理もスッタクレもあったものではないのである

カントが勝手に決めつけた道徳法則などというものを万人が普遍的に鵜呑みに出来るわけもなく その道徳法則なるものの存在を鵜呑みにして満足している大衆や「哲学者」達も 所詮はヒトという種の生物の盲目性に基づく「因果律」に支配されているに過ぎず

バカであることに違いはない

バカは怠惰で無能なのだ

ヒトという種の生物における 先天的な「社会性」というものは 必ずしも常に人間性を伴うような都合の良いものではなく 特定の集団組織における統率的協調行動を促すだけであって これはむしろ差別排除やイジメの大きな要因ともなるのである

「普遍的」という言葉に惑わされ あたかも多数派なら普遍性の論証になると思ったら大間違いである

ナチスは民主的に選ばれたことを忘れてはならない

「どんなにたくさんの白いスワンを集めてきても この世の全てのスワンが白いことの論理的証明にはならない」(カール:ライムンド:ポパー)のである

国会原発事故調査委員会報告書において 事故の最も根源的原因として「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」だと結論づけている

「組織の利益を優先」するという組織体制への迎合性や同調性もまた 「個人の自律」を不具にする大きな要因であり 決して「ヒトの先天的な社会性」が常に人間性を伴うわけではない

 

カントの純粋理性批判を読んだバカの大半は 「自分には実証も知覚も不能の叡智が存在している素晴らしい存在なんだわ」などと勝手に妄想して満足し それが糞の役にも立たないという現実(真実)を見えなくさせ バカになるよう誘導されていることに誰も気付かなくさせているのである

バカは疑うことを知らない

なぜなら バカは何も「考え」ないからである

 

Ende;

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どうかしている

2020年06月29日 22時03分06秒 | 意識論関連

またNHKの「100分で名著」で 先週終わったはずのカントの純粋理性批判流してるわ

聞き手のアナウンサーや伊集院光も頭おかしいけど

番組制作者達は「叡智界」なんてオカルトファンタジーを本気で信じてんのかしら

どうかしているぜ!

何で畑村洋太郎は何も言わないんだろう

畑村洋太郎までボケちまってんのかしら

 

Ende;

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資質

2020年06月25日 15時40分17秒 | 意識論関連

「叡智界」などというファンタジーを「近代哲学の最高峰」などと扱い 「世界は存在しない」などと言い出すマルクス:ガブリエルを「新時代の哲学」などと形容している現在の哲学界というのは 頭のおかしい文科系妄想観念者の集まりでしかない

哲学というのは倫理や人間性を扱う分野であり 倫理において社会安全性を優先するのは当たり前の話である

安全性というものを確率するためには客観的な論理的根拠は不可欠であり 論理的根拠のないファンタジーを盲目的に信用しておいて倫理も人間性もスッタクレもあったものではない

カントなどが主張する「叡智」なるものは カント自身が「絶対に認識不可能である」と述べており しかもそれは理性を超越した悟性などというものによって働くものであると定義しているため論理的根拠の説明は一切しなくて良いという 極めて御都合的な思考停止を促す妄想観念である

伊集院光は「叡智界がないと罪人に罪を問えない」などと述べたが 罪を問うために叡智界などというファンタジーをでっち上げていたのでは刑法懲罰の不毛性や無効性は一切「考え」なくても良いことになるのである

 

先天的本能というのは機械手続き的にシーケンシャルである

それなら先天的本能もまた「理性」だと言うことは可能である

しかし遺伝的進化という「結果的に死ななかった」個体種の行動バイアスというのは 機械的な論理回路的ではあっても これはヒト個人の客観的論理検証性とは全く別のものである

先天的本能というのは機械手続き的に主観的感覚を作り出すものであって 客観性なくして論理検証(考え)にはならない

プロトコル(社交辞令)のような「形式」というのは パソコンのような機械における手続きであって パソコンには客観性などないため 内容が詐欺であろうと何だろうと形式さえ整っていればパスしてしまう

ヒトは形式に異常執着する習性があり 既存の形式に則って学術論文を提出して権威に査読をしてもらわないと信用に値しないという手続き形式さえ通過すれば エマヌエル:カントのファンタジーでも哲学扱いされ続けてしまうことになる

生物学における「生物の目的は生存」という観念も同様である

本論は現状の哲学権威や生物学権威への批判であり 「権威による査読」という形式に則っていたのでは話にならない

「ヒトには人間性があるはずだと信じたい」などというのは 論理客観的根拠を伴わない純粋な主観に過ぎず 「信じたい」という個人的好き嫌いを主張したところで具体的に「どうやったら人間性が発揮出来得るのか」についての構造説明や対策が立つわけではなく 「客観的根拠のないお祈り」程度の意味しかないのである

「信じたい」ことだけを信じていれば 詐欺でも嘘でも間違いでも錯覚でも何でも信用してしまいかねない

信じるに値する論理客観的根拠なしに主観的に気分が良くなる話ばかりを盲目的に信用してしまうからこそ 間違った形式手続きにばかり異常執着し より有効な対策への転換性を喪失することになるのである

「脱構築可能性」って誰が言ったんだっけ? ジャック:デリダか何かが言ってたような気がするけど ヒトは形式への執着によって構築性というものが発揮されてしまうのは 形式に則っておけば主観的に安心満足だからであって その形式が本当に社会安全性にとって最適なのかどうかには「考え」が働かなくなることで脱構築可能性を喪失する原因となるのである

養老孟司は「ヒトから形式は切り離せない」と述べたが 当然論理客観的根拠があるわけではなく 単なる養老の勝手な決めつけ預言でしかない それを多くのヒトは鵜呑みにしたのである 少しは頭の悪さを自覚すべきであろう

あらゆる「人災」の根源には主観による思考停止が働いているのであって 形式への異常執着も それこそが最も人間性において有効であるという一種の錯覚に起因するものである

 

デイビッド:ヒュームによる「どうせ全部主観じゃねぇか」などという主張は 主観の中に論理客観的根拠の認識可能性が存在することを論理的に反証できているわけではない

にも関わらず ヒトの多くが「どうせ全部主観だ」などと言う話を鵜呑みにするのは 話が短絡安易で多くのヒトに「わかりやすい」からである

「わかりやすい」とは言っても 別に論理客観的根拠に基づいて「理解」しているわけではなく 単に気分的に納得し 安心満足し 主観的に「解釈」しているだけであって その主観によってこそ論理客観的検証性(論理的な考え)が失われてしまうのである

他人を騙そうとする者にとってカモを見つけるのは簡単である たとえノーベル賞を受賞した野依良治であってもカントの哲学がファンタジーではないかのように錯覚させて鵜呑みにさせることは可能なのである

権威というのは所詮「ヒトが信じておきたい相手」に過ぎず むしろヒトの盲目性を助長する「形式」にほかならない

宗教や裁判所が異常に荘厳な建築物で装い飾るのは 本当は論理客観的な根拠が一切ない「慣習」でしかないからである

「お祈り」だの「判決」さえ実行しておけば自動的に神様だの判事が常に正しい結論を下してくくれるものだと勘違いさせるためには 外見上の権威性をでっち上げなければないため 法衣のような形式で装わなくてはならないのである

主観的に「疑いたくない」ものを信用させるためには ヒトの盲目性を利用して「考え」ないようにさせておく必要性がある

気分的に安心満足感さえ与えておけば ヒトの多くは宗教や刑法罰を唯一絶対的な有効なものだという錯覚させることが可能であり この錯覚によってヒトは最適解を見失い意味のない因習に取り憑かれ 本来なら回避可能な危険性も平気で放置するようになるのである

そして それが社会的に無責任であるという自覚も一切持たない

宗教というものが本当は社会安全性にとって有効ではないことは 誰しもが知っているのである

だからこそ新型コロナウイルスが蔓延した途端に宗教儀式は後回しになったのである

本当に宗教が社会安全性に有効だと信じて疑わないのであれば 宗教儀式や礼拝を後回しにせず むしろ積極的に儀式や礼拝に邁進してなければおかしい

そもそもヒトにとって都合の良い神が存在するのであれば パレスチナの赤ん坊が丸焦げにされている現状に天罰が全く下らないのはおかしいのである

宗教というのは主観的に安心満足するためにやっているだけであって 客観的には意味がないことは本当は誰もが「知って」いるのである

宗教というのは芸術やスポーツと同じで 主観的に好きだからやっているだけであって それが人間性や倫理や論理客観的根拠に基づく真理に供するものではなないのである

科学や哲学は宗教を禁じたりはしない

何かを強制的に頭ごなしに禁止したりするのはイデオロギーの仕事であって 科学や哲学は「論理客観的根拠がない」ことを論証するだけである

 

無謀な独裁体制が維持温存されるのは 独裁者だけが異常なのではなく 異常な独裁者の命令に服従する多数の兵隊によって独裁体制が維持されるからである

体制に対する批判を一切せず 盲目的に唯々諾々と服従してくれる忠誠忠実な下僕の群れによって独裁体制というのは維持温存されるのである

これは太平洋戦争に突入する時の日本や 今の北朝鮮やオウム真理教などのオカルト集団でも同じ構造である

暴走している集団は その内部で安心して服従し 同調し 統率的に暴走し続けることが出来るのである

これがヒトという種の生物における生物学的な「社会性」の正体である

この生物学上の「社会性」というのは 統率的な協調行動は促しても 人間性や倫理においては害しか及ぼさない

軍隊や警察という組織も所詮道具としてしか意味はなく 香港警察のように独裁政府の体制に従順なだけなら市民に平気で発砲するのである

一面的な有効性だけを抽出してきて あたかも普遍的有効性の論証であるかのように言い張るのは 論理客観的検証とは言えないのである

「ヒトの多くは戦争をしていない」という事実を述べたところで 具体的に戦争の原因や再発防止の対策になるわけではない

どんなにたくさんの白いスワンを集めてきても この世のスワンの全てが白いことの論理科学的証明にはならない(カール:ライムンド:ポパー)からである

戦争という大きな事象の影には無数のイジメや差別が隠れているのであって これを撲滅しない限りは戦争の根源的防止にはつながらないのである

ヒトという種の生物は 先天的にイジメや差別をする習性があるという欠陥の方を認識し 対策をしなければならないのに 「ヒトには人間性があるはずだ」などという大衆迎合で満足させて人気取りに勤(いそ)しむのは 京大学長としての資質に欠けている

それは大学の仕事ではない

 

Ende;

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嘘を見抜くコツ

2020年06月23日 11時40分19秒 | 意識論関連

評価承認欲求の強い人は眼縁筋が動かない傾向がある

なぜ顔の筋肉を動かさないのかと言うと 相手に自分の感情を読まれたくないからである

これも生育環境に起因するものであり 親や大人から自分の感情を読まれると嫌な目に遭う環境で育つと表情を出さないように「学習」してしまうからである

ある意味「かわいそう」な性質ではあるのだが 評価承認欲求が強いと嘘も平気で言えるようになってしまう

多くの他人から評価さえもらうことだけが「目的」になっているので バレなければ嘘をついても何とも「思わない」ためである

直接面会して話を聞いてしまうと 話の全てを理解できなくても雰囲気で丸め込まれて相手を気分的に信用してしまうことがよくある

多くの哲学者達が「会って話そう」としたがるのは その場限りに相手を丸め込んでご機嫌取りをして相手の思考を停止させることに自信を持っているためである

これはペテン師や占い師も同じである

多くの他人を丸め込んで信用させておけば金儲けにはなるが 同時に客観的真実を多くの人から奪うことで社会安全性を損なう原因ともなるが それはペテン師にとっては「どうでも良いこと」である

「ポーカーフェイス」でもあるのだが それが主観的に「かっこいい」としても人間性の論証になるわけではない

誰の眼縁筋が動いていないのかは 動画から音声を消して表情だけを見ると良くわかる

眼縁筋が動かないことが常に嘘つきであることの論証にはならないが 統計的な傾向性としてはあるので知っていて損はない

「嘘をついているのかは 眼を見ればわかる」という話は良く言われるのだが ヒトの多くは音声の内容に意識を取られて表情だけを純粋に見ることが出来なくなるため 記録された動画から音声を消すと良くわかるのである

「音声の内容に意識を取られて」はいるのだが 直接会話の内容というのは必ずしも内容を論理客観的に検証することは出来ず 主観的印象による個人的な好き嫌いだけしか頭に残ることはない

だから「騙される」のである

ましてや電話だけならなをさらである

もし「○○警察署の〇〇ですが」という電話があった場合には 一度電話を切ってから最寄りの警察に問い合わせてみれば良いのである

「もしもし 俺だけど」だと言っているなら 一回その「俺」の電話番号に問い合わせてみれば良いのである

「amazonですが」とか「楽天ですが」というメールがきたのであれば メールのリンクは使わずに一回自力でログインしてみれば良いのである

嘘かどうかは一瞬では判断できないが よくよく検証してみればドメインが違うとか メアドがおかしいとかに気付くことは不可能ではない

一番いけないのは 焦るなどの「感情に煽られる」ことである

 

Ende;

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バカシーケンス

2020年06月23日 10時42分13秒 | 意識論関連

罰というものを正当化し 罪を問うために「叡智界」などというファンタジーを信用するというのは 悪者に罰を与えることによる快楽を正当化するためであり あたかも「罰を与えている自己は実証不能の叡智が働いている素晴らしい存在だ」という身勝手な妄想に酔いしれることが目的である

では なぜヒトは600万人ものユダヤ人殺害計画を立案したり 相模原障害者施設に包丁を持って無抵抗な障害者を殺害したりするのであろうか 彼らにはなぜ「叡智」が働かないのかについての論理客観的根拠というものがカントの純粋理性批判では全く論じられていないのである

それとも東池袋プリウス暴走事故被害者遺族の松永莉子パパが「再発防止を優先して欲しい」と言うのは理性であって 理性よりも罰を優先して「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして大衆人気を得ている梅沢富美男こそが「叡智」を発揮しているとでも言うのであろうか

 

虐待をされて育った人の多くは虐待を連鎖したり 他人の迷惑に配慮を欠いたりする傾向性というものは確実に統計的証拠として存在しており これは生育環境が悪いというハンデ(不公平)が大きく関わっているのであって これは社会全体で是正しなければならない問題である

しかし刑法懲罰制度にはこうした不公平のメカニズム構造を解明するための仕組みが全くなく 再犯率50%近くある懲役刑に何の疑いも持たなくなるための「カントの妄想」のために社会安全性が後回しになっていることに誰も気づかないというのは 社会的な大損害であり 無責任な傍観放置に他ならない

幼児期における生育環境というのは本人にはどうにもならないものであって それが大きな要因となって社会安全性を損なっているのであれば これは社会全体で是正しなければならない

虐待というのは四六時中親のご機嫌取りをし続けなければ殺されるかも知れないという恐怖に脅えて育つという環境であり 自己の主体性や自主的判断というものを著しく阻害してしまう最悪の生育環境であるが故に多くの犯罪を生み出す温床となってしまうのである

暴力を伴うような虐待でなくても 「勉強しろ」などと根拠もなしに頭ごなしに学力成績を求められて育つことも精神的虐待となり 子供の自主性や主体的判断能力を著しく阻害してしまうことによって 東大医学部に入れる程の学力成績がありながら地下鉄に毒ガスを撒き散らして「人類の救済だ」などと言い張るバカを生み出す原因ともなるのである

「一つの大きな事象の影には無数の小さな事象が隠れている」のであって 「学力=知能」という根拠のない大衆観念に基づいた学力至上主義が温存された結果 誰も「カントの妄想」に意味がないことに気づかないという集団痴呆に陥っているのである

 

カントの言う「叡智」妄想と ニーチェの「超人」幻想を結びつけてしまえば 「厳罰化さえしておけば自動的自然にヒトという種の生物に人間性が宿るように遺伝的進化を促すはずだ」というオカルト観念をでっち上げることも可能である

それは論理客観的根拠を伴わず 単に観念主観的満足感を得るためだけのオカルトであって もはや「地下鉄に毒ガスを」と述べているのと同じレベルの話でしかない

 

カントの「叡智」妄想を信じ込んでいれば 「自分には先天的に人間性が組み込まれていて常に正しい選択しかしない優秀な存在なんだわ」などと勝手に思い込んで満足することは簡単であろう

それこそがヒトの先天的欠陥に由来する無意識でシーケンシャルな「因果律(運命)」に則った行動選択であり バカに陥る根源的原因でもあり 現時点での選択可能性という本質的自由を喪失する原因でもある

ヒトは「信じたいことだけを信じようとする」習性があるが 「信じたい」かどうかは論理客観的根拠にはならない それはただの個人的好き嫌い(純粋主観)でしかないからだ

自己というものに先天的欠陥が存在していることを理解し認識することが「嫌」で 「信じたくない」からといって理解することを放棄して良い理由にはならない

その主観的な「嫌」こそが 精神の怠惰を招き ヒトから論理客観的根拠に基づいた真理(本当のこと)から遠ざけてしまうのである

真理(本当のこと)がわからなければ 社会安全性にとって最も重要なものとは何かもわからなくなってしまい 本来回避可能であるはずの危険性も放置されることになってしまうのである

多くのヒトがその危険性を認識できなければ 多くのヒト達は誰も問題だとすら「思わない」であろうが その「思い」もまた根拠のない主観であり 重大な責任であっても多数で分散すれば薄まるという「感覚」によって回避可能な危険性も放置されてしまうのである

ヒトという種の生物の先天的欠陥というものを認識理解しなければ ヒトはバカが治ることなく根拠のない因習を漫然と温存するだけである

それは未開の原住民が形式に囚われ意味のないおまじないで安心満足しているのと同じである

ヒトが形式にこだわるのは 形式という習慣的行動に主観的な安心満足を「感じる」からであって 論理客観的な根拠があるわけではない

プロトコル(社交辞令)というのは 「これをやったら失礼にあたるが あれさえやっときゃ失礼には該当しない」という「形式」に過ぎない

httpsとかftpなどといったネット上のプロトコルも形式であって 形式が整っていなければ理解出来ないのはコンピュータは純粋理性であって感情を伴わないからである

コンピュータは純粋理性だが それは理性しか存在していないからであって それならバカな哲学者なら「理性と感情のバランス問題」だと言い出すであろうが これもまた嘘である

ヒトには様々な感情が存在しているが その感情の強度程度だけで行動が決定してしまえば野生動物と同じであり 統合的に「考え」て何を優先すべきかを選択することによって人間性や倫理というものが発揮されるのであって これは安易な「バランス問題」ではなく 徹底した自己客観的論理検証性の問題なのである

それこそ大脳辺縁系を損傷してしまえば感情に左右されることなく「考える」ことは可能であろうが それは同時に何の問題意識も働かないことでもある

大脳辺縁系を損傷してしまえば 目の前で子供が列車に轢き殺されても何の感情もわかないかも知れない

それなら「何が問題で どう選択すべきなのか」も「わからない」であろう

様々な先天的行動バイアスによって促される感情の中から 自己客観性に基づいた統合的な選択可能性によってこそ人間性や倫理というものは発揮されるのである

「カント様の妄想を誰も疑わなかったから自分も信じ込んでいました」というのでは ただの「バカの言い逃れ」でしかない

ヒトは主観的に気分が良くなる話だけを信じ込もうとする習性があるため 気分が良くなって主観的に安心満足すると何も「考え」なくなるのである

詐欺に騙されるのも「感情を煽られる」からであって 恐怖や安心といった主観だけで行動が決定していれば「因果律」に従って動物的選択しかできなくなるのである

それはとてもシーケンシャルで 何の客観的保証もない選択である

 

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社会安全性を優先しない倫理などない

2020年06月22日 23時53分16秒 | 意識論関連

メモ:純粋理性批判(4)

近代哲学の最高峰(笑)

自由と道徳を基礎づける

本当の自由とは

実践理性

最高の生き方

腹が減ったから食う 因果律に束縛された状態

道徳的に生きる

○自分の成長につながるか

○他人の幸福とは何か

 

無批判に受け入れることは道徳的ではない

不道徳な行動をしないことを自由として受け入れることもできた

人間が知覚できない叡智界(出た!

絶対に認識出来ない

犯罪者は現象界に属する行動原理に則っている

行為の主体は叡智界に属している

認識出来ないが自由はある(? 何言ってんだ?

罪が問えない →罪に問うために叡智界をでっちあげるのか?

人間は二重性を

感性と理性

動物と同じで因果律に従っている

 

道徳法則

普遍的立法の妥当する

究極の道徳

皆に採用されるかどうか →多数決じゃねぇか

対等であることに尊厳がある

 

汝の意思の採用する各律(ルール)が常に同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行動せよ

他人の幸福を基準とする

ニーチェはカントを批判しているが「そんなに対立させなくても良いのかな(西研)」 →雑であやふやな解釈を西研は平気でする

 


なぜ「他人の幸福を自らの行動基準とするのか」をカントは論じていない

倫理に適う行動選択というものが認識不能な「叡智界」では話にならない

ヒトが倫理的行動選択を行うには 自らの主体的意思として社会安全性を求むることによって発揮されるのであって 実証不能で論理的根拠のない「叡智界」の問題ではない

ヒトである以上は客観的に自己の行動を検証することは可能である

可能ではあるのだが たとえば幼児期から虐待を受けて育った人が自分の子供にも虐待を連鎖してしまったり 利己的行動で他人に迷惑をかけてしまいがちな傾向は確実にある

罪を問うために叡智界が必要というのであれば これは罰を事後正当化するために叡智界をでっちあげているに過ぎない

本当に社会安全性を高めるためには刑罰ではなく治療が必要であり 叡智界などという実証不能で論理的根拠のないファンタジーこそが むしろ社会安全性を損なう原因なのである

カントは「自分は道徳的な行動を採ることができる自由な存在で それは知覚不可能な謎の「叡智」なる特殊能力によってもたらされている」という妄想に勝手に酔いしれているに過ぎず むしろ「ヒトという種の生物の先天的行動習性」としての因果律に則ったものである

ニーチェが何を言ったのかなど どうでもよろしい アイツは根拠のない身勝手な決めつけの羅列しかしてないからな 西研はニーチェにも価値があるかのように述べているが これは西研自身が何も論理客観的に検証していないバカだからである

「そんなに対立させなくても良いのかな」などというあやふやな判断しかしていないのは 内容を全く論理客観的に理解していないからである

重要なのは 「なぜ道徳的な行動が採れなくなる人が出てくるのか?」についての論理客観的原因の究明であり それは主体性や自主性の欠如に起因する自律の喪失である

 

「汝の意思の採用する各律(ルール)が常に同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行動せよ」

法手続きに普遍性などない 多くの市民が知らぬ肥料取締法違反で書類送検されても警察の社会的存在意義が損なわれるのと同様 法手続きや戒律といった「これさえ守っときゃ全ては解決する」という規律に普遍性などないのである

例えばである 鉄道線路軌道敷内に3歳児が迷い込んでしまっているとして 軌道敷内に侵入することが違法だとするのであれば 果たして3歳児を救うことが
「悪いこと」だと言えるであろうか

法手続きは手続きであって 機械的に決定されるものに過ぎず そこに「人間としての倫理的判断」が伴わなければ必ずしも「自律的な社会的責任判断選択」は成立しないのである

「皆に採用されるかどうか」というのは多数決に過ぎず 多数がバカならバカ主義にしかならない民主主義制度という「手続き」に意味があるわけではない

かつてのドイツではナチズムが民主的に採用されたのであって 何も考えていないバカの多数決に意味があるわけではない

多数という環境に左右される形で選択していて 自律もヘッタクレもあったものではない

多数の人が刑罰を求めているからといって それが社会安全性にとって有害であることを理解するのは理性であって「叡智」だの「悟性」だのといったファンタジーではない

「犯罪者間における罰の公平性」などと称して 犯罪者以外には何のメリットもない屁理屈に基づき 「女子中学生を強姦することは強盗殺人よりも罪が軽い」と見なして懲役何年だかの判決を下すだけで解決だとみなし しかも更生しておらず再犯しても犯罪者本人以外に責任の所在がない無責任な制度というのは社会安全性にとって有害でしかないのである

 


他人の幸福への配慮が働くには 自己が主体的に存在することへの幸福を持つことが大前提であり 自己を犠牲にしてまで社会安全性を基準にした選択を行うためには「自己の生存価」に依らない存在としての尊厳が必要なのである

ところが幼児期に虐待を受けて育った人は自己尊厳というものを持つことが出来ないために虐待を連鎖したり他人への配慮が欠落してしまうのである

評価承認欲求というものは 親や大人から評価承認されないと自己の生存が脅かされるという恐怖心が根底にあり 物理的な虐待を伴わずとも精神的虐待によって醸成されてしまうものなのである

しかも ヒトという種の生物には先天的に統率協調行動バイアスが存在しているため 順位序列への異常執着が無意識に行動として現れてしまい 結果的に公平性や平等が損なわれ 家庭内ヒエラルキーにまで発展してしまうことによって 子供に評価承認への異常執着性を植え付けてしまうことになるのである

 

カントは自分という存在が先天的に常に正しい選択しかしない完璧な存在であるかのような全能感に酔いしれることで 実証不能の「叡智」の働きによって常に道徳的で正しい行動しか選択しない優秀な存在だと勝手な妄想に酔いしれているだけであって 純粋理性批判というのはカントの勝手なファンタジー以上の意味は存在しないのである

そんなものを「近代哲学の最高峰」などと思いこんでいる哲学者達は頭がおかしい

 

なぜ「自己の成長」だの「他人の幸福」を基準にしなければならないのか

なぜ目先の欲望の程度や強度で行動することが「悪いこと」なのか

「悪い」と知っていながら目先の先天的欲求に逆らえないことは自由ではない ここまでは良いのだが ではなぜ目先の欲望に逆らえないヒトがいるのか そのメカニズム構造についてはカントは何も言及しておらず 「自分が道徳的なのは叡智界に属しているからだ」などというファンタジーで勝手に自己満足して気分的に「納得」しているだけであり 極めて身勝手な決めつけを結論としている

叡智界などという実証不能且つ「絶対に知覚不可能」な感覚がヒトに常に働くのであれば なぜホロコーストが起きるのか 犯罪がなくならないのか 一切説明していないのである

 

他人が次々と死んでゆく社会の中では 自己の存在の意義も失われるのである

他人の安全性に配慮しないということは 同時に他人からも自己の安全性は配慮されない社会ということになる

そんな社会の中では自己が存続(生存)する価値が存在しないからこそ 他人への配慮も働くのであり

こうした「考え」というのは謎の「叡智」の働きなどではなく あくまで理性である

「自分には叡智が働いているから常に正しい判断が出来るのだわ」なんて妄想しときゃ満足だろうよ

その勝手な自己満足もまた「因果律」だということを認識理解していないのは 理性というものの本質を理解していないからである

理解するのは理性である

謎の「叡智」ではない

 

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頭がおかしい

2020年06月20日 11時44分32秒 | 意識論関連

「因果法則も習慣的印象に過ぎない」(デイビッド:ヒューム)

 

天動説は習慣的印象に親和性があるため 科学的根拠による立証がなければ誰もが疑わなかった話である

自分が住んでいる地面が一日に4万キロも回転していて 公転軌道を1年間で一周しているとは感覚的には「思わない」のである

あくまで科学的な物理法則に基づいた知識として理解しているだけであって 実感としては赤道付近が時速1600キロで回転しているという感覚は誰にもないからだ

科学というものは客観的な論理検証に基づいたものを指すのであって 単なる習慣的印象だけで科学的証明になるわけではない

軽い物体と重い物体なら 重い物体の方が速く落下するという「感覚」も 普段の生活で軽い紙や鳥の羽根の落下速度が遅いことを実感しているからであり 比重の同じ金属の玉なら大きい方が速く落下するのではないかという「感覚」をヒトは持ちがちなのである

こうした「感覚と因果法則に基づいた客観的事実とのズレ」が錯覚であり 錯覚というものは非常に多岐にわたり主観の中に存在しているのである

何が錯覚で 何が錯覚ではないのかを区別するのが科学や哲学である

間違った認識を排除すれば それは真理(本当のこと)に近づくことができるからである

「刑法罰で解決だ」とか「軍拡競争こそが安全保障だ」とか「利己的利益さえ追求しておけば社会全体が潤うはずだ」とか「ヒトは先天的に人間性や倫理が組み込まれているはずだ」などといった「感覚」が促す合理的根拠のない話であっても 大衆の多くは主観的に満足すれば簡単に鵜呑みにし 誰も問題だとは「思わない」

ヒトの多くは目先の生活に意識を奪われ 社会全体の安全性がなければ自己の生活の安全性も脅かされる可能性にまでは考えが及ばない

知り合い同士で居酒屋に行って エタノールで脳を麻痺させて話を丸めて安心することの方が 新型コロナウイルスの感染拡大防止よりも優先してしまうのは

「社会の安全性というのは政府や自治体がどうにかしてくれるものだ」という無責任な丸投げに慣れてしまっているからである

 

自発的に物事を考え 検証しなくなるのは 本質的な自発性や主体性がないからであり 自発性や主体性を失うのは「誰かの言いなりになっておけば全てうまくゆくものだ」という勝手な観念に溺れているからである

権威に服従しておけば自分の判断責任が放棄できるという「感覚」には合理的根拠が全くないのだが 責任放棄が出来るという精神的堕落怠慢が得られるために環境に流される形で権威を疑うことをしなくなるのである

権威というものは たとえ「科学的権威」と言っても権威性自体を科学的に立証することは出来ない

過去に何らかの業績があったとしても それが「これからも死ぬまで常に正しい科学的判断しかしない」ことの証明には一切ならないのである

かのアルベルト:アインシュタインであってもシュレーディンガーの理論を受け入れることができなかった時期があるという

 ◇

合理性のない最終解決という「答え」を信じ込むことによって ヒトは無意味な殺戮もできるようになる

論理客観性が失われる原因は 自発性や自主性が欠如しているからであり これが同時に「自律的な社会的責任判断選択」の欠如も引き起こすのである

典型的に社会的無責任な状態として糞DQNを例にとれば 彼らはエタノールや違法薬物で脳を麻痺させ酔っ払って糞DQN同士で糞みたいな観念を共有してその場限りに満足しているが 彼らは本質的には満足していないので他人への配慮というものが著しく欠如しているのである

本当に主体的に純粋に好きなこと 熱中できることがあれば 他人への配慮も出来るし 自律的な社会的責任判断選択もできるようになるのである

自分が好きなことを続けて生き続けるためには社会安全性や持続可能性も必要不可欠であることが前提だからである

糞DQNには自己客観性がない だから結果的に迷惑行為しかしなくなるのである

野生動物が人間社会にとって迷惑なのは 野生動物達というのは目先の欲望のままに行動し 他者への迷惑など一切配慮しないからである

もし一部の生物学者達が言うようにチンパンジーやゴリラに人間性があるというのであれば 秋葉原にでも放ってみたらどうであろうか 意外と何も起きないかもしれないし 大変な事態に陥るかも知れない

ゴリラやチンパンジーや糞DQNというのは何をやらかすか全く予測がつかない危険性がある

彼らは目先の感情(主観)だけで行動が決定しているので 社会全体の安全性だの持続可能性だのには全く興味を持たないからである

ヒトは 子供に限らず最終的な「答え」を求めてしまう習性があり この欲望が暴走することによって他人に多大な迷惑をかけるようにもなるのである

通り魔などの無差別殺人犯も「これさえ実行しておけば解決だ」という「最終解決(答え)」の過剰な追求の結果であり 理性が働かなくなっているのが原因である

これはナチスやポルポトも同じである

ヒトは理性を無視した観念によって暴走するのであって 指導者がバカなら命令に唯々諾々と従う兵隊達によって暴走はより加速度を増し 異常な殺戮へも暴走し破綻してしまうのである

彼らは暴走している間は主観的には安心しており 疑うことを全くしない だからこそ暴走できるのである

こうした暴走性に歯止めをかけるのが理性であり 理性が働くことによって自己の感情に流されることなく自律的に社会責任判断選択もできるようになるのである

理性が働くのは科学者に限ったことではなく 芸術家でも働くし 街の普通のパン屋さんやコンビニの店員さんでも働くものでもある

論理客観性というものは科学者の専売特許ではなく ヒトという種の生物が「人間」として行動選択をする上で必要不可欠なものなのである

むしろ現状の生物学者の大半は目先の業績を焦り過ぎるあまりに「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」などという実証不能の観念を科学だと言い張り

哲学者に至っては「恐怖心は理性によって働く」などという訳のわからぬ言い訳言い逃れ取り繕いはぐらかしごまかしに邁進するばかりである

頭がおかしい

悟性だの純粋統覚だのといった屁理屈をでっちあげて理性を超越した訳のわからぬ叡智などというファンタジーを哲学だと信じているというのは子供じみた「答え」の追求に他ならない

彼らは決して自分たちの間違いを認めることはなく 自分たちの既得権威性を保守するために嘘に嘘を塗り重ねてごまかし続けようとするのである

これはもはや そこら辺で酔っ払ってうろついている糞DQNと同じか それ以上の無責任さを発揮しているのである

それに気づかない大多数の大衆も 文科系マスコミ関係者も同罪である

バカは問題を解決できない

問題を解決できないからバカなのである

バカにつける薬はないが

治療法がないわけではない

簡単ではないが 不可能証明はない

体内のウイルスを直接攻撃できる薬はなくても 治療法はあるのと同じである

フリードリヒ:ニーチェは「できそうにないことは やらない方が良い」と言ったが 絶望して虚無主義に陥ることは簡単であり 原田まりるや多くの哲学者達にとっては「かっこいい」のであろうが それは単なる精神の怠慢でしかない

その精神の怠慢こそがバカの素である

 

Ende;

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恐怖心は理性

2020年06月18日 17時53分43秒 | 意識論関連

主観には錯覚が伴います

しかし 錯覚というものは客観的に論理検証することで錯覚を錯覚だと認識することができるのです

ヒトは科学的理論を理解する場合もありますが 客観的根拠がなくても「わかった」と錯覚することもよくあります

大きな鉄球と小さな鉄球を同時に高い所から落とした場合 主観的感覚としては「大きな鉄球の方が早く落ちる」と「思って」しまいがちです

空を飛んでいる旅客機が妙に遅く見えることがありますが 旅客機は機体が大きいために遅いような錯覚を促しているだけであって 実際には地上を走る車両よりも遥かに速い速度で飛行しているのです

主観的な感覚には錯覚が伴うため 「イジメはなくならない」とか「トイレットペーパーがなくなる」といった根拠のないデマを信じてしまうと むしろ予言が達成されてしまうという現象も起きるのです

ヒトという種の生物は 大半が客観的な論理検証というものをしない傾向があるため 主観的感覚によって多くのヒトはデマだろうが嘘だろうが鵜呑みにしてしまうことが少なくないのです

「哲学は答えが出なくても良い」というのは確かですが 「答えが出ないことが明確な命題」でどんなに悩んでも哲学ではありません

「答えの出しようがない命題かどうか」を判断するのは主観ではなくて論理客観的検証であり 「答えの出しようのない命題を悩んだら考えになる 頭が良くなる」と錯覚するのは主観の方です

ましてやマイケル:サンデルだの麻原彰晃を「好き」になるというのは主観以外の何物でもありません

多数がマイケル:サンデルの嘘を見抜けないからといって 「サンデルは嘘を言っていない」ことの論証には全くなりません

科学や哲学というのは本来多数決ではないからです

科学も哲学も真理(本当のこと)とは何かを探求する分野ですが 現状の哲学界というのは論理的根拠もないオカルト話の陳列で大衆の脳を酔わせているだけであり 到底社会安全性について検証出来るような状態ではないのです

マイケル:サンデルのトロッコ問題で「悩んだ」ら 何か社会安全性にとって役に立つとお思いか?

マルクス:ガブリエルが言う「世界は存在しない」などという話が社会安全性にとって意味がるとお思いか?

エマヌエル:カントの純粋理性批判が具体的に社会安全性に役立ったことがあるとお思いか?

カントの純粋理性批判というのはリチャード:ドーキンスのお伽話と同様に大衆人気だけはあるのに具体的に何かの役に立ったことは一度もないのです

むしろ「道徳」などという糞の役にも立たない観念に頼るという根拠のない因習が温存される原因でもあり 社会的には害にしかなっていないのです

道徳というのは主観的感覚しか論じません

ヒトの全てが先天的に人間性を常に発揮できるという観念に基づいた話でしかないため 論理客観的な話が全然出てこないのです

文科系主体のマスコミは 相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の被害者個人情報を世間に暴露することが「再発防止にとって必要だ」と言い張りました

もちろん客観的な根拠なんぞ一切ございません

被害者や遺族が「かわいそうだわ」という主観的な感情論に基づき お涙頂戴的に大衆人気が出そうな話を陳列しておけば何かの役に立つんだというマスコミ関係者達の錯覚によって被害者個人情報が暴露されることになったのです

主観的に「かわいそう」だという話をどんなに陳列しても 植松聖のような奴がどうして出てきたのかについての客観的原因や再発防止に役立つわけではありません

それは 道徳の授業でイジメの加害者の妄想フィクションを陳列し「たかしくんは優しい気持ちになりました」などと述べたところで 具体的にイジメの原因究明や再発防止に役立つわけではないのと同じことです

個人的な主観をどんなに陳列しても それは通り魔やテロをやらかそうとするバカの再発防止には一切ならないのです

それは社会安全性にとっての障害でしかなく 無責任且つ倫理上大問題なのです

 

野依良治は順天堂大学や東京医科大学での不正入試における問答無用の女子一律減点が間違っていることを直感的に「間違っている」と思ったんでしょう

それなら野依良治の主観的直感の全てが常に正しい判断につながる証明になるでしょうか?

野依良治の主観的直感には一切の錯覚が存在しないことの証明になるでしょうか?

現状の哲学界というのは哲学を逸脱したポンコツによる大衆迎合人気取りしかしておらず 何ら論理的根拠もないオカルト観念をいつまでも信奉するという因習から抜け出すことの出来ない状態であり 故にマルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルが哲学でもなければ倫理でもないことすら指摘できずに傍観放置しているわけです

養老孟司がいつまでも学術権威扱いになっているのも 哲学者の誰も「話がおかしい」と思っていないからです

野依良治は哲学においては素人同然で 哲学者の言っている内容を鵜呑みにして 自律的には何も検証していません

だから現状の哲学界におけるパラダイムに則った発言として「主観が大事」などと言い出しているのです

カントの純粋理性批判というのは 悟性だの純粋統覚
だのといった理性とは別の主観にこそ人間性や倫理が存在するという「理屈」です

理性を超越した「理屈」って 一体何でしょうね

そんなもんあるんでしょうかね

カントは純粋理性批判の中で「子供の好奇心=科学的論理検証(理性)」だと定義していますが これがまず間違っており この定義に基づいた論証の全てが土台から間違っているのです

ヒトにおいて理性が純粋な状態というのは「大脳辺縁系を損傷した人」であり 欲望のままに「なんで?」と問い続ける子供じみた好奇心とは全く別物なのです

大脳辺縁系を損傷した人の場合 決して子供のように好奇心旺盛に「何で?」を繰り返したりはしません

その代わりに何かを決める選択を他人から求められた場合に決定条件が足りないと「わかりません」としか言わなくなるのです

「わからないものは わからない」というのは科学的客観性に則った考えであり 純粋理性の本質というのは決して子供のように最終的な答えを徹底追求するようなものではないのです

ですからカントの純粋理性批判というのは最初から論として成立していないのです

 

子供の好奇心は欲望ですから 暴走します

子供に限らず人は短絡的な「答え」をでっちあげて満足し 論理客観的根拠があるかどうかすらも一切考えなくなる習性があるため 実証不能の観念であっても多数で共有さえできれば安心して暴走することが可能となるのです

暴走の原因というのは欲望であり 主観的感覚が促す行動バイアスに因るものです

子供には理性というものが欠けており充分ではありませんから 「わからないものは わかりません」という論理客観的な結論を受け入れることが出来ず 際限なく「何で?」と問い続けてしまうのです

大人の場合にも「最終解決」という「答え」に基づいてユダヤ人を600万人も殺害するという事象が起きることもあります

ナチスによるホロコーストの論拠となったのはフランシス:ゴルトンの優生学ですが これは生物学における進化万能論に基づいた発想であり 遺伝的進化に目的が存在する余地がないことに生物学者の誰も気づかないという頭の悪さが原因です

遺伝的進化における「合理性」とは あくまで結果的な生存における淘汰圧力の結果に過ぎず そこには誰の目的も意思も方向性も論証不可能なのです

生存にとって有利な形質を持った個体種への淘汰が起こった結果として より生存にとって有利な形質を持つ個体種だけが生き残っただけであって 個体種が自ら「生存にとって有利な形質を獲得するために何かを選択した」わけではなく そういった「目的」意識を証明することは不可能であり お伽話でしかありません

生物学上における「社会性」というものが 特定条件環境下において 特定集団内部だけにおいて有利な利他的行動を促すとしても それは必ずしも常に「個人が自律的な社会的責任判断選択」を促すわけではありません

東電社内において 原発の津波対策をしないほうが会社の利益にとって有利で 且つ 組織の利益に有利な行動を採った方が社員にとっても短期的には有利な場合には 組織に迎合して社会的責任を放棄しておいた方が気分的に「安心」で「楽」なわけです

イジメにおいても イジメに同調したり 或いは傍観無視しておいた方が「身のため」だと判断した場合 社会安全性は後回しにされることになるのです

順天堂大学や東京医科大学における入試不正が長年放置され続けてきたのも 組織内部において「生物学的な社会性」が存分に発揮されたからであり 個人が自律的な社会的責任を誰も負うつもりが一切なかったからに他なりません

順天堂大学や東京医科大学の職員達の「主観」においては 「女子受験者は一律減点することが組織全体にとって有益だ」と判断したからでしょう

ヒトという種の生物は 主観的に安心なことを客観的に安全なことだと簡単に錯覚する先天的習性があるのです

非論理的な話に対して 直感的に「何かおかしいぞ」と「思う」ことはあるかも知れません ですが必ずしもその場で「どこがどうおかしいのか」を説明できないこともあります

言語などの脳のシンボル抽象化機能が論理客観性だという話も間違っており オカルト話や詐欺であっても「言語で丸め込まれている」ことに違いはないのです

脳の言語機能というのはコンピュータにおける「I/O(入出力機能)」のようなものであって それ自体は主処理とは関係がありません だから左側頭葉領野にあるんであって 理性を司る前頭葉(脳の最も先端部分)ではないんですね

これも現状の哲学者や脳科学者の誰も指摘していない

要するに何も「考えて」などいないんですよ

偉そうに「アレを読め」だとか言い出しますけど 本当は何にも理解などしていない だから純粋理性批判などというオカルト話が信じ込まれて鵜呑みにされている

 

現状の哲学者達は自分達の頭の悪さが露見することを恐れて「恐怖心は理性だ」などという訳のわからぬ言い逃れまで始めました

ほぼキチガイです

他に形容詞が見つかりません

恐怖心というのは大脳辺縁系の働きであって 理性でも何でもないことは明らかなことであり 嘘の上塗りも甚だしく 見苦しいったらありゃしません

終いには哲学に浅い野依良治まで丸め込みました

野依がボケジジイなら騙されたことにも死ぬまで気づかないでしょうな

それが原因で回避可能な危険性が放置され続けたとしても それは私の責任じゃありませんよ

そこまで面倒看れないですよ

あたしゃ神様でも仏様でもないんですから

 

Ende;

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バカになるのは簡単である

2020年06月17日 13時57分08秒 | 意識論関連

カントの純粋理性批判の第二回では「科学の知は、なぜ共有できるのか」というタイトルだったが

ヒトの共有できるものの全てが科学的知識なわけではない

むしろ非科学的だったり 非論理的だったりするオカルトの方にこそ大衆は面白がって群がる傾向が見られるものであって 論理客観的根拠を伴わぬ実証不能の観念を振り回して他人に多大な迷惑をかけてきたのがヒトという種の生物の先天的習性なのである

もしヒトが先天的に常に科学的知識を共有できるのであれば 温室効果ガスによる地球温暖化の影響が共有された時点で対策が徹底されるはずだが 実際には目先の金儲けが優先され傍観放置されているのである

「5Gアンテナが新型コロナウイルスの蔓延に関わっている」などという 全くもって意味不明のわけのわからぬオカルト妄想を鵜呑みにして通信アンテナという社会インフラを破壊するバカも エマヌエル:カントの純粋理性批判を鵜呑みにして「理性には利己的利益追求の側面があります」だとか言い出すバカも後を絶たない

これらの事象はヒトが科学的知識を全く共有出来ないことの証拠であり ヒトという種の生物は先天的には科学論理的思考が出来ないバカなのである

先天的にはヒトはバカだが バカは自覚すれば治る

バカではなくなれば科学的検証も出来るようになり 難しくてわからない話であれば「わかりません」と正直に判断することもできるようになる

ヒトは科学的知識は共有可能性を持ってはいるが 決して「常に絶対に必ず共有可能」なわけではなく 非科学的オカルトでも共有は可能なのである

「わからないことは わからない」という判断は科学的であるが

本当は何も論理的には理解していない話や 論理的根拠のない話で主観的に感動して「わかった」と言い出すのは ただのバカである

バカは地下鉄に毒ガスを散布して「人類の救済」などと平気で言い出す

もちろんバカにも程度はあるものの 軽度のバカがあまりに多いからこそ重大なバカが出てくる温床にもなってしまうのである

「人智や理性を超越した実証不能の謎の叡智」などというオカルトを鵜呑みにしているから ヒトはバカが一向に治らないのである

気分的に満足出来ることにおいて都合の良い話ばかりを鵜呑みにしているから 論理客観的な検証というものをしなくなり バカになるのである

バカになる原因とは 「気分的満足」という「主観」である

 

Ende;

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肥料取締法違反

2020年06月17日 13時18分58秒 | 意識論関連

肥料取締法なんて法律があって

メルカリ的なもので自宅で余った肥料や薪ストーブの灰をを転売したら いきなり書類送検されたそうな

いや そんな法律があるなんて学校で習わなかったぞ

肥料を製造販売している業者とか農家さんならまだしも 一般人はそんなこと知らんだろ

ところが警察ってのは唐突に書類送検しやがるけど 何だ 警察は国民を悪者に仕立て上げたいのか?

一般市民を一方的に犯罪者扱いにしようとするのは 警察の存在意義としての社会安全の観点から逸脱していて わけがわからない

多くの一般市民が知らない法律に違反している場合には いきなり書類送検するんじゃなくて 一旦警告的なものを出してマスコミやネットで報道周知してから それでもなを違反を繰り返すようなら書類送検に踏み切るっていう段階的措置が必要なんじゃないだろうか

以前にも「店内で客が踊っていたから店長が逮捕」なんつう事例があったけど 被害もないのに客が勝手に店内で踊ってたら店長逮捕されたんじゃ それこそ客が嫌がらせで店内で踊れば店長逮捕になっちゃうだろ

もしかしたらあらゆる法律を駆使したら 国民の誰でも犯罪者に仕立て上げることは出来るんじゃないだろうか

そんな機械手続き的に法律の主旨を逸脱した法の運用をされたら悪意がなくても問答無用で誰でも犯罪者に仕立てあげられてしまうことになる

それは社会安全というより 危険性としか言いようがない

警察はそれでも「業績」になるのかも知れないが 警察の存在意義というのは社会安全であって 手続き上の業績を目的にするのは倫理上大問題である

教えられたことだけを鵜呑みにしているから機械手続き的に法律の主旨を逸脱した運用がされてしまうのであって 法律の主旨に則った運用をする判断というものは一人一人の警察官全員に必要なものである

警察が特別に権力(権利)を持っている以上 それは義務である

「だって教えてもらってないから」だとか「教えてくれなきゃわかんない」だとか言い出すバカもいるかも知れないが

子供か?

自律的な社会的責任判断という人間性が伴わないからバカみたいな言い逃れをするようにもなるのである

少しは考えろよ

何で何も考えないで行動できんだろうね

バカ過ぎて話になんねぇよ

 

Ende;

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もろんのんさんのかめら

2020年06月16日 13時48分42秒 | 日記

「もろんのん」さんのカメラはソニーだった件

 

Ende;

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デマ

2020年06月16日 13時27分26秒 | 日記

先日 周庭さんのツィートで 香港警察が小学生をバスに誘導しているように見える画像を根拠に「小学生を拘束している」と主張していたんだけど

もし本当に小学生が拘束されていたら親が大騒ぎするはずだけど

そんな情報はどこからも出てきていないのだ

単に警察がスクールバスに子供を誘導していただけなのではないだろうか

 

市民に向かって発砲するような香港警察が何をやっても疑いの目で見られてしまうのは仕方ないとも言えるのだが 民主化団体だからといってデマを流してしまうと真実がかき消されてしまいかねず 問題がある

政府側が垂れ流す情報は統制が激しいことは誰もが知っていることなので誰も信じてなどいないのだが

民主化団体まで嘘をついてしまうと誰が嘘をついているのかわからなくなってしまうので ちゃんと根拠に基づいた情報を流すようにすべき

若いからといって雑な情報を流して良いわけではない

 

Ende;

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勘違い

2020年06月16日 13時07分05秒 | 意識論関連

○大脳辺縁系を損傷した人に対して「次の診察はいつにしましょうか」と訊ねた場合に 様々な条件を勘案しても決定することが出来ないという

選択を行う時に勘案する条件が充分ではない場合 理性だけでは「わからない」と答えるのである

 

○子供が知的好奇心から「なぜ?」を連発するのは 欲望として知りたい限りに追求するからである

 

バカな哲学者はこの2つの事象を同じだと言い張るが

これは間違いである

大脳辺縁系を損傷した人の場合 答えを求めているのは「訊ねている人」の方であって 大脳辺縁系を損傷した人の方は「わからない」と決めることができないだけのことであり 子供が延々と謎を追求したがるのとは全く異なる事象である

 

科学は 「わからないことは わからない」と保留することが大切であって これは大脳辺縁系を損傷した人の判断と全く同じである

一方子供の「なぜ?」の追求というのは欲望なので 際限なく「なぜ?」を繰り返すのであり 気分的に納得できる話でさえあればサンタクロースでも妖怪悪霊でも信じ込んでしまうのである

大脳辺縁系を損傷した人には主観的な「気分」がないので 気分的な納得感に惑わされることなく「わからないことは わかりません」と述べるのであって 別に「真理を探求したい」わけではない

ましてや大脳辺縁系を損傷した人が利己的利益追求に異常執着するわけでもない

子供は非常に身勝手である

まるで野生動物のように噛み付いてきたり 小さな爪を立ててきたり 絶叫したりすることもある

これらの行動は利己的情動行動であり 理性が促すものではない

大脳辺縁系を損傷した人が 幼子のように噛み付いてきたり 絶叫したりしないことからも 子供の欲求と理性は全くの別物である

 

科学的な探求の動機としては 知的好奇心という情動が働いていることは確かだが 科学的な検証に基づく論理客観的事実の認識には理性が必要なのである

生物学者達の多くは動物が大好きで 遺伝的進化の結果に過ぎない行動習性の全てが 意図的目的に基づいて選択したものだと言い張るが これは動物の遺伝的形質を事後正当化するための「説明のための説明」に過ぎず 到底論理的根拠を伴わぬ妄想錯覚に過ぎない

ヒトは信じたいことだけを信じようとする習性があるため 論理客観的根拠をすっ飛ばして簡単に論理の飛躍や見落としを平気でやらかすものなのである

知的好奇心から何かを探求するのは勝手だが 論理客観的根拠を欠いた勝手な決めつけをしてしまえば科学ではなくなる

優生学の類いも 遺伝的進化を万能だと錯覚した生物学者達によって支持されてきたのであり それが差別において都合が良い話であるため いつまでも差別というものが温存される原因ともなっているのである

カントの勘違いをいつまでも鵜呑みにしていると 理性というものの重要性を人類はいつまでも認識することができなくなってしまい 様々な危険性が放置されてしまうことになる

それがどれだけ無責任な事なのかは 自覚しないバカには死ぬまでわからないのであろう

 

 

Ende;

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メモ:純粋理性批判(3)

2020年06月16日 00時22分56秒 | 意識論関連

答えの出ない命題を問い続けてしまうのか

カントは「理性の暴走が起こっている」と述べた

何を知り得ないのか 理性→推論

推論する能力が理性 論理検証性

答えが出ないわけのわからない問いまで生み出してしまう

 

なぜ夜になると暗くなるのか 地球が回るからだ 子供の好奇心

幼子の好奇心が理性の本性 「なぜ」の繰り返し 「理性の暴走」

答えの出ない問を生み出してしまう

「人間の認識を超越している」

○不死なる魂はあるのか

死ぬのが怖いから 怖いのは主観

→共通認識の全てに論理的根拠が伴うわけではない

宇宙は無限か有限か 絶対に答えが出ない アンチノミー 相反する

宇宙には始まりがないとした場合 「何も起きないのに始まりがある」→この時空間の始まりを引き起こした「何か」が何なのかについては「わからない」とするのが論理検証的な暫定的結論であって それがわからないことが気に入らないからといって無理から答えをでっち上げるのは科学ではない

「ヒトの理性の限界だ」→それは「カントの理性の限界」だよ

 

理性には2つの関心がある→理性そのものには「関心」などないけどな

1:完全性を求める

2:真理を追求

 

「無条件で必然性のある存在はあるのか」

自由があるという主張

矛盾する2つの命題は次回に持ち越し

あるとも言えるが無いとも言える ?

全てが自然科学の法則に支配されているのであれば自由はない

 

理性があるから究極を追求してしまう

生き方の問題

 

自由と道徳を基礎づける

 

 

子供の好奇心というのは知識欲求であって 子供に限らずヒトの認識が全て論理的根拠に基づいた正しい認識に至る保証は一切ない

子供がイジメを行うのは客観的論理検証性が働いていないからであり これは大人がやらかすヘイトスピーチやアオリ運転も同様である

知識欲求は欲望なので暴走するが 理性そのものは暴走しない

尼崎福知山線脱線事故の検証においても「そこまで検証したらキリがない」と称して途中で検証を投げ出したバカな危険学者がいたが 被害者遺族達による事故調査委員会によってJR西日本による強迫的な「教育」の問題性に言及できたのである

物事を深く掘り下げ検証することは面倒臭いのでヒトは屁理屈をでっちあげて放棄しようとする

しかし 危険というものを検証するのに「この程度で良いや」で済まされる話ではない

国会原発事故調査においては原子炉建屋の中の状態が検証できないために最終的な結論までは出来ておらず 「わからないものは わからない」と保留して調査は一旦終了している

科学というものは「わからないものは わからない」と保留する姿勢が必要であり わからないことがあることが不満だったり気に入らなかったり不条理を感じたりすることは理性ではない

カントはこの部分を間違えている

社会安全性の追求に終わりはない 完全性を求めて悪いことなど何もないのである

「答えがないことが論理的に明確な命題」であれば それは命題として最初から成立していないのであって「答えがまだ出ていない命題」であれば追求することが不毛であることの証明にはならない

答えが論理的に存在しないことが証明されない以上 探求する価値が存在しないことの証明にもならないからである

マイケル:サンデルの提供するトロッコ問題には答えがない 答えがないことが論理的に明確でありながらバカ学生全員が答えを出そうとしてしまうのは トロッコ問題が人命を扱っているために気分的に「悩ましい」ため どのような選択をしても倫理の論証にならないことに多くのヒトが気づかない頭の悪さ(錯覚)に起因するものである

天文学や量子物理学が今のところ「役に立たない」からといって これからも永遠に「役に立たない」ことを立証したことにはならない

ヒトに自由意志があるかどうかは量子レベルでは運命的に予め決定しているのかも知れないが ヒトの意識のレベルにおいては現時点での選択可能性の存在を反証することは出来ない

理性が働かずに既に刷り込み学習された無意識な条件反射だけで行動していれば自由もヘッタクレもありゃしないが それはサルと同様環境依存的な結果しか至ることはなく それは「自由がない」と言える

しかし 論理客観的により正しい認識に基づいた行動選択が出来れば 既存の価値観に基づいた条件反射的行動から脱することが可能であり それは選択可能性(自由意志)の論証として成立するのである

 

ヒトは好奇心という欲望によって完全性を追求してしまうが 科学における論理検証性というのは「わからないものは わからない」と保留する姿勢が必要であり この姿勢もまた論理検証性に基づく判断である

ところがヒトの欲望というものは限りがないため 論理を超越した実証不能の観念を振り回し 本当は全く論理的には理解できない話であっても「わかった」と勝手に勘違いして満足しようとすることで論理検証を放棄してしまい これが結果的な暴走を引き起こすのである

大多数が共通に錯覚している場合 その「共通認識」が論理客観的に根拠が伴う正しい認識ではなくなるのであって 共通認識でありさえすれば常に正しい認識であることの論証には全くならない

事実 カントの純粋理性批判の論理的誤謬を誰も指摘できていないのである

カントは「純粋統覚」などと称してヒトが何でもかんでも常に正しい認識しかしないかのように主張しているが そんなもんカントの勝手なファンタジーでしかない

カントの話を一切論理検証せずに鵜呑みにしているバカは「自分には純粋統覚があるから絶対に間違えない」と満足し その満足によって勝手に勘違いし間違いに気付く論理検証性を失いバカになるのである

バカは自覚すれば治るが

自覚しなければ死ぬまで治らない

 

 

Ende;

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