主観には錯覚が伴います
しかし 錯覚というものは客観的に論理検証することで錯覚を錯覚だと認識することができるのです
ヒトは科学的理論を理解する場合もありますが 客観的根拠がなくても「わかった」と錯覚することもよくあります
大きな鉄球と小さな鉄球を同時に高い所から落とした場合 主観的感覚としては「大きな鉄球の方が早く落ちる」と「思って」しまいがちです
空を飛んでいる旅客機が妙に遅く見えることがありますが 旅客機は機体が大きいために遅いような錯覚を促しているだけであって 実際には地上を走る車両よりも遥かに速い速度で飛行しているのです
主観的な感覚には錯覚が伴うため 「イジメはなくならない」とか「トイレットペーパーがなくなる」といった根拠のないデマを信じてしまうと むしろ予言が達成されてしまうという現象も起きるのです
ヒトという種の生物は 大半が客観的な論理検証というものをしない傾向があるため 主観的感覚によって多くのヒトはデマだろうが嘘だろうが鵜呑みにしてしまうことが少なくないのです
「哲学は答えが出なくても良い」というのは確かですが 「答えが出ないことが明確な命題」でどんなに悩んでも哲学ではありません
「答えの出しようがない命題かどうか」を判断するのは主観ではなくて論理客観的検証であり 「答えの出しようのない命題を悩んだら考えになる 頭が良くなる」と錯覚するのは主観の方です
ましてやマイケル:サンデルだの麻原彰晃を「好き」になるというのは主観以外の何物でもありません
多数がマイケル:サンデルの嘘を見抜けないからといって 「サンデルは嘘を言っていない」ことの論証には全くなりません
科学や哲学というのは本来多数決ではないからです
科学も哲学も真理(本当のこと)とは何かを探求する分野ですが 現状の哲学界というのは論理的根拠もないオカルト話の陳列で大衆の脳を酔わせているだけであり 到底社会安全性について検証出来るような状態ではないのです
マイケル:サンデルのトロッコ問題で「悩んだ」ら 何か社会安全性にとって役に立つとお思いか?
マルクス:ガブリエルが言う「世界は存在しない」などという話が社会安全性にとって意味がるとお思いか?
エマヌエル:カントの純粋理性批判が具体的に社会安全性に役立ったことがあるとお思いか?
カントの純粋理性批判というのはリチャード:ドーキンスのお伽話と同様に大衆人気だけはあるのに具体的に何かの役に立ったことは一度もないのです
むしろ「道徳」などという糞の役にも立たない観念に頼るという根拠のない因習が温存される原因でもあり 社会的には害にしかなっていないのです
道徳というのは主観的感覚しか論じません
ヒトの全てが先天的に人間性を常に発揮できるという観念に基づいた話でしかないため 論理客観的な話が全然出てこないのです
文科系主体のマスコミは 相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の被害者個人情報を世間に暴露することが「再発防止にとって必要だ」と言い張りました
もちろん客観的な根拠なんぞ一切ございません
被害者や遺族が「かわいそうだわ」という主観的な感情論に基づき お涙頂戴的に大衆人気が出そうな話を陳列しておけば何かの役に立つんだというマスコミ関係者達の錯覚によって被害者個人情報が暴露されることになったのです
主観的に「かわいそう」だという話をどんなに陳列しても 植松聖のような奴がどうして出てきたのかについての客観的原因や再発防止に役立つわけではありません
それは 道徳の授業でイジメの加害者の妄想フィクションを陳列し「たかしくんは優しい気持ちになりました」などと述べたところで 具体的にイジメの原因究明や再発防止に役立つわけではないのと同じことです
個人的な主観をどんなに陳列しても それは通り魔やテロをやらかそうとするバカの再発防止には一切ならないのです
それは社会安全性にとっての障害でしかなく 無責任且つ倫理上大問題なのです
野依良治は順天堂大学や東京医科大学での不正入試における問答無用の女子一律減点が間違っていることを直感的に「間違っている」と思ったんでしょう
それなら野依良治の主観的直感の全てが常に正しい判断につながる証明になるでしょうか?
野依良治の主観的直感には一切の錯覚が存在しないことの証明になるでしょうか?
現状の哲学界というのは哲学を逸脱したポンコツによる大衆迎合人気取りしかしておらず 何ら論理的根拠もないオカルト観念をいつまでも信奉するという因習から抜け出すことの出来ない状態であり 故にマルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルが哲学でもなければ倫理でもないことすら指摘できずに傍観放置しているわけです
養老孟司がいつまでも学術権威扱いになっているのも 哲学者の誰も「話がおかしい」と思っていないからです
野依良治は哲学においては素人同然で 哲学者の言っている内容を鵜呑みにして 自律的には何も検証していません
だから現状の哲学界におけるパラダイムに則った発言として「主観が大事」などと言い出しているのです
カントの純粋理性批判というのは 悟性だの純粋統覚
だのといった理性とは別の主観にこそ人間性や倫理が存在するという「理屈」です
理性を超越した「理屈」って 一体何でしょうね
そんなもんあるんでしょうかね
カントは純粋理性批判の中で「子供の好奇心=科学的論理検証(理性)」だと定義していますが これがまず間違っており この定義に基づいた論証の全てが土台から間違っているのです
ヒトにおいて理性が純粋な状態というのは「大脳辺縁系を損傷した人」であり 欲望のままに「なんで?」と問い続ける子供じみた好奇心とは全く別物なのです
大脳辺縁系を損傷した人の場合 決して子供のように好奇心旺盛に「何で?」を繰り返したりはしません
その代わりに何かを決める選択を他人から求められた場合に決定条件が足りないと「わかりません」としか言わなくなるのです
「わからないものは わからない」というのは科学的客観性に則った考えであり 純粋理性の本質というのは決して子供のように最終的な答えを徹底追求するようなものではないのです
ですからカントの純粋理性批判というのは最初から論として成立していないのです
子供の好奇心は欲望ですから 暴走します
子供に限らず人は短絡的な「答え」をでっちあげて満足し 論理客観的根拠があるかどうかすらも一切考えなくなる習性があるため 実証不能の観念であっても多数で共有さえできれば安心して暴走することが可能となるのです
暴走の原因というのは欲望であり 主観的感覚が促す行動バイアスに因るものです
子供には理性というものが欠けており充分ではありませんから 「わからないものは わかりません」という論理客観的な結論を受け入れることが出来ず 際限なく「何で?」と問い続けてしまうのです
大人の場合にも「最終解決」という「答え」に基づいてユダヤ人を600万人も殺害するという事象が起きることもあります
ナチスによるホロコーストの論拠となったのはフランシス:ゴルトンの優生学ですが これは生物学における進化万能論に基づいた発想であり 遺伝的進化に目的が存在する余地がないことに生物学者の誰も気づかないという頭の悪さが原因です
遺伝的進化における「合理性」とは あくまで結果的な生存における淘汰圧力の結果に過ぎず そこには誰の目的も意思も方向性も論証不可能なのです
生存にとって有利な形質を持った個体種への淘汰が起こった結果として より生存にとって有利な形質を持つ個体種だけが生き残っただけであって 個体種が自ら「生存にとって有利な形質を獲得するために何かを選択した」わけではなく そういった「目的」意識を証明することは不可能であり お伽話でしかありません
生物学上における「社会性」というものが 特定条件環境下において 特定集団内部だけにおいて有利な利他的行動を促すとしても それは必ずしも常に「個人が自律的な社会的責任判断選択」を促すわけではありません
東電社内において 原発の津波対策をしないほうが会社の利益にとって有利で 且つ 組織の利益に有利な行動を採った方が社員にとっても短期的には有利な場合には 組織に迎合して社会的責任を放棄しておいた方が気分的に「安心」で「楽」なわけです
イジメにおいても イジメに同調したり 或いは傍観無視しておいた方が「身のため」だと判断した場合 社会安全性は後回しにされることになるのです
順天堂大学や東京医科大学における入試不正が長年放置され続けてきたのも 組織内部において「生物学的な社会性」が存分に発揮されたからであり 個人が自律的な社会的責任を誰も負うつもりが一切なかったからに他なりません
順天堂大学や東京医科大学の職員達の「主観」においては 「女子受験者は一律減点することが組織全体にとって有益だ」と判断したからでしょう
ヒトという種の生物は 主観的に安心なことを客観的に安全なことだと簡単に錯覚する先天的習性があるのです
非論理的な話に対して 直感的に「何かおかしいぞ」と「思う」ことはあるかも知れません ですが必ずしもその場で「どこがどうおかしいのか」を説明できないこともあります
言語などの脳のシンボル抽象化機能が論理客観性だという話も間違っており オカルト話や詐欺であっても「言語で丸め込まれている」ことに違いはないのです
脳の言語機能というのはコンピュータにおける「I/O(入出力機能)」のようなものであって それ自体は主処理とは関係がありません だから左側頭葉領野にあるんであって 理性を司る前頭葉(脳の最も先端部分)ではないんですね
これも現状の哲学者や脳科学者の誰も指摘していない
要するに何も「考えて」などいないんですよ
偉そうに「アレを読め」だとか言い出しますけど 本当は何にも理解などしていない だから純粋理性批判などというオカルト話が信じ込まれて鵜呑みにされている
現状の哲学者達は自分達の頭の悪さが露見することを恐れて「恐怖心は理性だ」などという訳のわからぬ言い逃れまで始めました
ほぼキチガイです
他に形容詞が見つかりません
恐怖心というのは大脳辺縁系の働きであって 理性でも何でもないことは明らかなことであり 嘘の上塗りも甚だしく 見苦しいったらありゃしません
終いには哲学に浅い野依良治まで丸め込みました
野依がボケジジイなら騙されたことにも死ぬまで気づかないでしょうな
それが原因で回避可能な危険性が放置され続けたとしても それは私の責任じゃありませんよ
そこまで面倒看れないですよ
あたしゃ神様でも仏様でもないんですから
Ende;