書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○淘汰圧力。

2016年12月26日 00時47分09秒 | 意識論関連
勤労閾値の高い蟻が淘汰されないのは、そんな淘汰圧力環境が存在していないからであり、何でもかんでも最適化が起きるわけではない。

生物進化というのは結果であって、目的のために進化しているわけではない。ゆえに生存などの特定目的に適さない行動習性を持った種が存続していても何ら不思議ではない。

アホロートル(山椒魚の幼形成熟)のような極めて弱い生物種が存在しているのも、決して最適化が働くわけではないことの証明である。

効率が良かろうが悪かろうが、結果的に死にさえしなければ存続可能であり、進化というものが絶対に効率が良くなるような変異でなければならない理由などない。

そもそも弱肉強食のピラミッドが成立するのは、特定種の生物がむやみに大量繁殖するなど。環境調和に適さない程強力で繁殖力が高い種が環境を喰い潰してしまうような個体が発生しても、その他の生物との間における環境調和が成立しないので、結局淘汰対象となりピラミッド全体で絶滅してしまった結果である。

このように変異に基づいた進化過程自体がそもそも非効率なものであって、進化そのものに論理的合理性なんぞ存在していおらず、進化というものが絶対的に合理性を持ったものであるという文科系大衆観念的妄想がダーウィンの進化論に幻想を抱き、間違った解釈をしているのである。

進化というものは個体の論理的合理性の追求によって知的選択が働いて起きるようなものではなく、ランダムな変異の結果、偶発的に死ななかった個体種への淘汰の結果に過ぎず、これが非合理で非効率なのは当たり前の話である。



永続性の原理もまた、環境調和が成立しなければバランスを崩して全てが淘汰されてしまうのであるから、永続性(環境調和/持続性)であってもダーウィンの進化論で説明可能なのである。



生物進化の結果に過ぎない現在の生物相だけを見て、あたかも進化変異の全てが絶対的に効率的で合理性を持ったものであるという観念を抱くのは間違いであり。

数億年にわたる生物進化過程においては数え切れない程の大失敗も繰り返しているはずなのである。

実際、生物史の中では幾度もの大絶滅の証拠が遺されており、進化変異の全てに意味があるわけではない。



菌類が抗菌剤への耐性を獲得する過程においても、耐性を獲得するために意図的に変異をしているわけではなく、変異の結果として偶発的に耐性を獲得する個体が発生するのであって。そもそも変異自体の大半が生存に適さないことからも、進化過程というのは極めて非効率で非合理な大量の屍の上に成り立つ「結果」でしかない。

それをどう勘違いするのかは知らないが、あたかも生存のために耐性を自発的に選択獲得しているかのように解釈すること自体が非科学的オカルトなのである。

これらの勘違いも、進化生物学が結果と目的の区別が出来ていないからであり。もはや痴呆としか言いようがない。

それでもポンコツ進化生物学者が淘汰されないのは、ポンコツをポンコツと認識する淘汰圧力が働く環境が存在していないからである。




Ende;
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○お花畑は狂気の予兆。

2016年12月25日 10時59分54秒 | 意識論関連
歴史教育の主体というのが、戦争為政者の歴史ばっかりで、しかも英雄視しているような話が出てくるので。若い人の認識の偏りの原因になっているんじゃなかろか。

戦争で勝った国こそが正義という野蛮な結果だけを、ただ漫然と陳列してたら戦争こそが安全保障だと錯覚してもおかしくはないのかも。

生物学における「進化」というものが、あたかも努力辛抱根性的な精神論で実現可能だとでも錯覚しているフシがあって。これは進化生物学における「結果」と「目的」の区別が出来ていないことが原因。

「戦争で人類が窮地に陥れば進化する。」なんてことを、まさか本気で言い出す子がいるとは思わなかったよ。

戦争という野蛮行為から脱することが出来てこそ社会進化なのに、生物学的な個体の生存価だけが唯一絶対の進化だと信じて疑わないんだろう。

何だろう、淘汰圧を率先して無理矢理作り出しておけば自分が進化して生き残れるとでも思っているのかしら。

現在の学校教育とメディアの垂れ流しを真に受けて鵜呑みにしていると、こういう子が出て来ちゃうんだと思う。

マトモな人なら冗談か「変な子(お花畑)」くらいにしか思わないのか知れないけど、オウム真理教もテロやるまで誰も本気にしてなかった。

こういう「ヒヤリ、ハッと。」事象もキチンと検証して拾っていかないと、テロとか通り魔の再発防止策にはならないよ。



Ende;
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○雑。

2016年12月21日 15時03分14秒 | 意識論関連
今村核を法務大臣にしたら良いんじゃないかと思ったよ





何か、ヒトという種の生物は神話をこさえて絶対だと信じ込みたがる習性があって。刑法懲罰こそが唯一絶対的な犯罪への抑止力になるとでも妄想しているんじゃなかろうか。

原発の安全性とか、核兵器による抑止力とか、外交努力だとか、何か「これさえやっときゃ、全ては解決。」的な神話をこさえて安心満足しとけば何も進歩しなくても良いとでも思っているんではなかろか。

刑法懲罰というものが唯一絶対的な犯罪抑止の対策であることの合理的証明なんて本当はないんだけど、罰というのは被害者感情的には満足感が得られるので非合理な判決であろうとも、それ以上の対策や制度について誰も言及することがない。

犯罪というものを便宜的に二つに分類すると、過失事故と意図的犯罪に分けることが出来る。

アクセルとブレーキの踏み間違いによる重大過失事故というのは、意図的に犯したものではない。これを意図的犯罪と同列に語ることは本来出来ないはずであり。過失事故というのは結果の大小に関わらず危険学/失敗学的な分析と再発防止対策を立て、これを当事者達に周知徹底することが重要である。

ヒトは誰でも間違える。

私も踏切を充分に渡り切れずに遮断棒が車体後部に当たったことがあるが、この時は電車が来る前に脱出して難を逃れた。

しかし、これはたまたま結果的に何も起きなかっただけであって、過失という点においては充分重大であると考えるべきであり。もし踏切を渡り切れずに車体が電車と接触したりすれば人身事故にも発展しかねない事象であった。

たまたま偶発的に重大な結果になったかどうかだけで、罰の程度が変わってしまう刑法懲罰というのは、事象の分析や予防といったことに全然言及しておらず、たまたま発生した被害者や遺族の気分的満足を与えているに過ぎないのである。

結果の小さな失敗であっても、重大な結果に至る可能性がある事象であれば、これは共有して再発防止策として生かす必要性がある。しかし、刑法裁判制度ではこうしたことは一切行われることがない。

誰かが死ななければ大騒ぎしないのが刑法裁判制度であり、その陰に潜む無数の小さな事象を放置している制度でもあるのだ。

こうした重大事象しか扱わない点においてはマスコミも同様で、その場限りの視聴率稼ぎや大衆迎合にしかなっておらず、マスコミとしての社会的責任を放棄しているとも言える。



アクセルとブレーキの踏み間違いというのも経験がある。若い時だったので瞬時に踏み間違いに気づき踏み直すことが出来たが、加齢によって耳が遠くなったり、身体機能が低下してくればそうはいかない可能性は誰にでも有り得る。

重大事故に至った踏み間違い事故の事例を見ると、アクセルを踏み続けた場合がほとんどである。これを見ると、自分が踏んでいるアクセルペダルがブレーキペダルであるという思い込みが発生していると考えるべきであろう。

これは、いわば、感覚的無意識に操作をしているから起きる現象であり。加齢だけではなく「馴れ」が原因であることが大きいのではなかろうか。そのため結果的に運転歴の長い高齢者で起きやすい事故になっているとも考えられる。

「いままで、ずっと大丈夫だった。」という過去の経験則だけを根拠に、「自分だけは絶対に大丈夫だ。」という過信は生まれる。

これもまた一種の「神話」であろう。

「自分だけは絶対に大丈夫だ。」という過信は、振り込め詐欺師のカモでしかない。それこそが大きな失敗を引き起こす頭の悪さの大きな要因なのである。

「神話」の類というのは、気分的満足安心を与えるため、合理的判断をすっ飛ばしてしまう習性というものも、ヒトという種の生物にはある。

厳罰化さえしておけば犯罪や事故の抑止になるという妄想も、一種の「神話」であろう。だが、これは実質的には効果が薄く、危険に対する意識の低い相手程効果が薄い。

こうした危険に対する意識の低さというものが、どうして生ずるのか。そこで出てくるのが意図的犯罪者に見られる「自律的な社会的責任判断の欠落」である。

責任意識というものもスペクトルでありグラデーションである。また、個人差によっては意識を持つ事柄にムラがあるということもあるだろう。 自動車の運転には慎重でも、火のついたタバコには無神経だったりすることもあるかも知れない。

だからこそ、誰しもが無神経に陥っている事柄というものが存在するかも知れないという自覚を持つべきであり。その自覚がないからこそ自律的な社会的責任を失うことにも陥るのである。



ここで勘違いして欲しくないのは、社会的責任の自覚がない相手を糾弾排除してさえおけば全てが解決するという、短絡的発想である。

社会的責任の自覚がない原因というのは、主に成育環境に依存する傾向がある。 それなら当人だけの責任とは言えないので、社会全体の問題として扱う必要性がある。

虐待をされて育った人が、虐待を自分の子供に連鎖したり。テロリストの勧誘に加担してしまったりする原因となるケースというのは非常に多い。

自律的な社会的責任まで意識が働かず、その場限りの気分感情の赴くままに行動が無意識条件反射的に決定してしまうからこそ、破滅にまで暴走することに至ってしまうのである。

自律というのは自発の中にあるものであって、「罰が恐いから法律を守る。」という短絡的発想からは出てこない。 実際に原発事故では法律違反はなく、法律そのものの整備が追いつかなかった故の事故なのであり。ゆえに国会原発事故調査委員会としては、「個人が自律的な社会的責任を負うことが最も重要である。」という結論に至ったのである。

法律さえ守っておけばブラック企業だろうが、自殺者が出ようが構わないという発想に人間としての「心」はない。

倫理というのは人間としての「心」に直結する話であり。人間としての「心」というのは、単なるその場限りの気分感情に左右されるような動物的行動習性では説明することは構造原理的に不可能な、理性を伴った行動判断が必要不可欠なものである。

ところが、理性というと文科系大衆の多くは短絡的に「利己的利益追求の側面がある。」などという大嘘を鵜呑みにするなど。都合の悪いことは全て理性が悪いことにしておいて、あたかも動物的な先天的本能習性こそが自動的に「心」を発生させてくれるという進化生物学上の「神話」を鵜呑みにして満足し、何も考えなくなる。

その結果が「松沢哲郎に文化功労賞」などというトンチンカンな評価を下すことになるのである。



世の中では、それ単体ではさして害のない間違いがたくさん積み重なることによって、結果的に大きな間違いに誰も気付かないという状態に陥っているのである。

ヒトという種の生物は、特定の重大結果だけを多数派で糾弾してさえおけば全てが解決したかのように錯覚するという先天的習性があるため。個々の小さな間違いを丹念に修正するという地道な積み重ねを一切したがらない。

その結果、大きな根源的間違いに誰も気付かず放置してしまい。ISILやオウム真理教のような集団暴走が発生してから大騒ぎするだけで何の進歩もないのである。

このように大多数のヒトの無意識こそが、重大事象を引き起こす原因を見逃す要因となっているのであり。こうした無意識性というのは、犯罪者の無責任さ(無意識さ)と程度の差こそあれ構造的には同じものなのである。

自分達の無意識さや無責任さをほったらかしにしておいて、結果的に重大になった事柄だけ大騒ぎするという大衆迎合的発想こそが、事物に対する精密検証を失わせる原因となるのである。



精密検証性が欠けているというのは、要するに雑なのよね。





Ende;
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○自暴自棄な相手に抑止力が効くのか?。

2016年12月17日 13時45分37秒 | 意識論関連
原発避難者がイジメや差別に遭うって話が時折ニュースで流れるんだけど

原発避難者だけが特別にイジメや差別に遭うわけではなくて、イジメや差別する相手は誰でも良いんであって、原発避難者のイジメや差別だけ取り扱うのは偏重報道なんじゃねぇのかな

なんか原発避難者だけが特別に可哀相的なバイアスがかかっているように見えてしまうよ

いや別に「原発避難者が可哀相ではない」という意味ではなくて

原発避難者ではないイジメや差別被害者をなかったことにしている感が拭えないのが気になる子ちゃん

NHKニュース

原発避難者とか障害者とかだけがイジメや差別を受けるわけじゃなくて、イジメや差別をするヒトっていうのは相手なんか誰でも良くて、特定他者を敵視することでたかも自己正当化になるような気分的満足欲しさに差別中毒に陥っている精神疾患症状なんだろうと思う。

こういう「患者」というのは、イジメや差別をしていないと不安で仕方ないからやるんであって、被害者意識にさいなまされているノイローゼなんじゃなかろか。

ヒトという種の生物というのは、被害者の報復感情であれば全面的な正義か何かと錯覚する性質があって。それゆえに社会防衛上実効性のない刑法懲罰を短絡的に解決だと信じて疑わないという痴呆状態に陥っているわけで。

イジメや差別をしているヒト達というのは、その場限りの目先の満足(脳内麻薬が促す行動バイアス/行動習性)に流される無意識性に原因がある。

自分達は被害者だから懲罰的報復が許されていると勝手に勘違いしている。

だからイジメや差別をしているヒトに懲罰を与えても、彼らは「運が悪かった」「世の中が間違っている」という観念に変化はなく。結局は再び差別対象としての「敵」をでっちあげてでもイジメや差別をやめることが出来ないのである。

こういうのは精神疾患なんだから麻薬中毒と一緒で更正プログラムで治療すべきであって。刑法懲罰でもマスコミによるその場限りの糾弾も、むしろ逆効果。

大衆観念的には差別に対してカウンターで差別をすることが正義だと勘違いしているフシがあるんだけど、それじゃ差別の応酬にしかならない。

そりゃ差別スピーチなんてやっている奴はオラも嫌いではあるんだけど、そんなのは結局個人の主観であることに違いなどなくて、個人の主観の多数決を集めても論理的正当性の論証にもならなければ、原因究明や再発防止にもつながらない。

だから感情論は感情論として、刑法懲罰とは異なる合理性ある社会制度は別個必要なのですよ。

それをやらないから重大事象にまで発展してから大騒ぎすることに陥る。

ISILなんて、その典型なんですよ。

規模の差こそあれ、学生による集団殺人に至るメカニズムであってもイスラム(を名乗っているだけの)過激派の行動原理と根源的な部分では違いはないのよ。

何度も言ってるんだけど、ハインリッヒの法則に則って鑑みれば、一つの重大事象の陰には無数の小さな事象が隠れているわけで、その意味においてもイジメのような小さな事象(被害者にしてみれば充分重大なんだが)の精密分析を行う社会制度を作る必要性があるのです。

ヒトという種の生物には差別をする先天的本能習性があって、自律的抑制が効かなければイジメや差別は本能習性として発生するものであって。ヒトという種の生物の先天的欠陥であることを認識する意識、論理検証性なしに差別なんぞなくなるわけがない。それなのに進化生物学者達は「先天的な行動習性から人間としての社会性を立証出来るかも知れない。」などという原理的に立証不可能な大衆迎合的エセ理論を公言しており。それをまた大多数の大衆は鵜呑みにして満足している。

人命に係わる重大事象だけ大騒ぎしておいて、その陰に隠れている無数の小さな事象を無視するというのは。社会人として無責任なんだという自覚を持つべきなんですよ。

司法警察なんて被害者が出なけりゃ何にもしてくれませんよ。だってそういう社会制度なんですから。

それで良いんですか? ってことです。

根源的防止対策を一切行わずに、事態が重大化してから刑法懲罰という感情論任せにしているというのは、極めて上っ面な社会制度しか存在していないってことなんですよ。

厳罰化や軍事拡大競争の根拠とする威圧的抑止力というのは、実際には合理的根拠がなく、中国では麻薬取締法違反は死刑なんだが全然減らないし。厳罰化を推進しても酔っ払い運転も減らないことからも、犯罪を根本的に減らすためには個人の自律的な社会的責任判断選択こそが必要であり。これは国家権力を用いた報復の代行とは全く異なるものなんですよ。

そもそも自暴自棄なテロリストや通り魔に対して厳罰化は全く意味がない。

極刑を望んでいる相手に極刑は抑止にならないばかりか、むしろ促進にすらなってしまいかねない。



原発避難者だけが特別にイジメられて可哀相というのは、完全に偏った報道だと言えます。

それじゃなんですか、原発避難者以外ならイジメられていても構わないとでも言うんでしょうか。

イジメというのは原発避難者だけの専売特許じゃありませんから、もっと普遍的な報道や対策をすべきなんじゃないですかね。



Ende;
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○司法刑罰の欠陥。

2016年12月17日 13時28分11秒 | 意識論関連
15歳の学生さんが高齢者の運転する暴走車に轢かれて死亡するっていう事故があったんだけど

司法裁判では禁錮1年6ヶ月の実刑判決が下された。



この事故の詳細を聞くと、加害者は右側から小走りで道路を横断してきた被害者に対して、避けようとしたのか左にハンドルを切って歩道に乗り上げ、アクセルとブレーキを踏み間違えて重大事故に至ってしまっている。

以下は推測ではあるんだけど、左にハンドルを切ったことによって加害運転者の身体が右側に振られ、ペダルの位置関係を把握出来なくなったのではないかと思われる。

私も以前軽自動車に乗ったことがあるんだけど、軽自動車っていうのはあまりに小さく作られているので前輪のカバーが運転席の足元右側にせり出していて、ペダル類が左側に寄って配置されており。それだけでも充分踏み間違えを引き起こしそうで怖いなと感じたことがある。

若い人と異なり、高齢者では加齢による聴覚機能が低下している場合があるんだけど。そうなるとアクセルを踏んだ時のエンジン音から踏み間違っているのかどうかを瞬時に把握することも難しくなっている可能性もある。

加齢による聴覚障害というのは、年々徐々に進行してゆくために、その低下を認識しずらいのかも知れない。

また、最近の自動車では、防音性が高くなっているため、エンジン音も昔に比べると聴き取り難くなっているという要素もあるだろう。

若い人の声が小さいと感じている人の場合、意外と症状が進行している可能性があるので注意が必要である。

あと考えられるのが、エンジン出力の向上により、同じ排気量でもアクセルを踏み込んだ時の加速力が昔の車よりも強くなっているため。アクセルとブレーキの踏み間違えによる制御不能に陥り易くなっているのかも知れない。



以上のような分析や対策といったものを吹っ飛ばして判決だけを報道していて、何が再発防止なのかサッパリ理解出来ない。



刑法懲罰というのは、国家権力を用いて国民に威圧的な恐怖を与えるという「抑止力」を目的としたものであって。そりゃ自分の運転に危険性を自覚している人にとっては効果があるかも知れないけど、「俺は大丈夫だ。」と慢心している奴には何の効果もないだろう。

実際、飲酒運転の厳罰化が行われても、飲酒運転の減少はさして進んでいない。

厳罰化というのは、被害者の報復感情的な満足感は与えても、合理的な再発防止策にはならないのである。

中国では麻薬取締法違反は極刑であるが、「ばれなきゃ恐くない。」とばかりに一向に麻薬犯罪は減ることがないことからも、厳罰化というのは雰囲気物であって、実効性はそんなにはないのである。

むしろ罪や危険性の認識が薄く、自律的な社会的責任意識の低いヒト程効果が薄いことになる。

それこそフィリピンのドゥテルテ大統領政権のように強権的取り締まりでもすれば粛正出来るのであろうが。これは独裁のための人気取りとして利用されかねない危険な政策でもある。

では、実際に合理的で効果的な対策とは何か、長期的には自律的な社会的責任意識を持つという人格形成を重視した教育というものが重要だろう。

それから現状の運転者に対しては、刑法懲罰を用いた威圧的抑止という抽象的で観念的なものよりも、事故の詳細な分析による危険性の認識を高めることの方が重要だと言える。

医師が様々な症例を分析するように、運転者も様々な事故例の分析を知ることで、危険性の認識を高めることが必要であり。そのためにも自律的な責任意識は不可欠なのである。



危険学/失敗学では、刑法懲罰を決定するだけの「悪者探し」を停止し、徹底的な理論的分析を行うのだが。それこそが合理的で最も実効性のある原因究明と再発防止策になるからであり、刑法懲罰のための司法制度自体は百害あって一理もないのである。

抑止力というものには意味があると大衆観念的には思われているが、軍隊の増強が相互の軍拡競争を促し、危険性を醸成するばかりで具体的な安全保障にはならないことは明らかであるのだが。自国の軍隊を増強することは、国民にとっては気分的安心満足感を与え、その気分感情を安全性と勘違い錯覚妄想することと、刑法懲罰で解決だと錯覚することは、ヒトという種の生物全般に見られる先天的欠陥である。

威圧的抑止力というのは、観念であって理論ではない。

現代人というのは、産まれて以来刑法懲罰だけが唯一の絶対的解決であると誰も疑って来なかった。その既製事実を事後正当性する形で刑法懲罰には意味があるものであるという、一種の集団催眠に陥っているとも言える。

事件や事故が発生すると、どうしても被害者感情ばかりが取り上げられてしまい、報復の代行である懲罰さえ決定すれば全てが解決したかのように大多数の大衆は錯覚しているが。こうした錯覚妄想こそが論理的で実効性のある対策を阻害し、社会安全性を損なう重大要因となっているのである。



本当に悲惨な事故を減らしたいと考えるのであれば、刑法懲罰よりも論理的な原因究明や再発防止策の確立といった具体性のある制度が必要なはずなのだが。現状の司法制度こそがこれを阻害しているのである。

司法というのは科料の程度を査定するだけの組織であり、事故の原因究明や再発防止策を立てるための制度など存在していないのである。

にも関わらず、被害者や遺族達は最も効果的な再発防止になっていると思い込まされているのであり。これは一種の詐欺みたいなものでもある。

騙している方も騙している認識がなく、騙されている大多数にも騙されている認識がないため。あたかも責任が多数で薄まったかのような錯覚に陥り、問題意識までもが多数で薄まってしまっているのである。

「赤信号、皆で渡れば、怖くない。」

ヒトは怖くないことは安心して続けることが出来る。

そこに安全性の担保の有無は関係がない。




高齢者ドライバーによる事故のニュース




Ende;
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○新白山丸。

2016年12月15日 12時09分45秒 | 写真
新白山丸っていう船が岩淵の近くの工事現場で旋回してて、タンカーかなと思って写真撮ってみたんだが、ググってみたらセメント運搬船だった

Fig:

新白山丸
総トン数 115トン
積トン数 280トン
全長 34.65メートル
幅 7.80メートル
主機の出力 374キロワット
用途 セメント運搬船

 出典:芝浦海運

以前にもタンカーだと思って船の写真載せたことあったけど、もしかするとタンカーではなかったかも知れない。

船名からググってみた方が間違いないね。

Ende;
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○うっかり。

2016年12月03日 11時16分55秒 | 日記
うっかり水道の水を出し放しにしてしまった

多分20分くらいだと思うんだけど

お風呂のお湯(180リットル)が10分程で満杯になるので360リットルくらい捨てちゃったことになるのかも

金額にすると数百円なんだろうけど全くの無駄なので気分悪い

時折何かを忘れることってヒトだからある

ガスコンロだと火事になるかも知れないし

洗濯機で洗濯したのを忘れると臭くなっちゃう

外出の時なら窓や扉の施錠とか冷暖房

こういう忘れ物を優先的にホームオートメーションで管理して欲しいな

水道出し放しにしてたらテレビやPCやスマホが教えてくれても良さそうなもんだ

おいらはスマホ持ってないが

自動車の自動ブレーキみたいにヒトの「うっかり」を補ってくれることこそ優先して自動化して欲しい


◇追記:ってこの記事を投稿した際に投稿ボタンが反応しなかったので2度押ししたら二重投稿になってしまった

ちょっと面倒臭い




Ende;
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○怖いわー。

2016年12月01日 17時29分25秒 | 日記
近所のスーパーに買い物に行こうと自転車こいでたら

グギっ

という異音と共に後輪に違和感があったので急停車して見てみたら

Fig:

なんじゃこりゃ

長さ7.5㎝くらいの鋭利な金属製の針がタイヤを貫通していた

完全に貫通しているので空気すら抜けないみたい

とはいえトレッド面に突き出ているので乗って走るのは無茶そうなので押して帰ってきた



いや足で踏み抜かなくてよかった

しかし一体何なんだろう

怖いわー



 ◇追記:ダイソーで自転車パンク修理キットを買ってきたんだが

付属のサンドペーパーがショボ過ぎて全く使い物にならなかった

おいらは石粉粘土で造形とかしとるのでサンドペーパーも電動リューターもあるので困らなかったが

持ってない人だったらちゃんと修理出来ないんじゃないだろうか

お店によっては工具コーナーでサンドペーパーも取り扱っているので 修理キットと一緒に買わないとキビシいと思う

#320番あたりで良いんじゃないかな



Ende;
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