書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○矢車菊。

2015年04月27日 13時53分57秒 | 写真
近所の駐車場に矢車菊が咲いていた。


ところが写真に撮ってみると色が違うのだ。

どうやら赤外線の影響らしくて画像検索しても同じような明るい青に写っているケースが多い。

なので赤外線の弱い条件下で撮れば見た目同様の濃い紫に写るかも知れない。

で、ちなみに「矢車草」という花もあって、見た目が全然違う。
画像はサーチエンジンからパクってきた。


◇追記:試しに一本むしり採って来てLED光源下で撮影してみたけど やっぱり明るい青にしか写らない。LEDなら赤外線も紫外線も含まないはずなので機材の問題なのかも。


Ende;
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○M134。

2015年04月26日 12時27分44秒 | 日記
パレスチナ問題系アカウントからフォローされちゃっているので西側兵器載せるの気が引けるからTwitterには直リンクしない。

iShade3 Mac G4 733MHz で70分くらいかかった。

まだちょっと調整するとこあるけどね。

誰か最近のShadeでSTLファイルに変換してもらえないかな。


Ende;
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○かぼちゃ。

2015年04月17日 19時30分12秒 | 日記
ニュージーランド産のかぼちゃをスライスして、多めのオリーブオイルで揚げ焼きみたいにしたら激ウマだった。

Fig:

見た目は地味だけど何の味付けも要らなかった。

Ende;
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○犬にとって服従はアヘンである。

2015年04月15日 16時01分05秒 | 意識論関連
 「宗教はアヘンである。」そう述べたのはカール・マルクス(Karl Heinrich Marx)でしたが、ヒトが宗教を信じる理由について説明したいと思います。

 ヒトが宗教を選ぶ理由とは何か。それは、教義を守り神に服従することで、あたかも自分が正しい存在になったような錯覚を与えるからです。

 気分が良くなるから宗教を信じたがるのであって、宗教戒律を守ることであたかも絶対的存在である神の教えを守る潔癖な存在であるという錯覚が欲しくてヒトは戒律を守るのであり、社会の安定や平和につながる合理的根拠が必ずしも必要なわけではないのです。

 ヒトという種の生物は、他者との比較をして自分が他人よりも「上」か「下」かといった「順位づけ」をする習性があります。こうした習性はイヌやハダカデバネズミなどの動物に顕著に見られる性質で、自分より順位が「上」と見なした相手に服従することで気分的に安心や満足が得られる習性を持った個体へと淘汰が働いた結果、服従が快楽(脳への報酬)となるよう自然淘汰によって脳の古い領域に組み込まれた「結果」なのです。

 進化生物学上ではこれを「社会性」と形容していますが、これは結果的に役割分担による機能性を指して形容しているだけであって、こうした「社会性」であれば野良犬の集団でも振り込め詐欺師でも行う先天的習性という「結果」でこそあれ。意識的に選択した「目的」としての(持続可能性や安全性を考慮に入れた)人間としての社会性とは全く別の「社会形成習性」に過ぎないのです。たとえそれがある種のチンパンジーの集団内部における断片的且つ結果的に外見上倫理性を伴った行動のように見えたとしても、それは凶悪なゲリラや過激派の集団内部の断片的倫理性の抽出と同じものに過ぎず。先天的行動習性による行動バイアスが常に人間性を伴った合理的倫理性の証明には一切ならないのです。



 イヌが自分より「上」と見なした相手に対して異常興奮することからも、服従はアヘンのような麻薬性を持っていることがわかります。

 ヒトの脳の左側頭葉の一部に磁気刺激を与えると、「神を感じる」という研究結果がありますが。「神を感じて」いる状態とは、ありていに言って快楽と直結しているから「神」だと思うのでしょう。 気分的に安心で満足感が得られるからこそ「神」なのであって、「神」とは大脳辺縁系が快楽であると感じる幻想なのです。

 しかし、ヒトは自分の「感じて」いる快楽を、短絡的に意識の全てだと錯覚する習性があり。論理検証をすっ飛ばして感覚こそが「正しい」と思い込むよう、ヒトの脳は出来上がっているのです。これを指してマルクスは「宗教はアヘンである。」と形容したのでしょうが、麻薬性を持っているのは実際には宗教に限ったものではなく、社会主義でも民族主義でも生ずる「服従への快楽」自体が普遍的に麻薬性を持っているのです。

 おそらく有神論者がこの文章を読めば、気分的に不安に陥り、場合によっては精神的恐慌をきたしてパニックに陥り、反って思考停止に陥り拒絶反応しか示さないかも知れませんが。こうした感情的思考停止は振り込め詐欺師が相手の論理検証性を阻害する手口に応用可能なヒトの脳の先天的性質の「結果」なのです。

 「有神論」に対して「無神論」というと、有神論者達の多くは「神がいなければ、何をしても許される。」という有神論者特有の無神論を短絡的に想起するようですが。これは「許す対象」としての神の存在を前提とした話であって、仏教徒には適用出来ない中東由来の一神教信者固有の観念だということは認識しておいて頂きたい。

 神を持っていなくても、人間としての正しい行いが選択不可能なわけではありませんし。逆に神さえ持っていれば人間として必ずし正しい行いが選択できるというものでもないことは明らかです。



 動物としての順位欲とは、「子」が「親」に対して抱く安心満足感(快楽)が、続柄を超えて集団内部の別個体へと転移することで生じます。

 多少なりとも論理検証性が働いていれば、野犬のように暴力的権力者に媚びへつらうことを嫌い。より人間性を持った存在へと服従対象を「選択」することも可能でしょう。利己的欲望に取り憑かれ、暴力によって恐怖で民衆を服従させるような相手への服従を嫌い。より人間性を持った相手へと服従対象を転移させたいという願望の究極が神であると言えるでしょう。

 しかし、こうした「選択」が働かなければ過激派であろうとテロリストであろうとヤクザであろうと、むしろ暴力的支配力を持った相手に「カッコイイ」という感覚を抱き、気分的安心満足感を短絡的に得られるため。ヒトは比較的簡単に暴力的集団組織に服従するようにもなるのです。「カッコイイ」というのは子が親に対して抱きたい幻想であって、ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた行動バイアス(無意識/情動)でもあります。

 神というのは親の究極ですから、いわば哺乳類としての「甘え」の対象でもあります。

 自分自身で自律的に検証し、合理性を持った統合的「目的」意識としての選択をせずに、何でもかんでも責任を親(神や社会制度)に丸投げしてしまえば行動が無責任になるのは必然的結果です。

 「甘え」というと「精神論的なものである」と多くのヒトは錯覚しがちですが。本当の「甘え」というのは自分の感情に左右されずに冷静に論理検証するという本質的「意識」が機能していない状態を指すのであって。むしろ精神論的に漫然と規律ばかりを押し付けることこそが本当の「甘え」だと言えるのです。

 漫然と努力辛抱根性さえ出しておけば人間性が養われるという短絡的で合理性も統計的根拠もない観念に頼ることこそが、論理検証性を放棄した本当の意味での社会的「甘え」であって。戸塚ヨットスクールや軍隊のようなスパルタ教育というのは、戦争やテロのようなバカげたことをさせるためには有効であっても、自律的に社会を築くリーダーシップを発揮する人間には育たないのです。

 オウム真理教幹部達が命懸けで地下鉄に毒ガスを撒いたのは、その命懸けという主観的「一大事」だけを頼りに論理検証性を放棄した結果であり。こうした盲目性に由来する洗脳というのは、一般大衆が漫然と抱く「甘え」への観念が作り出したものでもあるのです。




 「甘え」についてこうした説明を行うと、むしろ短絡的に「子供を甘やかしてはいけない。」などというバカげた大衆観念に簡単に陥る傾向があるようですが。こうした短絡性そのものが社会的には「甘え」であって、子供に自律的論理検証性を持たせるためには、むしろ安心して自分で選択できる余裕を持たせることが重要であって。親が何も考えず、何も検証せず、ただ漫然と規律への服従だけを押し付けていれば子供も自律的には何も考えないように育つのは必然なのです。

 大衆観念上では、規律に従わせて精神論的に厳しくシツケておくことだと短絡的に「思う」ようですが。その短絡さこそが社会的には無責任な「甘え」であって、こうした思考停止性というのは世代間で連鎖しているものであって、「自分はそういう育て方しかされてこなかった。」などと称して次世代にまで思考停止を連鎖するのは社会的に極めて無責任な行動であり、その無責任な思考停止をもってして社会的「甘え」だと言えるのです。



 個人が自律的に社会的責任判断をするためには、規律などと称して頭ごなしに命令に服従させていたのではダメで。これでは規律を押し付けた「上」の者に責任の全てを丸投げして自分では何も考えないバカが育つだけであり。「言われたことを達成すれば誉められるからやる。」とか、「悪いことをすると罰が与えられるから、やらない。」という気分に直結した行動選択しかしなくなります。

 このように気分が行動動機に直結していると、自分自身で善悪の判断を行わないようになり、目先の気分で「怖ければやらない。」し、「安心ならやる。」といった極めて動物的な行動選択しかしなくなってしまうのです。

 この状態こそが「自律がない。」状態であり、どんなに外見的に取り繕っていても責任意識が働くことはないのです。

 理化学研究所における業績の捏造も、研究者自身の本質的主体性の欠如こそが最も根源的原因であって。形式的に倫理を教え込んで改善や再発防止になるようなものではありません。



 あらゆる「人災」というのは、当事者の無責任が招くものであって。論理的に予測不可能なアクシデントであれば、これは「人災」ではないからです。

 「当事者」というと、あたかも事故や犯罪を犯した司法裁判上での当事者だけを指しているように思うかも知れませんが。JR福知山線脱線事故においては運転士に過剰なノルマを与えて精神的余裕を喪失させるような勤務を押し付けたJR幹部にも問題があるように。個人の責任判断のみならず、組織全体で安全性を確保するための対策が必要不可欠であり。むしろそのために「責任者」としての上司が存在するのであって。問題が起きてから記者会見で頭を下げて辞任すれば責任逃れが出来るような制度は全く責任者としての社会的意味を成していない。



 「イスラム国」過激派の連中には、社会全体の持続可能性や安全性への配慮はありません。これはイスラム過激派に限ったことなどではなく、オウム真理教でも、秋葉原の通り魔でも、暴力団でも共産主義ゲリラでも、ナチスでもポルポトでも、福島第一原発を暴走させた東京電力にも言える、あらゆるヒトの暴走性に共通している無責任性です。

 何度も言うようですが、こうした無責任というのは、自律的な論理検証をせず、何でも他人に責任をなすりつけるという「甘え」がもたらすものであり。ヒトという種の生物に先天的に具わった行動習性に由来するものなのです。




 社会的無責任というのは、当事者の自律的な論理検証性の欠如によってもたらされるものであり。その原因とは気分と行動が直結しているという短絡性に由来するものなのです。

 ところが厄介なことに気分感情が行動に直結している者にとっては、「合理性=利己的金儲け」といった、これまた短絡的観念を持ち出して論理検証を忌み嫌うばかりで。あたかも気分感情さえ良くなっていれば人間性の全てだという身勝手な妄想によって満足しようとしがちです。

 ヒトという種の生物は神の産物などではないので、ヒトの脳が促す行動バイアスが常に正しい結果を招くと思うのは大きな間違いです。

 宗教やイデオロギーであればまだしも、なにより進化生物学という科学に属する研究者達が、生物の先天的行動習性という「結果」から倫理性や目的意識を立証しようとするのは科学を逸脱したオカルトとしか言えません。そうしたオカルトで満足する大衆やマスコミもまた無責任であり、その無責任さがあらゆる「人災」の根源的原因であるという自覚や認識が必要なのです。

 「人災」というのはどこでも起こり得る可能性があります。なにせ根本原因がヒトという種の生物の先天的行動習性に由来するものですから、基本的に全ての人が自己内部の「ヒトという種の生物」に由来する危険性を認識する必要性があり、「だって進化生物学者が間違えているから仕方ない。」で済まされる話ではないのです。



 どのような暴力的で無責任な集団組織であっても、その内部にはそれなりの倫理性や統率性が存在することは珍しいことではありません。多少なりとも倫理性がなければ集団組織として統率的行動は採ることが出来ませんから。

 そうした断片的な倫理や統率性をどんなにたくさん抽出枚挙しても、生物種としての先天的行動習性から倫理性を立証することは構造原理的に不可能であり。進化生物学者達による業績の捏造を鵜呑みにすることというのは、社会的に極めて無責任なことであるという自覚が必要です。

 自分の義務を果たさずに権利だけ主張することは子供じみた身勝手な傲慢でしかないからです。



Ende;
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〇「人災」の原因。

2015年04月08日 15時29分10秒 | 意識論関連
 ヒトやチンパンジーの行動から断片的に倫理的に見える習性を抽出枚挙してきても、ヒトやチンパンジーの狂暴性の反証には一切ならず。単に文科系マスコミや大衆の気分的満足を提供しているに過ぎない。

 どんなに倫理的に見える行動習性を抽出枚挙しても、それによって狂暴性が一切存在し得ないことの論理証明には全くならないからだ。

 チンパンジーであれヒトであれ、断片的にであれば概ね倫理的で平和的な部分だけを抽出することは簡単である。その平和的で倫理的な部分だけを断片的に抽出することで満足するのは大衆迎合に過ぎず、それは単に「ヒトやチンパンジーは生物として優秀である=自分達は優秀である。」という短絡的でバカ丸出しな観念に溺れて満足しているだけの妄想錯覚に過ぎず。全くもって科学的には意味を成さない。

 どんなに断片的に倫理性を抽出してきても、それがヒトやチンパンジーの狂暴性の反証には全くならないことは明らかであり。これを短絡的に科学的業績か何かだと錯覚しているのは進化生物学者とマスコミ大衆だけである。

 これらの進化生物学者達の妄想錯覚をどんなに陳列しても、テロリストや通り魔の発生原因について何の影響も及ぼさないばかりか。むしろ身勝手な大衆迎合によって本質を撹乱する害しか及ぼしていないのである。

 それはあたかも司法制度が刑罰科料の程度の妥当性の決定を「解決」だと見なすことと同じように、本当の意味での根本的対策を阻害するものでしかないのである。

 進化生物学的な先天的行動習性とは、常に「結果」以外の何も抽出することはない。従って進化生物学が出来ることというのは常に「結果」の観察報告だけであって、そこから意識的目的行動選択としての倫理や人間性に言及することは構造原理的に不可能なのである。

 人間性としての倫理、理性というものに言及するためには、「結果」の抽出を陳列する形式からは原理的に不可能であり。「結果」だけを観察する形式の進化生物学者が言及するべきものでは最初からない。

 人間性や倫理に言及するためには、「目的」としての意識が必要不可欠であり。進化生物学的「結果」から抽出するようなものでは構造原理的にない。

 ヒトやチンパンジーの倫理性を断片的に抽出してくれば、マスコミ大衆は自分達のヒトという種としての優秀性を勝手に妄想して満足するのであろうが。こんなものは進化生物学のペテンでしかなく、全くもって科学的には意味を成さない。



 ヒトやチンパンジーの行動習性の断片的「結果」をどんなに陳列しても、東電社員による原発の危険性放置の原因究明にも、イスラム系過激派(過激派というのはイスラム系に限ったことではないが、時事ネタとして挙げている)や通り魔達の行動について何も言及することが出来ない。これは構造原理的に不可能なのであって、「何かの役に立つかも知れない。」と思っているのはマスコミ大衆の妄想錯覚でしかない。

 振り込め詐欺師達や反社会的組織の集団内部で利他的行動や倫理統率性をどんなに抽出してきても、それが振り込め詐欺師達の非人道性の反証には一切ならないことと同じであり。それで満足しているというのは、むしろ社会的に極めて無責任なことだということを認識すべきである。

 「意識」的に論理検証し選択されないあらゆる「結果」としての行動習性に「目的」は存在しない。

 どんなに大衆観念上倫理的に「見える」としても、それを錯覚妄想だと認識出来ないのは論理的科学的に検証していないからである。

 論理検証性が個人的、主観的に嫌いなのは勝手だが、論理検証をすっ飛ばして気分的満足安心だけで科学的証明だと言い張るのは社会的無責任であり、悪質である。当人にその認識があるかどうかは関係がない。

 反社会的な過激派組織や通り魔達がなぜ暴力という短絡的最終解決に暴走するのかといえば、彼らの脳にも論理検証性が欠落しているからであり。進化生物学的「結果」の抽出枚挙を科学的業績だと妄想することというのは、彼らの思考パタンと全く同じ無責任なものなのである。

 「ヒトの多くが先天的に論理検証性が嫌い」だからといって、それが「人間として正常」であることの論理証明には一切ならない。

 ヒトの多くは多数派に属していることで気分的に安心するという多数派同調バイアスが先天的に備わっている。これはいわば先天的な「バグ」であって、その「バグ」から促される妄想錯覚に「パッチ」を充てるのが論理検証性であり本質的意識なのである。

 しかしチンパンジーに論理検証性など存在しない。ヒトであっても多くのヒトが先天的に論理検証を忌み嫌うものであって、その結果がイスラム過激派や東電の無責任な暴走をもたらしているのである。



 ヘイトスピーチ的に何かの組織集団に暴力的差別をしておけば何かの解決になると妄想することは簡単である。暴力的に怒鳴り散らしておけばヒトの大脳辺縁系は満足するよう先天的に出来ているからである。

 なぜ、こうした構造なのかといえば。それは大脳が肥大する以前の圧倒的に進化過程において組み込まれた「結果」に過ぎないからだ。

 先天的行動習性をどんなに陳列枚挙しても、そこからは「結果」以上の何も導き出すことは原理的に不可能なのであり。意識的に選択された「目的」が介在しない先天的行動習性から倫理や人間性を論ずることも同様である。

 ヒトという種の生物は先天的に論理検証をパスして気分感情だけで行動選択するよう出来ている。ヒトが引き起こすあらゆる「人災」の全ては自分の行動選択を論理的に検証しないことから生ずるものであり、文科系大衆観念に基づく進化生物学への妄想というのは、あらゆる「人災」の根源なのである。

 「自分だけは大丈夫」とは、特殊詐欺の被害者達が詐欺に遭うまで「思って」いた観念の典型である。ヒトという種の生物は先天的に「自分だけは大丈夫」だという思い込みで安心満足しようとする習性があり、これを「正常性バイアス」と言う。

 「もしかしたら自分は間違っているのではないか。」という疑いを持つことが気分感情的不安をもたらすことから、ヒトの多くは「自分だけは絶対に大丈夫」だと思い込むことで、自分の行動への論理検証を放棄するよう先天的に出来ている。それがあらゆる「人災(論理検証的予測によって回避可能な災害)」の原因なのである。



 ヒトは「長く続くことは永遠に続くと錯覚する。」性質がある。それは「長く続いていること。」に対して論理的根拠もなく気分的に安心満足が得られるという実証不能の観念に基づくものであり、それゆえ司法裁判などという実質的には犯罪や事故の再発防止につながらない「国家権力誇示のための懲罰」を「解決」であるという妄想錯覚をもたらし不毛な血税の無駄遣い制度の温存に多くの国民が加担しているのである。

 国家権力による暴力的懲罰を用いて、気分的恐怖心で民衆を抑圧するという制度の形式自体が、あらゆる暴力的集団組織や通り魔達の思考パタンと同じものであり。この根源的且つ一般的な間違いを間違いであると認識出来ないからこそ、あらゆる暴力的集団組織や通り魔の発生原因にも言及することが出来ないのである。

 刑務所を出所した後に就職先がないと再犯率が高いからといって、短絡的に犯罪者に就職斡旋をするなどという犯罪者優遇はあまりにバカげており。刑務所という懲罰制度自体を温存維持するための「その場限りの取り繕い」にしかなっていない。


 ヒトという種の生物は、先天的にアクシデントが生ずると特定責任者を「悪者」と見なして懲罰を加えておけば気分的に安心満足し。それを短絡的に「解決」であると思考を停止する。

 この形式はISILや通り魔の行動原理と全く同じものであり。これこそがあらゆるアクシデントに対する論理的再発防止策の確立を阻害しているのである。

 国会事故調査委員会の畑村洋太郎氏(危険学者)は、こうした「悪者探し」がもたらす懲罰よる気分的安心に拠らない科学的で合理性のある再発防止策の確立を提唱しているにも関わらず。大衆の多くは悪者を身勝手に規定して怒鳴り散らして満足しているだけである。これではヘイトスピーチと何の違いもなく、害悪しかもたらさない。

 相手が間違っているからといって、自分まで間違って良い理由にはならない。

 むしろ自分が間違いに陥らないようにしなければ他人の間違いに言及する資格もないのである。

 相手という、いわば「環境」に左右されて自律的な社会的責任判断選択を放棄してはならないのである。

 ヒトはどうしても相手が支離滅裂なことを言っていると自分まで感情的になり論理検証性を失う習性がある。特殊詐欺師というのは、こうしたヒトの普遍的習性を利用して経験則的に詐欺を行っている。

 詐欺というのは騙される方にも問題がある。ナチズムにそそのかされてユダヤ人を迫害したドイツ人達や、欧米列強の植民地政策を模倣して軍国主義に染まって侵略戦争に走った日本人の暴走も。「時代や社会」という環境に流され自律的な論理検証性を持たなかったことに起因する野蛮行為である。

 政府による情報統制が一因であるとはいえ、情報統制によって全ての国民が騙されたわけではなく。「多くの国民」が騙されたからといって騙されたことが「正常」であるなどと思うのは傲慢という他ない。

 現代のようにこれだけ情報に恵まれていてもヘイトスピーチのような偏った情報に洗脳されるヒトは出てくる。それを見て、「バカはいなくならないなぁ。」と他人事だと思うだけではなく、むしろ「もしかすると自分もバカに陥るかも知れないな、注意しよう。」と自戒すべきなのである。

 自らの頭の悪さを認識せずに「人災」を語る権利はない。


Ende;
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〇Pixivに投稿出来なくなっていた。

2015年04月05日 16時00分51秒 | 日記


なんで投稿すんのにブラウザ選ぶかな~

gooブログだとR18指定が出来ないから載せらんないのよね~






 ◇追記:という訳でR-18にならないよう描き変えて載せてみるー。

 シリコンゴム製のこういうフィギュア製品化したいなと思ったのだ。

 最近の人肌ゲルならベトベトが改善されているらしいんだけど、人肌ゲルだと柔らか過ぎて骨格入れないといけないのでシリコンゴムの方が良いかなと思う。

 手足を着脱式にしとけばお着替えもしやすそうだしコンパクトに収納も出来る。

 あ、サイズは60cmドルフィーのウイッグに合わせようかと思っている。

 顔に関してはアニメ顔の方がウケるのかしら。


Ende;
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〇壁紙変えてみた。

2015年04月04日 02時03分08秒 | 日記
昨日までこれで


今日からこれ


フェットチーネグミのもある



あと宮崎あおいちゃんのやつも

オリンパスPEN:1

オリンパスPEN:2

オリンパスPEN:3


檀れい(金麦)さんのやつもあった

今時AZ-05M使っている人もいないだろうけど載せてみた。



 ◇追記:記事のリンク先にしてたYahoo!Geositiesが全滅したので gooブログに遺ってた1920サイズへのリンクを載せておくが





今更一体何の需要があるのかさっぱりわからんのに 何でランクインするんだろう?




Ende;
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〇桜。

2015年04月02日 11時46分18秒 | 写真
ビューファインダーがないと何がどう写ってるのか良くわからない。



彩度とかいじっている。

こういう写真は大量に撮っておいて後からじっくりセレクトしないとダメなんだろうなぁ。

横に伸びた枝の場合、下側には花があんまりつかないのかな。枝にも依るのかもしれないが。

公園の桜ってお手入れされているので枝うちされていて自然な枝がないね。人があんまり通らないようなヘンピな場所に植えてある桜の方が伸び放題なのでカッコイイ枝ぶりの桜があるみたい。
これ多分桜だと思う。冬に撮ったので枝だけだけど。


都内だと周囲の建物が低くないので枝の背景に青空持ってくるのも難しい。

ソメイヨシノは満開になっちゃうともふもふになりすぎるので、2分咲きくらいを狙うのが良さそう。
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