ネコは鏡に映る自分の姿を自分だとは認識できず 他のネコだと錯覚したまま威嚇し続ける
ヒトが錯覚を錯覚だと認識できるのは ヒトの論理客観的思考によるものであって ネコにはそれが充分に働かないから錯覚を自覚できないのである
それなら ヒトでありさえすればあらゆる錯覚を錯覚だと認識区別可能かと言えば そうとは限らない
振り込め詐欺師の電話であっても 「話し方が丁寧だった」という主観的印象だけでも簡単に詐欺師であることを認識できなくなることもある
たとえ学力偏差値の高い東大医学部の学生であっても カルト宗教に騙されて毒ガステロをやらかすようにもなることがある
ヒトの感覚による主観的印象というものは 論理客観的根拠に基づいた真実とは異なるものにリアリティを「感じ」てしまう可能性が存在しており これは「ヒトという種の生物」である以上は避けることができない先天的な認知上の欠陥である
ヒト すなはち自分の脳は自分で選んでなどおらず その認知システム構造もまた自分の選択の介在しない遺伝的進化という自然現象の「結果」でしかないため 主観的印象によって錯覚が生じること自体も避けることができない
錯覚とは ヒトの脳の先天的なハードウェア的な欠陥であって これは後天的にソフトウェア的に修正することは可能である
見通しの良い畑の真ん中の十字路で 時折衝突事故が起きることがある
偶然同じ速度で十字路に向かって互いの車が走行していると 横から走ってくる車が背景に溶け込んで見えなくなる錯覚が生ずるためである
これは航空機でも起きることがあって 低空で飛行しているヘリコプター同士が衝突することがあるという
視野の中に確実に「見えて」いるにも関わらず それを認識できなくなる錯覚が存在しているのである
だが こうした錯覚が存在していることを踏まえておけば 錯覚による事故を避けるための対策は可能である
錯覚というものはヒトの認知上の様々な欠陥から生ずるものであり 簡単に錯覚として認識できるものから 自覚することが困難なものまで様々にあり 困難であるからこそヒトは実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけ続け 絶滅破綻への暴走をやめることができないのである
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「絶対に知覚することのできない叡智界」などという実証不能の妄想ファンタジーを鵜呑みにし 「近代哲学の最高峰」などと錯覚しているのも ヒトの認知上の欠陥から生ずるのである
「なぜ知覚することができないのか」についての論理客観的根拠も示されていなければ 「なぜ人間は叡智界に属している」と言えるのかについても論理客観的根拠は示されておらず 結局イマヌエル:カントの勝手な決め付けに多くの衆愚(「哲学者」共も含む)は主観的満足感を短絡的に真理や「哲学」だと勝手に錯覚しているだけなのである
これは 言うなれば錬金術を科学だと言い張っているようなものであり トンチンカンにも程がある
フリードリヒ:ニーチェが言う「信念は真理の最大の敵だ」という話も 実証不能の観念を振り回してテロ行為を行うことだけを論拠に正当化する論説は山ほど出てくるが 主体的石としての信念なくして真理なんぞ識別することはできないのであって 信念に論理客観的根拠が伴うかどうかこそが重要なのであり 短絡的に信念の全てが「真理の敵だ」という話にはならない
一面的論証だけを鵜呑みにし あたかもそれ以外の論証が存在しないかのように錯覚するのは 自分の頭で物事を考え検証していないからである
こうした一面的論証だけを鵜呑みにする頭の悪さは マルクス:ガブリエルの言う「ファウストは自然科学ではインクの粒しか対象にしない」という決め付け論法でも見られるものである
フィクションや芸術というものを自然科学的に検証するとすれば なぜフィクションや芸術というものをヒトが求めるのか その脳や欲望の構造を検証することも可能であり 決してフィクションや芸術を自然科学では扱えないわけではない
マルクス:ガブリエルは主観的なリアリティ(現実感覚)と論理客観的真理(現実そのもの)を区別できておらず 自分の主観的印象に過ぎぬリアリティを短絡的にリアル(現実)として扱うトンチンカンな論説に過ぎない
それは振り込め詐欺師の電話にリアリティを「感じ」ているのと同じであって 頭が悪いにも程がある
「ボン大学教授」という肩書権威に対し ヒトの多くは宗教のように盲目的信頼感を抱くことによって 荒唐無稽なファンタジー妄想であっても簡単に鵜呑みにし 誰も疑いを持たなくなるからである
京都大学霊長類研究所の松沢哲郎による文化功労賞も 養老孟司の東京大学名誉教授という肩書や衆愚人気も科学的根拠にはならないし
マイケル:サンデルがハーバード大学の学生から多数人気を集めていても 多数であることが論理客観的に真理であることの論証にもならない
人気が出ていさえすれば ヒトは多数によって内容が保証されているものだという勝手な安心感を抱くことで 内容の論理客観的検証を誰も全くしなくなることで 嘘やデマが大学でも通用してしまうことに陥るのである
自己の主観的満足感を客観的真理と錯覚しているからこそ 論理客観的には根拠のない妄想ファンタジーを「哲学」だと勘違いすることになるのである
哲学というのは「考える」ことである
「考える」とは すなはち論理客観的に「本当の話」か「本当の話ではないか」を区別することを意味する
決して主観的に満足することが「哲学」ではない
ところがヒトの多くは主観的「悩み」を解消するために都合の良い話をこじつけて満足することを「哲学」だと勘違いし 基準の曖昧なフリードリヒ:ニーチェなんぞを「カッコイイ」だの「センター性がある」などという主観的印象や感想だけで個人的好き嫌いだけで「哲学」だと勘違いするのである
あまりにバカ過ぎて説明しているこっちが恥ずかしくなるのだが
ヒトの多くは「哲学とは そういうものだ」という盲目性を発揮し 問題だとすら「思って」いないのである
いわゆる「問題盲」というやつであろう
危険工学において刑法を一時停止させて徹底的に原因究明をするのも ヒトの多くが「刑法懲罰で解決だ」という「そういうものだ」感で満足したがる先天的な認知上の欠陥を補うためのメソッドである
見通しの良い十字路で 相手の車が見えなくなる錯覚による事故が起きた場合に 一時停止を怠った方に罰を与えておけば事故の再発防止になるわけではないし 通り魔事件が起きる度に通り魔を死刑にしても通り魔事件の再発防止にもならない
にも関わらず ヒトの多くは「刑法懲罰で解決した」という報復感情を満たすことしか意識の俎上には乗らない盲目性によって非合理な刑法に頼る以上の何もしたがらないのである
刑罰とは 要するに暴力的抑圧である
「嫌な奴を殴って満足する」 それだけの話に過ぎず 刑法はこれを手続き的に社会制度に仕立て上げた大衆迎合に過ぎず 論理客観的な再発防止策にはほとんどならない
酔っぱらい運転で何人被害が出ようとも 酔っぱらい運転をするような無責任なバカには如何なる厳罰化も効果がないのである
たとえ取り締まりで捕まったとしても バカは「運が悪かった」程度にしか「思って」おらず 「バレなければ俺に損はない」としか「思って」いないのである
こうした自覚の欠落というものは 本人に主体的意思や自発的な「考え」が働いていない意識の欠落によるものである
「意識」のない奴に「自覚」なんぞあるわけがないのである
「へずまりゅう」が「迷惑者はザラにいる」ことを論拠に自己の迷惑行為を正当化できているかのように言い張るのも 一面的論証をあたかも反証不能の絶対的論証であるかのように錯覚しているからである
ファンタジーの多くでは 暴力的報復による「解決」が普遍的に見られる
それは 暴力的報復こそが完全無欠の絶対的「解決」だというヒトの先天的感覚による快楽をもたらすからである
アイアンマンがテロリストを虐殺殲滅するのも それで全てが解決したかのような感覚を観客に与えるからである
バットマンに登場するジョーカーが暴力破壊に邁進するのも 世間に対する方向性のない報復感情を満たすためだけであって 具体的に何かの役に立つ建設的な「解決」に至る話ではない
フォートナイトという殺人ゲームに人気があるのも 暴力破壊に対する満足感や 協調的統率行動への満足感が得られるからであって それが何かの役に立つわけではない
サッカーやベースボールで「勝って」も オリンピックで金メダルを獲っても それが具体的に社会の安全性や公平性に役立つわけではなく むしろ政治的な国威発揚などに利用されるものでもある
「勝つ」などの「順位評価」というものは あくまでルールの上における抽象化された脳への報酬に過ぎず 学力偏差値が本質的な知能の論証にならないのと一緒で 主観的満足感だけが目的の中毒に過ぎない
ファンタジーや芸術で脳が気持ちよくなることは ヒトの先天的な本能習性であり 欲望の産物である
欲望とは ヒトの脳に先天的に組み込まれた行動バイアスであり これは環境適応による繁殖の継続以上の遺伝的進化の結果以上には意味がない
ヒトにまで進化する以前では 暴力は生存や繁殖の継続において適していた結果であって どんなに強く「思って」も暴力は合理的な「解決」にはならない
ヒトは誰も自らの意思でこの世に産まれてきた者などいない
自分の遺伝子は自分では選んでおらず 祖先の生息環境によってっ組み込まれた本能習性も自分では選択不可能な動物的行動バイアスに過ぎない
しかも 生育環境によって刷り込み学習されたあらゆる「常識」もまた自分では選んでおらず 論理客観的な根拠が伴うとも限らないものである
「お茶くみは女性社員の仕事」という「常識」が長い間通用していたのも 誰も自分の頭で「これは合理性がないのではないか」という自分の頭で考えなかった頭の悪さに起因するものである
有名大学の哲学教授でありさえすれば 言っている内容が正しいはずだ 論理客観的根拠が伴うはずだという勝手な思い込み(錯覚)によって ヒトは簡単にバカになる
そして一度信じ込んだ既成事実を正当化し 認知的不協和という気分の悪さを回避するために反論の全てを無視し 意識から外し 「なかったこと」にして満足するのである
その満足感を多数で共有しておけば ヒトはバカのままで変わらずに済むことで 主観的な満足感を持続させ続ける中毒に陥るのである
ファンタジーは脳の産物である
脳は自然科学の対象であり 宇宙の一部に過ぎない
決してマルクス:ガブリエルが言うように「自然科学は芸術やファンタジーを研究対象として扱えない」わけでもなければ 自然科学の宇宙の外に芸術やファンタジーが存在しているわけでもない
だからといって養老孟司のように物体としての脳だけ「担ぎ出して」きても何の論証にもならない
脳の機能 脳がどのような働きを持っているのかを検証しなければ 真実と嘘の区別はつかないのである
養老孟司はこう述べた
「わからないなりに わかったとする そういうわかり方もあるのかと思って頂ければ幸いである」と
一体何が「幸い」なのか 何にも論理的根拠が示されていない話を多くの衆愚は鵜呑みにしたのである
しかも そんなオカルト野郎が東大では名誉教授扱いされているのである
その東大には税金や生徒の授業料が注ぎ込まれているのであり 不適切にも程がある
世間を「おちょくっている」としか言いようがない
NHKもマイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルだの養老孟司だのを鵜呑みにし ただ漫然と垂れ流すだけの無責任さを存分に発揮し 一面的な社会的効用だけを根拠に高額な受信料を徴収し続けるというふざけたことを平気で続けているのである
NHKは公共料金であり 情報というものは必要なものでもあるが
だからといってデマや嘘まで真実や「哲学」であるかのように垂れ流すというのは 水道に糞や毒を混入させているようなものであり 許されるべきものではない
とっとと訂正し 真実を公表し 謝罪した上で一定の受信料減額なり返還なりをすべきであって 郵政事業と結託して金を集めることばかりに頭を使うのは あまりに利己的で身勝手というものである
組織が腐敗する原因とは 組織を構成する個人が組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わないからである
組織内部の多数によって 個人の責任が薄まるという「感覚」こそが 組織腐敗の温床となる根本的原因であり 本来視聴率に依存しなくて良いはずのNHKが視聴率稼ぎにマイケル:サンデルなんぞを垂れ流しているというのは 一体何のために受信料を徴収しているのか意味がわからない
Ende;