書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

大体一緒

2021年08月31日 00時41分16秒 | 意識論関連

自己肯定感の低い奴ってのは 他人との比較でしか自分の存在価値を測ることができないため 「バカにされた」などの被害者意識が異常に酷くなる

個人的に没頭出来る好きなことがないため 他人からの見た目だけが「自意識」の全てになっているのが原因である

個人的に好きで 楽しくて仕方ない没頭できることがあれば 他人が自分をどう思おうが バカにされようが 「コイツってそういう奴なんだな」と無視することができる

自分の主観的価値観が社会的には無関係であることが自覚できていれば

他人の主観的価値観なんぞに振り回されることもなくなるのである

個人的な楽しみは あくまで個人的なものであって 脳内麻薬の自給自足ができていれば他人からどう思われようが大した価値はないと認識できるのである

他人からの評価承認が優先してしまうと 個人的な楽しみを他人からバカにされると簡単に諦め 何が楽しくて生きているのかもわからなくなり 「他人よりも自分の方が優れている」という全能感に溺れていないと不安で仕方なくなるのである

これが順位序列に異常執着する原因である

異様なまでにマウントかけてくる迷惑な奴というのは 自分の人生がスカスカで満たされないことを他人の所為だと信じ込み それを疑う自己客観性もないのである

それは逃げ場のない無限の地獄であろう だからニコチンだのエタノールで脳を麻痺させることに必死になるのである

それしか救いがないので 感染症が蔓延してようがなんだろうがお構いなしになる

それがバカに見られる普遍的行動パターンである

犯罪者の行動がプロファリング可能なのは 「バカの行動は大体一緒」だからである

 

 


Ende;

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個人的好き嫌い

2021年08月30日 23時14分30秒 | 意識論関連

 捜査関係者によると、男性は「数人で一緒にいる時に(花森容疑者に)ため口を使ったところ、『年齢が上なのにため口はおかしい』と怒られた」と話しているという。

https://mainichi.jp/articles/20210829/k00/00m/040/291000c 毎日新聞

被害者意識が激しすぎるだろ

硫酸で解決する話でもないし

嫌いな奴なら付き合わなきゃ良いだけであって 本当に攻撃すべき相手ってのがいるだろよ

合理性がないわ

糞の役にも立たないわ

個人の主観的な好き嫌いなんぞどうでも良いんだよ

社会安全性とか持続可能性にとって有害な「嘘」を暴けよ

個人的に嫌いな奴を殺そうが殴ろうが煮込もうが 社会的には何の役にも立たねぇよ

社会の役に立つのは「真理」だけだからな

「社会にとって本当に役立つ」ことが見えないことには話にならんだろ

『年齢が上なのにため口はおかしい』ことの論理的根拠なんぞねぇよ

そいつにとっては年下からタメ口きかれても気にしないんだろうよ

そういう奴が嫌いなら付き合わなきゃ良いんだ

「嫌いでも存在は認める」のがダイバーシティってもんだ

個人的好き嫌いなんぞ それ以上の意味なんぞねぇんだよ

個人的に「和田まあやかわいい」と思ったからといっても 他人には関係がないだろ

それと一緒だよ

自分の個人的好き嫌いが社会正義になるわけねぇだろ

バカの解決法ってのは常に暴力破壊になる

理由は簡単で「論理的に説明できない」からだ

世の中には嫌なことなんぞいくらでもある

その中から自分が生き続けてゆく上において最も合理的に嫌なこと 合理的に大切なものをを客観的に見極めれば 目先の自分の感情論なんぞ「小さな事」だと認識できるのである

個人的にバカな病理診断医が嫌いかどうかなんぞどうでもよろしい

バカな生物学者だの哲学者だの経済学者だのマスコミだの日医大客員教授をいちいち殴ろうが殺そうが何の解決にもならん

本当に社会安全性を高めるには「どうしてヒトはバカになるのか」を解明することである

そのためには 誰がバカで 何が嘘なのかを識別できないことには話にならない

たとえ司法であっても懲罰報復では何の「解決」にもならないのである

 

 


Ende;

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出口

2021年08月30日 21時17分44秒 | 日記

ワクチンの異物混入の話が出てきた途端に急にアチコチから異物混入の報告が出てきた

ワクチンの取説には「異物混入がないか確認してから使用すること」って書いてあるそうなんだけど

目が悪いと見えてない可能性ってのもある

いままで見逃してたのかも知れない

ワクチンは白濁しているので 赤外線LEDと赤外線マクロ撮影カメラで透視するようなシステムがあると確認しやすいのかも知れない

部品自体はそんなに高価じゃないから簡単に作れそうではある

磁石に反応する「黒い粉状の異物」もあるというので 100均でネオジウム磁石買って検査の時に使えるかも

 ◇

ワクチン接種後に30代男性が2名亡くなっていて 因果関係はまだ不明とのこと

基礎疾患もなかったという

アナフィラキシー症状は女性の方が多いそうだけど 死亡例は2名とも男性

2件とは言え ご家族のショックは計り知れない

例の心臓筋膜炎症が原因なのかしら

接種後のケアをもうちょっと厳格なものにしないと危ない気がする

バイタルセンサーの情報を常にモニタリング出来る機材みたいの何かないのかな

アップルウォッチつけてると転倒とか心拍異常とか検出して自動的に家族に知らせるそうだけど

初期のアップルウォッチってバッテリーが持たないとかいう話があったが

日中誰かの目に触れる場所なら充電して 夜中寝る時にアップルウォッチ的なものを着けといた方が良いと思う

持ってればの話だけど

心臓の筋膜炎症って対処出来るんじゃなかったのかしら

接種から3日目の症例がなかったとか?

いやもうただでさえ救急医療が逼迫してんのに ワクチンの副反応で救急搬送とか有り得ないんだけど

最悪アップルウォッチ的なものを持ってない人には接種を控えるとか 可能な限りの対策が欲しいわ

このまま原因不明で3例目が出たらワクチン全部止まるぞ

ますます「出口」が遠のくな

酔っぱらいが居酒屋ハシゴなんかしなきゃ良かったのに

最悪だよ

 

 

Ende;

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更科功

2021年08月30日 15時05分49秒 | 意識論関連

本来生物は、生きるために生きているのであって、生きる以上の目的はないのだろう。生きるために大切なことはあっても、生きるよりも大切なことはないのだろう。まあ、生きていれば、それだけで立派なものなのだ。

更科 功

 出典:https://diamond.jp/articles/-/223378 -ダイアモンドオンライン

 


⇨「立派」かどうかは更科功の主観であって 客観的根拠にはならない

本当は生物というのは「死なずに生き残っている」ものを生物と分類しているだけであって 「生きるために生きている」というのは嘘であり 生きることは目的ではなく結果である

どんなに生きたいと願おうが望もうが呪おうが死ぬ個体は死ぬし 死ななかった個体は「死んでいない」だけのことである

 

生きることより大切なことはないのだろう」というのであれば 先天的遺伝疾患によって生き続けることも子孫を残すこともできない人の存在価値を勝手に蔑むことにもなるのである

こうした「生存絶対的正義」を振りかざすから優生学などというオカルトによって差別や虐殺が起こるのであって 科学者としてあまりに無責任で容認できない

自己の生存価だけを目的にしてしまえば 環境破壊も社会の安全性や持続可能性にも配慮は効かなくなる

 


チャールズ:ダーウィンは遺伝的進化を進歩だとも万能だとも言っていない

このことを生物学者共はいままでずっと勝手に曲解し 遺伝的進化には目的があって 遺伝的進化さえすれば必ず正しい結果が得られるかのように言い張り 遺伝的進化によって本能習性の全ては常に正しい行動しか促さなないかのように説明し続けてきたのである

その事実をはぐらかすための言い逃れを更科功はしているのであり 科学者として社会的に悪質である

 

そもそも養老孟司なんぞが推薦文を書いているのがおかしな話で 「客観的事実などない」などという科学を根底から否定するような事を言い出すキチガイに推薦文を書かせている時点で科学書としてかなり信憑性を疑うべきである

 

 

 

生きることより大切なことはない」と 本当に言えるだろうか

女房子供を無責任な事故や犯罪で失ってなを 生き続けることに人生の意味をどうやって見つければ良いというのであろうか

社会安全性や持続可能性や平等性や公平性を抜きに ただ「生きている」だけでは人間としての尊厳もヘッタクレもなくなるのである

「生きている」だけなら 死なない程度に食事を与えられながら一切の自由を奪われ奴隷労働をさせられていても構わないとでも言うのであろうか

更科功も含めて 生存絶対主義や遺伝的進化万能論に基づく優生学を容認してきたデクノボウ生物学者共にとっては 人間としての個人の尊厳なんぞどうでも良いのであって こんなペテンを放置してきたマスコミにも重大な問題がある

物事を深く検証できないバカには 何が問題で 何が間違いなのかを認識することができず

ただ漫然と「社会が悪い」などという根拠のない屁理屈を言い出すだけである

ただ漫然と「社会が悪い」と言うだけなら 通り魔や糞DQNにでもできる「簡単なお仕事」である

簡単なことでは真理は見極められない

あらゆる視点から欠損のない理論でなければ 「真理の論証」にはならないのである

バカだと一面的な論証だけで気分的に「納得」し 気分が良くなれば何も検証しなくなって鵜呑みにする

だからバカはバカが治らない

とても面倒臭い

 

 


Ende;

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経済的「自立」は 社会的「自律」とは無関係である

2021年08月30日 12時12分50秒 | 意識論関連

猿山のサルに リヤカーいっぱいのサツマイモで給餌している映像って

見たことないですかね?

飼われているサルの場合 毎日充分なエサを与えられているにも関わらず 奪い合いでケンカしたりもする

無駄なんですけどね

むしろエサを喰いすぎて生活習慣病になったりしている

冷静に「毎日充分足りてるじゃん」とは思わない

なぜかというと 自然環境下においては飼育環境下とは異なり 環境資源(エサ)が乏しいため 食べられる時に食べておかないと飢えて死んでしまうので 必要以上に食べようとする個体種への淘汰圧力の結果として がめつくエサを奪い合う個体種への収束進化が進んだ結果 先天的に奪い合うことが本能習性として組み込まれている

飼育環境下なら 毎日充分なエサを与えられているにも関わらず エサを独占しようと奪い合うことをやめようとはしない

それは「学習」できない

それが「サルの正義」であり サルの先天的本能習性というものである

 

いうなれば 「遺伝子レベルの貧乏性」とも言えるものであり 合理性を欠いた無駄な行動を抑制することは出来ないのである

遺伝的進化というものは 過去の生息環境における淘汰圧力の結果を色濃く反映するものであり 環境変化に対して柔軟に適応することができない

寒冷地に適応したネアンデルタール人は 地球レベルの環境変異に適応できずに絶滅したとも言われている

知らんけど

 

ヒトが ヒトの個体が自律的な社会的責任判断選択よりも 目先の利己的利益や組織への同調迎合ばかりを優先してしまうのも かつて祖先の生息環境における淘汰圧力の結果である

「怖い相手には逆らわない」という卑屈な態度が野生環境下においては生存に適することになる

だからイジメは誰も止めなくなる

イジメの標的は 大抵弱者とか少数派である なぜなら「攻撃しても反撃されそうにないから 怖くない」からだ

これがヒトの先天的本能習性というものの実態である

利己的には怖い相手には服従迎合し 同調しておいた方が「自分の身のため」ではある

「生き残る」ためには卑劣であろうと残虐であろうと構わない だから私は繰り返し「生存自体に意味はない」と言っているのである

そこには人間性や倫理は不要にされるからである

社会安全性や持続可能性のためには人間性や倫理は必要不可欠なものである

どうせ誰もがいつかは死ぬのに 何で他人を危険にさらしてまで「生き残ら」なければならないのか その「理由」がないことを理解しているから 人間性や倫理に適するのである

他人への迷惑に配慮の出来ないバカと 配慮のできる人と 自分はどちらになりたいのか その選択は理性である 先天的な生存本能にはない

それこそ「悟性」なんつうのはカントの妄想ファンタジーに過ぎず 糞の役にも立たないばかりか 「理性を批判する理屈」などというトンチンカンな話で大衆の脳を酔わせ 思考を撹乱して真理から遠ざけるオカルトである

 

大脳辺縁系を損傷してしまうと何も感じなくなってしまうため 赤ん坊が丸焦げにされた映像を見せても食事に支障はなくなるのだが それは別に人間性の反証にはならない

単に他の人から見た主観的な「印象」として違和感を覚えるだけであって

実際には大脳辺縁系を損傷した人が利己的利益追求のような非情な行動に執着するようなことはなく

純粋理性状態というのは 実際には批判対象ではなく 人畜無害なのである

 

ナチス政権下のポーランド アウシュビッツ ビルケナウ ユダヤ人絶滅収容所の官吏 アドルフ:アイヒマン中佐は ユダヤ人を効率的に殺害するための計画書の作成に邁進したが 屍体を直接見ることは嫌ったという

ありていに言って「飯が不味くなるから」であろう

それが人間性の論証には絶対にならない

「この世に絶対なんぞない」と言われるが これは絶対である

「ヒトは素手では空を飛ぶことはできない」くらい絶対である

「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」からといって それが短絡的に人間性や倫理の論証には全くならないからだ

原発の津波に対する脆弱性を放置した東京電力の安全担当者であっても「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」だろう

「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」という主観的感情があるだけでは 「常に人間として倫理的行動が採れること」の論拠には全くならない

振り込め詐欺師であっても「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」だろう

暴力団員であっても「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」ない奴もいるだろう

大脳辺縁系を損傷しておらず 精神を著しく病んで異常な趣味でもなければ大抵の場合は「赤ん坊の屍体を見たら食事が喉を通らない」ことは珍しいことでも何でもない

それなら世の中の大半を占めるバカな大衆に人間性や倫理が働くのかと言えば そんなことは全くないのである

だから社会の諸問題が全く解決しない

気分的に その場限りに「優しい気持ち」にさえなっときゃ人間性だと

気分的に その場限りに気分が良くなるようにご機嫌取りをしてくれさえすれば人間性だと

そういうバカげた根拠のない観念を鵜呑みにしているバカなら 自律的な社会的責任判断能力は発揮することができない

バカは自分の主観的「印象」でしか物事を判断できず 論理客観的真偽の判断ができないからである

 

マスコミ記者が首相や分科会会長に対してぶら下がり密集囲み取材を一切やめようとしないのも 「猿山のサル」や「バーゲンセールで奪い合いをしているバカ」とやっていることは一緒である

「みんながやっているから仕方ない」と称して 自分には責任がないと「思って」いるのである

NHK主導で民放各局と協議して密集囲み取材にならないように工夫するという「考え」は全く出てこない

慣習を繰り返してさえおけば安心満足で その慣習に問題があっても対処することができない

脳容積が充分であっても自分では物事を判断選択出来ない「残念な生き物」なのである

 

無責任で卑怯な行動を採っていても 大多数の他人が責任ある行動を採っていれば 自分だけは「得」をすることはできるが

これは社会という多数他人に対する「甘え」である

たとえどんなに経済的に「自立」できているとしても 社会的責任を負っていない以上は 人間として社会的には「自律」できていないのである

人間性や倫理というものがなければ 社会は崩壊する

当たり前の話である

当たり前の話を自発的に気付くことができないのは

「バカ」だからである

 

以上の話で気分が悪くなるなら それは心当たりがあって「図星」だからである

バカは反射的に拒絶反応を示し 都合の悪いことには耳を貸さなくなるものである

だからバカというのは難治性が酷い

カルト宗教の信者や 「へずまりゅう」だの田代まさしと一緒である

自分がバカのままで良いのかどうかは 私が決めることではない

 

 

 


Ende;

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社会的生活習慣病

2021年08月29日 10時34分16秒 | 意識論関連

社会的な生活習慣病とは言っても 社会を構成している個人の無意識性が原因であることに違いはない

一般的な生活習慣病に陥る原因は 欲望のままに暴飲暴食を繰り返してしまうのが原因であり 暴飲暴食をしている方が満足で安心だからこそ生活習慣病になることが理性では解っていながら歯止めが効かなくなる

これと同じで社会的生活習慣病においても 権威に服従して組織に迎合しておいた方が満足で安心だからこそ 洗脳状態に陥って社会ごと暴走破綻に陥るまで歯止めが効かなくなる

これらは共に「意識」の問題である

 

イジメに同調する子供は 暴力的で「怖い」相手に同調迎合しておいた方が満足で安心できるからこそ イジメは集団組織的 統率協調的に酷い結果を生み出すことになる

これは暴力団でもミャンマー軍事政権でも北朝鮮政府でも香港警察でもナチスでもポルポトでも戦時中の日本軍でも同じことである

規模が違うだけで 個人の行動バイアス自体に違いはない

 

ナチス政権下のポーランド アウシュビッツ ビルケナウ ユダヤ人絶滅収容所の官吏アドルフ:アイヒマンは ナチス政権への忠誠忠実さをアピールするために 効率よくユダヤ人を大量虐殺するための計画書の作成に日々邁進し続けた

彼はナチス政権からの評価を得ることこそが自分の地位身分の永遠の保証になると信じ込み 自分の置かれた環境における最も満足で安心な行動として 部下にユダヤ人を虐殺させるための膨大な計画書を作成したのである

彼はナチス政権にとっての「良い仕事」をしたのだ

それによってナチス政権から「中佐」の地位を獲得している

 

客観的に見れば ナチズムの行為は正気の沙汰ではないのだが 集団組織的に協調して何かを行っていると 自己客観性を失って目先の満足快楽安心ばかりを追求し始め キチガイの集団暴走状態に陥るのである

「自分の意識」というものが 主観的な「感情や気分」だと思っているからこそ 客観性を簡単に喪失するのである

ナチス政権下のドイツにおいては ユダヤ人迫害は多数派の正義であり 多数派に同調迎合しておいた方が「個体の生存」にとっては有利であり 且つ本能的に安心満足だったのである

自分が置かれた環境によって刷り込み学習された価値観を鵜呑みにし 自発的に物事を客観的に検証しないことには「本当のこと」は見えなくなる

「時代が悪かった」とか 「組織の体質が悪かった」などと言い逃れをするのは簡単だが そもそも時代や組織といった社会は多数の個人の無意識性が生み出したものであって 個人に本当の意味での意識があれば「時代」や「体質」といった社会環境に左右されることなく自律的に社会的責任判断することは可能である

だが それは簡単ではない

自分の気分感情的には 多数派の行動には無為に同調せず 排除差別の標的にされかねない「目立つ」行動選択になるからだ

子供のイジメにおいても イジメに反対すれば標的にされることを怖れ 大多数の子供は沈黙傍観するのである

大多数が沈黙傍観している環境では 少数の暴力者は「否定されないことは正しいこと」として認識され 暴力者のクラスター内部では同調迎合して統率的協調性を発揮し 暴力こそが正義になってしまうのである

ヒトという種の生物は それが快楽として感じられるように先天的にできているのである

 

進化的説明をすれば 統率的な協調行動というものは過酷な自然環境下においては生存や種の保存にとって有利な行動であり 統率的協調性に同調迎合してくれない個体は統率を乱すために排除する必要性があるため 先天的に民族浄化を行う行動習性が存在するのである

だからこそSNS上ではマイクロソフト社のAIが学習してしまうほど根拠のない差別に基づいた誹謗中傷が横行するのである

ヒトは 統率協調的な集団行動を採ることが安心満足で快楽となるように収束「進化」しており 本能習性として少数異端者を集団から排除して 同じ観念を共有することこそが絶対的安全性だと「感じる」ようにできているのである

暴飲暴食をして満足するのと同じように 多数派に同調迎合することこそが安心満足だと主観的に「感じ」られるようにできているのである

 

自然環境下において生存する(死なずに済む)ためには 卑怯だろうが残虐だろうが無責任だろうが関係がない

遺伝的進化というものは自然環境下における過酷な生存競争による強力な淘汰圧力が働かなければ生じることはないのであって 遺伝的進化によって人間性が組み込まれる構造など存在しないのである

バカな生物学者共は「組織集団内部における利他的行動」だけを抽出してきて それこそが「先天的な人間としての社会性だ」などと言い張るが ナチス政権下における価値観に基づいた評価基準や組織内部のみの利他的行動が人間性の論証になどなるわけがないのである

ヒトに限らず生物の多くは遺伝的進化によって 高い生体の恒常安定性を獲得してはいるものの それは決して完全無欠の絶対的なものではない 生活習慣病はその欠陥の一例である

遺伝的進化というものは 過去の祖先の生息環境の影響を色濃く反映し 一度組み込まれた先天的本能習性によって促される気分感情による行動バイアスは そう簡単に環境変化に適応することは出来ないために あっけなく絶滅することも珍しいことではない

遺伝的進化というものは 決して完全万能なものではなく あくまで「現状における結果」に過ぎず 「目的」だの「生存戦略」だのといった概念は論理的に成立しないのである

今現存している生物だからといって 決して永遠に種の保存が続く保証など どこにもないのである

 

ヒトは今 自らの無意識な暴走によって生息環境を破壊し 絶滅への道程を歩んでいる

過去に絶滅した生物群と同じように 進化の果てに絶滅しても何の不思議もないのである

遺伝的進化には何の保証も存在しない 単なる「現状の結果」に過ぎないからだ

しかし ヒトは 何が本当の意識であるのかを認識区別することは不可能ではない

不可能ではないが 簡単でもない

何せ数億年に渡る過酷な自然環境から受けた淘汰圧力によって磨かれた 野蛮な動物的行動習性という本能的な無意識行動バイアスに抗う必要性があるからだ

いくら説明しても主観的に気分の悪くなる話に耳を貸さないバカが治らない限り どうにもならんよ

社会を救うのは 特定の英雄だの天才だの神だの仏ではなく 80億の一人一人の個人の自律的な社会的責任判断選択なんだからね

私が出来るのは 私の責任判断の範囲だけであって 他人の行動にまで責任を負う義務なんぞないからね

 

 

Ende;

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月の謎

2021年08月28日 10時51分27秒 | 日記

「月の明るさが満月の時だけ異常に明るいのが謎だ」っていう話をきいたことがあるんだけど

月面って大気ないじゃん だから降り積もる砂の粒子が小さくなって安息角が大きくなるでしょ

それが大気で崩されないもんだから月の表面って凸凹が凄くて 真正面から見ると陰がなくて明るいけど ちょっとでも太陽光が傾くと急激に陰が増えて暗くなるんじゃないかという仮説

多分正解

 

 

Ende;

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破滅に至る病

2021年08月26日 17時36分44秒 | 意識論関連

イマヌエル:カントの時代というのは 科学技術の発展によって戦争がそれまでよりも苛烈で残虐になった時代であったため 科学的な真理の探求そのものまでもが「悪」だという「印象」に基づいて「純粋理性批判」は書かれたという経緯がある

科学技術というのは あくまで道具であるから 道具を何にどう用いるかによって結果は全く異なる

 

化石燃料の使用による温室効果ガス増大は 科学技術を金儲け目的に大量に使った結果であり 欲望の副産物である

核兵器などの大量破壊兵器軍拡競争も 他国からの侵略を怖れるあまりに「安全保障」と称して過剰に配備し続けた結果であり 恐怖心に煽られることによって歯止めが効かなくなっているのである

こうした合理性を欠いた一種の「暴走」は 全て欲望の産物である

利益追求や恐怖からくる過剰な防衛攻撃力というものは かつて祖先が野生環境下において積極的に追求し続けていないと「生存」や「種の保存」には適さなかったために それが文明社会の中では合理的必要性がないにも関わらず 欲望のままに膨れ上がって歯止めが効かなくなるのである

いうなれば「生活習慣病」と構造は一緒である

社会単位での「生活習慣病」と言って良いだろう

 

金儲けの為に他人を犠牲にしてまでも利益追求をすることは 到底人間性や倫理には適さない行動である

社会が破綻する危険性を認識していながら 利益追求を続けていても 本当に望んだ結果にはならない 貨幣価値なんぞ社会が破綻すりゃ紙屑同然だからだ

それが「本当に望んだ結果(目的)」なのかと言えば そんなことは誰も望んでなどいないはずである

ところが ヒトという種の生物には 先天的に統率協調行動を採る習性が存在し 他人との間に順位序列をでっちあげて封建的独裁状態に陥る習性があるため 何も考えず 何も批判精神を発揮せずに唯々諾々と「権威」とみなした相手の言っていることを鵜呑みにしていると 本当は望んでもいない結末に陥ることはいくらでもある

ミャンマー軍事政権による独裁が続けば経済活動は滞り 結果的に国全体が貧乏になることは目に見えている

北朝鮮政府は「前例」である

かつて太平洋戦争に突入した日本の軍事政権のように 破綻への暴走の結末は凄惨なものであり 同じ道を歩む可能性は充分にある

 

兵隊が どうして戦争などというバカげた行為に従うのかと言えば それが先天的に組み込まれた本能習性に適しているからであり

統率協調的に他民族や国家を侵略虐殺してきた結果として 収束進化的に残されたヒトの習性だからである

ヒトは 集団組織に対して忠誠忠実に 従順に服従することに対して「美しさ」を感じる性質があり 特攻隊は「英霊」だが戦争自体に反対した政治犯は「裏切り者」のそしりを受けるものなのである

内部告発者が排除されたり守られないのも 同じ理由である

ヒトという種の生物は 自分が所属する集団組織の利益に反する行動を採る者は たとえ社会全体における公益的な行動だとしても「裏切り者」として排除対象にする習性があり

逆に社会に対して害を及ぼす行動だとしても 組織の利益を優先することを選んだ行為は「組織の体質が悪い」などと称して無罪にしたがるものなのである

 

「組織の体質」というものは 組織を構成する個人の意識の低さから生ずるものであって 組織を構成する個人が自律的な社会的責任を負わないことには あらゆる組織集団は簡単に腐敗を許すことになるのである

社会安全性や持続可能性を担保するのは「他人」ではない

まず「自分から」担保しないことには何も進まないのである

自分一人では微力だと「感じる」であろう 何せ80億も「他人」がいる世界である

だが 「感じる」というのは主観的感覚や印象に過ぎず 無力であることの論証にはならない

フリードリヒ:ニーチェはこう言った「できそうにないことは やらない方が良い」と

これを鵜呑みにしておけば 自分の気が乗らないことは全部正当化することができるのであって 精神の怠慢を促すことで思考停止に陥れる「甘い誘惑」である

それを現状の「哲学者」共は「哲学」だと言い張るのである

完全にどうかしているぜ

 

 


Ende;

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「答え」について

2021年08月26日 14時12分14秒 | 意識論関連

目的とは 「欲望を満たすこと」である

ヒトの大脳辺縁系は 環境や状況によって様々な欲望が反射的に生じてくる

血糖値が下がればイラついて何かを食べようとする

眠くなれば眠りたい

人によっては 夜中に部屋に一人で過ごすことが不安で誰かと一緒に泥酔して騒ぎたいことあるだろう

本当のことを知りたいと思うのも欲望である

 

ヒトに限らず 脳を持った生物は欲望を叶えるために論理的に効率の良い合理的方法を考え より高度に欲望を満たすことができる

カラスは 少しだけ水の入ったコップの中のエサを取るために 近傍にあった小石をコップに入れて水位を上げることでエサを取るということをする

カラスは「コップの水位は小石を入れれば上がる」ことを知っているのである

私の知る限り ネコやイヌには出来ない芸当である

ネコは鏡に映る自分の姿を 自分だとは自覚出来ずに延々と威嚇し続ける

錯覚を錯覚だとは認識出来ないのが原因で 合理性のない無駄な行動でエネルギーを消費する

脳の容積と 論理客観的合理検証性は一致しない

ヒトは 他の動物と比べて圧倒的に脳容積が大きいが 時折糞の役にも立たない無駄なことも平気でする

尾身茂分科会座長が個人的に気に入らないからといって 尾身茂氏が理事長を務める団体組織の建物の玄関のガラスをスコップで割ったりする

ガラスを割るのにスコップが最適とは言えないし ガラスを割ったら何かが変わるのかと言えば何も変わらない

ヒトは それだけでは全然「知的生命体」ではないのである

暴力を振るえば気分が良くなるのは それが欲望だからである

暴力的に暴れたり破壊したり 他人に危害を加えたりすると テストステロンなどのホルモンの消費によって反射的に脳内物質セロトニンが分泌されることで扁桃核が「快楽」を感じる構造が脳にはあるからだ

ヒトがヒトにまで進化する以前から 自然界の野生生物は「勝てそうな相手を殺害して食う」という行動によって「生存」や「種の保存」に適した行動が成立してきた

暴力行動は野生環境下においては「生存」や「種の保存」においては適しているとは言えるが これらは全て「結果」であって 別に個体が主体的に選択したものではない

暴力行動を採らなかった個体種が死滅した「結果」として残った本能習性であって 人間社会において合理性があろうがなかろうが 「暴力は快楽である」ことは変えることができない

「欲望自体を欲することは出来ない」のである

この話をすると必ず出てくるのが 「それならヒトに自由意志などない」という短絡的な「答え」を本気にするバカがウジャウジャ出てくる

バカがバカ足りうる所以は 「答え」が短絡的で その根拠が薄っぺらで 深い検証性が著しく欠けていることである

バカが思いつく「答え」というのは 論理の不整合や飛躍が激しいため しばしばオカルトやデマの原因ともなる

時を戻そう じゃなかった 話を戻そう

「欲望自体を欲することは出来ない」のだが 様々な欲望が促す行動の結果の中から 最も自分にとって合理的で意味のある欲望とは何かを「選択」することは不可能ではない

この「選択」の時に必要なのが論理客観性(理性)である

大脳辺縁系の反応によって促される様々な行動バイアスに無為に流されることなく 自分の行動結果がどのようなものになるのかを俯瞰して 全体像から選び出すことによって 非合理で無意味な行動に陥らずに済むのである

ヒトはここ数万年ほとんど遺伝的には進化していない 従って野生環境で生活していたかつての祖先に結果的に組み込まれた本能習性も ほとんどそのまま受け継がれているのである

文明社会環境下では 遺伝的進化は起きない なぜなら淘汰圧力が充分に働かないため 特定の遺伝子を持った個体への収束が起こらないためだ

草食動物の足が速くなる進化が生じたのは 個体差の中で足の遅い個体から天敵に喰われていったためである

天敵に襲われた時に 仲間が凄惨な状況に陥ることには目もくれず ただひたすら逃げ回るということを繰り返した結果 逃げ足の速い遺伝子を持った個体種への収束進化が生じたためである

イワシなどの魚類は 哺乳類から比べると とんでもない繁殖能力を持っているのだが その大半は他の魚に喰われ 数匹しか生き延びることはできない

変異による個体差によって 繁殖力のより高い個体の方が「種の保存」には適していたため 結果的に繁殖力の高い個体種への収束進化が生じたためである

遺伝的進化というものは 弱肉強食の過酷な自然環境下においてのみ生ずるものであって シーケンシャルに生ずる自然現象に過ぎず 進化の先に何らかの目的のようなものが存在するわけではない

「生き延びるために」という目的があったわけではなく 「死ななかった」個体種の結果が遺伝的進化なのである

のべつまくなしランダムに変異してバリエーションが増え その中から偶発的に環境適応していた個体種株が死なずに生き延びた それが遺伝的進化であって その進化の先が袋小路であろうが絶滅であろうが 誰も責任を取ってはくれないのである

従って遺伝的進化には「生存戦略」という概念は成立しないのである

誰が死のうと「生存」だの「種の保存」にさえなれば「遺伝的進化」なのであって そこに個体の尊厳などない

過去には様々な変異や進化が起きたことが断片的に化石などから立証されているが そのほとんどは絶滅して現存しない

現存する生物種株やヒトが絶滅しない保証すらも どこにもないのである

ヒトも含めて現存する生物種の多くは 生存にとって有利な様々な恒常性を持ってはいるものの 決して先天的形質や習性の全てがこれからも常に絶対に環境変化に適応できるような「都合の良いもの」では断じてない

「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」とでも言っておけば バカな大衆はその場限りに気分的に安心満足して生物学者達の嘘でも鵜呑みにし 人気を集めることは簡単であるが

多数人気が科学的根拠には一切ならない

どんなにたくさんのバカの人気を集めても バカの多数意見が科学的真理の論証にはならない

 

ヒトが生活習慣病に陥りやすいのは 祖先の生息環境における遺伝的進化(淘汰圧力)の名残りに起因するものである

ヒトが暴力性を無駄に発揮するのも同じである

ヒトが非合理で無意味な行動を採って 他人に多大な迷惑をかける原因も同じである

遺伝的進化というものは 何代にもわたる世代交代のサイクルが必要であり ウイルスや菌類のように世代交代サイクルが短いほど変異も進化も短期間に進むのである

ヒトのように世代交代に数十年も要する生物の場合には ウイルスの変異に適応できるような遺伝的進化を起こすことは無理ゲーである

生物の行動は、個体として生き残って種として繁栄していくように遺伝子的に規定されています。」などという話には 科学的な根拠が著しく欠けており 大衆迎合を目的とした悪質なデマという他ない

「先天的本能習性のままに行動しとけば 絶滅をせずに自動的自然に繁栄が永久に続くんだな」という妄想錯覚を促すオカルト観念を促す悪質なデマに過ぎない

遺伝的進化によって組み込まれた形質や本能習性は 「その場限りに生き延びる」ためには有利な性質を発揮することはあるが その全てが常に「正しい行動」を促すわけではなく むしろ逆の行動を促してしまうことも少なくはない

だからこそ紛争や犯罪も含めた「人災」などの諸問題が発生するのである

 ◇

「答え」についての話をしよう

ヒトは「答え」を求める性質がある

だが 必ずしも「答え」には論理客観的根拠証拠は必要がない

「人間は叡智界に属している」などという謎のオカルトファンタジーな「答え」であっても 気分が良くなって主観的に「信じたい」話なら信じようとするのである

「信じる者は救われる」と信じておきたいのである

盲目的に何かを信じ込んでおけば 自分で物事を判断しなくて済み 判断責任も負わずに済むので 気分的に「楽」なのである

精神が怠惰だと 「地下鉄に毒ガスをまきちらすことが人類の救済」になってしまい 自己犠牲だと勝手に錯覚して命懸けで正義の鉄槌を執り行うこともある

当人は命懸けで必死なのだが 方向性がトンチンカンなので 無駄な苦労で迷惑にしかならない

何が真実なのかを区別認識できないため 錯覚を錯覚だとも認識できないため 本当の「目的」が見えていないのが原因である

「ネットは間違いだらけだが 書籍は信じられる」などという話も これは「書籍に装丁されてさえいればメディア・リテラシーは持たなくも良い」という盲目性であり 精神の怠惰からくる錯覚でもある

ヒトは 「これさえやっときゃ全ては解決」という短絡安易な「答え」が大好きで 「書籍になって装丁されてさえいれば真実しか書いてない」と盲目的に信じ込んでさえいれば満足するのである

ネット上の情報の大半はデマや嘘である それは確かだが 「ネット上の情報の全てがデマや嘘だ」ということの論証にはならないし 逆に「書籍になっていれば常に正しい情報しか載っていない」という論証もないのである

ヒトが真実を見分けられなくなる原因は 分類区別が絶対化してしまうからである

「個人ブログはデマや間違いや嘘が多いから 信じるに価しない」という分類が絶対化してしまうと その内容に論理客観的根拠が伴っていようとも 頭ごなしに嘘だと決め付け理解しようともしなくなる

逆に 東京大学名誉教授や 京大学長の書いた書籍であれば 内容が支離滅裂で論理の飛躍も甚だしいオカルトであっても誰も疑問を持たずに盲目的に信用されるのである

「哲学者」達の言っている内容に対しても 誰も疑いを持つことはない

だからこそマルクス:ガブリエルのような訳のわからぬオカルト話でも 「哲学者」達が「新時代の哲学だ」と形容すれば 世間的には通用してしまうのである

なんつっても「絶対に知覚することのできない叡智界」などという意味不明な「答え」であっても「近代哲学の最高峰」にされている業界であるから もはやイカれたトンチンカンなデクノボウしかいないことは明白である

今更疑わない奴の方がどうかしているぜ

 

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」では 「科学(理性)は”なぜ”という”答え”を永遠に追求するから悪だ」と規定しておきながら 最終的には「人間は絶対に知覚することのできない叡智界に属しているのだ」などという「答え」を提供しているのである

そもそも「理性を批判する論理」自体が自己矛盾であり 訳ワカメ(昭和脳)である

ヒトの多くは論理的に物事を検証することが苦手で嫌いなので 理性は頭ごなしに否定しておきたいという感情にとって「純粋理性批判」は気分が良くなるので都合が良いため 大衆マスコミやバカな「哲学者」共には人気があるが 何せ「理性を超越」していることになっているので論理的な根拠の説明は一切出てこない

実際には「理性を超越」しているわけではなく 単に「理性を逸脱してオカルトになっている」だけなのである

 

別にこのブログに書いてあることを盲目的に信用しろとは言わないが むしろあらゆる文章から何が本当に正しい内容なのかを自律的に区別するための論理客観的判断は社会的責任として必要である

わからないなら わからないと判断を保留することも 科学的には正しい判断である

養老孟司は「わからないなら わからないなりに わかったとする そういうわかり方もあるのかと 思って頂ければ幸いである」などと言ったことがある これは要するに科学的判断を放棄させて実証不能の観念の世界に誘っているのである

なんでそんなことをするのかといえば 養老孟司の著作は基本的に「科学を装ったオカルト」だからである

にも関わらず どうして養老孟司が東大名誉教授でい続けられるのかは 私の知るところではない

どうして松沢哲郎が文化功労賞に選ばれたのかも 私の知りようもない話である

 

 

Ende;

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なんなん?

2021年08月25日 16時41分56秒 | 意識論関連

そもそも生物種が特定の種に「収束」進化していること自体 現状観測可能な生物種以外が全て死滅していることを意味するのである

ティラノサウルスだのオパビニアだのアノマロカリスだの三葉虫だのエディアカラ植物群といった生物は全て死滅しているのである

「現存している生物であれば永遠に絶滅しない保証」なんぞどこにもない

いわば 今生きている生物は 偶然今生きているという「結果」に過ぎず 遺伝的進化には目的も最終形態も完全体も存在しないのである

実際に環境の僅かな変化で簡単に絶滅してしまった生物は数知れず 決して生物の全てが生存にとって最も最適化されている論理的根拠など どこにもありゃしないのである

「進化の系統樹」によって生物が分類可能であるということは 現状の生物群は枝の間が全部絶滅しているから分類可能なのであって ゲノムのバリエーション変異というのは本来無限にあっても良いはずである

無限にバリエーションがあったら中間種だらけで分類はできなくなり 進化の系統樹などという分類は不可能である

様々な淘汰圧力によって あらゆる中間種の全てが死滅したからこそ生物は系統分類可能なのであり 事実上無限に存在可能なゲノム変異のバリエーションを分母として 現存する生物を分子とすれば ほぼ絶滅種が99.999999999%(雑な計算だが 9が全然足りてないかもしれない)だと考えて良い

かつて起きた様々な淘汰圧力によって ホメオスタシス(恒常性)をある程度獲得した生物だけが生き残っているため あたかも究極の絶対的最終形態か何かと勘違いしているバカ生物学者が大半のようだが 勘違いも甚だしい

遺伝的進化の全ては偶然生き残ったという「結果」だけであって その先に最終形態のような進化の「目的」があって自分たちヒトも進化の先に何か「超人」のようなものになれるとでも思っているらしいが 客観的には絶滅しない保証なんぞどこにもありゃしないのである

生物の行動は、個体として生き残って種として繁栄していくように遺伝子的に規定されています。」などと言う話には科学的根拠がなく もはや誤謬などという生易しい「間違い」ではなく 従来の生物学上のパラダイムを温存して体制維持をするための悪質な「デマ」に他ならない

ヒトという種の生物は かつての生息環境によって遺伝的に組み込まれた行動バイアスがあり 塩分や糖質や脂質を過剰に摂取しようとする傾向があるため 本能欲望のままに飲み食いしていれば生活習慣病になって苦しむことになるのである

イヌやネコも自分で体調管理が出来るわけではなく 飼い主がケアしなければ簡単に肥満に陥り様々な疾患で寿命を縮めてしまうのである

遺伝的進化による行動習性というのは かつての生息環境の影響を色濃く反映し 急激な変化には適応することが困難である

なのにどうして「繁栄していくように遺伝子的に規定されている」などと言えるのであろうか

たまたま塩分や糖質や脂肪をあまり摂りたがらない変異個体が生じたとして その個体種への遺伝的進化が起きるためには それ以外の個体種が絶滅しないことには収束進化は生じないのである

アンタがたまたま淘汰対象だったとしたら 親族一同全員死滅しても構わないとでも言うんですかね? そうならなきゃ遺伝的には「進化」なんぞ起きやしないんですよ

バカなの?

このことだけを挙げても 遺伝的進化は決して万能などではないし 遺伝的に進化しなければならない理由にもならない

ヒトはここ数万年は遺伝的にはほとんど進化はしていないが 生活している社会環境の変化によっては暴力などの犯罪は減ることもある

これは 社会環境の変化によってヒトの行動に影響を及ぼしたのが原因であって 環境によっては暴力団だのミャンマー軍事政権といった暴力集団が出来上がることも珍しくはないのである

遺伝的進化によって日本の犯罪認知件数が減ったわけではなく 社会構造から不公平とか不公正や不条理が減った結果として犯罪者数の減少になったのであって 遺伝的進化だけで世の中の問題が解決するわけがないのである

温室効果ガス削減において 遺伝的進化を待つ余裕なんぞあるわけねぇだろ

バカか

ヒトが夜中に居酒屋ハシゴしたがる習性があるからこそ 感染症が収束しないのであって こうした本能習性を持った個体種が淘汰されて遺伝的に収束進化することを悠長に待っていたら 医療崩壊なんぞ食い止められるわけねぇだろ

どんだけバカなんだよ

信じらんねぇよ

社会安全性とか持続可能性を確立担保するために必要なのは 遺伝的進化などではなく 今現存する「ヒト」の先天的欠陥を自覚認識し 間違った行動に陥らないよう自発的に行動選択するという 本質的な意識や意思が重要なのである

「本能習性のままに行動しときゃ 何も考えなくても自動的自然に勝手にヒトは進化して安全性や持続可能性が高まって絶滅を免れることができる」などと思ったら とんでもない大間違いである

ふざけてるのか?

おちょくってんのか?

なんなん?

 

 


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心配

2021年08月25日 10時31分21秒 | 意識論関連

メンタリストのDaiGoは慶應義塾大学大学院理工学研究科修士課程 後に中退とWikipediaにあった

本人は一度東大を受験しており 希望の大学に入れなかったことからコンプレックスを抱えたとも書いてあった

弟の松丸 亮吾が東大工学部に進んだこともコンプレックスの一因かもしれない

どの大学に進んだかでコンプレックスを抱えるなどというのは 世間的な順位序列や身分地位というものを鵜呑みにし過ぎである

東大なんてのは養老孟司が名誉教授扱いされている大学であり 医学部からテロリストを輩出した経緯もある

世間的な順位序列観念というものは 何ら人間性や倫理の基準にはならず 精々世間的に「頭が良いのね」的な評価によって金儲けに有利な程度の話に過ぎない

学力学歴も 世間的評価も そんなものは世間的成功や金儲けにはなるかもしれないが 人間性や倫理の論証には一切ならない

東大医学部の学生がテロを行うのも 慶応出身者のDaiGoが「ホームレスは死ね」と言い出すのも 学力学歴と人間性や倫理とは無関係であることの証明でもある

大学では 本当は倫理や人間性が何なのかは教えていないし 誰もわかってなどいないのである

本当の人間性や倫理とは 畑村洋太郎著 国会原発事故調査委員会報告書に書かれている「個人が自律的な社会的責任を負う」ことであって 世間的評価や順位序列は関係がない

そもそも他人に順位序列をでっち上げること自体が大衆観念に基づいたものであって 先天的本能としての社会形成習性によって促される盲目的服従対象として 序列が「上」の者に無条件でひれ伏す卑屈さの現れでもある

ヒトという種の生物は 先天的には他人との関係性に順位序列をでっちあげ 誰か特定の「権威」とみなした相手を盲目的に信頼し 自分では何も考えずに「権威」とみなした相手の言っていることを唯々諾々と鵜呑みにしたがる習性がある

そのため 世間的成功者だの高学歴だのといった基準で人間の優劣をでっちあげることで 世の中の不平等というものは生ずる大きな要因でもある その最も顕著な例がミャンマー軍事政権による市民弾圧であり 何の批判精神も発揮せずに盲目的に唯々諾々と命令に服従する従順で忠誠忠実な兵隊によって残虐行為が行われているのである

形式外見的には「軍隊」だが 中身は「酔っ払った暴力団員」と同じである

他人と自分との間に優劣序列を決めつけることは 人間性や倫理に準ずると言えるであろうか

たとえノーベル賞を受賞していても間違ったことを言う場合もあるわけで 既存の「権威」というものには何の論理客観的保証もないのである

 

他人が間違いを犯している場合には それは指摘しなければならない 相手がノーベル賞受賞者であろうが東大名誉教授であろうが 京大学長であろうが 文化功労賞受賞者であろうが 日本医科大学付属病院客員教授であろうが関係がない

肩書身分は人間性や倫理の根拠には全くならないからだ

DaiGoのように心理学の論文を片っ端から読み漁って 大量の知識を「知って」いても 自分の言動には責任を持つことができないこともある

ヒトとは そういう欠陥が誰しも先天的に存在するのである

DaiGoの大脳辺縁系であろうと 弟の松丸亮吾の大脳辺縁系であろうと 私の大脳辺縁系であろうと 他の誰の大脳辺縁系であろうと さしたる違いはない

遺伝的にはほとんど同じ「ヒト」であって 先天的にはヒトは誰しも「似たようなもの」なのである

誰であっても個人的な好き嫌いはある 「ホームレスが嫌い」と思うこともあるだろうし 「糞DQNが大嫌い」と思うこともあるだろう だが 個人的な好き嫌いで他人に優劣序列順位をでっちあげておいて人間性や倫理だと言うことは出来ない

個人的好き嫌いはあっても構わないが それが社会的行動に直結していたのでは「社会的責任を負う」ことにはならない

論理客観的根拠に基づいて何が「本当に」重要なのかを見極められないことには 「社会的責任を負う」ことにはならない

根拠のない個人的な好き嫌いだけでは 客観的事実(本当のこと)であることとは無関係だからである

「個人が自律的な社会的責任を負う」と言うと バカな奴は 「自分で何でも勝手に判断して良いんだな」という都合の良い解釈をし 論理客観的根拠もない自分勝手な固定観念や好き嫌いだけで「ホームレスは死ね」などと言い出すようになるのである

個人的好き嫌いという「主観的事実」と 論理客観的根拠を伴う「客観的事実」の区別は大学では教えない

養老孟司が「客観的事実などない」と言い出した根拠説明は 個人的好き嫌いと客観的事実を混同してすり替えた論理整合性のない屁理屈である

客観的事実を否定した時点で 科学者としてはポンコツデクノボウ糞野郎の無能者でしかないのだが 客観性の著しく欠けた大衆マスコミの大半はその事実には誰も気づかず むしろ観念的な「納得感」だけでデマを鵜呑みにし 誰も養老孟司がオカルトだとは「思って」いないのである

 

評価承認欲求というものは ヒトの先天的な社会形成習性を促すための順位序列への執着性の表出である

権威とみなした相手からの評価承認欲しさから 学力学歴に異常執着し 知識の「量」さえ増やせば大衆からは「頭が良い」と誉められることを鵜呑みにし 他人の評価に酔いしれ 中毒になることで自律的に物事を検証することを全くしなくなるのである

自分の人生において 最も重要なものとは何か それが目先の評価や報酬に意識を奪われ その道の行く先に何があるのかを検証することもなしに暴走するから 間違いに陥るのである

「意識が狭い」からこそ見えるはずのものも見えなくなる

目先のエサに飛びつくことだけを 動物的に行動「学習」し その行動の先に何があるのかを自分で検証して選択をしないから 本当は望まない結末に陥ってしまうのである

チンパンジーをエサで釣って瞬間記憶能力を「学習」させても チンパンジーは「その先に何があるのか」には一切興味はない

人工知能によるテスラの自動運転車が 学習したことのない危険を危険だと認識出来ないのも同じことである

意識がなければ「気付く」ことができないのである

どんなに金儲けに成功して どんなに世間的評価を受けようとも ヒトは誰しもがいつか必ず死ぬのである

アップル社のCEOでも死ぬ時は死ぬのである

今生き続けることの意味を深く考えれば 目先の有象無象の評価だとか 世間的序列だとか 資産の量だとか そういうものは人間としての価値にはならないことは明らかである

社会安全性や持続可能性を基準にした行動選択をしなければ これからも自分が生き続けることの「理由」になどならない

社会が破綻することがわかっているなら その社会の中で生き続ける意味も価値もないからだ

誰も破綻したくて生きているわけではないはずである DaiGoのように無責任な発言で信用を失うことを望んでいるわけではなかろう それなら どんなに多数の有象無象から嫌われようとも安全性や持続可能性を徹底的に追求することの方が 心安らかに死ねるのである

 

世の中には 変えられるものと変えられないものがある 意識は変えることが出来るものだが それは簡単ではない

簡単であるなら 私が説明にこんなに苦労する必要はない

本来いちいち説明せずとも 自分で考えればわかるはずのことであって 私の脳だけが特異に天才なわけでもなければ 先天的に優秀なわけでもない

多くのヒトが理解可能な話であるならば それは理解可能な誰であっても思いつくことは可能なはずである

それなら 思いついた者が天才なのではなく 思いつかなかった多数の方がすっとぼけて何も考えていなかっただけのことである

誰も望んでバカになりたいとは思っていないのだろうが ヒトは先天的にバカでいる方が安心で満足できるように出来ているのである

先天的本能習性は運命ではない それはただの「結果」であって 本能習性に抗う選択可能性というものがヒトには残されているのであり 「どうあるべきか」という「目的」に基づいた行動選択にこそ 本当の「意識」の存在価値がある

「他人からどう思われるか」ではなく 「自分はどうあるべきか」にこそ本当の「自分の意識」があるのであって 世間的評価基準や身分肩書順位序列といった既存の常識を鵜呑みにせず 全てをゼロベースから検証して見直す必要がある

自分が生まれ育った環境や社会や時代は 自分では選択不可能なものであり その環境から「学習」されたあらゆる価値観もまた 自分で主体的に選択したものではない

差別の根本は順位序列である

「俺の方が優秀だ」という勝手な思い込みによって ミャンマー軍事政権は国民を弾圧するのである それは戦前戦中の日本と何ら違いはない

他人との間に順位序列をでっちあげた時点で 「人間として劣っている」のである

順位序列というのはイヌとかサルの基準であって 動物的な本能習性が促す無意識な価値観である

私は多数一般大衆やマスコミや権威に「バカ」と連呼するが 本来同じ脳の容量や構造を持っているはずなのに 何で私にわかるものが他人は気づかないのかと むしろ憤慨しているからこそ「バカ」じゃねぇのかと言っているのである

最初から本当に「バカにして」いれば バカ相手に懇切丁寧に噛んで含めるように上から目線で教えて差し上げるのかも知れないが 本来誰でも気付けるはずの話をいちいち説明しなければならない不条理性は 大多数の「バカ」さからくるものであって これは「バカ」としか言いようがない

本来私が懇切丁寧にひけらかすような内容ではない

なんすか 「絶対に知覚することのできない叡智界」って 何で鵜呑みにできんの?

バカなの?

「世界は存在しない」だとか「客観的事実など存在しない」だとか「ウイルスは弱毒化する」だとか

何でその話鵜呑みにした?

大丈夫か? どうした? 何があった?(松田ゆう姫)

 

 


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書籍に装丁されていれば「正しい」わけではない

2021年08月24日 15時29分59秒 | 意識論関連

ネット上の情報の大半は 論理科学的根拠のないデマか 間違いである

それなら書店に並ぶ書籍であれば 論理客観的根拠を伴った真実しか書かれていないのかと言えば そんなことは全くない

「本なら信用できる」という話は 「本になって大手出版社から発行されてさえいれば常に正しい内容が担保されているはずである」という勝手な思い込みによるものであって

実際には「哲学書」として分類出版されている書籍の大半はカントだのニーチェだのプラトンといった論理客観的には何の根拠もないファンタジー妄想に過ぎない

科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーも哲学者ではあるが 彼の言っている内容との整合性がぶっ壊れている話の方が大衆人気は高いのである

どちらが「正しい」のかといえば 論理客観的根拠に基づいたポパーの方が「より正しい」と言えるにも関わらず バカな大衆は「哲学には好き嫌いがあります」などという訳のわからぬ屁理屈を持ち出してファンタジー妄想までをも「哲学」だと信じて疑わない

ポパーはプラトンの盲目的権威性を非常に激しく糾弾しているのである(プラトンの呪文)

哲学であれ何であれ 個人的な好き嫌いは何にでもあるものであり 個人的に「好き」なら「正しい」ことの論証にはならない

どんなに多数のヒトが「好き」だと「思って」いても それが客観的に根拠を伴った「正しい話」であることの論証には全くならず

むしろ ヒトという種の生物の欠陥がもたらす傾向性の論証にすらなりうるのである

わかりづらいかな

要するに プラトンだのニーチェだのカントだのハイデガーといった話が哲学書扱いされている事自体が「バカな多数大衆が信じ込む話には論理客観的根拠は要らない証拠」になるって言ってんだよ

一切合切凡庸な貴方には解らないかもね

 

科学は多数決ではない

それは哲学も同じことである

科学や哲学というのは 本来客観的根拠に基づいて真実(本当のこと)が何かを見極めるためのものだからである

ところが 大衆やマスコミなどの多くは論理客観的根拠なんぞどうでも良くて 個人の主観的「印象」の多数決で人気さえ集まれば「正しい話」だと勝手に錯覚して真実を見誤るのである

真実が見えていなければ 合理性のある効率的な対策もできなくなる

地球環境の保全にしても 紛争の原因や再発防止にしても イジメや教育改革にしても あらゆる社会的諸問題は「何が本当の根源的原因なのか」がわからなければ 「何が本当にやるべき対策なのか」もわからなくなり

合理性も具体性もないのに大衆多数人気の集まっている「流行りの話」ばかりが蔓延することになる

 

養老孟司の「脳化」の話なんぞ 根拠のない勝手な「線引きの見本市」であるにも関わらず 大衆やマスコミの大半 いや ほぼ全員は根拠がないデマに過ぎないことには関心も興味も批判精神も持たずに鵜呑みにしているのである

NHKはマルクス:ガブリエルの「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すればなくなる」だとかいう話を平気で「新時代の哲学」などと称して垂れ流したことについては何の説明も弁解もしていない

それどころか未だにマイケル:サンデルだの養老孟司の言うことを平気で垂れ流していることを「失態」だとすら「思って」いない

よくもまあ そんなことで受信料を国民から徴収できるものだと どんだけ面の皮が厚いんだと 呆れるばかりである

 

NHKや民放各局が政府から独立性を持っていることに疑いを持つ決定的な証拠は何もないが 大学職員などの学術権威の言っている内容を独自に検証することをしていないことは確かである

学術権威と言われている人物に何かを訊いて その内容に論理客観的な根拠とか証明が本当にあるのかを全く独自には検証せず ただ「研究者がそう言っていた」という内容を無条件で鵜呑みにし垂れ流しているに過ぎない

それが社会的に無責任だとは一切「思って」いないらしい

それでも自分達職員の給料のために受信料だけは徴収し続けるつもりである

 

「メディア・リテラシー」とは 視聴者読者がメディアの内容を自分で検証する必要性を説いているのだが だからといってメディア自身が放送している内容に責任を持たなくても良い理由には全くならない

「メディア・リテラシー」というのはマスコミの無責任な報道の言い逃れのための免罪符にはならない

「書籍になっていれば メディア・リテラシーは持たなくても良い」という話には一切ならない

 

 ◇

 

先日「サイエンスZERO」でワクチンの安全性についてのトピックを放送していたが 内容は「ワクチンって こんなに凄いんだよ」的な正当化の話ばっかりがメインになっていて 統計的なリスクの大きさについてはほとんど説明がなかった

mRNAワクチンというのは ウイルスの遺伝情報の中からヒトに取り憑くためのスパイクタンパク質の情報だけを抜き取って人工的に増やしたものだという

従って もしワクチンがヒトのDNAを書き換えられる能力があるとしたら ウイルスそのものにも同じ能力があることになる

ワクチンはRNAだけなので 自己増殖することはないが ウイルスの方は体内で自己増殖してより高い影響を及ぼすことを考えれば もしスパイクタンパク質の情報に何らかの人体への影響があるとしても ワクチンを打つことのリスクよりもウイルスそのものに感染するリスクの方が圧倒的に高いことになる

しかもデルタ株の場合 アルファ株の1200倍もの増殖力を持っているという話もある

mRANワクチンというのは 今回のCOVOD-19ウイルスとしては初めて採用されたものではあるが 以前から癌ワクチンとしての臨床データはある程度取られていて 人体への長期的影響は今の所見つかっていないことが確認されているという

 

何度も言うけどさ 哺乳類への進化の過程で胎盤獲得において何らかのウイルスの影響があったことは分子生物学的には証拠があるとは言っても

それ 9000万年くらい前の話だからね

ティラノサウルスがいた時代にネズミみたいな姿の哺乳類への進化が生じた段階での話であって ほとんど「日常生活をしていたら隕石が頭を直撃して死ぬ」程度のリスクくらいだと思って良い話なのよ

「絶対に起こらない」とは言えないけど まあ 怖がることではないよ

怖がってどうなる話じゃないじゃん

実際そんな臨床知見ないし

そもそも前述のようにワクチンよかウイルス感染そのものの方がリスク高いんだからね

最近 基礎疾患のない20代男性がデルタ株で重症化 搬送された時には既に意識はなく サチュレーション(血中酸素飽和度)60%台で即時ECMO装着したという話が 神奈川県の病院であったそうだ

正直ECMOって 棺桶に頭突っ込んだようなもんだからね 治療でナントカ引きずり戻そうとはするけど 戻せるとは限らない

もし自分の親族だったら若年層でも「医者が診断して打っても大丈夫って言うなら 打っておいた方が良いよ」とは言うね

 

20台の姪っ子もワクチン打ったけど アナフィラキシーとか筋膜炎症とかの副反応はなかった

アナフィラキシーか その疑いのある事例はその大半が女性だったという 男性は今の所「数名」との話

 ◇訂正:360名中30名が男性だった

 ◇訂正2:と書いてみたんだけど 厚生労働省のPDFには「名」数ではなくて「件」数って書いてあるので どゆこと?って思って調べてみたら ワクチンって2回打つので1回ごとに1件ってことだそうな

ってこたなに 一人で2回ともアナフィラキシーが出ちゃった人とかいるのかしら

で 厚生労働省は副作用が大きかった場合にはお小遣いくらい(最大月額3万7000円)の給付金はくれるそうだ

アナフィラキシーって凄いのかな

なったことないのでわからんけど

 

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/vaccine_hukuhannou-utagai-houkoku.html
新型コロナワクチンの副反応疑い報告について
  -厚生労働省

 

Ende;

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「見えて」いないものについて

2021年08月24日 12時09分45秒 | 意識論関連

大脳辺縁系を損傷した人が 「赤ん坊の屍体を見ても食事ができる」という現象から受ける「印象」を どんなにたくさんのバカが見て「人間性が失われている」と「思って」も それが大脳辺縁系を損傷した人の人間性の反証には全くならない

大脳辺縁系を損傷した人の場合 そもそも旨いとか不味いとか「思う」ことすら損傷しているので 何を見ても食事には差し支えがないだけのことである

大脳辺縁系を損傷してさえいなければ 大抵の場合は赤ん坊の屍体を見ながら食事を摂ることが困難になるのであって 「赤ん坊の屍体を見て食事が喉を通らな」ければ人間性の論証になるわけではなく 凶悪殺人犯であっても「飯が不味くなる」ことはある

ナチスのユダヤ人絶滅収容所の官吏であったアドルフ:アイヒマンは ユダヤ人を虐殺するための計画書の作成に必死になった凶悪な戦争犯罪者だが 屍体を直接見ることは嫌ったという

きっと「飯が不味くなった」からであろう

 

大脳辺縁系を損傷した人が特異に利己的利益追求をするわけでもないし

科学的な論理客観的真理(答え)の追求を永遠に続けようとするわけでもない

バカ「哲学者」共が言うように 「理性=悪」という観念的な方程式にこじつけるための印象操作として 「赤ん坊の屍体を見ても食事ができる」という現象だけで立証したかのような意識誘導(詐欺)を働いているのである

大脳辺縁系を損傷してしまえば 利己的利益追求も 真理の探求心も失われ 何のために生きているのかも 何もかも「わからない」のであって 「次の診察をいつにしますか?」と問いかけても「わからない」としか言いようがないのである

 

フィニアス:ゲイジは事故で大脳辺縁系を損傷したことで「野獣のようになった」と言われていたが 実際のところ詳細な臨床データが残っているわけでもないので 明確なことは言えず 論理客観的な証拠としては使えない

バカ「哲学者」共は ゲイジの事故後の写真から受ける「印象」だとか 「日常生活を送っていた」などの「証拠」から 「ゲイジの人間性の論証」だと言い張るが 数枚の写真から受ける見た目の「印象」だとか 「日常生活を送れる」ことが短絡的に人間性の論証には全くならない

 

そもそも これらのバカ「哲学者」共が言い張る根拠のないデマでは イマヌエル:カントの「純粋理性批判」の内容が正しいことの論証には一切なっていないのだ

「理性を超越した悟性」だの「純粋統覚」だの 「絶対に知覚することの出来ない叡智界」というのはカントの妄想ファンタジーに過ぎず 何せ「理性を超越」していることになってるために論理客観的根拠の全てをスルーして突拍子もない決め付けを根拠にしているのであって こんな話を「哲学」だと信じ込んでいること自体 「脳が壊れている」としか言いようがない

にも関わらず バカ「哲学者」共が学術界から追放されないのは もしかするとマスコミ関係者の多くもカントの「純粋理性批判」を鵜呑みにしていたポンコツだらけで 本論の内容をハナから理解しよともしない洗脳状態である可能性もある

要するに「グル」なのかもしれない

 

そもそもカントの言う「人間は叡智界に属しているのだ」などという話は 論理客観的な根拠のない「答え」であり 「理性=答えの追求=悪」という論理方程式が崩壊しているのである

 

何度も言うが ヒトは「信じたい話だけを信じようとする」習性が先天的にあり 論理客観的証拠根拠に基づいた「本当のこと」にはハナから興味がないのである

大半の「ヒト」はそういう欠陥を自覚していないし 問題だという自覚症状もない

そのため 遺伝的進化を永遠に続けることが「正義」だという生物学者共の観念を盲信し 疑うことすらしなくなる

そして優生学の観念を信じ込んで「死刑によって進化が促される」という根拠のない屁理屈をも正当化し続けるのである

 


日本では 死刑制度に異議を唱えただけで多くのヒトからは嫌われるという

自分達の主観的「感覚」や「印象」こそが絶対的に正しい完全無欠の人間性だとでも勝手に錯覚しているからである

だから 養老孟司が言う「嫌な上司は無視する 意識から外す」だとか フリードリヒ:ニーチェの言う「できそうにないことは やらない方が良い」などという怠惰を正当化する「名言」の類いを有り難がって信奉するのである

プラトンやニーチェやハイデガーはナチス政権にも都合よく解釈されたことから 欧米では危険性が指摘されているのだが 日本人は西洋に対するコンプレックスが抜けないもんだから 西洋哲学者や文学者達の言葉さえ断片的に借りてきて「名言」扱いして引用しておけば「知性」か何かだと勘違いして崇拝し 簡単に思考停止に陥り 問題意識が全く働かない

たとえドイツであってもマルクス:ガブリエルのようなオカルトが「人気」を集めていることからも 哲学界はオカルトばかりを信奉するポンコツの集団であることは明白である

「倫理の話」と称して「トロッコ問題」ではぐらかしているマイケルサンデルがハーバードの教授でいられるのも アメリカ人の頭の悪さの証明である

 

生物学界における遺伝的進化万能妄想に基づく「論証」の類いが温存されているからこそ 山極寿一や松沢哲郎のようなオカルト老害が京都大学で学術権威として君臨できたのである

多くの大衆は「東大や京大やハーバード大で間違ったことなんか教えないはずだ」と「思って」いるのだろうが それは主観的「印象」に過ぎない

物理学者や工学者や天文学者は興味がないから検証していないだけであって これもまた同じ大学職員として無責任であると言える

専門外を理由に大学組織の腐敗を放置しておいて良い理由には全くならない

 

 

 


Ende;

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皆で渡れば怖くない

2021年08月23日 14時23分57秒 | 意識論関連

イワシのような食物連鎖の底辺に近い生物の場合 繁殖力が強く大半が他の生物の餌食になっても絶滅せずに「生き残る」ことができ 「種の保存」になる

個体の生存価値というのは非常に低く たまたま先天的に逃げるのが遅いなどの理由で淘汰され続けることによって 逃げ足の速い個体への淘汰圧力が働き「進化」が促される

決して「個体の安全性が確保されるようには進化」することはない

それでも 「種の保存」に適し 「環境との調和」にも適すれば 死滅せずに「生き残る」ことができる

こうした過酷な自然界における淘汰圧力や遺伝的進化を人間社会に持ち込むことはできない

100人中1人が死んでも 99人が生き残っているから「種の保存」だなどというバカげた話を人間社会に持ち込むから優生学などというオカルト観念が温存されることになるのである

「種の保存」は別に人間社会の目的ではなく 単なる自然界における生物の結果に過ぎず 「死滅せずに生きてさえいれば生物」と分類しているだけの話である

ヒトという種の生物は ここ数万年ほとんど進化していない 文明から隔絶された原住民であっても紛争による死亡率は1%程度であり この程度の淘汰圧力では遺伝的進化を促すまでには至らないからである

社会形成習性や民族浄化バイアスはヒトに進化する以前からあったものであり ヒト以外でも見られるものであって ヒトにまで進化してから獲得した性質ではない

逆に言えば ヒトに進化した後でも 社会形成習性や民族浄化バイアスがなくなるようには進化していないのである だからヒトは差別や紛争をやめることが出来ない

 

遺伝的進化に頼れば 都合の良いように淘汰圧力をかけ 他人を選別して殺害したり 断種によって「優れた遺伝子」以外を全て抹殺しなければ 遺伝的進化は促されない

自然界における遺伝的進化のメカニズムを人間社会に持ち込めば 自ずから優生学的オカルト観念を受け入れざるを得なくなるのだが 現状の生物学界はそれを許容してしまっているのである

ヒトは遺伝的進化をする必要性はなく むしろ変異による多様性を活かす方向で個性を活用することによって より合理的で効率的な人間社会を作ることも可能なはずである

個人の差異に優劣をつけ 順位序列をでっちあげることは差別にしかならない

それでも ヒトという種の生物は 先天的な民族浄化バイアスによって少数異端者を排除しようとする先天的習性自体は「進化」的になくなることはない

遠い将来的にはゲノム解析やゲノム編集によって先天的本能習性に由来する欠陥を減らすことも可能になるかも知れないが それは現状ではまだ夢物語に過ぎず 現状の先天的なヒトの本能習性基づく欠陥を補いながら社会を形成する以外に選択肢はない

 

「種の保存」も「生存」も 生物の結果であって 決して「人間としての目的」に適するわけではない

差別主義者を抹殺しても ゲノム自体にさしたる違いがない以上は 誰でも差別主義に陥る危険性は持っているのであって 差別主義に陥る原因究明と再発防止策によって差別主義者を生み出さない社会を作ることが重要なのである

遺伝的進化に頼るのではなく 先天的結果に過ぎぬ行動習性の欠陥を 社会全体で共有認識自覚し 欠陥に由来する諸問題を解決してゆくことで 「人間としての社会性」を発揮し「社会構造の進化」もできるようになるのである

高橋祥子は「生物の行動は、個体として生き残って種として繁栄していくように遺伝子的に規定されています。」などと言っているが 実際には「繁栄」などと称して地球環境の許容量を超えて異常大量繁殖した結果 地球環境を食い尽くして絶滅する方向をも持ってしまっているのが現実であり 遺伝子頼みに本能習性のままに行動していても何も問題は解決することはない

遺伝的進化の結果として組み込まれている先天的欠陥を自覚し 錯覚によって促される非合理な行動を避けなければ 絶滅への方向性を避けることはできなくなる

 

「繁栄」などという耳当たりの良い言葉の「印象」に騙されてはならない

「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などと言われれば 多くの大衆は気分が良くなって信じ込みたくなるのかも知れないが それはただのデマに過ぎず 真実を歪める大衆迎合や洗脳に過ぎない

 

認知的不協和を解消するためには 気分の悪くなる話に耳を貸さなければ良い

その結果 文明が破綻しても それは私の責任の範疇ではない

私個人でそこまでは面倒を看きれないし

看るつもりもない

何が本当に正しい話なのかを 客観的に見分けられないバカが大半なら 嘘やデマを信じ込んで暴走破綻に陥るだけである

暴走破綻は「怖く」はない

洗脳というのは安心満足だから「怖く」はないのである

 

 

Ende;

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生物学上の正義

2021年08月23日 09時36分27秒 | 意識論関連

「危険を冒す、開拓を好む」という性質にも、遺伝的な個性が関係しているということが最近わかってきました。新しい可能性を模索する人と、逆に保守的で変化を嫌う人の2つのタイプが存在することによって、種全体の生存の可能性も上がると言われています。

 どちらかのタイプに偏っていたら、いずれ人類は絶滅するでしょう。同じ観点から述べると、ストレス耐性が強い人も弱い人もいますが、ストレス耐性が強いということが優れているとは限りません。危険に直面したときに不安に感じて逃げる人がいるから、人類は生き残ることができたのです。

高橋祥子(たかはし・しょうこ) 出典:https://diamond.jp/articles/-/278480

 

⇨ナチス政権の勃興において 「不安に感じて同調迎合した」方が生存には有利である

「種全体の生存可能性」だけを論じても 社会持続可能性に適するわけではなく むしろ身勝手で利己的な個体種への淘汰によって社会持続可能性を著しく損なう先天的「習性」を持ったヒトだけに収束(進化)する構造の方が強く働くことになる

生物学者というのは 結果と目的を完全に履き違えており 進化の先に絶滅破滅の可能性があるとしても結果こそが万能だと信じて疑わないのである

祖先がかつての自然環境下において生存にとって有利な行動が進化的に組み込まれたとしても それは全て「結果」であって その「結果」のせいで人間性や社会の持続可能性に対する重大な欠陥を持ってしまっているとしても無視するのである

それを誰も無責任だとは「思って」いない

生物学者にとっては 生存こそが絶対的正義であり「死ななければ正しい」のであって たとえ女房子供が殺されても 「生き残ってるんだから良いだろ」という論理を押し付けてくるのである

生物学者というのは 「種として保存されて」さえいれば「人類の存続」であって その内容が殺し合いだろうが騙し合いだろうが何でも構わないのである

生物学者にとっては倫理も人間性も社会持続可能性も どうでも良いのである

種として「生き残る」ことさえできれば良いのが生物学者の正義というものである

ナチスに反対して自決を余儀なくされようが 死んだ者には何の「評価」もしないのが生物学である

ただ「生き残る」だけならヒトである必要性はなく ゴキブリで充分である

無責任な誰かの引き起こした「人災」によって何人の人が死のうとも「生き残って」さえいれば「種の保存」で「正しい」という理屈にしかならないとしても それが生物学上の「正義」の正体である

 

こんな話を鵜呑みにしている竹内薫も相当イカれている

 

ヒトの多くは論理的根拠に基づいた客観的証拠なんぞどうでも良くて 既存の「常識」的な観念に則った雰囲気うや「印象」だけで物事を判断するのである

主観的に気分が良くなる「信じたい話」だけを信用し その話に客観的根拠が伴うかどうかは誰も検証しないし したがらない


かつて祖先が暴力的統率者に怖れ 同調迎合することで協調的に多民族を抹殺して「生き残った」としても それが「種の保存」にさえなれば生物学上は「生存」であり「正しい」こととして扱われるのである

「生物の行動は、個体として生き残って種として繁栄していくように遺伝子的に規定されています。」(高橋祥子)という話は嘘である

全ての生物が「種として繁栄」できたわけではなく 膨大な淘汰圧力の「結果」として特定の種の生物だけが「種として繁栄」できただけであって これからも永遠に「種として繁栄」できる保証はどこにもなく 今後絶滅しない保証は何もないのが遺伝的進化というものの実相である

たまたま今生き残っているからと言って これからも永久に生き残って繁栄できる科学的根拠なんぞどこにもないのであって 「遺伝子に規定されている」などという話には何ら科学的根拠はない

「生き残った」という結果だけを絶対的正義だとみなし 結果的に組み込まれた先天的性質の全てまでも正当化しているのは ただの「こじつけ」であって 科学でも何でもない

こうした科学的根拠のない話を鵜呑みにしているバカだけが評価を受けるのが生物学界の標準(常識)なのであり 「科学としての信頼度」は極めて低いと認識すべきである

 

生物学上では 多様性さえあれば「生き残れる個体」も出てくることで 「種の保存」などに適すると主張するのだが

多様性によってたまたま生存に適した個体が生き残ることだけを「種の保存」に適する可能性について述べているだけであって 「大部分が死滅しても偶発的に生き残りさえすれば良い」というのが生物学上の「正義」である

この話を鵜呑みにしていれば 「生存に適さない障害者などは死んでも構わない」という優生学のコンテキストを正当化することにもなるのである

人間社会の中で淘汰圧力を正当化することはできない

「誰も取り残さない」のが人道であり 人間性や倫理である

たとえ犯罪者であっても 死刑にしたりせず 更生治療や再発防止の研究材料として利用することも必要なのである

それがひいては被害者も減らし 安全性や持続可能性への貢献ともなるのである

もしも遺伝的進化を正当化するのであれば 感染症も治療などせずに 感染するがままに放置しておくことで
たまたま免疫力の強い個体だけが生き残ることで「進化」が促されることになる

そこに倫理や人間性なんぞあるわけがないだろ

バカか

 


Ende;

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