プログラミング教育において重要なのは プログラミング言語そのものを覚えることではなく プログラミングをする時の論理的な思考能力を獲得することの方が重要である
プログラミング環境というのは日々進歩しており 今使えるプログラミング言語は将来主流ではなくなり キーボードで入力する形式自体が廃れてしまう可能性もある
C言語であれJavaScriptであれ たった一文字打ち間違えただけで全く動かないのであって 一度定義された「名前」ならドロップダウン形式の中から選択する形式にするだけで「名前」の打ち間違えなんぞ起こることはなくなるのである
プログラミングにおける「名前」とは 変数とか関数につける「名前」のことである
変数だの関数だのという言葉遣いをしてしまうと 数学嫌いの人の拒絶反応を引き起こしそうなのだが 実は数学ができなくてもプログラミングはできる 実際オイラは中学生レベルの数学すらあやふやなレベルである
あと 現状のプログラミング言語では英数小文字だけで組み上げられているので 一見すると英語能力も必要なんじゃなかろうかと錯覚を促すが 実際にはオイラは英語の文章なんぞ全く読めない
数学的に難しいプログラミングをするなら数学のスキルも必要になるのだが 簡易的な重力計算くらいならピタゴラスの定理程度を「知っている」レベルで充分である
別に「ピタゴラスの定理の証明」なんぞできなくても構わない
しかし 逆に言うと 純粋数学において用途がよくわからないままピタゴラスの定理を教え込まれても テストで点数がもらえるだけでは主体的な意欲にはつながらず テストが終わるとすぐに忘れてしまうことも多いのだが 実際にプログラミングで重力の影響による物体の軌道が視覚的に見れたりすれば主体的興味を持つ人は少なくないのではないか
いや 別に持たなくても良いんだけど
ヒューマンフォールフラットなんかは重力計算とか多重振り子計算的なものを応用しているわけで 画面がシンプルなのは動きの計算にCPU資源を必要とするために物体の形状データを減らしているためではないかと思われる
違うかも知れんが
単にわざとプリミティブな形状にしているだけかも知れない
何にせよ 学習とか研究というものは主観的に面白がること 興味を持つことが重要である 点数評価という「他者から与えられる脳への報酬」を目的にしてしまうと 点数評価をしてくれる他者に依存した環境依存性による意欲しか働かなくまってしまうため 他人の評価に左右されて主体性というものが失われてしまうことになる
主体性のない奴というのは自律もない
「いいね」欲しさに悪乗り投稿をやらかしたりするようにもなるのである
既存の学術権威が間違ったことを主張していても 評価点数が目的であれば論理的根拠のない「悟性」だの「純粋統覚」だの 終いにゃ実証不能の謎の「叡智界」なんぞも鵜呑みにするバカの集団が出来上がるのである
それがどれだけ学問を汚し 社会的損失になっているのかも誰も検証することはなくなる
他人からの評価点数に左右されずに 「これって どうしてこうなってるんだろうか?」という素朴で主体的な疑問に取り組むことで 多くのヒトが気づくことのない発見や発明にも結びつく可能性が出てくるのである
しかし 教えられたことをただ鵜呑みにしているだけであれば どんなに大量の知識を「知って」いても 糞の役にも立たないデクノボウが出来上がるだけである
たとえ知識の量をひけらかして大衆人気を得たとしても 「知識のエコシステムを生態系のピラミッドになぞらえれば」などという 訳のわからぬ実証不能の観念を振り回すオカルト野郎が出来上がるだけである
それは大衆人気で金儲けくらいにはなるだろうが 実際には学問を逸脱したオカルト以外の何物でもない
マナー産業によるデマ同様 知識産業とか教養産業とか受験産業の金儲けを目的としたデマにも気づくことはできず 漫然と現状社会の問題点もスルーして鵜呑みにするバカにしかならない
なぜ知識や教養を身につけなくてはならないのか その動機が「世間的評価」であれば「知識のエコシステムを生態系のピラミッドになぞらえ」ることによって 利己的利益の追求や 生存競争に対する強迫観念しか働かなくなることになる
それ 人間性や倫理に適するとお思いか?
福沢諭吉は「人には身分というものがある」などと称して学問をススメたが これは利己的利益のために学問をススメているだけの学問産業の推進であって 「天は人の上に人を作らず」という言葉は 単なる引用であって 諭吉自身は「身分」という上下順位序列を否定してはいないことになる
「身分」が高ければ利己的「生存」にとっては有利であろう
気分的には安心することができるであろう
しかし それで社会安全性や持続可能性が高まる保証には全くならないばかりか むしろ危険性の放置にしかつながることはない
間違った話を鵜呑みにしておいて 安全な訳がなかろう
感染症対策にせよ 温室効果ガス削減にせよ これらに必要なのは「生態系のピラミッド」ではなく むしろ「多様性」の方である
全員が均一にバカなら バカげた結末にしか至らないからである
たった一人でも「これ 何か違くね?」と気付き それを皆が理解すればバカげた結末から逃れることも可能となる
特定の「身分」の高い人物だけが社会の安全性や持続可能性を高めてくれるわけではなく 一人一人の個人による自律的な社会的責任判断選択こそが 感染症や地球環境変動に対して最も重要なのであり 個人が利己的な生存を優先することよりも むしろ次世代のために自らの犠牲もいとわない本質的人間性 倫理というものが求められるのである
ヒトは その先天的な「社会形成習性」によって 特定権威などに責任を丸投げしておけば気分的には安心することができるのだが その主観的な安心満足には安全性の保証は全くない
かつて祖先が遺伝的進化した「結果」として組み込まれた先天的本能習性というものは かつての狩猟採集生活に適応したものであって それが現代社会においては逆効果な「人間としての欠陥」として働いていることも認識しなければならない
そもそも「狩猟採集生活に適応した」とは言っても それは結果的に「生存にとって適応した」という「結果」でしかないのであり そこに人間性や倫理という「目的」が伴う構造原理も保証も何もないのである
頭の悪い生物学者共が「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという リチャード:ドーキンスのお伽話に基づいた話でもしておけば 論理検証のできないバカな文科系マスコミや大衆を気分的 観念的に満足させることは可能だが それこそが主観が促す錯覚というものである
科学は多数決ではないのと同様 哲学もまた多数決で真理が見極められるわけではない
社会安全性や持続可能性にとって最も重要なものが何なのか その「真理」を見極めようとしなければ 間違った行動にしか陥らないのは必然というものである
「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すればなくなる」などという糞みたいな屁理屈を「新時代の哲学」などとおだてあげて満足している現状の哲学界というのは その時点で組織腐敗としか言いようがない
遺伝的進化というものが単なる結果であって 目的の論証にならないことを認識していれば 優生学などというオカルト観念の明確な論理反証も周知されていたはずであり これを怠ったことで相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の引き金ともなったのであり
現状の遺伝的進化に対する誤謬を放置した生物学界の無責任はもとより それに対して一切何も批判してこなかった哲学界もまた同罪である
言っておくが それらに一切批判してこなかったあらゆる人にもその責は存在するのである
ヒトは 多数が無責任なら自分の責任が薄まるような感覚(錯覚)を感じるものであるが その錯覚を 錯覚として自覚する当人の意識(客観的論理検証性)がないからバカが治らない
バカのままなら自滅するぞ
それは私の責任じゃないからな
Ende;