○過信。
ヒトの多くは自分の気分感情のおもむくままに行動していれば、必ず常に絶対に正しい結果が得られるものであるという妄想を抱いている。
これが「正常性バイアス」というものである。
ヒトの多くは自分の気分感情が促す行動バイアスが、自分自身の主体的意志判断選択であると錯覚しているため、振り込め詐欺のカモにされたり、津波から避難しなかったりするのである。
振り込め詐欺にカモられるヒトの多くは、「自分だけは絶対に大丈夫だと思って」いる。その根拠というのは、「今までずっと概ね大丈夫だった。」という経験則に基づく気分的安心によるものである。
当然経験則や統計的結果というものは、傾向性の立証にはなっても絶対性の証明にはならない。
「自分は振り込め詐欺に騙されるようなバカではない。」という根拠のない自信過剰による満足を得ることが可能であるため、ヒトという種の生物は先天的に振り込め詐欺師に騙されるように出来ているのである。
先天的な本能習性というものを利用すれば、ヒトを詐欺ることは簡単である。
しかし、本論のように本能習性が促す気分感情を否定するような内容に対しては、気分的に安心満足が得られないため、信じようとはしなくなる。
「信じたくない」というのは気分感情が促す行動バイアスである。決して論理検証に基づく意識的行動選択判断ではない。
マキャベリが嫌われるのは、気分的に安心満足することが出来ないからであり、客観的事実として述べたヒトの習性を、ヒトの多く、文科系大衆の多くは受け入れることを拒絶する。
マキャベリは詐欺師ではない。詐欺師は「ヒトの多くはカモに出来るものである。」などとは公然と宣言したり書物に遺したりはしないからだ。
ヒトが騙されるメカニズム構造を知れば、本来なら騙されないようにすることも可能でありながら、ヒトの多くは「自分だけは絶対に大丈夫。」だと論理的根拠もなく盲目的に過信し、安心満足によって論理検証性を簡単に喪失し。自分が騙される可能性やメカニズムに対する検証をしなくなる。
マキャベリが生きたのは侵略戦争の時代であり、暴力による覇権争いが横行していた社会であったため、詐欺的な手法も実践しているが。これはいわば話の通じない暴力団に対して囮捜査を企てるようなものであって、必ずしも非難出来るものではない。
それに対して、たとえばカルト宗教のような洗脳というのは、どのように行われるかと言えば。気分的な安心満足が得られるような嘘を用いる。
「お前らを騙すことなんぞ、簡単なことだ。」などとはペテン師は言わない。騙している本人が疑われないように、信頼が得られるような気分の良くなる話だけしかしないため、ヒトの多くは簡単にペテン詐欺に引っ掛かるのである。
ヒトの多くは、一度信頼した相手を疑うことや、論理的に検証することをしなくなる性質がある。信頼した相手に全ての責任をなすりつけ、自らは責任を取ることを放棄することで、安心満足したいからである。これはヒトという種の生物が哺乳類という親を信頼しなければ生存に適さないという構造原理に由来する習性であって、自分以外の何者かを盲目的に信頼して服従迎合することが本能的に安心になったという「結果」である。
また、一度「自分が信頼した。」という既成事実を事後正当化することを優先し、「なぜ信頼したのか。」という論理検証にまでは至らないことも、過信による満足が働いているからである。
ヒトの多くが絶対的な神を信じようとする性質も、あくまで「信じたい」という気分感情が先にあり、神自体の存在証明は後からこじつけたものに過ぎない。子供にとって親は神も同然であり、その親が信じていた神に対し、子供が無条件に信頼感覚を持つのは必然的「結果」である。
ヒトの多くは、自分が育った社会環境や時代から受けた価値観というものを、あたかも自分自身で選択したものであるかのように錯覚するが。自分自身による主体的な論理検証選択をしていない以上、これは習性の「結果」であって、「目的」の論証にはならない。
ヒトという種の生物は、シエラレオネのゲリラの中で育てば残虐なゲリラになることも簡単である。自分が育った環境というものに気分的安心満足を感じ、絶対的価値観であると盲目的に信じ込むことは、むしろ必然的な「結果」であって、そもそも自分が生まれた時代や社会環境というものを自分自身では選択しておらず、偶発的「結果」における必然性に意味があろうはずがないのである。
現代日本という環境は、完全で絶対的なものであると、日本人の多くは錯覚している。
犯罪者は裁判所が決めた妥当な罰さえ与えておけば全ては解決したと錯覚し、経済とは金儲けさえ出来れば社会持続可能性も安全性も検証しなくて良いものであると錯覚する。
これらの価値観の全ては前の世代から受け継いだ価値観であって、論理的根拠などなくても気分的には安心で満足が得られるため、むしろ論理検証的に批判することに対しては観念的拒絶しか働かないことがほとんどである。
論理検証的に考えることが出来ない文科系大衆の多くは、「合理性とは、利益追求のことである。」などという嘘に対し、カントの純粋理性批判を持ち出して正当化しようとするが。カントの純粋理性批判自体が論理整合性のない観念論に過ぎないことについては無視するのである。
利益追求というのは、本能的欲望が主体であって、論理検証性は欲望の道具に過ぎない。
本質的な合理性追求というのは、目先の欲望の大きさに左右されずに理性を持って感情を制御することによって、初めて
人間としての「心」、自律的な社会的責任判断能力につながるのであり。利益追求が合理性追求ではないことは明らかである。
気分感情の源である大脳辺縁系が促す行動バイアスが、常に正しい結果をもたらすものであるという妄想は、自分で自分自身を論理検証し疑うという気分の悪いことをしなくて済むため、結果的自己存在を無条件に事後正当化することによる気分的安心満足が得られるため、ヒトの多くは既存の価値観を鵜呑みにし、何も疑わなくなるのである。
だからこそ、東大学長がわざわざ「全てを疑え。」などと意識喚起をしなければならないのである。
ヒトの多くは無意識に既存の固定観念的価値観を鵜呑みにし、論理検証的に疑うことをしなくなる習性があるからである。
「ヒトとは、そういうものである。」が、「ヒト」の習性結果をどんなにたくさん抽出枚挙しても、「人間」としての目的行動選択の論証には構造原理的に全くならない。
ヒトの多くは、多数派に属していれば気分的に安心満足を得ることが出来るが。これもまた習性という「結果」に過ぎない。多くのヒトがバカである場合、自分の頭の悪さが正当化出来るような錯覚に簡単に陥ることが可能であり。こうした先天的な錯覚を利用して洗脳やペテン詐欺は行われるのである。
目先の多数派に迎合しておけば、気分的には安心であろうが、それは論理的根拠を持った安全性の論証には全くならないことを、ヒトの多くは忘れたがる習性がある。
ヒトの大脳辺縁系の構造というのは、頭が良くなるようには出来ておらず、むしろ積極的にバカになるようなバイアスしか促さない。
大脳辺縁系というのは、所詮はサルと同様、進化変化の「結果」以上の意味はないのである。「結果」以上の何も論証出来ない進化生物学が、人間としての目的を論ずることは構造原理的に不可能であり、サルだのサカナの行動習性という「結果」をどんなに陳列しても、そこからは「結果」以上の何も抽出することは出来ず。人間としての「目的」に言及するというのは業績の捏造に他ならない。
この根源的な論理的誤りを正さない限り、人類は永遠にバカげた「人災」に対する根源的原因究明には辿り着くことは出来ない。
自分が「人災」被害に遭ってから他人に責任をなすりつけることは簡単であろう。
だが、自分の無責任性を無視して他人にだけ責任を問うというのは、あまりに都合の良い社会的「甘え」である。
下らない嫌がらせをしている暇があるのなら、論理的な反証をすべきである。
それとも、そんなに自分の頭を使うのが嫌なのか。
それとも、コソコソと何の教訓にもならない嫌がらせでもしておけば気分的に満足なのか。そういう満足を追求している自分を疑う余地はないのかね。
Ende;
ヒトの多くは自分の気分感情のおもむくままに行動していれば、必ず常に絶対に正しい結果が得られるものであるという妄想を抱いている。
これが「正常性バイアス」というものである。
ヒトの多くは自分の気分感情が促す行動バイアスが、自分自身の主体的意志判断選択であると錯覚しているため、振り込め詐欺のカモにされたり、津波から避難しなかったりするのである。
振り込め詐欺にカモられるヒトの多くは、「自分だけは絶対に大丈夫だと思って」いる。その根拠というのは、「今までずっと概ね大丈夫だった。」という経験則に基づく気分的安心によるものである。
当然経験則や統計的結果というものは、傾向性の立証にはなっても絶対性の証明にはならない。
「自分は振り込め詐欺に騙されるようなバカではない。」という根拠のない自信過剰による満足を得ることが可能であるため、ヒトという種の生物は先天的に振り込め詐欺師に騙されるように出来ているのである。
先天的な本能習性というものを利用すれば、ヒトを詐欺ることは簡単である。
しかし、本論のように本能習性が促す気分感情を否定するような内容に対しては、気分的に安心満足が得られないため、信じようとはしなくなる。
「信じたくない」というのは気分感情が促す行動バイアスである。決して論理検証に基づく意識的行動選択判断ではない。
マキャベリが嫌われるのは、気分的に安心満足することが出来ないからであり、客観的事実として述べたヒトの習性を、ヒトの多く、文科系大衆の多くは受け入れることを拒絶する。
マキャベリは詐欺師ではない。詐欺師は「ヒトの多くはカモに出来るものである。」などとは公然と宣言したり書物に遺したりはしないからだ。
ヒトが騙されるメカニズム構造を知れば、本来なら騙されないようにすることも可能でありながら、ヒトの多くは「自分だけは絶対に大丈夫。」だと論理的根拠もなく盲目的に過信し、安心満足によって論理検証性を簡単に喪失し。自分が騙される可能性やメカニズムに対する検証をしなくなる。
マキャベリが生きたのは侵略戦争の時代であり、暴力による覇権争いが横行していた社会であったため、詐欺的な手法も実践しているが。これはいわば話の通じない暴力団に対して囮捜査を企てるようなものであって、必ずしも非難出来るものではない。
それに対して、たとえばカルト宗教のような洗脳というのは、どのように行われるかと言えば。気分的な安心満足が得られるような嘘を用いる。
「お前らを騙すことなんぞ、簡単なことだ。」などとはペテン師は言わない。騙している本人が疑われないように、信頼が得られるような気分の良くなる話だけしかしないため、ヒトの多くは簡単にペテン詐欺に引っ掛かるのである。
ヒトの多くは、一度信頼した相手を疑うことや、論理的に検証することをしなくなる性質がある。信頼した相手に全ての責任をなすりつけ、自らは責任を取ることを放棄することで、安心満足したいからである。これはヒトという種の生物が哺乳類という親を信頼しなければ生存に適さないという構造原理に由来する習性であって、自分以外の何者かを盲目的に信頼して服従迎合することが本能的に安心になったという「結果」である。
また、一度「自分が信頼した。」という既成事実を事後正当化することを優先し、「なぜ信頼したのか。」という論理検証にまでは至らないことも、過信による満足が働いているからである。
ヒトの多くが絶対的な神を信じようとする性質も、あくまで「信じたい」という気分感情が先にあり、神自体の存在証明は後からこじつけたものに過ぎない。子供にとって親は神も同然であり、その親が信じていた神に対し、子供が無条件に信頼感覚を持つのは必然的「結果」である。
ヒトの多くは、自分が育った社会環境や時代から受けた価値観というものを、あたかも自分自身で選択したものであるかのように錯覚するが。自分自身による主体的な論理検証選択をしていない以上、これは習性の「結果」であって、「目的」の論証にはならない。
ヒトという種の生物は、シエラレオネのゲリラの中で育てば残虐なゲリラになることも簡単である。自分が育った環境というものに気分的安心満足を感じ、絶対的価値観であると盲目的に信じ込むことは、むしろ必然的な「結果」であって、そもそも自分が生まれた時代や社会環境というものを自分自身では選択しておらず、偶発的「結果」における必然性に意味があろうはずがないのである。
現代日本という環境は、完全で絶対的なものであると、日本人の多くは錯覚している。
犯罪者は裁判所が決めた妥当な罰さえ与えておけば全ては解決したと錯覚し、経済とは金儲けさえ出来れば社会持続可能性も安全性も検証しなくて良いものであると錯覚する。
これらの価値観の全ては前の世代から受け継いだ価値観であって、論理的根拠などなくても気分的には安心で満足が得られるため、むしろ論理検証的に批判することに対しては観念的拒絶しか働かないことがほとんどである。
論理検証的に考えることが出来ない文科系大衆の多くは、「合理性とは、利益追求のことである。」などという嘘に対し、カントの純粋理性批判を持ち出して正当化しようとするが。カントの純粋理性批判自体が論理整合性のない観念論に過ぎないことについては無視するのである。
利益追求というのは、本能的欲望が主体であって、論理検証性は欲望の道具に過ぎない。
本質的な合理性追求というのは、目先の欲望の大きさに左右されずに理性を持って感情を制御することによって、初めて
人間としての「心」、自律的な社会的責任判断能力につながるのであり。利益追求が合理性追求ではないことは明らかである。
気分感情の源である大脳辺縁系が促す行動バイアスが、常に正しい結果をもたらすものであるという妄想は、自分で自分自身を論理検証し疑うという気分の悪いことをしなくて済むため、結果的自己存在を無条件に事後正当化することによる気分的安心満足が得られるため、ヒトの多くは既存の価値観を鵜呑みにし、何も疑わなくなるのである。
だからこそ、東大学長がわざわざ「全てを疑え。」などと意識喚起をしなければならないのである。
ヒトの多くは無意識に既存の固定観念的価値観を鵜呑みにし、論理検証的に疑うことをしなくなる習性があるからである。
「ヒトとは、そういうものである。」が、「ヒト」の習性結果をどんなにたくさん抽出枚挙しても、「人間」としての目的行動選択の論証には構造原理的に全くならない。
ヒトの多くは、多数派に属していれば気分的に安心満足を得ることが出来るが。これもまた習性という「結果」に過ぎない。多くのヒトがバカである場合、自分の頭の悪さが正当化出来るような錯覚に簡単に陥ることが可能であり。こうした先天的な錯覚を利用して洗脳やペテン詐欺は行われるのである。
目先の多数派に迎合しておけば、気分的には安心であろうが、それは論理的根拠を持った安全性の論証には全くならないことを、ヒトの多くは忘れたがる習性がある。
ヒトの大脳辺縁系の構造というのは、頭が良くなるようには出来ておらず、むしろ積極的にバカになるようなバイアスしか促さない。
大脳辺縁系というのは、所詮はサルと同様、進化変化の「結果」以上の意味はないのである。「結果」以上の何も論証出来ない進化生物学が、人間としての目的を論ずることは構造原理的に不可能であり、サルだのサカナの行動習性という「結果」をどんなに陳列しても、そこからは「結果」以上の何も抽出することは出来ず。人間としての「目的」に言及するというのは業績の捏造に他ならない。
この根源的な論理的誤りを正さない限り、人類は永遠にバカげた「人災」に対する根源的原因究明には辿り着くことは出来ない。
自分が「人災」被害に遭ってから他人に責任をなすりつけることは簡単であろう。
だが、自分の無責任性を無視して他人にだけ責任を問うというのは、あまりに都合の良い社会的「甘え」である。
下らない嫌がらせをしている暇があるのなら、論理的な反証をすべきである。
それとも、そんなに自分の頭を使うのが嫌なのか。
それとも、コソコソと何の教訓にもならない嫌がらせでもしておけば気分的に満足なのか。そういう満足を追求している自分を疑う余地はないのかね。
Ende;