トロッコ問題とか赤子のジレンマといった命題には倫理や人間性との相関がない
これらの命題というものは選択肢が限られ しかも何を選択しても正解がない
「正解のない命題を考えることは重要だ」などというバカがいるが 正解がないことが明らかであることをいくら考えても無駄である
「未だ正解が見つかっていない命題」を考えることは重要だが 正解が存在しないことが論理的に明らかである命題は考えても意味がないのである
トロッコ問題や赤子のジレンマなどの「正解の存在しない命題」のことを仮に「サンデル命題」と名付ることにする
サンデル命題というものは いくら考えたつもりになっても何か役に立つ答えが得られるわけではない
サンデル命題というものは 極限状態での選択で気分的 主観的に悩ましい気分に陥っているだけであって そこに論理検証的な考えが出てくることは構造原理的に存在していないのである
ヒトの多くは気分的に悩んだことを あたかも考えたかのように錯覚する習性があり この区別が出来ないのは論理検証が抜け落ちているのが原因である
サンデル命題において 「誰かが死ななければならない状況」になぜ陥ってしまっているのか その原因を究明してこそ知識や財産として役に立つのであって 既に「誰かが死ななければならない状況」にまで陥ってからの選択には倫理も人間性も何も関与しないのである
サンデル命題のような糞の役にも立たない話を倫理だと勘違いして 本当の倫理や人間性を発揮せず 主観的に何かを考えたかのような錯覚に陥っている頭の悪さこそが むしろ人間性や倫理の欠如を招いているとも言えるのである
社会において最も重要なのは安全性である そして 安全性において重要なのは何が論理的に正しいのかを区別認識することである
何が論理検証なのかすらもわからないバカでは安全性は蔑ろにされるからである
サンデル命題というのは いうなれば「おまじない」とか「お祈り」と一緒で 気分的に満足しているだけで 論理的には何も導き出すことの出来ない因習儀式と同じである
サンデル命題というものは「答えが導き出せない」ことが明確に論理的に立証可能なものであり また 「答えが導き出せない」ようにしてあるからサンデル命題なのである
サンデル命題で何かを考えているような錯覚に陥って満足している状態というものは いうなればパソコンが無意味なビジーループに陥ってフリーズしているようなものである
フリーズしているパソコンやタブレットは糞の役にも立たないのと同様 サンデル命題なんぞを一生懸命考えたつもりになっているバカも糞の役にも立つことはない
役に立たないことが論理的に明快であるにも関わらず そこに気づかないのは脳がバカだからである
サンデル命題や それに類する不毛な命題の類いは論理的に社会的な意味が存在していないことに気付かないバカが哲学権威として扱われていれば 社会安全性にとって重大な障害となることは明らかである
◇
鏡に映った自分の姿が上下は反転していないのに左右だけが反転していると錯覚するのも 感覚の問題であって論理的には鏡の平面を境に前後が反転しているに過ぎない
それを「わからない」と言うのは主観的感覚を客観的理論と区別出来ていないからに過ぎない
心理学というのは主観と客観の区別をしておらず 「刑事責任能力」などという論理的には意味のない能力測定を あたかも論理的根拠に基づいているかの如く勝手に決めつける学問分野に過ぎない
「精神異常」というものも 所詮はスペクトラムであり 絶対的に正常な精神状態の論証など論理的に不可能なのである
むしろ 「絶対的に正常な精神状態というものが存在している」と思っている時点で 既にそいつは精神異常者である
誰も神ではない以上 絶対的に常に正しい判断が可能なヒトなどというものは存在しない
それなら むしろ「自分の既に下した判断選択というものが 本当に正しいものであるのだろうか」という検証性は常に働かせておかなければならないのである
そうした自己検証性 論理客観性が働いていないからこそ サンデル命題を倫理の話だと勝手に勘違い錯覚し「自分は頭が良くなった」と妄想して満足するだけなのである
そういうのを「バカ」という
◇
サンデル命題の類いの話を単純化すれば
「自分だけが操作可能なボタンを押せばAの部屋の人達が死に 押さなければBの部屋の人達が死ぬ」という状況での選択みたいなものである
人数はこの際どうでもよろしい
この状況でボタンを押そうが押すまいが そこに人間性や倫理は関係がない
選択者が津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖であろうと ノーベル賞受賞者で理研理事の野依良治であろうと 齋藤飛鳥ちゃんであろうと 久保しおりちゃんであろうと どちらを選択しようと倫理や人間性の論証には一切ならない
誰が選択しようとも倫理や人間性の論証には一切関係がないのがサンデル命題なのである
そして こうしたサンデル命題をいくら「考えたつもり」になっても社会安全性にとって有効な知見は出てくることは論理的には全く存在しない
存在しないからサンデル命題なのである
マイケル:サンデルだの麻原彰晃だのに唆(そそのか)されて「深く考えたつもり」になり「今日は有意義な議論が出来ました」などと褒められたところで 実際には全く意義などどこにも存在していないのである
サンデル命題は社会安全性において糞の役にも立つことはない それは論理的に明快である
論理的に糞の役にも立たないことに気付かず サンデル命題を倫理だと勘違い錯覚していることこそが 社会安全性にとって重大な障害でもある
サンデル命題を鵜呑みにするというのは「おまじない」や「お祈り」と同じで 気分(主観)的に満足しているだけであって糞の役にも立ちゃしないばかりか 何が重要なのかを認識出来なくなることで もっと合理的に意味のある行動選択を阻害しているのである
◇
冒頭の単純化されたサンデル命題においては AもしくはBの部屋の人達のどちらかが死ななければならない状況にどうして陥ってしまったのか その原因を究明し再発防止対策をすることの方が重要であって ボタンを押すか押さないかは社会安全性にとってどうでも良い話なのである
その場においてボタンを押そうが押すまいが どのみち悲惨な結末になることに違いはないからである
もし Aの部屋に植松聖がいて Bの部屋に野依良治がいるとすれば 大抵の人はボタンを押すであろう
だが それは所詮主観的好みの問題に過ぎず 野依良治を助けたからといって人間性や倫理が証明されたことには全くならない
ボタンを押したからといって 押したことで人間性や倫理の論証には全くならないのである
凶悪殺人犯を殺害したからといって「なぜ凶悪殺人なんぞをしでかす奴が出てくるのか」についての論理客観的原因究明や再発防止には一切つながらないのである
凶悪殺人犯を確保拘束することには一定の社会安全性が存在するが 殺害などの懲罰的暴力というものは「正義の鉄槌を下した」かのような主観的満足を得ているに過ぎない
刑法罰というものは大衆の主観的満足の多数決で行われているに過ぎず 社会安全性にとっては害しか及ぼすことはない
◇
アクセルとブレーキの踏み間違い事故であれば 刑務所にぶちこむことよりも 「踏み間違いをする人とは どういう人なのか」とか「どのような条件において踏み間違いをしやすいのか」などの検証を行い 予防に活かす知見を得ることの方が重要である
警察なんぞ警察車両の事故が続発しても「訓練」などという精神論的努力ばかりをするだけであり 論理的検証というものを全く行うことはない
ミスを犯しやすい条件のようなものが存在しているのだとすれば それはむしろ公表して共有すべき知見であって 「恥ずかしいから隠しておく」という選択はむしろ社会的には無責任な選択なのである
ヒトである以上誰でもミスは起きる
そのミスをいかにして減らすのかを最優先すべきであり 「警察の威厳」のようなものを維持しようとするのは むしろ傲慢な態度である
Ende;