書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ログインはありません

2019年12月31日 00時40分55秒 | 日記

「楽天」だと称したメールが来て

「ログインがありました」とか書いてあってリンクがついていたのだが

リンクは使わずブックマークから楽天にログインしてみたのだが

ログイン履歴なんぞなかったのだ

そもそも自力でログインしたけど「ログインがありました」なんつうメールなんぞ来ねぇのだ

メールサイトの方でなりすましメール検出には引っ掛かっていないんだけど

明らかにおかしいので「報告」しといた

発信元は

 rakuten-co-jp84.dynu.net

だった

皆さんご注意を

 

Ende;

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吉村 仁(よしむら じん)

2019年12月27日 01時44分56秒 | 意識論関連

素数ゼミの構造を数理的に発見した吉村仁は 生物の遺伝的進化についてはランダムな変異と環境などの淘汰圧力に因るものであると述べているにも関わらず

「生存戦略」などと あたかも目的選択可能性に基づいているかのような形容をしており論理的に支離滅裂で意味がわからない

遺伝的進化の構造メカニズムには「目的選択可能性」も「生存戦略」も存在していないのであり 言っていることに論理整合性が欠落しており 科学者として無責任である

論理整合性がないというのは 要するに「嘘」をついているということであって 生物の遺伝的進化のメカニズムには「戦略」や「目的」が存在していなかったことに自分が気付かなかったことを隠蔽はぐらかすために「嘘」で大衆やマスコミを煙に巻いているか 若しくは遺伝的進化のメカニズムには「戦略」や「目的」が存在していないことを理解できていない大多数のバカ生物学者達に話を丸めて忖度しているかのどちらかである

生物学者の多くや京大学長を批判するようなことをしたくないがために 科学的な論理整合性を放棄しているとしたら これは科学者としてあるまじきペテンである

生物進化の構造のように ただ生存という結果だけを絶対的正義とするのであれば もはやナチスに迎合して生き延びたマルティン:ハイデガーは「賢い」ことになり ナチズムに反対して命を落としたヴァルター:ベンヤミンは「愚か者」ということになるのである

こうした基準を鵜呑みにしておいて 人間性も倫理もヘッタクレもあったものではない

生物の遺伝的進化に対して「戦略」だの「目的」だのといった「嘘」をつき続けるようであれば もはや学術権威としての資格はない 過去の業績があろうとも「嘘」つきは科学界には要らないのである

 

Ende;

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「楽しい」という錯覚

2019年12月26日 14時35分01秒 | 意識論関連

うかれて調子に載ってヘラヘラ笑っていることを「楽しいこと」だと思うのは間違いで

加藤英明が砂漠の真ん中でトカゲ探して一日中穴掘りしていることこそが本当の「楽しいこと」である

とは言え 誰でも「砂漠の穴掘り」が楽しいわけではなく 何が本当に楽しいのかは個人的なもので 各々全く異なるものでもある

 ◇

ヘラヘラ笑っている状態というのは外見上「楽しそう」には見えるんだが 実際には脳内麻薬で意識が麻痺しているだけなのであって 本当に楽しいわけではない

エタノールだのヤバイ薬だので脳が中毒になっていれば そりゃヘラヘラ笑って「躁」状態にはなれるんだが こうした「躁」状態というのは意識が働いていないので満足感が全く得られず 逆に薬物が抜けると「躁」状態から「抑鬱」状態に陥ってヒドイ苦痛に陥ることになる

承認欲求中毒というのもヤバイ薬物と同じ効果があって 悪乗り投稿などで無責任な危険行為をやらかしてしまうのも 中毒特有の暴走状態の末路である

その場限りに気分が高揚し 「躁」状態に陥っていれば ヘラヘラ笑ってその場限りには「楽しいような気分」にはなれるんだが この脳内麻薬中毒状態というのは持続性が全く無く むしろ後で「薬が切れた」ようなヒドイ抑鬱状態に陥ることになる

それを「わかっていてもやめることが出来ない」状態というのは むしろ意識(自発的論理検証)的には苦しんでいる状態なのである

悪乗り中毒状態に陥っている間だけは そんな面倒なことには意識は働かないため やらかしてしまってから後悔するという中毒のスパイラルに陥ることになる

仏教で言うところの「六道輪廻」である

カルト宗教にハマって教祖に褒められること以外何もしなくなるのも 教祖からの承認評価中毒状態に他ならない

仏教に限らず あらゆる宗教にはこうした中毒性があり 大乗仏教ではその危険性にまで言及しているが故 感覚的に「受け入れ難い」難解さをも伴うのである

論理的に難しのではなく 感覚的に満足感が得られないだけなのだが 衆生の多くは「これさえやっときゃ全ては解決」的に短絡安易な方法論ばかりを求めてしまう先天的習性があるため 大乗仏教は「難解」だとされるのである

 ◇

ヒトというのは望むと望まざるに関わらず 一定の脳容積があり 個人差はあれども理性が全く働かないわけにはいかず どんなに薬物中毒に陥っていても「やめなければ破滅する」ことは誰しもが「知って」いるのである

世の中が薬物中毒患者や 無責任な悪乗り投稿ばかりであふれかえれば社会が破綻してしまうことは いちいち説明せずとも誰もが「知って」いることでもある

大乗仏教において「一切衆生に仏性がある」と説いているのは おそらくそういうことであろう

何が「悪いこと」なのかは 本当は誰しもが生まれもって「知って」いるのである

ところが目先の感情(主観的感覚)という煩悩に苛まされ 自発的理性が抑制されてしまうことによって 人々は「悪いこと」だと「知って」いながら仏性(人間性や倫理)を発揮出来なくなってしまうのである

ヒトという種の生物が 先天的に人間性を持っているのであれば 何も教えずとも自動的自然に常に人間性を発揮するはずだが 実際には子供達は学校の中で放置しておけば自動的自然にイジメ差別をやらかしはじめるものなのである

実際には教師までイジメを行うものである

ヒトは先天的には人間ではない だからこそ人間性や倫理について深く知り 考えなければ目先の欲望煩悩に苛まされて「悪いこと」を平気でやらかすようにもなるのである

ところがどっこい 現状の哲学界というのはニーチェだのプラトンだのドストエフスキーだのといった「お伽話」で主観的 気分的に満足しているばかりで 客観的論理検証というものを全くしない「バカの巣窟」に陥っているのである

マルクス:ガブリエルなどというバカに人気が集まっている状況に誰も異議を唱えないというのは 現状の哲学界がバカしかいないことの明らかな証明である

現状の道徳教育というものは 主観的感覚にばかり依存した規範意識という無意識な行動バイアスを植え付けることにばかり異常執着しており 子供の主体的意思というものを蔑ろにしているからこそ イジメが全然減らないのである

 ◇

学会内部での多数決評価だけを求めれば 現状の体制に異議を唱えることなく むしろマルクス:ガブリエル的に訳のわからぬオカルト観念に便乗しておいた方が金になることはわかっている

だが そうした「イカレポンチ」で哲学界が占めていれば 社会の破綻に歯止めがかからなくなることを私は「知って」いるので わざわざ誰からも人気の得られない話を延々と続けているのである

 

Ende;

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サンデル命題

2019年12月22日 15時39分13秒 | 意識論関連

トロッコ問題とか赤子のジレンマといった命題には倫理や人間性との相関がない

これらの命題というものは選択肢が限られ しかも何を選択しても正解がない

「正解のない命題を考えることは重要だ」などというバカがいるが 正解がないことが明らかであることをいくら考えても無駄である

「未だ正解が見つかっていない命題」を考えることは重要だが 正解が存在しないことが論理的に明らかである命題は考えても意味がないのである

トロッコ問題や赤子のジレンマなどの「正解の存在しない命題」のことを仮に「サンデル命題」と名付ることにする

サンデル命題というものは いくら考えたつもりになっても何か役に立つ答えが得られるわけではない

サンデル命題というものは 極限状態での選択で気分的 主観的に悩ましい気分に陥っているだけであって そこに論理検証的な考えが出てくることは構造原理的に存在していないのである

ヒトの多くは気分的に悩んだことを あたかも考えたかのように錯覚する習性があり この区別が出来ないのは論理検証が抜け落ちているのが原因である

サンデル命題において 「誰かが死ななければならない状況」になぜ陥ってしまっているのか その原因を究明してこそ知識や財産として役に立つのであって 既に「誰かが死ななければならない状況」にまで陥ってからの選択には倫理も人間性も何も関与しないのである

サンデル命題のような糞の役にも立たない話を倫理だと勘違いして 本当の倫理や人間性を発揮せず 主観的に何かを考えたかのような錯覚に陥っている頭の悪さこそが むしろ人間性や倫理の欠如を招いているとも言えるのである

社会において最も重要なのは安全性である そして 安全性において重要なのは何が論理的に正しいのかを区別認識することである

何が論理検証なのかすらもわからないバカでは安全性は蔑ろにされるからである

サンデル命題というのは いうなれば「おまじない」とか「お祈り」と一緒で 気分的に満足しているだけで 論理的には何も導き出すことの出来ない因習儀式と同じである

サンデル命題というものは「答えが導き出せない」ことが明確に論理的に立証可能なものであり また 「答えが導き出せない」ようにしてあるからサンデル命題なのである

サンデル命題で何かを考えているような錯覚に陥って満足している状態というものは いうなればパソコンが無意味なビジーループに陥ってフリーズしているようなものである

フリーズしているパソコンやタブレットは糞の役にも立たないのと同様 サンデル命題なんぞを一生懸命考えたつもりになっているバカも糞の役にも立つことはない

役に立たないことが論理的に明快であるにも関わらず そこに気づかないのは脳がバカだからである

サンデル命題や それに類する不毛な命題の類いは論理的に社会的な意味が存在していないことに気付かないバカが哲学権威として扱われていれば 社会安全性にとって重大な障害となることは明らかである

 ◇

鏡に映った自分の姿が上下は反転していないのに左右だけが反転していると錯覚するのも 感覚の問題であって論理的には鏡の平面を境に前後が反転しているに過ぎない

それを「わからない」と言うのは主観的感覚を客観的理論と区別出来ていないからに過ぎない

心理学というのは主観と客観の区別をしておらず 「刑事責任能力」などという論理的には意味のない能力測定を あたかも論理的根拠に基づいているかの如く勝手に決めつける学問分野に過ぎない

「精神異常」というものも 所詮はスペクトラムであり 絶対的に正常な精神状態の論証など論理的に不可能なのである

むしろ 「絶対的に正常な精神状態というものが存在している」と思っている時点で 既にそいつは精神異常者である

誰も神ではない以上 絶対的に常に正しい判断が可能なヒトなどというものは存在しない

それなら むしろ「自分の既に下した判断選択というものが 本当に正しいものであるのだろうか」という検証性は常に働かせておかなければならないのである

そうした自己検証性 論理客観性が働いていないからこそ サンデル命題を倫理の話だと勝手に勘違い錯覚し「自分は頭が良くなった」と妄想して満足するだけなのである

そういうのを「バカ」という

 

 ◇

 

サンデル命題の類いの話を単純化すれば

「自分だけが操作可能なボタンを押せばAの部屋の人達が死に 押さなければBの部屋の人達が死ぬ」という状況での選択みたいなものである

人数はこの際どうでもよろしい

この状況でボタンを押そうが押すまいが そこに人間性や倫理は関係がない

選択者が津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖であろうと ノーベル賞受賞者で理研理事の野依良治であろうと 齋藤飛鳥ちゃんであろうと 久保しおりちゃんであろうと どちらを選択しようと倫理や人間性の論証には一切ならない

誰が選択しようとも倫理や人間性の論証には一切関係がないのがサンデル命題なのである

そして こうしたサンデル命題をいくら「考えたつもり」になっても社会安全性にとって有効な知見は出てくることは論理的には全く存在しない

存在しないからサンデル命題なのである

マイケル:サンデルだの麻原彰晃だのに唆(そそのか)されて「深く考えたつもり」になり「今日は有意義な議論が出来ました」などと褒められたところで 実際には全く意義などどこにも存在していないのである

サンデル命題は社会安全性において糞の役にも立つことはない それは論理的に明快である

論理的に糞の役にも立たないことに気付かず サンデル命題を倫理だと勘違い錯覚していることこそが 社会安全性にとって重大な障害でもある

サンデル命題を鵜呑みにするというのは「おまじない」や「お祈り」と同じで 気分(主観)的に満足しているだけであって糞の役にも立ちゃしないばかりか 何が重要なのかを認識出来なくなることで もっと合理的に意味のある行動選択を阻害しているのである

 ◇

冒頭の単純化されたサンデル命題においては AもしくはBの部屋の人達のどちらかが死ななければならない状況にどうして陥ってしまったのか その原因を究明し再発防止対策をすることの方が重要であって ボタンを押すか押さないかは社会安全性にとってどうでも良い話なのである

その場においてボタンを押そうが押すまいが どのみち悲惨な結末になることに違いはないからである

もし Aの部屋に植松聖がいて Bの部屋に野依良治がいるとすれば 大抵の人はボタンを押すであろう

だが それは所詮主観的好みの問題に過ぎず 野依良治を助けたからといって人間性や倫理が証明されたことには全くならない

ボタンを押したからといって 押したことで人間性や倫理の論証には全くならないのである

凶悪殺人犯を殺害したからといって「なぜ凶悪殺人なんぞをしでかす奴が出てくるのか」についての論理客観的原因究明や再発防止には一切つながらないのである

凶悪殺人犯を確保拘束することには一定の社会安全性が存在するが 殺害などの懲罰的暴力というものは「正義の鉄槌を下した」かのような主観的満足を得ているに過ぎない

刑法罰というものは大衆の主観的満足の多数決で行われているに過ぎず 社会安全性にとっては害しか及ぼすことはない

 ◇

アクセルとブレーキの踏み間違い事故であれば 刑務所にぶちこむことよりも 「踏み間違いをする人とは どういう人なのか」とか「どのような条件において踏み間違いをしやすいのか」などの検証を行い 予防に活かす知見を得ることの方が重要である

警察なんぞ警察車両の事故が続発しても「訓練」などという精神論的努力ばかりをするだけであり 論理的検証というものを全く行うことはない

ミスを犯しやすい条件のようなものが存在しているのだとすれば それはむしろ公表して共有すべき知見であって 「恥ずかしいから隠しておく」という選択はむしろ社会的には無責任な選択なのである

ヒトである以上誰でもミスは起きる

そのミスをいかにして減らすのかを最優先すべきであり 「警察の威厳」のようなものを維持しようとするのは むしろ傲慢な態度である

 

Ende;

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哲学というものは大衆人気取りのためにあるのではない

2019年12月21日 00時34分06秒 | 意識論関連

遺伝的進化において「生存戦略」や「目的」といった概念を持ち出すのは誤謬である

トウガラシの辛味成分であるカプサイシンは 哺乳類などの臼歯を持った生物に食べられると糞として排泄されても発芽できなくなってしまうのだが 鳥類には臼歯がないので糞としてそのまま排泄される確率が高く 発芽に適しており 鳥類はカプサイシンの辛味を認識しないため 鳥類以外は食べられ難い

この事象に対して「種の保存のために辛味成分を獲得した」などという「目的」や「戦略」として扱うのは科学を逸脱したオカルトに過ぎない

遺伝的進化というのはランダムな変異の中から淘汰圧力によって選別された「結果」に過ぎず そこに合理的目的選択など存在する余地は一切存在しないからである

トウガラシ類が辛味成分を持つようになったのは あくまで偶発的変異に起因するものであり より発芽に適さない遺伝要素を持った個体が淘汰された結果に過ぎず トウガラシ自身が「目的」だの「戦略」だのを意識的に選択出来る構造が存在するわけではない

遺伝的進化の結果だけを見て あたかも「目的」や「生存戦略」が存在しているかのように錯覚するのは論理科学的根拠を伴わぬ妄想錯覚に過ぎず 遺伝的進化に対して「目的」や「生存戦略」をこじつけることは科学者としてポンコツ過ぎて話にならないのだが

未だに生物学者の多くはポンコツだらけで科学としての社会的役割を一切果たしておらず 無責任極まりない状態が傍観放置されているのである

 ◇

科学を導くのが哲学の本来の役目であるのだが 現状の哲学界は主観と客観の区別もできないデクノボウばかりで これもまた社会的に極めて無責任である

「恐ろしい」だの「美しい」といった主観的感想というものは 客観的論証には一切使えないのだが 文学的芸術性(主観的好き嫌い)を哲学だと勘違いしている大衆を欺く形でフリードリヒ:ニーチェだのヒョードル:ドストエフスキーを哲学として取り扱い

終いには「世界は存在しない」だの「時間は無限に分割すれば無くなる」などと言い出したマルクス:ガブリエルまでをも哲学として取り扱う始末である

こうした状況に対して哲学界の誰一人として異義を唱えないというのは もはや哲学界全体が哲学として全く機能していないからである

「赤子のジレンマ」だの「トロッコ問題」などといった単に極限状態での選択でありさえすれば倫理の話だと錯覚しているというのは 現状の哲学者達が全員バカで 何も「考え(論理検証)」していないからである

極限状態を仮定した命題というのは 感覚的主観的に「悩ましい」ために その苦悩を短絡的に「深い考え」だと勘違いする大多数のヒトの先天的な頭の悪さに起因する錯覚に過ぎず 答えの出しようのない命題をいくら「考え」たつもりになっても倫理の話にもならなければ 何かの論理的証明にも一切なることはない

「赤子のジレンマ」などというのは 戦争状態などという倫理の崩壊した状況下でいかなる選択をしても倫理や人間性の論証にはならない 「トロッコ問題」もそうだが「誰かが死ななければならない状況」に陥る可能性が予測回避可能であった場合に予防対策を行わなかった場合になどで倫理が問われるのであり 「何人死ぬかを選択すること」などの極限状況でありさえすれば人間性や倫理が問われるわけではない

ヒトの多くは気分的に悩ましい極限状態での選択でありさえすれば倫理だと勝手に勘違いする習性があり 何の答えも出しようのない「トロッコ問題」などを短絡的に倫理の問題だと錯覚してしまうのである

何が本当の倫理なのかを理解認識することの出来ないようなバカが現状の哲学界では権威として東大大学院の教授として扱われており 到底哲学としての社会的役割を果たしておらず 極めて無責任な状態である

本来哲学というものは「科学の帝王」であり 科学を導く重大な社会的役割を負っているはずなのだが 現状では大衆の理解力の低さを利用して何の論理客観的意味もない議論で大衆やマスコミを撹乱することで人気取りに終始しているのである

一応言っておくが 東大大学院は独立行政法人であり 税金で運営されているのであり 社会的に糞の役にも立たない不毛な大衆迎合のためにあるのではない

信原幸弘のようなデクノボウが哲学権威として扱われている状態は異常である

 

Ende;

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「信じたい話」の多くは「正しい話」ではない

2019年12月19日 23時51分48秒 | 意識論関連

アオリ運転の同乗者としてデマを拡散された女性の事例があったが

意図的にデマを流して便乗してきたリツイーターに訴訟を起こすっていう詐欺が出来るんじゃねぇかと思ってみたりする

 ◇

AIを用いたディープフェイク動画の動きをAIを使って見分けることも出来るそうな

イヤマテ それってAIで本物の動きを再現出来んじゃねぇのかと

もう映像は全部信用できないじゃないか

 ◇

癌の補完代替療法は死亡リスクが2倍になるという統計がある

「マナーで癌が治る」じゃないが「これさえやっときゃ全ては解決」的な話の方が大衆に好まれる傾向が高い

検索エンジンというのはアクセス数などで順位付けされているだけであって 正確性が保証されているわけではない 一応多少は「検索エンジンの中の人」が異常な状態の修正はあるとしてもごく一部である

保険診療で受けられる治療というのは厚生労働省によって厳格に審査されている

医者は科学に誠実であるほど「絶対に治る」とは言わず あくまで「5年生存率が○%です」的な話しかしないものである

医者が信じられないならセカンドオピニオンやサードオピニオンを選択すべきだろう

エコーチェンバーという「デマに取り憑かれてしまう」事例が結構あるそうな 要するに振り込め詐欺に騙されるのも同じ構造だろうな

「一旦信じ込んでいる人を説得するのは難しい」経済学者 大竹 文雄

「刑法裁判の判決で解決だ」という観念も一種のエコーチェンバーとか集団ヒステリーではないだろうか

ガリレオ・ガリレイの地動説を火炙りにしようとしたのも「一旦信じ込んでいる人を説得するのは難しい」ことの典型的事例であろう

何かに取り憑かれてしまっている人を説得する「魔法の言葉」はない

そもそも「魔法の言葉」によってヒトの多くはデマを鵜呑みにするようになるのである

バカでいた方が脳は楽なんであって バカに陥らないようにするのは楽ではない

 

Ende;

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無能者の群れ

2019年12月16日 21時09分57秒 | 日記

神奈川県庁のHDD流出問題なんだけど

ファイルやフォルダを「ゴミ箱」に入れて空にしただけではデータそのものは消えておらず 復元可能だということを誰も知らないというお粗末な知識しかないのも問題だけど

そもそもHDDを復元不能にフォーマットするプログラムやツールがあっても良いはずだし

ってか探しゃあんじゃねぇのか?

なけりゃ政府で作って一般配布せぇよ

クラスタ全部上書きするとなると時間がかかるんだとは思うんだが実行しときゃ放置できるんだからとりたてて人件費がかかるわけでもなかろうて 転売すれば1,000万円にもなるパーツを物理破壊するというのも税金の無駄遣いなんじゃないかと思うぞ

ちゃんとフォーマットして中古で販売せぇ!

役人達が無能過ぎて論外

 

Ende;

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何もしないヒト

2019年12月16日 15時23分13秒 | 意識論関連

精神疾患の息子を殺害した農水次官に一審は実刑6年の判決

何でも良いんだけど 原因を徹底的に調査研究して再発防止を優先してくんねぇかな

正直懲役何年とかどうでも良いんだけど

何で刑罰で全部「解決」になっちゃうんだろう

社会的には原因究明と再発防止であって

罰の程度とか どうでも良いんだけど

警察のパトカーが子供轢いちゃったり 踏み間違いでビルに突っ込んだりしたのも 「処分」とかどうでも良くて 再発防止のための合理的対策を優先すべきなんだけどな

この国は制度上民主主義を導入しているので国民の多数がバカなら役人は何もしないぞ

 

Ende;

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理性なくして人間性は成立しない

2019年12月14日 12時16分22秒 | 意識論関連

規範意識を人間性や倫理と結びつけるのはトンデモナイ大間違いである

規範意識というのは無意識であり行動バイアスに過ぎず 間違った規範意識を植え付けられることでユダヤ人絶滅計画や毒ガステロにも疑いを一切持たない暴走を引き起こす原因でもある

太平洋戦争時の無謀なインパール作戦や特攻といったものも規範意識という無意識的条件反射行動バイアスが引き起こしたものであり

そもそも左脳に領野として特定可能な時点で条件反射的無意識であることの証明でもある

また 言語というものを理性と短絡的に解釈するのも大間違いで オカルト観念や詐欺であろうとも言語を用いていることに違いはない

真偽を判断するのは言語そのものではなく 客観的論理検証性である

 ◇

理性か感情か そのどちらか一方に人間性や倫理が働いているわけではなく あくまで理性が感情を制御している状態にこそ人間性が宿るのである

大脳辺縁系を損傷した患者が何も決められないからといって いきなり「理性は悪だ」などと決めつけるのはバカの発想である

理性 すなはち論理思考というものは人畜無害なものであって 大脳辺縁系を損傷した患者は意思決定が困難ではあるものの 決して人間性自体に問題を生ずるものではない

人間性に問題を生ずるのはむしろ理性の欠如であり フィニアス:ゲイジを例に挙げるまでもなく理性こそが人間性の形成に重要な役割を果たすことに間違いはない

 

感情というものは動物的な無意識条件反射行動バイアスを作り出すものであり ユダヤ人絶滅計画や無謀な特攻作戦というものは規範意識という実証不能の観念によって生み出されたものでもある

感情というものは環境によって左右される性質があり これを利用したのが振り込め詐欺などの特殊詐欺(もはや一般化しているので「特殊」ではないが)である

恐怖心や損得感情(勘定)を用いて相手の思考を都合よくコントロールすることによって大金を振り込ませたりキャッシュカードの暗証番号を聞き出したりすることができるのである

「勘定」という「数値計算」が入ると理性だと勘違いしがちだが 高所恐怖症の人がエレベーターの階数表示だけで恐怖を感じるのと同様 特定の数値計算自体は理性ではなく むしろ数字に対する感情や観念に過ぎない

組織の利益(損得)を優先して社会的な責任を後回しにすることは決して「理性」ではないのである

感情というものは環境依存性があり 規範意識というものも感情に直結しているが故にナチス政権下などの「環境」に左右されてしまうのである

人間性や倫理というものは 自己が置かれた「環境」に左右されずに「自律的に社会的責任を負う」ことを指すのであって これに必要なのは自己の規範意識をも疑う客観的な論理検証性(理性)が必要不可欠である

「東電社内の風土の中では原発の津波に対する脆弱性を放置してしまうのもやむなし」というのでは人間性も倫理もスッタクレもあったものではない

「風土」だの「空気」だの「体質」に迎合するというのは規範意識による恐怖心であって 規範意識というのは主観的感情と直結しているものである

規範意識を徹底してもイジメがなくならないのは イジメそのものを自覚する意識が働いておらず 主観的には「怖くない」のが原因である

怖いか怖くないかといった主観的感情によって行動が決定している状態こそが無意識であり 機械手続き的条件反射行動なのである

ナチズムの勃興や無謀な特攻に多くの国民が邁進してしまったのは「目先の多数派に同調迎合しなければならない」という観念(非合理な規範意識)こそが原因である

シンドラーや杉原千畝によるユダヤ人救出というのは自律的判断によるものであって 決して規範意識のような迎合性が作り出した行動ではない

 

ノーベル賞受賞者の野依良治(理研理事)は「主観が重要」と述べたが これは著しい間違いである

野依良治が「主観が重要」と述べた際には怒りの感情が伴っており 冷静さを欠いた短絡的判断に陥っていると言える

これは振り込め詐欺に騙されている被害者の状況と同じで 怒りなどの特定の感情を伴うことによって冷静な論理検証が阻害され 論理的根拠を伴わぬ間違った判断に陥る典型である

野依良治は有機化学が専門であって脳生理学や心理学や哲学については素人同然であろう

 

将棋棋士の羽生善治の直感が将棋の対戦において直感が有利に働くからといって 何でもかんでも直感(主観)が重要だと解釈するのは痴呆老人の発想である

主観というものは あくまで動物的な行動バイアスを生み出すものであって 祖先が生存にとって有利な行動を採った「結果」に過ぎず そこに合理性のある「目的」が存在するわけではない

私は「哺乳類の一種として赤ん坊が丸焦げにされることが最も耐えられない」と述べたことはあるが これはあくまで私個人の主観であって 私個人の主観は決して常に必ずしも人間性や倫理が伴うものではなく バカな哲学者や生物学者相手にクソしょうもない説明を続けさせられてウンザリして「お前ら死ね」と思っていることも また私の主観である

バカな痴呆老人達やマスコミ大衆相手に懇切丁寧に噛んで含めるよう説明を尽くすことは 主観的にはバカらしく 終わりが見えない絶望的なものである

だからといって説明をやめないのは社会安全性にとって重要であるという理性(客観)に基づく行動判断であり 「バカらしい」という個人的主観には意味がないことを私は理解認識しているからである

「善悪の判断が主観や感情の方にある」などと述べているバカ共が後を絶たないが これもまた一種の「失敗例」であって そのメカニズム構造を分析することによって同じ間違いを繰り返さないようにすることの方が人類全体にとっては重要な財産となる

それはとても面倒臭いややこしい事であるが 面倒でややこしいことをしないからこそ 同じような失敗が何度も繰り返すのである

「理解できないバカは殺してしまえ」と短絡的に「最終解決」することの方が気分的には楽であり 満足感を簡単に得ることができるのだが それこそがヒトという種の生物の先天的な「人間としての欠陥」なのである

相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺の植松聖のようなバカ相手に懇切丁寧にどこが間違っているのかを説明説得して 果たして植松が自分の何が間違っていたのかを理解出来るとは「思え」ないが 死刑にしたからといって同じような不条理な虐殺事件への再発防止には全くならない

本論(意識論)の目的は 意識の本質とは何かを認識理解することであり 何が無意識なのかを理解することによって本質的な人間としての意識を知ることが出来るのである

東大の哲学教授だの ノーベル賞受賞者といった権威の多数派が「主観が人間性を作り出す」と述べているからといって それが短絡的に科学的論証になるわけではない

科学は多数決ではないのである

 

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信原 幸弘 (のぶはら ゆきひろ)

2019年12月14日 00時52分41秒 | 意識論関連

○ 泣く赤子のジレンマについて

そもそも「敵兵が襲ってくる状況」自体が間違っているのであって 赤子を殺して村人が助かるか 赤子を殺さずに全員死ぬかの選択に倫理もヘッタクレもない

トロッコ問題と一緒で意味がない

 ◇

○ knobe効果について

環境破壊を「知ったことではない」と述べている時点で意図的なのであって

環境改善と同列に考えること自体がトンデモナイ大間違いである

環境破壊が起こることを無視することに人間性の問題があるわけで 環境改善になるかどうかを無視することとは全く別の選択である

「他人が健康を害する」選択と 「他人が健康になる」選択は同列ではない

地球環境にとって 最も改善するための対策は 「ヒトが地球上からいなくなること」であろう それを無視することと 「これ以上地球環境が悪化する可能性のある行動選択」は同列にはならない

 

言葉の上っ面だけで「同じ内容」だと判断している事自体がバカ過ぎて話にならない

原発の暴走可能性を「知ったことではない」と述べるのと 原発の安全性が向上することを「知ったことではない」と述べることは全く別である

心理学や脳生理学や哲学というのは、こういったバカげた言葉遊びにうつつを抜かすばかりで真摯に倫理の本質について「考え」ていないのである

こうした無責任さは「環境破壊など知ったことではない」と述べているのと同レベルの悪質なものである

 

Ende;

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2019年12月12日 11時02分38秒 | 写真

荒川河川敷になんでもないトラックが停まってたんだけど

キャビン上の文字が読めない

拡大するとドアに「齋藤スポーツ」って書いてあって

どうもキャビン上には「さいとう」と書かれているらしい

 

岩渕水門(青門)の前を通りかかったら 小さな扉から何やら巨大なイチモツを搬出していた

何だかわからんけど いっちょ間違えたら大事故になりそうな鉄の塊

扉や壁に触れただけでも重大な破壊になりそうなので職人さん達の緊張感がハンパない

思った以上にデカイ

何だこれ?

 

クレーンの載った艀(はしけ)をタグボートが曳いていた

土砂満載のバージ船も来たので多分浚渫工事だったと思う

七号千羽丸 株式会社中川船舶

「NIKO」と読めるが船名は鮮明ではない 違うかな

二光商運 作業船 似たような船はあるものの 特定はできなかった

 

 

台風19号の泥が千住新橋近くのサッカー場に堆積した後

雨で流れて地形のように

まだ草木が生えてないので土星の衛星タイタン感ある

 

 

Ende;

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カマキリ先生(昆虫注意)

2019年12月07日 13時25分23秒 | 写真

路上にカマキリ先生がっ

危うく踏み潰すところ

白い可憐な花が…

っていうかワルナスビ閣下では?

駆除したほうが良いのかしら…

Ende;

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司法手続きは社会的意味がない

2019年12月07日 01時37分44秒 | 意識論関連
先日 はとバスによる暴走死亡事故が発生したのだが

バスの運転手はインフルエンザで意識が朦朧としていた可能性があるという

運行前には症状は見られなかったそうだ

インフルエンザというのはウチの親父もそうだったが突発的に発症発熱して意識混濁に陥ることがあるらしい

そうなると運行前点検のみならず運転中においても体温計や心拍計やAIカメラで異常を検出して運転手の交代などの対策も必要になるかも知れない

しかし司法役人というのは単なる過失致死で罰だけ与えて「解決」にすること以外に再発防止なんぞ一切考えようともしない

こうした司法の社会的無責任を放置しているのは国民であり立法行政である

 ◇

危険学や失敗学を少しでも噛ったことのある者であればエレベーターに閉じ込められたからといって内側から扉を無理やり開けようなどとはしないものである

何かそういう所が緩いんだよな NHKって

 ◇

アオリ男の一審裁判において 裁判員裁判だったにも関わらず判事が勝手に危険運転致死の適用を除外したため 二審高裁は一審での審理のやり直しを命じた

運転中だったら何が何でも殺人が除外される機械的な手続きって何なんだろうね

運転中特権みたいのがあんのかしら

要るかそれ

高速道路の本線上で他の車の走行を妨害して停車させるような行為は殺人を適用すべきだろ

一応あおり運転の厳罰化を進めているそうだけど

アオリ運転なんぞするバカがなぜ出てくるのか 生育環境などを徹底的に調査究明し再発防止につなげるべきである

そのためには司法刑罰裁判は意味がなく害にしかならない

 ◇

関係ないけど大隈重信は渋沢栄一を散々イジメてたという話があるので

どうも早稲田大学に対する猜疑心が拭えない



Ende;
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優先順位

2019年12月05日 22時17分39秒 | 意識論関連
ナカタ:ルデナ:バイロン:ジョナタン事件で 二審は一審での死刑を覆して無期懲役の判決を下したんだが

死刑とか無期懲役とか刑法上の手続きなんぞ社会安全性において何の意味も無い

そりゃ被害者や遺族からすれば加害者が生きていること自体すら赦せないんだろうけども

それは被害者や遺族個人の主観的感覚の問題であって 社会安全性とは何の関係もない話である

公共の利益にとって最も必要なのは再発防止であって これは刑法懲罰という手続きだけでは一切行われることはない

「被害を繰り返さない」ことこそが公共の利益であって 被害者や遺族の個人的感情論を優先して刑法懲罰という制度手続きばかりを漫然と繰り返すことで再発防止への取り組みは遠ざかるばかりである

 ◇

ペシャワール会の中村哲医師が過激派に殺害されたり 京都アニメーションへのテロが起こるのも ヒトという種の生物は暴力的報復や懲罰を短絡的に「解決」だと錯覚していることが原因である

テロリストや通り魔の類いというのは自暴自棄であるため 刑法懲罰を用いた恐怖心による行動抑圧が効かない性質がある

そもそもテロリストや通り魔というのは懲罰的報復暴力こそが解決だと錯覚しているのが最大の要因であり 

なぜテロリストや通り魔のように自暴自棄な発想に陥るのか その構造メカニズムを徹底的に分析し 原因を究明しなければテロや通り魔事件への有効な再発防止策には一切ならない

そのために必要なのは刑法罰を停止し 危険学や失敗学のメソッドに則って徹底した原因究明を行う必要がある

しかし 現状の刑法罰というのは被害者や遺族の個人的恨みを解消するための機械的手続きを行っているだけであって 到底公共の利益になる再発防止には全くならない

あたかも司法は被害者や遺族の要望に沿った判断をしているかのように装っているが 実際には現状の司法制度手続きを維持することだけが目的であって 「犯罪者間における罰の公平性」などという一般人には何の意味も為さない事柄に異常執着しているだけである

ジョナタン容疑者が死刑か無期懲役かなど 実際問題どうでも良い話であって 最も再発防止において重要なのはジョナタン容疑者のような意味のわからぬ行動を採るようになった原因について徹底検証することである

同じ「ヒト」である以上 同じような行動を採る人物が出てくる可能性は存在し 実際にテロや通り魔事件は幾度も繰り返されているにも関わらず 司法による機械的手続きを漫然と繰り返すのみで 「暴力で解決だ」と錯覚するヒトの先天的欠陥については一切言及されることはない

ヒトという種の生物の先天的な欠陥について徹底検証し 科学的に「失敗」の再発防止を行わない限り 理不尽な暴力も無くなることはない

ヒトという種の生物が先天的に人間としては欠陥を持っているという論理的事実を基に再発防止を行うことで 中村哲医師や京都アニメーションに対する理不尽な暴力を抑制出来た可能性もある

被害者や遺族の気分的には「納得」はいかないかも知れないが 社会にとって最も重要なのは原因究明に伴う再発防止であって 被害者や遺族の個人的感情論がこれに優先されて良い理由などないのである

こういう話は大衆人気取りによる得票目当ての代議員達にとっては「オイシイ話」ではないので耳を貸すことはないだろう

それなら どうすれば刑罰よりも再発防止が優先されるようになるかと言えば 議員や役人任せにすることなく国民自身が再発防止の重要性を自覚することである

それが「難しい」ことは充分承知している

簡単に「これさえやっときゃ全ては解決する」なら誰も苦労はしないのである

 ◇

ロシアのプー太郎は「社会は複雑だ」と述べたが 社会が複雑なら温室効果ガス削減をしなくても良い理由には全くならない

社会というものは規模が大きく複雑であるが故に政治家為政者の能力が必要なのであって 「複雑だから出来ません」なとど言い出す無能なデクノボウが権力を掌握していることこそが社会の諸問題解決にとって最大の障害であり 「社会を複雑」にしている原因でもある

バカの行動はカオス(複雑系)である カオスは制御が困難であり テロリズムや通り魔に対する実効性のある有効な防止策は何もない

テロや通り魔といったカオスなバカが どのようにして出来上がるのか その構造を解明しないことには どんなに「警備を充実」させても無駄なのである

「カオスに陥る構造原理」を解明することによってカオスなバカを減らすことが出来るようになるのであって

「臭いニオイは元から絶たなければダメ」なのである

現状の司法刑罰制度手続きというものは いわば被害者や遺族や大衆に対して刑罰という強烈な香料を嗅がせてごまかしている大衆迎合に過ぎない

その場限りに被害者の「ご冥福をお祈り」しても テロや通り魔が無くなるわけではない

「ご冥福をお祈り」するのは行政の仕事ではないのである



Ende;
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塚谷裕一

2019年12月04日 23時36分42秒 | 意識論関連

東京大学大学院 塚谷裕一は

「トウガラシの実は鳥以外の哺乳類などに食べられると奥歯で種が噛み砕かれることによって発芽することが出来なくなるため トウガラシの辛味は鳥には感度がなく鳥以外の生物に食べられないようにするための戦略」

だと述べていたが

あらゆる生物進化は変異の結果に過ぎず「戦略」などの目的選択は原理的に不可能である

従来生物学界では生物進化に「戦略」や「目的」に則って合理的(意図的)に選択できるかのように形容してきたが これは科学を逸脱した著しい誤謬である

塚谷裕一も含めて多くの生物学者達がこうした誤謬を認識自覚しておらず 科学としての社会的役割を果たしておらず 社会的に極めて無責任である

遺伝的進化に目的や戦略が介在しているなどという大衆観念こそが優生学の論理反証を著しく阻害しており これは障害者差別の大きな要因でもある

東大大学院生達も「学力の高いバカ」しかいないため 塚谷裕一の誤謬に対して一切批判精神も持たず 単位や成績を優先することによって組織的腐敗の構造にもなっているのである

現状の東大大学院というのは「学力成績の高いバカ」を大量生産しているだけであって 社会問題が一向に解決出来ない大きな要因でもある

 

Ende;

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