○行動バイアスと意思。
先天的本能欲望に基づいた行動バイアスを、意識的行動選択として扱うべきではない。
先天的本能欲望が促す行動バイアスは、数億年の生物進化の結果としては、概ね個体の生存や種の保存に適した洗練はされているものの。その行動バイアスがもたらす結果の全てが論理的に絶対に常に個体の生存や種の保存に適する論証はなく。生命史の中で度々起こっている大絶滅からも、先天的本能欲望が促す行動バイアスというものには何の保証もされていないのである。
「目的」選択としての意識とは、あくまでヒトが可能な範囲において論理検証した上での統合的判断であって。大抵の場合、可能でありながらも本能気分的に「やりたくない。」ために、ヒトの多くは本質的意識を持ち得ない。
ヒトという種の生物の脳は、自律的に論理検証を追求するようには出来ておらず。大抵は目先の欲望気分でしか行動が決定することはなく、むしろ先天的には論理検証性が阻害されるようにしか出来ていないのである。
先天的に論理検証を嫌う習性が多くのヒトには存在するからといって、後天的にも論理検証性を拒絶しないようには絶対に出来ないことの証明も存在しないのである。
本能欲望でしか行動が決定しないというのは、本質的な個人の主体的意志選択による「考え」が働いていないからであり。どんなに学力学歴が高くても自律的に社会的責任判断を行わないヒトが多いのは、個人の本質的主体性を無視しているからである。
入試学力ビジネスにとっては、生徒の学力成績や大学合格率は組織の利益と直結しており、生徒個人の本質的主体性に基づく自律的な社会的責任判断力の有無などどうでも良いのである。それが社会的に無責任であることを、多くのヒトは認識していない。
簡潔に言えば、「組織の利益にさえなれば、社会安全性など知ったことではない。」という意味である。
これは東電の原発危険性放置の構造と全く同じである。
現在の進化生物学が、「先天的本能欲望気分による行動バイアス」と「本質的な意識的選択としての意志」を混同することも。自分達の組織体制を維持することで既得権益を守ろうとしているだけであり、構造的には全く同じものである。
ヒトですら自己の行動バイアスから逃れられずに同じような「人災」を繰り返しているにも関わらず、ヒト以外の生物の先天的本能による行動バイアスを、どうして「意思」であると言えるのであろう。
最も根源的な「意思」や「意識」といったものの定義を間違えたまま、生物進化における意識的目的選択についての論証を繰り返しても、論理検証思考を撹乱することはあれ、有効な真理を抽出することには全く至らず、極めて不毛で無責任であると言える。
その場限りの「やる気」を環境依存的にそそのかしておいて。あたかも生徒の自主性を引き出したかのように錯覚するのも、社会的無責任であることに違いはない。
のべつまくなしその場限りの気分本能によって行動変化を繰り返した結果、それが自然淘汰によって洗練されたとしても。あくまで自然淘汰によって洗練される「結果」であって、行動変化自体には個体の主体的「目的」行動選択は全く介在しないばかりでなく、その洗練の「結果」についても、何の安全性や持続可能の保証も存在しないのである。
自然淘汰という「結果」に依らず、個人が主体的に目的行動選択を行うことで「意志」や「意識」と定義可能なのであって。その場限りの行動変化や特定能力の獲得というのは個体の意識的目的行動選択であるとは言えないのである。
Ende;
○phenotypic accommodation genetic accommodation。
如何なる生物の「表現型」が出現しようとも、潜在的に先天的可能性が伴わない限り出現不可能である。
生物の「表現型」というのは、遺伝要因と環境要因によって決定するものであって、「通常の環境」で発現しない「珍しい」表現型であるからといって、遺伝要素を超越して自分自身で自分の形態能力を変化させたことには全くならない。
潜在的な「表現型」というものは、あらゆる環境状況下においてみなければ現状では誰もわからないものであり。未知の「表現型」が多数存在するとしても何ら不思議ではない。また、多数の潜在的「表現型」という能力の余裕を持っていることによって、結果的に進化変化の可能性を持ちうるのであり、「通常の環境」でしか見られない「表現型」だけが遺伝的に決定しているとは限らない。
「通常の環境」では見られない「珍しい」表現型を発現したとしても、それが先天的遺伝要因を超越して個体自身の意識的選択によって発現させたものであるなどという話は。オカルト超能力に過ぎない。
「表現」可能な範囲というものは、自ら選択不可能なものであり、先天的に選択可能な範囲内でしか選択することは出来ないものであって、先天的に可能な範囲そのものを逸脱して「表現型」を獲得することは出来ない。
個体が先天的な可塑性自体を選択することは構造原理的に不可能なのであり、たとえ可塑性が自然選択による淘汰によって固定されることがあるとしても、淘汰という偶発性による選択を介している以上、もはや個体の意図目的選択が介在する余地は一切ない。
たとえ進化変化が促進されたからといって、進化変化の全てが必ずしも種の保存や環境調和に適する保証はなく。どこにも意図意識的選択の余地などない。
前足を失ったヤギが二本脚で立ち上がることを、あたかも「先天的能力を超越した進化だ。」と言い張るのはキチガイ生物学者のオカルト話である。
ヤギが二本脚で立ち上がることは、多数抽出的には「珍しい」ことではあろうが。これは潜在的に獲得可能性を持っていたからこその結果であり、ヤギが先天的に二本脚では絶対に立ち上がることが出来ないことの証明がある訳もなく、あくまで先天的に潜在していた能力である。
どんなにたくさんの「二本脚では立ち上がらない。」事例を抽出枚挙しても、先天的に二本脚では立ち上がることが絶対に不可能であることの論証にはならない。カール:ライムンド:ポパーが論じた「白いスワン。」の例え話と同じで、どんなに「二本脚で立ち上がらないヤギをたくさん集めて来ても、ヤギは先天的に絶対に立ち上がらない。」ことの証明にはならないのである。
後天的学習などで潜在的能力を発揮する可能性を多数持っていたとしても、用がなければ発揮する必要性もなく、潜在能力のままである。
生物は潜在的に獲得可能な能力の全てを獲得する必要性はなく、必要に応じて必要な能力を獲得する以上は無駄であり。潜在的にどのような能力をどの程度獲得するのかは、状況や環境の条件によって異なるのは当たり前である。
通常4本脚で生活する生物が、後ろ脚だけで立ち上がることは実際にはそんなに珍しいことではなく、最近YouTubeでは猫が立ち上がる動画は大量に掲載されており、猫以外でも様々な4足歩行動物による立ち上がり事例というのは観測されている。
特定個体が他の多数の個体が発揮しない「珍しい」能力を獲得したとしても、それが先天的遺伝要素自体を能動的に変化させることにはならず、結局は環境依存的に淘汰されることでしか進化変化は生じず、決して能動的変化を意識的に選択したことにはならない。
潜在的に珍しい能力を獲得したからといって、それが短絡的に「個体の意思的選択」によるものであるとは言えない。
「行動進化」などという言葉も作り出されているが、遺伝的要素に影響がない以上、遺伝的には進化しておらず、生物「種」としての進化にはなっておらず、偶発的必然結果でこそあれ、その偶発性に当人の意図選択が介在する余地はなく、あくまで環境依存的結果論の一部に過ぎない。それはすなはち、環境依存的な自然淘汰の一部に過ぎないのである。
phenotypic accommodationというのは先天的能力の淘汰過程の一形態に過ぎず、何ら個体の意図的進化選択の論証には全くならない。
如何なる進化変化も、結果的に自然淘汰を介している以上、そこには個体の意図意識的選択が介在する余地はない。
ヤギの欲望であれ、ヒトの欲望であれ、先天的に決定している大脳辺縁系が促す行動バイアス自体には、社会持続可能性や安全性の保証など全くないのである。ヒトの大脳辺縁系というのは神が創り賜うた絶対優位性など存在せず、単に祖先のサルから受け継いだだけの本能習性という「結果」以上の意味は存在しない。
たとえば、チーターがどんなに速く走ったとしても、それは先天的に獲得可能であったからこその結果であって、所詮は先天的獲得可能性の上での淘汰の結果であり、どんなに外見上「突出」した能力であっても先天的獲得可能性の範囲から逸脱することにはならない。外見上の「突出」性に意識を奪われ、論理的根拠を無視した観念に囚われておいて、科学もすったくれもあったものではない。
そもそも先天的であれ遺伝要素の変異のほとんどは生存に適さず、どんなに後天的に「珍しい」能力を獲得しても能動的に自己の遺伝要素を選択することには構造原理的にはならず。「生存戦略」などという観念の正当化にもならない。
phenotypic accommodationによる遺伝要素を超越した進化仮説というのは従来の生物学上の「生存戦略」という観念を温存し、従来の生物学の体制を維持するための言い逃れや思考撹乱に過ぎない。本来構造原理的に解りきっている話を「わからない。」と言い張るのは、単に論理検証が出来ないただのバカである。
どんなに進化生物学者達の間で盛んに取り沙汰されても、論理的根拠がない以上科学的論証には全くならず。所謂「ハーメルンの笛吹。」につられているバカ生物学者達による大衆観念的「バカ騒ぎ」に過ぎない。
振り込め詐欺師が、どんなに突出した詐欺能力を後天的に獲得したとしても。これをヒトという種の生物の「進化」として短絡的に解釈するのは、あまりに断片的論証に過ぎず、ヒトという種の行動進化としても認めるわけにはいかない。なぜなら行動変化の全てが必ずしも種の保存や環境調和に適するわけではなく、たとえ偶発的に適したとしても偶発性に依存している点において意図意識的選択が介在していないからである。
後天的にどんなに特殊で珍しく突出した能力を獲得したとしても、その能力の全てが種の保存や生存に絶対的に適することの論証にはならず。あくまでその場限りの個体生存価の論証くらいにしかならない。
個体生存価だけを断片的に取り上げている限り、種全体の環境調和性を無視した論証に過ぎず、本質的には「生存価」にすら適することの証明にもなっていないのである。
食物連鎖の頂点に属する生物の多くが無駄な繁殖力を持たないのも、無駄に繁殖すれば環境との調和が取れずに結果的に淘汰された結果である。断片的に「特定能力さえ高ければ生物として高等だ。」などと言い張るのは、あまりにバカげた大衆観念であり、科学的論証をパスした、科学としての社会的役割や責任を放棄した「バカの論証」である。
それとも進化生物学者達は自分自身の遺伝要素を素手で自由に変化させられるとでも言うのであろうか。そんなオカルトを鵜呑みにしている時点で、もはや科学の領域を激しく逸脱している。
自分の遺伝要素は誰も自分では選択不可能なものであり、自然選択の「結果」以上の何物でもない。
生物学上の進化というものは、あくまで変化の結果論以上の意味を持たず。どんなに観念的で断片的な論証を繰り返しても、意識的目的選択性を抽出することは構造原理的に不可能なのであり。「生存戦略」という観念の正当化は研究費の浪費という迷惑行為の温存にしか供さない。
こんな話は本来生物学者自身が自律的に検証すべきことであって、自律的に何も検証しないからこそ不毛な無駄遣いがなくならないのであり、結果的であれ体制腐敗を招いているのである。
体制腐敗や洗脳といったものは、無意識の産物であり。論理検証性の欠落に起因するものである。当人達が「自分達は腐敗なぞしていない。」とどんなに強く主張したとしても、そんなものは酔っ払いが「俺は酔っ払ってなんかいねぇ。」と言い張っているのと同じである。
科学とは、本来論理検証性によって論理的根拠のない観念からの脱構築性を持っているからこその存在価値であり。論理的検証性を持たない現在の生物学には社会的な存在価値が全くないのである。
どんなにチンパンジーに珍しい芸をさせたとしても、東電社員達が原発の危険性を放置した原因の解明には全くつながらないのは明白である。その場限りにのらりくらりと言い逃れを繰り返す現在の進化生物学というのは、自分達の体制維持だけを目的とした詐欺行為の温存に他ならない。
むしろ、現在の進化生物学界のこうした論理検証性の欠落による組織腐敗性こそが、東電原発の危険性放置の原因と同根であると言える。
「意識=気分感情の強度」という文科系大衆観念的錯覚を、錯覚として認識していないからこそ、本質的意識である「統合的な論理検証性」を喪失するのである。
理性とは、純粋には人畜無害のただの論理性に過ぎない。論理性は何も「欲求」することはなく、なにがしか「欲求」するのは本能感情である。一個のヒトの中には様々な価値観や感情があり、大脳辺縁系はその感情の強度だけで行動が決定するように出来ている。人間性とは、先天的に組み込まれた本能的行動バイアスである感情強度に流されることなく、論理検証的に最も大切であると選択した価値観に基づいて行動することである。
人格とは、性格だの外見的キャラクターを指すのではなく、自律的に社会的責任判断を行うかどうかを指すのである。先天的、或は環境依存的な行動バイアスとしての性格自体は、人格そのものを証明しない。
どんなに外見上冷静そうに見えようが、品行方正そうに見えようが、「見える。」などという観念には意味がない。なぜなら文科系大衆観念に基づいたアプリオリな錯覚に過ぎない場合がほとんどだからである。特に権威性に対してはヒトの多くは権威性バイアスがかかり、アイヒマン実験などに簡単に引っ掛かる習性がある。故の振り込め詐欺でもある。
プラトンだのニーチェが論理的根拠がない不毛な文科系大衆観念に過ぎないことを一切論じない現在の学術「哲学者」というのは、実際には気分感情を満足させるだけで何も「考え」検証することをしない大衆迎合的ペテン師集団に過ぎない。生物学上の「社会性」には人間としての自律的な社会的責任判断が伴わないことや、司法刑罰というものには犯罪の根源的原因究明性が欠如していることにも全く言及していないのが現在の哲学界の実態である。当然生物学が実証不能の観念を振り回していようとも、何の検証も批判もしない。危険工学的にヒトの危険性というものにも全く言及せず、論理的根拠のない観念を組織内部の多数で共有して安心満足しているだけのオカルト集団に過ぎないことを、同じ文科系マスコミは一切指摘することも出来ない。
「髪の毛を染めたから、ヒトも変態する。」的な全く不毛な観念で大衆の脳を撹乱させておいて、哲学としての社会的役割を果たせる訳がない。何が本当の哲学なのかを論理的に検証しないことには、哲学としての社会的役割は失われたままであり、当然社会安全性や持続可能性といった議論に対しても撹乱するだけで一向に進展を促さない。
社会安全性や持続可能性についての議論を撹乱しておいて、何ら有効な意見を持たない現在の哲学界というものは。体制維持のためだけの組織腐敗による税金の無駄遣いのみならず、社会にとって最も重要な議論を撹乱する犯罪行為でもある。
理工学系の研究者の多くは、哲学や生物学の非論理性に呆れて何も言及したがらないが。「呆れる。」という気分感情で無責任性を放置することもまた、無責任に加担しているのと同罪である。
Ende;
如何なる生物の「表現型」が出現しようとも、潜在的に先天的可能性が伴わない限り出現不可能である。
生物の「表現型」というのは、遺伝要因と環境要因によって決定するものであって、「通常の環境」で発現しない「珍しい」表現型であるからといって、遺伝要素を超越して自分自身で自分の形態能力を変化させたことには全くならない。
潜在的な「表現型」というものは、あらゆる環境状況下においてみなければ現状では誰もわからないものであり。未知の「表現型」が多数存在するとしても何ら不思議ではない。また、多数の潜在的「表現型」という能力の余裕を持っていることによって、結果的に進化変化の可能性を持ちうるのであり、「通常の環境」でしか見られない「表現型」だけが遺伝的に決定しているとは限らない。
「通常の環境」では見られない「珍しい」表現型を発現したとしても、それが先天的遺伝要因を超越して個体自身の意識的選択によって発現させたものであるなどという話は。オカルト超能力に過ぎない。
「表現」可能な範囲というものは、自ら選択不可能なものであり、先天的に選択可能な範囲内でしか選択することは出来ないものであって、先天的に可能な範囲そのものを逸脱して「表現型」を獲得することは出来ない。
個体が先天的な可塑性自体を選択することは構造原理的に不可能なのであり、たとえ可塑性が自然選択による淘汰によって固定されることがあるとしても、淘汰という偶発性による選択を介している以上、もはや個体の意図目的選択が介在する余地は一切ない。
たとえ進化変化が促進されたからといって、進化変化の全てが必ずしも種の保存や環境調和に適する保証はなく。どこにも意図意識的選択の余地などない。
前足を失ったヤギが二本脚で立ち上がることを、あたかも「先天的能力を超越した進化だ。」と言い張るのはキチガイ生物学者のオカルト話である。
ヤギが二本脚で立ち上がることは、多数抽出的には「珍しい」ことではあろうが。これは潜在的に獲得可能性を持っていたからこその結果であり、ヤギが先天的に二本脚では絶対に立ち上がることが出来ないことの証明がある訳もなく、あくまで先天的に潜在していた能力である。
どんなにたくさんの「二本脚では立ち上がらない。」事例を抽出枚挙しても、先天的に二本脚では立ち上がることが絶対に不可能であることの論証にはならない。カール:ライムンド:ポパーが論じた「白いスワン。」の例え話と同じで、どんなに「二本脚で立ち上がらないヤギをたくさん集めて来ても、ヤギは先天的に絶対に立ち上がらない。」ことの証明にはならないのである。
後天的学習などで潜在的能力を発揮する可能性を多数持っていたとしても、用がなければ発揮する必要性もなく、潜在能力のままである。
生物は潜在的に獲得可能な能力の全てを獲得する必要性はなく、必要に応じて必要な能力を獲得する以上は無駄であり。潜在的にどのような能力をどの程度獲得するのかは、状況や環境の条件によって異なるのは当たり前である。
通常4本脚で生活する生物が、後ろ脚だけで立ち上がることは実際にはそんなに珍しいことではなく、最近YouTubeでは猫が立ち上がる動画は大量に掲載されており、猫以外でも様々な4足歩行動物による立ち上がり事例というのは観測されている。
特定個体が他の多数の個体が発揮しない「珍しい」能力を獲得したとしても、それが先天的遺伝要素自体を能動的に変化させることにはならず、結局は環境依存的に淘汰されることでしか進化変化は生じず、決して能動的変化を意識的に選択したことにはならない。
潜在的に珍しい能力を獲得したからといって、それが短絡的に「個体の意思的選択」によるものであるとは言えない。
「行動進化」などという言葉も作り出されているが、遺伝的要素に影響がない以上、遺伝的には進化しておらず、生物「種」としての進化にはなっておらず、偶発的必然結果でこそあれ、その偶発性に当人の意図選択が介在する余地はなく、あくまで環境依存的結果論の一部に過ぎない。それはすなはち、環境依存的な自然淘汰の一部に過ぎないのである。
phenotypic accommodationというのは先天的能力の淘汰過程の一形態に過ぎず、何ら個体の意図的進化選択の論証には全くならない。
如何なる進化変化も、結果的に自然淘汰を介している以上、そこには個体の意図意識的選択が介在する余地はない。
ヤギの欲望であれ、ヒトの欲望であれ、先天的に決定している大脳辺縁系が促す行動バイアス自体には、社会持続可能性や安全性の保証など全くないのである。ヒトの大脳辺縁系というのは神が創り賜うた絶対優位性など存在せず、単に祖先のサルから受け継いだだけの本能習性という「結果」以上の意味は存在しない。
たとえば、チーターがどんなに速く走ったとしても、それは先天的に獲得可能であったからこその結果であって、所詮は先天的獲得可能性の上での淘汰の結果であり、どんなに外見上「突出」した能力であっても先天的獲得可能性の範囲から逸脱することにはならない。外見上の「突出」性に意識を奪われ、論理的根拠を無視した観念に囚われておいて、科学もすったくれもあったものではない。
そもそも先天的であれ遺伝要素の変異のほとんどは生存に適さず、どんなに後天的に「珍しい」能力を獲得しても能動的に自己の遺伝要素を選択することには構造原理的にはならず。「生存戦略」などという観念の正当化にもならない。
phenotypic accommodationによる遺伝要素を超越した進化仮説というのは従来の生物学上の「生存戦略」という観念を温存し、従来の生物学の体制を維持するための言い逃れや思考撹乱に過ぎない。本来構造原理的に解りきっている話を「わからない。」と言い張るのは、単に論理検証が出来ないただのバカである。
どんなに進化生物学者達の間で盛んに取り沙汰されても、論理的根拠がない以上科学的論証には全くならず。所謂「ハーメルンの笛吹。」につられているバカ生物学者達による大衆観念的「バカ騒ぎ」に過ぎない。
振り込め詐欺師が、どんなに突出した詐欺能力を後天的に獲得したとしても。これをヒトという種の生物の「進化」として短絡的に解釈するのは、あまりに断片的論証に過ぎず、ヒトという種の行動進化としても認めるわけにはいかない。なぜなら行動変化の全てが必ずしも種の保存や環境調和に適するわけではなく、たとえ偶発的に適したとしても偶発性に依存している点において意図意識的選択が介在していないからである。
後天的にどんなに特殊で珍しく突出した能力を獲得したとしても、その能力の全てが種の保存や生存に絶対的に適することの論証にはならず。あくまでその場限りの個体生存価の論証くらいにしかならない。
個体生存価だけを断片的に取り上げている限り、種全体の環境調和性を無視した論証に過ぎず、本質的には「生存価」にすら適することの証明にもなっていないのである。
食物連鎖の頂点に属する生物の多くが無駄な繁殖力を持たないのも、無駄に繁殖すれば環境との調和が取れずに結果的に淘汰された結果である。断片的に「特定能力さえ高ければ生物として高等だ。」などと言い張るのは、あまりにバカげた大衆観念であり、科学的論証をパスした、科学としての社会的役割や責任を放棄した「バカの論証」である。
それとも進化生物学者達は自分自身の遺伝要素を素手で自由に変化させられるとでも言うのであろうか。そんなオカルトを鵜呑みにしている時点で、もはや科学の領域を激しく逸脱している。
自分の遺伝要素は誰も自分では選択不可能なものであり、自然選択の「結果」以上の何物でもない。
生物学上の進化というものは、あくまで変化の結果論以上の意味を持たず。どんなに観念的で断片的な論証を繰り返しても、意識的目的選択性を抽出することは構造原理的に不可能なのであり。「生存戦略」という観念の正当化は研究費の浪費という迷惑行為の温存にしか供さない。
こんな話は本来生物学者自身が自律的に検証すべきことであって、自律的に何も検証しないからこそ不毛な無駄遣いがなくならないのであり、結果的であれ体制腐敗を招いているのである。
体制腐敗や洗脳といったものは、無意識の産物であり。論理検証性の欠落に起因するものである。当人達が「自分達は腐敗なぞしていない。」とどんなに強く主張したとしても、そんなものは酔っ払いが「俺は酔っ払ってなんかいねぇ。」と言い張っているのと同じである。
科学とは、本来論理検証性によって論理的根拠のない観念からの脱構築性を持っているからこその存在価値であり。論理的検証性を持たない現在の生物学には社会的な存在価値が全くないのである。
どんなにチンパンジーに珍しい芸をさせたとしても、東電社員達が原発の危険性を放置した原因の解明には全くつながらないのは明白である。その場限りにのらりくらりと言い逃れを繰り返す現在の進化生物学というのは、自分達の体制維持だけを目的とした詐欺行為の温存に他ならない。
むしろ、現在の進化生物学界のこうした論理検証性の欠落による組織腐敗性こそが、東電原発の危険性放置の原因と同根であると言える。
「意識=気分感情の強度」という文科系大衆観念的錯覚を、錯覚として認識していないからこそ、本質的意識である「統合的な論理検証性」を喪失するのである。
理性とは、純粋には人畜無害のただの論理性に過ぎない。論理性は何も「欲求」することはなく、なにがしか「欲求」するのは本能感情である。一個のヒトの中には様々な価値観や感情があり、大脳辺縁系はその感情の強度だけで行動が決定するように出来ている。人間性とは、先天的に組み込まれた本能的行動バイアスである感情強度に流されることなく、論理検証的に最も大切であると選択した価値観に基づいて行動することである。
人格とは、性格だの外見的キャラクターを指すのではなく、自律的に社会的責任判断を行うかどうかを指すのである。先天的、或は環境依存的な行動バイアスとしての性格自体は、人格そのものを証明しない。
どんなに外見上冷静そうに見えようが、品行方正そうに見えようが、「見える。」などという観念には意味がない。なぜなら文科系大衆観念に基づいたアプリオリな錯覚に過ぎない場合がほとんどだからである。特に権威性に対してはヒトの多くは権威性バイアスがかかり、アイヒマン実験などに簡単に引っ掛かる習性がある。故の振り込め詐欺でもある。
プラトンだのニーチェが論理的根拠がない不毛な文科系大衆観念に過ぎないことを一切論じない現在の学術「哲学者」というのは、実際には気分感情を満足させるだけで何も「考え」検証することをしない大衆迎合的ペテン師集団に過ぎない。生物学上の「社会性」には人間としての自律的な社会的責任判断が伴わないことや、司法刑罰というものには犯罪の根源的原因究明性が欠如していることにも全く言及していないのが現在の哲学界の実態である。当然生物学が実証不能の観念を振り回していようとも、何の検証も批判もしない。危険工学的にヒトの危険性というものにも全く言及せず、論理的根拠のない観念を組織内部の多数で共有して安心満足しているだけのオカルト集団に過ぎないことを、同じ文科系マスコミは一切指摘することも出来ない。
「髪の毛を染めたから、ヒトも変態する。」的な全く不毛な観念で大衆の脳を撹乱させておいて、哲学としての社会的役割を果たせる訳がない。何が本当の哲学なのかを論理的に検証しないことには、哲学としての社会的役割は失われたままであり、当然社会安全性や持続可能性といった議論に対しても撹乱するだけで一向に進展を促さない。
社会安全性や持続可能性についての議論を撹乱しておいて、何ら有効な意見を持たない現在の哲学界というものは。体制維持のためだけの組織腐敗による税金の無駄遣いのみならず、社会にとって最も重要な議論を撹乱する犯罪行為でもある。
理工学系の研究者の多くは、哲学や生物学の非論理性に呆れて何も言及したがらないが。「呆れる。」という気分感情で無責任性を放置することもまた、無責任に加担しているのと同罪である。
Ende;
○どんなに「反省」しても自律的な社会的責任判断力の保証にはなりません。
その場限りに反省している風味を装うことは簡単である。演技でなくても、単にその場限りの気分で反省しているだけなら、反省を促されないと反省もしないし、自律的に責任判断も行わない。
糞チンピラが下手くそなパラパラ漫画に感動するのと同様、その場限りに「反省」しても自律判断力の証明には全くならない。
外見上その場限りに反省している風味、後悔している風味を醸し出していれば、バカな大人は短絡的に「反省しているから大丈夫、安心だ。」と錯覚するであろうが。これこそが典型的な文科系大衆観念である。
その場限りの気分感情が行動に直結している短絡性こそが、自律的責任判断の喪失原因であって、騙されている大人の方も無責任であり、同罪である。
「バカガキが反省しているから、赦してやろう。」などというその場限りの気分だけで判断していることもまた、バカヲヤヂの無責任性を作り出しているのであり、バカである点において全く同じである。
その場限りの気分的安心と、論理的安全性を履き違えていることは、社会的無責任というものである。
こういった文科系大衆観念に基づいた、論理的根拠のない身勝手な解釈による無責任な判断をしているからこそ、社会全体から安全性が失われることに陥るのである。
「気分感情=心」などという短絡的で安易な観念を鵜呑みにしているからこそ、「反省=人間性」などという身勝手な判断をすることに陥るのである。
気分的に「赦してやる。」というのは、論理的根拠のない個人の主観的観念に過ぎず。個人の主観的判断を、あたかも社会的価値として扱っている時点で、とんでもないペテンと言う他ない。
Ende;
その場限りに反省している風味を装うことは簡単である。演技でなくても、単にその場限りの気分で反省しているだけなら、反省を促されないと反省もしないし、自律的に責任判断も行わない。
糞チンピラが下手くそなパラパラ漫画に感動するのと同様、その場限りに「反省」しても自律判断力の証明には全くならない。
外見上その場限りに反省している風味、後悔している風味を醸し出していれば、バカな大人は短絡的に「反省しているから大丈夫、安心だ。」と錯覚するであろうが。これこそが典型的な文科系大衆観念である。
その場限りの気分感情が行動に直結している短絡性こそが、自律的責任判断の喪失原因であって、騙されている大人の方も無責任であり、同罪である。
「バカガキが反省しているから、赦してやろう。」などというその場限りの気分だけで判断していることもまた、バカヲヤヂの無責任性を作り出しているのであり、バカである点において全く同じである。
その場限りの気分的安心と、論理的安全性を履き違えていることは、社会的無責任というものである。
こういった文科系大衆観念に基づいた、論理的根拠のない身勝手な解釈による無責任な判断をしているからこそ、社会全体から安全性が失われることに陥るのである。
「気分感情=心」などという短絡的で安易な観念を鵜呑みにしているからこそ、「反省=人間性」などという身勝手な判断をすることに陥るのである。
気分的に「赦してやる。」というのは、論理的根拠のない個人の主観的観念に過ぎず。個人の主観的判断を、あたかも社会的価値として扱っている時点で、とんでもないペテンと言う他ない。
Ende;
○取れない責任。
福島第一原発における汚染水漏洩対策の不備隠蔽というものは、精神論的な努力辛抱根性だけで全てを解決しようとする強迫観念が働いているためである。
東電社員達が「万全を尽くしている。」などと言い張るのは、あくまで「自分達の可能な範囲において万全を尽くしている。」に過ぎず。客観的に見ればちいとも「万全」ではない。
出来ないことがあるならば、「これこれこういった理由で出来ません。」と正直に申告すれば良いのだが。自分達だけで
全ての責任を全うしなければならないという強迫観念が働いているため、取れもしない責任を取ろうとすることに陥るのである。
事故当時もそうなのだが、何が起きていて、何が欲しいのかを公開すれば、高価な圧送機だって供与してもらえたのであり。汚染水漏洩現場の実態を公開することで民間から広くアイデアや資材を提供して貰える可能性は高い。
オリンピック招致する金があるなら、汚染水漏洩や廃炉に回すべきであり。優先順位が明らかにおかしい。
「希望」だとか「勇気」なんてものは、社会安全性が確保された上での「気分の問題」であって、汚染水漏洩問題が解決しないのに気分だけ安心満足しようとするのは現実逃避に他ならない。
ぶっちゃけ、福島第一原発問題というのは、もはやウンザリしていて言及する気が起きない。
これは沖縄の米軍基地問題も、北朝鮮による拉致問題も、あまりに長引くと気分的には面倒臭くて考える気が起きなくなる。
もちろん、これらはヒトという種の生物における習性に他ならないので、意識的に回避するべきことではある。
ヒトは永く続くことは、永遠に続くものであると錯覚しがちな傾向があるので、諦めて対策など考えない方が気分的には楽になれる。
こうした気分的バイアスこそが、ヒトから論理検証性を喪失させ、思考停止へと導くのである。
原子力規制委員としては、いちいち東電の問題点を指摘するのは面倒臭いことかも知れないが。ありていに言って現場で日々対応している職員達の方がもっとウンザリしているに違いない。
廃炉対策などというものには希望がない。
日本の技術力というものは、そこに希望とか未来があるからこその安全性へのモチベーション(自発性)が働くのであって。日本の科学技術力の全てが常に安全性の高さを発揮するという短絡的なものではない。
原発関係者達の多くは、「事故を踏まえて安全性を高める。」などと言い張るが、政府の規制委員会が入るまで汚染水問題すら進展しないというのは、原発関係者達の多くが何ら具体的に安全性を高めるための対策に関わっていない証拠である。
要するに、その場しのぎの「嘘」だったのである。
原発再稼動問題において、やたらと取り沙汰される「国際競争力」であるが。バブル期に国際的に金儲けが出来ていた時代に日本人が幸福だったかと言えば、地上げ屋達による暴力が蔓延っていたのであり、バカ騒ぎで浮かれていただけに過ぎない。
金儲けによる国際競争力と、社会の幸福には相関関係がないのである。
幸福だと「感じない。」のは、物質的豊かさへの過剰な欲求がもたらすものであって。物質的豊かさ自体に問題があるのではなく、物質的にしか豊かさを求められない精神的貧困こそが問題なのである。
脳が餓えていれば、どんなに大量の食物を摂取しても満足することはない。
例えば、満腹中枢に障害が起きて、どんなに食べ物を食べても気分的に満足しない状態であるならば。食べ物を増やすことよりも、満腹中枢の障害を取り除くことの方が先である。
そんなことは臨床だって当然の処置である。
その「満腹中枢の障害」こそが、文科系大衆観念に基づいた強迫観念的価値観に由来するものなのである。
「国際競争力を持たなければならない。」ことの、合理的根拠は何処にも存在しない。
何でもかんでも金で解決しようとする精神的貧困こそが、ヒトを無意味な暴走へと駆り立てるのである。
年寄りから仕事を奪い、子供から希望を奪い、目先の他人との比較による物質的豊かさを追い求めた先に一体どういう未来があるのかを、多くのヒトは「考え」ない。
何も考えなくても法律上は罪にはならない、愚かであることは法手続き上は犯罪ではない。しかし、法律というものが何かを保証してくれるという論理的根拠なんぞ一切ないのである。
事実、現状の司法裁判システムというものは、犯罪というものの根源的原因究明にも再発防止策にもつながらない。
「法律さえ守らせておけば、あらゆる問題は解決する。」などと思っているのであれば、これはキチガイの妄想に他ならない。
誰も法律に違反などしていないにも関わらず、原発は暴走したのである。
「これさえやっときゃ、全ての問題は解決する。」などという観念は、要するに考えるのが面倒臭いから短絡的方法論への依存が生じるのであって。バカ特有の思考パタンである。
バカがバカたりうる所以とは、自律的に論理検証するという「考え」が働いないからである。
司法関係者のほとんど全員は、法律さえ守らせておけば全ての問題は解決するものであると妄想している。これは原発関係者達が原発さえ稼動しておけば国際競争力が担保出来ると妄想しているのと同じ意識狭窄性と同根である。
経済学者の多くも、個人が世間的に成功しておきさえすれば、全ての問題が解決すると妄想しており。こうした観念を利用することによって、「個人の世間的成功。」ばかりが人類共通の目的であるかの如く錯覚されるように誘導しているのである。
妄想による誘導であれば、誘導している当人には罪の意識はない。だから無意識な暴走破綻を促すのであり、洗脳なのである。
罪の意識がなければ、当然責任を取るつもりもない。
Ende;
福島第一原発における汚染水漏洩対策の不備隠蔽というものは、精神論的な努力辛抱根性だけで全てを解決しようとする強迫観念が働いているためである。
東電社員達が「万全を尽くしている。」などと言い張るのは、あくまで「自分達の可能な範囲において万全を尽くしている。」に過ぎず。客観的に見ればちいとも「万全」ではない。
出来ないことがあるならば、「これこれこういった理由で出来ません。」と正直に申告すれば良いのだが。自分達だけで
全ての責任を全うしなければならないという強迫観念が働いているため、取れもしない責任を取ろうとすることに陥るのである。
事故当時もそうなのだが、何が起きていて、何が欲しいのかを公開すれば、高価な圧送機だって供与してもらえたのであり。汚染水漏洩現場の実態を公開することで民間から広くアイデアや資材を提供して貰える可能性は高い。
オリンピック招致する金があるなら、汚染水漏洩や廃炉に回すべきであり。優先順位が明らかにおかしい。
「希望」だとか「勇気」なんてものは、社会安全性が確保された上での「気分の問題」であって、汚染水漏洩問題が解決しないのに気分だけ安心満足しようとするのは現実逃避に他ならない。
ぶっちゃけ、福島第一原発問題というのは、もはやウンザリしていて言及する気が起きない。
これは沖縄の米軍基地問題も、北朝鮮による拉致問題も、あまりに長引くと気分的には面倒臭くて考える気が起きなくなる。
もちろん、これらはヒトという種の生物における習性に他ならないので、意識的に回避するべきことではある。
ヒトは永く続くことは、永遠に続くものであると錯覚しがちな傾向があるので、諦めて対策など考えない方が気分的には楽になれる。
こうした気分的バイアスこそが、ヒトから論理検証性を喪失させ、思考停止へと導くのである。
原子力規制委員としては、いちいち東電の問題点を指摘するのは面倒臭いことかも知れないが。ありていに言って現場で日々対応している職員達の方がもっとウンザリしているに違いない。
廃炉対策などというものには希望がない。
日本の技術力というものは、そこに希望とか未来があるからこその安全性へのモチベーション(自発性)が働くのであって。日本の科学技術力の全てが常に安全性の高さを発揮するという短絡的なものではない。
原発関係者達の多くは、「事故を踏まえて安全性を高める。」などと言い張るが、政府の規制委員会が入るまで汚染水問題すら進展しないというのは、原発関係者達の多くが何ら具体的に安全性を高めるための対策に関わっていない証拠である。
要するに、その場しのぎの「嘘」だったのである。
原発再稼動問題において、やたらと取り沙汰される「国際競争力」であるが。バブル期に国際的に金儲けが出来ていた時代に日本人が幸福だったかと言えば、地上げ屋達による暴力が蔓延っていたのであり、バカ騒ぎで浮かれていただけに過ぎない。
金儲けによる国際競争力と、社会の幸福には相関関係がないのである。
幸福だと「感じない。」のは、物質的豊かさへの過剰な欲求がもたらすものであって。物質的豊かさ自体に問題があるのではなく、物質的にしか豊かさを求められない精神的貧困こそが問題なのである。
脳が餓えていれば、どんなに大量の食物を摂取しても満足することはない。
例えば、満腹中枢に障害が起きて、どんなに食べ物を食べても気分的に満足しない状態であるならば。食べ物を増やすことよりも、満腹中枢の障害を取り除くことの方が先である。
そんなことは臨床だって当然の処置である。
その「満腹中枢の障害」こそが、文科系大衆観念に基づいた強迫観念的価値観に由来するものなのである。
「国際競争力を持たなければならない。」ことの、合理的根拠は何処にも存在しない。
何でもかんでも金で解決しようとする精神的貧困こそが、ヒトを無意味な暴走へと駆り立てるのである。
年寄りから仕事を奪い、子供から希望を奪い、目先の他人との比較による物質的豊かさを追い求めた先に一体どういう未来があるのかを、多くのヒトは「考え」ない。
何も考えなくても法律上は罪にはならない、愚かであることは法手続き上は犯罪ではない。しかし、法律というものが何かを保証してくれるという論理的根拠なんぞ一切ないのである。
事実、現状の司法裁判システムというものは、犯罪というものの根源的原因究明にも再発防止策にもつながらない。
「法律さえ守らせておけば、あらゆる問題は解決する。」などと思っているのであれば、これはキチガイの妄想に他ならない。
誰も法律に違反などしていないにも関わらず、原発は暴走したのである。
「これさえやっときゃ、全ての問題は解決する。」などという観念は、要するに考えるのが面倒臭いから短絡的方法論への依存が生じるのであって。バカ特有の思考パタンである。
バカがバカたりうる所以とは、自律的に論理検証するという「考え」が働いないからである。
司法関係者のほとんど全員は、法律さえ守らせておけば全ての問題は解決するものであると妄想している。これは原発関係者達が原発さえ稼動しておけば国際競争力が担保出来ると妄想しているのと同じ意識狭窄性と同根である。
経済学者の多くも、個人が世間的に成功しておきさえすれば、全ての問題が解決すると妄想しており。こうした観念を利用することによって、「個人の世間的成功。」ばかりが人類共通の目的であるかの如く錯覚されるように誘導しているのである。
妄想による誘導であれば、誘導している当人には罪の意識はない。だから無意識な暴走破綻を促すのであり、洗脳なのである。
罪の意識がなければ、当然責任を取るつもりもない。
Ende;
○環境依存的意欲。
「友達」と称して、半ば強制的に集められたクラスメート同士での信頼関係には、本質的には個人の選択が介在していない。
教師が求めるカリキュラムにも、生徒の選択は介在しない。
こうした状況下において、どんなに生徒同士の信頼関係を教師が作り出しても、あくまで環境依存的「結果」以上の何も導き出されることはない。教師が作り出していること自体が環境依存性の根源であり、生徒の環境依存性自体には何も影響を与えておらず、自律的な社会的責任判断能力の獲得にはつながらない。
その場限りの目先の多数派に迎合するからこそ、東電内部では原発の危険性が放置されたのであり。こうした仲間内での信頼関係というのは、仲間以外との社会全体への配慮意識を喪失する要因ともなりうる。
振り込め詐欺師集団というのも、結局は仲間内での信頼関係によって作り出されるものであり。ナチズムもシエラレオネの少年ゲリラもソマリアの民族浄化も同様である。
こうした本能的な社会形成習性を、環境依存的に発揮させて安心満足するというのは、大人教師の勝手な自己満足に他ならない。
そもそも「成功体験」に依存しているからこそ、失敗を拒絶するようになるのであり。失敗を恐れず多数派に迎合せず物事に向き合う本質的自主性こそが、自律的な社会的責任判断の源であって。「成功体験」なんぞに依存しているからこそ、社会が崩壊に向かうのである。
コロンビア大学のシーナ:アイエンガーの講義も、結局は個人的「成功」だの「自分の幸福。」ばかりを基準にした話しかしておらず。本質的な人間性について何も考慮していない大衆迎合に過ぎない。
アイエンガーの言っていることには論理整合性がなく、「かも知れません。」という予測ばかりが陳列されており、何ら論理的根拠のある証明がされておらず、内容のほとんどが占い師レベルの大衆迎合である。
一方では「多くの人が失敗したことは成功しない」と決め付け、その一方では「成功者の多くは失敗にめげずに挑戦し続けることで成功した。」などと、その場限りの結果論を陳列しているだけであり。要するに統計的根拠も論理的根拠もアイエンガーは持ち合わせていないのである。こんなあやふやな話で満足しているコロンビア大学生達というのは、ほとんどバカの集団としか言いようがない。
「理性=10年後の幸福。」「直感=目先の幸福。」などという規定についても論理的根拠はなく。アイエンガーの勝手な観念論に他ならない。純粋な理性は何も「欲求」することはなく、「10年」という時間にも論理的根拠は全くない。100年千年先のことまで考慮してこその人間性であり哲学と言えるが、「10年」しか考慮に入れない時点でその場限りの話でしかなく、論理的普遍性を持たない大衆迎合に過ぎない。
ベンヤミンがナチズムを批判した結果、それが原因で不幸を招いたのであり。地動説を唱えたガリレオが火炙りにされそうになったことを、どうして「理性=10年後の幸福」などと規定可能であろう。
「哲学ではなく経済学だから、目先の利益だけ考慮に入れておいても構わない。」などという話には全くならない。それは無責任以外の何物でもないからだ。
身勝手な規定に基づいて、「これさえやっときゃ、世間的に成功する。」的大衆観念を披露しておけば、バカな大学生の脳を安心満足させておくのは簡単である。
アイエンガーの講義には、個人の自律的な社会的責任判断についての配慮が全く伴っておらず、思考停止によって社会を破綻に導く無意識洗脳に他ならない。
ヒトという種の生物の多くは、精々数年程度の個人の利己的利益こそが絶対的価値であるとしか考慮意識に入れることが出来ない傾向があるが。自分が死んだ後の世界全体にまで考慮に入れることが絶対に不可能であることの論理的根拠は存在しない。
多くのヒトは、こう反論したがるであろう、「だって、自分が生きるだけで精一杯だから、仕方ない。」と。
「仕方ない。」というのは、「他に選択の余地が絶対に存在し得ない。」ことの論証であろうか。それなら原発の危険性を放置した東電社員達を糾弾する権利がどこにあろう。あらゆる危険性「人災」を放置した責任が、「自分が利己的に生存するため。」であると称して正当化しているからこそ、具体的犯罪防止策を持たない司法行政のような不毛な公金の無駄遣いすらも無くならないのである。
失敗を教訓へと変えるためには、まず失敗そのものの根源的原因を認識し、自らの過ちを認識しなければならない。自分だけは社会的責任判断をせずに、他人にばかり責任をなすりつけるのは社会的「甘え」に他ならず、こういった身勝手な文科系大衆観念こそが社会を暴走破綻へと導く結果を招くのである。
法律というものは神から与え給うた絶対的価値を持ったものではない。飲食店の中で客が踊っていただけで店主が逮捕拘留されるのが法律というものである。実質的に誰も被害を被っていないにも関わらず、単に法手続きだけに従って権力を行使するのは横暴であり、むしろ道義的な犯罪なのである。
法律というのは、法律を立法した際の「趣旨」というものが肝要であり、趣旨を逸脱した法律の行使は役人の利己的業績を目的とした脱法犯罪である。
役人が率先して脱法行為をしておいて、脱法ドラッグも、脱法風俗もすったくれもあったものではない。
緒方貞子が国際法上の難民規定に遵って、国外に脱出することが叶わない実質的難民を救わないことが「正しい」選択ではなかったことは明らかである。
最も重要なのは法手続きを機械条件反射的に守らせることではなく、法律の有無に関わらず自律的に社会的責任判断を行う個人の本質的意識こそが社会安全性や持続可能性を導き出すのである。全ての個人が自分の行動に責任を持って行動していれば、刑法などという無駄な懲罰は必要なくなるのである。
「懲らしめられるから、法律に従う。」という条件反射短絡行動原理に頼っているからこそ、自主性や主体性のない者が増えるのであり、結果的に無責任な者が増え、誰も主体的に「考える」ことをしなくなるのである。これは特定権威だけの責任ではなく、民主主義制度国家である以上は国民全ての責任なのである。
自分が責任判断をするのが嫌だというのであれば、北朝鮮でもどこでも民主主義制度を導入していない国に亡命すればよかろう。それもまた「自由」なのが民主主義国家というものでもある。
Ende;
「友達」と称して、半ば強制的に集められたクラスメート同士での信頼関係には、本質的には個人の選択が介在していない。
教師が求めるカリキュラムにも、生徒の選択は介在しない。
こうした状況下において、どんなに生徒同士の信頼関係を教師が作り出しても、あくまで環境依存的「結果」以上の何も導き出されることはない。教師が作り出していること自体が環境依存性の根源であり、生徒の環境依存性自体には何も影響を与えておらず、自律的な社会的責任判断能力の獲得にはつながらない。
その場限りの目先の多数派に迎合するからこそ、東電内部では原発の危険性が放置されたのであり。こうした仲間内での信頼関係というのは、仲間以外との社会全体への配慮意識を喪失する要因ともなりうる。
振り込め詐欺師集団というのも、結局は仲間内での信頼関係によって作り出されるものであり。ナチズムもシエラレオネの少年ゲリラもソマリアの民族浄化も同様である。
こうした本能的な社会形成習性を、環境依存的に発揮させて安心満足するというのは、大人教師の勝手な自己満足に他ならない。
そもそも「成功体験」に依存しているからこそ、失敗を拒絶するようになるのであり。失敗を恐れず多数派に迎合せず物事に向き合う本質的自主性こそが、自律的な社会的責任判断の源であって。「成功体験」なんぞに依存しているからこそ、社会が崩壊に向かうのである。
コロンビア大学のシーナ:アイエンガーの講義も、結局は個人的「成功」だの「自分の幸福。」ばかりを基準にした話しかしておらず。本質的な人間性について何も考慮していない大衆迎合に過ぎない。
アイエンガーの言っていることには論理整合性がなく、「かも知れません。」という予測ばかりが陳列されており、何ら論理的根拠のある証明がされておらず、内容のほとんどが占い師レベルの大衆迎合である。
一方では「多くの人が失敗したことは成功しない」と決め付け、その一方では「成功者の多くは失敗にめげずに挑戦し続けることで成功した。」などと、その場限りの結果論を陳列しているだけであり。要するに統計的根拠も論理的根拠もアイエンガーは持ち合わせていないのである。こんなあやふやな話で満足しているコロンビア大学生達というのは、ほとんどバカの集団としか言いようがない。
「理性=10年後の幸福。」「直感=目先の幸福。」などという規定についても論理的根拠はなく。アイエンガーの勝手な観念論に他ならない。純粋な理性は何も「欲求」することはなく、「10年」という時間にも論理的根拠は全くない。100年千年先のことまで考慮してこその人間性であり哲学と言えるが、「10年」しか考慮に入れない時点でその場限りの話でしかなく、論理的普遍性を持たない大衆迎合に過ぎない。
ベンヤミンがナチズムを批判した結果、それが原因で不幸を招いたのであり。地動説を唱えたガリレオが火炙りにされそうになったことを、どうして「理性=10年後の幸福」などと規定可能であろう。
「哲学ではなく経済学だから、目先の利益だけ考慮に入れておいても構わない。」などという話には全くならない。それは無責任以外の何物でもないからだ。
身勝手な規定に基づいて、「これさえやっときゃ、世間的に成功する。」的大衆観念を披露しておけば、バカな大学生の脳を安心満足させておくのは簡単である。
アイエンガーの講義には、個人の自律的な社会的責任判断についての配慮が全く伴っておらず、思考停止によって社会を破綻に導く無意識洗脳に他ならない。
ヒトという種の生物の多くは、精々数年程度の個人の利己的利益こそが絶対的価値であるとしか考慮意識に入れることが出来ない傾向があるが。自分が死んだ後の世界全体にまで考慮に入れることが絶対に不可能であることの論理的根拠は存在しない。
多くのヒトは、こう反論したがるであろう、「だって、自分が生きるだけで精一杯だから、仕方ない。」と。
「仕方ない。」というのは、「他に選択の余地が絶対に存在し得ない。」ことの論証であろうか。それなら原発の危険性を放置した東電社員達を糾弾する権利がどこにあろう。あらゆる危険性「人災」を放置した責任が、「自分が利己的に生存するため。」であると称して正当化しているからこそ、具体的犯罪防止策を持たない司法行政のような不毛な公金の無駄遣いすらも無くならないのである。
失敗を教訓へと変えるためには、まず失敗そのものの根源的原因を認識し、自らの過ちを認識しなければならない。自分だけは社会的責任判断をせずに、他人にばかり責任をなすりつけるのは社会的「甘え」に他ならず、こういった身勝手な文科系大衆観念こそが社会を暴走破綻へと導く結果を招くのである。
法律というものは神から与え給うた絶対的価値を持ったものではない。飲食店の中で客が踊っていただけで店主が逮捕拘留されるのが法律というものである。実質的に誰も被害を被っていないにも関わらず、単に法手続きだけに従って権力を行使するのは横暴であり、むしろ道義的な犯罪なのである。
法律というのは、法律を立法した際の「趣旨」というものが肝要であり、趣旨を逸脱した法律の行使は役人の利己的業績を目的とした脱法犯罪である。
役人が率先して脱法行為をしておいて、脱法ドラッグも、脱法風俗もすったくれもあったものではない。
緒方貞子が国際法上の難民規定に遵って、国外に脱出することが叶わない実質的難民を救わないことが「正しい」選択ではなかったことは明らかである。
最も重要なのは法手続きを機械条件反射的に守らせることではなく、法律の有無に関わらず自律的に社会的責任判断を行う個人の本質的意識こそが社会安全性や持続可能性を導き出すのである。全ての個人が自分の行動に責任を持って行動していれば、刑法などという無駄な懲罰は必要なくなるのである。
「懲らしめられるから、法律に従う。」という条件反射短絡行動原理に頼っているからこそ、自主性や主体性のない者が増えるのであり、結果的に無責任な者が増え、誰も主体的に「考える」ことをしなくなるのである。これは特定権威だけの責任ではなく、民主主義制度国家である以上は国民全ての責任なのである。
自分が責任判断をするのが嫌だというのであれば、北朝鮮でもどこでも民主主義制度を導入していない国に亡命すればよかろう。それもまた「自由」なのが民主主義国家というものでもある。
Ende;
○熱血。
「熱血」などと称して感情的に怒鳴り散らすような行為を人間性だと勘違いするのは、文科系大衆観念に基づいた錯覚に他ならない。
こうした錯覚というのは、「ヘタクソなパラパラ漫画で感動して号泣したから人間性だ。」などいう観念と一緒で、単に大脳辺縁系の活動が激しく、行動に直結しているという「結果」に過ぎない。
感情的に他者を服従させる行為というのは、権威に服従するだけの従順で自律判断のないバカを育てる安易な方法論であり。こうしたヒステリー行為こそが社会安全性を根幹から破壊する犯罪行為である。
「感情=意識=人間性」という論理的根拠のない文科系大衆観念を振り回すことは、論理検証性を放棄する無責任行為を助長するだけである。
教育というものには尾木ママや桑田真澄のような冷静さが人間形成には必要であり、論理的に説明することや対策を立てることが人間形成には最も重要であり。「気に入らないから怒鳴り散らす。」感情論こそが本質的人間性を破壊するのである。
安易な従順性ばかりを追求する教育手法に依存することは、社会安全性を蔑ろにする無責任行為であり、社会的な犯罪行為でもある。
子供は社会の財産であって、バカな親の個人所有物ではないのである。あらゆるヒトは誰がしかの子供であり、原発の危険性を放置した東電原発安全担当者であっても「人の子」であり、無責任な人を作りだした責任というものは個人の主体的判断を蔑ろにしてきた社会全体の責任でもあるのだ。
人は全てつながっており、それぞれ個人が自分の責任を全うすることによって、社会安全性というのは向上するのである。他人にばかり責任を求め、自分自身の社会的責任を放棄しておいて良い理由など存在し得ない。
論理的根拠のない文科系大衆観念に依存する無責任さを改めないことには、人類は永遠にバカげた結果に陥ることは構造原理的に出来ない。
より多くのヒトに論理検証性を追求させることが困難であることは否定出来ないが、だからといって「やらなくてよい。」などという社会的「甘え」や、「論理的に絶対不可能である。」かのように言い張る実証不能の観念に耳を貸すつもりはない。
技術者などの特定個人にばかり責任を求め、自分自身が社会的に最も重要な社会安全性について配慮しなくて良いなどという無責任を振り回して良い理由などない。
ええ加減にせぇよ、ポンコツ共め。(←ヒステリー)
Ende;
「熱血」などと称して感情的に怒鳴り散らすような行為を人間性だと勘違いするのは、文科系大衆観念に基づいた錯覚に他ならない。
こうした錯覚というのは、「ヘタクソなパラパラ漫画で感動して号泣したから人間性だ。」などいう観念と一緒で、単に大脳辺縁系の活動が激しく、行動に直結しているという「結果」に過ぎない。
感情的に他者を服従させる行為というのは、権威に服従するだけの従順で自律判断のないバカを育てる安易な方法論であり。こうしたヒステリー行為こそが社会安全性を根幹から破壊する犯罪行為である。
「感情=意識=人間性」という論理的根拠のない文科系大衆観念を振り回すことは、論理検証性を放棄する無責任行為を助長するだけである。
教育というものには尾木ママや桑田真澄のような冷静さが人間形成には必要であり、論理的に説明することや対策を立てることが人間形成には最も重要であり。「気に入らないから怒鳴り散らす。」感情論こそが本質的人間性を破壊するのである。
安易な従順性ばかりを追求する教育手法に依存することは、社会安全性を蔑ろにする無責任行為であり、社会的な犯罪行為でもある。
子供は社会の財産であって、バカな親の個人所有物ではないのである。あらゆるヒトは誰がしかの子供であり、原発の危険性を放置した東電原発安全担当者であっても「人の子」であり、無責任な人を作りだした責任というものは個人の主体的判断を蔑ろにしてきた社会全体の責任でもあるのだ。
人は全てつながっており、それぞれ個人が自分の責任を全うすることによって、社会安全性というのは向上するのである。他人にばかり責任を求め、自分自身の社会的責任を放棄しておいて良い理由など存在し得ない。
論理的根拠のない文科系大衆観念に依存する無責任さを改めないことには、人類は永遠にバカげた結果に陥ることは構造原理的に出来ない。
より多くのヒトに論理検証性を追求させることが困難であることは否定出来ないが、だからといって「やらなくてよい。」などという社会的「甘え」や、「論理的に絶対不可能である。」かのように言い張る実証不能の観念に耳を貸すつもりはない。
技術者などの特定個人にばかり責任を求め、自分自身が社会的に最も重要な社会安全性について配慮しなくて良いなどという無責任を振り回して良い理由などない。
ええ加減にせぇよ、ポンコツ共め。(←ヒステリー)
Ende;
○老子。
「老子から、生きるヒントを貰う。」などというのは老子の思想を全く理解していない。
老子は社会全体の持続可能性や安全性について追求しているのであって、個人的な「生存」のための「ヒント」小手先技を述べているのではない。
文科系大衆の多くは、哲学というものからこ個人的生存手法や精神的救済ばかりを求めようとするが。哲学というのはそういった姑息な個人的利益や快楽を求めることではない。
プラトン的に酔っ払い同士で話を丸めて精神的に安心満足しておけば、大衆の多くは哲学だと勝手に妄想しているが。そんなものは哲学(論理的検証の追求)ではない。
ヒトの多くは哲学から個人的利益や気分的安心満足さえ得られれば良いと勘違いしているが。個人的利益や気分的安心満足などという主観的効用を追求することは哲学というものの本質を逸脱している。
哲学というものは個人的利益や気分的安心満足を目的にしているものではなく、あくまで自己を含めた社会全体を俯瞰した統合的論理検証という、意識の広さを追求するものであって、大衆のご機嫌取りや主観的気分のためや生物的生存のためにあるのではない。
個人的利益や気分的安心満足を求めるというのは、極めて主観的な効用を求めているだけであって。こうした個人的効用ばかりを追求しているからこそ、統合的な社会全体への配慮を喪失することに陥るのであり。むしろ思考停止の意識狭窄を促すだけのバカの論理であり、哲学というものの本質である論理検証性の追求という根源を逸脱している。
こういった文科系大衆観念に基づいた身勝手な「解釈」ばかりを求め、論理的「理解」を拒絶しているからこそ原発の暴走や戦争といったあらゆる「人災」への具体的対策が放棄されるのであり。論理的根拠を持たない観念に基づいた身勝手な「解釈」によって論理的「理解」を放棄することこそが、人類の犯してきた最大の罪だと言える。
生物学者達や哲学者の多くは、「生存戦略」などという実証不能の観念を振り回しておいても、気分的には「恐く」はなかろう。多数派で話を丸めて仲間内で気分的に「納得」でもしておけば、論理的「理解」が出来なくても良いものであると勝手に勘違いすることも簡単であろう。こうした気分感情論によって論理的思考を放棄していて学術理論もすったくれもあったものではない。
「生存」というのは自然界における「結果」論以上の意味など存在せず、「戦略」などという意識的目的行動選択の介在する余地など構造原理的に有り得ない。後天的にどのような能力を獲得可能だとしても、先天的に獲得可能な範囲以上の能力は個体には獲得不可能であり、ヤギが二本脚で歩いたからといって遺伝的進化に影響を及ぼすようなものでも何でもないことは明らかである。遺伝的要素は個体自身には選択不可能な「結果」に過ぎず、そこに意識的「目的」論をこじつけようとすること自体に論理科学的根拠が全く存在しない。
ましてや個人個体が「生きるため。」などという断片的で統合性を欠いた目先の個人的利益快楽を絶対的価値であるかのように扱うのは、極めて利己的であり、自分が有限の存在に過ぎない事実を忘れた普遍性を持たない身勝手な屁理屈に他ならない。
目的というものは、人間としての本質的意識によって、統合的に論理検証されることで抽出可能なものであって。ヒトという種の生物でありさえすれば常に可能であるというような短絡的で安易なものではない。
「生きるヒント。」などと称して、生物的生存を絶対価値であるかのように取り上げるNHK教育テレビというのは、文科系大衆観念に基づいた論理検証性の放棄に他ならず。極めて非学術的であり、「バカの観念」の共感ひけらかしに他ならない。
ヒトは必ず死ぬ。この厳然たる事実を無視し、意味もなく永遠に生きようとする無為な観念こそが、社会安全性や持続可能性という統合的な人間性を伴う価値判断を喪失させるのである。
生きるために原発の危険性を放置し、
生きるために高速バスの安全性を無視し、
生きるためにシエラレオネのゲリラに迎合し、
生きるためにナチズムに迎合し、
生きるために「お国の方針」に迎合し、
生きるためにイジメに加わる。
こうした生存絶対主義こそが、社会から安全性を喪失させ崩壊へと導く「暴走」を促すのである。
生存という「結果」を正当化していれば、そこに意識的「目的」選択が介在しなくなるのは必然的結果である。
Ende;
「老子から、生きるヒントを貰う。」などというのは老子の思想を全く理解していない。
老子は社会全体の持続可能性や安全性について追求しているのであって、個人的な「生存」のための「ヒント」小手先技を述べているのではない。
文科系大衆の多くは、哲学というものからこ個人的生存手法や精神的救済ばかりを求めようとするが。哲学というのはそういった姑息な個人的利益や快楽を求めることではない。
プラトン的に酔っ払い同士で話を丸めて精神的に安心満足しておけば、大衆の多くは哲学だと勝手に妄想しているが。そんなものは哲学(論理的検証の追求)ではない。
ヒトの多くは哲学から個人的利益や気分的安心満足さえ得られれば良いと勘違いしているが。個人的利益や気分的安心満足などという主観的効用を追求することは哲学というものの本質を逸脱している。
哲学というものは個人的利益や気分的安心満足を目的にしているものではなく、あくまで自己を含めた社会全体を俯瞰した統合的論理検証という、意識の広さを追求するものであって、大衆のご機嫌取りや主観的気分のためや生物的生存のためにあるのではない。
個人的利益や気分的安心満足を求めるというのは、極めて主観的な効用を求めているだけであって。こうした個人的効用ばかりを追求しているからこそ、統合的な社会全体への配慮を喪失することに陥るのであり。むしろ思考停止の意識狭窄を促すだけのバカの論理であり、哲学というものの本質である論理検証性の追求という根源を逸脱している。
こういった文科系大衆観念に基づいた身勝手な「解釈」ばかりを求め、論理的「理解」を拒絶しているからこそ原発の暴走や戦争といったあらゆる「人災」への具体的対策が放棄されるのであり。論理的根拠を持たない観念に基づいた身勝手な「解釈」によって論理的「理解」を放棄することこそが、人類の犯してきた最大の罪だと言える。
生物学者達や哲学者の多くは、「生存戦略」などという実証不能の観念を振り回しておいても、気分的には「恐く」はなかろう。多数派で話を丸めて仲間内で気分的に「納得」でもしておけば、論理的「理解」が出来なくても良いものであると勝手に勘違いすることも簡単であろう。こうした気分感情論によって論理的思考を放棄していて学術理論もすったくれもあったものではない。
「生存」というのは自然界における「結果」論以上の意味など存在せず、「戦略」などという意識的目的行動選択の介在する余地など構造原理的に有り得ない。後天的にどのような能力を獲得可能だとしても、先天的に獲得可能な範囲以上の能力は個体には獲得不可能であり、ヤギが二本脚で歩いたからといって遺伝的進化に影響を及ぼすようなものでも何でもないことは明らかである。遺伝的要素は個体自身には選択不可能な「結果」に過ぎず、そこに意識的「目的」論をこじつけようとすること自体に論理科学的根拠が全く存在しない。
ましてや個人個体が「生きるため。」などという断片的で統合性を欠いた目先の個人的利益快楽を絶対的価値であるかのように扱うのは、極めて利己的であり、自分が有限の存在に過ぎない事実を忘れた普遍性を持たない身勝手な屁理屈に他ならない。
目的というものは、人間としての本質的意識によって、統合的に論理検証されることで抽出可能なものであって。ヒトという種の生物でありさえすれば常に可能であるというような短絡的で安易なものではない。
「生きるヒント。」などと称して、生物的生存を絶対価値であるかのように取り上げるNHK教育テレビというのは、文科系大衆観念に基づいた論理検証性の放棄に他ならず。極めて非学術的であり、「バカの観念」の共感ひけらかしに他ならない。
ヒトは必ず死ぬ。この厳然たる事実を無視し、意味もなく永遠に生きようとする無為な観念こそが、社会安全性や持続可能性という統合的な人間性を伴う価値判断を喪失させるのである。
生きるために原発の危険性を放置し、
生きるために高速バスの安全性を無視し、
生きるためにシエラレオネのゲリラに迎合し、
生きるためにナチズムに迎合し、
生きるために「お国の方針」に迎合し、
生きるためにイジメに加わる。
こうした生存絶対主義こそが、社会から安全性を喪失させ崩壊へと導く「暴走」を促すのである。
生存という「結果」を正当化していれば、そこに意識的「目的」選択が介在しなくなるのは必然的結果である。
Ende;
○恐い。
犯罪者の逮捕直前でのインタビューなどで、時折犯罪者自身が「恐くない。」というキーワードを発することがある。
「恐い」かどうかは気分の問題であって、社会的に迷惑で「悪い」かどうかとは無関係であり、個人の主観的感想に過ぎない気分感情を優先しているからこそ「恐くない。」などと述べているのであって、これこそが自律的な社会的責任意識の働いていない証拠である。
不正をやらかすことは、社会全体にとって損失であり。自分が社会の一員としての責任を放棄しているということにまで配慮(意識/論理検証性)が働いていないからこそ、主観的感想に過ぎない「恐くない。」かどうかを優先的に主張すると考えられる。
個人の主観的気分感情が、行動と直結しているからこそ社会的には迷惑で、「自己中心的」だと言えるのであり。気分感情という大脳辺縁系が促す行動バイアスに無意識に流されているというのは本質的には自己抑制制御をする「自分」がないことを意味する。故に「自己中心的な者には、自分がない。」と形容されるのである。
犯罪行為が「恐い」かどうかは個人の主観的気分の感想であって、自分の行為が自分を含む社会全体にとって損失であるかどうかへの検証によって、迷惑で「悪い」行為かどうかを自律的には検証せず、国家権力などからの外的抑圧でしか行動が抑制されていない状態こそが、「自律がない。」と言える。
自律の有無というのは外見的には全くわからない。糞チンピラ風味な外見であっても社会的責任判断を下す者もいれば、弁護士免許や一級建築士免許を持っていても自律のない奴は少なくない。
文科系大衆観念的には、「理性というものは環境と深く結び付いているもの。」であり。個人がおかれている環境や状況によってのみ理性が働くかどうかが決定するものであると錯覚されている。
確かにヒトという種の生物の行動習性的には、論理思考は環境からの影響を受けやすい傾向性は否めないが。論理性というものが環境や状況によってでしか発揮されることが構造原理的に不可能であることの証明はない。
ヒト以外の動物であれば、先天的な本能習性に抗うことは極めて困難であり。イヌなどを人為的に訓練することで外的行動抑圧を刷り込み「学習」させることくらいしか出来ないが。ヒトの場合、極端な知的障害でもない限りは自分の本能習性や、成育環境によって刷り込み学習された無意識行動の自律制御が絶対に不可能であることの論理的証明は存在しない。
いつ、如何なる状況や条件下であろうとも、自律的に社会的責任判断を行うという主体的な自律判断というものは。個人の自発性の中にしか存在し得ない。
「社会に生かされている。」などと卑屈な態度を取っておけば、卑屈な文科系大衆観念的多数派の内部においては「謙虚」だと錯覚させることが可能であるため。主体的自発性というものはなくても良いと勘違いさせることは簡単である。
「存外、人間とは簡単なものだ。」などという主張は、言うなれば「自分を含めてヒトなんてどうせバカなんだから、その場限りにご機嫌取りをしておけば安心で満足だ。」という単なる無責任性の事後正当化のための屁理屈に過ぎない。
多くの「ヒト」は、その先天的本能習性のままに、多数派に迎合しておけば気分的には安心で満足を得られ、何が論理的根拠のある普遍性を持った話かを、自律的には判断することが出来ない。
「ヒト」の先天的行動習性として、自律的に社会全体の安全性や持続可能への配慮を行うようには出来ておらず。目先の利己的利益や快楽安心ばかりを追求する傾向がある。
こうした無意識性というのは、自閉症同様スペクトラム(連続的傾向性)があるため。自律判断の困難さにおいては個人差が存在することは確かであろう。故に「困難なこと=不可能。」と短絡的に「思って」いる程、無意識性が強い証明でもある。
「思い。」という主観的な気分感情と、「考え。」という客観的思考を混同しているからこそ。環境や状況に意識や思考が奪われ、自律的判断力が喪失するのである。
「思い。」という大脳辺縁系が促す行動バイアスを、あたかも主体的意欲であると勘違いしていれば。論理検証的「考え。」が働くなるのは必然的結果である。
ヒトによっては、否、ヒトの多くにとっては、気分感情が促す「思い」の強度に依存した行動バイアスに逆らうことは「困難」かも知れないが。「困難さ。」を根拠に不可能の証明であるかのように言い張るのは、無責任極まりない詐欺行為である。
スポーツ競技だの大学入試だの金儲けビジネスにばかり困難さを要求しておいて、社会にとって最も優先されるべき安全性や持続可能性については、困難であることを根拠に拒絶や否定するのは支離滅裂というものであり。本質的な合理性が全く追求されていない。
それは多くのヒトにとって「恐く」はないのであろうが、こうした先天的本能由来の気分感情による行動バイアスこそが、合理性ある社会安全性を喪失させているのである。
「恐い」かどうかだけで行動判断しているということは、言うなれば犯罪者の行動心理と全く同じものであり。法律には触れていなくても、人間としての道義的社会責任を果たしていないことになるのである。
Ende;
犯罪者の逮捕直前でのインタビューなどで、時折犯罪者自身が「恐くない。」というキーワードを発することがある。
「恐い」かどうかは気分の問題であって、社会的に迷惑で「悪い」かどうかとは無関係であり、個人の主観的感想に過ぎない気分感情を優先しているからこそ「恐くない。」などと述べているのであって、これこそが自律的な社会的責任意識の働いていない証拠である。
不正をやらかすことは、社会全体にとって損失であり。自分が社会の一員としての責任を放棄しているということにまで配慮(意識/論理検証性)が働いていないからこそ、主観的感想に過ぎない「恐くない。」かどうかを優先的に主張すると考えられる。
個人の主観的気分感情が、行動と直結しているからこそ社会的には迷惑で、「自己中心的」だと言えるのであり。気分感情という大脳辺縁系が促す行動バイアスに無意識に流されているというのは本質的には自己抑制制御をする「自分」がないことを意味する。故に「自己中心的な者には、自分がない。」と形容されるのである。
犯罪行為が「恐い」かどうかは個人の主観的気分の感想であって、自分の行為が自分を含む社会全体にとって損失であるかどうかへの検証によって、迷惑で「悪い」行為かどうかを自律的には検証せず、国家権力などからの外的抑圧でしか行動が抑制されていない状態こそが、「自律がない。」と言える。
自律の有無というのは外見的には全くわからない。糞チンピラ風味な外見であっても社会的責任判断を下す者もいれば、弁護士免許や一級建築士免許を持っていても自律のない奴は少なくない。
文科系大衆観念的には、「理性というものは環境と深く結び付いているもの。」であり。個人がおかれている環境や状況によってのみ理性が働くかどうかが決定するものであると錯覚されている。
確かにヒトという種の生物の行動習性的には、論理思考は環境からの影響を受けやすい傾向性は否めないが。論理性というものが環境や状況によってでしか発揮されることが構造原理的に不可能であることの証明はない。
ヒト以外の動物であれば、先天的な本能習性に抗うことは極めて困難であり。イヌなどを人為的に訓練することで外的行動抑圧を刷り込み「学習」させることくらいしか出来ないが。ヒトの場合、極端な知的障害でもない限りは自分の本能習性や、成育環境によって刷り込み学習された無意識行動の自律制御が絶対に不可能であることの論理的証明は存在しない。
いつ、如何なる状況や条件下であろうとも、自律的に社会的責任判断を行うという主体的な自律判断というものは。個人の自発性の中にしか存在し得ない。
「社会に生かされている。」などと卑屈な態度を取っておけば、卑屈な文科系大衆観念的多数派の内部においては「謙虚」だと錯覚させることが可能であるため。主体的自発性というものはなくても良いと勘違いさせることは簡単である。
「存外、人間とは簡単なものだ。」などという主張は、言うなれば「自分を含めてヒトなんてどうせバカなんだから、その場限りにご機嫌取りをしておけば安心で満足だ。」という単なる無責任性の事後正当化のための屁理屈に過ぎない。
多くの「ヒト」は、その先天的本能習性のままに、多数派に迎合しておけば気分的には安心で満足を得られ、何が論理的根拠のある普遍性を持った話かを、自律的には判断することが出来ない。
「ヒト」の先天的行動習性として、自律的に社会全体の安全性や持続可能への配慮を行うようには出来ておらず。目先の利己的利益や快楽安心ばかりを追求する傾向がある。
こうした無意識性というのは、自閉症同様スペクトラム(連続的傾向性)があるため。自律判断の困難さにおいては個人差が存在することは確かであろう。故に「困難なこと=不可能。」と短絡的に「思って」いる程、無意識性が強い証明でもある。
「思い。」という主観的な気分感情と、「考え。」という客観的思考を混同しているからこそ。環境や状況に意識や思考が奪われ、自律的判断力が喪失するのである。
「思い。」という大脳辺縁系が促す行動バイアスを、あたかも主体的意欲であると勘違いしていれば。論理検証的「考え。」が働くなるのは必然的結果である。
ヒトによっては、否、ヒトの多くにとっては、気分感情が促す「思い」の強度に依存した行動バイアスに逆らうことは「困難」かも知れないが。「困難さ。」を根拠に不可能の証明であるかのように言い張るのは、無責任極まりない詐欺行為である。
スポーツ競技だの大学入試だの金儲けビジネスにばかり困難さを要求しておいて、社会にとって最も優先されるべき安全性や持続可能性については、困難であることを根拠に拒絶や否定するのは支離滅裂というものであり。本質的な合理性が全く追求されていない。
それは多くのヒトにとって「恐く」はないのであろうが、こうした先天的本能由来の気分感情による行動バイアスこそが、合理性ある社会安全性を喪失させているのである。
「恐い」かどうかだけで行動判断しているということは、言うなれば犯罪者の行動心理と全く同じものであり。法律には触れていなくても、人間としての道義的社会責任を果たしていないことになるのである。
Ende;
○号泣。
糞チンピラが鉄拳の漫画見て号泣したからといって、それが短絡的に人間性の証明には全くならない。
感動しやすいというのは、現実には情動と行動が直結しやすい短絡性を意味するものであって。その場限りの気分で行動が決定する単なるバカに過ぎない。
DV男が暴力を振るった後、脳内物質の相転移によって外見上急に優しくなるのと同様。その場限りに外見的に感動したり優しくなるというのは人間性の論証ではなく、むしろ動物的な「ヒト」習性が強いことを意味しているに過ぎない。
糞チンピラが糞チンピラ足りうる所以とは、その場限りの環境依存的に起因する気分感情だけで行動が決定してしまう短絡性であり。「感動したから人間性だ。」などという話は典型的に論理的根拠を持たない文科系大衆観念に他ならない。
DV男に暴力を振るわれても、相手を「優しい所もある。」などと錯覚するバカ女同様。「感動したから人間性がある。」などと言う話も、実際には論理的根拠を全く伴わない大衆観念的錯覚に過ぎない。
芸術作品というのは、どんなに多数大衆の大脳辺縁系を「感動」させたとしても、それが短絡的に社会安全性や持続可能性に影響するような社会的意義を持つわけでも何でもない。
芸術作品というのは、あくまで個人の主観的好き嫌いに依存するものであって、多数派が「感動」する作品に感動しないからといって短絡的に「人間性がない。」ことの論証にも全くならないし。むしろヘタクソなパラパラ漫画に過剰に「感動」する方が異常と言えるのである。
どんなに芸術的に優れた作品が作られようとも、それをナチス政権下のドイツ人に見せればユダヤ人虐殺が止まるわけでもなく。非情な独裁者に見せて感動させたとしても独裁自体に影響は及ぼさない。
東電原発安全担当者に芸術的に優れた作品を見せれば原発の危険性が放置されなくなる論理的根拠も全く存在せず。あくまで「感動」などというのは大脳辺縁系が促す気分感情が促す行動バイアス以上の何でもない。
むしろ芸術作品というものは、オウム真理教が洗脳に安っぽいアニメーション映画を用いたように。被洗脳者の気分感情としての恐怖心、強迫観念を植え付けるのには有効であるが。自律的な論理検証性が促されることはない。
そもそも芸術作品を鑑賞して「感動した。」などというのは、自発的意欲に起因するものではなく。環境依存的に気分感情を動かされているだけであって、その場限りの雰囲気に流されているに過ぎないのである。
「感動」などというのは脳内物質の相転移に過ぎず、どんなにその場限りに脳内物質の相転移が生じても、論理的には自律的な社会的責任判断能力とは全く関係がない。
感動しやすいというのは、気分感情に流され易いことを意味し。イジメを行う心理的な動機としての嫌悪感がイジメという差別排除迫害に直結し易いことと関連がある。
その場限りにヘタクソなパラパラ漫画に異常に感動したりするからこそ、その場限りに集団に迎合しない個人を差別排除したがるのであって。こうした「その場限り。」の短絡的錯覚を鵜呑みにしているからこそ、問題の本質を論理的に検証出来なくなるのである。
ヒトの脳は錯覚に流される性質がある。錯覚を錯覚であると自律的に認識できなければ、錯覚に基づいた間違った認識でしか行動が促されることはない。
同じ過ちを何度も繰り返すというのは、文科系大衆観念的な錯覚を、錯覚として認識していないという非合理性が生み出すものであり。合理性がないから努力辛抱根性的精神論に陥ることになるのである。
「懲罰さえ与えておけば、犯罪が減る。」などという観念に基づいた固定観念こそが、現在の司法システムの根源的無駄を助長していることを、多くのヒトは全く認識しようとはしないように。「感動さえさせておけば糞チンピラが更生する。」などと思っているから糞チンピラが糞チンピラのまま放置されるのである。
どんなに気分感情的に「感動」しても、自律的な社会的責任判断力にはつながらない。
こんな論理的には極めて簡単なことであっても、自律的には誰も気付かない頭の悪さこそが、社会を崩壊へと導くことを認識しなければならない。
その場限りに気分感情に流され易い者に人間性が伴うというのは、とんでもない錯覚である。
自律的に社会的責任判断を行うためには、その場限りの気分感情に流されることなく、客観的統合判断を失わない冷静さを伴わなければならない。それこそが社会安全性の基本なのである。
Ende;
糞チンピラが鉄拳の漫画見て号泣したからといって、それが短絡的に人間性の証明には全くならない。
感動しやすいというのは、現実には情動と行動が直結しやすい短絡性を意味するものであって。その場限りの気分で行動が決定する単なるバカに過ぎない。
DV男が暴力を振るった後、脳内物質の相転移によって外見上急に優しくなるのと同様。その場限りに外見的に感動したり優しくなるというのは人間性の論証ではなく、むしろ動物的な「ヒト」習性が強いことを意味しているに過ぎない。
糞チンピラが糞チンピラ足りうる所以とは、その場限りの環境依存的に起因する気分感情だけで行動が決定してしまう短絡性であり。「感動したから人間性だ。」などという話は典型的に論理的根拠を持たない文科系大衆観念に他ならない。
DV男に暴力を振るわれても、相手を「優しい所もある。」などと錯覚するバカ女同様。「感動したから人間性がある。」などと言う話も、実際には論理的根拠を全く伴わない大衆観念的錯覚に過ぎない。
芸術作品というのは、どんなに多数大衆の大脳辺縁系を「感動」させたとしても、それが短絡的に社会安全性や持続可能性に影響するような社会的意義を持つわけでも何でもない。
芸術作品というのは、あくまで個人の主観的好き嫌いに依存するものであって、多数派が「感動」する作品に感動しないからといって短絡的に「人間性がない。」ことの論証にも全くならないし。むしろヘタクソなパラパラ漫画に過剰に「感動」する方が異常と言えるのである。
どんなに芸術的に優れた作品が作られようとも、それをナチス政権下のドイツ人に見せればユダヤ人虐殺が止まるわけでもなく。非情な独裁者に見せて感動させたとしても独裁自体に影響は及ぼさない。
東電原発安全担当者に芸術的に優れた作品を見せれば原発の危険性が放置されなくなる論理的根拠も全く存在せず。あくまで「感動」などというのは大脳辺縁系が促す気分感情が促す行動バイアス以上の何でもない。
むしろ芸術作品というものは、オウム真理教が洗脳に安っぽいアニメーション映画を用いたように。被洗脳者の気分感情としての恐怖心、強迫観念を植え付けるのには有効であるが。自律的な論理検証性が促されることはない。
そもそも芸術作品を鑑賞して「感動した。」などというのは、自発的意欲に起因するものではなく。環境依存的に気分感情を動かされているだけであって、その場限りの雰囲気に流されているに過ぎないのである。
「感動」などというのは脳内物質の相転移に過ぎず、どんなにその場限りに脳内物質の相転移が生じても、論理的には自律的な社会的責任判断能力とは全く関係がない。
感動しやすいというのは、気分感情に流され易いことを意味し。イジメを行う心理的な動機としての嫌悪感がイジメという差別排除迫害に直結し易いことと関連がある。
その場限りにヘタクソなパラパラ漫画に異常に感動したりするからこそ、その場限りに集団に迎合しない個人を差別排除したがるのであって。こうした「その場限り。」の短絡的錯覚を鵜呑みにしているからこそ、問題の本質を論理的に検証出来なくなるのである。
ヒトの脳は錯覚に流される性質がある。錯覚を錯覚であると自律的に認識できなければ、錯覚に基づいた間違った認識でしか行動が促されることはない。
同じ過ちを何度も繰り返すというのは、文科系大衆観念的な錯覚を、錯覚として認識していないという非合理性が生み出すものであり。合理性がないから努力辛抱根性的精神論に陥ることになるのである。
「懲罰さえ与えておけば、犯罪が減る。」などという観念に基づいた固定観念こそが、現在の司法システムの根源的無駄を助長していることを、多くのヒトは全く認識しようとはしないように。「感動さえさせておけば糞チンピラが更生する。」などと思っているから糞チンピラが糞チンピラのまま放置されるのである。
どんなに気分感情的に「感動」しても、自律的な社会的責任判断力にはつながらない。
こんな論理的には極めて簡単なことであっても、自律的には誰も気付かない頭の悪さこそが、社会を崩壊へと導くことを認識しなければならない。
その場限りに気分感情に流され易い者に人間性が伴うというのは、とんでもない錯覚である。
自律的に社会的責任判断を行うためには、その場限りの気分感情に流されることなく、客観的統合判断を失わない冷静さを伴わなければならない。それこそが社会安全性の基本なのである。
Ende;
○ヲヤヂ一覧。 しょうもないギャグも連続すると笑えるかも。
超音波電動羽村市
見晴らしの良い三原市
わたばっ ひでぶっ 宇部市っ。
子供に靴を葉加瀬太郎
少数派とかけまして、タクシーの助手席に乗りたがる奴とときます。その心は、前ノリティ。
多数派と混ジョリティ
このステテコもう古いから、この辺に棄ててこ。
野茂のもの真似は野茂真似。
このアジアアロワナの水槽だいぶ汚れているねぇ、そろそろ洗ろわな。
カギ括弧で「ククれ」カレー
いっぱいあってもスコッティ。
賞味期限内でもFREE。
どんなに探してもミツカン。
梅花藻が普通よか多いね、倍かも。
近くの雑巾、遠くのフキン。
ベタついていても皿
サラサラしていても熱湯
おねいちゃんでも杏ちゃん
奥さんになっても檀さん。
どんなに育ってもマダコ
すいててもcomm
血に餓えている ウエルチ
ミノキシ汁が頭皮に効く
ニコチンは体内に入るとコチニンに変わる ←本当
水野真紀、水野美紀、坂井真紀、酒井美紀、もう誰が誰だかわかんないっす。:松本人志
堀北真希と河北麻友子、森下千里と森高千里もごちゃまぜになる。
はしのえみとほしのあきも混同です。
Ende;
超音波電動羽村市
見晴らしの良い三原市
わたばっ ひでぶっ 宇部市っ。
子供に靴を葉加瀬太郎
少数派とかけまして、タクシーの助手席に乗りたがる奴とときます。その心は、前ノリティ。
多数派と混ジョリティ
このステテコもう古いから、この辺に棄ててこ。
野茂のもの真似は野茂真似。
このアジアアロワナの水槽だいぶ汚れているねぇ、そろそろ洗ろわな。
カギ括弧で「ククれ」カレー
いっぱいあってもスコッティ。
賞味期限内でもFREE。
どんなに探してもミツカン。
梅花藻が普通よか多いね、倍かも。
近くの雑巾、遠くのフキン。
ベタついていても皿
サラサラしていても熱湯
おねいちゃんでも杏ちゃん
奥さんになっても檀さん。
どんなに育ってもマダコ
すいててもcomm
血に餓えている ウエルチ
ミノキシ汁が頭皮に効く
ニコチンは体内に入るとコチニンに変わる ←本当
水野真紀、水野美紀、坂井真紀、酒井美紀、もう誰が誰だかわかんないっす。:松本人志
堀北真希と河北麻友子、森下千里と森高千里もごちゃまぜになる。
はしのえみとほしのあきも混同です。
Ende;
○小笠原流。
北野武がやたらと小笠原流を推すんだけど、作法という形式外見への気分的安心を安全性と履き違えている文科系大衆観念に基づいた大衆迎合に過ぎない。
作法などの外見的形式さえ教え込んでおけば社会安全性や持続可能性が構築される論理的根拠も、統計的根拠もなく。単に外見的に「美しい。」などという観念だけで安心しているに過ぎない。
そもそもヤクザ暴力映画で大衆人気を得ている芸人が作法形式を論じていること自体が支離滅裂である。
ヒトの多くは気分的な安心満足に意識を奪われ、簡単に実証不能の観念を信じ込みがちな習性がある。だからこそヒトの多くは論理的思考を簡単に喪失し、回避可能なはずの「人災」に陥るのである。
小笠原流というのは、元々室町武士が作り出したものであり。封建的差別主義を正当化するために形式外見的に取り繕うためにでっちあげたものに過ぎない。武力抑圧による封建社会体制を維持するために、外見的に偉そうな雰囲気や、形式的な権威性を用いた、一種の錯覚を促すための手口手法に過ぎない。
どんなに小笠原流に気分的安心感を得ても、封建的差別主義自体は正当化され得るものではない。
小笠原流を教え込んでおけば原発の危険性が放置されなかったとでも言えるだろうか。
小笠原流を教え込んでおけば役人は天下りをしなくなるであろうか。
だとすれば、どうして刑務所では小笠原流作法を教え込まないのであろうか。受刑者のケツの穴を覗き込むことは作法だと言えるのだろうか。
どうして体育会系組織は怒鳴り声を作法とするのであろうか。
作法などの形式外見というのは、無思考な大衆の脳を酔わせて安心満足させるだけの洗脳に過ぎず。ヤクザが形式外見に執着するのも、それによってありもしない権威性を演出し、バカな大衆の脳を洗脳させているのである。
作法形式というものと、個人の自律的な社会的責任判断能力は無関係である。形式外見で本質的な人間性など形成されることはない。
作法形式のような簡単でバカみたいな手法で、あらゆる「人災」への対策が出来るなら、既に統計的実証があって然るべきであって、そんなものは最初から存在しないのである。
北野武なんぞ所詮は大衆迎合であり、「こうすれば世間的評価が得られる。」といった目先の効用しか意識の俎上にはなく。具体性のある論理的人間性の論証など眼中にはない。
こんな話はいちいちおいらが言わなくても自律的に検証すべきことである。
特にマスコミは。
だから学力学歴が高いだけのバカは要らないって言っているのである。
Ende;
北野武がやたらと小笠原流を推すんだけど、作法という形式外見への気分的安心を安全性と履き違えている文科系大衆観念に基づいた大衆迎合に過ぎない。
作法などの外見的形式さえ教え込んでおけば社会安全性や持続可能性が構築される論理的根拠も、統計的根拠もなく。単に外見的に「美しい。」などという観念だけで安心しているに過ぎない。
そもそもヤクザ暴力映画で大衆人気を得ている芸人が作法形式を論じていること自体が支離滅裂である。
ヒトの多くは気分的な安心満足に意識を奪われ、簡単に実証不能の観念を信じ込みがちな習性がある。だからこそヒトの多くは論理的思考を簡単に喪失し、回避可能なはずの「人災」に陥るのである。
小笠原流というのは、元々室町武士が作り出したものであり。封建的差別主義を正当化するために形式外見的に取り繕うためにでっちあげたものに過ぎない。武力抑圧による封建社会体制を維持するために、外見的に偉そうな雰囲気や、形式的な権威性を用いた、一種の錯覚を促すための手口手法に過ぎない。
どんなに小笠原流に気分的安心感を得ても、封建的差別主義自体は正当化され得るものではない。
小笠原流を教え込んでおけば原発の危険性が放置されなかったとでも言えるだろうか。
小笠原流を教え込んでおけば役人は天下りをしなくなるであろうか。
だとすれば、どうして刑務所では小笠原流作法を教え込まないのであろうか。受刑者のケツの穴を覗き込むことは作法だと言えるのだろうか。
どうして体育会系組織は怒鳴り声を作法とするのであろうか。
作法などの形式外見というのは、無思考な大衆の脳を酔わせて安心満足させるだけの洗脳に過ぎず。ヤクザが形式外見に執着するのも、それによってありもしない権威性を演出し、バカな大衆の脳を洗脳させているのである。
作法形式というものと、個人の自律的な社会的責任判断能力は無関係である。形式外見で本質的な人間性など形成されることはない。
作法形式のような簡単でバカみたいな手法で、あらゆる「人災」への対策が出来るなら、既に統計的実証があって然るべきであって、そんなものは最初から存在しないのである。
北野武なんぞ所詮は大衆迎合であり、「こうすれば世間的評価が得られる。」といった目先の効用しか意識の俎上にはなく。具体性のある論理的人間性の論証など眼中にはない。
こんな話はいちいちおいらが言わなくても自律的に検証すべきことである。
特にマスコミは。
だから学力学歴が高いだけのバカは要らないって言っているのである。
Ende;
○自律とは自発の中にある。
「好きなことばかりをして、多数迎合や権威への服従をすることを覚えないと、社会的責任判断をしなくなる。」という規範意識の観念には論理的根拠がない。
文科系大衆観念的には、自分の好きなことと、他人の顔色を窺うことはバランス問題だと思われているようだが。他人の顔色を窺い、表面的/外見的に取り繕うことでは自律というのは育たず、決してバランス問題ではない。
自律というものは自発の中にあり、他にはない。これは定理であり構造原理である。
個人が主体的に社会の調和/持続可能性を追求するためには、何よりも自発性が重要であり。この自発性というものの解釈の仕方に曖昧さが存在するため、本質的には自発性ではないものを自発性であると錯覚している場合が少なくない。
「やる気。」「意欲。」といったものには、環境依存的なものとして。他者との比較競争や差別化を主体とした意欲というものがあるが、これはあくまで「比較差別を行う多数他者との関係性。」という環境依存性を伴うものであり、本質的な主体性ではない。
学力成績が高い割には自主的に何かを考えることが大嫌いなヒトというのは、成績評価という抽象化された「エサ」報酬に対する条件反射として成績に執着していただけであって。具体的に主体的目的意識も何もなく、ただ無意識に流されるまま強迫観念だけで学力成績を追求してきたヒトである。
こういうヒトには自律がない。
なぜなら自分の行動自体に本質的主体性がなく、環境依存的に提供される「エサ」報酬を動機としてしか行動が促されないように行動「学習」されてしまっているため。「エサ」報酬の約束どころか身の安全の保証すらない自律判断など最初からするつもりは一切ないからである。
「学力成績さえ高ければ、人生の全てが保証されるものである。」という短絡的で安易な大衆観念を鵜呑みにしていなければ、こうした自律のない「高学歴なバカ。」は出てこない。
では、自律はどのようにして行われるようになるのか。
身の安全性の保証すらない自律判断を行うためには、環境依存性を伴うあらゆる「動機」を排除し、本質的に主体性のある純粋で自発的な意欲によって、自分から「生きよう」とする主体的意志が必要不可欠である。
文科系大衆観念的には「社会から生かされている。」などと「生存」自体を絶対視した観念に基づき、現状世間に服従迎合することこそが「社会のため。」だと勘違いしておけば安心満足なのであろうが、こうした主体性の欠落こそが個人から自律を喪失させるのである。
自分自身から「生きよう」とすることで、逆に「いつ死ぬべきか。」も自律的には選択可能となるのであり。その自律選択こそが、本質的な社会安全性にもつながるのである。
事故が起こる前に原発の危険性を訴えていれば、東電内部から排除されるであろうことは予測に難くない。それを「生きるためには。」などと称して東電幹部に服従したからこそ、原発の危険性は放置されたのである。
文科系大衆観念的には、従順で扱い易い子供であれば、常に都合の良い判断の全てをしてくれるものであると勝手に勘違いする傾向があろうが。「自分にとって取り扱い易い。」子供であることが、人間として社会的責任判断を行うことの論理的証明が存在しないことを、多くのヒトは認識していない。
自分にとって取り扱い易い従順なヒトでさえあれば、多くのヒトは安心満足することによって。そのヒトが誰にとっても従順で取り扱い易いという安易さをも兼ね備えていることにまで意識が働いていない。
東電幹部達にとって、従順で取り扱い易い社員は便利で、組織の金儲けを行う上において有利な存在であるため、原発の危険性を隠蔽黙殺させるためには「必要」な存在なのである。
ヒトの多くは自律的な社会的責任判断の重要性にまで配慮することはなく、目先の生活の便利さや、他人との比較による優位性といった物質的豊かさにしか意識が働いていない。
経済学上における自由市場原理というものも、個人が目先の利益効用にしか配慮が回らないという意識狭窄性が生み出すものであり。一人一人が社会全体の公益性にまで配慮する意識の広さを持たないことが自由市場原理の根源的劣悪性を作り出しているのである。
こういった話をすると、大抵の場合、「それは難しい。」などと称して、あたかも論理的に不可能を証明したかのように言い張るバカが少なくないが。「難しい」ことを根拠に「やらなくて良い。」ことにすり替えて良いようなものではない。
入学試験だのビジネスにおいては、やたらと「難しい。」ことを他人に強要する癖に。社会にとって最も重要な安全性に関わる話になると突然「それは難しい。」などと称して拒絶するのは支離滅裂無責任というものである。
こうした論理的には支離滅裂で無責任な観念を、何ら自律的には論理検証せずに漫然と鵜呑みにしているからこそ、ヒトはいつまでもバカが治らないのである。
ヒトの多くは何を優先しなければならないのかという根源的優先順位を忘れ、目先の世間的成功だの評価報酬、他人との比較優位性といったものばかりに意識を奪われている状態というのは、どう考えても「バカ」としか形容不能である。
一部の思想家においては、民主主義自体を否定する向きもあるようだが、これは理想というものを放棄したとんでもないオカルトである。
確かに従来世間においては多数大衆の迎合性判断というものは、社会を破綻にしか導かない傾向性はあったが。それなら専門家である東電原発安全担当者達による判断が正しいと言えるであろうか。
問題の本質というのは制度自体にあるのではなく、個人の自律的な社会的責任判断にあるのであって、バカしかいないから民主主義が「バカ主義」に陥るのであって。これは専門家の集団であっても結果は同じことである。
ナチズムにおいても、当時のドイツ国民の多くはナチズムという権威専門家集団にお任せしておきさえすれば全ては上手く行くものであると錯覚したからこそ、ナチズムに傾倒してしまったとも言えるのであり。権威専門家の全てが常に正しい判断を下すものであると決め付けることこそが独裁政権を生み出す高い危険性を孕んでいる。
航空機の運行や原発の運転など、専門家でなければ危険な事柄というものが存在することは確かであるが。専門家であっても、専門家個人が自律的に社会的責任判断を下せないのであれば、バカげた結果に陥ることは明らかである。
従って最も重要なのは制度そのものではなく、制度の具体的問題点にまで言及可能な個人の自律判断能力の獲得であって。外形である制度そのものを批判することこそがトンチンカンと言える。
原発の過酷事故のような特殊な場面以外においては、原発行政の在り方については市民の意見も採り入れる必要性はあり、決して権威専門家だけに任せ切りにすべきものでもない。利権が絡む以上権威専門家が必ずしも社会的責任判断を優先するとは限らないからである。
制度というのは外形であり、形式の話であって。どのような制度であろうと個人に自律的な社会的責任判断があることが重要なのであり、個人の自律を尊ぶ民主主義制度自体を批判するというのは「何も考えていない。」のと等しい。
「何も考えていない。」ポンコツを「思想家。」として扱うマスコミにも問題がある。
「企業が利益を追求しなければ、公益法人だ。」などというバカげた見解を読んだことがあるが、企業としてのマスコミが単に視聴率だけを追求していれば無責任に数字の採れそうな映像ばかりを垂れ流しておくことも正当化されるのであり。それは東電の原発事故までをも正当化するような話である。
企業であれ、個人であれ、ヒトである以上は社会的責任を負うことから免れることなど構造原理的に出来ない。
それが嫌で、どうしても目先の利益だけしか考えることが出来ない、意識出来ないというのであれば、もはや人間として社会的存在価値など存在せず、動物園の檻の中にでも閉じ込めておく他あるまい。
企業の利益というのは、企業存続のための「手段」であって、企業自体の存在「目的」ではない。これを忘れて利益追求だけを正当化することなど本来出来るわけがないのである。
Ende;
「好きなことばかりをして、多数迎合や権威への服従をすることを覚えないと、社会的責任判断をしなくなる。」という規範意識の観念には論理的根拠がない。
文科系大衆観念的には、自分の好きなことと、他人の顔色を窺うことはバランス問題だと思われているようだが。他人の顔色を窺い、表面的/外見的に取り繕うことでは自律というのは育たず、決してバランス問題ではない。
自律というものは自発の中にあり、他にはない。これは定理であり構造原理である。
個人が主体的に社会の調和/持続可能性を追求するためには、何よりも自発性が重要であり。この自発性というものの解釈の仕方に曖昧さが存在するため、本質的には自発性ではないものを自発性であると錯覚している場合が少なくない。
「やる気。」「意欲。」といったものには、環境依存的なものとして。他者との比較競争や差別化を主体とした意欲というものがあるが、これはあくまで「比較差別を行う多数他者との関係性。」という環境依存性を伴うものであり、本質的な主体性ではない。
学力成績が高い割には自主的に何かを考えることが大嫌いなヒトというのは、成績評価という抽象化された「エサ」報酬に対する条件反射として成績に執着していただけであって。具体的に主体的目的意識も何もなく、ただ無意識に流されるまま強迫観念だけで学力成績を追求してきたヒトである。
こういうヒトには自律がない。
なぜなら自分の行動自体に本質的主体性がなく、環境依存的に提供される「エサ」報酬を動機としてしか行動が促されないように行動「学習」されてしまっているため。「エサ」報酬の約束どころか身の安全の保証すらない自律判断など最初からするつもりは一切ないからである。
「学力成績さえ高ければ、人生の全てが保証されるものである。」という短絡的で安易な大衆観念を鵜呑みにしていなければ、こうした自律のない「高学歴なバカ。」は出てこない。
では、自律はどのようにして行われるようになるのか。
身の安全性の保証すらない自律判断を行うためには、環境依存性を伴うあらゆる「動機」を排除し、本質的に主体性のある純粋で自発的な意欲によって、自分から「生きよう」とする主体的意志が必要不可欠である。
文科系大衆観念的には「社会から生かされている。」などと「生存」自体を絶対視した観念に基づき、現状世間に服従迎合することこそが「社会のため。」だと勘違いしておけば安心満足なのであろうが、こうした主体性の欠落こそが個人から自律を喪失させるのである。
自分自身から「生きよう」とすることで、逆に「いつ死ぬべきか。」も自律的には選択可能となるのであり。その自律選択こそが、本質的な社会安全性にもつながるのである。
事故が起こる前に原発の危険性を訴えていれば、東電内部から排除されるであろうことは予測に難くない。それを「生きるためには。」などと称して東電幹部に服従したからこそ、原発の危険性は放置されたのである。
文科系大衆観念的には、従順で扱い易い子供であれば、常に都合の良い判断の全てをしてくれるものであると勝手に勘違いする傾向があろうが。「自分にとって取り扱い易い。」子供であることが、人間として社会的責任判断を行うことの論理的証明が存在しないことを、多くのヒトは認識していない。
自分にとって取り扱い易い従順なヒトでさえあれば、多くのヒトは安心満足することによって。そのヒトが誰にとっても従順で取り扱い易いという安易さをも兼ね備えていることにまで意識が働いていない。
東電幹部達にとって、従順で取り扱い易い社員は便利で、組織の金儲けを行う上において有利な存在であるため、原発の危険性を隠蔽黙殺させるためには「必要」な存在なのである。
ヒトの多くは自律的な社会的責任判断の重要性にまで配慮することはなく、目先の生活の便利さや、他人との比較による優位性といった物質的豊かさにしか意識が働いていない。
経済学上における自由市場原理というものも、個人が目先の利益効用にしか配慮が回らないという意識狭窄性が生み出すものであり。一人一人が社会全体の公益性にまで配慮する意識の広さを持たないことが自由市場原理の根源的劣悪性を作り出しているのである。
こういった話をすると、大抵の場合、「それは難しい。」などと称して、あたかも論理的に不可能を証明したかのように言い張るバカが少なくないが。「難しい」ことを根拠に「やらなくて良い。」ことにすり替えて良いようなものではない。
入学試験だのビジネスにおいては、やたらと「難しい。」ことを他人に強要する癖に。社会にとって最も重要な安全性に関わる話になると突然「それは難しい。」などと称して拒絶するのは支離滅裂無責任というものである。
こうした論理的には支離滅裂で無責任な観念を、何ら自律的には論理検証せずに漫然と鵜呑みにしているからこそ、ヒトはいつまでもバカが治らないのである。
ヒトの多くは何を優先しなければならないのかという根源的優先順位を忘れ、目先の世間的成功だの評価報酬、他人との比較優位性といったものばかりに意識を奪われている状態というのは、どう考えても「バカ」としか形容不能である。
一部の思想家においては、民主主義自体を否定する向きもあるようだが、これは理想というものを放棄したとんでもないオカルトである。
確かに従来世間においては多数大衆の迎合性判断というものは、社会を破綻にしか導かない傾向性はあったが。それなら専門家である東電原発安全担当者達による判断が正しいと言えるであろうか。
問題の本質というのは制度自体にあるのではなく、個人の自律的な社会的責任判断にあるのであって、バカしかいないから民主主義が「バカ主義」に陥るのであって。これは専門家の集団であっても結果は同じことである。
ナチズムにおいても、当時のドイツ国民の多くはナチズムという権威専門家集団にお任せしておきさえすれば全ては上手く行くものであると錯覚したからこそ、ナチズムに傾倒してしまったとも言えるのであり。権威専門家の全てが常に正しい判断を下すものであると決め付けることこそが独裁政権を生み出す高い危険性を孕んでいる。
航空機の運行や原発の運転など、専門家でなければ危険な事柄というものが存在することは確かであるが。専門家であっても、専門家個人が自律的に社会的責任判断を下せないのであれば、バカげた結果に陥ることは明らかである。
従って最も重要なのは制度そのものではなく、制度の具体的問題点にまで言及可能な個人の自律判断能力の獲得であって。外形である制度そのものを批判することこそがトンチンカンと言える。
原発の過酷事故のような特殊な場面以外においては、原発行政の在り方については市民の意見も採り入れる必要性はあり、決して権威専門家だけに任せ切りにすべきものでもない。利権が絡む以上権威専門家が必ずしも社会的責任判断を優先するとは限らないからである。
制度というのは外形であり、形式の話であって。どのような制度であろうと個人に自律的な社会的責任判断があることが重要なのであり、個人の自律を尊ぶ民主主義制度自体を批判するというのは「何も考えていない。」のと等しい。
「何も考えていない。」ポンコツを「思想家。」として扱うマスコミにも問題がある。
「企業が利益を追求しなければ、公益法人だ。」などというバカげた見解を読んだことがあるが、企業としてのマスコミが単に視聴率だけを追求していれば無責任に数字の採れそうな映像ばかりを垂れ流しておくことも正当化されるのであり。それは東電の原発事故までをも正当化するような話である。
企業であれ、個人であれ、ヒトである以上は社会的責任を負うことから免れることなど構造原理的に出来ない。
それが嫌で、どうしても目先の利益だけしか考えることが出来ない、意識出来ないというのであれば、もはや人間として社会的存在価値など存在せず、動物園の檻の中にでも閉じ込めておく他あるまい。
企業の利益というのは、企業存続のための「手段」であって、企業自体の存在「目的」ではない。これを忘れて利益追求だけを正当化することなど本来出来るわけがないのである。
Ende;
○論理検証性には自発性が優先される。
本質的な自発的論理思考というのは、先ず初めに自発性が優先されなければならない。
現在の認知科学的基準における論理思考能力試験でどんなに高い成績を獲得しても、試験でしか発揮されない論理思考などクソの役にも立たないからである。
現在の認知科学者達がでっちあげた能力試験のほとんどには、論理的根拠などほとんどなく、「論理的思考能力を測るには、こういった試験問題が基準になるであろう。」という観念的憶測によって作られたものに過ぎない。
知能指数いわゆるIQというものも、そもそもは60年以上前に兵隊への適性を検証するために作られた基準に過ぎず、IQが高いからといって人間としての知能を兼ね備えていることの論理的根拠など一切ない。大体兵隊に適しているということは権威への服従迎合性を兼ね備えていなければならず、自律的論理検証性を測る基準には全くなっていないため、何ら本質的知能を測る基準にはならない。
そもそも論理検証というのは先天的或は後天的な思考バイアスに流されることなく、本質的な自己による主体的選択によって築かれるものであるからだ。
数学数理というのもかなり怪しく、数学マニアが養老孟司の論理整合性の欠落を指摘した例はほとんどない。数学能力が論理検証性を促すというのであれば、数学者のほとんど全員が養老の支離滅裂さを指摘していないとおかしいのだが。現実にはほとんど誰も言及していない。
「品格」云々の流行を作った数学者というのがいるが、そもそも「品格」自体に論理的根拠など一切なく、あくまで主観的な感覚以上の何も論じてはいない。彼は東北震災時の千葉県ブタンコンビナート火災を挙げて、「ブタンが燃えても二酸化炭素しか出ないから人体には無害だ。」と言い張ったが、現実には二酸化炭素というは無色透明であって、黒煙を上げているのは不完全燃焼による煤煙であって、これは決して無害ではない。ネット上で騒がれた程の危険性はないものの、大気汚染があったのは事実である。
文科系大衆観念的には多数大衆に人気が出て、世間的に成功していさえすれば常に正しい判断を下すものであると勝手に妄想する性質があるが。マスコミが取り上げる基準自体が科学論理的根拠に乏しく、あくまで大衆多数人気を基準にしたウケ狙いに過ぎないことを認識すべきである。
そもそもマスコミというのは、読者視聴者に判断責任をなすりつけて、自分達の判断責任を「メディアリテラシー」などと称して丸投げするものであり。マスコミの目的は自分達の表面的評価による組織の利益追求であって、こうした無責任さは東電原発の暴走と構造的には全く同じものである。
自分の感情が促す行動バイアスの全てが常に正しいという妄想を、ヒトの多くは漠然と抱いているため、「感情=人間としての心。」という短絡的方程式に則って判断しがちである。
ヒトの多くは大脳辺縁系が促す感情によって作り出される思考バイアス自体が無意識であることを認識していない。だからこそ気分感情が促す思考バイアスを短絡的に「心」であると言い張るのである。
ヒトの多くは環境依存的要因によって行動のほとんどが決定する傾向習性があり、これらは全て無意識な感情が作り出す条件反射行動に過ぎない。
原発の危険性を放置したのも、スペースシャトルの危険性を放置したことも、集団組織的な暴動や虐殺に加わることも、学校や企業でのイジメ差別迫害も、これらは全てヒトの感情が促す無意識な行動バイアスの結果であり。これを短絡的に「ヒトの心。」などと形容するのはとんでもない大嘘なのである。
チンパンジーなどのサルには感情は存在しても、人間としての「心。」に至るまでの自己行動検証性など存在しない。それを「サルにも心がある。」などと言い張る現在の生物学者はオカルト宗教としか言いようがない。
ヒトが差別迫害を行うのは、気分感情による行動バイアスに無意識に流されているからこその結果であり。差別迫害が正当化されないのは「人間」にとってだけの価値観であって。現在の生物学上における生存価だけを論ずれば、差別迫害であっても「より強い生存に適した個体を選択するための本能的目的である。」などと言い張ることは極めて簡単である。
「心。」とは、単なる感情に由来する無意識な行動バイアスに流されることなく、自律的論理検証によって社会全体の安全性や持続可能性に供する行動を採ることによって、結果的に促されるものであって。ヒトの感情の全てが短絡的に「心。」であるなどと言い張るのは、あまりに無責任な文科系大衆観念である。
「優しい気持ち。」になれるかどうか、それを「心。」などと形容するのも無責任である。気持ちという大脳辺縁系の反射が行動に短絡的に影響している時点で、これは心でもなんでもなく、DV男が散々暴力を振るった後に脳内物質の相転移によって行動が急変しているのと同じであるからだ。
社会安全性に関わる判断を行う場合、それが企業組織の利益に反するなどの「理由」によって、安全性を優先することが個人の利益に反する場合というのは決して少なくはない。イジメにおいても暴力的イジメ集団に迎合しておかないと自分も排除される可能性は少なくない。
こうした集団的な「力」に抗うのは気分感情ではなく、徹頭徹尾自律判断であって。どんなに気分の悪い結果になりそうだとしても個人が自発的に選択しなければ人間としての「心。」とは形容すべきではない。
ヒトの多くは自分の意識の全てが常に100%意識であると錯覚しているため、自分の気分感情を短絡的に人間としての「心。」であると勘違いする傾向がある。こういった錯覚に陥っているヒトに限って「自分だけは大丈夫。」などと言い張るものである。
ヒトである以上、間違えないヒトなどいない。
自分が間違った判断を下す可能性を認識しているからこそ、本当の意味での意識/自律的論理検証が働くのであり。これを拒絶するのは気分感情が優先しているからに他ならない。
「自分だけは絶対に大丈夫。」だと盲信しておけば、自分の頭の悪さを認識せずに済むため、気分的には安心で満足なのであろう。
自分が間違った判断をしてしまう理由も、多数他人が作り出した社会環境の処為であると思い込んでおくことで判断責任を放棄出来るものであると勝手に勘違いすることも簡単であろう。
実際には多数他人が作り出す社会環境自体には、論理的には何の安全性の保証も存在しないことを、ヒトの多くは認識しておらず。単に「多数である。」というだけで安心満足しているに過ぎない。
目先の気分感情でしか行動が決定しないというのであれば、これは統合失調症の一種に過ぎず、病気である。多数派が共通して持っている病理であれば、多くの場合病気としては扱われないものであるが、本能先天的行動バイアスによって自律的な社会的責任判断が失われることは充分先天的疾患なのである。
こうした本能由来の社会迎合習性による自律判断の喪失性というものが、あらゆるヒトに存在することを前提とすれば。「自分だけは絶対に大丈夫。」などという無責任な妄想に陥ることはなく、「感情気分=心。」などという短絡的方程式を鵜呑みにすることもないはずである。
Ende;
本質的な自発的論理思考というのは、先ず初めに自発性が優先されなければならない。
現在の認知科学的基準における論理思考能力試験でどんなに高い成績を獲得しても、試験でしか発揮されない論理思考などクソの役にも立たないからである。
現在の認知科学者達がでっちあげた能力試験のほとんどには、論理的根拠などほとんどなく、「論理的思考能力を測るには、こういった試験問題が基準になるであろう。」という観念的憶測によって作られたものに過ぎない。
知能指数いわゆるIQというものも、そもそもは60年以上前に兵隊への適性を検証するために作られた基準に過ぎず、IQが高いからといって人間としての知能を兼ね備えていることの論理的根拠など一切ない。大体兵隊に適しているということは権威への服従迎合性を兼ね備えていなければならず、自律的論理検証性を測る基準には全くなっていないため、何ら本質的知能を測る基準にはならない。
そもそも論理検証というのは先天的或は後天的な思考バイアスに流されることなく、本質的な自己による主体的選択によって築かれるものであるからだ。
数学数理というのもかなり怪しく、数学マニアが養老孟司の論理整合性の欠落を指摘した例はほとんどない。数学能力が論理検証性を促すというのであれば、数学者のほとんど全員が養老の支離滅裂さを指摘していないとおかしいのだが。現実にはほとんど誰も言及していない。
「品格」云々の流行を作った数学者というのがいるが、そもそも「品格」自体に論理的根拠など一切なく、あくまで主観的な感覚以上の何も論じてはいない。彼は東北震災時の千葉県ブタンコンビナート火災を挙げて、「ブタンが燃えても二酸化炭素しか出ないから人体には無害だ。」と言い張ったが、現実には二酸化炭素というは無色透明であって、黒煙を上げているのは不完全燃焼による煤煙であって、これは決して無害ではない。ネット上で騒がれた程の危険性はないものの、大気汚染があったのは事実である。
文科系大衆観念的には多数大衆に人気が出て、世間的に成功していさえすれば常に正しい判断を下すものであると勝手に妄想する性質があるが。マスコミが取り上げる基準自体が科学論理的根拠に乏しく、あくまで大衆多数人気を基準にしたウケ狙いに過ぎないことを認識すべきである。
そもそもマスコミというのは、読者視聴者に判断責任をなすりつけて、自分達の判断責任を「メディアリテラシー」などと称して丸投げするものであり。マスコミの目的は自分達の表面的評価による組織の利益追求であって、こうした無責任さは東電原発の暴走と構造的には全く同じものである。
自分の感情が促す行動バイアスの全てが常に正しいという妄想を、ヒトの多くは漠然と抱いているため、「感情=人間としての心。」という短絡的方程式に則って判断しがちである。
ヒトの多くは大脳辺縁系が促す感情によって作り出される思考バイアス自体が無意識であることを認識していない。だからこそ気分感情が促す思考バイアスを短絡的に「心」であると言い張るのである。
ヒトの多くは環境依存的要因によって行動のほとんどが決定する傾向習性があり、これらは全て無意識な感情が作り出す条件反射行動に過ぎない。
原発の危険性を放置したのも、スペースシャトルの危険性を放置したことも、集団組織的な暴動や虐殺に加わることも、学校や企業でのイジメ差別迫害も、これらは全てヒトの感情が促す無意識な行動バイアスの結果であり。これを短絡的に「ヒトの心。」などと形容するのはとんでもない大嘘なのである。
チンパンジーなどのサルには感情は存在しても、人間としての「心。」に至るまでの自己行動検証性など存在しない。それを「サルにも心がある。」などと言い張る現在の生物学者はオカルト宗教としか言いようがない。
ヒトが差別迫害を行うのは、気分感情による行動バイアスに無意識に流されているからこその結果であり。差別迫害が正当化されないのは「人間」にとってだけの価値観であって。現在の生物学上における生存価だけを論ずれば、差別迫害であっても「より強い生存に適した個体を選択するための本能的目的である。」などと言い張ることは極めて簡単である。
「心。」とは、単なる感情に由来する無意識な行動バイアスに流されることなく、自律的論理検証によって社会全体の安全性や持続可能性に供する行動を採ることによって、結果的に促されるものであって。ヒトの感情の全てが短絡的に「心。」であるなどと言い張るのは、あまりに無責任な文科系大衆観念である。
「優しい気持ち。」になれるかどうか、それを「心。」などと形容するのも無責任である。気持ちという大脳辺縁系の反射が行動に短絡的に影響している時点で、これは心でもなんでもなく、DV男が散々暴力を振るった後に脳内物質の相転移によって行動が急変しているのと同じであるからだ。
社会安全性に関わる判断を行う場合、それが企業組織の利益に反するなどの「理由」によって、安全性を優先することが個人の利益に反する場合というのは決して少なくはない。イジメにおいても暴力的イジメ集団に迎合しておかないと自分も排除される可能性は少なくない。
こうした集団的な「力」に抗うのは気分感情ではなく、徹頭徹尾自律判断であって。どんなに気分の悪い結果になりそうだとしても個人が自発的に選択しなければ人間としての「心。」とは形容すべきではない。
ヒトの多くは自分の意識の全てが常に100%意識であると錯覚しているため、自分の気分感情を短絡的に人間としての「心。」であると勘違いする傾向がある。こういった錯覚に陥っているヒトに限って「自分だけは大丈夫。」などと言い張るものである。
ヒトである以上、間違えないヒトなどいない。
自分が間違った判断を下す可能性を認識しているからこそ、本当の意味での意識/自律的論理検証が働くのであり。これを拒絶するのは気分感情が優先しているからに他ならない。
「自分だけは絶対に大丈夫。」だと盲信しておけば、自分の頭の悪さを認識せずに済むため、気分的には安心で満足なのであろう。
自分が間違った判断をしてしまう理由も、多数他人が作り出した社会環境の処為であると思い込んでおくことで判断責任を放棄出来るものであると勝手に勘違いすることも簡単であろう。
実際には多数他人が作り出す社会環境自体には、論理的には何の安全性の保証も存在しないことを、ヒトの多くは認識しておらず。単に「多数である。」というだけで安心満足しているに過ぎない。
目先の気分感情でしか行動が決定しないというのであれば、これは統合失調症の一種に過ぎず、病気である。多数派が共通して持っている病理であれば、多くの場合病気としては扱われないものであるが、本能先天的行動バイアスによって自律的な社会的責任判断が失われることは充分先天的疾患なのである。
こうした本能由来の社会迎合習性による自律判断の喪失性というものが、あらゆるヒトに存在することを前提とすれば。「自分だけは絶対に大丈夫。」などという無責任な妄想に陥ることはなく、「感情気分=心。」などという短絡的方程式を鵜呑みにすることもないはずである。
Ende;
○腐敗。
ヒトの集団による組織腐敗というのは珍しいものではない。
大王製紙の御曹子による使い込みや、西武グループ元会長によるインサイダー取引、東電による原発の危険性放置など。挙げればキリががないが、組織腐敗というものは組織を構成する個人には腐敗の意識が全くないことによって、組織腐敗というものは進行する。
子供や企業でのイジメというものも、ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた組織腐敗性によって作り出されるものであり。組織腐敗というものは極めて普遍的なヒトの先天的習性によって促される日常的なものである。
オウム真理教の幹部達が、自分達のテロ行為を本気で「人類の救済」だと信じ込んでいるように。大王製紙の経理担当者は取締役幹部の使い込みを隠蔽することが仕事だと思い込み、西武グループの社員達は会長の権限は絶対だと思い込み、東電原発安全担当者達は津波の影響を考慮に入れないことが仕事だと信じ込んでいたのである。
かつてナチス政権下のドイツでは、国民の大半がナチズムを信奉したが。これはヒトラー個人による洗脳能力によって作り出されたものではなく、ヒトラーを信じ込んだ多数派が作り出した雰囲気、空気によって洗脳というものは進行するのである。
イジメというものも、個人が個人を攻撃しているだけならイジメにはならない。イジメがイジメとなるのは多数派同調バイアスが作り出す気分的安心満足という先天的行動バイアスによって集団組織的な排除差別の結果であり、「ヒトという種の生物でありさえすれば人間性が先天的に宿っているものである。」という文科系大衆観念的妄想こそが、イジメ差別というものを正当化してしまう大きな要因でもある。
「自分だけは絶対に大丈夫。」とは、振り込め詐欺被害者の多くが信じ込んでいた勝手な妄想である。これと同様、組織腐敗に加担しているヒトの多くも、自分だけは異常ではないと勝手に妄想しているからこそ、組織腐敗は進行するのである。
生物学者達の多くも、よもや自分が組織腐敗に加担しているとは夢にも思っていないかも知れないが。「生存戦略」などという論理的根拠を全く伴わない妄想観念を、観念かどうかを全く論理検証しない無意識性こそが腐敗を招いているのである。
あらゆる遺伝要素は自然淘汰の「結果」であり、何ら個体の「目的」意識が介在する余地は論理構造原理的にない。従って、生物の先天的機能の全ては個体の選択が介在する余地はない。
生物の行動の全てが、常に個体や種の保存に適した行動しかしない論証など存在せず。全ては「結果」論以外の何物でもない。
生物学者の多くは、特定能力だけを取り上げることで、あたかも知能の全てを説明したかのような妄想に取り憑かれているが。自律的な社会的責任判断が伴わないあらゆる特定能力の全てには、本質的な人間としての知能の証明には全くならない。
ヒトの先天的な社会形成習性が、常に社会全体の安全性や持続可能性に基づいた結果しかもたらさない証明などなく。むしろ集団組織的な暴力をもたらすことの方が普遍的で圧倒的に多く。実証の必要性もない現象的事実である。
組織腐敗というものは、現在の生物学上では何ら「悪い。」ことではなく。むしろ断片的に生存に適する結果をもたらしさえすれば、生物の行動としては「正しい。」と定義されているのである。
こうした生物学界の異常性を、生物学に分類される認知神経脳科学者の誰も言及していない。
「これさえやっときゃ脳の良い。」などという大嘘で大衆人気を得て世間的には金儲けに成功した茂木健一郎などというのは、いうなれば振り込め詐欺の要領手口を応用した脱法詐欺に他ならない。
茂木健一郎を全く批判せず、あわよくば自分達も脳ブームに便乗して脱法詐欺に加担しようとしている現在の認知神経脳科学者達のほとんど全員も、生物学界の組織腐敗に加担しているのである。
彼等はこう取り繕うであろう、「世間のニーズである。」と。だが、これは大衆迎合ではあっても科学としての社会的要求に応えたことには全くならない。
たとえどんなにマスコミ文科系高学歴エリートの多くが現在の生物学界の組織腐敗を認識出来ないとしても、認識出来ない時点で組織腐敗に加担していることになるのである。
あらゆる企業は組織の利益を追求することが目的ではなく、あくまで企業活動によって社会貢献することが目的でなくてはならない。企業存続のための利益というのは社会貢献の結果でなければならないのである。
こういった「理想」を述べると、無意識なヒトの多くは「それは理想だ。」などと称して、あたかも実現不可能なお伽話であるかのように言い張るが。理想を持たずに一体どこへ向かおうとしているのであろうか。一体何を基準に行動選択を行うつもりなのであろうか。
単に現状世間に迎合し、何の理想も持たずに漫然と目先の利益を追求していれば、気分的には安心で満足を得ることは簡単であろう。
事故さえ起きなければ原発の危険性を放置することは、東電にとって組織的利益となっていたであろう。しかし、事故が起きる前に危険性を訴え続ければ、東電をクビになるのは当たり前である。
現状世間構造に迎合し、漫然と無意識に流されるままでいることは、組織腐敗に加担していることと等価である。
すなはち、「それは理想だ。」と称して実現不可能性の証明であることのように言い張ることは、現状世間の腐敗性や問題点の全てを放置することを意味するのである。
人間としての社会的責任判断というものは、本来全てのヒトに課された義務である。特定の技術者や天才だけにお任せしておけば社会安全性や持続可能性が確立されるような短絡的で安易なものではない。
社会全体の安全性や持続可能性を考慮の全てに入れて行動することは簡単ではない。見落とすことも少なからずあるはずであり、これは「ヒト」である以上不可避ではあるが。可能な範囲ですら考慮に入れないための言い逃れとして理想を放棄することは、社会的には合法犯罪に他ならない。
こうした合法犯罪というものは、司法手続き上は罪を問われることはないが。社会の破綻を放置し、暴走を促すことで社会全体が被害を被るのである。
ヒトの多くは多数派に迎合しておけば、社会が破綻しても責任は多数派にあって自分にはないと勝手に妄想するであろう。こういった無意識な無責任さこそが、組織腐敗を招き、社会を破綻暴走へと導くのである。
Ende;
ヒトの集団による組織腐敗というのは珍しいものではない。
大王製紙の御曹子による使い込みや、西武グループ元会長によるインサイダー取引、東電による原発の危険性放置など。挙げればキリががないが、組織腐敗というものは組織を構成する個人には腐敗の意識が全くないことによって、組織腐敗というものは進行する。
子供や企業でのイジメというものも、ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた組織腐敗性によって作り出されるものであり。組織腐敗というものは極めて普遍的なヒトの先天的習性によって促される日常的なものである。
オウム真理教の幹部達が、自分達のテロ行為を本気で「人類の救済」だと信じ込んでいるように。大王製紙の経理担当者は取締役幹部の使い込みを隠蔽することが仕事だと思い込み、西武グループの社員達は会長の権限は絶対だと思い込み、東電原発安全担当者達は津波の影響を考慮に入れないことが仕事だと信じ込んでいたのである。
かつてナチス政権下のドイツでは、国民の大半がナチズムを信奉したが。これはヒトラー個人による洗脳能力によって作り出されたものではなく、ヒトラーを信じ込んだ多数派が作り出した雰囲気、空気によって洗脳というものは進行するのである。
イジメというものも、個人が個人を攻撃しているだけならイジメにはならない。イジメがイジメとなるのは多数派同調バイアスが作り出す気分的安心満足という先天的行動バイアスによって集団組織的な排除差別の結果であり、「ヒトという種の生物でありさえすれば人間性が先天的に宿っているものである。」という文科系大衆観念的妄想こそが、イジメ差別というものを正当化してしまう大きな要因でもある。
「自分だけは絶対に大丈夫。」とは、振り込め詐欺被害者の多くが信じ込んでいた勝手な妄想である。これと同様、組織腐敗に加担しているヒトの多くも、自分だけは異常ではないと勝手に妄想しているからこそ、組織腐敗は進行するのである。
生物学者達の多くも、よもや自分が組織腐敗に加担しているとは夢にも思っていないかも知れないが。「生存戦略」などという論理的根拠を全く伴わない妄想観念を、観念かどうかを全く論理検証しない無意識性こそが腐敗を招いているのである。
あらゆる遺伝要素は自然淘汰の「結果」であり、何ら個体の「目的」意識が介在する余地は論理構造原理的にない。従って、生物の先天的機能の全ては個体の選択が介在する余地はない。
生物の行動の全てが、常に個体や種の保存に適した行動しかしない論証など存在せず。全ては「結果」論以外の何物でもない。
生物学者の多くは、特定能力だけを取り上げることで、あたかも知能の全てを説明したかのような妄想に取り憑かれているが。自律的な社会的責任判断が伴わないあらゆる特定能力の全てには、本質的な人間としての知能の証明には全くならない。
ヒトの先天的な社会形成習性が、常に社会全体の安全性や持続可能性に基づいた結果しかもたらさない証明などなく。むしろ集団組織的な暴力をもたらすことの方が普遍的で圧倒的に多く。実証の必要性もない現象的事実である。
組織腐敗というものは、現在の生物学上では何ら「悪い。」ことではなく。むしろ断片的に生存に適する結果をもたらしさえすれば、生物の行動としては「正しい。」と定義されているのである。
こうした生物学界の異常性を、生物学に分類される認知神経脳科学者の誰も言及していない。
「これさえやっときゃ脳の良い。」などという大嘘で大衆人気を得て世間的には金儲けに成功した茂木健一郎などというのは、いうなれば振り込め詐欺の要領手口を応用した脱法詐欺に他ならない。
茂木健一郎を全く批判せず、あわよくば自分達も脳ブームに便乗して脱法詐欺に加担しようとしている現在の認知神経脳科学者達のほとんど全員も、生物学界の組織腐敗に加担しているのである。
彼等はこう取り繕うであろう、「世間のニーズである。」と。だが、これは大衆迎合ではあっても科学としての社会的要求に応えたことには全くならない。
たとえどんなにマスコミ文科系高学歴エリートの多くが現在の生物学界の組織腐敗を認識出来ないとしても、認識出来ない時点で組織腐敗に加担していることになるのである。
あらゆる企業は組織の利益を追求することが目的ではなく、あくまで企業活動によって社会貢献することが目的でなくてはならない。企業存続のための利益というのは社会貢献の結果でなければならないのである。
こういった「理想」を述べると、無意識なヒトの多くは「それは理想だ。」などと称して、あたかも実現不可能なお伽話であるかのように言い張るが。理想を持たずに一体どこへ向かおうとしているのであろうか。一体何を基準に行動選択を行うつもりなのであろうか。
単に現状世間に迎合し、何の理想も持たずに漫然と目先の利益を追求していれば、気分的には安心で満足を得ることは簡単であろう。
事故さえ起きなければ原発の危険性を放置することは、東電にとって組織的利益となっていたであろう。しかし、事故が起きる前に危険性を訴え続ければ、東電をクビになるのは当たり前である。
現状世間構造に迎合し、漫然と無意識に流されるままでいることは、組織腐敗に加担していることと等価である。
すなはち、「それは理想だ。」と称して実現不可能性の証明であることのように言い張ることは、現状世間の腐敗性や問題点の全てを放置することを意味するのである。
人間としての社会的責任判断というものは、本来全てのヒトに課された義務である。特定の技術者や天才だけにお任せしておけば社会安全性や持続可能性が確立されるような短絡的で安易なものではない。
社会全体の安全性や持続可能性を考慮の全てに入れて行動することは簡単ではない。見落とすことも少なからずあるはずであり、これは「ヒト」である以上不可避ではあるが。可能な範囲ですら考慮に入れないための言い逃れとして理想を放棄することは、社会的には合法犯罪に他ならない。
こうした合法犯罪というものは、司法手続き上は罪を問われることはないが。社会の破綻を放置し、暴走を促すことで社会全体が被害を被るのである。
ヒトの多くは多数派に迎合しておけば、社会が破綻しても責任は多数派にあって自分にはないと勝手に妄想するであろう。こういった無意識な無責任さこそが、組織腐敗を招き、社会を破綻暴走へと導くのである。
Ende;