哲学の目的は 真理(本当のこと)を見極めることである
これは科学も含めて大前提である
「考える」とは 論理客観的に「正しいこと」の積み重ねによってより高次の真理を導き出すことである
しかし 「考えた」からといって必ずしも客観的真偽の判定が可能とは限らない
論理客観的に真偽の判定ができないのであれば それは「わからない」と答えを保留する姿勢も必要である
ところが ヒトというのは「わからないこと」を「わからないこと」として素直に受け入れることが主観的(感情的)に嫌なので 論理客観的には根拠がない勝手な決めつけによって無理やり「答え」をでっち上げてデマや嘘を信じようとする習性がある
だから科学や哲学の考え方というものが必要となるのである
現状のバカな哲学者共というのは 「答えを出してはいけない」などと言い出すが これも明らかにおかしな話である
哲学で「答えを出してはいけない」ことの論理客観的な根拠や証拠は何もないからだ
物事を論理客観的に「考える」というのは あくまで「答えがある」可能性に基づいて行われるのであって 「答えがない」ことが論理客観的に証明されている命題であるならば それは最初から「考える」必要のないものである
「答えがあるかどうかがわからない命題」であるならば それは考える価値はあるが 大抵のヒトというのは「答えがあるかどうかがわからない命題」を考えるのが面倒なので考えようともしなくなる性質がある
有名国立大学の哲学科教授が「答えを出してはいけない」と言ったからといって 「答えを出してはいけない」ことの論理客観的な根拠や証拠は一切なく 盲目的に「哲学科権威がそう言っているから」と「哲学とはそういうものだ」と盲目的に鵜呑みにし 哲学や科学における最も大切な「問い」や素朴な疑問としての「なぜ」という「考え」を簡単に放棄してしまう先天的な認知上の重大な欠陥を ヒトという種の生物は持っているのである
「答えに辿り着けなくても良い」と言うことはできるが 「答えを出してはいけない」ことにはならない
「答え」があるかどうかがわからない命題の場合 「答え」を導き出すことが可能であるなら導き出して構わない
ただし あくまで主観的「決めつけ」ではなく 論理客観的に欠落のないことが前提である
現状の哲学界というのは 「答えを出してはいけない」などという荒唐無稽なデマをでっち上げることによって 物事の真偽判定すらも放棄し イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における実証不能の「悟性」だの「叡智界」といった論理客観的には何の根拠も証拠もないオカルト話すらも「哲学」として取り扱うという極めて無責任なことを続けているペテン師の集まりである
物事の真偽判定は一つの「答え」である
そもそも科学や哲学というのは「真理(本当のこと)」か それとも論理客観的には根拠がない嘘や間違いなのかを見極めるためのものであり 論理客観的に何の根拠も証拠もなしに「答えを出してはいけない」と哲学科権威に言われたからといって それが本当に哲学なのかどうかを考えなくて良いわけではない
「考えない」時点で 既に哲学を逸脱していることには 多くのヒトは気付くことすらできないバカなのである
マイケル:サンデルの「トロッコ問題」には 最初から倫理が含まれていないにも関わらず 主観的(気分的)に「悩ましい」ために ヒトの多くは「どこかに倫理的な正解があるのではないか」と無駄に考えようとしてしまい そもそも倫理的根拠の何もない命題であるにも関わらず無駄に「答え」を追い求めようとしてしまい その主観的な「悩み」を「考え」だと錯覚し 「自分は頭を使った」と倒錯して満足する
その上 ついでにサンデルの講義によって「自分の頭が良くなった」と錯覚してサンデルを主観的に「好き」なり 益々盲目的信奉に陥るのである
サンデルから提供されたルールの中だけで何かを「考えた」つもりになっているが サンデルが提供している命題そのものに最初から倫理が含まれていないことには誰も「考え」が及ばない
サンデルは「トロッコ問題」の講義をする際に 冒頭で「正義や倫理の話をしよう」と宣言しており この時点でサンデルは既に「嘘」をついているのである
この「嘘」に対して 偏差値が高いだけのバカ学生共のほぼ全員は誰も気付くことができないバカなのである
念の為に言っておくが 「トロッコ問題」には論理客観的な倫理も正義も存在しておらず ただ主観的に「悩ましい」だけで倫理的には何の結論にも到達不可能な命題である
ヒトというのは権威序列に思考を抑制され 簡単に嘘や間違いを鵜呑みにしてしまう認知上の重大な欠陥を先天的に持っているのであり スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験(通称「アイヒマン実験」)において大多数のヒトが権威の命令に従って他人に危害を加えてしまう結果も実証されている
振り込め詐欺などの「特殊詐欺」においても こうした権威に対する盲目的服従性が利用され やれ「裁判所」だの「警察」だの「弁護士」だの名のりさえすれば大抵のヒトは指示されたことに唯々諾々と従ってしまうものなのである
嘘やデマに騙されないために必要なのが論理客観的に「考える」ことであり 科学や哲学というのはそのためのスキルである
「自分には先天的な頭の悪さがあって 騙されるかも知れない」と「思う」ことが主観的に不安な場合に 「それなら物事の一つ一つを丁寧に 主観的感情に流されることなく冷静に論理客観的に検証するようにしよう」とはならず 目先の主観的な不安を取り除くことを優先して「自分はバカではないから 決して騙されたりはしないはずだ」と主観的に「思いこむ」ための様々な言い逃れを積み重ねることによって 騙される危険性から目を背け 「なかった」ことにして安心満足することで忘れようとする
山口大学の小川仁志にように 真偽の判定など一切することなく古典的に「哲学」とみなされている著作からご都合主義的な「解釈」をこじつけ 主観的な「悩み」を解消して人気を得ているペテン師も多い
ヒトの大半は主観的な「不安」や「悩み」と 論理客観的な「考え」との区別がつかない
これもまたヒトという種の生物における重大な認知的欠陥によるものである
主観的な「不安」や「悩み」をいくら解消しても 論理客観的には何の「答え」にも「解決」なることはない
フリードリヒ:ニーチェはこう述べた「できそうにないことは やらない方が良い」と
「できそう」かどうかは個人によって異なる主観に過ぎず 論理客観的に「できない」ことの根拠や証拠には一切ならない
東京電力福島第一原子力発電所において 原発の津波に対する脆弱性を上司に訴えても「できそうにない」からといって「やらない方が良い」などという無責任な話にはならない
NASAのスペースシャトル「チャレンジャー号」の補助推進エンジンのOリングが低温によって機能を失い爆発の危険性があることを 発射責任者にいくら訴えてもきき入れてもらえそうにないからといって「やらない方が良い」などという話にもならない
どうにでも都合よく解釈可能なニーチェの言説を 主観的に安心満足できるだけの話を「哲学」だと倒錯するのは無責任にも程がある
卑怯な哲学者共はこうも述べる 「哲学には好き嫌いがあります」と
「好き嫌い」そのものが主観であって 論理客観的な真偽の判定とは全く無関係な話であり 何ら真偽の判定という「答え」すらも放棄するための屁理屈であっても 「哲学者」という肩書(権威)さえあればヒトは簡単に鵜呑みにし 「論理客観的な真偽の判定」すらも放棄し また それを放棄している無責任さすらも意識から逸らすことで現状の哲学界の腐敗すらも撹乱しているのである
私からすれば 騙されている方もまた「同罪」であり バカであることにおいて何の違いもない
私は決して「天才」ではない
ただ 疑うことを忘れないだけであり 権威を疑うことに対する根拠のない罪悪感に鈍感なだけであろう
教えれられば大多数のヒトが嘘だと気付ける話である以上 そもそも私以外が誰も「考え」ていなかったという頭の悪さの証明であり
その先天的な頭の悪さというものを認識し 各々が自分の頭で物事の真偽を判定することを忘れないことが重要である
小川仁志のように主観的な「悩み」や「不安」を解消することで主観的に安心満足して何の疑いも持たなくなるように誘導する卑劣なバカ「哲学者」は多い
バカが多いからといってバカが正当化できるわけでもなく 先天的な頭の悪さだからといって克服しなくても良い理由にもならない
バカしかいない社会が破綻するのは必然である
バカが多すぎて社会が破綻するのは私の責任の範疇ではない
Ende;