書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

破綻の責任

2024年03月09日 00時24分45秒 | 意識論関連

哲学の目的は 真理(本当のこと)を見極めることである

これは科学も含めて大前提である

 

「考える」とは 論理客観的に「正しいこと」の積み重ねによってより高次の真理を導き出すことである

しかし 「考えた」からといって必ずしも客観的真偽の判定が可能とは限らない

論理客観的に真偽の判定ができないのであれば それは「わからない」と答えを保留する姿勢も必要である

ところが ヒトというのは「わからないこと」を「わからないこと」として素直に受け入れることが主観的(感情的)に嫌なので 論理客観的には根拠がない勝手な決めつけによって無理やり「答え」をでっち上げてデマや嘘を信じようとする習性がある

だから科学や哲学の考え方というものが必要となるのである

 

現状のバカな哲学者共というのは 「答えを出してはいけない」などと言い出すが これも明らかにおかしな話である

哲学で「答えを出してはいけない」ことの論理客観的な根拠や証拠は何もないからだ

物事を論理客観的に「考える」というのは あくまで「答えがある」可能性に基づいて行われるのであって 「答えがない」ことが論理客観的に証明されている命題であるならば それは最初から「考える」必要のないものである

「答えがあるかどうかがわからない命題」であるならば それは考える価値はあるが 大抵のヒトというのは「答えがあるかどうかがわからない命題」を考えるのが面倒なので考えようともしなくなる性質がある

有名国立大学の哲学科教授が「答えを出してはいけない」と言ったからといって 「答えを出してはいけない」ことの論理客観的な根拠や証拠は一切なく 盲目的に「哲学科権威がそう言っているから」と「哲学とはそういうものだ」と盲目的に鵜呑みにし 哲学や科学における最も大切な「問い」や素朴な疑問としての「なぜ」という「考え」を簡単に放棄してしまう先天的な認知上の重大な欠陥を ヒトという種の生物は持っているのである

「答えに辿り着けなくても良い」と言うことはできるが 「答えを出してはいけない」ことにはならない

「答え」があるかどうかがわからない命題の場合 「答え」を導き出すことが可能であるなら導き出して構わない

ただし あくまで主観的「決めつけ」ではなく 論理客観的に欠落のないことが前提である

現状の哲学界というのは 「答えを出してはいけない」などという荒唐無稽なデマをでっち上げることによって 物事の真偽判定すらも放棄し イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における実証不能の「悟性」だの「叡智界」といった論理客観的には何の根拠も証拠もないオカルト話すらも「哲学」として取り扱うという極めて無責任なことを続けているペテン師の集まりである

物事の真偽判定は一つの「答え」である

そもそも科学や哲学というのは「真理(本当のこと)」か それとも論理客観的には根拠がない嘘や間違いなのかを見極めるためのものであり 論理客観的に何の根拠も証拠もなしに「答えを出してはいけない」と哲学科権威に言われたからといって それが本当に哲学なのかどうかを考えなくて良いわけではない

「考えない」時点で 既に哲学を逸脱していることには 多くのヒトは気付くことすらできないバカなのである

 

マイケル:サンデルの「トロッコ問題」には 最初から倫理が含まれていないにも関わらず 主観的(気分的)に「悩ましい」ために ヒトの多くは「どこかに倫理的な正解があるのではないか」と無駄に考えようとしてしまい そもそも倫理的根拠の何もない命題であるにも関わらず無駄に「答え」を追い求めようとしてしまい その主観的な「悩み」を「考え」だと錯覚し 「自分は頭を使った」と倒錯して満足する

その上 ついでにサンデルの講義によって「自分の頭が良くなった」と錯覚してサンデルを主観的に「好き」なり 益々盲目的信奉に陥るのである

サンデルから提供されたルールの中だけで何かを「考えた」つもりになっているが サンデルが提供している命題そのものに最初から倫理が含まれていないことには誰も「考え」が及ばない

サンデルは「トロッコ問題」の講義をする際に 冒頭で「正義や倫理の話をしよう」と宣言しており この時点でサンデルは既に「嘘」をついているのである

この「嘘」に対して 偏差値が高いだけのバカ学生共のほぼ全員は誰も気付くことができないバカなのである

念の為に言っておくが 「トロッコ問題」には論理客観的な倫理も正義も存在しておらず ただ主観的に「悩ましい」だけで倫理的には何の結論にも到達不可能な命題である

 

ヒトというのは権威序列に思考を抑制され 簡単に嘘や間違いを鵜呑みにしてしまう認知上の重大な欠陥を先天的に持っているのであり スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験(通称「アイヒマン実験」)において大多数のヒトが権威の命令に従って他人に危害を加えてしまう結果も実証されている

振り込め詐欺などの「特殊詐欺」においても こうした権威に対する盲目的服従性が利用され やれ「裁判所」だの「警察」だの「弁護士」だの名のりさえすれば大抵のヒトは指示されたことに唯々諾々と従ってしまうものなのである

嘘やデマに騙されないために必要なのが論理客観的に「考える」ことであり 科学や哲学というのはそのためのスキルである

 

「自分には先天的な頭の悪さがあって 騙されるかも知れない」と「思う」ことが主観的に不安な場合に 「それなら物事の一つ一つを丁寧に 主観的感情に流されることなく冷静に論理客観的に検証するようにしよう」とはならず 目先の主観的な不安を取り除くことを優先して「自分はバカではないから 決して騙されたりはしないはずだ」と主観的に「思いこむ」ための様々な言い逃れを積み重ねることによって 騙される危険性から目を背け 「なかった」ことにして安心満足することで忘れようとする

山口大学の小川仁志にように 真偽の判定など一切することなく古典的に「哲学」とみなされている著作からご都合主義的な「解釈」をこじつけ 主観的な「悩み」を解消して人気を得ているペテン師も多い

ヒトの大半は主観的な「不安」や「悩み」と 論理客観的な「考え」との区別がつかない

これもまたヒトという種の生物における重大な認知的欠陥によるものである

主観的な「不安」や「悩み」をいくら解消しても 論理客観的には何の「答え」にも「解決」なることはない

フリードリヒ:ニーチェはこう述べた「できそうにないことは やらない方が良い」と

「できそう」かどうかは個人によって異なる主観に過ぎず 論理客観的に「できない」ことの根拠や証拠には一切ならない

東京電力福島第一原子力発電所において 原発の津波に対する脆弱性を上司に訴えても「できそうにない」からといって「やらない方が良い」などという無責任な話にはならない

NASAのスペースシャトル「チャレンジャー号」の補助推進エンジンのOリングが低温によって機能を失い爆発の危険性があることを 発射責任者にいくら訴えてもきき入れてもらえそうにないからといって「やらない方が良い」などという話にもならない

どうにでも都合よく解釈可能なニーチェの言説を 主観的に安心満足できるだけの話を「哲学」だと倒錯するのは無責任にも程がある

 

卑怯な哲学者共はこうも述べる 「哲学には好き嫌いがあります」と

「好き嫌い」そのものが主観であって 論理客観的な真偽の判定とは全く無関係な話であり 何ら真偽の判定という「答え」すらも放棄するための屁理屈であっても 「哲学者」という肩書(権威)さえあればヒトは簡単に鵜呑みにし 「論理客観的な真偽の判定」すらも放棄し また それを放棄している無責任さすらも意識から逸らすことで現状の哲学界の腐敗すらも撹乱しているのである

私からすれば 騙されている方もまた「同罪」であり バカであることにおいて何の違いもない

 

私は決して「天才」ではない

ただ 疑うことを忘れないだけであり 権威を疑うことに対する根拠のない罪悪感に鈍感なだけであろう

教えれられば大多数のヒトが嘘だと気付ける話である以上 そもそも私以外が誰も「考え」ていなかったという頭の悪さの証明であり

その先天的な頭の悪さというものを認識し 各々が自分の頭で物事の真偽を判定することを忘れないことが重要である

小川仁志のように主観的な「悩み」や「不安」を解消することで主観的に安心満足して何の疑いも持たなくなるように誘導する卑劣なバカ「哲学者」は多い

バカが多いからといってバカが正当化できるわけでもなく 先天的な頭の悪さだからといって克服しなくても良い理由にもならない

バカしかいない社会が破綻するのは必然である

バカが多すぎて社会が破綻するのは私の責任の範疇ではない

 

 


Ende;

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検証を忘れるからバカになる

2024年03月04日 01時04分33秒 | 意識論関連

現状の哲学界においては哲学者共は「答えを求めてはいけない」と論じている

それは「答えのない問題について考えることが哲学だからだ」と言うのだ

例えば 「人間とは何か」という問いには「答えがない」ので 「答えを出してはいけない」という屁理屈である

果たして「人間とは何か」という問いには本当に「答えがない」と言えるのであろうか?

現状の哲学者共が主張するように「絶対に答えが存在しない」ことの論理客観的証明のようなものが存在するのであろうか?

科学や哲学というものは 真理(本当のこと)を見極める学問である そのために「考え」「検証」することこそが重要であって 現状の哲学者共が「答えはない」と言ったからといって鵜呑みにすることは断じて「哲学」とは言えない

「人間とは何か」その究極の答えが存在するのか否かに関わらず 「答えはない」「答えは絶対に存在しない」と断言した時点で それは既に一つの「根拠のない答え(一方的な決めつけ)」になってしまうのであり そこに論理客観的根拠や証拠がない以上は現状哲学者共によるデマに過ぎない

「答え」はあるかも知れない だからこそ考え検証する意義があるのであって 「答えはない」などと根拠も証拠もなく決めつけてしまえば哲学でも科学でもなくなる

究極の答えには辿りつけないとしても 近づくことは可能である その近づく過程こそが科学や哲学の役割であって 「答えはない」などと称して言葉遊びに興じることは哲学とは言えないのである

 

ユークリッド幾何学は 地上に建築物などを建設する上においては「正解」である

建築に非ユークリッド幾何学を用いることは そもそも不可能である

しかし 天文学においては空間の歪みを考慮に入れずに説明することは不可能になり 宇宙観測機の運行においても必要不可欠なものでもある

量子力学においても日常生活とはかけ離れた理論を用いずに説明することは不可能になってきている

 

哲学においても 「人間とは何か」についての実用的な「答え」は必要である それは社会安全性や持続可能性において最も重要な基礎的解答だからである

では なぜ安全性や持続可能性が要るのか?

それは 子供たちに社会を受け継ぐためである

では どうせ数十億年後には太陽が寿命を迎えて地球上からあらゆる生物が失われることが決定しているにも関わらず「子供たちに社会を受け継ぐ必要性」はあるのか?

数十億年を経る前に 巨大隕石によって人類が絶滅する可能性もある

更に言えば遺伝子編集の技術発展などによって「ヒト」という種の生物そのものの存在意義も絶対ではないし 将来生物としての「ヒト」であり続けることの意義も絶対的なものではない不確実性を持っている

だが これら数千年数億年先の「答え」には辿りつくことは簡単ではないものの 数十年数百年単位においての「答え」として 子供達次世代へと社会を受け継ぐ必要性は異議をはさむ余地などない

建築物の設計において時空間の歪みを考慮に入れる必要性はなく そもそもそんなものを考慮には入れようがないのであり 社会安全性や持続可能性においての有用性を論ずる上においてゲノム編集技術だの太陽の寿命を考慮に入れる必要性はとりあえずない

それは全く次元の異なる話である

それよりも戦争や犯罪の問題を片付けるのが先だからである

哲学ではゲノム編集技術や太陽の寿命について考えることも範疇にはあるものの 今 現状において実用的な「人間とは何か」についての「答え」は必要であり それは決して「答えが存在しないことが証明されているもの」ではないのである

ヒトの大半は先天的にバカなので 有名大学の哲学教授などの肩書権威が「答えはない」だの「答えを求めてはいけない」などと言えば 「哲学とはそういうものだ」と鵜呑みにし それが本当に哲学的に正しいのかどうかを「考え」も「検証」もしなくなるものなのである

それは まるで独裁者に媚び諂い服従し 腐敗体制に迎合同調する多数の政権幹部共の無責任さと何ら違いはない

東京電力福島第一原子力発電所における津波に対する脆弱性放置も 日大の田中英寿理事体制腐敗を放置した職員達も同様である

現状の哲学者共は こうしたヒトの普遍的な性質を利用する形で「答えなんぞどうせないんだから 答えを出してはいけない」などといった荒唐無稽なデマを用いて権威を装い学力偏差値が高いだけのバカ学生共から授業料を不当に得ているペテン師の集まりに過ぎない

「答えを出してはいけない」などという荒唐無稽な屁理屈を振り回すことによって イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における根拠のない「理性を超越した悟性」だの「純粋統覚」だの「人間は叡智界に属している」などといったオカルト話に一切批判せずに「近代哲学の最高峰」などと形容しているのであり これらを批判する哲学者も一人もいない

フリードリヒ:ニーチェなんぞ 単に「大衆から人気がある」以上の何の論理客観的根拠も証拠もなく こんなものを「哲学」扱いしていること自体がデマにも程がある

物事の真偽を見極める上において批判は必要不可欠なものである 相手が大学教授だろうが何だろうが 根拠や証拠もない一方的な決めつけを鵜呑みにするから哲学が哲学から逸脱し 無用なただの言葉遊びに陥ってしまうのである

現状において 究極絶対の「答え」は論ずることは不可能であるとしても 実用上必要な「答え」は導き出すことは不可能とは言えない

哲学において重要なのは 「論理的根拠や証拠のない一方的な決めつけ」に陥らないことであって 論理客観的に根拠や証拠に基づいた「答え」は求めて構わないし 何が真理(本当のこと)なのかはむしろ求めるべきが哲学の重要な社会的役割でもある

「おフランスの有名大学の哲学科特任教授様が仰ることだから」は真理(本当のこと)の証明には一切ならない

「論理客観的な根拠も証拠もないけど どうせ答えなんぞないんだから答えなんぞ求めてはいけない」などと言い出す哲学者共の主張を鵜呑みにしておいて 哲学もスッタクレもないのである

すなはち 哲学の授業を受けた大卒者のほぼ100%は自分の頭では何も考えないデクノボウに過ぎないのであり だから哲学界の腐敗を誰も指摘できないのである

 

哲学は 本来「科学の帝王」であり 進化生物学における「生存戦略」パラダイムには論理客観的根拠や証拠が存在しないことについても指摘しなければならない のだが

現状哲学界というのは 「答えを出してはいけない」などという論理的根拠もない意味不明な「答え」を振り回して一切の批判精神も発揮しない無能者の群れに陥り それを誰も指摘も批判もしないバカしかこの社会には存在していないのである

 

大学の入試における合否判定権を持っているからといって そいつの言っていることが論理客観的根拠や証拠に基づいた「真理(本当のこと)」であることの証明にはならない

結局は大学受験などの合否判定などというのは 大部分が教授の主観で決定しているのであって 教える側にとって都合の良い 何でも鵜呑みにして教えたことに何の批判もしないバカを選抜しているに過ぎないのである

何も考えず検証もしないバカなら批判してこないので 腐敗体制を維持温存するのに都合が良いからである

有名大学卒業者ばかりを採用している名だたる巨大企業による不祥事が繰り返される原因もそこにある

かつて京都大学の教授達が731部隊において中国人捕虜を用いて凍傷の生体実験を行ったことや

東京大学医学部の学生がオウム真理教を信じ込んで毒ガステロを実行した事実を ゆめゆめ忘れてはならない

大企業の採用担当者共が学歴学力を優先する傾向がある故に就職に有利だからといって学力学歴が人間としての知能の根拠にならないことは 認知科学的に立証されていることであり

それは大学入試における合否判定においても同じことであり 無能な大学教授の主観は人間としての知能の論拠にもならない

真理とは 論理客観的な検証によって磨かれ続けなければならない そのための「哲学」なのであり 「なぜ」という疑問(問い)を永久に繰り返し続けなければ「哲学」ではなくなる

「人間とは何か」という問いについて「答えはない」という哲学者共の主張に対し 「なぜ」そう言えるのかを問い糺すことのできないバカしか この社会には存在していないのである

そして バカ共は自分達を知的生命体だと信じて疑わない

だからバカが治らない

 


Ende;

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