書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○楽観も悲観も理性とは無関係である。

2015年07月25日 12時00分14秒 | 意識論関連
支配欲というのは、支配したいのではなく、支配されたいという欲望が満たされない不満の結果として、八つ当たりする形で暴力を発露するのである。

イヌなどの社会的形成習性を持つ動物は、基本的に哺乳類としての「甘え」によって自己と他者との関係性において順位を求めようとする。

その順位というのは、服従の快楽を満たし、支配されることへの安心感を求めているのであって。服従しているイヌは気分的に満足しているが、逆に服従対象を見失っているイヌでは服従する安心感を喪失することで、結果的に暴力的になったり、暴力的であるがゆえに繁殖行動も促されるのであって。 イヌが暴力的ボスの遺伝子を遺すというのは、先天的本能習性の「結果」であって。意識的な「目的」行動選択など介在する余地はない。

飼い犬の場合、自然淘汰からは隔離されてしまっているので。必ずしも暴力的「強者」がボスになるわけではなく、育て方を間違えた小型犬が飼い主の手を噛むといった行動も見られる。

こうした行動習性の結果というものには、実力が伴わず。トラとイヌを一緒のケージで飼うとイヌの方が情動行動として威圧的になるため、結果としてトラの方が外見上の順位が下になってしまうこともある。

どう考えても暴力的実力ではトラの方が上であるにも関わらず、服従を強要しないトラに対してイヌは不満を抱き、結果的にイヌの方が無駄に威圧的行動を採ることで、トラは異常に威圧してくるイヌに対して、とりあえず服従するような形を採ることで、結果的にイヌの方が外見的に順位が上になってしまうのである。

これはヒトがイヌを飼う場合においても同じことで、イヌのシツケというのは飼い主の方が順位が上であることを認識させるよう訓練しないと、イヌは服従の快楽を満たすことが出来ずに、その不満の結果として飼い主の手を噛むようになるのである。

イヌの脳が求めているのは、本来服従の快楽であって。決して支配を目的として暴力的になるわけではなく。あくまで服従欲が満たされない結果として、その不満をぶちまける形で暴力的になるのである。

暴力性というのは、本来不満の結果であって。それ自体を求めているわけではなく。

たとえば空腹時に意味もなく苛つくといった行動がヒトでも見られるように、暴力性というのは本能的には不満を満たすための行動結果に過ぎないのである。

先天的本能習性というのは、あくまで個体が気分的満足安心を追求した「結果」としての行動バイアス(無意識)を促すだけであって。そこに何らかの意識的目的が介在する余地は全くないのである。

たとえば暴力的実力を伴わない個体がボスになった集団であれば、それは自然界では生存に適さないために淘汰され。また、暴力性が強すぎて本当に殺し合いでボスを決定しても種の存続には適さない結果、自然界では適度に威圧的な個体がボスになるような種に淘汰が働いたのであって。そこに何らかの目的意識が介在しているわけではない。



ところが、ヒトの場合は本来暴力的実力の順位で指導者を決定するようなことは、意識的(合理的選択)として避けてきたため。その結果、先天的本能習性としての順位欲を満たすことが必ずしも出来ない。

そもそも、先天的本能習性としての順位欲の強度というのは、交配によってランダムにシャッフルされることで突然変異的に変化を促すため、必ずしも個体の生存や種の保存に適した結果をもたらす保証はどこにもない。

自然界であれば、生存や種の保存に適さない個体や集団は淘汰の対象であるが。ヒトの場合は一部の意識的(合理的選択)の結果として、生存や種の保存に適さない個体であっても、とりあえず平等に取り扱い、淘汰の対象にはならない。



文科系大衆観念上では、自然淘汰というのは常に生存や種の保存に都合良く働くものであるという妄想錯覚が働いているが。実際には生存や種の保存に適さない種が全て淘汰されることで結果的に都合の良い種だけが遺っているに過ぎないのである。

こうした「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的なランダム変化の結果こそが生物「進化」なのであって。例えば細菌が多剤耐性を獲得する過程と同じように、ある特定の先天的本能習性を獲得する過程においても、そこに目的意識的選択が介在しているわけではなく、あくまで暫定的な「結果」として組み込まれているに過ぎないのである。

そもそも生存自体が結果であって、どんなに生存への執着心を抱いても、生存が目的であることの論理的証明など不可能なのである。

松沢哲郎ら進化生物学者達の多くは、こうした結果と目的の区別を一切して来なかったという非科学性を隠蔽し、現状体制を維持存続させるためだけに大衆観念を利用して業績を捏造しているのであって。科学的探求になど一切なっておらず、税金の無駄遣いにしかなっていない。

本能的行動結果から倫理や人間性を立証することなど原理的に不可能なことであって。これは結果に対して目的を事後正当化する形でこじつけている嘘に過ぎないのである。

チンパンジーの一種ボノボが、誰彼構わず性器をなすりつけることや、牙を剥き出し順位を決定することで気分的に満足し、結果的に直接暴力に至らないことを「倫理」だなどと言い張るのは、進化生物学者達の現状体制維持のためのこじつけ以外の何物でもない。 そんな陳腐な嘘を鵜呑みにしている大衆やマスコミも頭が悪すぎる。

痴漢行為やセクハラやパワハラでその場限りに気分的に満足することが「倫理」だの「人間性」の論証になるわけなかろう。

学術権威の言うことに対して盲目性を発揮し、論理検証をすっ飛ばして鵜呑みにするこうした習性も。ヒトの先天的な社会形成習性の結果であり。ヒトの先天的な頭の悪さの証明でもある。

どこぞの病理診断医のように、自分では自律的に一切論理検証もせず、何の考えも持たずに「はずかしい」だのといった気分感情が行動や思考と直結しているからこそ。盲目的な権威服従性を発揮するのであって。こうした先天的習性としての権威服従性バイアスこそが、様々な場面において重大事故の原因ともなっているのである。



先天的な本能としての社会形成習性バイアスというものは、様々な場面においてヒトの頭の悪さの原因となるわけだが。こうした本能習性という無意識なバイアスが存在することを認識していれば、普通のヒトであれば意識的に回避することも可能であるはずなのだが。 ヒトの多くは無意識である本能欲望のおもむくままに行動しておいた方が気分的に「楽」であるため、「バカであり続ける。」という行動しか採らないのである。



あらゆる先天的本能欲望というものは、あくまで自然淘汰の結果でしかないにも関わらず。文科系大衆観念者の多くは先天的本能習性に対して何らかの意味(目的)をこじつける形の「説明」をしたがるが。そんなものは構造的に「結果には目的があるはずだ。」という優生学(フランシス:ゴルトン)のこじつけ論証形式の踏襲に過ぎないのである。

「なぜ、その種の生物が遺ったのか。」というのは、あくまで結果であって、その過程の全てを説明することなど原理的に不可能であり。 進化生物学的「説明」の全ては、その場限りの「説明」を目的とした「説明のための説明」にしかならないのである。



強姦というのは人間社会における概念であって。動物に強姦という概念はない。 このことからも、進化生物学から人間性や倫理を説明することなど、構造原理的に不可能なものであって。そんなものを説明しようとしている事からして既に嘘なのである。

牙を剥き出して威圧することで相手を服従させることの一体どこが「倫理」だと言えるのであろうか。

気分感情のバイアスの結果として、実力の伴わない相手にも服従してしまう習性が存在する結果として。ヒトの多くは無能な指導者の命令に従うことで、組織の暴走破綻をも傍観放置してしまうのである。

進化生物学の嘘を傍観放置しておくということは、ヒトという種の生物の先天的な頭の悪さの傍観放置でもある。それならイジメ問題も暴力団やISILなどの過激派組織に惹かれるヒトのバイアスについても研究が進まないのは当たり前の話である。



現状世間における社会的成功という利己的欲望に意識を奪われていれば、組織の腐敗や危険放置などへの配慮が働かなくなる。

何が本当の「合理性」であるのかを論理的に検証していないから、目先の欲望追求を合理性追求と混同してしまうのである。 左脳優位なヒトの多くは、これを説明してもなを自分の頭の悪さを認識せず、「教えてもらっていないから、わからない。」などという開き直りを平然と主張する。 そんなものは「頭の悪さ自慢」にしかならない。

頭の悪さを自慢されていたのでは、自律的論理検証もすったくれもあったものではない。それはもはやバカの屋上屋を重ねているだけであり、バカが治らないのも当たり前の話である。





オックスフォード大学 エレーヌ・フォックスは、「バイアス」という無意識な情動ばかりを論じていて、論理的思考について全く考慮に入れておらず、頭が悪すぎる。

また、人格と性格を混同してもおり、理論としての形をも為していない。 翻訳の関係もあるのかも知れないが、性格というバイアスだけで人間性を伴った人格を論ずることなど不可能である。

悲観的であることの原因である恐怖は「必要なもの」ではなく、恐怖を感じることが結果的に生存に適した結果に過ぎず。恐怖心を用いて振り込め詐欺は被害者を騙すのであり、必要なのは論理検証性であって恐怖心ではないことは明らかである。

恐怖による行動バイアスは、動物の生存にとっては結果的に必要「だった」とは言えるかも知れないが、必ずしも常に必要である証明にはならない。

本当の安全性というのは気分的恐怖によって担保されるものではなく、あくまで論理的思考による目的意識に基づくものであり。どんなに恐怖を感じても安全性にはつながらない。

一方楽観的であることだけをあたかも感情的ではないかのように論じているが、これは大嘘である。楽観であれ悲観であれ、どちらも気分感情(無意識なバイアス)であって。論理的安全性の話とは無関係である。





Ende;
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○DE10 16541。

2015年07月23日 12時41分54秒 | 写真
田端車輌基地 王子街道南亘踏切にて。


DE10 16541でググってみたけど、DE10の生産輌数が708輌なんだそうなので、16541の数字が謎。




夕焼けも載せとこ。



Ende;
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○実験。

2015年07月20日 13時03分54秒 | 日記
引用タグっていうのが使えるのかの実験。

引用 blockquote


使えた。

Ende;
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○タマゴに塩。

2015年07月17日 21時12分28秒 | 日記
マルエツのチラシに「タイムサービス タマゴ106円」って書いてあったので買いに行ったんだけど。

チラシに書いてあった 「500円(本体価格)以上お買い上げのお客様限定 一回のご精算でミックス新鮮たまごを除く本体価格500円以上のお買い上げが対象となります。」

っていうのを見落としていて、レジで「こちらのタマゴは500円以上ご購入されないと106円ではお売り出来ないんですが、いかがなされますか?。」と言われて一回清算キャンセルしてもらった。

とまあ、そこまではよかったんだけど。最後に一言「チラシに書いてあるんですけどねぇ。」という塩対応。

しかも「あと、いくら買えばいいの?。」って聞いてもちゃんと答えてくれなかったので店内のチラシ読み直したわ。

スーパーのレジ打ちなんて安い仕事だから顧客対応が安っぽくても文句言わないけど、面倒臭いからってイヤミ言わなくてもよかろうて

そういうイヤミだったら読むのに注意力を必要とするトリッキーな特売を企画する変態社員の方に文句言ってほしいわ。

買う側としては、そんなに隅々まで注意深くチラシを読んでいるわけではないので、こういうややこしい購入条件の特売ならもっと条件文を値段と同じくらいのフォントで明記するなり何か出来ないのかね。

売る方は仕事なんだろうけど、買う方は仕事じゃないからそんな注意力を要求されてもねぇ。

Fig:

レジのおばちゃんも面倒臭いんだろうけど、買う方だって面倒臭いのは一緒だよ。

◇追記:イトーヨーカドーのチラシは理解しやすい。

Fig:

マルエツの方が情報量がてんこもりなのもあってそもそも読みづらいんだけど、購入条件がややこしいところだけはスペース多めにとってもよかろうと思うぞ。

◇さらに追記:って思って実物見てみたらマルエツの方が面積大きかった。

デザインの問題だったんだね。 もしかしたら情報量多くても読みやすく出来るのかも。

Ende;
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○ポリエチレンの熱伝導率。

2015年07月14日 10時18分12秒 | 日記
ポリエチレンの熱伝導率ってシリコンゴムと同じくらいだったのね。



暑くなってきたら冷却ヘルメット的なものを作りたくなってきた。

Ende;
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○石器。

2015年07月05日 23時08分33秒 | 意識論関連
ホモサピエンスが作った石器に較べてネアンデルタール人の作った石器が長期間に渡って同じ形の物しか発掘されていない理由を、言語機能の違いに因るものだいう見解があるが。これはちょっとおかしい。

石器の作り方自体は世代間で伝承されている以上、言語機能の違いで何かが伝わっていないという証拠にはなっていないからだ。

更に、ホモサピエンスの作る石器にバリエーションがあるというのは、創意工夫をする個体がいたかどうかに因るものであって。石器などの道具の作り方や使い方を伝えるのには必ずしも言語で伝承出来るというものでもない。

現代社会においても言語で説明の困難な技術というのはあって、言語機能さえ高ければ何でも他人と共有出来るというものでもない。

ホモサピエンスである現代人であっても「教えたこと以外を自分で発想すること。」が出来る人というのはそんなに多くはなく。大抵の一般人の多くは教えられていないことを自分で開発したり発見したりすることは出来ない。

ネアンデルタール人が何万年も同じ形の石器ばかり作り続けた理由というのは、言語機能の違いに因る伝承能力の違いというよりは。むしろ創意工夫を行うという思考の自由度が狭かったことが原因であると考えるべきではなかろうか。

現代人においても、成育環境によっては自分では何も創意工夫をしなくなり、教えられたこと以外を自発的に発想することを全くしなくなる場合というのもある。

新しい発想を拒絶し、同じことを漫然と繰り返し続ける原因の多くは。封建的社会制度にある。

封建的社会においては、個々個人の考えや発想といったものを全く尊重せず。ひたすらトップダウンの命令に服従する以外何も受け入れることをしないわけで、これこそが創意工夫といったものを阻害する最も大きな要因なのである。

軍隊というのは封建制度の典型であるが、軍隊というのは戦争を行うための組織であるため、戦争というバカげた暴力行為を暴走させるためには有効な組織であるが、戦争そのものを回避するための創意工夫のようなものは兵隊からは出てこない。

兵隊というのは自分で何か問題解決をするようには教育も訓練もされてもいないからである。

太平洋戦争時の日本軍の戦略を見ると、精神論的に努力辛抱根性ばかりを末端の兵隊に強要し、戦略的に有効な作戦や手段といったものをほとんど行っていないのは。 それ以前の戦争のやり方を漫然と因習のように受け継いだためである。

現代人であるホモサピエンスであっても、先天的には大多数のヒトは創意工夫をするわけではなく。むしろ地動説などの新しい発想に対して火炙りというヒステリックな拒絶反応を示すことも珍しくはない。



逆に言えば、オウム真理教などのテロ組織においては、教祖や幹部達に対しての疑問を一切持たず、盲目的に信奉することによって心理的な平穏を得ることが出来るように。 ヒトという種の生物というのは、先天的には自発的には何も考えずに権威達の命令に漫然と服従し、権威ではない異端や少数派の意見を頭ごなしに否定拒絶しておくバイアスが存在するのである。

先天的バイアスのままに行動選択をしておいた方が、気分的に安心満足感を得ることが出来るのは当たり前の話である。 しかし、それこそが「考え」を阻害し「思い込み(バカ)のぬるま湯」へと人を誘うのである。

FOXP2遺伝子の異常によって言語機能障害が発生するらしいのだが。言語障害が短絡的にネアンデルタール人のように創意工夫を全く行わないことの証明にもならないし。逆に自分達の行動に疑問を持たない暴力団員やテロリストや通り魔がFOXP2遺伝子に異常があるというわけでもない。

むしろ、ナチズムのような暴力性というのは、言語障害などを持たない大多数の「普通のヒト」達の性質によって引き出されたものなのであって、現代人であるホモサピエンスでありさえすれば短絡的にネアンデルタール人のように創意工夫を全く行わないというものでもない。

その点から考えても、ネアンデルタール人のFOXP2遺伝子に起因する言語機能の違いが短絡的に創意工夫を阻害していた証拠には全くならず。むしろ現代人(ホモサピエンス)の多くにも普遍的に見られる自発的論理検証性や創意工夫の欠如が、ネアンデルタール人では顕著だったと考えるべきであろう。





あと、気になったのが進化がもたらす結果の全てが常に素晴らしいものであるかのように扱っていた点である。

多剤耐性菌というのも進化の結果である。ヒトスジシマカがデング熱ウイルスを媒介してヒトに危害を加えるようになったことも、進化の結果である。

進化の全てが常に「素晴らしい」結果をもたらしてくれるという発想は、あまりにご都合主義的な大衆的妄想であろう。


マスコミ関係者の多くは文科系なので、進化生物学者の勝手な妄想を鵜呑みにすることで、気分的な安心満足感に溺れて何も検証することをしない傾向が非常に強いが。それはマスコミの社会的責任を果たしておらず、きわめて無責任であることを認識すべきである。



Ende;
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○東京湾の灯台。

2015年07月04日 02時06分38秒 | 日記
タモリ倶楽部で東京湾の灯台見学クルーズやってたので備忘録

東京西防波堤灯台 Fl(2) G 5s 10m 7M
東京中央防波堤西灯台 Fl(2) R 5s 10m 7M
東京木材投下泊地 防波堤西灯台 Fl R 3s 12m 7M

灯質についての説明

Fl(2) G 5s 10m 7M 緑色のフラッシュが5秒に2度点灯 灯高10m 到達距離7M(ノーティカル・マイル:海里)

Ende;
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○ラブリ2。

2015年07月02日 23時23分27秒 | 日記
以前タレントのラブリさんの写真が少ない的な記事を 随分前に書いたことがあるんだけど。

時折このブログの閲覧上位に入ることがある。

なのでもう一度サーチかけたらすげーいっぱい出てきた。

最近人気出たみたい。


ナチュラルメイクかわいい。



アスカのコスプレとかもやっちゃうところが親しみ易い感じなんかなー。

Ende;
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○goo地図が使えなくなってしまた。

2015年07月02日 23時03分03秒 | 日記
goo地図で地名を入力して検索をかけると…


いくつかの候補が出てきて、


画像地図っていうのが表示される


ところがスクロール地図を表示しようとすると


なあんにも表示されなくなる。

以前はちゃんと表示していたのに残念。

◇追記:gooさんに問い合わせたらAndroid4.2以降での動作確認しかしていないんだそうで、それ以前のバージョンはサポートしてないとのこと。

Ende;
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○抑止力幻想。

2015年07月02日 14時36分04秒 | 意識論関連
犯罪者に対して罰を与えるというのは、国家権力という威圧によって犯罪者の行動を抑圧するためのものである。

しかし、懲役刑というものが、実際には刑務所の中だけ従順に従うだけであって、強盗殺人犯が25年の刑期を終えて出所後数週間で殺人を犯すというケースが時折あるように。刑罰というのは犯罪者の更正にはならない。

国家権力などの権威性を用いた行動抑圧というものは、「怖いからやらない。」といった感情と行動が直結している短絡的行動原理に基づいたものであり。決して個人が自律的に社会的責任判断力を持つためのものではない。

飲酒運転による重大事故などが発生する度に厳罰化ばかりが推進されてゆくが、飲酒運転をする者の多くは飲酒運転による重大事故に対する関心そのものがなく。どんなに厳罰化を推し進めても、自律的に社会的責任判断をしようともしない相手に対しては何の効力も発揮しないのである。

実際に無謀運転による被害者や加害当事者達であれば、事故に対しての関心は働くのであろうが。そもそも自律的に社会的責任判断など最初から何の興味もない者に対して、厳罰化もすったくれも「馬の耳に念仏。」である。

警察組織も実際に被害者が出なければ、書類送検による「業績」にもつながらないために。潜在的危険性はむしろ放置しておいた方が得なのである。

司法による刑罰というものも、実際には犯罪者の更正にはつながらず、再犯率は40%超に達しており。社会的にはほとんど意味を為していないのである。

強盗殺人で25年の刑期を終え、出所後数週間で殺人を犯した場合。懲役25年という判決を下した裁判官には何の責任もないのであろうか。 なぜ、そこに誰も気がつかない。

本当に社会防衛において重要なのは、犯した罪に対する刑罰の重さの程度問題の妥当性ではなく。犯罪者が社会的責任を自律的に持つようにならなければ自由に行動させてはいけないはずである。それは罰とは無関係な教育や治療の問題であり、犯罪者の意識の低さ、論理検証性の欠如を治療することの方が重要なのである。

犯罪者の論理検証性を治療するためには、先ずは犯罪者ではない人達においても論理検証性を持たなくては話にならない。

にも関わらず、厳罰化という感情論だけに依存する非合理な主張ばかりを取り上げていれば、具体性ある論理的な犯罪の原因究明にも、もちろん再発防止策にもつながらないのは当たり前の話である。

実際に犯罪被害に遭った当事者にとっては、どうしても感情が優先してしまうがゆえに、逆に被害者予備軍とも言える当事者以外が合理的対策を主張すべきなのである。

飲酒運転などの無責任な行動を採る者達が、なぜ無責任で自律的な社会的責任を負おうとしないのか。その原因を究明しないことには未だ顕在化していない犯罪者予備軍達の意識喚起には一切つながらず、社会防衛上何の役にも立たないのである。

子供の多く、というよりヒトの多くは「イジメがなぜ起きるのか。」も、「なぜイジメてしまうのか。」すら原因を認識していない。 その場限りの気分感情に基づいた先天的「感受性」がその原因であるにも関わらず、ヒトの多くは感受性こそが人間性であると主張し、その場限りに気分的に「優しい気持ち」にさえ誘導しておけば全ては解決するものであるという身勝手な妄想に基づいた対策ばかりに執着してしまう。

その場限りに他者から誘導された気分感情というものは、一時的には効果を発揮するであろうが。そんなものは刑務所の中で刑務官に従順に服従していた服役者が出所後にどうなるかを自分ではどうにも制御出来ないのと同じで、子供達だけなどのイジメが起きている状況においては自律的には何ら抑制する方向には行動を起こさないのである。

「怖いからやるやらない。」といった、他人から与えられる懲罰でしか行動が抑制されない時点で、そこに自律はない。それが最大の問題点なのである。

当人が他人からの懲罰的抑圧でしか行動抑制出来ない者であるからこそ、他人に対しても懲罰的抑圧でしか行動抑制が不可能であるという身勝手な観念を振り回すのであって。懲罰的抑圧に依存している時点で既に犯罪者予備軍に属しているのであるが、当人にはその認識は一切ない。

抑圧は誘導である。 従って他律であって自律にはならない。

自律的に社会の安全性や持続可能性への配慮が働くという、自律した人間性が形成されていないからこそ無責任な行動をするのであって。それは厳罰化への異常執着して社会の安全性を蔑ろにしている無責任さも同じことなのである。



犯罪者に対して厳罰化が無効なのと同様。他国に対する武力威圧的「抑止力」も無効である。

たとえば中華人民共和国政府が兵力を増強すれば、日本のみならず東南アジア諸国にとっても脅威や不信感を抱かせるのと同様。自衛隊の装備増強や武力行使権拡大は他国にとって脅威や不信感ばかりを与えるだけなのである。

武力威圧を用いて相手を威圧しておけば、気分的にはその場限りの安心や満足感を得ることが可能だが。その安心や満足感は犯罪者に対して厳罰を与えておくことと何の違いもなく、具体的には原因究明にも再発防止にもつながらない。

シオニストとパレスチナの武力衝突を見てもわかるように、武力威圧は問題をこじれさせるだけで何の解決にもつながらない。

「武力威圧をすれば、相手が話を聞いてくれる。」というのは、むしろ逆で、武力威圧というのは相手に不信感を助長してしまい、話がこじれる原因なのである。

そもそも、ヘイトスピーチをしているようなヒト達が、なぜ話を聞いてくれないのか。 それは彼らの行動が感情気分と直結していて論理的話を聞く耳を最初から持たないからである。

行動が感情気分と直結している相手に対し、武力威圧による抑止を行っても、反って反発感情を煽るばかりで冷静に話を出来るようにはならない。

武力による抑止力などというものに依存している時点で、論理的な話が通じていない。 その非合理的感情論こそが、あらゆる紛争の根源的原因なのである。

実際に武力衝突が発生してしまえば、これは武力によって鎮圧する他手段がないが。これは「解決」策ではなく、あくまで現場での「対処」にしかならない。

武力や暴力による威圧的抑圧というのは、その場限りの対処としての効果は存在するものの、最終的にはあくまで個人が自律的に社会的責任判断力を持ってもらわないことには「解決」にはならない。

これは国家間における外交でも同様で、国際外交と言えども結局はヒト同士による話し合いであることに違いはない。

国際外交こそ合理性のある論理的話し合いが必要なのであって、そこに武力威圧的抑止力を持ち込もうとする時点で、人間としての社会性が欠如しているのである。

犯罪においても抑圧は誘導であって自律ではないと述べたが、抑止力への依存も同じことである。

武力威圧をされたから話し合いに応じるなどという人間性の欠如に基づいているからこそ、他国に対しても武力的抑止力を振り回さなければ話し合いに応じて貰えないなどという観念が出てくるのである。

これはもはや暴力にだけ屈する暴力団員の論理であろう。

「怖いから従う」などという卑屈な従属的服従性は、非常に幼稚な行動原理である。 そこには自律的な社会的責任判断などというものは存在せず、その場限りの気分感情でしか行動が決定されることはない。

そうした幼稚な威圧的抑止力を外交に持ち込もうとすること自体に、人間性が伴わないのである。




Ende;
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