書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

環境省

2019年07月28日 20時49分28秒 | 日記
夜7時過ぎに晩飯食ってたら電話が鳴って

出てみたら「環境省」だと言い出しやがった

日曜の? 午後7時過ぎに環境省? 「どこの部署の誰かを名乗って」って言ったら切れた

そんな陳腐な詐欺誰が引っかかるんだ?



Ende;
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社会性という嘘

2019年07月27日 09時47分01秒 | 意識論関連
弘中綾香って犬嫌いなんだそうで その理由をコラムに綴っていた

私が親と一緒にいる時には吠えないのに、私がゆかちゃんといる時や、一人の時だけここぞとばかりに吠えてくるという点だ。飼い主や大人にはクンクンとすり寄っているクセに、自分より弱い子どもには力まかせに向かってくる。瞬時に自分より格上か格下かを見極めて、態度を変えているのだ!

犬というのは先天的な社会形成習性があるため 「格上か格下か」という順位序列への異常なまでの執着心がある

犬は相手が自分よりも格上か格下かのどちらかであるかを決めておかなければ不安で仕方ない

そういう先天的な習性が犬のケダモノとしての卑劣さの源となっているのである

順位序列への意識(無意識的行動バイアス)というものは犬に限ったことではなく ヒトにおいても同様の行動習性が見られ イジメやヘイトスピーチなどの差別行動につながっている

学級内カースト(ヒエラルキー)などというものが形成されてしまうのも 順位序列への執着(中毒)が作り出すものであり 一種の錯覚のようなものに過ぎない

また 必要以上に自分を格上扱いされることを求めることによって 承認欲求というものも生ずるのである

生物学上では「社会性」と呼ばれる先天的な社会形成習性であるが これはヒトがヒトにまで進化する以前から先天的に組み込まれているものであり 故にヒト以外のイヌやハダカデバネズミなど多くの哺乳類にも見られるもので 「社会性」とは言っても人間性を伴うものではなく むしろ動物的な野蛮さの原因となることも非常に多い

承認欲求や序列への異常執着は 自律的な理想に対する純粋な探究心を見えなくさせ それは社会的責任行動選択能力も喪失させる原因ともなる

服従という先天的習性の危険性というものは スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験によって科学的に立証されており この実験自体は被験者を騙すことによってヒトの本性を暴き出すという側面があるものの 被験者によっては素直に「自律的な判断の重要性を改めて認識した」と述べている者もいる



ヒトは権威を盲目的に信頼し服従しておいた方が先天的に「楽」であるため 権威という「服従対象」そのものにまで科学的根拠が存在するものだと勘違いしており この盲目性こそが科学や哲学という論理的な真理の追求性を喪失させてしまうのである



出典:弘中綾香 純度100% Hanako



かわいい(個人の感想です)



Ende;
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法と倫理

2019年07月26日 10時09分05秒 | 意識論関連
法律というのはシーケンシャルな手続きでしかありません

法律で禁止されていないことであっても人間としてしてはいけない脱法行為はたくさんありますし

逆に法律上禁止されていることだからといって全てが悪いわけでもありません



例えば

立入禁止の線路に小さな子供が入り込んでいて 放置しておけば列車に轢かれる可能性が高い場合 立入禁止の法律規則を遵守して鉄道会社や警察が来るのを漫然と待つことが人間として正しいとは限らず 状況によっては規則を無視して救助を優先することも必要である

道路に他人の子供が飛び出した場合 叱って怖がらせることが「脅迫」に該当するとしても 子供の安全を優先して叱ることの方を優先すべきです

状況に応じて何を優先すべきなのかという「目的意識」がなければ人間性を発揮することはできません

AIに法律規則という機械的手続きさえ守らせれば倫理になるわけではないのです

「戦争犯罪」という概念がありますが 国際法上では戦争自体は禁止されていないのです

そこに人間性や倫理なんぞあるわけねぇだろ



Ende;
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ありもしないことをあると思い込んでいる状態を洗脳という

2019年07月25日 14時35分14秒 | 意識論関連
トロッコ問題には倫理の本質がありません

一人殺すか 五人殺すか どちらかを選ぶことに倫理的正解はないからです

トロッコ問題っていうのは制限だらけで「誰かが死ぬ」以外に一切の選択肢がありませんから どちらを選んでも「人間として正しい選択」の論証にはなりません

ただ 気分的に「悩ましい」話なだけであって そもそも論理的には「考え」ようもない話なんですが ヒトの多くは答えのない話で気分的で「悩む」と「考えた」かのような錯覚に陥り 命題そのものに論理的答えが存在していないことには意識が働かなくなる性質があるのです

これ 一種の錯覚なんですよ

バスケットボールのパスをやっている映像で「黒いユニホームを着た人が 何回パスをしたのか数えて下さい」って言われた状態で見ていると 映像の中に黒い熊の着ぐるみを着た人が写っていても気が付かなくなるのと同じようなものです

予め何も言われない状態で映像を見ていれば 「あれ? 熊の着ぐるみが入ってきたぞ」って誰もが気づくんですが 「パスの回数を数えて下さい」って言われるとそれが見えなくなる



トロッコ問題のように「誰かが否応なく死ぬ」状況にまで至ってしまえば もはや選択に倫理や人間性が介在する余地はありません

「誰かが否応なく死ぬ」ような状況が予測可能であったのか

予測不能なら 経験的教訓として再発防止策を構築するべきであり

予測可能だった場合は「なぜ放置したのか」において人間性や倫理が問われることになるのであって

既に「誰かが死ぬ」状況にまで陥ってからの選択には人間性や倫理が介在する余地などないのです



何年も前から言っているんですけどね

未だに誰も耳を貸さないんですね

そういうデクノボウの集まりなんですよ 現状の哲学界ってのは

だからマルクス:ガブリエルみたいなオカルトも平気で人気になったりするし

「理性や人知を超越した叡智」なんてファンタジーが本気で論じられてしまう

「哲学権威の言うことなら正しいはずだ」という思い込みがあるから 誰も疑問を持たなくなる

権威に対する盲目性というのは ヒトという種の生物の先天的な社会形成習性が促すものであり 洗脳に利用することが可能なのです

唯々諾々と権威に服従する習性があるから ヒトは戦争なんていうバカみたいな事も延々と繰り返すんですよ

もう説明すんのもバカらしいんですけどね



Ende;
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トータルでのリスクマネジメント

2019年07月25日 13時06分57秒 | 意識論関連
動物の行動というのは 「何をしでかすか予測不可能である」という点において予測可能なんですね

だから 街中の動物園では動物は檻の中に閉じ込めておく

先日 とある動物園からニホンザルが脱走したことがありましたが だからといっていきなりニホンザルがヒトに危害を加えたかというと 別にそんなことはなかった

でも 「何をしでかすか」は予測がつかない

だから脱走すると問題になるので檻に閉じ込めておく

サルに自動車の運転を教えることは不可能ではないかも知れません しかし 街中でサルが運転する自動車が走り回ったら危ないですよね

信用ならない

AIによる自動運転の危険性っていうのは AIが自律的に責任持って運転してくれているわけではないからです

ニューラルネットワークを用いた深層学習AIというのは 実際にある程度の自動車運転が出来るようになるまでに学習過程で大量に「失敗」をします

仮想空間で何人もヒトを轢き殺させることで それを回避するためにはどう運転すれば良いかを「学習」している

だから 深層学習によるAIというのは 「概ね安全」であるとは言えるんですけど 「絶対に安全」とは言えない

自動運転のAI自身は 「なぜヒトを轢き殺してはいけないのか」は知らなくて とにかく学習過程のスコアがマイナスになる(「嫌な感覚」と同じようなもの)ことを避けるようプログラムされているので 「嫌なことになるたけ陥らない動作選択をしている」だけなんです



見通しの悪い近所の交差点で 小さな子供が左右を確認せずに飛び出したりすることが時折あるので 「こら! ちゃんと左右確認しなさい!」って怒鳴ったりすることがある

子供によって反応はまちまちで 「うっせーハゲ」とか言い出す憎たらしいクソガキンチョもいるんですが 素直に「はーい」と従う子もいる

その交差点は滅多に自動車が来ないので 飛び出しても概ね事故にはならないんですけど 「概ね安全」なら良いってことにはならない

さっき話した「脱走したニホンザルの危険性」と同じで わずかな確率で子供が自動車にはね飛ばされて頭ぶっ欠いて脳みそ路上に撒き散らしちゃったらシャレにならないので 「面倒臭いハゲヲヤヂ」でいようと思うわけです

小さな子供に対して「なぜ道路に飛び出してはいけないのか」を論理的に説明するのは結構面倒臭いことで 通りすがりの知らない子供に長々とお説教する暇もお互いないので とりあえず便宜的に「こら!」って叱って怖がらせる

これはAIの深層学習過程と同じようなもので 子供は「なぜそれが悪いのか」を理解しているかどうかはわからないですが とりあえずは「嫌な思いをさせて行動抑制させる」ために叱るんですね



その場で「はーい」と素直に従う子供であろうと「なぜ道路に飛び出してはいけないのか」を理解しているとは限らない

面従腹背でその場限りに取り繕っただけかも知れないし

逆に「うっせーハゲ」とか反発してくるクソガキンチョだからといって理解していないとも限らない

ただビックリして条件反射的な拒絶反応で憎まれ口をきいただけかもしれない

だから こっちの気分的な良し悪しは実効性とは関係がない

こっちの主観的気分が悪くなるからといって やめるわけにはいかない

通りすがりのハゲヲヤヂの社会的責任としてね



でも 本当に必要なのは 子供が大人になる過程で自発的に「何をして良くて 何をしてはいけないのか」を論理的に考えて行動選択ができるようにしなければならない

他人に拳銃向けて「金を出せ!」と恫喝すれば金が得られるからといって それを行動学習的に覚えてしまっては人間性に著しく問題が生じる

人間性(倫理)というものは 主観的な感覚や気分に左右されずに論理的に「どうすべきか」という選択を行うことにあるわけで

目先の感覚的快楽欲望に左右されない客観性が不可欠なのです



路肩に停車しているバスの陰からは子供が飛び出してくるかも知れない

道路の反対側で母親がバスの前方に向かって両手を向けて「止まって!」と叫んでいれば 子供が飛び出してくる確率は非常に高い

こうした知識というのは論理的に予測しておかないととっさにはなかなか判断することが出来ないものなので 経験知識教訓として知っておく必要がある

もし 私が自動運転AIの学習に関われば バスの横を通る際には常に徐行するようになるかも知れないし さらに言えば反対車線が渋滞していたら車の間からヒトが飛び出してくる可能性も学習させて 反対車線が渋滞していたら常に徐行運転をするようになるかも知れない

ありとあらゆる可能性を考慮に入れれば 自動運転AIは常に徐行運転しかしなくなるかも知れない

でも 現在の自動運転AIってそこまで考慮には入れた学習はされていないので 結構「普通のヒトの運転」と良く似た動作をするので 普通にヒトを轢いたりもする

でも AIは原因を知らないし 論理的原因究明に伴う対策もしない



自動車事故が起きると よく警察は加害者に「予測出来なかったのか?」と問い詰めるんですが ありとあらゆる予測なんぞ有限の脳しか持たないヒトが出来るわけがない

でも AIなら拡張は可能なんですね だから AIの方がヒトよりは安全にすることが可能だとは言える

でも 絶対安全ではない

安全性を最優先に設計されたAIだと 自動車はほとんど徐行しかしなくなる

でも それってそもそも自動車というものが構造的に危険だということなんですよ

「津波に対する脆弱性を考慮に入れたら日本のどこにも原発は作れない」のと同様 自動車事故をなくすには自動車は徐行する以上に速度が出ないようにすれば良い

でも そうなったら現在の物流は崩壊しますよね

だったらどこぞの経済学者が言ったように「危険性と効率とのバランス」問題にするのが正解でしょうか?

違うんですよ 危険な速度で走る自動車交通に依存した現状の物流システムそのものが間違っているんですよ

より安全性の高い物流とはどのようなものであるか それはAIは考えてくれません

AIに目的がないのは AIには論理的な目的行動選択が存在しないからです

現在の物流システムの上に生活が成立していること自体が そもそも危険性を生み出している

これって物流に限ったことではなくて あらゆる経済活動において言えることなんですよ

でも あらゆる経済活動全体はヒトの脳だけでは把握することが困難なので そこでAIを用いたビッグデータ解析が利用出来る

食品ロス問題や暴飲暴食による健康への影響なども含めたトータルでの「効率」を良くすることで 生活習慣病が減らせれば難病患者に対する治療研究に医療費を回すことも出来る可能性がある

でも どこに問題があるのかに気づくことが出来るのはヒトの脳であり 論理的に説明可能であることこそが「人間としての知能の本質」なんですよ

ビッグデータ解析にもAIが使えると言っても 使うのはヒトの方なんですよ



動物の意識というのは遺伝的進化の結果的な先天的な本能と直結していて 論理的予測能力は非常にわずかです

木の枝で穴の中から虫をほじくり出す程度の予測しか出来ず 社会全体における理想状態にまでは予測が出来ません

ヒトの脳容積があれば それも可能なんですね

でも 常に可能なわけではないし 誰でも可能なわけでもない

ヒトによっては「そこいらへんをほっつき歩いている女子中学生くらいなら誘拐監禁しても構わない」と思ってる奴もいるくらいですからね

ネコの目の前でネコジャラシを振れば ネコはネコパンチがしたくてたまらなくなり それに意味があるかどうかなど考えもせずにひたすら条件反射的にネコパンチに邁進します

それと同じで頭の悪いバカにしてみれば 誰も見ていなければ女子中学生を誘拐監禁するわけです

そんなことする奴がいる社会に持続可能性とか安全性があるかどうかなんか論理客観的に予測するこたしないんですね

「動物の意識」と「人間としての意識」の違いってそこなんですよ

「意識に定義はない」なんて言っているバカが「哲学者」扱いされてますけど そんなんレベルが低すぎて到底知性とは言えないんですけどね

「意識に定義はない」って言った直後に「論理的に説明出来ることが意識」って言い出していますから 言っている内容に論理整合性がない

「なんやコイツ!」って 私は思うんですけど 大多数のヒトはそう思わないらしいですね

マスコミはバカしかいないので 何が正しいのかなんて誰も考えない

一般的なヒト(動物)レベルの思考能力しかないからですよ

論理検証性が働かないから 人間としての意識として機能しない

それが どれだけ危険で無責任であるかも認識出来ないし しようともしない



Ende;
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ケヴィン:ケリー

2019年07月24日 23時26分51秒 | 意識論関連
トロッコ問題は倫理的ジレンマを生み出す

*:生み出さないよ トロッコ問題の中に倫理の本質はないからね

法律は倫理ではない 法律は原因究明も再発防止策にもならない

法律をAIに従わせても倫理にはならない

意識に定義はない

XAI 説明可能なAI

論理的理解に基づいた説明が出来ること これが意識

*:こいつさっき「意識に定義はない」って言わなかったか?



Ende;
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はぐらかし

2019年07月24日 18時49分15秒 | 意識論関連
クレプトマニア(窃盗症)の話なんですけど

お医者さんが「犯罪者の気持ちも少しはわかるんじゃないでしょうか」なんて言っていた

日大アメフト部で反則行為をしてしまった選手の気持ちなら多くの共感が得られたようですけど

はて 寺内樺風とか植松聖の気持ちに共感できますかね?

犯罪者の「気持ち」に共感して「わかった」ような気分になることに意味なんてないんですよ

ただ 寺内樺風とか植松聖の頭の悪さがどのようにして発揮されちゃっているのかを客観的に理解しておく必要性はある

どういうふうに壊れているのか どういう点がイカれているのか それを科学的に分析理解することによって犯罪の予備軍的な人達が実際に犯罪を犯す前の予防措置にも応用が出来る可能性が高い

でもね 実際に被害者もいないのに罰というのはおかしな話で あくまで治療のために利用すべき知見なんですね

だから私戦予備罪ってのは合理性がない

「頭が悪い(学力偏差値の話ではない)」っていうのは 「教育における失敗」です

ですから失敗の原因を徹底的に究明することで 再発防止に役立つ知見を得ることも可能となるわけです

クレプトマニアという診断を受けるか否かに関わらず 身勝手な犯罪者っていうのは基本的に「病気」なんですよ

だから罪の重い軽いに関わらず 安全性がある程度担保出来るまでは治療対象であって釈放しちゃいけない

逆に 被害が大きかったとしても そもそも不可抗力性の高い過失だったら釈放しても社会安全性においては問題がない

「まだ人を殺してはいない」からといって包丁振り回して暴れる傷害常習犯を保釈するのはずいぶん不条理な話ですよ

法手続きばっかりが優先されて 安全性が後回しにされている

国民が司法にもとめていることって 別に「犯罪者同士の罪の公平性」なんかじゃなくて安全性ですよね

そこんとこが激しくズレているのに 裁判員制度なんかではぐらかされている



Ende;
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考えていないヒト

2019年07月24日 18時09分02秒 | 意識論関連
他人の迷惑に配慮ができず 自分の目先の感情や欲望だけで行動が決定してしまう奴っていうのは 脳が人間として機能していないってことなんだけど

その原因とは何かと言えば

自発的な自己客観的論理検証性が働いていないからなのよね

それは何故かと言うと

そもそも自分で考えて行動選択をしたことがほとんどないため 行動選択の全てが主観的に「怖い」かどうかとか「安心かどうか」だけでしか決定されることがない

自分自身で「これをやったら どうなるのか」ということを考えたことがなく 主観的観念に過ぎない超自我(ジグムンド:フロイト)的抑圧だけが行動抑制になってしまっていると 気分感情と行動が直結してしまうようになる

何かをした時に 頭ごなしに「怒られ」たりしていると 怒られることが怖いのでやらなくなるだけであって やった事の何が悪いのかを論理的には理解していないわけですよ

論理的に理解していないってことは 人間としての理性が働いていない状態ですから これは人間としての意識も働いていないことをも意味するわけです

酔っ払って乱暴な運転をしたら どのような結果になりうるのか そういうことを考えたことがないから 結果的に他人の迷惑にも配慮が働いていない

超自我っていうのは無意識ですから 論理客観的に悪いかどうかよりも主観的に怖いかどうかでしか抑制が働かないので 行為に対する恐怖心が目先の快楽とか怒りなどの他の感情の強度程度が上回ってしまうと簡単にタガが外れて悪いことでも平気でやらかしてしまう

と 同時に 本当は別に悪いことでも何でもないことであったとしても 観念的恐怖心が優先してしまい 人畜無害なことにまで罪悪感を抱いてしまい 結果的に勝手に欲求不満に陥ってしまう原因ともなる

超自我のような無意識な行動抑圧というのは 実は人間性においては害にしかならないんですね

人間性の源ってのは無意識な行動バイアスではなくて 意識的目的行動選択を行うための客観的論理検証によって働くようになるわけです

超自我的な行動抑圧に任せて行動していると ナチス政権下においてはユダヤ人迫害も平気で行えるようになります

それは 主観的に「怖くない」からです

 ◇

自転車に乗っているときの話なんですけど ある細い路地の特定の場所に同じ猫がいることがあって この猫がどういうわけか毎回目の前1メートルくらいまで近付いた瞬間に前をダッシュで横切るんですね

これ 多分 私に限らず自転車が来ると同じように前を横切りダッシュするんじゃないかと思うんですが 何か癖になっているみたいで毎回やらかすんですね

なのでこの猫がいた時には徐行していつでも止まれるようにするんですけど そうすると今度は目の前20センチくらいで横切りダッシュするんですよ

これ やられるとビックリするし 危ない

相手は猫ですから 感情と行動が直結していても仕方ないっちゃ仕方ないんですけど 毎回あまりにも唐突な行動を採るもんですから ちょっとお仕置きじゃないですけど横切りダッシュされた時に自転車降りて「こらー!」って追っかけたんですね

「猫相手に何やってんだw」って言われそうですけど それ以降この猫は横切りダッシュしなくなったんですよ

道で目が合ってもパニクってダッシュしなくなった

覚えたんですね 「横切りダッシュすると変なヲヤヂに追いかけられて気分悪くなる」のでやめたんだと思います

「学習」したんですね でも 別に「自転車乗ってるヒトが怖がるから」という主体的配慮からやめたわけではなくて あくまで「変なヲヤヂに追いかけられるのが嫌」なのでやらなくなっただけでしょう

これがいわゆる懲罰による「抑止力」です

自律的に他人の迷惑に対する配慮が出来ない猫程度の知能しか働かないバカを観念的に抑圧するのが刑法です

懲罰という嫌なことをされたくないから 法律を守る

行動選択の基準が「怖いかどうか」だけの奴には多少の抑止効果はあるとは言えるんですけど そもそも猫程度の判断力しかない奴が存在していることが問題なんですよ

だって 相手は猫じゃなくて 同じ脳容積を持った「ヒト」なんですから

寺内樺風って奴がいましてね こいつはお気に入りの女子中学生を誘拐して自宅に監禁してたんですけど これが発覚しまして逮捕され裁判になったんですが 「高価な美術品を盗むよりは悪いことだと思わなかった」なんて言い出したんですね

「数億円の絵画を盗難するよりも悪いことではないなら やっても構わないんじゃないか」

 そ ん な 理 屈 あ る か !

って思うんですけど コイツ ガチで言ってるんですよ

言語喋ってんのに判断力が猫レベル

「そこいら辺をほっつき歩いている女子中学生くらいは誘拐監禁してもさしたる問題ではない」と思っている

この判断力レベルの低さは 一体どういう構造から出てくる発想なんだろうと これ ちゃんと調べておかないと似たようなバカがいくら出てきてもおかしくはないんじゃないか そう思うんですよ

ところがですよ 寺内樺風には懲役9年だかの判決が出て それで司法手続き的には終わりなんですね

刑務所で治ろうが治るまいが 9年経ったら出てきちゃう しかも再犯しても司法役人の誰も責任取ってくれない

「もし見つかっても懲役9年くらいだったら 目先の欲望を満たせた方がお得なんじゃないか」とか思っている奴もいるかも知れない

刑罰がどのような基準で決められるのかと言うと 「他の犯罪者との罰の公平性」なんてもんが基準になっている だから どんなにオツムがイカれていても誘拐監禁だと9年で出てきちゃう

何度も言いますけど 治っていようがいまいが関係ない

それが刑法なんです



多分ね 他人の気持ちがわからない奴って 自分の気持ちも考えたことないんじゃないかと思うんですね

感覚として「他人からこんなことされたら嫌だろうな」って思う主体性そのものが欠落してんじゃないかと



そう言えば NHK「プロフェッショナルの流儀」って番組で 何でも修理しちゃう電気屋さんの話をやってたんだけど

本当は直せる家電でも「直らない」って嘘言って新品を買わせるように仕入先から言われたんだけど それには従わなかったんだそうです

嘘は言いたくなかったんですね

嘘っていうのはばれなくても 嘘を言う方の気分も悪いんですよ 本当はね

でも 大半の電気屋は仕入先の企業からの指導に従って嘘を言って業績を伸ばしていた

正直者がバカを見るのは 圧倒的多数の嘘つきがいるのが原因です



圧倒的多数の嘘つきの中で 正直者であろうとするのは楽じゃない

コンセンサス的な動機にならない

それなら嘘つきでいた方が 正直者でいたいという主体性よりも勝ってしまえば 多数派に迎合しておいた方が生活(生存)にとっても有利になる

そういう世の中で良いのかどうか そんなこと考えようともしなくなる

「どうせ無駄だ」って絶望する

そういう絶望によって 様々な事柄に対して主体的に「こうあるべき」という理想が何なのかも考えなくなる

津波によって非常用電源が壊れて原発が暴走するかも知れない危険性も放置するようになる

絶望すると ヒトは無責任になるわけです

だからセーレン:キェルケゴールは「絶望は罪である」と言ったわけです



犯罪者が無責任なのは 様々な主体的判断を絶望して諦めたからだろうと思うんですね

だから主体的判断能力そのものが異常なまでに欠落している

「本当はこうあるべき」なんてこと とうの昔に考えることを忘れてしまっている



でもね こうした無責任さというものもスペクトラムなんですね

程度問題なので 寺内樺風的なトンデモナイ無責任野郎に限った話ではなくて その陰に社会全体に無数の無責任さが隠れている

その小さな些細な無責任にも丹念に言及していかないと 寺内樺風的な大バカ野郎の発生は抑えられない



「こんな奴は死刑にしちまえ」的に 「これさえやっときゃ全ては解決」みたいな短絡的で安易な解決策を 大衆は好みます

ヘイトスピーチのように特定の悪者を規定して 集団で仲良く差別排除しておくと 自分が特別に「正しい人」になったかのような正義の感覚になれる快楽欲しさに刑法懲罰をも正当化したがる

しかも「刑罰によって自動的に犯罪者が淘汰されて穏やかな個体種への進化までが促される」などという非科学的妄想まで飛び出す始末

実際には食料資源の少ない環境だと穏やかな種に淘汰されることはあっても イジメや差別で穏やかな個体種への淘汰が促される論理科学的根拠なんぞ一切ないんですけどね

何かこう 先天的本能習性のままに行動しときゃ 自動的に人間性や倫理までもが進化的に組み込まれるかのような錯覚に溺れていた方が安心なんでしょうな

ヒトは ヒトの脳というのは 気分的に安心すると疑問を持たなくなる習性があります

観念主観的な安心と 論理客観的安全性の区別が先天的に働かないからです

そういう先天的欠陥は存在しないと思っていれば安心

「自分の主観的感覚は常に正しいはずだ」と思っておけば満足

だから余計 論理客観性が働かなくなる



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なぜそう思うのですか?

2019年07月23日 17時29分58秒 | 意識論関連
マイケル:サンデルとか養老孟司の講義って オウム真理教教祖麻原彰晃の説法と構造が似ていて

「皆さん考えてみて下さい」的なことを言うんだけど

これって認知行動療法でも用いられる手法だったりする

患者当人が自主的に考えが及ばない事柄に対して 「それはどうしてでしょう?」なんて問いかけをして考えを促すことで 患者はあたかも自分自身で考え 思い付いたかのような感覚(錯覚)を持つことによって自分の思考の欠陥を認識させるんですね

これが 本論みたいにダイレクトに「お前のここが間違いだぞ」なんて言っちゃうと気分が悪くなって拒絶反応によって耳を貸さなくなってしまうために 認知行動療法ではまどろっこしい一種の「ご機嫌取り」みたいな手続きを踏むことで 患者本人の何が間違っているのかを認識させる

「認識させる」とはいうものの 何をどのように認識させるのかは問いかけをしている方の意図に依存しているので 間違った認識に誘導させるために用いることも出来る

マイケル:サンデルのようなペテン師なら 相手が「何かがわかったような感覚(錯覚)」に誘導することで バカになるよう誘い込むことにも利用出来るのです

サンデルも養老も麻原彰晃も 本当は何にも具体的な考えがあるわけではなくて 何か考えがあるかのような雰囲気だけ演出し あたかも何もかも知っているかのような錯覚を与え 更に聴衆には「自分は何かを深く考えたかのような感覚(錯覚)」を与えることによって 「自分は頭が良くなったかのような感覚(錯覚)」を持つようになる

「自分の頭が良くなった」と錯覚している状態(バカの状態)になると 自分にとって都合の悪い話に一切耳を貸さなくなります

全能感というのは正常性バイアスが作り出す錯覚で 全能感覚に囚われているヒトは非常にポジティブで 外見上は能動的に見えるんですが この能動性というのは環境によって促されたものなので 本当は自発性がないんですね

要するに麻薬中毒患者が麻薬欲しさに積極的に麻薬を求める能動性であって これは本質的には主体性や能動性ではないわけです

だから 自律的には抑制ブレーキが効かず 破綻するまで暴走する

非常に積極的にユダヤ人殺害計画に邁進するようにもなったりする

命がけで毒ガステロをやらかしたりもする

ヒトという種の生物は 洗脳されて何も自発的には論理検証せず 誰か観念的に信頼出来る相手を権威と見なして盲目的に服従している方が「幸福(主観)」なわけです

こうした先天的習性は 生存にとっては有利に働くため 進化の過程で脳に組み込まれたものだと言えます



あくまで「生存にとって有利だった(過去形)」だけなので そこには目的関数のようなものがあるわけではなく 同時に合理性もありゃしないわけです

そもそも権威に対する服従信頼による封建的統率協調性というものはヒトに限らず存在するものであり ハダカデバネズミの方がむしろ蟻や蜂のような「真社会性」を持つものでもあり ヒトに進化する以前から組み込まれた動物的行動シーケンスに過ぎないのです

シーケンシャルであるということは 機械手続き的であるという意味でもあり それが進化の過程において「生存にとって有利に働くこともあった」からといって 永遠に何かの役に立つわけではないのです

「役に立つこともあった」とは言っても それはあくまで「生存にとって」の話であって 生存にとって役に立ったからといって人間性や倫理にまで有効であることの論理的根拠はんぞなんもないのです

「遺伝的進化任せにしておけば全ては上手くゆく」という話は たとえイジメがおきようとも虐待が連鎖しようともほったらかしにしておいて 結果的に「死ななかった」個体への淘汰圧力任せにしておけば「上手くゆく」と言っているのと意味が同じです

そりゃもう 頭がイカれてるんですよ

こういうトンデモナイ話を哲学界や生物学界は100年以上も何の疑問も持たずに鵜呑みにしている訳です

遺伝的進化というものには目的や方向性がありませんから たとえ絶滅しようと バカに進化しようと 野蛮な個体への進化が促されようとも 誰も責任を取ってはくれることはありません

ヒトという種の生物はもう既にバカへの淘汰圧力が働いて バカに進化しているからこういう事態が漫然と放置されているんでしょう

ヒトが既にバカしかいなくて もはや誰も何の問題意識も働かないのであれば そんなんどうにもならんわ



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拝金主義

2019年07月22日 15時59分57秒 | 日記
飲み会で写真撮られたら後ろに写っていたやつが金塊強盗だったとか言われたってそんなん不可抗力だろうよ

それがギャラ呑みだったから「強盗から金貰ってた」ことになるってのもおかしな話で それを言うなら店だって「強盗から金貰って酒を提供していた」って話になるだろ

それとも何かい パン屋が金を貰ってパンを売った客が連続殺人犯だったら 「連続殺人犯から金を貰ってパンを提供していた」ら悪いことなのかよ

知らんだろ そんなこと誰も面倒看きれないないわ

むしろ 「とっとと警察が捕まえろよ 何やってんだって」話だろ



どうも写真週刊誌ってのは大衆迎合的に芸能人に対する差別的扱いやイジメ差別の助長みたいな下世話な話でも平気で垂れ流す習性があるんだけど それってSNS上のウケ狙いの悪ノリ投稿やネトウヨとやっていることがあんま変わんないじゃないかと思う

「大衆に迎合して下世話な内容にしないと売れない」からって 悪質な悪ノリ投稿を率先してマスコミがやってたんじゃ無責任も甚だしいだろ

金の為なら何しても許されるって話にゃならんだろ



Ende;
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ダニの巣窟

2019年07月22日 14時06分24秒 | 意識論関連
ダニエル:デネットはこう述べている

AIが率直で誠実であるとは限らない 真の意識とは相反するものだからだ

真の意識というものが主観的感情とは別のものであると述べており

(AIには)道理をわきまえてもらわなければならない

とまで述べている

デネットは人間性や倫理を伴う本質的な意識というものが感情とは別物であると述べているにも関わらず 「意識=感情」という取り扱いをしており 論理整合性がない

言っておくが 論理整合性のない話というのは「間違い」か「嘘」である



「真の意識が感情とは別物である」と述べているにも関わらず 意識と感情を混同しているのは 言っている内容に論理整合性がなく「道理に反する」のである

デネットはAIという新しい技術に対する大衆の観念的恐怖心に同調迎合する形で「AI怖い」と言っているに過ぎず 具体的に何がどのように「危険」なのかを全く論じていない

AIに限らずあらゆる新しい技術の危険性というものは それを使う側のヒトの危険性に由来するものであって ヒト自身の危険性を無視して「AI怖い」と主張するのは観念論であって 到底論理的根拠を伴う検証とは言えず 何の役にも立つことはない

 ◇

意識の本質とは 目先の感情の強度程度だけではなく

様々な感情を統合的に自己客観視し 合理的目的意識に基づいて検証することで発揮されるのが本当の「人間としての意識」である

どんなに強く「死にたくない」と思ったとしても その感情の強度程度というのはドーパミンの常習性が作り出した執着(中毒)に過ぎず 到底人間としての目的意識にはならない

たとえ永遠に生きられるとしても 子供が丸焦げにされるような世界で生き続けなければならないとすれば それはむしろ地獄でしかない

「人が人を殺してはいけない理由」はないが 同時に「人が人を殺すような社会で生き続けなければならない理由」も存在しないのである

自己の生存などという目先の感情よりも 自己の様々な感情を客観的に検証した場合 本当に求めるのは「人が人を殺さない社会」である

単なる犯罪としての殺人だけでなく 個人が自律的に社会的責任判断をしないことに起因するあらゆる「人災」も含めて「人が人を殺さない社会」を求めることが 人間としての目的なのである



ヒトという種の生物は 先天的には人間性が組み込まれてなどいない

だからこそナチスやISILのような暴力的で野蛮な組織の勃興を幾度となく繰り返してきたのである

ヒトという種の生物は先天的に集団統率的協調性を発揮する習性があるため これを利用すれば警察や他国の侵略に対する防衛に利用することも可能ではある

スタンレー:ミルグラムは服従心理実験の検証において「サイバネティクスの観点から」と題して あたかもヒトの権威服従性には「先天的習性としての目的」が存在するかのような解釈もしているが 先天的本能習性には目的など存在しておらず この分析は科学論理的検証として成立していないのである

先天的本能習性というものは 目的関数の存在しない遺伝的進化の「結果」に過ぎず それは「たまたま死なずに生き残った」個体の性質でしかない

「たまたま生き残った」からといって それが最適であることの論証にもならなければ そもそも「生き残った」こと自体も結果に過ぎず どこにも目的が存在しない偶発的結果以上の意味は存在しないのである

従来生物学界では「生物の目的は生存」と定義してきたが これは論理的根拠が存在しない実証不能の観念に過ぎないのである

「偶発結果的に死なずに生きているもの」を「生物」と分類しているに過ぎず 遺伝的進化というものにも合理的目的など存在していない

生物進化というものは 何せ数十億年に亘る膨大な変異と淘汰圧力によって洗練されてきたため たかだか数百年程度のヒトの知識や技術と比較して優秀な面もあるからといって「進化任せにしときゃ 全てはうまくゆく」などという非合理な実証不能の観念を鵜呑みにして良い理由には全くならない

現状において「生存にとって適していた」という「結果」が これからも永遠に「生存にとって適し続ける」保証は何もない 進化というものには目的関数がないので 絶滅しようが破綻しようが誰も責任を取ってはくれないのである

遺伝的進化の過程というのは 膨大な絶滅という失敗の上に成り立つものであるが 進化過程においてはこうした失敗経験は教訓として生かされることはなく 何度でも同じ失敗を繰り返すマヌケで愚かなものに過ぎないにも関わらず 「人間よりも進化の方が賢い」などと言う「神話」を鵜呑みにしている大多数の大衆マスコミは烏合の衆デクノボウ無能バカと形容する以外 他に形容の仕方があるならむしろ懇切丁寧に噛んで含めるようご教授頂きたいくらいである



リチャード:ドーキンスよろしく遺伝的進化によって自動的(自然)に必ず人間性が組み込まれているかのように錯覚するのも バカな大衆や文系マスコミにとっては簡単なのであろう

遺伝的進化によって形成された本能習性としての社会形成性や封建的な統率協調性というものが 常に絶対に人間としての倫理に則った結果以外をもたらすことはないとでも「思って」いれば安心なのであろうが それは目先の気分によって促された錯覚であり 論理的根拠を伴う真理真実を撹乱する「嘘」に過ぎない

ヒトやチンパンジーが限定された特定環境下において利他的行動に適した結果だけを抽出して それだけを論拠に「先天的本能としての社会形成性や統率協調性は常に人間性に則った行動しか促すことはない」かのように錯覚していれば 何も論理検証しようともしないバカにとっては目先の気分的安心満足によって思考停止に陥ることは簡単なのであろう



錯覚を錯覚であると認識するのは論理検証性である

そして 錯覚を生み出すのは感覚や感情といった先天的本能習性である

正常性バイアスによって 目先の気分が良くなる話を鵜呑みにし 嘘を見抜くための自発的論理検証性という意識の本質が働かなくなることによって ヒトは簡単に人間性を喪失する

自己の感覚に対する客観的論理検証性が働かなくなれば 多数派や権威に同調迎合することで安心することは簡単である

学校の教室における学級内ヒエラルキー環境下においては イジメに同調迎合するか 傍観放置しておく方が「生存にとっては有利」である

それは 西宮冷蔵のように内部告発などせず 如何なる悪事も利己的利益のために傍観放置しておいた方が「生存にとっては有利」なのと同じである

こうした人間性が生存にとって有利に働かない環境下において 進化的に先天的人間性が自動的に組み込まれるような淘汰圧力が働かない環境下において どうして「先天的に人間性が組み込まれる」などと言えるのであろうか

「進化の方が人間より賢い」などという話は 何も自発的には論理検証などしたこともない馬鹿な衆愚を気分的に安心満足させるだけのデマゴーグに過ぎないのである



文化的背景などというのは所詮は多数決 デファクトスタンダードでしかなく 論理科学的な普遍性の根拠にはなり得ない

天動説が主流だった文化的背景において 地動説が火炙りにされたという失敗の原因とは ヒトの感覚的安心満足が促す錯覚によって論理的な真理の証明が捻じ曲げられたからである

現状の生物学や哲学界における進化万能論が主流である文化的背景も 論理科学的普遍性の証明には一切ならない

「なりもしないもの」を あたかも「なっているかのように錯覚している」だけなのである



バカというのはスペクトラムである

絶対にバカではなく 絶対に間違えないヒトなど実存しない

重要なのは バカとは具体的にどういうものなのかを理解することによって 誰がどのようにバカなのかを区別認識することである

「少数異端である」とか「現状において世間的に成功していない」だのという大衆観念は 科学的論理証明には一切ならない

現状の哲学界というのはマイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルだのといったバカ丸出しの話に浮かれ 亀山郁夫の「ドストエフスキーの読書感想文」を哲学だと勘違いし フリードリヒ:ニーチェやマルティン:ハイデガーを実存主義だと勘違いしているバカの集団である

バカの多数決を権威(服従信頼対象)だと勘違いしていれば 社会安全性にとって重大な欠陥となることは明らかである

「それでも構わない」というのであれば それは私がどうこう出来るようなものでもない



Ende;
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文化的背景とは結果に過ぎない

2019年07月20日 15時15分35秒 | 意識論関連
デファクトスタンダードに過ぎない現状のOSや文化的背景というものは決して絶対的なものではない

バグまみれのWindowsOS上で動かなければアプリとして認められないというものではないし

現状の文化的背景に基づかなければ知識として認められないというものでもない

ナチス政権下という文化的背景に依存して「当時はナチスに迎合しなければ生きられななかった」などとほざくのは言い逃れ取り繕いはぐらかし嘘ペテンの類いでしかない

遺伝的進化万能論という現状の文化的背景そのものが間違っている以上 それは糾さなければならない

文化的背景というものは別に絶対的なものでも 論理的に普遍性が証明されたものでもないのである

文化的背景というデファクトスタンダードは多数決でしかなく 多数決というのは科学的論証にはならない

科学は多数決で決められるものではないからだ

「文化的背景なくして何も考えることなど出来ない」かのように言い出すダニエル:デネットや養老孟司というのは 自発的には何が間違っているのかを考えることも認識することも出来ない無能なデクノボウの言い逃れである

ヒトの多くは論理的に真理が何かを検証することが出来ず 既存の権威体制の何が間違っているのかの判断もしたがらない

ヒトは権威に対して疑うことが主観的に嫌いな先天的習性があるためである

何が間違いで何が正しいのかを認識出来ないというのは そうした「感覚」が促す錯覚が原因である

未だに養老孟司が科学者扱いになっているが 養老は虫以外何も考えたことがない専門家である 決して「人間の脳に詳しい」わけではない

強いて言えば「ヒトの脳(ハードウェア)を解剖学的に詳しい」だけなのであり パソコン組み立ての専門家だからといってソフトウェアにまで精通しているわけではない

そもそも養老は「解剖などという辛気臭いことを 退官してまでやる奴がどこにいる」などと言い出す始末である

養老は虫と世間的評価以外は何の興味もありゃしない

だから論理整合性のない大衆ウケの良い嘘をベラベラと饒舌に話したがるだけである

そこに気付かない大多数の大衆もマスコミも社会的に無責任であることにおいて同罪である



Ende;
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オカルト生物学

2019年07月20日 12時06分31秒 | 意識論関連
「進化は人間より賢い」とフランシス:クリックは述べたそうだが

そりゃヒトの知識なんてのは文明が出来てからの数千年程度の話なので

数十億年の生物進化の「結果」が非常に高度で機能的なだけであって

進化過程構造そのものが「賢い」わけではない

進化というものには目的関数のようなものはなく あくまでランダムな変異と淘汰圧力の結果として 非常に高度な機能を持った個体への進化を促しただけであって 進化というものが何かを「考え」たりしているわけではない

何も「考え」ていないのに「賢い」と形容するのは理論的に間違っている

それは「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」からといって再現性のない偶発的な「当り」だけを抽出して「射撃能力が優秀だ」と述べているようなものである

遺伝的進化というのは先ず始めに変異が必要だが この変異というものは先天性疾患なども引き起こすものであって 決して「必ず上手くゆく」ようなものではないことは明らかである

膨大な変異と強力な淘汰圧力の「結果」だけを抽出してきて その過程の膨大な失敗を無視して「進化は賢い」と言うことは出来ない

現在の生物学界では進化万能論が主流になっているが これは到底科学的根拠を伴わぬ妄想錯覚お伽話神話の類いでしかない

遺伝的進化を万能だと錯覚しているからこそ 誰もフランシス:ゴルトンの優生学に対する論理反証に言及出来ないのであり

現状の生物学界というのは非科学的オカルトに汚染された大衆迎合にしかなっていない



Ende;
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addiction

2019年07月20日 01時22分33秒 | 意識論関連
ある犯罪心理学者は「社会に受け入れられていないから自暴自棄になる」と述べていたが

ガリレオが地動説を受け入れられなかったからといって真理を放棄なんぞしなかったし

メンデルが誰からも評価されなかったからといって研究をやめることはなかったし

ヴァルター:ベンヤミンが当時の社会に受け入れられなかったからといってナチスに反対することをやめなかった

社会から受け入れていない」かどうかという環境依存性が自律的な社会的責任判断能力の欠落の根本原因であって

自己嫌悪で簡単に安易な絶望をし ニヒリズム(虚無主義)に勝手に陥るような面倒臭いバカなんぞ誰も面倒看てなどいられないのである

「社会の評価」に惑わされずに自発的に社会的責任判断選択をする人格というものは 本質的自発性主体性能動性こそが重要なのである

環境依存性があるからこそ 社会環境に対する報復感情が働くことになるのである

主体的に社会安全性を目的にしていれば 暴力を用いた報復に意味がないことは明らかである

「腹が立つ」のは個人の勝手である イライラするなら勝手にすればよろしい 他人に八つ当たりする必要や合理性もないのである

自分の主観的感情というものは 自分でナントカするものであって 自分の個人的好き嫌い感情などというものは自分にしかわからないものであり 他人にわかってもらったり共感を得る合理的必要性は存在しないのである

どんなに世間的に成功したとしても永遠に生きられるわけでもなく ヒトは最後に必ず死ぬのである

利己的な「他人からの評価」が目的になっているから他人の迷惑に配慮が働かなくなるのであって

純粋に自発的主体的能動的に行動選択をしていれば 他人からの評価に惑わされることはなくなる

SNSウケを狙った迷惑行為が多いのは 評価承認欲求というものに自律がないことの証明である

「社会に受け入れられるかどうか」を理由に無責任な行動を採る時点で 自律というものがなく「甘え」ているのである

東電社内で原発の津波に対する脆弱性を主張しても「受け入れてもらえない」からといって主張を放棄されては困るのである

西宮冷蔵のように内部告発をしても「社会から受け入れてもらえない」からといって違法行為を隠蔽されては困るのである

自分がされて迷惑なことを 他人に対して行うべきではない

そんな極めて当たり前のことすら承認欲求中毒というのは見えなくさせてしまうのである



Ende;
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人間としての欲望

2019年07月19日 16時22分19秒 | 意識論関連
東池袋暴走事故の被害者の松永莉子ちゃんのお父さんが厳罰化を訴え署名活動をしているんだけど

申し訳ないけど賛同しかねる

アクセルとブレーキの踏み間違い事故っていうのは 勤続30年以上のベテラン路線バスのドライバーやパトカーの警官ですらやらかす「過失」なので

「罰で解決」という司法手続きというのは 再発防止の観点からはむしろ逆効果となる

莉子ちゃんのパパのお気持ちはわかるんだけど それは主観的感覚としての「わかる」でしかない

厳罰化による抑止力というのは結局精神論でしかなく ポカヨケのような実効性のある対策にはならない

「飲酒運転の厳罰化によって飲酒運転が減った」との報道もあるのだが 果たして飲酒運転が減った原因が厳罰化なのか それとも報道が増えたことによる周知効果なのか それとも他の要因なのかは理論的には不明だと言える

「罪」の観点から言えば 暴走事故って以前から何度もあったものであって その都度「司法判決で解決」という機械的手続きだけで終わりにしてしまっていた無責任さというものは 特定の過失者だけにあるわけではなくて 警察や政府 さらには政府を承認している国民全員の責任でもある



罰というものは過失に限らず 川崎の外務省職員や小学生殺傷事件や京都アニメーション放火のように自暴自棄な犯罪者に対しても効果がない

中華人民共和国では麻薬取締法違反は極刑なんだけど それでも後を絶たないのは 犯罪者っていうのは基本的に自律的な社会的責任判断をしようという自主性や主体性が欠落しているからなのね

伊勢崎賢治も法律の公平性を訴えているんだけど 実際に暴力を振るう奴ってのは法律関係ないんだよね 仲間内で統率協調的に誰かを排除差別することを「正義」だと勝手に勘違いして暴力を振るっているだけなので 制度自体は暴力抑止に対してあまり意味を為さない

「罰や暴力で解決だ」というヒト全般に普遍的に見られる短絡性や非合理性に言及しないことには暴力の本当の原因究明と再発防止策にはつながらない

社会安全性にとって最も優先されるべきなのは合理的根拠を伴う再発防止策であって これを優先しないというのは社会的に無責任だと言える

莉子パパの「何とかしたい」という強い意欲(気持ち)はわかるんだけど 厳罰化は本来の目的とはかけ離れてしまっている

当人的にどんなに「気をつけているつもり」になったからといってポカミス過失は起きる時は起きるんであって

過失というのは誰でもやらかすものであって 私自身も信号無視や踏み間違い経験したことがある

私の場合は何事も被害にはならなかったんだけど 失敗過失というのはむしろ公表して共有して再発防止に活かす情報にすべきなのに 厳罰化や取締強化というのはむしろ失敗過失をみんな隠蔽せざるを得なくなってしまい逆効果に働く

どのようなミスが多いのかがデータとして集められていれば 様々なポカヨケ的対策によって失敗過失を地道に減らす具体的対策も出来るようになる

こうした地道で地味で面倒臭い「改善」を 以前からやっとけば もしかしたら莉子ちゃん達は死ななくて済んだのかも知れない

本当に必要なのは 主観的な報復感情を満たすことではなくて 客観的再発防止のための合理的解決策を見つけること



とは言っても 別に松永さんの署名活動を妨害するつもりはないし 署名を賛同する人を非難するつもりもないし 誰にもして欲しくはない

科学や哲学というのは 本当のこととは何かを探求することであって 理論的に間違っているからといって強制的に禁止したり抑圧したりするのは哲学からの逸脱になる

科学や哲学の観点からは実証不能の神は語るに足らないが だからといって社会制度的に禁止したり非難したりするべきではないのと同じこと

それをやったら科学や哲学ではなくて「何か別の宗教」になってしまう

科学や哲学というのは「間違っていることは 間違っています」と主張する以上のことをすべきではない

科学や哲学というのは理性による「知識」であって それに基づいて制度を決定するのは別の話



「誰も理解しない」ことを理由に私個人がどんなに腹を立てようとも そんなものは社会安全性にとって何の意味もない身勝手な主観的感想であり どうでもよろしい

私は別に多数派からの評価承認も求めていないし ご機嫌取りも要求しない

私が一番嫌なのは「赤ん坊が丸焦げ」にされるような悲惨な出来事が二度と起きて欲しくないだけであって それを減らすために必要な真実を求めているに過ぎない

それ以上の何も特に欲しくはない



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