書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

浮遊。

2011年08月29日 15時33分36秒 | 日記
 浮遊写真のブログを見つけました。

 基本、笑えるんですが、足元だけの写真は首吊り自殺を連想させるので、人によっては恐いのかも知れないです。

http://yowayowacamera.com/

 東芝クラウドブックAZ/05Mの標準ブラウザだと、いつものことですがスクロールできません。オペラモバイルで開いて下さい。
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お米の買い占め。

2011年08月29日 08時45分56秒 | 意識論関連
 ツイッターとかで店頭での買い占め状況が実況されたことも原因の一つだとか言われている。

 マスコミでお米の検査の話を流したからといって、急にお米に恐怖心を持っても意味がない。

 実質、何が放射能汚染されているのかは国は「わからない。」はずである。福島の牛肉出荷停止も、実際農家自身が検査依頼をしたことで露見したのであって。国自体は「全ての食材を検査することはできない。」のである。

 マスコミも特定の食材ばかりを取り上げずに、多様な食材の検査結果について丹念に報道するべきであろう。

 立命館の教授によれば、自然界には放射性カリウムが一定量存在するとのこと。カリウムとセシウムでは、身体に取り込んだ際の蓄積の仕方が同じではない様な気がするのだが。水田にカリウムを撒くと、米がセシウムを吸収しずらくなるというので、何だかややこしい。

 とにかく、多数の他人の行動につられて恐怖心で買い占めをするのはやめて頂きたい。気分的に安心したからといって、それが安全であることの証明にはならないのである。

 何が一体危険なのか、それは実際に調査していかないとわからないものである。

 わからないものに怯えても実質的な安全性の確保になる保証などない。食材の危険性が明らかになれば出荷停止になるはずなので、(政府を信用すれば。)それまでは気分的に怯えても意味などないのである。

 気分的には微量であってもセシウムが検出されると、できれば食べたくはないのは人情というものであろう。だが、生物的半減期を考えれば「ごく微量。」であれば自然界の放射性物質よりも少ないはずである。

 そういう比較対象もきちんと報道しないから、得体が知れずに恐怖心ばかりを煽ってしまうのである。

 放射線が細胞を破壊するといっても、太陽や蛍光灯、果ては種類によってはLEDの紫外線も同様に細胞を破壊するし。ヒトという生物は微量の放射能に対しては多少の耐性は持っていると考えても構わないはずである。

 単に数値を公表するだけでなく、比較対象や実質的危険性も含めて報道してくれないと、理論的に考え、判断することすらできないのである。

 マスコミというのはセンセーショナルな話で視聴率ばかりを追求するので、扇動的な内容に偏りがちである。報道番組で妙な音楽とか使うのも含め、意味のない演出をするのはやめるべきである。タレントのケツを追いかける暇があるなら、あらゆる食材を各社共同で調査すべきなのではないのか。

 政府ができないことであるなら、できるところがやれば良いことは少なからずあるはずだ。マスコミというのは、事実上権力でもある。政治家の悪口を垂れ流している暇があるならやるべきことは、もっとあるはずではないのか。

 基本的にマスコミというのは「文系」なので、理論的に考えるよりも観念的に大衆扇動をするのが大好きである。

 その方が「数字」とか「金」になるからだ。

 無論、そうした行動に本質的意識が欠けていることは、今更言うまでもなかろうと思うのだが。

 大衆も含めて誰もわからないんだろうな。

 うんざりだ。

 面倒臭い。

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ESC/。

2011年08月28日 22時07分40秒 | 日記
 東芝AndroidPC AZ/05M を使っているんだけど。

 ESC/キーの長押しで履歴が表示された。

 キャプチャして掲載しようかなと思ったんだけど、何を見ているのかがわかると、何となく恥ずかしいのでやめました。

 キーって、あんまり長押しってしないので、半年以上使っていて初めて知りました。

 まあ、履歴とか新着ってのは、さほど用はないので、左クリックボタン長押しでの裏メニューくらいしか実用的には意味がない。



 ソニーαが一眼レフのライブビュー専用機ってのを出しましたね。24メガピクセルとからしいんだけど、APS-Cサイズ。画素ピッチ最小ってことになるのかね。

 そこまでの画素数に対応したレンズってあるのかね。キヤノンの18メガピクセルだって怪しいのに。そりゃ500㎜F4とかなら対応してるんだろうけど、そんなレンズ普通は買わないです。

 レンズの良いのがあれば、12メガピクセルで充分なんではないかと、私は思いますけどね。A4プリントでも12メガピクセルあれば画素が見えたりはしないし。

 レンズとなると、ニコンのDX40㎜とか、オリンパスの35㎜とか。ちょっと値段が高くなるけどマクロエルマリート45㎜とか。

 ソニーも35㎜マクロは出しましたね。ペンタックス/トキナーの35㎜ってのもある。

 標準マクロは多少長めの方が画質的には有利なはずなので、ニコンはかなり期待してしまう。DX85㎜ってのもあるし。DXマイクロニッコールの2本っていうのは、かなりレンズマニア心をくすぐりまくりで、たまらない。




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東京写真。

2011年08月27日 12時22分09秒 | 写真
ソネットブログがログインの証明書不良を直してくれないので、写真だけでも移しておく。

ストレージ代わりです。



隅田川上流、岩淵水門の近くにある日本化薬の渡船。日本化薬は川の両岸に工場があるので、自前で渡し船を運営しているようです。

石神井川。赤羽線の鉄橋近くだったと思います。時折水が澄んでいることがあります。

都営荒川線、鬼子母神前停留所から。
GoogleMap:kishibojin arakawaline

同じく都営荒川線、雑司ヶ谷停留所。
GoogleMap:zousigaya arakawaline

東武本線堀切駅。あえてアンシャープマスクをかけていません。GoogleMap:horikiri statation tobu isezakiliine

JR隅田川貨物駅。廃止という話も聞きましたが、現在はどうなっているんでしょう。◇追記:鉄道ライターの栗原景(くりはら かげり)さんという方からの情報で、隅田川貨物駅の増強計画があることを教えて頂きました。何億円もかけておいて廃止というのは考えられないので、廃止はデマでした。
GoogleMap

居木橋交差点。ひらがなで書くと「ゐるきばし」ですね。「ゐ」の字の区点コードは0480です。目黒川と山手通りが交わる所は大橋ジャンクションの近くと、このゐるきばしの二カ所があります。

GoogleMap ゐるきばし:ibruki bridge




相生橋から。
GoogleMap:aioi bridge

永代橋から。
GoogleMap:eitai bridge

中央大橋から。
GoogleMap

中央大橋から。

永代橋から。

駒形橋から厩橋。
GoogleMap:komagata bridge

荒川堤、岩淵水門と鹿浜橋の間くらい。





山王橋。荒川の鹿浜橋の少し上流にある水門から流れ込む芝川の橋です。
GoogleMap:sanno bridge

鹿浜橋。

江北橋。





江北橋






戸田橋から。埼玉県側ですが。
GoogleMap:toda bridge

JR北赤羽駅近く荒川堤上。
GoogleMap

荒川ロックゲートから。
GoogleMap

荒川河口橋/湾岸線から。
GoogleMap

札の辻橋。
GoogleMap fudanotuji bridge

楽水橋から天王洲アイル。
GoogleMap rakusui bridge




芝浦中央公園運動場。
GoogleMap

大井町駅、イトーヨーカドー屋上から。
GoogleMap

第一京浜八ッ山橋、手前に見えている鉄骨は京急の鉄橋です。
GoogleMap:yatuyama bridge



品川区役所前の歩道橋の上から、JR東京総合車両センター。
GoogleMap

泉岳寺の近くにある異常に低くて長い架道橋の入口から。架道橋は面白がって自転車で入らない方がいいです、水漏れは酷いは路面は荒れているは首は痛いは道は狭いは距離は長いは散々です。
GoogleMap

大井車輌基地近辺。ここは路側帯もなく、コンテナを積んだ大型トレーラーが飛ばしているので危険です。路肩に待避した時に撮りました。
GoogleMap




青物横丁交差点から旧海岸通りとの交差点のイオン品川シーサイドショッピングセンターの屋上駐車場から。
GoogleMap:seeside shopping center sinagawa



西武池袋線、椎名町駅、山手通りの陸橋から池袋方向。
GoogleMap:siina station seibu ikebukuro line

新宿、靖国通り。ビックリガード近くから都心方向。
GoogleMap

確か市ヶ谷とかからだったと記憶しています。外堀なのは間違いないです。

中央区、亀島川に架かる南高橋。「なんこうはし」と読みがちですが。隣にある「高橋」の南にあるので「みなみたかはし」と読みます。中央区のパンフレットによると、明治時代に隅田川に架かっていた両国橋の鉄骨を、昭和になってからこの場所に架け換えたとのこと。
GoogleMap:minamitakahasi





丸の内。
GoogleMap:marunouchi





新座貨物駅前、川越街道。
GoogleMap

山手通り。詳細不明。

中野通りだったはずなんですが、正確な場所を失念してしまいました。野方配水塔の近くの十字路だったと思います。





等々力不動尊交差点から、少し多摩川方向に下ったところ。
GoogleMap



横須賀線。仲池上周辺だったと思います。この辺りは高低差があって面白い所でした。
GoogleMap





尾久の検車区。田端側の踏切から。
GoogleMap

葛西橋の近くの交差点だったと思います。全く吠えなくておとなしい子でした。

小名木川の上を丸八通りが渡る、小名木橋から。
GoogleMap






西台一丁目、環状8号線。
GoogleMap

文京区役所展望台から。
GoogleMap:civic center bunkyo

東武線鐘ヶ淵駅近く、墨堤通りから。
GoogleMap

文京区小石川植物園の裏にあった無関係な建物の入口。
GoogleMap










環状八号線西台一丁目。



埼玉県朝霞市
GoogleMap






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慣れ。

2011年08月26日 13時53分37秒 | 意識論関連
 「慣れ。」というものには、良い慣れと悪い慣れがある。

 危険な行為を何度も繰り返しているうちに、それが偶然事故などを起こさなかった場合。ヒトは危険行為に慣れてしまい。気分的に「安心。」して、平気で危険行為を繰り返すようにもなる。

 自動車や自転車に乗りながら携帯電話を操作したり。

 遮断機の降りた踏切を渡ったり。

 酒を呑んで自動車や自転車に乗ったり。

 果ては暴動に参加したり。

 これらは全て、気分的な安心によって行動が左右されている「ヒト。」の行動パタン、「習性。」というものである。

 文系の者特有の観念とは、「自分とは、ヒトとは、こういうものである。」と称して、大多数のヒトの行動パタンの枚挙によって、自己自身の意識的行動改善を放棄するための屁理屈や取り繕いにすりかえることである。

 「人気があるから。」という一面的事実だけでは、ニーチェの支離滅裂な内容が哲学であることの論証にはならない。

 マスコミが多数大衆の人気取りに走ることが、結果的に民衆扇動につながる危険性があることを、知っていながらニーチェを垂れ流すというのは。これはキチガイとしか形容し難い。

 ニーチェを読むと、バカなヒトは気分的に安心して、既に存在する自己というものを無批判に肯定するための論理的根拠であると勘違いすることが可能である。

 しかも、それは極めて簡単なことらしい。

 逆に、理論的な根拠を追求することというのは。いわば自己自身の愚かさを認識することにもなるので、バカが酷い程拒絶忌避するようになるのである。

 バカになることは簡単である。

 ヒトの大脳辺縁系というものは、バカになるように出来ているからである。

 しかし、ヒトはバカになる以外の選択肢が絶対に存在しないことの論理的根拠証明など、存在しないのである。

 「バカでいたい。」という個人的気分を述べるのは自由である。しかし、「バカのままで構わない。」という無責任が許されるわけではない。

 こんなことは理屈の上では誰しも「わかって。」いることである。「わかって。」いながらできないのは、既に存在する自分というものを自分では制御できないということなのである。

 自分で自分が自由にならずに、そこに本質的自由など存在しないのである。

 バカなヒトの多くは。他人を自由に操れることを自由であると勘違いする。他人を操ることの理由としての、自己自身の高慢さは制御することができないことは、意識の上から外している、無視しているのである。

 バカというのは、基本的に「だって、だって。」と取り繕いにだけは必死になって考えようとする。取り繕いにしか意識が働かないからバカであることは、全く認識できないからである。

 自己自身の愚かさを無視しておけば、気分的には楽である。自分を神か何かと勘違いすることも簡単であろう。

 「アスペクト盲。」などの「無視。」というのは、精神が病んでいることの現れなのである。

 バカという病は、一度悪化し始めると、大脳辺縁系の構造に従って悪化のスパイラルに陥る。

 高血圧の患者が塩分を欲することや、糖尿病の患者がカロリーを欲することと同じように。ヒトという種の生物というのは、一度悪いスパイラルに陥ると、雪だるま式に悪い方向に向かおうとする性質も持っているのである。

 生物の持つ方向性というのは、一面的には生存への方向性も持っているが。決してそれだけではない。

 どのような結果であれ、生物的な性質というのは偶発性に依存するものであり。そこには誰の「意思」も働いてはいないのである。

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マイクロポンプ。

2011年08月25日 22時23分56秒 | ネタ帳
 以前、冷却ヘルメットが商品化できないのかなって話を書いたんだけど。その時に紹介していたマイクロポンプは主に医療用のもので、それなりに大きかったんだけど。

 マイクロモーターでググっていたらこんなサイトを発見。定格電圧6vなんだけど、凄くちっちゃくて、良さげ。

http://www.cik.co.jp/product/motor/cik_web/japanese/f_products.html

 さて、どうやって電圧を下げるのかが問題。
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誰でも、いつかは死ぬ。

2011年08月25日 12時49分00秒 | 意識論関連
 ヒトは誰でもいつかは死ぬ。この事実の捉え方には二通りある。

 一つは、死ぬという事実を認識したくないので、意識から外して無視し、目先の快楽だけを追求することであり。

 もう一つは、死ぬという事実を認識した上で、本質的心の平穏を求めることである。


 養老孟司に限らず、ヒトの多くは自分が死ぬことを「意識から外す、無視する。」ことによって、目先の快楽を追求し続ける自己の行動を事後正当化する。

 「無視。」とは、意図的「盲。」である。しかし、この場合における「意図的。」の動機とは、あくまで大脳辺縁系の反射による、感情とかその場限りの気分による「意図。」であり。これは本質的には合理性を持った意識的な意図や意思ではない。

 この世の全てを意識するとか、何事も全く無視しないなどということは、一人のヒトには原理的に不可能なものであり。そんなことをしろと論じているわけではない。

 一人のヒトが出来うることには限界というものがあり。それはとても小さなことであるという事実を踏まえた上で。自分に出来ることを可能な範囲で行うことで、社会に参加すればいいのである。

 大脳辺縁系にとって、本質的意識というもの、統合的な論理的思考判断というものは、「気分」が悪いものなのである。大脳辺縁系の反射というものは、進化的に人間の統合的な論理的判断を行うためのものではなく。あくまで進化生物学的な淘汰の「結果。」に過ぎない。

 「結果。」自体はもはや動かしようのない現実である。しかし、「結果。」だけでしか行動を選択することが原理的に不可能であることの論理的証明があるわけではなく。それは一面的な「現実」ではあっても、それ以外が存在しない本質的「現実。」とは言い張ることは出来ないのである。

 「自分はバカだから。」とか、「自分はせっかちだから。」といった。バカとかせっかちであることを事後正当化するためのあらゆる屁理屈というものは。既に存在しているだけの「現実。」の自己。既存在としてのヒトとしての自己を肯定しているだけであり。それはむしろ、現在における自律的、自発的な選択可能性を無視した事実誤認、現実逃避に他ならない。

 一面的な現実だけを全てであると言い張ることは、実際には事実全体を認識することを拒絶するための言い逃れ、取り繕い、泣き言でしかないのである。

 「どうせ、自分は死ぬんだから。」となげやりに無責任行動を採るのは簡単である。大脳辺縁系というのは、無責任になることこそが快楽なのである。そういうふうに出来ている。だから「ヒトとは、そういうもの。」なのである。

 だが、ヒトというものは、単なる生物種としてのヒトである以外に一切の行動選択が不可能であることの証明など存在しないのである。その事実を踏まえた上で、なげやりにならずに自分のできることを積極的に行うためには。本質的自発性が不可欠なのである。

 本当の責任行動というものは、自律的な判断によるものでなくてはならない。その自律というものは自発性の中にあり、他にはない。


 アップル社CEOのスティーブ:ジョブズは、すいぞう癌に罹っているそうである。

 どんなに社会的に成功しても、最終的には、金とか多数他人の評価によって自分の人生の品質が決まるわけではない。

 ましてや目先の快楽を追求すれば、それはむしろ後悔の自責、良心の痛みに苦しむのがオチである。大衆凡人の多くは、目先の快楽の追求こそが人生の品質であると錯覚する。「今、自分や自分達だけが快楽で安心であれば良い。」というのは。自分や自分達以外や、将来のことを無視した現実逃避であり。人間としての責任ある行動選択を放棄するための言い逃れ、取り繕いなのである。

 社会的責任を放棄した他人を見て、「こんな奴は、死ねば良い。」と、誰しもが思うであろう。それなら、「他人のフリ見て、我がフリ直せ。」の言葉通りに、「こんな自分では、生きるに値しない。」と思うのであれば、「生きるに値する自分とは、どういうものであるか。」は、自ずと誰もが認識可能なのである。

 そこで、多くのヒト達は自分の欠点を認識すると、ただ気分的に凹むとか。ただ気分的に落ち込むだけで、どうしたら自分の欠点を直せるかという論理的な解決策、対策というものを一切しようとしない。

 そのための屁理屈の多くが、「私は今まで、ずっとそうしてきた。だから、今更治らない。」というものである。

 長い間習慣にしてきてしまったものは、確かに「治し難い。」であろう。しかし、それは論理的に絶対に治らないことの証明にはならない。

 要は、「気分的に治すのが嫌だ。」と言っているだけのことなのである。

 自分の気分、大脳辺縁系の反応反射というものを客観視し、気分的に「嫌。」などというのは副腎皮質ホルモンである不安物質が脳に作用しているだけであることを認識すれば、自己の気分を無視して論理的な解決策、対策ということも可能にすることも出来るのである。

 私自身は生れつき大脳辺縁系の活動が緩やかなので、もしかすると比較的感情に左右されにくいのかも知れないが。大脳辺縁系の活動が活発であっても、自己の感情を客観視して合理的に自己の意識を改革するための具体的方法論があるかも知れない。しかし、それは大脳辺縁系の活動の活発な人でなければ見つけることは構造的に困難なのである。


 ただ、大脳辺縁系の活動の活、不活に依らず。ヒトというのは少なからず成育環境の影響は大きいものである。

 幼少期から虐待をされて育った人の場合、虐待を連鎖しないようにすることだけでも意識は手一杯であろう。そういう人の場合は自分の世代で虐待の連鎖を止める、緩和するというだけでも充分に社会的役割にはなっているのである。

 一人の人が出来ることと、自分にできることというのは。社会全体から見れば小さなことである。「これさえやっときゃ。」的に短絡的な解決策などというものはなく。あくまで小さなことの積み重ねこそが社会全体を支えていることを認識すべきである。

 だから、自分に出来る範囲のことをきちんと行うことが重要なのである。

 私が腹立たしいのは、生物学や哲学界における、慣習的な固定観念による体制維持体質であり。本来最も「考え。」なければならない社会的責任を負った者でありながら、漫然と固定観念のまどろみに浸っているバカ学者共の怠慢であり。それを放置する文系のマスコミ各社である。


 社会的役割を果たさないことが、社会的には露呈していなくても。自己自身の無責任性によって、自己自身の評価を失うことになり。結果的に精神の安らぎを失うことになるのである。それこそが精神の余裕を失わせ、ますます無責任行動の取り繕いにばかりに意識が奪われることにつながるのである。

 こうしたスパイラルを、大脳辺縁系というのは促す性質がある。それを生物学的な結果論をどんなにたくさん並べても、スパイラルに陥ることが人間として正しいことの論証にはならない。「ヒトとは、こういうものである。」ことの一面的事実をどんなに枚挙しても、そこから「人間とは何か。」を論ずることは原理的に不可能なのである。

 一面的事実を、ただ漫然と枚挙するだけでは、一貫した理論に基づく普遍的な考えというものは出て来ない。何が間違いで、何が原因なのか。それを丹念に追求するのは、本質的意欲であり、自発性である。ただ漫然と社会的要請に従うだけの学者は、平気で「そこまで追求したら、キリがない。」などと言い出す。

 尼崎の鉄道事故調査委員会の報告書の手抜きは、そうやって行われたのである。

 畑村洋太郎がそんな手抜きをするであろうか。肩書が同じ人であっても、その本質的自発性の有無によって、社会に対する貢献は大きく異なるものなのである。

 だから小柴昌俊は「これなら自分は一生続けることが出来る。そういうものを見つけなさい。」と言うのである。

 「だって、見つからない。」などというのは泣き言や手抜きのための屁理屈に過ぎない。絶対に見つけることが不可能であることの論理的証明にはなっていないからである。

 私の言うことは小柴みたいに大衆の気分を損ねないようにオブラートに包んだりはしない。それが気分的に嫌なのは、私の知ったことではない。気分的に嫌なのは私のせいではなく、あなたの気分、大脳辺縁系の構造や既に刷り込まれた価値観による固定観念に起因するものであるからだ。

 「既に存在していた社会が悪い。」からといって、自分の行動や意識を変えることを拒絶するのも取り繕いである。それこそが現状への迎合であり、問題を先送り、無視する最も忌まわしいヒトの習性だからである。

 私が私自身の行動改革をどんなに行っても、それは私の行動にしか影響を与えることはないのである。それは社会的にはとても小さなことであり。また、あなた自身の行動改革であっても同様である。

 だが、その小さな影響の集積こそが社会の方向を作っていることを、忘れてはならない。

 誰が言ったか忘れたが、「微力ではあっても、無力ではない。」のである。



 ヒトの意識の9割は無意識である。無意識な行動に流されることは簡単なことである。だからそれは非常に大きな「力。」を持っている。無論、こうした無意識な「力。」には方向性があるわけではない。

 だからこそ、なをさら本質的意識による行動選択というものは必要なのである。

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リード線の端末。

2011年08月24日 14時24分29秒 | 日記
 電子回路の製作とかで多用されるリード線だけど。その端末部分の接続が意外と厄介。

 ただ捩って絡めただけでは接触不良が凄くてどうにもならない。

 ハンダ付けというのもコツが要る。火傷が恐いし。

 結局おいらはってネジで締め込むとか、圧着スリーブを使う。それが一番確実。ネジなら付け直しもできるし。ネジ穴の空いたスリーブなら使いまわしもできる。
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マイクロレゴ。

2011年08月24日 13時49分58秒 | ネタ帳
 デンマークのブロック、レゴの売上が伸びているらしい。

 基本的には子供用なので、あんまり極端に細かなパーツはないんだけど。大人用に最小パーツが3㎜くらいのちっちゃなレゴを出したら面白いんじゃないかな。

 今は金型成型技術がとんでもなく進化しているから、それこそ1㎜サイズとかも不可能ではないのかも知れない。

 あ、普通サイズのレゴとかでも、RP出力でオリジナルパーツを作っちゃうってのもできるのかな。

 Proto labsとかなら、10個¥8500ーとかから作ってくれるらしい。


 小さな子供とかだと、飲み込んでしまう危険性があるので、あくまで大人専用のレゴになるけど。細かいことが好きな人にはウケるんじゃないかな。

 袋から出したら、コロコロ転がって、畳の隙間に入り込んじゃうようなレゴがあったら。頭が痛くなりそうで楽しい。(←変態。)
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自己分析。

2011年08月23日 16時00分52秒 | 意識論関連
 「私は、せっかちだから。」などと、あたかも論理的な自己分析であるかのように強弁しながら、実際には客観性を全く持たずに自己の行動改善を全く行わないための屁理屈にしているヒトが多い。

 「自分は○○だから。」などと、自分の性格を分析している風味に述べるヒトがいるが。その性格に問題があるのならば、自己自身で自律的に改善して、初めて「自己分析。」になるのである。

 単に自分の行動を事後正当化するための屁理屈にするのは、これは分析でも何でもなくて、身勝手な思い込みを強弁しているだけなのである。

 こういう事を言い出すヒトの多くは、とにかく口数が多いのだが、実際には具体的内容というものがなく。ほとんどが「泣き言。」なので、全く仕事がはかどらない。

 「焦っているから。」だとか「時間がないから。」だとか「私はわからないから。」などと繰り返すばかりで、実務が全く進まないのである。

 「焦っている。」のは当人の気分であり。仕事としては無関係の個人的な感情でしかないし。「時間がない。」からといって、「泣き言。」を並べていれば、返って時間を浪費するだけなのである。「わからない。」のは当人の理解力の問題であって、「泣き言。」をクドクド並べている暇があったら、調べたり勉強したりすれば良いのである。

 とにかく、こういう事を言うヒトというのは、自分がやりたくない仕事の全てを他人に丸投げするために、ひたすら鬱陶しく「泣き言。」を羅列するのである。

 その丸投げのための言い訳に時間をかけることが「仕事。」だと思っているので、非常に面倒臭い。それで「ああ、自分は困難な仕事をこなした。」と、勝手に思い込んでいるので、全く行動が改善しない。


 自己分析というのものは、「自分は○○だから。」などと決め付けることで、自己の行動を事後正当化することの言い訳を並べることではなく。自己自身で自律的に自己の行動の問題点を改善することを指すのである。

 従って、本当に自己分析を行っている人であれば、「自分は○○だから。」などとは言い出すことはない。少なくとも、それを根拠に強弁することはないのである。


 本質的意識の働いていないヒトというのは、とにかく口数が多い。

 ペテン師や占い師などが典型的である。

 言っていることの論理的検証をされないように、必死になって「取り繕い。」をするために、相手の話をとにかく無視するのである。

 こういうヒトは自分の悪い所を、論理的には認識したがらないので、当然行動改善というものが働かない。

 困ったことに、自分の気分だけが意識の全てなので、相手の気持ちなど一切鑑みる余裕すらなく。自己の行動を事後正当化するための屁理屈を勝手にでっちあげることによって、自分の気分を満足させているだけなのである。

 逆に気分的に満足してしまうと、今度は論理的な根拠、裏付けもなく「安心。」してしまって、全く論理的検証というものを一切しなくなるのである。

 面倒臭いことに、自分の過ちは「些細なこと。」だとか「つまらないこと。」などと言い張り、全く改善する意欲というものがない。

 こういうのが「モンスター○○」の原因である。チンパンジーの「コミュニケーション。」能力と同様な、気分的に相手を観念させ、捩じ伏せることにばかり意識が働き。

 恐怖感と安心感を取り混ぜ、脅迫的に相手の行動を自分の都合の良いように誘導するのである。

 これが生物学が論ずる「社会性。」であり。実質的には「特定の個体にとって、気分的に都合の良い独裁封建社会を形成する習性。」なのである。

 特定の個体の気分とは、すなはち、その個体の大脳辺縁系の反射としての感情であり。それが本当に生存価に適しているかどうかの保障など、生物学は一切保障することはないのである。

 生物学というのは、偶然うまくゆけば「生存に適した。」と称し。失敗すれば「進化の袋小路。」などと言い逃れを繰り返すのである。

 こうした観念を振り回している限り、生物学界というものは「科学。」ではなく宗教にしかならない。

 「その場限りの言い逃れ。」というのは、認知症の初期症状である。自己の行動というものを客観的に認識し、自律的に改善できないヒトというのは。本質的意識としての論理的検証、本質的合理性を追求することを、気分的に拒絶するから改善できないのである。

 もとい、「やりたくない。」のである。

 まあ、「やりたくない。」ようなバカであれば、この文章の理解は途中で脱落するのがオチであろう。

 とにかく、本質的意識、論理的思考が伴わないヒトというのは、他人の言うことを論理的には理解することを拒絶し。ひたすらに自分の行動を正当化するための論理的根拠を持たない屁理屈をでっちあげて満足し、思考を停止させるので、いわゆる「アスペクト盲。」のような状態に陥るのである。

 カルト宗教の信者が、それをやめることをしないのは。自分の脳に後天的に刷り込まれた固定観念だけで思考が閉じてしまっていて。自己自身の論理的検証というものを全くしなくなってしまうからである。

 パソコンでいう、「フリーズ。」状態である。

 だから、どんなに入出力装置を操作しても、全く処理が戻って来ないのである。

 これを「脳がバカになっている。」というのである。

 パソコンの「フリーズ。」というのは、外見上は何も動かなくなっているように見えるのだが。実際には特定の処理計算だけに動作の全てを奪われ、必要な処理計算への余裕が全くなくなっている状態のことであり。電子工学的には「暴走。」と呼ぶのである。

 PCの場合、最悪コンセントを引っこ抜けば止まってしまうが。ヒトの脳の場合は特定の価値観だけに基づいて地下鉄に毒ガスを撒き散らしたりするので非常に厄介である。

 更に厄介なのは、当人的にはそれこそが「人類の救済。」だと勝手に思い込んでいることである。

 ヒトという種の生物というのは、カルト宗教だの振り込め詐欺には簡単に引っ掛かるように出来ているが。自律的に本質的合理性を追求するようには成り難いものなのである。



 ああ、厄介だ。

 文系の者が良く言うのだが。「文章の力。」などというものも、あくまで「力。」というのは使う方向性が制御されることが重要なのである。

 太平洋戦争に突入する時の日本のマスコミの扇動も、「文章の力。」なのである。

 ただ漫然と方向性もなく「力。」を振り回せば良いというようなものではないのである。

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わかったような気分。

2011年08月22日 23時11分39秒 | 意識論関連
 ヒトというのは、その生物種としての習性として、論理的におかしな話であっても気分的に受け入れてしまう傾向というのがある。

 相手が執拗に事柄を強要してくると、反論するのも面倒臭いので、気分的に「観念。」してしまうのである。

 これが論理的思考を停止させてしまうヒトという種の困った習性である。

 「あぁ、もうわかったよ。」と、なげやりに観念している時には、実際には論理的理解をスルーして、大脳辺縁系の条件反射である気分によって行動選択を促されてしまうことになるのである。

 「原発は、絶対に安全です。」という非科学的観念を科学的根拠があるものであると錯覚したのも。結局はこうした気分的「観念。」が働いていたからである。

 「そんなに言うなら。」というのは、論理的根拠にはならない。

 ヒトの行動判断の多くは、こうしたチンパンジーなどが行うような、観念的な「コミュニケーション。」によって選択されてしまうのである。

 チンパンジーが牙を剥き出し、相手を屈服させる行為を、生物学では「コミュニケーション。」と呼ぶ。

 犬が相手の尻の臭いを嗅ぐのも、顔面を舐め回すのも、生物学上では「コミュニケーション。」である。

 しかし、そこには論理的な理解を含むような、人間としての「コミュニケーション。」というものは介在していないのである。

 しかし、ヒトの場合、若干ややこしいのは。表面的な冷静さによって、あたかも人間性があるかのように装うことが可能であることだ。

 養老孟司とか、カルト宗教の教祖とか、占い師などは。その高慢な態度を崩さないことによって、相手に「威厳。」を演出し。あたかも全てを知り尽くしているかの如く御託宣を述べることで、相手を丸め込むことが可能となる。

 感情の表現力による演出を巧みに用いることにより。あたかも論理的根拠に基づく絶対的解答であるかのように、多くの無意識なヒト達を錯覚に陥れることが可能なのである。

 振り込め詐欺の類が、未だに成功することが可能なのは。大量の言葉を用いることにより、考える余裕を与えないことによって、相手の思考を自分の都合の良いように狭窄化させ。気分的な恐怖感を煽ることによって、条件反射的に行動を誘導することが可能だからである。

 占い師は、「他人の言うことを信じないというのは、心の狭い態度だ。」などと、勝手に決め付けることによって、あたかも全てを盲目的に信じ込むことこそが人間として正しいかのように、相手の思考を狭窄化させるのである。

 振り込め詐欺の場合。相手の反論の全てを全く聞かずに、ただひたすら用意した原稿に基づいて、「立て板に水。」の如くまくし立てることによって、時間的余裕がないことを演出することで、相手を慌てさせることができるのである。

 残念なことに、地域コミュニティーなどで、振り込め詐欺を警察官が真似ても。実際の振り込め詐欺のようには強迫的な焦燥感を与えることができないので、疑似的な予習予防にはならないのである。


 とかく、意識のない者というのは、相手の話を論理的に理解するということを拒絶し。聞いているような振りをして、全く理解していない。従って、こういう者というのは間違いを冒しても、その論理的な検証というものを全くしないので、同じ間違いを何度でも繰り返すのである。

 脳が完全に条件反射行動しか促さないので、こういう者というのは同じ過ちを自律的には改善するということが全くできないのである。

 再犯を繰り返す服役囚というのも、こうした原理構造によって再犯を繰り返すのである。

 ジャック:デリダだったか、「脱構築可能性の喪失。」の原因とは。大脳辺縁系の基本情動である、気分的「安心。」を作り出す、「常習性。」によって。脳というものが条件反射的な機械「学習。」行動しか促さなくなってしまうからなのである。

 生物学が規定する行動習性というものは。多数のヒトという種の生物における条件反射的な機械「学習」行動を抽出しているだけであって。ただそれだけでは原因究明にも再発防止にもつながることはない。

 「ヒトとは、こういうものである。」といった、行動習性の定義は。多数の無意識なヒトの行動習性の「結果。」しか抽出することはなく。ただ漫然とした無為無策を促すだけなのである。


 本論は、こうした文系の観念に埋もれることなく。論理的な原因究明と再発防止を促すものである。それは別に理論的には難解なものではなく、気分的に受け入れ難いという恐怖感が論理的理解を阻害するのである。

 生物学者達が「生存戦略。」などという観念にしがみつくのも、要するに本質的意識というものが働かないために。同じ観念を共有することによる気分的安心感によって、思考を停止し、論理的理解をスルーさせているからである。

 哲学の場合、そもそもが文系に分類される分野であり。科学的論理検証というものを、誰も全くしてこなかったため。その腐敗ぶりは尋常ではない。

 組織腐敗というものは、その内部において自律的検証が働いていないことによって引き起こされるものであり。組織の存在意義としての目的よりも、ただ漫然と体制維持を継続することだけが目的にすりかわってしまうためである。


 バカな教祖ほど、恐怖や安心といった感情的「コミュニケーション」を用いて服従を強要するので。バカなヒト達は無為無策に服従するばかりであるため、ますます問題が深刻化するのである。

 ヒトという種の生物は、高慢な指導者に服従していることが気分的に安心なのである。その習性に流されているから、世の中不公平が改善されないのである。

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村田製作君。

2011年08月21日 16時50分35秒 | 日記
 記事下広告に村田製作所が載っていたので、開いてみたら、家庭用電源でLEDを光らせる回路図が掲載されていた。

http://www.murata.co.jp/products/samplekit_l/index.html

 家庭用電源でLEDを光らせるのって、結構厄介。これならイトーヨーカドーの電球型LEDを買ってきた方が手っ取り早い。¥1280ーとか言ってた。電球ソケットは一個¥200ーくらいで買えるから、一個あたり¥1480ープラス電線で付けられる。はず。

 大量生産っていうのは凄いね。今は32型のLED液晶テレビが4万円しないものね。

 デジカメなんかワゴンセールだもの。そのうちスマートフォンもワゴンセールになっちゃうのかしらn。部品の単価からしたら有り得る話だけどねw。

 個人的には、村田製作所にはビデオカメラ用の電子制御スタビライザーを作って欲しいんだけどな。そういうのはキーエンスの方が好きなのかな。

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本質的自己満足

2011年08月21日 16時12分23秒 | 意識論関連
 他人や自分の外見や、風評に惑わされず。本質的な自己の精神の充足を得るためには、ノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏が言うように。「ある程度実際にやってみないとわからない。」ものである。

 他人がどんなに楽しそうに何かをやっているのを見ても、それはあくまで他人の個人的な楽しみでしかなく。実際に自分がそれを行って楽しいのかどうかは「やってみなくちゃ、わからない。」

 それはいわば、自己というものがどういうものであるのかを探る「実験」であり。ヒトという種である自己の習性や個性の取り扱いを探る科学的、論理的な検証なのである。


 暴走族がケーキを作ると、暴走族仲間や、もしかすると世間一般から「バカにされる。」かも知れないだろう。だが、その「バカにする。」ことの根拠とは、「暴走族とは、こういうものである。」という、漫然とした固定観念であって。本質的社会性の観点からすれば、暴走族がケーキ職人になって更正することは正当な行動である。

 ヒトという種の生物は、生物的な社会迎合習性を持っているため。他人からの外見的な評価に非常に敏感である。そのため、「これなら一生続けられる。」という個人的な純粋行為としての、いわば本質的な自己満足行為に価値を持つことが困難である。

 社会的に成功した者とか、外見的な恰好良さにばかり意識を奪われ。本当は自分が何をすることが本質的な満足、本質的充足であるのかを認識しづらいのである。


 とかく、「お前、そんなことして何になるんだ。」といった中傷は少なくない。だが、そんな中傷を述べている者の行動に「何か。」があるわけではなく。ただ漫然と平均的な行動をすることによって、気分的に安心しているだけの場合がほとんどである。

 ドラえもんじゃなくて、何だっけ、あ、ホリエモンか、あいつが言ってたけど、「世の中のほとんどは、無能な凡人である。」ってのがあった。

 実際、世の中の大半はノーベル賞に匹敵するような発見や発明をすることができない。できないからこそノーベル賞というものが存在しうるのであるが。平均的で平凡な人達の多数意見の集計に、「何か。」など存在しないのである。

 ホリエモンがバカなのは、結局は社会的成功という凡人の価値観に基づいた目的しか持つことができなかった点である。言っていることに論理的整合性というものがないから、他人に迷惑をかけることに陥ってしまうのである。

 それはどんなに追求しても本質的には自己が満足できないから、他人の迷惑にまで意識が働かないようになってしまうのである。

 「自己中心的な者に、自己はない。」とは、そういうことである。


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気晴らしの方向性。

2011年08月21日 14時47分10秒 | 意識論関連
 あらゆる他人への迷惑行為、たとえば暴走族や通り魔がそれを行うのは。その行為により気分的に「スッキリ。」するからである。

 しかし、こうした「スッキリ。」というのは、極めて場当たり的で、短絡的な「スッキリ。」しか得ることはできない。

 こうした短絡的「スッキリ。」感というものは、あくまで当たり散らす相手としての他人や「多数他人である世間」に依存した快楽でしかないからである。

 多数他人に迷惑をかけることにより、自分が優位になったような錯覚、感覚を得ているだけで。実質的には人間としては最低の行動でしかないことを、当人達には認識不可能であるからこそ、それ以外の選択肢が意識から抜け落ちているのである。

 こうした、環境依存性の迷惑行為というものには、本質的な自発的純粋行為による、自己自身の精神の充足が得ることができないため、どんなにエスカレートしたとしても、本質的な精神の充足は得ることができない。

 暴走族というのは、暴走行為以外に気晴らしの手段選択肢を持たないため。いわゆる「騒音おばさん。」と同様に、その行為以外には全く行動選択をするだけの精神的余裕というものがない。


 脳がバカになっている状態とは、すなはち行動が感情だけに左右されていて、条件反射的に機械「学習」した行動以外ができなくなっているため。同じ価値観以外を認識することも出来ずに、同じ行動を延々と繰り返すのである。

 これが、いわゆる「バカの一つ憶え。」という状態である。

 ネズミがネズミ車を回し続けるのと同じで、精神的な余裕というものが全くないために、ただひたすら目の前に存在する快楽ばかりに意識を奪われているのである。

 一度特定の行動を機械「学習。」してしまうと、それだけが気分的に「安心。」を促し、それ以外の行動が「恐怖。」になってしまうのである。

 暴走族というのは、暴走行為をし続けていないと不安で仕方がないのである。ある日突然暴走行為をやめてしまうと、「世間や仲間にバカにされるのではないか。」とか「なめられるのではないか。」という勝手な錯覚によって、脅迫観念的に暴走行為を続けるのである。

 彼らは、迷惑行為をやめることが怖いのである。

 当人は他人に迷惑をかけることで、その場限りには優位になったような錯覚を得ているのだが、冷静に考えれば社会的には何の利益ももたらさない迷惑行為であることを、意識から外して自己満足する。意識の表層だけを満足させるだけであるために、酒や覚醒剤といった薬物を用いて、意識を常に感情という表層だけに集中させておかないといられないのである。

 冷静に考えると、自己のくだらなさを直視することになってしまうので、意識から外し、無かったことにし。自分達の内部で同じ価値観を共有することで、その場限りの気分的安心を得るのである。

 暴走族や暴力団というのは、カルト宗教なのである。だからやめることができない。



 「ヒトは見た目が9割。」と言われる。「見た目。」とは、すなはち無意識な固定観念に基づく気分的印象のことである。

 暴走族というのは、異常なまでに外見にこだわりを持つ。それは、彼らの脳では「見た目が10割。」だからである。彼らの脳には本質的意識というものが全く働いていないため、当人にとって働かない機能は、当人には認識することができないため。他人からの見た目という無意識な脅迫観念だけでしか行動選択が決定しないのである。もとい、できないのである。

 暴走族の行動というのは、徹頭徹尾他人からの「見た目。」である。暴走族は暴走族を見て、「ああ、あれがカッコイイ。」と洗脳されるからこそ、短絡的に暴走族に成り下がるのである。

 外見に異常な固執を持つというのは、心理的な拘束であり、強迫観念的によって特定の外見を装っていないと、恐くて仕方がないのである。

 暴走族の姿をしていないと、「バカにされる。」とか「なめられる。」という思い込みは、実際には当人達だけの勝手な固定観念に由来するものであって。現実には暴走族などというのは社会的には、どうでもよい存在でしかないのである。

 社会的には「死ねば良い。」の一言で片付く存在である。

 強迫観念の源は、ドーパミンが作り出す常習性による行動学習であり。定常安定欲求の暴走によるものである。外見上暴走する以前に、脳自体に暴走が生じているのである。


 パソコンで時折「フリーズ。」という現象が起こることがある。キーボードやマウスといった入力装置を操作しても、全てが無視され、何も反応がなくなってしまう状態のことである。

 実はこの「フリーズ。」状態の時のパソコンというのは、ある特定の処理計算だけに動作が奪われてしまっていて、それ以外の処理計算への動作が全くできなくなっている状態なのである。

 いうなれば、糞の役にも立たない処理計算に動作の全てを奪われて、必要な処理計算への余裕というものが全くなくなってしまっている状態なのである。

 現代のパソコンというのはバカなので、自律的には自分の動作の異常を検出することができず、強制的に再起動させるなどの処置が必要である。

 だが、残念なことにヒトの脳の場合。再起動に相当する処置とは「死ぬ。」ということになる。従って、自律的に自分の行動を検出認識し、正常な動作行動への改善ができないのであれば、これは「死ぬ。」以外に他に選択肢はない。

 ただ、機械「学習。」の過程において、正常な動作へと、外的にバイアス報酬を与えることによって、環境依存的に誘導することも可能ではある。その具体的な例が戸塚ヨットスクールである。だが、当然ながら環境依存的な誘導であるために、その環境以外においては正常性を保つことができない。

 それは刑事罰における懲役が、実際には再犯に対して効果を持たないことからも明白である。

 自律的な自己行動選択については、以前書いた記憶があるので、面倒臭いので省く。

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募集。

2011年08月20日 20時19分07秒 | ネタ帳
 イラストSNSのPixivっていうサイトの中のユーザーには、「お仕事募集中。」って明言している人もいる。

 明言していなくても、自己紹介で「植物画家になりたかった。」とか書き込んでいる人もいる。

 3DCGとかやっている人の中にも、CADとかができる人がいるかも知れない。

 ユーザー数が莫大なので具体的には紹介できないし、勝手に個人を紹介しても迷惑かも知れないので、公開ポートフォリオだと思って見ると人材探しに使えるかもしれない。

 中には即実務に使えそうな程丁寧な仕事をする人もいるので、試しに連絡してみるのも一つの手段だと思いますが。

 でも、既にプロで実務をこなしている人も投稿していたりするので、よくプロフィールとか自己紹介とか読み込んでから連絡した方がいいかも。
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