書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○Olympus Pen-F。

2016年01月27日 20時56分20秒 | 日記
あこれはかわいい。



オリンパスのデザインっていいなあ。




Ende;
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○品川キャンパス。

2016年01月27日 08時55分55秒 | 日記
東京海洋大学マリンサイエンス博物館(入場無料)っていうのが水曜(27日 今日じゃんか)から開館するそうなので、越中島かと思ったら天王洲アイルに品川キャンパスってのがあってそっちらしい。



埼京線(りんかい線)一本で行けるな。

◇追記:調べてみたらJR品川駅も天王洲アイル駅も大して距離違わないっぽい。

りんかい線の方が運賃高いし。

北九州の方だったか新幹線の車輛基地に駅があるそうだけど、品川車輛基地の途中にも東京海洋大学駅ってのを作って欲しい的な。

Ende;
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○ご苦労なこって。

2016年01月24日 14時49分16秒 | 意識論関連
「お疲れ様」とか「ご苦労様」の使い方がビジネスマナーだとか言う話があるけど、町で掃除をしている人に「ご苦労様」って言うのは「上から目線」にはならんだろ。

誰が言い出したのか知らんが、些細な言葉の使い方をこねくり回している暇があるんなら、もっと実務的な社会持続可能性とか安全性に関わることに注意や意識を向けろよ。

プロトコル(社交儀礼)なんつうのは、形式的手続きの話であって。特定集団内部でしか通用せず、普遍的な人間性とは無関係な話に過ぎない。

形式上失礼に該当するかどうかなどというのは、発言者が意図的に相手に不利益を目的としたものではないのであれば、むしろ形式上的手続きに異常執着している奴の方が心の狭いクソ野郎なんじゃねぇのか?。

形式手続き上どんなに正確にマナーだけ守っていても、詐欺師ペテン師なんてぇのはいっぱいいる。

逆に言えば、形式手続きに異常執着している奴程社会的には迷惑な場合の方が圧倒的に多い。縦割り行政に異常執着している役人なんてのは典型だろ。

形式マニアであれば、外見的形式ばかりを追求していりゃ気分的に満足なのかも知れないが。そんなことだから年功序列とか権威主義が蔓延してしまって、本当に能力のある人が社会的地位を獲得できずに、結果的に無能な奴が権威や地位を占有してしまい、社会効率が悪化する原因となる。

権威者による査読の有無で人の話を頭から否定したりするバカなんてのもいっぱいいる。そういう奴っていうのは論理的理解とか検証といったものを最初からしておらず、何も考えていないから権威者の査読などの形式手続きばかりを優先するのであって。こういうバカが多すぎるから社会が剛直化して社会問題までもが何も解決しなくなる。

危険学や失敗学の観点からは、刑法懲罰というものがクソの役にも立たない形式的手続きでしかないことが言われているにも関わらず、気分的安心満足のために不毛で有効性のない社会制度に毎年大量の税金が注ぎ込まれていることには誰も気付かない。

その代わりに日本国内でしか通用しないビジネスマナーなんぞには異常執着する。

ビジネスマナーに異常執着するっていうことは、要するに金儲け主義の奴隷だから異常執着するのであって。むしろ人間性を欠いたビジネスヲタクでしかないだろ。

その種のヲタクはどんなに追求しても海外では通用しないぞ。

逆にアニメヲタクなどのサブカルチャーっていうのは、それ以前のサブではないカルチャーの外見的形式を破る形で人気を得たのであって。ヲタクを毛嫌いして差別をしていた奴らも、金になるとわかった瞬間から手の平反して商品化を始めたわけで。外見的形式上の儀礼なんぞ時代や流行に簡単に左右されるチンケなものに過ぎない。

何が本当に重要で、何がくだらない形式的なものに過ぎないのかを統合的に検証していないからこそ、くだらないビジネスマナーなどの虚礼に執着して実質的に価値のあるものに意識が働かない。

利益関係のある相手にだけビジネスマナーを追求しながら、陰ではでは嫌がらせや差別、イジメをしている奴なんてのもいっぱいいる。 そっちの方がよっぽど人間性が欠けているだろ。




Ende;
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○無知。

2016年01月07日 14時23分04秒 | 意識論関連
生物進化というのは全て結果であって、意図目的があって意識的に「進化した。」わけではない。

この部分がどうしても文科系大衆観念者には理解出来ないらしくて、何が何でも「目的のために進化した。」と言い張る。

進化(変化)というものが、常に最適化を促すものであるという一種の宗教的幻想を進化生物学に持ち込もうとする習性があり。これが進化生物学をエセ科学におとしめている。

生物のある特定機能が、その機能においてのみ最適に近い形に進化(変化)しているとしても、それは絶対的最適化の論理的証明にはならないし。ましてや意図意識的に「進化した。」などというのは幻想でしかない。

進化というのは、個体の目的意識とは無関係なものであり、変異の「結果」として淘汰された「結果」に過ぎないにも関わらず、これに「目的」をこじつけてしまうのは非論理的で非科学的な文科系大衆観念的妄想錯覚でしかないのである。

こうした進化生物学の妄想を放置しているからこそ、「ヒトという種の生物=人間」だとか、「感情気分=人間性を伴った心」などという大嘘がまかり通ってしまい。その結果としてヒトの気分感情というものが常に絶対的に正しい結果をもたらすかのような「進化論的説明」が可能であるかのような大嘘がまかり通ってしまうのである。

ヒトという種の生物が先天的に暴力的報復を「解決」だと見なしてしまう錯覚を持っているからこそ、暴力的威圧こそが正義になってしまうのであり。これはヒトという種の生物における進化上の「バグ」みたいなものである。

自然界においては暴力こそが個体生存をもたらす以上、自然淘汰は暴力性を「進化」させる生存上の必要性がある。だからこそ野生生物というのは危険なのであり、暴力的危険性の均衡だけが自然界における「正義」なのである。

進化生物学者の多くは、自然淘汰の「結果」が常に絶対的に正しい結果を導くものであるという幻想を抱き、特定環境下でのサルの行動「結果」だけを抽出すれば人間性の論証にでもなるかのような嘘で大衆マスコミを丸め込むが。それならISILの構成員が特定環境下でどのような行動を採れば、ISIL構成員の残虐性の論理反証になると言うのであろうか。

既に行われた残虐行為というのは、いかなる特定環境下での結果を用いても論理反証は不可能である。にも関わらず、京都大学生物学科の嘘には大衆マスコミの誰一人として反論しないというのは、洗脳か単なる痴呆に過ぎない。

進化の結果の全てに意味があるというのであれば、ISILの暴力行動にも意味や目的を後からこじつけることに一体何の意味があるというのであろうか。

ヒトという種の生物は、様々な先天的習性の結果として過失をおかすことがある。それは危険学や失敗学の報告書を読めば明らかであり、先天的本能習性を事後正当化するだけの「サイバネティクスの観点」には何の科学的価値も存在しないことは明らかである。

しかし、文科系大衆マスコミの大多数は、ヒトの先天的本能習性というものの全てには何らかの意味が存在し、気分感情的な行動バイアスに流されていさえすれば全てが正しい結果に導いてくれるはずだという妄想に囚われ、酔いしれ、気分的に安心満足して何も疑わないからバカげたエセ科学が蔓延してしまい。結果的にISILのような暴力集団の暴走までをも許してしまうのである。

ヒトという種の生物が暴力的危険性を持っていることは、歴史書を読めば明らかである。

スタンフォード監獄実験やアイヒマン実験などの社会心理実験からも、ヒトという種の生物は環境に流されれば簡単に暴力性を発揮することは既に立証済みであり。今更進化論的な正義をでっちあげても反証は不可能である。

環境に流されるということは、個体の意思が介在しておらず、あくまで環境に対する条件反射的な無意識行動の「結果」しか至らない。 そこに意識的な「目的」など介在していないからこそ、人類はバカげた行為をいつまでも繰り返し続けているのである。




ISILには目的がない。

一応ISILはイスラム原理主義国家の樹立などの目的を掲げてはいるが、それは暴走族が「世界征服」などと述べているのとほとんど同じ妄想であり。世界を征服して何をするのかといった具体的な内容までは誰も考えてなどいないのである。

オウム真理教の教祖も、ナチス総統も、ポルポトもシエラレオネのゲリラやヘイトスピーチにも、具体的「目的」など存在しないのと同様。暴力者というのは暴力が目的であって、暴力を振るうための事後正当化的こじつけとして目的を掲げているに過ぎない。

刑法懲罰というものも、結局は懲罰という暴力を正当化するためだけのこじつけに過ぎず。それは「悪者」に暴力を加えることでその場限りに安心満足するためだけの社会制度に過ぎず。本当の意味での社会安全性にとってはクソの役にも立たない不毛でコストのかかる因習に過ぎない。

ISIL構成員の問題においては暴力の応酬ではなく、暴力では何も解決しないという「無知との戦い」だと述べておきながら。その一方では刑法懲罰を「解決」であると見なすダブルスタンダードがまかり通っている。

いやもうバカなんじゃねぇのかとしか言いようがないわ。

そこまでバカなら絶滅した方がいいんじゃねぇのか。


Ende;
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○トロッコ問題。

2016年01月05日 14時17分47秒 | 意識論関連
トロッコ問題というのは、要するに気分的バイアスの問題しか扱っていない。

そもそも「太った男を跨線橋から突き落とす。」というのは殺人であり、単にポイント切り換えを操作するのとは話が違いますし、素人が勝手に鉄道設備を操作することが正しいとも言えません。

Wiredというサイトにはこんな一文が載っていました。

「行動のなんらかのレベルにおいては、進化論的に理にかなったことなのだろうか?」


何ですか? 「進化論的に理にかなったこと。」って。進化というのは「結果」ですから、進化の全てが理にかなった行動だとでも言うんですかね。これこそが文科系大衆観念的錯誤というものなんですよ。

進化(変化)というのは結果ですから、そこに目的も意思も意識もないんですよ。そこ理解していないバカが多過ぎて話にならない。

進化というのは目的がありません。死ななければ生存しているだけですから、そこにあるのは「結果」しかないのです。ある条件下では生存に適した行動であるとしても、その行動が常に正しい結果をもたらす保証があるわけではありません。

ヒトが権威者に服従する性質が個体の生存にとって有利であるとしても、その性質こそが大量虐殺の原因になることもあるわけであり。「進化論的な理。」なんてものが存在すると思っていること自体がエセ科学なんですよ。

そもそもトロッコ問題というのは解決策がありません。話を単純化すれば「一人殺すか、5人殺すかを選べ。」と言っているだけであって、事故そのものを回避することが出来ない問題ですから、解決策自体が存在しないんですよ。ですからポイント切り換えをするしないかで何かの問題が解決するわけでもなく、問題を解決するためにはそういった状況自体を作らないよう対策することが重要なのであって。一人殺しても5人殺しても、どちらかを見殺しにしなければならないので何の解決にもならない問題なのです。

ところが文科系大衆観念者というのは、こうした気分的に「悩ましい」問題が何かの役に立つかのような錯覚に陥り。あたかも気分的に「悩んだ」ことを、論理的に「考えた」と錯覚しているに過ぎないのです。

こういった、クソの役にも立たない話で満足しているのがマイケル:サンデルのような人文科学系研究者です。



倫理というのは、その場限りの気分で決定するようなものではありません。「一人殺すか、5人殺すか。」を選ぶことは倫理性とは無関係な話であり、5人いれば誰かが先に気付いて全員避ける可能性もあるわけですから、必ずしもポイント切り換えをすることが「正しい判断」であるとも言えないのです。

倫理の問題というのは、自分のリスクと社会的リスクを秤にかけるような選択を指すのであって、回避不可能なアクシデントでは倫理については何も論じることが出来ないということに、誰も気付かないことの方が異常なのです。

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○聖域。

2016年01月02日 11時50分23秒 | 意識論関連
やっぱり文科系の研究者っていうのは科学的視点とか論理的思考が成立していなくて、統計的多数の「結果」に基づいた結論しか出て来ないところがある。

中東由来の一神教の信者に対して無神論を説くと面倒臭いもんだから不可知論だと言っておけなんていうのも、要するに彼らに対してご機嫌取りをしているだけであって、宗教そのものの問題点を洗い出すための議論を回避してしまっている。

確かに宗教に関わる話というのはセンシティブではあるんだけれども、だからといって機嫌を損ねないように曖昧な議論しか出来ないこと、そのことこそが問題の原因を見えないようにしてしまっている最も大きな要因だということ。

すなはち、ヒトという種の生物全般において言える問題点を見つけだすためには、宗教に限らず企業とか政府とか、学校のイジメなんかも含めて共通する行動パタンとか、行動バイアスというものがあるわけだから、そこを「宗教だから。」と称して聖域を作ってしまうから、特別扱いになってしまって問題が放置されてしまう。

相手が一定の多数で、社会的に大きな影響があるとしても、その影響を怖れて問題点を指摘しないというのは、一種の言論抑圧にしかなっていないわけで。それこそが「個人の自律的判断」を阻害する要因に他ならない。

宗教という非合理的因習を多数派に同調する形で聖域化したり、特別扱いしているから問題点が見えなくなってしまうのである。

人文科学系の学者達というのは、大量の歴史書を読んでしまっているために、大量の「結果」だけから全てを導き出そうとする傾向が見られるが、それは科学的分析ではなくて、「白いスワン」の陳列にしかなっていない。

「今までずっとそうだった。」ことをどんなにたくさん枚挙陳列しても、これからも永遠に続くことの論理証明にはならないのだ。

問題点の聖域化というのは、宗教に限らず様々な集団組織においても生ずるヒトの普遍的性質であり。これも先天的な行動バイアスによって作り出されるものなのである。

そもそも文科系学部自体がそもそも内向的で、議論を公にしたがらず、権威主義に基づいて盲目的に誰かを信奉しようとする洗脳状態だからこそ、長い間何の間違いにも気付かず、クソの役にも立たない屁理屈の陳列で満足していたわけで。自分達の洗脳状態を理解していないバカが、ISILの洗脳状態を議論できるわけがないのである。

「文化」の問題というのは、言い換えれば「時代」や「社会」の問題であり。「環境」の問題を論じているに過ぎない。

環境に依存して行動が無意識条件反射的シーケンシャルに決定してしまうから、同じような過ちを何度も繰り返すのであって。原発事故と一緒で「個人が自律的に社会的責任を持つ」ことが最も重要なのである。

個人が自律的な社会的責任を果たさないからこそ、環境が悪化してしまうのであって。これは企業であれ宗教や民族であれ、「ヒトという種の生物」に共通した普遍的問題として扱わないから原因が見えなくなってしまうのである。



Ende;
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