書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

最近こんな感じ。

2013年05月31日 16時59分40秒 | 日記
渋谷駅周辺自転車駐輪場


 路上駐輪禁止の立て看板を撮ってきました。大抵は満車ですが。


山手通り 渋谷から青山通り付近 左折矢先出交差点
http://map.ultra-zone.net/g/35.654585/139.692756/20

 自転車で迂闊に停止線で停まると左折車が強引に通るので危険。


しりもと くだらないんだけど迂闊にもワロてしもた。
http://www.pixiv.net/member_illust.php?id=4858811

 Pixivはログインしないとみずらいです。

 ◇追記:最近はログインしておかないと全く見れないようです。リンクが無意味になってしまた、残念。
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空気を読む能力と、空気に流されることは別。

2013年05月26日 16時17分34秒 | 意識論関連
○「読む」ことと「流される」ことの違い。

 空気を読むことと、契約書でガチガチに縛ることは別問題。個人が無責任であるから契約書でガチガチにする必要があるのであって、個人が責任を持って行動判断していれば契約書でガチガチに固める必要性はない。

 契約書云々というのは個人の無責任性に対する対策であって、空気が読めれば無責任で良いという短絡的結論はあまりに短絡的でバカげている。

 空気云々が問題なのではなくて、個人の自律的責任判断が問題なのである。

 現実問題、大抵の場合空気というのは無意識に流されることを指すのであって、無意識だからこそ「空気」だの「暗黙のルール」などという抽象的表現になるのである。

 空気を読むことは経済効率的には有効なのかも知れないが、読んだ空気に無意識に流されることは許されるべきものではない。それは自律的な社会的責任判断の放棄を意味するからである。

 原発の運転において、東電社内の空気に流されていたからこそ危険性が放置されたのであって。悪い空気であれば迎合しないという主体的判断が重要なのである。

 つまり、「空気を読む」ことと、「空気に流される」ことは別。悪い空気であれば逆らう主体性の有無というのは意識の問題であって、「空気を読めるかどうか」の問題とは無関係である。

 現実には、無意識に周囲の多数に迎合して「空気に流され」、多数のご機嫌取りをしていることを正当化するための言い逃れとして「自分は空気が読める優秀な人間だ。」と錯覚しているケースがほとんどであって。それは本質的には主体的に空気を「読んで」いるとは言えないのである。

 ただ単に「空気に流されて」いるだけの状態というのは、主体的に「空気を読んで」自律的判断を行うこととは全く別物であり、この区別が出来ないことがバカがバカたる所以である。

 「組織の意思決定が短絡的で速い」といった断片的効用だけを抽出し、あたかも空気に流されることを良しとする風潮というのは、短絡的で無責任というものである。

 バカが多数を占める社会においては、バカげた観念こそが成功することはある種の必然であり、特定現状社会における成功例だけを抽出することで、あたかもバカげた観念を正当化するというのは、バカの上塗りに過ぎない。

 たまたま上手くいった事例だけを抽出することで、あたかも絶対普遍的に上手くゆくかのように錯覚するのがバカのシーケンスである。そんなものを無為に鵜呑みにするのもまた同罪である。

 空気というのは多数のヒトがいれば自然と出来上がるものであり、問題はその空気が良いのか悪いのかを個人が自律的に判断して、悪い場合には抗うという主体性、意志を発揮できるかどうかであって。無為に空気に流されていることを事後正当化するための屁理屈など、語るに足らない。

 感情気分主体で行動判断しているバカにとっては、論理的合理性を追求するつもりはなく。その場限りに気分が良くなる選択しか行わず、自己判断の論理検証など一切行わないのである。

 自律的に社会的責任判断を行わずに、他のあらゆる特定能力(金儲けだの成功だの成績評価といったあらゆる能力)に人間としての社会的価値などない。

 最優先されるべきは安全性や持続可能性であって、ここに意識が働かない限り、どんなに他のあらゆる特定能力が高くても人間としてはポンコツであり、本質的な人間としての知能とは言えない。

 ヒトの多くは断片的な世間的成功に意識を奪われ、人間としての社会的責任を簡単に忘れる習性がある。

 目先の欲望や感情気分に意識を奪われてしまうから「無意識」であり、バカなのである。本能欲望、気分感情に流されない自律的論理検証性というものの本質的価値であって、成績と引き換えに獲得する形式の報酬型他律的「論理思考能力」とは全く異なるものである。こうした成績などというのは脳科学者達がっでっち上げた暫定的評価方法であって、認知科学的論拠を持つものではない。どんなに試験の成績が高くても、自律的に社会的責任判断を本当に行うのかどうかという「意志」とは無関係である。

 ヒトの多くは権威性に批判することを「恥ずかしい」などと恐怖心を抱く性質がある。これこそがヒトの社会形成習性による無為な服従性を作り出すのであり、思考停止による暴走性の源となる。

 「恥ずかしい」などというのは実際には多数派から受ける強迫観念的恐怖心に過ぎず、本能的シーケンスの「結果」に過ぎない。こうした「結果」に過ぎない本能習性に無意識に流されているからこそ、ヒトは自分達の暴走破綻をいつまでも止めることが出来ないのである。

 それを「バカ」という。大抵この種のバカというのは学習障害とは診断されない。多数派に属する異常性というのは障害とすら認識されないものである。



Ende;
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css崩壊。

2013年05月25日 15時50分13秒 | 日記
 キヤノンですら壊れるcssなんだから、素人は手を出さない方が良いのかね。



 あぁ、厄介だ。
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明るさを倍にする。

2013年05月25日 14時50分38秒 | 日記
○明るさを倍にする。

 スタイルシートとかで使う色を16進数で入力する場合、明るさを半分にするのは数値を2で割れば良いだけなんだけど、明るさを倍にするには単純に数値を倍にするのとは違う。

 色の明るさを倍にするってことは、つまり、最大値255までの残りを半分にした値を足すってこと。

 16進数で3cの場合、これを十進数に変換すると60になるので、255-60=195になり、この半分が97.5になるので、これを元の数に足せば明るさを倍にしたことになる。

 小数点以下は無視しとけば、197になるので、これを16進数に変換するとc5になる。

 ◇追記:激しく間違えてた。算数苦手なのです。

 16進数で3cの場合、これを十進数に変換すると60になるので、255-60=195になり、この半分が97.5になるので、小数点以下を四捨五入すると98になり、元の60に足せば158になるので、これを16進数に変換すると答は9eになる。



 説明するのもややこしいけど、読む方はもっと面倒臭いと思う。

 申し訳ない。(;_;)

 javascriptで計算させて一覧を出力させれば良いのか。


http://space.geocities.jp/srand4000/inui/bai.html


 おのおの改造してつこて。



Ende;
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愚民メソッド。

2013年05月25日 14時48分43秒 | 意識論関連
○公文式。

 公文式みたいに生徒のレベルに合わせて学校の勉強を教えられるんだったら、cssとかjavascriptといったWeb知識や、3Dプリンターで使うCADソフトの使い方を教えても良いんじゃないかと思う。

 なんで教育に限って常に入学試験を基準としたものばかりで、生徒自身が知りたいことを選択する権利がないんだろう。

 分数の割り算なんて入試以外に使うことないし。

 公文式では「ちょうど良い」能力に合わせて教えるのが基本的考えだそうで、子供個人の能力に違いがあるのは当然のことであって。それなら生徒当人の本質的モチベーションに「ちょうど良い」学習であれば小学生がjavascriptを覚えても良いはずなんだけどな。

 模型とか、ものづくりに興味のある子供ならCADソフトの使い方を覚えられるようにしても良いのではないか。

 鐵道に興味があるなら鐵道技術を覚えられるようにしても良いのではないか。


 もし、生徒に多様な能力を覚えられるようにするのであれば、これは学力試験によって順位をつけること自体に意味がなくなる。

 javascriptであれば、画像処理を中心にやるのか、それとも文章処理を主体にやるのか、ゲームプログラミングを主体にやるのか、それを大人が一辺倒な成績基準で査定することは出来なくなる。

 そもそも成績というのは社会に出てからの評価や報酬とは無関係なものであって、入試などの学力試験自体に価値が存在するわけではない。だからこそ「偏差値が高いだけの無差別殺人犯」というのが存在するのである。

 現在の教育における学力成績基準というものは、生徒が社会に出てからの生活を一切保証してくれるわけではない。社会の中で個人を評価する一定の基準など存在しないのである。

 教育というのは、大人が一方的に同じ基準だけで教え込むようなものではなく。子供が大人になってから社会を支えてくれる大切なパートナーとなってもらうためのものでなければならない。



 認知症治療に東北大学の川島隆太主導で公文式脳トレを用いているが、これは誉めて喜ばすという「環境」依存性を用いた誘導に他ならない。

 認知症患者というのは、脳トレの類を用いた意識誘導をし続けないと自律的には自分の脳を維持できないことの証明でもある。ということは、つまり、公文式トレーニングメソッドというのは「そそのかされて伸びる」という形式から逃れることが出来ない。

 特定の能力というのは、鍛えることで獲得可能なものである。それはスポーツでも暗記速読や暗算でも同じことであって、それが短絡的に「頭が良い。」ことの論証にはならず、社会持続可能性や安全性にまで常に配慮が出来る本質的知能とは無関係なのである。社会持続可能性や安全性に配慮が働かない限り、あらゆる特定能力の全ては人間としての知能としての価値は全く存在しないからである。



 脳というのは鍛えるとバカになる。長い間同じ価値観に基づいて無意識に行動していると、その価値観を事後正当化しなければいられなくなる性質があり。これはヒトの脳の極めて基本的なシーケンス「常習性」によるものである。

 養老孟司が述べた「自分は30年間安月給で働いた、そこには意味があったんだ、そう思わなきゃやってられないじゃありませんか。」なとどいうルサンチマンを吐くようになるのも。これが鍛えられた脳の頭の悪さによるものである。

 養老のルサンチマンに共鳴した多数の大衆というのは、要するに養老と同じ頭の悪さを共有して満足していただけであり。バカ同士で安心満足を共有することで人気を得るというのが、オカルトの常套手段である。

 体罰を正当化する教師達も、いわば脳が鍛えられた結果であり。環境依存的に無意識に学習するトレーニングメソッドというのは、学力が高いだけの無能者の大量生産技術に過ぎない。

 本質的自発性によって、自律的に行動選択を論理検証する意識がないから、ヒトの多くは暴走破綻を回避出来ないのである。

 東電幹部社員達の無能さというのも、学力成績とは無関係なものであり。自分達がやってきたことの事後正当化に異常執着するのも、彼らの脳が鍛えらえてバカになっている証拠である。

 ヒトの多くは自分の頭の悪さを認識することを拒絶する性質がある、だからこそ自らの頭の悪さを変えることが出来ないようになる。変わるのが意識の働きであって、変わらないのは無意識で意識が働いていないからである。

 バカがバカ足りうる所以とは、自らの頭の悪さを認識しようとしないからである。



 公文式脳トレーニングが認知症の治療に有効だからといって、あらゆる能力において「頭が良くなる」ことの証明には全くならないばかりか、むしろ環境依存的な自発性の喪失を促す「愚民メソッド」である可能性も充分ある。

 大衆的なご機嫌取り的学力向上手法というものが、短絡的に社会持続可能性や安全性に寄与する論理的根拠など存在しない。どんなに学力が高くなっても、個人が主体的/自律的に社会的責任判断を行わない限り、社会はあらゆる崩壊への暴走である「人災」を止めることは出来ない。

 大衆ヒトの多くは、学力が上がりさえすれば「頭が良くなった」と安心するのであろうが、こうした気分的安心に意識を奪われ、そこに何の意味があるのかを全く考えない愚かさを助長していることを、ヒトの多くは気付いていない。

 村上龍の番組である「カンブリア宮殿」というのは、「企業団体を高く評価する。褒めちぎる。」ことが番組のフォーマット(形式)であって、村上龍の冠番組だからといって鵜呑みにすべきではない。

 世間的に成功してさえいれば、常に絶対に正しい結果以外をもたらさないことの証明にはならない。世間がバカならバカげた企業団体が成功することは珍しいことではないからだ。




Ende;
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ううむ。

2013年05月24日 15時07分28秒 | 日記
 そもそも体裁外見に関わるテクニックに興味がない上、cssっていうのはMicrosoftの呪いが激しくて、挙動がさっぱりわからない。

 タグインデックスって所のサンプルをYahoo! geocitiesにコピペしていじくり回してみた。

 別に面白いことをしているわけではないので、暇潰しにもならないですが。

 ホームページ風サンプル

 geocitiesの場合、charsetをEUC-JPにしないと文字が化ける。ところがGoogleMapを載せる場合にはUTF-8でないと逆に化けるので厄介。

 あと、上下の広告のせいでバックグラウンドの画像がズレたりもする。

 最近は自分でコード打ち込んだり修正したりしなくても商品販売できるサイトが増えたので、cssとか勉強する暇があるなら商品こさえた方が良いのかも知れない。

https://stores.jp/

http://jp.jimdo.com/

 どういうわけか「ツクル」はアクセスできなかた。

http://search.yahoo.co.jp/search?fr=top_table&tid=top_table&ei=UTF-8&p=tsucuru.com&search.x=17&search.y=12




Ende;
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暗黙。

2013年05月24日 15時05分02秒 | 意識論関連
○暗黙のルール。

 自閉症やアスペルガー症候群などの広汎性障害の基準として、他人との関係性における「暗黙のルール」を察知出来ないという話が出てくる。

 「暗黙のルール」というのは論理的根拠を持たないからこそ「暗黙」なのであり、本能習性が作り出す「空気」でもある。

 「空気」を読めないことがイジメ被害の一つの原因となるのだが、それなら「空気」を読んでイジメに同調することは異常ではないとでも言うのであろうか。

 現在の認知科学的アプローチというのは、「多数派=正常」という観念に基づいたものであり。これは「ヒト」という種の動物行動学における生存価を論じているだけであって、「人間」としての正常性について全く考慮されていないのである。

 動物行動学的には、イジメというのは異常行動ではなく、むしろ「より生存や種の保存にとって有利な種へと淘汰するための必要な目的行動である。」などとこじつけ、問題だとすら思っていない。

 これは「サルの正義」であっても、「人間」としての意識的行動選択の論証には全くならない。



 振り込め詐欺師集団というのは、相互に相手のご機嫌取りを「生物学的に正常に」出来るからこその統率協調行動であり。こうした「現在の生物学上における社会性」というのは、人間性を伴った本質的な社会性とは言えないのである。

 たとえ共同体意識によって心臓疾患が少ないとしても、それが人間性を証明するものではなく、あくまで「ヒト」という種としての健康さを論じているに過ぎない。

 振り込め詐欺師も天下り役人達も東電幹部も「ヒト」としては正常で健康である。むしろ、だからこそ集団組織的に社会安全性を脅かすのである。

 生物学的な「ヒト」としての多数性を短絡的に正常性として扱う限り、「人間」としての正常性を論ずることは構造原理的に不可能なのである。

 科学というのは「人間」の価値観であって、サルの正義を振り回すためのものではない。現在の生物学というのは生存絶対主義というサルの正義でしか論じられておらず、科学としての価値が全くない。


 こうしたバカげた基準で学校教育を論じていれば、イジメがなくならないのは当たり前である。

 大衆観念に基づく本能的「暗黙のルール」を察知することを、正常として扱うこと自体が人間として異常なのである。

 どんなに多数派に迎合する能力によって、集団組織的統率協調行動を採ったとしても。これを短絡的に人間としての正常性として扱うべきではない。

 イジメの対象となりやすいアスペルガー症候群を病気のように扱う癖に、イジメを行う多数派の迎合性、生物本能的な社会形成習性は異常として扱わないのが現在の生物学や認知科学であり、これに基づいて学校教育を論じているというのは、頭が悪いにも程がある。

 自分達の異常性を認識しないまま、漫然と無意識な観念に基づいた論証を繰り返す現在の生物学や脳神経認知科学というのは、当人達がどんなに「世の中の為。」だと信じて疑わないとしても、異常であり組織的腐敗に陥っているのである。

 カルト宗教が「人類の救済」などと信じて破壊を行ったのと同様、現在の生物学というのはヒトという種の危険性を放置するオカルト集団に過ぎない。


 経済学におけるソーシャルキャピタルなどという概念も、所詮は社会的負担などを基準に算出されるものであって、「気分的に安心だから心臓疾患が少ない。」などという基準でしか語られることはない。

 それなら振り込め詐欺師達は共同体意識によって心臓疾患が少ないのであろうか。

 天下り役人達は仲間内で助け合うことで安心して心臓疾患が少なく、社会的負担が少ないから合理的だとでも言うのであろうか。

 それなら東電幹部社員達はさぞかし健康なのであろう。

 その健康というのは福島を放射能まみれにすることで獲得したことを、多くのヒトは簡単に忘れる。



 そもそもイジメなどの差別排除の根本原因となる、本能的な社会形成習性を「これからの研究課題」などと日和るのは、問題意識が希薄なのにも程がある。

 ヒトの本能的なイジメや差別による暴力性というものは、「これからの研究課題。」などではなく、「今すぐ。」に行うべき緊近の課題に他ならない。

 「暗黙のルール」などと言っている時点で、現在の教育関係者達は誰もイジメの根源的原因について真摯に考えてはいないのである。こうした現状を無責任だと「思って」いない大衆マスコミの多くも、無責任に加担しているのと同罪なのである。

 きっと彼らにとっては腐敗した現状を維持することだけが「暗黙のルール」なのであろう。

 それがきっと気分的に安心で満足なのに違いない。

 これをゆめゆめ「他人事」だと「思う」べきではない。どんなに強く「思って」も、意識的な「考え」にはならないからである。


 「生きる力。」だとか、「生命の奇跡」などと称して、臨床の「結果」という現象論をあたかも科学的証明であるかのように言い張るのは、科学から乖離した大衆迎合に他ならない。

 生物学というのは大衆のご機嫌取りのためのマスコミの道具であってはならず、厳格に真理を追求する必要がある。単なる「生存」だけを論じていれば、バカな大衆は気分的な安心満足によって論理検証性を簡単に放棄する性質があり、これに乗じてオカルト/スピリチュアル的な観念で科学的論理検証を撹乱することは本来許されるべきことではない。

 生き残るという「結果」だけを論じているのであれば、その過程において社会持続可能性や安全性を蔑ろにしても良いという話に帰結してしまうのである。現在の生物学上では、そこに人間としての「目的」行動選択が失われていても構わないことになってしまうのである。

 それは、すなはち自然淘汰のメカニズムを人間社会に持ち込み、過酷な生存競争による「生存にとって有利な個体種への進化」を求めるものであり。これはたとえ残虐なゲリラ集団であっても正当化されるという意味になるのである。

 ヒトの多くはバカなので、これを異常だと「思わない」のであろう。ヒトのあらゆる本能的行動習性の全ては奇跡によって必ず生存という結果をもたらしめるものであると「思って」おけば安心で満足なのである。

 それがヒトから論理検証性を失わせ、バカ特有の常習性によって無意識のまどろみへと誘うのである。


Ende;
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増殖。

2013年05月21日 16時24分48秒 | 意識論関連
○増殖。

 ヒトの精子が常に増殖するようになったのは、誰がしかの意図目的意識に基づいて選択したわけではなく。あくまで常に増殖するようになった個体種が自然淘汰によって遺された「結果」に過ぎない。

 生物学者達や文科系マスコミは「ヒトは生存のために精子を常に増殖するように進化させた。」などと言い張るが。これは到底科学的論証は言えず、文科系大衆迎合的オカルトに他ならない。

 大脳辺縁系の構造に由来する反射的な本能習性も含め。あらゆる生体の構造というのは誰がしかの「目的」意識に基づいて選択されたものではなく、あくまで自然淘汰の「結果」以上の意味は存在し得ない。

 ヒトの誰も、自分自身の大脳辺縁系の構造を「選択」不可能であり。先天的、或は環境依存の結果として後天的に動物行動学習的に刷り込み学習された無意識行動の全ては、本質的には一人の他者と互換不能な自律的「意識」ではない。 

 現在の生物学上では「繁殖戦略」などと称して、あたかも異常増殖することを絶対的正義であるかの如く言い張るが。これは大衆迎合に過ぎない。

 ヒトの個体数は地球環境との調和を明らかに崩しており、繁殖することを絶対的正義とするのは明らかに科学的とは言い難いのである。

 「遺伝子を遺す。」ことを「目的」であると言い張ることも、あくまで大衆迎合であって科学的論証とは言えないのである。そもそも自分自身では選択不可能な遺伝子を、なぜ「遺さなければならない。」のであろう。遺伝子さえ遺せれば「成功」だと言うのであれば、その「成功」とは一体誰にとっての「成功」だと言えるのであろうか。

 ヒトは誰も自分自身の遺伝子や遺伝要素を選択不可能であり、それは人工的に遺伝子を加工しても同じことである。遺伝子を選択するのは加工された当人ではなく、あくまで加工者の方に過ぎないからだ。


 大衆ヒトの多くは生物的に健康で世間的に成功したり多数からの評価さえあれば「成功」だと勝手に思い込むものであるが、現状世間の多数評価の類というものは社会持続可能性や安全性に基づいたものではなく、あくまで気分的なその場限りの安心満足を追求しているに過ぎない。

 個体が生物的に健康でありさえすれば、短絡的に社会持続可能性や安全性が保たれることの根拠には全くならない。生物的な健康というのは振り込め詐欺師でも天下り役人でも東電幹部でも珍しいものではないのだ。

 こうした大衆特有の気分的安心満足傾向に寄り添い、社会の持続可能性や安全性に基づいた検証を行わない現在の生物学や脳神経認知科学というのは、もはや科学としての社会的役割を全く果たしておらず。論理検証を全く行わない大衆やマスコミも同罪である。

 その場限りに「東大に入れた。」だの、「記憶力が向上した。」、「遺伝子を遺した。」などという話を、あたかも絶対的に正しいことであるかのように鵜呑みにすることは、科学としての社会的役割を放棄した無責任なオカルトに他ならない。そんな話で浮かれているから社会持続可能性や安全性に基づいた検証を忘れてしまいヒトの多くはバカに陥るのである。

 どんなに世間的に成功しようが、年収が多かろうが、大衆人気を得ようが、社会持続可能性や安全性に基づかない選択をしていない限り、「人間」としての価値は全くない。

 本能的行動習性の「結果」というものを短絡的に意識的選択による「目的」行動選択と混同することは、科学的論証に反するものであって、人類を無為無策なバカに陥れる実証不能の観念に他ならない。





○奪い合うから足りなくなる。

 南極棚氷の下では、栄養分が極度に少ないため、生存競争も穏やかだと言われている。

 栄養分とか資源が多い程生存競争が激しいというのは自然の摂理なのかも知れない。

 そういえば石油とかタンタルとかダイアモンドが採れる国ほど政情が不安定。「分け合うと足りる。」ものも「奪い合えば足りなくなる。」というのは真理かも知れない。

 競争心を事後正当化したがる強迫観念者が、やたらと主張したがる話に「一個のパンを十人で分け合うと、全員死ぬ。」って話は真理ではない可能性がある。

 本当は「一つのパンを奪い合うから足りなくなり、分け合うことで足りてしまう。」可能性も充分ある。

 そもそも奪い合によって人間としての尊厳を失ってまで生物的な「生存」に執着することに意味なんぞない。奪い合ってまで生存することを強要するような社会を作り出すことが、「目的」だと言えるであろうか。

 ただ「生きている。」だけならゴキブリやエイリアンと同じである。ニーチェが主張する「超人」なんていうのは、実は生物学上の生存価を論じているだけであって、何ら人間としての価値には全くならない。

 個体が生存に適していることが短絡的に社会安全性や持続可能性に適していることには全くならないばかりか、むしろ個体生存価に異常執着する欲望こそが社会を「喰い物。」にして破綻暴走に陥るのである。

 ヒトの社会に含まれる破綻暴走性を克服出来ないまま、どんなに規模や機能ばかりを高度化させても。決して「高度な文明。」とは言うことが出来ない。それは「偏差値が高いだけのバカの観念。」と同じようなものである。



 「今更昔の生活には戻れない。」などというのは、実際には「今更戻りたくない。」とか「戻すのが難しい。」と言っているだけであって。「戻れない。」ことの論理的根拠など全くない。

 大衆観念上では、大学入試だの金儲けに対しては難しいことを要求するにも関わらず、社会安全性や持続可能性に対しては難しいことを拒絶するというのは無責任極まりない社会的「甘え」である。

 どこの誰だかわからない奴に押し付けられた価値観だけを鵜呑みにし、自律的に価値の優先順位を選択しないというのは、一人の「人間」としての社会的存在価値はない。

 金儲けだの学力偏差値に対する異常なまでの優先度というのは、多数大衆が作り出した強迫観念に過ぎず。こうした強迫観念に無意識に流されているから人間としての「心」を喪失するのである。本当に大切なものとは何か、それを誰も自律的に考え、自ら選択しないから人類というのはいつまでもバカのまま「変わること。」が出来ないのである。

 意識がなければ行動を「変える。」ことは出来ない。同じパタンの行動を無意識に続けているから暴走破綻に陥るのである。暴走破綻を止めるのは大衆観念的な気分感情ではなく、あくまで自律的な論理検証による行動選択という本質的な意識の働きによるものである。





Ende;
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横切る本能。

2013年05月19日 20時40分17秒 | 意識論関連
○前を横切る本能。

 アメリカで走行中のバスの前を強引に横切ろうとしたシカが、フロントガラスを突き破り車内で暴れるという事例があった。

 猫なんか典型なんだけど、なぜか動物の多くは走行中の自動車や列車の前方を横切る性質がある。

 自転車で荒川河川敷の緊急車輌道路を走っていると、スズメが大挙して前方を横切ってビックリすることもある。

 走行中の車輌の前方しか逃げ場がないならまだしも、河川敷のようにどこにでも逃げ場がある広い場所であってもスズメは車輌の前方を横切ろうとするのである。鳥類の場合一羽が特定方向に飛び立つと、集団が一斉に同じ方向に飛び立とうとする習性もあるので厄介である。



 自然史上においては自動車のように高速で大きな物体はごく最近の出来事であり。本能的には適応出来ていないのが原因と考えられる。

 本能的な適応を果たすためには、自動車が近付いてきた時に前方を横切り死ぬことによって、偶発的に自動車の前方を横切らない遺伝要素を持った個体だけに淘汰されなければならない。

 偶発的に生存に適した行動習性本能を持った個体が、淘汰によって遺されることは、意識的な「戦略」でも「目的」でもないのは明らかであり。現在の生物学における「生存戦略」などという話は非科学的観念に過ぎない。

 蛾が人工の炎に飛び込む現象も、元々は天体の明かりを手掛かりに飛行制御する習性が、人工の炎に適応出来ないことが原因であり。偶発的に遺された本能習性の全てが常に生存だの種の保存になる論理的証明など存在しないのである。





○階級差別意識。

 まず、「東大生=頭が良い。」という観念に論理的/科学的根拠はない。

 東大生の多くが能力による階級差別をする水泳教室に通っていたというのも、階級差別意識による強迫観念によって学力成績バカに陥った結果として東大生になった結果に過ぎないという分析も可能なのである。

 地下鉄に毒ガスを撒き散らしたカルト宗教の幹部に有名大学生が多かったことからも、教えたこと以外何も自律的には判断出来ない偏差値バカが有名大学生には多いという分析も可能である。

 能力による階級差別を強要しておくと、ヒトの多くは階級差別に執着する傾向があり。これは子供においては洗脳にしかならない。

 洗脳状態というのは、すなはち差別意識などの無意識的強迫観念によって、自己の行動選択の論理検証性が失われている状態を指すのであり。東大生の多くが階級差別を行う水泳教室に通っていたという話は短絡的に「頭が良い。」ことの科学的論証には全くならないばかりか、単に能力差別主義者が東大生には多い可能性も充分にある。

 単に東大生の統計を取るだけでなく、通り魔や銃乱射事件の犯人などの無差別殺人犯や振り込め詐欺師においても検証すべきであり、一面的な現象論だけから都合の良い結論だけ抽出するのは科学的論証とは言えない。

 むしろ積極的に東電社員達の育てられ方や、カルト宗教幹部達の生い立ちなどを検証した方が、社会安全性にとって有益な話であって。「東大に入れた。」ことを短絡的に「良いこと。」と決めつけた一面的な検証をすることには大衆迎合に他ならない。

 「東大生=頭が良い。」などという科学的根拠のない大衆観念に基づいて、「水泳教室=頭が良くなる」などという話を鵜呑みにし、自分自身で他の可能性や分析を全く行わないことの方が、むしろ「頭が悪い。」ことの論証であると言える。

 東大生は学力偏差値は高いが、これが短絡的に「頭が良い。」ことの認知科学的論証にはならない。それは通り魔などの無差別殺人犯にも、社会的責任を負わない「エリート」達にも少なからず学力偏差値だけは高い奴はいるからである。

 東電で原発の安全管理をしていた社員や幹部達にも、東大生はいたはずである。それでも「東大生=頭が良い。」などと言い張るというのであれば、もはや「脳が壊れている。」としか形容不可能である。

 

 前頭葉の血流増加を短絡的に「頭が良くなる。」証拠であると決め付けるのは、大衆観念に過ぎず科学的論証とは言えない。

 脳のどこであれ、血流増加という現象が短絡的に「頭が良くなった。」ことの科学論理的証明にはならない。

 脳トレ類における「頭が良くなる。」根拠とされたのも脳血流であるが。実際には脳トレ類では「頭が良くならない。」ことは、既に英国の大規模実験によって証明されているのである。

 安梅なんちゃらとかいう女の言うことが、科学的な絶対証明である保証は、垂れ流しをしているマスコミも一切行うつもりはない。現在の認知科学界というのは、科学的な論理検証に基づいた批判精神というものが全くなく、大衆ウケさえすれば何でも受け入れてしまうオカルト集団に過ぎないことを認識すべきである。

 東大生の中に水泳教室に通っていた割合が多いという所までは統計的に現象として証明されたとしても、それが短絡的に「水泳教室にさえ通わせておけば、頭が良くなる。」ことの論証には全くならない。

 少しは大衆マスコミも自分の頭で検証したらいかがであろう。

 実際、英国での大規模実験の結果を日本のマスコミが大々的に報道したこともなく。むしろ「脳血流=頭が良くなる。」などという非科学的根拠に基づいた大衆観念によって、「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」などという大衆迎合の体制を維持するために隠蔽黙殺することしか考えていないのであろう。



Ende;
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潜在被害?。 #鉄道粉塵

2013年05月17日 16時45分09秒 | 日記
○鉄道線路のカーブ付近で目に異常を訴える場合があるらしい。

 鉄道線路のカーブ部分で、線路と車輪が擦れて鉄の粉が飛び散り、これが目に入って炎症を起こす場合があるようなのだ。

 そういえば線路のバラスト(砂利)っていうのは鉄の粉が錆びて赤く変色している。

 線路と車輪が擦れて飛び散る鉄の粉というのは、形状が鋭利になるようで、角膜に傷を付ける可能性が高いらしい。

 風向きによって被害が変動する可能性もある。

 実はウチの近くにも線路があって、夏の夜に窓を開けて寝ていると朝起きた時に目が異常に痛いケースが何度かあった。夏に限ったことだったので、他の原因も考えられるんだけど、鉄道線路からの鉄粉が原因の可能性も有り得る。

 本当に鉄道線路から鉄粉が飛び散って、周囲の住人が目に異常を訴える事例がどの程度あるのか、"#鉄道粉塵被害"とかいうタグをこさえて情報提供してもらえばわかるのかな。その辺りはおいらはWeb初心者なので良くわからないです。

 もし鉄道カーブで被害が発生しているのであれば、もっと昔から顕在化していても良さそうな気もするんだけど、もしかすると原因自体に誰も気付かずに危険が放置されているのかも知れない。

 具体的対策としては、鉄は磁石で吸着出来るから、強力な磁石で集めることは出来ないのかな。効果的なのは発生源である列車の車輪付近に取り付けるとか、被害の大きな目の周囲で吸着するよう眼鏡フレームにネオジム磁石を取り付けるとか。扇風機のガードにネオジム磁石をくっつけるだけでも効果がありそうな気もする。

 多分線路や車輪から飛び散った直後の状態が危険なのであって、時間が経てば酸化して鋭利な形状では無くなるんだと思う。



Ende;
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支離滅裂。

2013年05月17日 16時42分55秒 | 意識論関連
○支離滅裂。

 「時には体罰も必要だ。」とか「シツケ」と称して暴力を正当化する奴に限って、権威や暴力者に対して無批判。

 体罰シツケが必要な奴に対しては一切何もせず、弱いものイジメばかりしており。

 当然自制心もない。

 すなはち、恐い相手や自分自身は「シツケ」られないのである。

 これは自己論理検証性という人間としての本質的「意識」がない典型例である。どんなに感情的な「意識」の強さを伴っても、感情気分という無意識の大きさこそが本質的「意識」を喪失させる原因なのである。



○無責任。

 「気分感情=心」などという文科系大衆観念を振り回すのは簡単である。

 また、カントのように純粋理性を観念的に批判するのも簡単である。

 利益追求を合理性と呼ぶのは理論的に大間違いであり、利益追求自体が欲望主体の行動であり。利益追求というのは欲望を追求しているのであって、合理性自体は追求していないのである。

 本質的な合理性追求というのは、合理性を主体性とした自己自身の欲望や感情といったものをも制御することを指すのであって。決して利益追求のような利己的行動選択を指すものではない。

 人間としての「心」とは、その場限りの気分感情に流されることなく、自分自身を含む社会全体の安全性や持続可能性を優先した理性的で合理性のある行動選択を指すのである。

 生物学における生物の定義とは、「個体で自律的に生存可能なもの。」を指すが。地球上の生物のほとんど全ては地球環境なくして個体を維持出来るものではなく、生物学における生物の定義自体が科学論理的に成立していないのである。

 振り込め詐欺師達が「個体集団の生存にとって有利。」な行動であるとしても、振り込め詐欺師達が住む社会自体の持続可能性がない以上、それは自滅への暴走に過ぎない。

 「個体の生存にとって有利。」だとか「種の保存」といった観念は、現在の生物学におけるオカルト性に他ならず。こうしたオカルト性こそが優生学のオカルト性を批判出来ない原因となっているのである。

 こうした従来の生物学における根源的オカルト性について、自律的に論理批判出来ないあらゆる生物学者というのは、科学者としての素養に決定的に欠けており。これはすなはち優生学の放置という大罪に加担しているという意味でもある。

 ニーチェだのドストエフスキーと共感して安心満足している哲学界も異常だが、本来振り込め詐欺師に対する根源的対策に踏み込めるのは脳神経認知科学を含む生物学界であり、自分達のオカルト性に対して論理批判しないバカ研究者を公費で雇い続けることも、無批判に放置するマスコミも無責任極まりない大罪である。

 科学というのは本来多数決で決定するようなものではなく、あくまで論理的に正しいかどうかで判定されるべきものであり。論理検証を誰もせずに学界内部の多数決だけで体制維持が行われている生物学界というのは、体制腐敗としか言いようがないのである。

 生物学者達個人に腐敗の意識があるかどうかは無関係である。むしろオカルトというのは自分達の行動選択を「人類の救済。」だとか思い込んでいて、「何がいけないのか、自分ではわからない。」からこそオカルトなのである。

 論理的に理解認識不可能性が立証可能な事柄を「わかりません。」と述べる謙虚さは科学にとって重要であるが。論理的に理解可能な事柄を、単に理解しないというのは、もはや科学でも何でもない。


Ende;
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再犯率。

2013年05月17日 16時41分27秒 | 意識論関連
○出所直後からひったくり。

 刑務所から出所直後から再犯する受刑者というのは少なくない。

 これは刑務所という場所、懲役罰というシステム自体が、囚人の人格形成には何ら影響を与えるものではないことの証明である。

 権威性を用いて他律強制的に服従させておけば、権威の監視下においては従順で取り扱い易い臣民を作り出すことは簡単であろう。しかし、他律強制をする権威の監視が届かない場所や条件においては、こうした従順なだけで自律のない者というのは、自律的には社会的責任判断を全くしないのである。

 社会安全性というものは、特定権威による統率によって実現可能なものではなく。あくまで個人が自律的に社会的責任を負うことによってのみ実現可能なものなのである。

 個人全てに自律的な社会的責任判断を行わせることは簡単ではない。むしろ短絡的で安易な権威性を用いた他律強制性に依存しているからこそ、社会安全性が全く向上しないのである。

 権威性を用いた他律強制力を用いた法統治というのは、形式的/表面的には大衆に安心感を与えるものではあるが。個人が自律的に社会的責任を負わない上っ面な大衆迎合に過ぎない。



 就職口が見つからない場合に再犯率が高いからといって、犯罪者だけが優先的に就職出来るようにするというのは、犯罪者優遇であり、真面目に生きている方が損になり。公平性が保たれない。

 就職口の有無という「環境」に依存した行動しか採れない個人の人格に問題の根源があるのであって、環境の方を変えてやるというのは根源的原因である司法が個人の人格、自律的判断を出来るようにすることを放棄するための言い逃れに他ならない。

 こうしたその場しのぎに再犯率を下げるための対処療法的な対策というのは、枝葉ばかりを整えて問題の根幹を放置するごまかしであり。司法システムそのものの根源的問題点を撹乱するための司法役人の取り繕いなのである。

 司法役人達は、自分達の権益を守ることばかりに執着し、本質的な社会安全性を蔑ろにしており、極めて悪質である。このことに気付かない大臣議員達の愚かさにもウンザリさせられるが、余程国家の中枢にはバカしかいないのであろう。

 就職口があろうがなかろうが、自律的に社会的責任判断を行う「人間」性を育てることが、本質的な社会安全性を高めることになるのであって。単に実際に触法行為を行って刑事裁判にかけられた者に罰を与えるだけの現在の司法システムというのは、犯罪を未然に防ぐための予防的根源策には全くなっていないのである。

 権力や暴力を用いた強制的抑圧というのは、その場限りには効果を発揮するものであるが。これは個人の人格を破壊し、むしろ自律的な社会的責任判断を取ろうとしない無責任なヒトを大量生産するものである。

 「シツケ」と称して虐待を正当化するのは簡単である。それを「日本の文化」と称して維持することも簡単であろう。こうした簡単で安易な話に丸め込まれているから、日本人はいつまでもバカのままなのであり、西洋人から見ても「何を考えているのかわからない。」ことに陥るのである。

 実際には日本人というのは「何も考えていない。」のであって、因習しきたりに則って多数派迎合して安心したいだけのバカの集団だからこそ西洋人から見て異様に見えるのである。




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オカルト生物学。

2013年05月13日 13時46分05秒 | 意識論関連
○オカルト生物学。

 「脳が編み出した生存方法。」など、あたかも大脳辺縁系に組み込まれた本能の全てが絶対的に生存や種の保存に適した行動以外を促さないかのように言い張るのは、オカルトであって科学的論証ではない。

 現在の生物学では、「生存戦略。」などという概念に異常執着するが、生存というのは自然淘汰の「結果」であって、目的や意志によって選択されたものなどではない。

 生物種としての優位性だの、本能習性を事後正当化する現在の生物学は、科学としての社会的役割を放棄しており。オカルト的な大衆迎合にしかなっていない。

 マスコミもまたこうした現在の生物学の大衆迎合を鵜呑みにしており、共犯と言える。

 特定研究者が述べていることを、何の論理科学的検証もせずに垂れ流しをするというのは、無責任極まりないペテンである。

 現在の生物学や脳科学全体が「生存戦略。」的な大衆迎合に何の批判もしないというのは、学者個人のとして自律的論理検証判断が欠落している証明であり。学界への服従迎合に他ならない。

 論理検証に基づく論理検証性を伴わない以上、現在の生物学や脳科学界というのは科学としての社会的役割を全く果たしておらず、公費の無駄遣いであるばかりか、ヒトという種の生物が持つ危険性についての検証すら全く行われないことに陥っているのである。

 生存とは自然淘汰の「結果」である。従って遺された本能習性の全ては過去の出来事の「結果」以上の意味はない。

 「戦略」だとか「目的」といったものは、自然淘汰の「結果」に介在する余地は全くない。こうした極めて基本的論理が理解出来ない奴が科学者やマスコミにいるから、いつまで経っても人類はバカのままなのである。

 こうした自律的論理検証というのは、単に学力学歴だけで培われるものではなく。本質的な自発性に基づいた「自律」がなければ原理的に絶対行われることはない。


 組織腐敗というのはヒトという種の生物の「習性」である。本能習性を事後正当化することに血道を上げる現在の生物学や脳科学というのは、自分達の組織腐敗までをも事後正当化していることになるのである。

 言うまでもなく、これはマスコミにも言えることである。

 組織の腐敗というものは、組織に所属する個人の無意識性の集積によって作り出される「結果」であり。そこには必ずしも「意図」や「目的」、「戦略」といったものが介在しているとは限らない。

 東電幹部や社員達が放射能を撒き散らすことを目的に危険性を放置したわけではないのと同様、オウム教団の幹部達も当人達は「人類の救済。」だと信じて疑わなかったのである。

 現在の生物学や脳科学に携わる研究者達もまた、自分達の観念に論理的根拠が全くないことを、自律的には認識出来ないからこそ、結果的に体制腐敗に陥っているのであり。当人達は自分達の組織が腐敗しているとは夢にも「思って」はいないのである。

 だからこそ面倒臭いのだ。

 研究者当人達は「生存戦略」などという観念に基づいた研究さえしておけば、人類にとって有益だと勝手に思い込んでいるからこそ、いつまで経っても実証不能の観念から抜け出すことが出来ず、生物学や脳科学はオカルトのまま変わらないのである。

 スランシス:ゴルトンによる優生学の根本的間違いというのは、生物学における自然淘汰の「結果」と、意識的「目的」行動選択とを厳密に区別しないことが原因であり。優生学の異常性の根源というのは、現在の生物学の論理検証性の欠落に起因するものである。

 個体の「生存」だけを絶対的正義として扱い、偶発的結果としての優位性だけを取り上げ、あたかもヒトの本能習性の全ては絶対に正しい行動以外を促さない科学的論証であるかの如く言い張るのは、とんでもないオカルトなのである。

 ところがマスコミというのは大衆迎合による世間的成功ばかりに執着し、たとえ破滅に至るような事柄であっても論理検証をせずに垂れ流しを行うものである。

 太平洋戦争時にも、戦争に反対することでボイコットされた新聞社が、大衆に迎合して戦争を正当化するようになったように。マスコミというのは金儲けのためなら非科学的論証も垂れ流すものに過ぎないことを、市民は認識すべきである。


 もちろん、この場合の「市民」とは、自律的に論理検証することの出来る責任ある人間を指しているのである。



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呪文。

2013年05月02日 15時11分43秒 | 日記
○俗功労諸糞呪文。

 高速増殖炉もんじゅは、ナトリウム漏れ重大事故を起こした後に一度運転再開、今度は燃料棒を炉内部に落とすという大失態をやらかし現在停止中。

 流石だな日本の最新技術。

 はぐらかしや嘘をつく技術に関しては北朝鮮並だよ。

 何かの呪文でも使っているんじゃないだろうか。科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーが批判した「プラトンの呪文。」みたいのを。




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悪あがき。

2013年05月02日 15時09分45秒 | 意識論関連
○悪あがき。

 ネズミの利他行動を断片的に抽出しても、ネズミが常に利他行動しか採らないことの論証には全くならない。

 ヒトの利他的行動を社会心理実験で抽出再現して断片的に立証しても、ヒトが絶対に詐欺をやらないことの論証にはならないのと同じである。

 特定の実験室環境での再現性だけを、あたかもその種の生物の普遍的行動習性であるかのように言い張るのは、現在の生物学系観念特有のペテンである。




 公平性というのは道徳観ではなく、単なる他者との利益比較に過ぎない。

 「公平性が保たれていないから社会的責任を負わない。」なんていう話に人間性が伴わないことからも、公平性というのは道徳性とは無関係なのである。

 共感さえすれば「人道的」などというのも嘘である。単に本能習性的に「淋しい。」とか「単独では不安。」という感情反応から他者を救出するだけなら、そこに「人道性」が介在する必要性はないからだ。

 振り込め詐欺師が仲間内で分け前を分け合うことが「人道性」の論証にならないのと全く同じである。

 断片的に「人道的」風味な行動習性を抽出しても、それが短絡的に人間性の論証には原理的にならない。

 気分的に優しい気持ちになったからイジメや虐待をしないというのは。あくまでその場限りの断片的行動結果に過ぎず、当人の本質的な主体的意志選択による行動の論証には全くならない。

 どんなに気分的に暴力的であろうと、自律的に自分の行動を抑制してはじめて「意志」であり「目的」行動となるのである。

 すなはち。ヒトの気分感情と、人間としての「心」は決して直結するようなものではないのである。

 社会危険性を内部告発して組織から排除され、生活が困窮して「気分が良い。」だけで済まされるものではない。ナチズムに反対してスイス山中で自決した哲学者ベンヤミンの気分感情も同様であろう。

 人間としての「心」とは、ヒトとしての気分感情と抗わなければならない状況というものもあり。短絡的に特定環境下での行動習性から立証可能なものではない。




 「群知能」というのは無意識がたらす結果的な機械学習に過ぎない。

 振り込め詐欺師が詐欺技術能力を学習する過程は、本質的な人間としての知能の論証にはならない。

 ヒトにしか出来ないような高度な犯罪を行えても、それは人間としての知能の論証になるわけがなかろう。

 動物的な行動学習による「結果」だけを取り上げても、それは意識的「目的」行動選択の論証には全くならない。

 動物的知能がどんなに「高度」でも、それは振り込め詐欺師の技術が「高度」なのと同じで、単なる程度問題に過ぎず。意識的な「目的」行動選択が介在しない限り、いかなる断片的能力の全ては人間としての本質的知能の論証にはならない。

 自律的、主体的な社会的責任判断選択を伴わないあらゆる特定能力は、本質的な人間としての知能の論証には原理的にならない。




 「ヒトは誰も見ていない隙に物を盗むと心得ている。」ことが、どうして「人間として」の知能の論証にされてしまうのであろうか。サルの行動知能から人間としての目的行動選択を立証することなど最初から構造原理的に不可能なのである。

 ヒトの無意識的行動の「結果」を、どんなに実験で検証しても。無意識の「結果」である以上、意識的「目的」行動についての検証には全くならない。

 無意識行動習性の検証から「人間とは何か。」を論証することは、構造原理的に不可能なのである。

 こういう不毛な立証ばかりに執着している生物学に、科学としての社会的価値など何処にもないのである。





 以上のような下らない話すら自発的には検証出来ない多くの生物学者達というのは、科学者としての素養が全く欠落していると言える。

 こんなバカ共を公金で雇う価値があるわけもなく、早々に組織を解体し再構築すべきなのである。

 「ヒト」についての研究をどんなに進めても、「ヒト」と「人間」との厳密な分別に基づいていない以上「人間」についての検証には絶対に到達することはない。

 現状の「ヒト」についての研究しかしていない生物学には、社会的存在価値は存在しないのである。

 どんなに「大衆世間的ウケ狙い。」にはなっても、である。




○社会学習と個体学習。

 振り込め詐欺師による詐欺能力向上であっても個体学習の一種であり、単なる個体学習傾向だけでは本質的な知能の論証には全くならない。

 そもそも断片的に「生存にとって有利。」な結果だけを抽出して来ても、それが恒久的に「生存にとって有利。」な結果をもたらす証明にすらならない。

 結果的に生存していた種であるからといって、必ずしも知能が優れていることの論証にもならないし、「正しい」とも言えない。

 ナチス政権やポルポト政権に迎合して生き残ったからといって知能が優れていることにはならないし、虐殺されたからといって知能が劣っている論証にもならない。

 結果的生存だけを絶対的正義として取り扱うことは科学的な論証ではなく、あくまでその場限りの結果に対する事後正当化の屁理屈によって気分的に満足しているだけの観念に過ぎない。





 TEDなんていうのも大衆迎合に過ぎない。「多数大衆に人気がある。」ことは、「科学的に論理的根拠がある。」ことの根拠にはならないのである。

 マイケル:サンデルの講義と同じで、頭を使ったような錯覚によって気分的に満足しているに過ぎない。

 「大衆人気取り。」のことを、一般的には「コミュニケーション能力。」と形容するが。それならペテン師占い師の類いや振り込め詐欺師は「コミュニケーション能力が高い。」と言うことになるのであろう。

 下らない。

 あまりに下らな過ぎて面倒臭くなってきたので終わる。



Ende;
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