戦争があるから軍需産業が肥大化したのであって 軍需産業先にあったわけではない
軍需産業の肥大化という課題は 「戦争が終わらない要因」だとは言うことができるが 軍需産業が肥大化する以前から戦争というものはあったのである
つまり 「軍需産業の肥大化」自体は「戦争が起きる原因」とは言えない
石や槍くらいしか持たない未開の地の原住民であっても戦争はやらかすものであり 近代兵器によって死者の数が増えたとは言えるが 別に未開の地の原住民の残虐性の反証には全くならないし 文明人が特別に残虐であることの論証にもならない
池上彰は「戦争がなぜ起きるのか これを見ればわかる」的なタイトルで番組を作っていたが 実際には「戦争が起きる原因」については全く論じていないのであり 大衆相手にごまかしとはぐらかしで煙に巻いているだけである
人文科学系の奴らというのは ほとんどが論理的根拠のない嘘の陳列で大衆をはぐらかして人気を得ているだけであって 未だに「科学哲学者」を名乗っている奴でもイマヌエル:カントを全く疑っていないのである
完全に頭がおかしい
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司法刑罰制度というもの「罰さえ与えれば解決」という短絡的結論によって大衆の脳をはぐらかし 本質的な社会安全性については全く対策も制度もなされていないことについては関知しないものである
警察も検察も裁判所も司法制度という枠組みの中での判決だけが目的になっており 客観的な社会安全性については一切関知していないのである
弁護士であっても同様で 現状の司法制度上における金儲けにさえなれば社会安全性など関知していないし
松永莉子パパのように「再発防止を優先して欲しい」という願いに関しては実際には誰も耳を貸さないのである
司法裁判制度というものが産業化されることによって 社会安全性よりも刑罰判決だけが目的にすり替わってしまっている点においては 軍需産業の大規模化と同様の自己矛盾に陥っているのである
ヒトという種の生物は 手段の一つである司法裁判や軍需産業が 長い間続くことによって目的にすり替わってしまうという現象はヒトの社会ではよくあることである
学力成績や学歴といったものも 本来一面的基準に過ぎない評価の「一つの手段」でしかなかったものが 長い間に学力ビジネス産業化されることによって 学力自体が目的であるかのようにすり替わってしまっているのである
いくら学力学歴があっても 東芝メモリを売却しなければならなくなるような経営では売国奴でしかあるまい
ましてや原発を暴走させていたのでは人類全体 いや 地球の生態系全体を破滅に追い込む大罪である
「学力学歴」自体は国際競争力とは関係なく あくまで「個人の能力の高さ」こそが国際競争力として有効なのであって 一面的評価基準に過ぎない学力偏差値自体が国際競争力と直結しているかのように錯覚していたのではバカとしか言いようがない
ヒトがなぜ手段と目的を履き違えてしまうのかと言えば 手段を長く続けていることによって 形式やマナーのような主観的安心感を持ってしまうためである
ヒトはそもそも主観的に「安心」することで あたかも論理客観的な「安全性」か何かと勘違いする習性があるため 慣れ親しんだ事に対しての安心感によって 論理客観的安全性の追求を忘れてしまうのである
虐待のような行動が世代間で「連鎖」するのも 主観的に安心できる行動を事後正当化することによる認知的不協和を解消する形で 自分が鵜呑みにし 甘んじて受け入れてきた事を次世代に漫然と無意識に連鎖していないといられない 一種の中毒症状である
自分が受けてきた仕打ちに対して 客観的な批判精神に基づいて検証すれば 頭ごなしに「暗記しろ」的なバカげたことは言い出さない
根拠のない「因習」の類いというのは 上の世代が「それさえやっとけば気分的に安心」なだけであって 客商売をする上においては最低限のマナーは必要ではあるが それは人間性とは無関係な「形式」に過ぎない
身体機能においては「型」というものには一定の有効性があるのだが 例えば「ラジコンのステアリングから指を離さないようにする」という「型」というのは ある程度習熟して制御能力が向上することによって結果的に習得するものであって 最初から「ステアリングから指を離すな」と言われてできるようなものではない
キータイピングにおいても 初心者にいきなり「キーボードを見るな」と言われても無理であって 習熟することによって自然と見なくとも打てるようになるのであって 逆に慣れてしまうと見て打つと遅くなったりもする
キータイピングも言語発話機能と同様 おそらくは先天的な得手不得手があるはずで 苦手なことなら得意な人に任せれば良いのであって 本当の社会効率を考えれば作業は相互に得意なことを分担した方が良いに決まっているのである
多様性を受け入れ 多様性をどう効率よくマネジメントしてゆくかがこれからの社会におけるキモになるのであって プログラミングと古典文学のどちらか一方に価値があるという勝手な決めつけには意味がない
ユヴァル:ノア:ハラリ氏が述べたように 根拠のない身勝手な「ストーリー(実証不能の観念)」を押し付けたり またはそれを鵜呑みにしたりする頭の悪さこそが精神性(人間としての本質的意識・論理客観的検証性)にとって有害なのであって 自律的に慎重な分析や検証というものが人間性や倫理にとって一番大切なのである
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹
自然界においては物事を深く考えている暇はないため 直感的に「怖い」と思ったら反射的に逃げるなどの行動を採らなかった個体種は全て絶滅しているため ヒトも先天的には物事を深くは考えないように「進化」しているわけです
暗闇や草藪から物音が聴こえたら それが天敵なのかどうかをのんびり確認していたら天敵に喰われてしまう可能性が高まります ですから主観的に恐怖を感じたら短絡的に「怖いからとりあえず逃げておく」方が生存にとっては有利に働いた結果 ヒトも含めて動物的な先天的本能習性としては深く物事を考えずに短絡的判断をするように出来ているのです
ヒトという生物は 生物進化の歴史の中では新参者であり その進化の大半はヒト以前のネズミとかナメクジウオみたいな生物だった時間の方が圧倒的に長いわけで ヒトが先天的に「人間としての知能」を発揮できるように進化ができているわけではなく あくまで結果的に肥大した脳によって 深く物事の真偽を確かめる能力「も」発揮可能にはなりましたが まだ大抵の場合においては発揮できない場合の方が多いため 様々な問題行動も見られるわけです
ヒトに進化してからは数万年くらいは経っているのですが それは生物進化の過程においては「ごく最近」の出来事に過ぎないのであって 決して人間としての社会性を常に発揮できるようにまでは進化などしていないのです
数十億年の進化の中で組み込まれてきた先天的本能習性というのは 数万年程度では人間にとって都合よく進化できるメカニズム構造などありません
殺し合いの環境下では ヒトはヒトを殺して生き残ったのであって 倫理や人間性といった人間性に適する行動が「生き残り」に適する構造などないのです
イジメや差別で生き残るのは 統率協調的に暴力を振るうことが可能な集団の方であって 自律的に公平性や平等を唱えるような面倒臭い奴らは差別迫害の対象にしかなりませんから ヒトに先天的な人間性が組み込まれるメカニズム構造など立証不可能なのです
遺伝的進化というものは あくまで結果的に「生き残った」個体の形質や習性であって 遺伝的進化においては「生き残った」行動習性はどのようなものでも構わないのであり 残虐であろうと卑怯であろうと何でも構わないのです
多数派に同調迎合したり 多数派によって認証された権威に服従しておいた方が集団内部においては生存にとって有利に働いた結果として ヒトは「権威」とみなした相手の命令には疑わないように「進化」したわけです
ですから学術界において「哲学者」として認められた相手の言っていることには誰も疑うことをしなくなり 理性を超越した「悟性」だの「純粋統覚」だのという主観に基づいた「叡智界」などという実証不能のファンタジーであっても ヒトの多くは誰も疑わずに鵜呑みにできるという頭の悪さも発揮できるわけです
しかし 実際には益川敏英や畑村洋太郎が生物学界や人文哲学界の権威を検証しているわけではなく いわば学界ごとに責任の丸投げしかしていないため 意味のわからぬ実証不能の観念であっても生物学界や哲学界では通用してしまっているのです
ヒトは実証不能の観念であっても みんなが信じているように見えることは 自分も信じ込んでしまった方が安心できるという同調バイアスがあるため 根拠のない因習であっても大半のヒトは「根拠や証拠はあるのだろうか」などとは一切考えずに 盲目的に権威の言っている内容や 多数派が信じ込んでいる内容には疑うことなく鵜呑みにして安心しようとするのです
そうやってバカげた実証不能の観念は放置されることになる
波風立てずにみんな仲良く組織腐敗のぬるま湯に浸かって満足する
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荒川河川敷の道を自転車で走っていると 道の両側にスズメの群れがいることがあり その中を私が自転車で通った時に 最初に私のことを怖がって飛び立ったスズメの一羽が たまたま進行方向右側だった場合 最初に飛び立ったスズメにつられる形で進行方向左側にいたスズメまでもが進行方向右側に一斉に飛び立ってしまい むしろ走行中の私の直前を大量のスズメが横切るという現象が見られます
私は別に飛び立つスズメを獲って喰ったりはしませんし ぶつかりそうになればブレーキをかけて減速しますから 特にスズメにとっては害はありませんが 逆に言えば淘汰圧力としては働かないので スズメは先天的な本能習性に影響を及ぼすこともなく 必ず私の自転車の前を横切るように飛び立ち続けることになります
ヒトの場合でも バカから死んでゆくような淘汰圧力は働きませんから バカでも死ななければバカのまま進化することはありません
ヒトは 様々な工夫によって自然界における過酷な生存競争から逃れることで 障害などがある弱者であっても守れる社会安全性も獲得しました
ところが ヒトはヒトになる以前の祖先から受け継いだ本能習性に従って 過酷な生存競争をやめることが出来ずにヒト同士での殺し合いもするようになったのです
本来農耕などの技術の獲得などによって 効率的な食物の安定供給ができるようになり 生活に余裕を持たせることもできるはずなのですが 社会の効率化によって人口が増えたため 大きくなりすぎた集団内部の個体を把握できなくなった不安に駆り立てられる形で派閥を作り上げ ヒト同士での差別や殺し合いによって先天的な集団統率的協調行動本能を満たすようになったのです
先天的本能習性というのは無意識なバイアスです
アンコンシャス・バイアス(無意識な偏見)という言葉がありますが そもそも意識して差別することなど出来ないのであって 偏見を偏見だとすら思っていない無意識性があるからこそ偏見として機能するのです
先天的本能習性を あたかも自分自身が目的意識に基づいて主体的に考えて選んだものだと錯覚しているからこそ 「主観が大事」などというバカげた主張が出来てくることになる
「自分には絶対に偏見などない」と思っている傲慢さがなければ こうした主張は出てくることはありません
私にももちろん偏見はありますが 主観的好き嫌いに過ぎない偏見はちゃんと偏見として自覚認識しているつもりですから 可能な限りは論理客観的根拠に基づいた論証なしに勝手に何かを決めつけたりはしていないつもりです
主観的な好き嫌いは あくまで個人的なものであると区別する論理客観性を働かせるようにしているから人道を外れたヘイトスピーチの類いにのめり込むことはしないのです
主観的には「糞DQNうるせえから死ね」としか思いませんが それは私の勝手な主観であって かつては無邪気な子供が どうして迷惑な糞DQNになってしまうのかについての冷静な科学的検証はすべきだと考えています
先天的な本能に基づいた報復感情や懲罰感情だけで「厳罰化だ死刑だ」と主張するばかりで 社会安全性を蔑ろにしている「自分の無責任さについては何ら検証しないバカ」にはなっていないつもりです
だからといってバカのご機嫌取りをするつもりは毛頭ございません
多数のバカのご機嫌取りで金を稼ぐことは簡単ですが そうした「嘘」や「デマ」の蔓延によって社会安全性が損なわれ 誰かが犠牲になることは看過出来ないですから バカな大衆には自分の頭の悪さを自覚していただく必要性から本論を書き続けているのです
本論の目的はバカのご機嫌取りや人気取りではなく あくまでバカの逆洗脳であって 主観的な拒絶反応や嫌悪感については関知するつもりは一切ございません
そういうのはご自分でナントカして頂くしかないんですよ
何が悲しくて私がバカのご機嫌取りなんぞせなアカンのですか 意味がわからない
Ende;