今テレビのMX2で鉄道写真の番組やってたんだけど、鉄道写真家の広田(息子の方)さんが言うには、メモリーカードを電車のモーターの上とかに置いてしまうとデータが揮発してしまうという話をしていた。
自動車とかでもセルモーターの近くはダメらしいです。
防磁ケースとかってないのかね。
難しくはないと思うんだけど。
磁気センサーとかあっても良いかも。
あ、どういう所に強力な磁力線があるのか調べても良いかも。
磁性体って熱で磁力を失うって話を聞いたことあるんだけど、常温で脱磁するような磁性体ってないのかな。
パーマロイとかいう材料を使うと磁力線を防ぐことができるそうです。http://www.nakano-permalloy.co.jp/j_permalloy_whats.htmlこちらのサイトで紹介してました。フロッピーディスクのフタの部分とかに使われているらしいです。キャッシュカード用のスキミング防止カードケースは既にあるらしいです。
メモリーカード自体に防磁処理とかできないのかね。
そういえばカメラ内部にもフラッシュメモリーって入っているからこっちも防磁処理しないと、こちらはファームウエアが消えて動かなくなってしまうかも知れない。
最近のデジカメはアルミだのマグネシウムだのプラスチックで出来てるから、全く防磁にはなっていないんだろうね。
あれ、昔のカメラもアルミ合金フレームに真鍮カバーだから防磁にはなってないのか。
ギャゼットケース自体をパーマロイで作ったら重くてしょうがないだろうから、カメラサイズのインナーケースとかじゃないと実用的ではないだろうな。
あれ、レンズにもフラッシュメモリーって入っているのかな。ファームアップ可能なレンズってあるものね。
何だか、凄い重たいことになっちゃいそう。
磁気を感知して警告する装置とかの方がいいのかな。
◆追記:交流磁界であればコイルで検出できる。作るのは簡単だろうね。
◆追記2:SDカードとかメモリースティック用の防磁ケースってのはググったら出てきた。でもコンパクトフラッシュメモリーカード用は見つけられなかった。
ロアスっていうメーカーのケースはブリキで、サンワのはアルミ。アルミは防磁能力ははぼ全くないので注意。
今時鉄製ギャゼットバッグなんてありえないだろうし。
そういえば、防磁カードケースでググったらこのページが2ページ目に出てきた。アクセスIP100前後のページなのに、結構トピックとしては薄いみたい。
それともネットってその程度のアクセスしかないのかな。意外。
自動車とかでもセルモーターの近くはダメらしいです。
防磁ケースとかってないのかね。
難しくはないと思うんだけど。
磁気センサーとかあっても良いかも。
あ、どういう所に強力な磁力線があるのか調べても良いかも。
磁性体って熱で磁力を失うって話を聞いたことあるんだけど、常温で脱磁するような磁性体ってないのかな。
パーマロイとかいう材料を使うと磁力線を防ぐことができるそうです。http://www.nakano-permalloy.co.jp/j_permalloy_whats.htmlこちらのサイトで紹介してました。フロッピーディスクのフタの部分とかに使われているらしいです。キャッシュカード用のスキミング防止カードケースは既にあるらしいです。
メモリーカード自体に防磁処理とかできないのかね。
そういえばカメラ内部にもフラッシュメモリーって入っているからこっちも防磁処理しないと、こちらはファームウエアが消えて動かなくなってしまうかも知れない。
最近のデジカメはアルミだのマグネシウムだのプラスチックで出来てるから、全く防磁にはなっていないんだろうね。
あれ、昔のカメラもアルミ合金フレームに真鍮カバーだから防磁にはなってないのか。
ギャゼットケース自体をパーマロイで作ったら重くてしょうがないだろうから、カメラサイズのインナーケースとかじゃないと実用的ではないだろうな。
あれ、レンズにもフラッシュメモリーって入っているのかな。ファームアップ可能なレンズってあるものね。
何だか、凄い重たいことになっちゃいそう。
磁気を感知して警告する装置とかの方がいいのかな。
◆追記:交流磁界であればコイルで検出できる。作るのは簡単だろうね。
◆追記2:SDカードとかメモリースティック用の防磁ケースってのはググったら出てきた。でもコンパクトフラッシュメモリーカード用は見つけられなかった。
ロアスっていうメーカーのケースはブリキで、サンワのはアルミ。アルミは防磁能力ははぼ全くないので注意。
今時鉄製ギャゼットバッグなんてありえないだろうし。
そういえば、防磁カードケースでググったらこのページが2ページ目に出てきた。アクセスIP100前後のページなのに、結構トピックとしては薄いみたい。
それともネットってその程度のアクセスしかないのかな。意外。
赤外線を用いた静止画や動画には、大きく別けて二種類あります。
一つは暗視用の赤外線カメラを使用した映像で、これは色が全くない白黒画像です。
もう一つは一般販売されている普通のカメラに赤外フィルターを装着して撮影した映像です。
デジカメなどに使われるCCDとかCMOS画像センサーというのは、元々は赤外線の感度が高く、そのままでは普通のカラー映像を撮影することができないので、赤外線をカットするフィルターが画像センサーの前面に組み込まれているのが普通です。ところが画像センサーに組み込まれている赤外線カットフィルターは完全ではないため、機種による差はありますが、赤外線だけを透過するフィルターと併用することで赤外線映像を撮影することも可能となります。
暗視専用の赤外線カメラの場合、CCDやCMOSセンサーの本来の赤外感度の高さを利用しているわけです。
ビデオカメラなどの一部の機種には、赤外線をカットするフィルターを画像センサーの前から外して、暗視専用カメラとしても使えるようにしたものもあり。こうしたカメラに赤外線だけを透過するフィルターを併用すると、盗撮などに使えるスケスケ画像を撮影することができるようになります。夏の浜辺などで、レンズに真っ黒なガラスを装着したビデオカメラを持ち歩いている人がいたら、それは多分盗撮目的でしょう。赤外線映像では黒い布地程透け易く、白い布地は透けにくい性質があります。
但し、大型の望遠レンズの場合、フィルターはレンズの内部に差し込む形式のものがあり、これは外見からは赤外線フィルターを装着しているのかどうかはわかりません。
普通一般に販売されているデジタルカメラの場合。赤外線だけを透過するフィルターを装着しても、画像センサーに赤外線をカットするフィルターが予め組み込まれているため、これを物理的に除去するなどしない限り、赤外線の感度は非常に低く、動画での撮影は通常不可能であり、静止画の場合も晴天日中でも数秒以上の長時間露出が必要となります。カラーカメラで赤外線カットフィルターを外すことによって、特殊な映像を作り出すことも可能です。(このリンク先は「らばQ」という方のサイトです。)
一般的なデジタルカメラには赤外線をカットするフィルターが組み込まれているわけですが。このフィルターも安価なカメラの場合、充分に赤外線をカットできないものが使用されていることがあり。テレビのリモコンの赤外線LEDを撮影しながらリモコンを操作するとLEDが光って写ることがあります。こうした安価な赤外線カットフィルターを使用しているカメラの場合、一部の植物などでは色が肉眼で見た時とは異なる色再現をする場合もあります。
肉眼で見た場合、この花はシベの部分と花びらの色は同じ紫に見えるのですが、コンパクトデジタルカメラの場合は花びらの色がこのように青に写ります。
一つは暗視用の赤外線カメラを使用した映像で、これは色が全くない白黒画像です。
もう一つは一般販売されている普通のカメラに赤外フィルターを装着して撮影した映像です。
デジカメなどに使われるCCDとかCMOS画像センサーというのは、元々は赤外線の感度が高く、そのままでは普通のカラー映像を撮影することができないので、赤外線をカットするフィルターが画像センサーの前面に組み込まれているのが普通です。ところが画像センサーに組み込まれている赤外線カットフィルターは完全ではないため、機種による差はありますが、赤外線だけを透過するフィルターと併用することで赤外線映像を撮影することも可能となります。
暗視専用の赤外線カメラの場合、CCDやCMOSセンサーの本来の赤外感度の高さを利用しているわけです。
ビデオカメラなどの一部の機種には、赤外線をカットするフィルターを画像センサーの前から外して、暗視専用カメラとしても使えるようにしたものもあり。こうしたカメラに赤外線だけを透過するフィルターを併用すると、盗撮などに使えるスケスケ画像を撮影することができるようになります。夏の浜辺などで、レンズに真っ黒なガラスを装着したビデオカメラを持ち歩いている人がいたら、それは多分盗撮目的でしょう。赤外線映像では黒い布地程透け易く、白い布地は透けにくい性質があります。
但し、大型の望遠レンズの場合、フィルターはレンズの内部に差し込む形式のものがあり、これは外見からは赤外線フィルターを装着しているのかどうかはわかりません。
普通一般に販売されているデジタルカメラの場合。赤外線だけを透過するフィルターを装着しても、画像センサーに赤外線をカットするフィルターが予め組み込まれているため、これを物理的に除去するなどしない限り、赤外線の感度は非常に低く、動画での撮影は通常不可能であり、静止画の場合も晴天日中でも数秒以上の長時間露出が必要となります。カラーカメラで赤外線カットフィルターを外すことによって、特殊な映像を作り出すことも可能です。(このリンク先は「らばQ」という方のサイトです。)
一般的なデジタルカメラには赤外線をカットするフィルターが組み込まれているわけですが。このフィルターも安価なカメラの場合、充分に赤外線をカットできないものが使用されていることがあり。テレビのリモコンの赤外線LEDを撮影しながらリモコンを操作するとLEDが光って写ることがあります。こうした安価な赤外線カットフィルターを使用しているカメラの場合、一部の植物などでは色が肉眼で見た時とは異なる色再現をする場合もあります。
肉眼で見た場合、この花はシベの部分と花びらの色は同じ紫に見えるのですが、コンパクトデジタルカメラの場合は花びらの色がこのように青に写ります。
というタイトルのハガキが届いた。
ブチコさんという方のブログでも載っていましたが。これは簡単な質問しかしないらしいです。http://ameblo.jp/buchiko-room/entry-10894564802.html本当はトラックバックとかを使うのが正しいんでしょうけど、使い方がわからないので。
発信先の電話番号がハガキに書いてあるので、回答するときには相手の電話番号を確認すると安全だと思います。もしかすると、このアンケートに便乗して個人情報を引き出す詐欺があるかも知れません。くれぐれもご注意。別に答えなければいけない義務もないので、不安であれば断っても問題はありませんから。
ブチコさんのブログに載ってたハガキの写真です。ウチに来たのと同じでした。
ブチコさんという方のブログでも載っていましたが。これは簡単な質問しかしないらしいです。http://ameblo.jp/buchiko-room/entry-10894564802.html本当はトラックバックとかを使うのが正しいんでしょうけど、使い方がわからないので。
発信先の電話番号がハガキに書いてあるので、回答するときには相手の電話番号を確認すると安全だと思います。もしかすると、このアンケートに便乗して個人情報を引き出す詐欺があるかも知れません。くれぐれもご注意。別に答えなければいけない義務もないので、不安であれば断っても問題はありませんから。
ブチコさんのブログに載ってたハガキの写真です。ウチに来たのと同じでした。
シーシェパードとかの環境保護団体の活動というのは、どうもやっていることがトンチンカンな感じがしていたのだが。彼らの「目的。」というのは環境保護というよりも、誰かを悪者と決め付けて攻撃することによって、「正義の裁きを下した。」気分に陥って満足したいだけなのではないか。
冷静に考えれば、環境保護に対して有効な策というものが他にあるはずなのだが。そっちは明確な「敵」が見えないので、気分的に満足できないからやらないらしい。
単純に捕鯨の妨害であっても、鯨が捕鯨船に近付かないような策もあるはずなのだが、そういうことは一切せずに捕鯨船を攻撃する。いわば、捕鯨をさせておいて攻撃しているのである。
彼らがやりたいのは自然保護ではなくて、誰かを誹謗中傷して「やっつける」ことによって、一面的正義を振り回して気分的に満足したいだけなのではないだろうか。
ビンラディン容疑者を問答無用で殺害しておいて、「正義の裁きを下した。」とか言ってる奴が大統領なくらいだから、アメリカ人っていうのはとにかく暴力を用いて解決することによって、気分的にスッキリしたいだけなのであろう。
今、アメリカ人と限定したけど、これはナチスがユダヤ人を敵と見なしたこととか。アルカイダがアメリカを敵と見なしたこととか、オウム真理教が政府を敵と見なしたことなどと同じ心理構造で。意識を特定の「敵。」に集中させることによる、意識狭窄を促すことによって、自分達の行動の短絡性を正当化するための典型的手法であろう。
ルワンダの内戦とかもそうだった。
ある、特定の「敵。」を規定し、決め付け、それを攻撃することによって自分達の行動の正当化をしたいのである。
つまり、「悪いのは全てあいつらだ。」という、集団内部での共通の観念を振り回すことによって、自分達を正当化できるものであると、勝手に妄想しているのである。
シーシェパードが行っている行動が自然保護とは思えない。変な格好の木造船を乗り回すというのは、要するに見た目にこだわっているのであり。暴走族のバイク装飾と同じ心理によるものであろう。目立つことが最大の目的であって、鯨を保護することはどうでも良いのであろう。
私自身は捕鯨には反対でも賛成でもない。生物としてのヒトである以上、何らかの肉を採る必要性はあるわけで、それが牛でも馬でも鯨でも変わりがあるという根拠は特にない。
ただ、鯨類を人の手で殺すことに対しての気分的な嫌悪感はわからないでもない。でもそれを言うなら犬とか猫でも同じことであり。これは単なる気分的な「慣れ。」の問題でしかないのではないか。
私は「ニューコンミート」という馬肉主体の安物のコンビーフが好きなのだが、馬を見ながら食うのはやはり嫌である。豚を見ながらソーセージを食うのも同じであろう。鶏の頭を切り落とす場面を見ながらから揚げも食べられないだろう。少なくとも「美味しく」は戴けない。
ストランディングを見ると、日本人の多くは何とかして助けようと試みる人は多い。まあ、中にはさばいて持ち帰る人もいるらしいが、大抵の場合は重機まで持ち出して助けようとするだろう。鯨類を見て「旨そう」と感じ、食料であるとは認識していない場合が多い。それはやはり豚でも牛でも馬でも、鶏でも同じなのではないか。
江戸時代、日本では牛は食料ではなかったという。明治時代になってから牛を食うようになると、「何となく祟られるのではないか。」と嫌がったのだという。江戸時代における牛の存在というのは、農耕のために飼っていただけで、食肉としては扱っていなかったらしい。
結局、何の肉を食うのかは好き嫌いの問題であって、理論的根拠というものがあるわけではない。
とにかく、他の国にまで「侵攻」してきて暴力的解決を行うというのは手段が間違っている。中国で同じようなことをしたら、どうなるであろう。それを考えると、アメリカ人は日本のことをバカにしているから、こうした行動を採るのであろう。
共存を妨げる原因というのは、自分達の集団だけが常に正しいという勝手な思い込みである。暴力的解決を行うための最も短絡的な思考とは、「悪いのは、あいつらだ。」という一面的正義である。水戸黄門とか暴れん坊将軍とか、アイアンマンとか、挙げるとキリがないのでやめておくが、とにかく問答無用で相手を懲らしめることだけに意識狭窄をすることによって、自分達の手段選択を短絡化させるのである。
短絡的なのは大脳辺縁系が楽になる。大脳辺縁系というのは、その場限りの機械手続き的条件反射行動しか促すようにしかできていないからである。
機械手続き的条件反射行動しかできなければ、ヒトという種の習性、傾向性として、戦争やテロなどの暴力的解決法を克服することはできない。
シーシェパードの一人は、「なぜ、そんなことをするのか。」という問いに対して。「楽しいからだ。」と答えていた。少なくともコイツには問題意識など存在していないのは確かである。
シェパードというのはイヌの種類である。イヌの行動というのは極めて条件反射的であり、その行動は成育環境への依存度が極めて高い。日本という環境において、いわば「シツケを間違えた小型犬が暴れる。」のと、さして変わらないのだろう。
アルカイダがテロを正当化する時の根拠として、パレスチナの問題を挙げるのだが。テロを行うことによってパレスチナの問題に対する具体的な解決への影響はほとんど全くない。恐怖、力、人工的権威によって相手を押さえ付ける手段というのを、ヒトは短絡的に選択しがちである。力を振り回している方からすれば、その方が簡単である。物理的に簡単なのではなくて、手段選択自体が簡単なだけであり。むしろ物理的にはややこしくなっている場合が多い。
暴力の応酬というのは感情が作り出すシーケンシャルな行動「結果」である。これをとめるためには、短絡的なシーケンスというものを客観視して、短絡的ではない行動選択を行わなくてはならない。
感情論に基づく解決策というのは、実際には非常に効率が悪い。そこに論理的な解決法の選択がなされないからである。
冷静に考えれば、環境保護に対して有効な策というものが他にあるはずなのだが。そっちは明確な「敵」が見えないので、気分的に満足できないからやらないらしい。
単純に捕鯨の妨害であっても、鯨が捕鯨船に近付かないような策もあるはずなのだが、そういうことは一切せずに捕鯨船を攻撃する。いわば、捕鯨をさせておいて攻撃しているのである。
彼らがやりたいのは自然保護ではなくて、誰かを誹謗中傷して「やっつける」ことによって、一面的正義を振り回して気分的に満足したいだけなのではないだろうか。
ビンラディン容疑者を問答無用で殺害しておいて、「正義の裁きを下した。」とか言ってる奴が大統領なくらいだから、アメリカ人っていうのはとにかく暴力を用いて解決することによって、気分的にスッキリしたいだけなのであろう。
今、アメリカ人と限定したけど、これはナチスがユダヤ人を敵と見なしたこととか。アルカイダがアメリカを敵と見なしたこととか、オウム真理教が政府を敵と見なしたことなどと同じ心理構造で。意識を特定の「敵。」に集中させることによる、意識狭窄を促すことによって、自分達の行動の短絡性を正当化するための典型的手法であろう。
ルワンダの内戦とかもそうだった。
ある、特定の「敵。」を規定し、決め付け、それを攻撃することによって自分達の行動の正当化をしたいのである。
つまり、「悪いのは全てあいつらだ。」という、集団内部での共通の観念を振り回すことによって、自分達を正当化できるものであると、勝手に妄想しているのである。
シーシェパードが行っている行動が自然保護とは思えない。変な格好の木造船を乗り回すというのは、要するに見た目にこだわっているのであり。暴走族のバイク装飾と同じ心理によるものであろう。目立つことが最大の目的であって、鯨を保護することはどうでも良いのであろう。
私自身は捕鯨には反対でも賛成でもない。生物としてのヒトである以上、何らかの肉を採る必要性はあるわけで、それが牛でも馬でも鯨でも変わりがあるという根拠は特にない。
ただ、鯨類を人の手で殺すことに対しての気分的な嫌悪感はわからないでもない。でもそれを言うなら犬とか猫でも同じことであり。これは単なる気分的な「慣れ。」の問題でしかないのではないか。
私は「ニューコンミート」という馬肉主体の安物のコンビーフが好きなのだが、馬を見ながら食うのはやはり嫌である。豚を見ながらソーセージを食うのも同じであろう。鶏の頭を切り落とす場面を見ながらから揚げも食べられないだろう。少なくとも「美味しく」は戴けない。
ストランディングを見ると、日本人の多くは何とかして助けようと試みる人は多い。まあ、中にはさばいて持ち帰る人もいるらしいが、大抵の場合は重機まで持ち出して助けようとするだろう。鯨類を見て「旨そう」と感じ、食料であるとは認識していない場合が多い。それはやはり豚でも牛でも馬でも、鶏でも同じなのではないか。
江戸時代、日本では牛は食料ではなかったという。明治時代になってから牛を食うようになると、「何となく祟られるのではないか。」と嫌がったのだという。江戸時代における牛の存在というのは、農耕のために飼っていただけで、食肉としては扱っていなかったらしい。
結局、何の肉を食うのかは好き嫌いの問題であって、理論的根拠というものがあるわけではない。
とにかく、他の国にまで「侵攻」してきて暴力的解決を行うというのは手段が間違っている。中国で同じようなことをしたら、どうなるであろう。それを考えると、アメリカ人は日本のことをバカにしているから、こうした行動を採るのであろう。
共存を妨げる原因というのは、自分達の集団だけが常に正しいという勝手な思い込みである。暴力的解決を行うための最も短絡的な思考とは、「悪いのは、あいつらだ。」という一面的正義である。水戸黄門とか暴れん坊将軍とか、アイアンマンとか、挙げるとキリがないのでやめておくが、とにかく問答無用で相手を懲らしめることだけに意識狭窄をすることによって、自分達の手段選択を短絡化させるのである。
短絡的なのは大脳辺縁系が楽になる。大脳辺縁系というのは、その場限りの機械手続き的条件反射行動しか促すようにしかできていないからである。
機械手続き的条件反射行動しかできなければ、ヒトという種の習性、傾向性として、戦争やテロなどの暴力的解決法を克服することはできない。
シーシェパードの一人は、「なぜ、そんなことをするのか。」という問いに対して。「楽しいからだ。」と答えていた。少なくともコイツには問題意識など存在していないのは確かである。
シェパードというのはイヌの種類である。イヌの行動というのは極めて条件反射的であり、その行動は成育環境への依存度が極めて高い。日本という環境において、いわば「シツケを間違えた小型犬が暴れる。」のと、さして変わらないのだろう。
アルカイダがテロを正当化する時の根拠として、パレスチナの問題を挙げるのだが。テロを行うことによってパレスチナの問題に対する具体的な解決への影響はほとんど全くない。恐怖、力、人工的権威によって相手を押さえ付ける手段というのを、ヒトは短絡的に選択しがちである。力を振り回している方からすれば、その方が簡単である。物理的に簡単なのではなくて、手段選択自体が簡単なだけであり。むしろ物理的にはややこしくなっている場合が多い。
暴力の応酬というのは感情が作り出すシーケンシャルな行動「結果」である。これをとめるためには、短絡的なシーケンスというものを客観視して、短絡的ではない行動選択を行わなくてはならない。
感情論に基づく解決策というのは、実際には非常に効率が悪い。そこに論理的な解決法の選択がなされないからである。
本当の公益倫理判断というものは、自己自身の存在価値を自己自身で肯定できる者における結果的な他人への配慮であり。自己の他人からの評価を動機とした行動選択とは根本的に異なるものである。
そもそも他人からの評価を求めていれば「自律。」ではない。評価も報酬も得られそうにない自律的な公益倫理判断をしなければならない状況、環境に置かれた場合。感情でしか行動が選択されなければ自律選択などされることはない。
他人からの評価を動機とする選択とは、そもそもが利己的な感情、超自我的な脅迫観念に基づく感情的選択であり。それは本質的には自発的判断、意思の欠落を意味するものである。
本質的自発行為、純粋行為もまた、個人的な好き嫌いに基づく行動ではある。しかし、これは他人からの評価とは無関係に「意思」を貫く意識的選択によるものであり。むしろこれによって利己的選択をしなくなるようになるのである。
物質的な利己的行動選択をしなくなるのは、精神的な利己的行動によって脳が満たされているからである。
純粋に研究に没頭して、外見上の禁欲性を発揮する研究者の類というのは。研究自体に対する純粋な好奇心、純粋な意欲によって、大脳辺縁系が気分的に「満足。」しているからこそ外見上禁欲的であり、また、公益倫理的な自律判断の可能性も高まることになるのである。
自己自身で自分の脳が満たすことのできない者には、他人や多数他人である社会全体を思いやるだけの精神的な「余裕。」というものがないため。思考自体にも「余剰。」が存在せず、常に環境依存性しか発揮することができないのである。
精神的余裕のない人間というのは、行動選択自体の全てに本質的自発性が欠落しているからなのである。
この種の者の言い訳として、極めてパタン的、形式的なものであるが、「評価が得られなければ、やる気が起きない。」とか、「他に誰がやるんですか。」などというものがある。養老孟司の言う「誰が解剖なんて辛気臭いことをやるんですか。」というのも、本質的自発性の欠落を「証明。」するものである。
つまり、社会環境に無意識的に流され、全く本質的自発性を持たない者の行動選択というものは、あらゆる「やる気。」が環境に依存しており、当然自律判断などできないのである。
そもそも他人からの評価を求めていれば「自律。」ではない。評価も報酬も得られそうにない自律的な公益倫理判断をしなければならない状況、環境に置かれた場合。感情でしか行動が選択されなければ自律選択などされることはない。
他人からの評価を動機とする選択とは、そもそもが利己的な感情、超自我的な脅迫観念に基づく感情的選択であり。それは本質的には自発的判断、意思の欠落を意味するものである。
本質的自発行為、純粋行為もまた、個人的な好き嫌いに基づく行動ではある。しかし、これは他人からの評価とは無関係に「意思」を貫く意識的選択によるものであり。むしろこれによって利己的選択をしなくなるようになるのである。
物質的な利己的行動選択をしなくなるのは、精神的な利己的行動によって脳が満たされているからである。
純粋に研究に没頭して、外見上の禁欲性を発揮する研究者の類というのは。研究自体に対する純粋な好奇心、純粋な意欲によって、大脳辺縁系が気分的に「満足。」しているからこそ外見上禁欲的であり、また、公益倫理的な自律判断の可能性も高まることになるのである。
自己自身で自分の脳が満たすことのできない者には、他人や多数他人である社会全体を思いやるだけの精神的な「余裕。」というものがないため。思考自体にも「余剰。」が存在せず、常に環境依存性しか発揮することができないのである。
精神的余裕のない人間というのは、行動選択自体の全てに本質的自発性が欠落しているからなのである。
この種の者の言い訳として、極めてパタン的、形式的なものであるが、「評価が得られなければ、やる気が起きない。」とか、「他に誰がやるんですか。」などというものがある。養老孟司の言う「誰が解剖なんて辛気臭いことをやるんですか。」というのも、本質的自発性の欠落を「証明。」するものである。
つまり、社会環境に無意識的に流され、全く本質的自発性を持たない者の行動選択というものは、あらゆる「やる気。」が環境に依存しており、当然自律判断などできないのである。
他人の為を思うことと、他人の顔色を窺うことは同じではない。
ペテン師が他人の顔色を窺うのは、他人の為ではなく、自分の利益のためである。
ナチス政権下において、他人の顔色を無視してナチスに反対するのは公益倫理判断である。
個人主義だの集団主義といった議論の全ては、傾向性や習性といった無意識的行動「結果」を論じているだけであり。これらの議論からは本質的意識に基づく公益倫理判断についての結論は導くことができない。公益倫理判断というものは無意識行動傾向からは偶発性以外に導き出されることはないからである。
無意識的な傾向性から偶発的な公益性を抽出しても、そこには意識的に選択された目的がなく、常に「結果。」しか論ずることが出来ない。
「社会的」とか「社交的」といった集団主義自体は公益倫理判断とは無関係である。アイヒマン実験における権威への服従などは、服従という集団主義意識が導き出す行動結果であり。権威に対する迎合性という習性が公益倫理判断を撹乱することを証明しているのである。
個人主義的な人間が公益倫理判断を自律的にできるとは限らないのと同様に、集団主義的な人間でもそれは同じである。
本質的意識とは、こうした無意識的な傾向性に関わらず、傾向性とは無関係に「自律」的に行動選択するためのものであり。どんなに無意識的傾向性を論じても、そこから本質的意識についての議論には到達することができない。従って、傾向性に関わる議論からは「ヒトが人間である所以。」である公益倫理的な自律判断に関わる議論は全くすることができない。
そもそも研究者自体が公益倫理的な自律判断の全ては自分の置かれた環境に依存すると信じ込んでいるような、自律のない人間である場合。もはや議論自体を回避することしか意識は働かないであろう。環境に依存せず、常に自律的判断を行うことができない人間が、他の人の自律的判断力の存在自体を信用することなどできないからである。
他人の顔色をうかがうという行動選択は、公益倫理的な自律判断とは無関係で。あくまで目先の多数他人からの評価に対する利己的感情に由来する無意識的な情動行動に過ぎない。そのため、集団主義的な集団というのは、自己の所属する集団以外に対する普遍的な公益倫理性には意識が働くとは限らず。自分の所属する集団に対する利益にしか意識が働かない場合があるという点において、自己の所属する集団への利益しか意識を促さない傾向があり、一面的には公益倫理行動選択をする場合があるとしても、その行動選択傾向に普遍的な公益倫理性は伴うわけではなく、結果として「自己が特定集団に埋没した状態」における「利己。」的行動選択に過ぎないのである。超自我的な恐怖心に由来する無意識的な行動選択は、公益倫理的な自律判断とは無関係である。
本質的意識に由来する公益倫理的な自律判断というものは、如何なる傾向性、習性、或は個体が置かれた状況や環境に関わらず。より確実な判断を行うための「意思。」に基づくものである。無意識的な傾向性や習性の枚挙を根拠とする不確実な議論からは、こうした確実性の向上に関する結論は導き出すことが構造原理的に不可能であり。不毛である。
心理学や生物学における傾向性や習性についての議論からは、「ヒトが人間である所以。」について議論することが最初から出来ないのである。傾向性や習性というものからは、生物種としての「ヒト」を傍観することしかできず、「人間とは。」何か、或は「心。」とは何かを議論することが原理的にできない。それは科学的な「客観性」ではなく、単なる思考停止による「他人事扱い。」としての「傍観」でしかないのである。それを「メタ認知。」などと称して正当化するのは赦されるべきものではない。科学者というのは、科学者である前に人間でなければならないからである。人間として出来損ないであるにも関わらず科学者としての知見ばかりを優先していれば、原発関連の研究者と全く同じで、高学歴なキチガイに過ぎない。
重要なのは傾向性や習性といった無意識的な情動行動の「結果」ではなく。そうした傾向性や習性の枚挙による一面的「立証。」という思考形式、パラダイム自体の転換である。
ところが本質的意識の働かない無意識的な人間、研究者やマスコミというのは。こうしたパラダイムシフトに対して異常なまでに拒絶反応を示す傾向がある。変化するのは外的な知識だけで、自分の思考形式自体に間違いが存在していたことは認識したくないからである。
自分が教え込まれた思考の「形式」すなはち「パタン」を無意識的に盲目的に信じ込んでいることが気分的に安心であり。感情のおもむくままに思考「パタン」にしがみついて離れないのである。
これは精神的怠惰であり、怠慢であるとすら当人には認識することができないようである。カルト宗教の信者達が必死になって事後正当化をするのと同様、当人的には努力しているつもりであるからだ。
感情的にどんなに必死になっても、論理的思考が伴わない気分的必死というのは精神論的な「努力。」であって、事実上思考自体は怠惰怠慢なのである。
何か一つのことを成し遂げる際には、それなりの外見上の努力は必要である。しかし、他人とは異なる個性を発揮するまでの努力には、他人とは異なる集中力が必要であり。その集中力を促すのは多数他人からの要請に由来する環境依存的動機ではなく、本質的な自発性、純粋行為に由来する集中力が必要なのである。
現在の生物学、心理学、脳科学の研究者の多くは、こうした本質的自発性が決定的に欠落しているために。目先の利益になるような、大衆迎合的な観念に基づいた人気取りにばかり走っており、本質的意識についての議論自体を忌避して、従来の思考形式、パラダイムを踏襲することにばかり意識が働いているのである。
これを意識狭窄と言わずして何と言うであろう。
本質的な自発性を伴わない精神論的努力というものは、固定観念的に教え込まれた思考形式から逃れることが構造的に困難である。実質不可能といってもよかろう。パラダイム自体を変更するためには他人の顔色をうかがっていてはできないからである。
思考形式自体を変更可能なのは、本質的な自発性による「思考。」であって、それを伴わない「思い。」がいくら強力にあっても無意味なのである。
「思い。」をぶちまけたいのであれば、科学や哲学ではなく、芸術に供する研究を行えばよいのである。芸術であれば結論自体が存在しないのであるから、最初から「意味」も「価値」も存在しない。芸術における成功とは、社会的な成功、物質的充足と同義であるから。公益倫理的自律判断もしなくて良い。
しかし、親や教師の顔色をうかがって身に付けた学力能力を事後正当化するために、本質的には自発性のない科学研究に携わることに「陥る。」ために、問題意識のない科学者が増えることになるのである。
成績という抽象化された「エサ」で釣る形式の学力向上手段など、社会的な公益倫理性に反するものなのである。学力が高いだけのバカを大量生産しておいて、世の中が良くならないのは当たり前の話である。
パラダイム、思考の形式自体を変更するというのは。そこに本質的自発性が必要不可欠である。純粋に疑問を追求する自発性がなければ、自己が教え込まれた思考形式自体にまで言及することができないからである。
どんなに教えられたことを忠実正確にこなすこと可能であったとしても、それが他人からの評価報酬を根本動機とした反射的行動「結果」としての能力であれば、教えられた思考形式自体は自律的には変更することができない。すなはち、それは何ら新しい考え自体が発揮されることがないのである。
「議論は無議論、無議論は議論。」などとツイッターに書き込んで議論自体を回避することしか意識にない者が教育関係の審議官とかやっているのが実情である。私は神ではないから、この世のバカのいちいちをあげつらっている程暇ではない。私一人がこの世の間違いの全てを正すことなど出来るわけがないのである。多くのヒトは、特定の誰か天才が、この世の間違いの全てをどうにかしてくれるものであると勝手に勘違いしているようだ。
天才だとか英雄といった、所謂他人任せの観念自体が権威への盲目性というものを作り出していることを全く理解していないのであろう。
呆れて説明する気も失せる。自分で自律的に判断して、自分から間違いを見つけるという気概が全く見受けられない。そんなことだからエセ脳科学者達に丸め込まれるのである。
ペテン師が他人の顔色を窺うのは、他人の為ではなく、自分の利益のためである。
ナチス政権下において、他人の顔色を無視してナチスに反対するのは公益倫理判断である。
個人主義だの集団主義といった議論の全ては、傾向性や習性といった無意識的行動「結果」を論じているだけであり。これらの議論からは本質的意識に基づく公益倫理判断についての結論は導くことができない。公益倫理判断というものは無意識行動傾向からは偶発性以外に導き出されることはないからである。
無意識的な傾向性から偶発的な公益性を抽出しても、そこには意識的に選択された目的がなく、常に「結果。」しか論ずることが出来ない。
「社会的」とか「社交的」といった集団主義自体は公益倫理判断とは無関係である。アイヒマン実験における権威への服従などは、服従という集団主義意識が導き出す行動結果であり。権威に対する迎合性という習性が公益倫理判断を撹乱することを証明しているのである。
個人主義的な人間が公益倫理判断を自律的にできるとは限らないのと同様に、集団主義的な人間でもそれは同じである。
本質的意識とは、こうした無意識的な傾向性に関わらず、傾向性とは無関係に「自律」的に行動選択するためのものであり。どんなに無意識的傾向性を論じても、そこから本質的意識についての議論には到達することができない。従って、傾向性に関わる議論からは「ヒトが人間である所以。」である公益倫理的な自律判断に関わる議論は全くすることができない。
そもそも研究者自体が公益倫理的な自律判断の全ては自分の置かれた環境に依存すると信じ込んでいるような、自律のない人間である場合。もはや議論自体を回避することしか意識は働かないであろう。環境に依存せず、常に自律的判断を行うことができない人間が、他の人の自律的判断力の存在自体を信用することなどできないからである。
他人の顔色をうかがうという行動選択は、公益倫理的な自律判断とは無関係で。あくまで目先の多数他人からの評価に対する利己的感情に由来する無意識的な情動行動に過ぎない。そのため、集団主義的な集団というのは、自己の所属する集団以外に対する普遍的な公益倫理性には意識が働くとは限らず。自分の所属する集団に対する利益にしか意識が働かない場合があるという点において、自己の所属する集団への利益しか意識を促さない傾向があり、一面的には公益倫理行動選択をする場合があるとしても、その行動選択傾向に普遍的な公益倫理性は伴うわけではなく、結果として「自己が特定集団に埋没した状態」における「利己。」的行動選択に過ぎないのである。超自我的な恐怖心に由来する無意識的な行動選択は、公益倫理的な自律判断とは無関係である。
本質的意識に由来する公益倫理的な自律判断というものは、如何なる傾向性、習性、或は個体が置かれた状況や環境に関わらず。より確実な判断を行うための「意思。」に基づくものである。無意識的な傾向性や習性の枚挙を根拠とする不確実な議論からは、こうした確実性の向上に関する結論は導き出すことが構造原理的に不可能であり。不毛である。
心理学や生物学における傾向性や習性についての議論からは、「ヒトが人間である所以。」について議論することが最初から出来ないのである。傾向性や習性というものからは、生物種としての「ヒト」を傍観することしかできず、「人間とは。」何か、或は「心。」とは何かを議論することが原理的にできない。それは科学的な「客観性」ではなく、単なる思考停止による「他人事扱い。」としての「傍観」でしかないのである。それを「メタ認知。」などと称して正当化するのは赦されるべきものではない。科学者というのは、科学者である前に人間でなければならないからである。人間として出来損ないであるにも関わらず科学者としての知見ばかりを優先していれば、原発関連の研究者と全く同じで、高学歴なキチガイに過ぎない。
重要なのは傾向性や習性といった無意識的な情動行動の「結果」ではなく。そうした傾向性や習性の枚挙による一面的「立証。」という思考形式、パラダイム自体の転換である。
ところが本質的意識の働かない無意識的な人間、研究者やマスコミというのは。こうしたパラダイムシフトに対して異常なまでに拒絶反応を示す傾向がある。変化するのは外的な知識だけで、自分の思考形式自体に間違いが存在していたことは認識したくないからである。
自分が教え込まれた思考の「形式」すなはち「パタン」を無意識的に盲目的に信じ込んでいることが気分的に安心であり。感情のおもむくままに思考「パタン」にしがみついて離れないのである。
これは精神的怠惰であり、怠慢であるとすら当人には認識することができないようである。カルト宗教の信者達が必死になって事後正当化をするのと同様、当人的には努力しているつもりであるからだ。
感情的にどんなに必死になっても、論理的思考が伴わない気分的必死というのは精神論的な「努力。」であって、事実上思考自体は怠惰怠慢なのである。
何か一つのことを成し遂げる際には、それなりの外見上の努力は必要である。しかし、他人とは異なる個性を発揮するまでの努力には、他人とは異なる集中力が必要であり。その集中力を促すのは多数他人からの要請に由来する環境依存的動機ではなく、本質的な自発性、純粋行為に由来する集中力が必要なのである。
現在の生物学、心理学、脳科学の研究者の多くは、こうした本質的自発性が決定的に欠落しているために。目先の利益になるような、大衆迎合的な観念に基づいた人気取りにばかり走っており、本質的意識についての議論自体を忌避して、従来の思考形式、パラダイムを踏襲することにばかり意識が働いているのである。
これを意識狭窄と言わずして何と言うであろう。
本質的な自発性を伴わない精神論的努力というものは、固定観念的に教え込まれた思考形式から逃れることが構造的に困難である。実質不可能といってもよかろう。パラダイム自体を変更するためには他人の顔色をうかがっていてはできないからである。
思考形式自体を変更可能なのは、本質的な自発性による「思考。」であって、それを伴わない「思い。」がいくら強力にあっても無意味なのである。
「思い。」をぶちまけたいのであれば、科学や哲学ではなく、芸術に供する研究を行えばよいのである。芸術であれば結論自体が存在しないのであるから、最初から「意味」も「価値」も存在しない。芸術における成功とは、社会的な成功、物質的充足と同義であるから。公益倫理的自律判断もしなくて良い。
しかし、親や教師の顔色をうかがって身に付けた学力能力を事後正当化するために、本質的には自発性のない科学研究に携わることに「陥る。」ために、問題意識のない科学者が増えることになるのである。
成績という抽象化された「エサ」で釣る形式の学力向上手段など、社会的な公益倫理性に反するものなのである。学力が高いだけのバカを大量生産しておいて、世の中が良くならないのは当たり前の話である。
パラダイム、思考の形式自体を変更するというのは。そこに本質的自発性が必要不可欠である。純粋に疑問を追求する自発性がなければ、自己が教え込まれた思考形式自体にまで言及することができないからである。
どんなに教えられたことを忠実正確にこなすこと可能であったとしても、それが他人からの評価報酬を根本動機とした反射的行動「結果」としての能力であれば、教えられた思考形式自体は自律的には変更することができない。すなはち、それは何ら新しい考え自体が発揮されることがないのである。
「議論は無議論、無議論は議論。」などとツイッターに書き込んで議論自体を回避することしか意識にない者が教育関係の審議官とかやっているのが実情である。私は神ではないから、この世のバカのいちいちをあげつらっている程暇ではない。私一人がこの世の間違いの全てを正すことなど出来るわけがないのである。多くのヒトは、特定の誰か天才が、この世の間違いの全てをどうにかしてくれるものであると勝手に勘違いしているようだ。
天才だとか英雄といった、所謂他人任せの観念自体が権威への盲目性というものを作り出していることを全く理解していないのであろう。
呆れて説明する気も失せる。自分で自律的に判断して、自分から間違いを見つけるという気概が全く見受けられない。そんなことだからエセ脳科学者達に丸め込まれるのである。
NHKの「チャレンジホビー。」見ながら書き。
安めぐみちゃんって脱ぐと凄い体してるけど、服着ていると細身。
山田ルイ53世(?)男爵の後ろ、なんだか姿引き締まってきたような。
また雨だって、この番組雨とか天候不順多過ぎ。男爵が雨男だそうだ。山って天候が変わりやすいしね。
狭霧台と書いて「さぎりだい。」と読むらしい。
雨で自転車乗ってると、眼鏡が濡れて前が見えなくなって怖い。
あと、靴の中がグッチャグチャになるのが気持ち悪い。他はあんまり不快ではないのだけど。靴は耐えがたい。
昔奥多摩まで自転車で行ったことあるけど、上りはキツイ。
男爵途中脱落。でも安めぐみ凄いな。ゆっくりだけど粘り強い人だね。
男爵左膝に包帯。来週走れんのか。
安めぐみちゃんって脱ぐと凄い体してるけど、服着ていると細身。
山田ルイ53世(?)男爵の後ろ、なんだか姿引き締まってきたような。
また雨だって、この番組雨とか天候不順多過ぎ。男爵が雨男だそうだ。山って天候が変わりやすいしね。
狭霧台と書いて「さぎりだい。」と読むらしい。
雨で自転車乗ってると、眼鏡が濡れて前が見えなくなって怖い。
あと、靴の中がグッチャグチャになるのが気持ち悪い。他はあんまり不快ではないのだけど。靴は耐えがたい。
昔奥多摩まで自転車で行ったことあるけど、上りはキツイ。
男爵途中脱落。でも安めぐみ凄いな。ゆっくりだけど粘り強い人だね。
男爵左膝に包帯。来週走れんのか。
省エネ関連で江戸風鈴が売上を伸ばしているらしい。
江戸ガラス風鈴というのは、なぜか響きが悪くて耳障り。ちっとも良い音じゃない。
南部鉄風鈴は響きが良くて涼しげなんだけど、見た目に騙されてガラス風鈴に人気が集まってしまう。
頼むから、窓の外に吊り下げたまま外出するのはうるさいのでやめてほしい。以前、台風の夜に向かいの家の2階の窓に江戸ガラス風鈴がカラコロカラコロ一晩中鳴っていて、うるさくて眠れなかった。あまりにうるさいので文句言いに行ったら、旅行で何日も空けていたらしくて、全く応答がありませんでした。
あまりにうるさいのでエアガンで撃ち抜こうかと思いました。勘弁してください。
風鈴というのは窓の内側に付けて、窓を開けた時に楽しむものなのです。
江戸ガラス風鈴というのは、なぜか響きが悪くて耳障り。ちっとも良い音じゃない。
南部鉄風鈴は響きが良くて涼しげなんだけど、見た目に騙されてガラス風鈴に人気が集まってしまう。
頼むから、窓の外に吊り下げたまま外出するのはうるさいのでやめてほしい。以前、台風の夜に向かいの家の2階の窓に江戸ガラス風鈴がカラコロカラコロ一晩中鳴っていて、うるさくて眠れなかった。あまりにうるさいので文句言いに行ったら、旅行で何日も空けていたらしくて、全く応答がありませんでした。
あまりにうるさいのでエアガンで撃ち抜こうかと思いました。勘弁してください。
風鈴というのは窓の内側に付けて、窓を開けた時に楽しむものなのです。
下りのエスカレーターって電気で動かす必要性がないのではないか。
そもそも乗る人の位置エネルギーを利用すれば、発電しながらエスカレーターとして機能するのではないだろうか。
無電力エスカレーターというものを考えると、何人の人が乗っても速度が一定以下であるための機構が必要であろう。
基本的に乗る人の位置エネルギーを用いて発電機を回せば、速度を一定に保つための等速機構を働かせることは簡単に思える。
普通エスカレーターというのは上りと下りが全く同じ機構で作られているが。二つのエスカレーターが全く並列に並んでいる場合には、逆転させる必要性が全く存在しないわけだから、同じ機構ということ自体、なんか工夫が足りないのではないか
もうひとつ。
テレ朝の番組「ビフォーアフター。」の中で、キッチンの横に折り畳み式の小さなテーブルを付けていたのだが。ツッカエ棒となる板に横からの応力がかかることしか想定せずに設計されていた。
あの状態だと、テーブル部分をわずかに上に持ち上げただけで簡単に折り畳まれてしまって危険である。何らかのツッカエ棒を固定する機構を追加するべきだろう。
そもそも乗る人の位置エネルギーを利用すれば、発電しながらエスカレーターとして機能するのではないだろうか。
無電力エスカレーターというものを考えると、何人の人が乗っても速度が一定以下であるための機構が必要であろう。
基本的に乗る人の位置エネルギーを用いて発電機を回せば、速度を一定に保つための等速機構を働かせることは簡単に思える。
普通エスカレーターというのは上りと下りが全く同じ機構で作られているが。二つのエスカレーターが全く並列に並んでいる場合には、逆転させる必要性が全く存在しないわけだから、同じ機構ということ自体、なんか工夫が足りないのではないか
もうひとつ。
テレ朝の番組「ビフォーアフター。」の中で、キッチンの横に折り畳み式の小さなテーブルを付けていたのだが。ツッカエ棒となる板に横からの応力がかかることしか想定せずに設計されていた。
あの状態だと、テーブル部分をわずかに上に持ち上げただけで簡単に折り畳まれてしまって危険である。何らかのツッカエ棒を固定する機構を追加するべきだろう。
スターリングエンジンでは、内部のガスを高圧ヘリウムにすると効率が良くなるらしいのだけど。高圧の軽い気体を密閉するのが難しいらしい。
いっそのことクランクシャフトから発電機まで高圧ヘリウムで満たしてしまえば良いのではないだろうか。電気出力だけを密閉するのは簡単そうである。
特許とかあるのかな。
追記:パナソニックが作ったスターリングエンジンが発電機ごと密閉されているので、既に実用化されているみたい。
あと、ヘリウムガス自体が枯渇するとかいう話もあった。ガスクロマトグラフとかだとヘリウムを使い捨てするらしくて、水素に置き換えるだとか書いてあった。
いっそのことクランクシャフトから発電機まで高圧ヘリウムで満たしてしまえば良いのではないだろうか。電気出力だけを密閉するのは簡単そうである。
特許とかあるのかな。
追記:パナソニックが作ったスターリングエンジンが発電機ごと密閉されているので、既に実用化されているみたい。
あと、ヘリウムガス自体が枯渇するとかいう話もあった。ガスクロマトグラフとかだとヘリウムを使い捨てするらしくて、水素に置き換えるだとか書いてあった。
自然エネルギーは安定供給が難しい。それは短期的には事実なんだけど、長期的に見ると原子力は廃棄物の問題を抱え、火力は温室効果ガスの問題から逃れることができない。
自然エネルギーを推進するという方針自体は、もはや選択の余地など初めからない。
なにしろ原子力というのは暴走すると取り返しがつかないので、地震大国日本においてはリスクが大きすぎる。
原子力推進派の人間の主張として、「自然が相手だから、供給が不安定。」だと言い張る。そもそも現在の供給不安定を招いた原因こそが原子力依存の高さによるものであり。なをかつ津波という自然災害によって引き起こされたものであるから。「自然エネルギーは不安定。」という理屈は成立していないのである。
なにより懸念されるのは、原子力事故による放射能汚染である。
供給の安定云々を論ずる前に、なにより危険と引き換えに経済性を優先するような屁理屈は語るに足らない。
地熱発電所もそれなりに危険で死者を出したこともあるのだが、暴走しても放射能は撒き散らさない。天変地異に由来する供給の不安定を云々するよりも、暴走の際のリスクを考えれば自然エネルギーを優先するという方針自体に選択の余地など最初からない。
浜岡原発では、非常停止ではないにも関わらず、一次冷却水に海水が混入したという。
原発はダメですね。話になりません。
目先の経済性を論ずるとき、必ず「所得の低い人に負担がかかる。」という話が出てくるのだが。危険と引き換えに安価なエネルギーを欲しがる人が一体どれだけいるんでしょう。
これアンケートとりたいね。そういうサイトってあるのかな。
原発で安価な電力を大量に売り捌いて儲けたのが東電である。オール電化だとか調子の良い話を持ち出して電気の大量販売を推進することで儲けたってこと。
「エネルギーをバランス良く、上手に使うことで環境と快適な生活を両立できる。」とか言ってたけど。原発を暴走させといて「上手。」に使ったとでも言い張るつもりかね。
放射線の心配しながら「快適な生活。」云々って意味あるかね。それはどこが「快適。」なんでしょうね。
本当の「快適。」って、精神的な安らかさがなければ成立しないものであって、目先の経済性を追求して「快適。」もすったくれもないだろうに。
本当の「快適。」って必ずしも個人的な身体、物質的な快適だけで成立するようなものではなくて。過剰に苦しんでいる他人がいないような安定した社会にこそ、本当の精神的「快適。」というものが成立する。
隣の家で子供が虐待されていたら飯が旨くないんですよ。パレスチナで子供が殺されている映像見て飯なんて食えないでしょ。食欲なんてわかないんですよ。だから普段、そういう事柄、事実のことは意識から外して、目の前の飯だけに集中して食うから美味いとも思える。
「地球の裏側の人間が何考えているかなんぞ、絶対にわからない。」って石破茂が言ってたけど。おいらは石破のこうした意識狭窄な思考自体が理解できないね。石破は自分のことを「実務屋。」だとか言ってたけど、これは要するに目先の現状に迎合しているだけの意識狭窄な役人の屁理屈に過ぎない。
国会議員というのは、いわば理想とか目的といったものを掲げて方針を打ち出すのが仕事なのに。「実務。」と称して現状に迎合するだけのバカ役人であるなら国会議員としての素養が初めからなかったってことなんだよね。
石油危機とか温室効果ガス抑制だとか、そういったその場限りの対応ばっかり「実務。」的にしてきたからこんなことになってしまったんだよね。
ドイツとかオランダとか、今度はイギリスも自然エネルギー中心にシフトすることを宣言したけど。国会議員が行うべきことというのは100年先の国の在り方を考えて方針を決めるべき。役人とか経済界とかの顔色ばかりを窺って、そうした長期的な視野、視点に基づく思考、意識が日本の国会議員には欠落している。
そもそも原発の電力が安いとか言っても、今の政府は借金だらけじゃんか。それなら今までの「快適さ。」なんてものの方が実際には虚構の快適さだったってこと。本当は享受されてはいけないバブリーな快適さを追求してきたんだから、それは要らないって潔く棄てることが必要。その決断をするのが国会議員の仕事だったはず。それを誰もやらないから政治離れが起こる。
目先の経済性とか快適さばっかり追求することを野放しにしてきたから、長期的な信頼性を失うことになる。
自然エネルギーを推進するという方針自体は、もはや選択の余地など初めからない。
なにしろ原子力というのは暴走すると取り返しがつかないので、地震大国日本においてはリスクが大きすぎる。
原子力推進派の人間の主張として、「自然が相手だから、供給が不安定。」だと言い張る。そもそも現在の供給不安定を招いた原因こそが原子力依存の高さによるものであり。なをかつ津波という自然災害によって引き起こされたものであるから。「自然エネルギーは不安定。」という理屈は成立していないのである。
なにより懸念されるのは、原子力事故による放射能汚染である。
供給の安定云々を論ずる前に、なにより危険と引き換えに経済性を優先するような屁理屈は語るに足らない。
地熱発電所もそれなりに危険で死者を出したこともあるのだが、暴走しても放射能は撒き散らさない。天変地異に由来する供給の不安定を云々するよりも、暴走の際のリスクを考えれば自然エネルギーを優先するという方針自体に選択の余地など最初からない。
浜岡原発では、非常停止ではないにも関わらず、一次冷却水に海水が混入したという。
原発はダメですね。話になりません。
目先の経済性を論ずるとき、必ず「所得の低い人に負担がかかる。」という話が出てくるのだが。危険と引き換えに安価なエネルギーを欲しがる人が一体どれだけいるんでしょう。
これアンケートとりたいね。そういうサイトってあるのかな。
原発で安価な電力を大量に売り捌いて儲けたのが東電である。オール電化だとか調子の良い話を持ち出して電気の大量販売を推進することで儲けたってこと。
「エネルギーをバランス良く、上手に使うことで環境と快適な生活を両立できる。」とか言ってたけど。原発を暴走させといて「上手。」に使ったとでも言い張るつもりかね。
放射線の心配しながら「快適な生活。」云々って意味あるかね。それはどこが「快適。」なんでしょうね。
本当の「快適。」って、精神的な安らかさがなければ成立しないものであって、目先の経済性を追求して「快適。」もすったくれもないだろうに。
本当の「快適。」って必ずしも個人的な身体、物質的な快適だけで成立するようなものではなくて。過剰に苦しんでいる他人がいないような安定した社会にこそ、本当の精神的「快適。」というものが成立する。
隣の家で子供が虐待されていたら飯が旨くないんですよ。パレスチナで子供が殺されている映像見て飯なんて食えないでしょ。食欲なんてわかないんですよ。だから普段、そういう事柄、事実のことは意識から外して、目の前の飯だけに集中して食うから美味いとも思える。
「地球の裏側の人間が何考えているかなんぞ、絶対にわからない。」って石破茂が言ってたけど。おいらは石破のこうした意識狭窄な思考自体が理解できないね。石破は自分のことを「実務屋。」だとか言ってたけど、これは要するに目先の現状に迎合しているだけの意識狭窄な役人の屁理屈に過ぎない。
国会議員というのは、いわば理想とか目的といったものを掲げて方針を打ち出すのが仕事なのに。「実務。」と称して現状に迎合するだけのバカ役人であるなら国会議員としての素養が初めからなかったってことなんだよね。
石油危機とか温室効果ガス抑制だとか、そういったその場限りの対応ばっかり「実務。」的にしてきたからこんなことになってしまったんだよね。
ドイツとかオランダとか、今度はイギリスも自然エネルギー中心にシフトすることを宣言したけど。国会議員が行うべきことというのは100年先の国の在り方を考えて方針を決めるべき。役人とか経済界とかの顔色ばかりを窺って、そうした長期的な視野、視点に基づく思考、意識が日本の国会議員には欠落している。
そもそも原発の電力が安いとか言っても、今の政府は借金だらけじゃんか。それなら今までの「快適さ。」なんてものの方が実際には虚構の快適さだったってこと。本当は享受されてはいけないバブリーな快適さを追求してきたんだから、それは要らないって潔く棄てることが必要。その決断をするのが国会議員の仕事だったはず。それを誰もやらないから政治離れが起こる。
目先の経済性とか快適さばっかり追求することを野放しにしてきたから、長期的な信頼性を失うことになる。