書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

中秋の前日

2020年09月30日 19時25分46秒 | 写真

 

トンボは1800万画素へのリンクなのでクリック注意

 

Ende;

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愚鈍は罪である

2020年09月30日 10時26分13秒 | 意識論関連

カントは子供じみた好奇心や探究心を理性(科学)だと定義しているが 好奇心や探究心というのは欲望であって理性ではない

好奇心や探究心は「答え」を求めるが 客観的論理検証性という理性が伴わなければ科学的真理にはならない

単なる好奇心や探究心だけでは 宗教やイデオロギーといった絶対的な「答え」に到達して客観的論理検証性を失う場合もある

本当の純粋理性とは客観的論理検証性であって これは決して「答え」を必要以上に求めたりするものではなく わからないことはわからないと保留するものでもある

大脳辺縁系を損傷した人の場合 他人から選択を求められた場合に「わからない」と言うだけであって 決して子供じみた「なぜ?」を追求するわけではなく 現状の「哲学者」達が「大脳辺縁系を損傷した人と子供じみた好奇心は一緒だ」などと言い張るのは 論理客観的に物事を検証することが苦手な文科系「哲学者」達の頭の悪さに起因する著しい誤謬か 若しくはカントの純粋理性批判を鵜呑みにしていた自分達の頭の悪さを隠蔽するためのはぐらかしや嘘に過ぎない

 ◇

ヒトの多くは論理客観的に検証することが嫌いで 主観に基づいた気分的な満足や安心感さえ得られれば それを100%の「答え」だと信じ込み 疑うことをしなくなる習性がある

宗教やイデオロギーはその内部で100%の「答え」を提供してくれるので 主観的満足や安心を得られるため 論理客観的に物事を考えることが嫌いな大衆から人気を得られるのである

一度自分が信じ込んだ「答え」を疑う自己客観性を働かせる意欲を失い 事後正当化のための根拠の乏しい屁理屈を陳列し ヒトは盲目性を発揮するようになる

カントの純粋理性批判を読んだヒトの大半は 実際には何も論理的には理解などしていないにも関わらず 観念的に「純粋理性は悪」という屁理屈に基づき 実証不能の謎の「叡智界」というファンタジー妄想に酔いしれて満足することで論理客観性を簡単に失い 何が真理(本当のこと)なのかを分別することをしなくなるのである

カントの言う「叡智界」というのは カントが言うには「絶対に知覚できない」のだという

では「なぜ知覚できないのか」についての理由も説明されなければ 「知覚できないのになぜ存在すると言えるのか」も「知覚できないものがどうして発揮されるのか」についても理由を説明することはない

何せ「理性を超越」していることになっているからである

実際には「理性を逸脱」して実証不能の観念に囚われ酔いしれることで盲目なっているだけであって 故に多くのヒトはその内容に合理性がないことには誰も言及しなくなるのである

カントの純粋理性批判の結論の中には 天体の運行に見られる秩序とヒトの相互関係を結びつけるという 論理客観的には全く意味不明なお伽話が出てきてしまうのだが

何せ「理性は悪」という屁理屈に基づいているために 論理不明なお伽話であるにも関わらず 主観的満足や安心に酔いしれることによって 多くのヒトはその内容を理論的に検証することを全くしなくなるのである

このようにヒトという種の生物は 簡単に実証不能の観念に囚われ 100%の「答え」に満足して疑うことを一切しなくなるという欠陥(頭の悪さ)が先天的に存在しているからこそ ファンタジーと哲学の区別すらできなくなるのである

それは正に子供じみた好奇心や探究心だけが行き着いた「答え」であって カントの純粋理性批判を鵜呑みにしている事自体が因果律に基づいた盲目性や頭の悪さに他ならない

カントの純粋理性批判というのは その内容が非常に冗長であるため 本当は誰も論理的理解などしていないのであって そもそも論理的に検証すれば「間違いと決めつけの陳列に過ぎないファンタジー妄想」でしかない

養老孟司の著作や振り込め詐欺の電話の内容と同じように 冗長な話をされるとヒトの多くは内容を論理的には何ら把握していないにも関わらず 観念的に「わかった」ような感覚(主観)だけで鵜呑みにしてしまう先天的習性が存在するのである

感覚が促す錯覚を 錯覚だと認識するためには論理客観性が必要不可欠である

「大脳辺縁系を損傷した人に選択を求めても何も決められない」ことと 「子供じみた答えの追求性」を一緒だと哲学権威(と世間的にみなされている者)が言い張れば 多くのヒト(ノーベル賞受賞者の野依良治も含めて)は鵜呑みにしてしまうのである

原因は簡単である 主観的満足によって自発的論理検証性が機能しなくなるからである

理論的には簡単だが 何せヒトという種の生物の脳は論理客観的検証を優先するようにはできておらず 気分感情という主観さえ満足してしまえば簡単に論理検証性を喪失するという先天的欠陥があるため 多くのヒトは論理客観的根拠のない「答え」に酔いしれ囚われ盲目性を発揮しバカに陥るのである

 ◇

ヒトは一度信じ込んだ事柄に対して 他人から「間違いだ」と指摘されると 自分が間違ったことを信じ込んでしまっていたことを認めなければならず これが気分的に「嫌」なために 事後正当化の屁理屈をでっちあげて現実逃避してはぐらかす習性がある

認知行動療法において 「なぜ そう思うのですか?」という問いかけを繰り返すことで間違いを自覚させる手法が採られるのは 頭ごなしに間違いを指摘されることが主観的に嫌なために拒絶してしまうために あたかも「自分自身で気づいた」かのような錯覚を促すための手法である

振り込め詐欺に騙されている最中のヒトに対し 「それは詐欺ではないですか?」と問いかけても大抵の場合は拒絶反応を示し 最悪の場合「騙されていても良いから振り込ませろ」などと言い出すことまであるという

これはカルト宗教の信者達に対して「あなたの信じている教祖は頭がおかしい」と言うと猛烈な拒絶反応を示すのと同じメカニズムである

認知的不協和理論というのは こうしたヒトの先天的習性に起因する盲目性を論証したものであり 気分が良くなる内容でさえあれば盲目的に信じ込み しかも一度信じ込んだ内容には疑うこと(客観的に検証する)をしなくなることで洗脳状態から脱することができなくなる習性が存在していることを説明しているのである

 ◇

多くのヒトにとっては カントの純粋理性批判というのは「近代哲学の最高峰」だと信じ込まれているのかも知れないが 論理客観的に検証すれば実証不能のファンタジー妄想でしかないのである

論理客観的根拠の伴わない話には安全性が担保されない

安全性の担保されない話に倫理も人間性もヘッタクレもありはしないのである

倫理や人間性に言及できない話が哲学として有効性が存在する保証はない

論理客観的に理解できずに「わからない」のであれば それは「わからない」として保留していれば科学や哲学を逸脱することはないが 「わからないけど 主観的に好きだから信じたい」とか「主観的に嫌だから信じたくない」というのは哲学ではなくオカルトである可能性が非常に高い

どんなに主観的に安心満足していても むしろ主観的安心満足こそが客観的安全性を著しく損なう大きな要因であることを自覚すべきである

ヒトという種の生物でさえあれば 人間性が常に発揮される保証があるわけではない

ヒトが論理客観性を発揮するためには 自己の主観である情動を検証する客観性が必要不可欠である

自己も含めた「ヒト」とはどのようなものなのかを理解認識するのは理性であって悟性でも純粋統覚でも叡智でも主観でもない

野依良治がどのような経緯で「主観が大事」などと言い出したのか詳細は知らないが 京大学長山極寿一などの生物学者や西研などの哲学権威も含めて老害と言わざるを得ない

何も論理的に理解していないボケ老人が京大学長だったり理研理事を務めているのは社会に対する詐欺ペテンも甚だしく この状態を放置している大学や理研の職員も同罪である

 

 

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悠久不変という安心幻想

2020年09月30日 10時20分31秒 | 意識論関連

天体の動きというものが悠久の太古から秩序立った不変のものだと「見える」のは

精々100年程度しか生きられないヒトの主観的感覚によるたった数千年程度の知識に基づく法則性に過ぎない

それは遺伝的な生物進化によって環境調和が保たれていることと同様 過去に膨大な淘汰圧力が働いた結果であり また 決して永久不変の絶対的秩序の保証が存在するわけではない

主観的に「見える」からといって それが論理科学的に真理であることの証明には一切ならない

実際には太陽系全体の重心は ほとんどの場合太陽の中にすらないという

ヒトは生物進化における過程の中で 極めて極く最近の出来事しか「見て」おらず 化石などの発掘による知見も 所詮は極めて断片的証拠にしかならない

全体から見て極めて短い期間の結果だけを根拠に 生物進化や天体の動きに秩序や永遠性が存在すると「思う」のは 単なる主観的感覚にすぎず 科学的論証には全くならない

ましてや見えている「結果」だけを抽出してきて「目的」だと言い張るのは因果律の事後正当化に他ならず それはまるで虐待されて育った人が自分の子供にも虐待を繰り返すための屁理屈のようなものである

ダーウィンの進化論に対して 当時多くがヒトがサルから進化したことを拒絶したのも ヒトが神の産物でさえあれば人間性を発揮できるものだという根拠のない妄想に基づくものである

ルーツがどうあれ 誰も自らの意思でこの世に産まれてきたわけではない以上 「これからどう行動選択するか」とは無関係なのである

実証不能の神の産物でさえあれば人間性や倫理を常に発揮できるという根拠は全くなく

サルから進化したからといって何かが変わるわけでもない

ヒトはヒトであって それ以上でもそれ以下でもなく 生き続ける上において最も優先されるべきものとしての「目的」とは 統合的に普遍性を持った価値を選び取るための論理客観性にのみ存在するのである

遺伝的形質や習性や生育環境に依存した結果的行動バイアスは意識でも意思でも目的でも人間性や倫理の論証にもならない

目先の気分感情に左右されずに統合的見地から 最も優先されるべき自己存在意義としての人間性や倫理が何なのかを区別できなければ 目的も意識もヘッタクレもあったものではないのである

他人に人間性や倫理を求める以上 自らも人間性や倫理に基づいた行動選択をしなければ 自己存在の根拠をも失うのである

「俺が悪いことをするのは 目先の多数他人が悪いからだ」という主張は 社会環境の奴隷であって本質的主体性に基づいた自己選択の放棄であり 故に自律的な社会的責任判断選択を放棄するバカの主張である

他人からの評価や報酬を目的としていれば 自律的な社会的責任判断選択は後回しになるし

生存を目的とすれば他人に危害が加わるような選択であっても正当化できるようにもなる

 

原発の津波に対する脆弱性を放置しなければ生活の安定が得られないような状況が作り出されるのは 東電社内における多数が組織の目先の利益追求に同調迎合したからであり

特定の個人だけが犠牲になるような状況を作り出すのは 大多数の無責任が原因である

誰も自分だけが犠牲になりたいわけではない 本当なら犠牲者が出ないよう全員が自律的な社会的責任判断選択をしていれば 特定個人だけが犠牲になるような状況には陥らないのである

ところがヒトというのは多数派に迎合同調していないと不安になり また 多数派に同調さえしておけば「正常」だと勘違いする習性もあるため 多くのヒトは自律的な社会的責任判断選択をしなくなるように陥るのである

上司などの権威に服従してさえおけば「自律的な社会的責任判断選択を自分がしなくても良い」という「感覚(錯覚)」によって 無責任な組織は出来上がるのである

こうした組織腐敗に陥らないために必要なのは 組織を構成する個人の自律的な社会的責任判断以外にない

組織腐敗というもの 「組織体質」といったものの原因は全て組織を構成する個人の無意識な服従迎合性に因る無責任性が作り出すものであって 個人を超越した自分達以外の何か原因不明な謎の「風土」だの「空気」による力学作用が働いているわけではない

ヒトは多数が無責任である場合には 責任が多数によって薄まると勘違い(錯覚)する習性がある

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」

怖いかどうかと安全かどうかは関係がない

「怖い」のは主観であって 客観的安全性の論証とは何の関係もないのである

多くのヒトがカントの純粋理性批判を盲目的に信奉していれば カントの純粋理性批判が「理論として正しいもの」として永遠に扱われ続けるものだと安心して「思う」のかも知れないが

その主観には何の保証も根拠もないのである

 

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ミツビシインフラテックの術中にまんまと引っかかってみるなど

2020年09月30日 10時10分44秒 | 写真

ヒシタンクを見つける度に写真を撮らないといられない体質になってしまった

 

もくもく雲

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めんどくさいので一括アップロード

2020年09月30日 10時07分14秒 | 意識論関連

目的とは何か

カラスが道路上にクルミを置いて 自動車に轢かせて中身を食べるという行動を採ることがあります

「クルミの殻を割って中身を食べる」という目的のために 論理的に考えて「通りすがりの自動車に轢かせている」わけですね

 

詐欺師が他人を騙す時にも「相手を騙して金をまきあげる」という目的のために論理的工夫をするわけです

詐欺師が他人を騙す時には想像力や論理的工夫を駆使していることを根拠に「理性には利己的利益追求の側面があります」などと言い出すバカが後を絶ちませんが これはとんでもない大間違いです

詐欺師の目的は「相手を騙して金をまきあげる」ことであって この目的にこそ利己性の根源があるのであって 理性や想像力といったものは目的を達成するための道具でしかないのです

航空機や原発などの事故の再発防止といった社会安全性の向上を目的とした調査のためには 論理客観的検証が欠かすことができないものであって 目的が社会安全性という公益的目的のためには理性というものは極めて重要なものなのであり 医薬品の安全性検証や 刑事事件の捜査においても科学的検証(理性)は最も重要なものであって 絶対に主観が混じり込んでしまってはならないのです

理性という道具を 何に使うか その選択にこそ人間性や倫理というものが関わっているのであって 理性そのものというのは批判の対象にはならないのです

 

何を目的として行動するか その選択における人間性や倫理にも理性が必要であり 目先の感情や欲望に囚われてしまうことによって人間性を欠いた選択に陥るのです

人間性を伴う選択とは 社会安全性や持続可能性に適する選択であって これは単なる欲望や感情の強度程度で自動的に決定するようなものではありません

ショーペンハウアーは自由意思のパラドクスと称して「欲望そのものを欲することはできない」と言いましたが これは本当はパラドクスではなく 単なる事実(結果)を述べたに過ぎないのです

一人のヒトの中には様々な欲望があって その中からどの欲望を優先するのかという優先順位をつける際に理性が必要となるのであって 目先の欲望や感情に左右されているだけならヒト以外の動物と何の違いもなくなるのです

振り込め詐欺師集団が どんなに高度な技術を獲得しても それは社会持続可能性や安全性に適するものではなく あくまで目先の利己的欲望に則った行動に過ぎないのです

欲望というものは自己選択不可能ですから 本当の意味での自己選択とは欲望に拠らない主体的選択でなければ自由意思でもなければ もはや目的でも意識でもありません

欲望というものは選択不可能なものであって これは本質的には意識ではなく無意識であり 先天的行動バイアスに過ぎないのです

しかし 様々な欲望の中から論理客観的に優先順位をつけ 社会持続可能性や安全性に適した行動を選択することによって人間としての目的意識としても働くようになるのです

社会持続可能性や安全性を優先しないヒトしかいなければ 社会は暴走破綻にしか陥りません それが「悪いこと」であることは 本当は誰もが理解可能なものなのですが 主観的感覚だけではこれが自覚できないものでもあります

自粛警察やアオリ運転という犯罪は やっている本人はそれが正義だと錯覚しているためにエスカレートするのであり 錯覚を錯覚だと認識すべき自己客観性という理性が働かないのが原因です

 

 


生存というのは結果であって これは目的であることの論証にはなりません

こんなことを言うと あたかも自殺を正当化推奨しているかのような「感覚」を持つかも知れませんが それこそが主観であって 論理客観的根拠を無視してしまう原因でもあるのです

自分の生存を優先してしまえば 他人に危害が及ぶとしても正当化が可能となってしまいます

他人に対しては自己犠牲を求めるくせに 自分の場合にだけは生存を優先するというのは合理性がありません

他人に危害を及ぼしてまで生き残ったところで そこに人間性が伴うわけではありません

どんなに「生き残った」としても 決して永遠に生きられるわけでもありませんから その「生存」には意味がないのです

たとえ医学や技術の進歩によって永遠に生きられるようになったとしても 社会持続可能性がなければ生き続けることは地獄でしかなく 何の意味もないのです

破綻した社会の中で ただ生存しているだけの存在であるならば それはもはやゴキブリと何が違うのでしょうか

生き続けるに価する社会あってこその自己存在であって 「どう生きるか」とは「どう死ぬか」と同義でもあるのです

 

従来の生物学のパラダイムでは 「生物の目的は生存」であるとみなしてきましたが これは論理科学的に間違っています

結果的に生存していたものを「生物」と分類しているだけであって 生存とは結果であって目的ではなく

既にある生存という結果は選択不可能ですが 選択可能なものでなければ目的であることの論証にはならないからです

選択不可能なものに目的も意識も意思も介在不可能なのです

ゴキブリやカマキリは共食いをしてでも生き残りますが こうした習性が「結果的に生存にとって有利だった」という結果でしかありません

ペンギンは他の親の子供に危害を加えます それは自分の子供だけを生き残らせるような利己的習性を持った個体への淘汰の結果だと言えます

しかし一方では イヌ科の動物の中には群れの中で共同保育を行う種もいますが こうした先天的習性というものは選択不可能なものであって あくまで環境依存的な結果に過ぎず 選択可能な目的とは無関係なのです

しかし ヒトは先天的本能習性だけでしか行動選択が出来ないわけではなく 理性によって社会のあり方に理想を持ち 主体的に目的を選択することが可能なのです

可能ではありますが 理性というのは先天的本能ではありませんから 主体的に働かせようとしなければ出来ないものでもあるのです

ヒトという種の生物は 数十億年の生物進化の過程において極めて新参者であって 理性を働かせられるようになってからは数万年程度しか経っていないのであり いわば「生物としても 人間として初心者」でもあるのです

しかも 理性を働かせられるようになることによって過酷な自然淘汰圧力から逃れることができるようになることにより 遺伝的進化は起こらなくなっているのでフリードリヒ:ニーチェの「ゾロアスター教における超人」というのは非科学的なオカルト妄想でしかありません

遺伝的進化というものは あくまで過酷な自然淘汰圧力によって受動的に「選択され」なければ起きないものであって 主体的に目的に則って「選択する」ことなどできないのです

戦争によってヒトは大量に死にますが 戦争という淘汰圧力によって生き残った個体に人間性が伴うというメカニズムなど立証不可能であり 死刑などの刑罰や断種政策によって人間性や倫理に則った先天的習性が強まるメカニズムも存在しません

そもそも先天的本能習性というのは選択不可能なものであって そこには目的も理想もスッタクレも最初から存在していないからです

ヒトとい種の生物は すぐに罰などの暴力によって解決だと勘違いします

これはテストステロンやアドレナリンの作用によってセロトニンによる副交感神経系を優位にし 気分的に安心するという先天的な脳の構造に依存するものであって 一種の錯覚に過ぎません

暴力は脳が気持ち良いんですよ だから映画やビデオゲームの多くは暴力的なものの方が人気がある

こうした脳の先天的性質というのは ヒトにまで進化する以前の膨大な過程において「過酷な自然環境下において生存にとって有利だった」ために残された本能習性なのです

ヒトという種の生物というのは あくまで生物進化の過程の中では極めて最近発生した新種に過ぎず 決して「人間になろう」として進化したわけではないのです

そもそも遺伝的進化というものは主体的に「何に進化しよう」といった選択が構造的に不可能なものであって たまたま偶然脳が肥大したことによって理性や主体性も発揮することが可能となることによって 人間性も発揮可能となったに過ぎないのです

とは言っても 人間性を発揮するために必要な理性というものは先天的本能ではありませんから あくまで主体的に「考え」なければ発揮されることはありません

人間としての高次の意識とは 自律的な論理検証性に基づいた主体的行動選択を指すのであって 主観的な気分感情によって先天的本能習性によって自動的に発揮されるような都合の良いものではないのです

医学的には自分の名前や年齢を答えられるかどうかで意識の有無を判定しますが これはあくまで医学臨床的な意識を判定しているだけであって 人間としての意識の有無の論拠には全くなりません

振り込め詐欺でもテロリストや通り魔でも 氏名や年齢くらい答えることはできるのであって それは人間としての意識の論証には全くならないのです

 

スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験や スタンフォード大学における監獄実験では 多くの「普通のヒト」が環境によっては残虐な行動を採るようになることを立証しました

ヒトの意識はその9割が無意識と言われており その1割が充分に働かなければ環境に左右される形で残虐行為も社会的に無責任な選択も平気で行えるようになるものなのです

「自分だけは絶対に大丈夫」そう思っているヒトが一番危険なのです

振り込め詐欺の被害者も 新型コロナウイルス感染者も その多くが「自分だけは大丈夫だと思っていた」と述べており 合理的な根拠のない過信によって気分的に安心していることと論理客観的根拠を伴う安全性の論証を履き違えているから こうした言動が出てくることになるのです

気分的な安心感を 論理客観的な安全性と履き違えてしまうのは ヒトの主観的感覚が促す一種の錯覚であり 錯覚を錯覚だと理解認識していれば錯覚に惑わされずに何が本当に安全なのかを見極めることができるのです

論理客観的安全性を認識できずに人間性も倫理もヘッタクレもありません

振り込め詐欺の被害者であっても 「孫を助けてあげたかった」ことが動機だとしても 結果的には反社会組織に資金提供しているに過ぎず それは社会安全性にとって害にしかならないのです

本人の主観的気分がどうあれ 論理客観的検証なくして人間性や倫理の論証にはならないのです

原発の津波に対する脆弱性を放置しなければ会社に居づらくなって家族を露頭に迷わせかねないからといって 原発の安全担当者としての社会的責務を放棄して良い理由にはならないのと同じことです

倫理というものは 原発や航空機の運用に限らず 全ての人に求められるものであって 特定の技術責任者だけに要求しておけば良いというようなものではないのです

ましてや温室効果ガス削減や 新型コロナウイルス感染拡大防止においては 個人の主体的行動選択というものが最も重要であり 政策だけでどうにかなるようなものではありません

都知事は「夜間の外出を控えて」と呼びかけましたが 主旨としては「夜中に居酒屋ハシゴして騒いでるんじゃねぇ!」と言いたいのであって 「じゃあ昼間なら良いんだな」という短絡的な話ではないのです

言われたことだけ守っておけば 状況が悪化しても責任逃れができると「思って」いるからこそ 無責任に昼間からカラオケ店で騒いで集団感染を引き起こしてしまうのです

人間性や倫理の根源とは 自律的な社会的責任判断選択にあります

気分だけで行動が決定していて 社会的責任を負わないのであれば それは人間性の欠如です

その場限りに多数大衆の人気取りでもしておけば 大衆の大半は人間性か何かだと「思う」のでしょうが それは「学力偏差値さえ高ければ知能が高い」という大衆観念に基づいた錯覚と同じで 論理的根拠を持たない実証不能の観念の振り回しでしかないのです

何が本当の人間性なのか 何が本当の知能なのか その区別が出来ない時点で ただの無責任な愚か者でしかありません

主観的に「人類の救済」だと どんなに強く「思って」いても むしろ論理的根拠のない観念(主観)だからこそ他人に多大な迷惑をかける原因となるのです

 

エマヌエル:カントはデイビッド:ヒュームによる「因果法則も習慣的印象に過ぎない」という言葉に「(主観的)衝撃を受けた」そうです

その結果が理性を超越(逸脱)した謎の「叡智界」などというオカルトファンタジーの展開であり

おそらくはオウム真理教の信者や幹部達も教祖の説法に「衝撃」を受けたことによって洗脳に陥ったのでしょう

マイケル:サンデルのトロッコ問題には倫理が含まれていないことに気づかなくなることも

マルクス:ガブリエルの言う「世界は存在しない」などという話も 多くの人は「衝撃」を受けることによって疑うことを忘れてしまうのでしょう

理論的根拠をすっ飛ばした突拍子もない話の方が 論理思考の苦手な大衆の脳に「衝撃」を与え 人気を得ることが可能なのでしょう

だからオカルトだのスピリチュアルだのが流行し ニーチェだのカントが哲学だと誰もが信じて疑わなくなる

そして それがどれだけ社会的に無責任であるかは 誰も考えることをしなくなる

当然 真理(真実)は闇に葬られ 安全性は蔑ろにされることになる

本当は見えていないのに 見えていると錯覚していれば 行き着く先は暴走と破綻だけです

 

自然科学の真理は100%ではありませんが だからといって論理科学的根拠のない0%の虚構と混同して良いわけではありません

科学的な真理というものは 実証不能の観念とは厳格に区別されなくてはならず

「生物や その遺伝的進化に目的や戦略が存在している」という話には論理的根拠がなく そもそもが「自然科学の真理」ですらないのです

生存というのは自己選択不可能な結果に過ぎず いつか必ず死ぬという結果も選択は不可能なものであって 主体的に選択することが出来ない以上 どんなに強く「死にたくない」と主観的に思ったところで論理客観的な「人間としての目的」の論証にはならないのです

「どう生きるか」とは すなはち「どう死ぬか」と同義であって 社会的責任を放棄して目先の延命だけを選択しても 無責任な奴らだけが生き残った社会で生き続けることに人間としての存在の意義などないのです

他人を信頼できる安全な社会であるためには 先ずは自分自身が自律的に社会的責任判断選択をする必要があるのであって 何の判断もせずに無責任に多数派に迎合しているだけであれば誰にも責任を問う権利はないのです

 


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社会安全性や持続可能性のための生存や生産性であって 生存だの生産性を先に目的として持ってくるから「障害者には生産性がない」だとかいう屁理屈が出てきてしまう

生存だの生産性利益というのは社会安全性や持続可能性のための手段にはなっても人間としての目的の論証にはならない

生存にとってどんなに有利な行動を採っても 最終的にヒトは必ず死ぬからである

ヒトという種の生物は 先天的にバカなので 手段と目的を平気で履き違えてしまう習性があるため 結果に過ぎない個体の生存価を目的か何かだと勝手に勘違いしているのである

生存というものは自己選択不可能な「結果」に過ぎず 選択不可能である以上これは「目的」として選択することは不可能である

人間としての目的とは 個体の生存にとって有利な行動選択によって「生き残る」ことではなく

次世代への持続可能性や安全性に基づいた行動選択こそが人間性であり倫理であり 人間としての目的行動であり 本質的合理性であり 意識の本質である

次世代へとつなぐことの出来ない社会であるならば もはや一秒足りとも存在し続ける必要性など存在しないのであって

その場限りに生存にとって有利な利己的行動こそが社会持続可能性や安全性を蔑ろにしてしまう最大の原因なのである

未来がどうあるべきかを「考え」なければ 目先の生存にとって有利な利己的行動も平気で行うことは簡単であり その意識の広さがないから無意識なのであって 暴走破綻への道を変えることが出来なくなるのである

断片的な利己的行動選択において理性を利用することで問題が大きくなることは確かであるが それは「理性という道具」を使う側としての「利己性という欲望」に根源的原因があるのであり

理性そのものは公益的行動選択にも必要不可欠なものであり 同時に公益的行動選択そのものが理性によって選択されるものなのであって 純粋理性とは批判の対象ではなく むしろ人間性にとって最も重要なものなのである

個人の中の様々な欲望の中から 本当に優先すべき欲望は何なのか それを見い出すためには理性が絶対必要不可欠であり 感情や主観というのは環境に応じて常にフラフラと変化するものであって 主観に頼っていたのでは真理としての自己選択を見失うことになるのである

 

ヒトという種の生物は 論理的に思考することが本能としては組み込まれておらず 先天的本能としては主観的観念で行動選択する方が楽なため 自己の生存にとって有利な話にばかり誘導され 世間的な成功だの大衆の多数評価や人気ばかりを人間性か何かと勝手に勘違いするのである

「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという非科学的大嘘でもひけらかしておけば人気は得られる

目先の気分的満足さえ与えておけば大衆の多くは主観的に好きになり その主観に基づき「好き」になることで盲目的に信用したがり それを人間性か何かだと勝手に錯覚することで疑うことや検証する自己客観性を簡単に喪失するのである

自己の生存にとって有利な行動選択をすれば「生き残る」ことはできるかも知れないが その選択によって社会持続可能性が失われれば結局は破綻に陥り絶滅の一途をたどることになるのである

絶滅に陥らず 安全で社会持続可能性を高めるための行動選択を優先すれば 自己の生存にとって不利であったとしても 所詮ヒトは必ず死ぬことに代わりはなく 人間としての目的にとっては適する行動となるのである

それが気分(主観)的に嫌だったり 怖かったりすることもまた気分(主観)に過ぎず こうした気分(主観)こそが自己客観的論理検証性を喪失させ 目先の利己的行動選択へと駆り立て人間性や倫理を喪失させるのである

絶望とは主観であり それこそが「罪」なのである

真理とは 論理客観性の中にあり それこそが真実の正義なのである

アダム:スミスの勘違いを鵜呑みにし 利己的利益さえ追求しておけば自動的に社会全体が潤うなどというバカにとって都合の良い話には人気が集まるが 実際には貧富格差は拡がるばかりであり 今更信用するに値しないことはわかりきっていることである

自己の利己的な生存価にとって有利な行動を 自律的な社会的責任である安全性や持続可能性よりも優先しておいて人間性も倫理もヘッタクレもあったものではない

個人として「どう生きるか」と 「どう死ぬか」は同義であり 自律的な社会的責任を放棄してまで目先の利己的生存価を優先したところで最後には必ず死ぬのであって 人間性や倫理を放棄してまでかりそめの延命を選択しても それは既に「人間としては死んでいる」のである

 

生き続けることが苦痛だと言うのであれば 自死を選択することも否定はしないが

苦痛の原因が社会の中にあるのならば その苦痛の原因は取り除かないと他の人も同じ苦痛を味わうことになるのであって ただ主観的に「死にたい」からと言って死ぬことは人間としては無責任である

社会の構造的な原因によって苦痛を強いられているのであれば それは一朝一夕には問題解決は難しいであろう

だがしかし 難しいことであっても社会的責任を負って問題解決に取り組むからこその人間性であって 「主観的に生き続けるのが嫌だから死ぬ」という短絡的で簡単な選択には人間としての価値はない

ただ「死んだだけ」では社会構造的苦痛は改善しないのであり 死にさえすれば何かの責任を負ったかのような観念錯覚には合理的な人間性や倫理の証明はない

「死にさえすれば何かが解決する」ような簡単な話ではなく それは「誰かを殺傷すれば解決する」という短絡性とほとんど同じであり 単なる観念的な満足に過ぎず 論理客観的には社会的責任は全く負っていないのであって そんなもんに人間性が伴う論拠はない

命に関わることは「個人の人生にとっては一大事」だが 社会的には「ありきたりの出来事」に過ぎないのである

社会の構造的問題を解決することは容易ではないこともあり とりあえず現状の環境から逃れるという「理性」も必要であり 観念的慣習の多数決に迎合し続けても意味はない

難しいことを達成するためには時間や手間がかかることもある それでも取り組むためには安易な目先の感情に流されない「理性」が必要である

香港の民主活動家の周庭女史のように 香港警察の行動の全てに難癖をつけてデマを流しておけば民主化が進むわけではない

感情に任せてデマを流したり暴動を起こしても逆効果であり 本当に効果的な方策というものを戦略的に選択する理性が働かないと 本当の意味での「社会の為」にはならない

フリードリヒ:ニーチェは「できそうにないことは やらない方が良い」と述べたが これは主観的に安易な怠惰怠慢を正当化を促し 主観的に満足しているだけの虚無主義という名の逃避に過ぎない

それは たとえ自殺であっても「やるべきこと」を放棄しているのであれば怠慢であることに違いなどないのである

マイケル:サンデルの「トロッコ問題」同様に 人命が関わりさえすれば倫理の論証になるわけではないのである

死ぬことに対して何か特別な神聖性が伴うと「思って」いるのは 合理性のない勝手なオカルト妄想に過ぎず

論理客観的に考えれば 死ぬというのは誰にでも訪れる不可避な「普通のこと」に過ぎない

何年生き延びたかが人間性の論証にならないのと同様に 死にさえすれば人間性の論証になるわけでもない

真理とは 単なる主観の中にはない

それを野依良治は理解していないのである

 

 

生存というものは そもそも自己選択ではなく結果に過ぎず 選択不可能なものに目的も戦略もヘッタクレもないのである

誰も自分の意思選択で産まれてきたわけではなく 結果的に「生きていた」に過ぎない

どんなに主観的に「死にたくない」と強く思ったとしても それが目的であることの論証には全くならないのである

個体の生存を目的としてしまえば 他人に危害が及ぼうとも 社会が破綻しようとも正当化できてしまうのであって

社会持続可能性や安全性よりも個人の生存を優先しておいて人間性も倫理もスッタクレもありゃしないのである

たとえどのような理由があろうとも 社会的責任を放棄してまで個人の延命をしても その余生に人間としての尊厳など一切存在しないのである

ゴキブリと一緒じゃん

ヒトである必要性すらねぇだろ

 

自殺だの死刑だのと死ぬことに対して根拠のない尊厳を主張するのも間違いである

犯罪者を死刑にしても社会安全性は高まらないし

自殺したからといって人間としての尊厳の論証にもならない

命懸けで何かをやったら何でも尊厳になるわけではないのである

オウム真理教の幹部が命懸けで毒ガス製造をしても人間性や倫理には適さないのと同様 死刑も自殺も人間としての尊厳には全くならないのである

死ぬということに対して過剰な価値を求めるべきではない

「人間」としての行動選択とは 社会持続性や安全性を追求することであって 犯罪者を死刑にすれば尊厳になるわけでもなければ 自殺すれば何でも尊厳死になるわけでもない

野蛮なナチスに反対して自決に追いやられることに尊厳はあるが 単に「生きているのが主観的につらいから死ぬ」だけの自殺に尊厳も何もないのである

社会安全性や持続可能性を高めるための論理客観的根拠のある選択をしてこその人間性や倫理であり これらを伴わずに勝手に「死ねば尊厳だ」などというのは論理客観的真理を逸脱した勝手な大衆観念的決めつけに過ぎない

生きてゆくのがつらいからといって自殺しても 社会安全性が高まるわけではない

生き続けることが苦痛であるならば その苦痛の原因を究明して他人が同じ境遇に陥らないように徹底した対策をしてこその人間性であり そこで初めて人間としての尊厳だと言えるのである

そこに主観的気分や根拠のない「尊厳」論は意味がない

人間性や倫理というのは 自律的な社会的責任判断選択であって 環境依存的に刷り込み学習された既存の価値観を事後正当化するというのは 既に存在しているだけの自己の因果律に則った条件反射に過ぎない

大衆の多くは「生き残れる」ことこそが人間としての価値だとでも錯覚しているが 過酷な自然界における淘汰圧力を人間社会に応用しようとしている時点で 人間としての素養に著しく欠けているのである

本当の人間性とは 自己の生存よりも社会安全性や持続可能性を優先するという 自律的な社会的責任判断選択にこそ存在するのである

「生き残るためには」などと称して あたかも人間としての最優先事項であるかのように錯覚するのは 論理客観性を欠いた大衆的妄想観念に過ぎない

どんなに個体の生存にとって有利な行動選択をしたところで 社会を破綻に陥らせてしまえば意味がなくなるのである

ただ生きているだけならゴキブリでもミミズでも構わないのであって そんなもんに人間性や倫理や尊厳があるわきゃねぇだろ

 

生存も遺伝的進化も結果であって目的である論証はない

特定の結果だけを抽出してきても それは因果律に則った結果以上の意味はなく 主体的な目的行動選択にはならない

既存の自己を漫然と事後正当化したがるのも所詮はヒトの先天的習性であり 因果律に他ならない

遺伝的進化というものは過酷な自然環境下において先天的にたまたま生存にとって有利な形質や習性を持った個体以外が全て死滅し続けなければ促されることはない

草食動物の逃げ足が速くなるためには 天敵に襲われた際に 大脳辺縁系が促す条件反射的な恐怖に駆られてひたすら逃げ出すだけという行動を数千万年にわたって繰り返さなければならない

遺伝的進化というのはバカでなければ起きないのであって「進化は人間よりも賢い」などという話はただの非科学的妄想ファンタジーに過ぎず 到底科学的根拠を伴うものではない

むしろヒトという種の生物は脳が肥大したことによって様々な工夫をすることで先天的形質や習性に頼ることなく生存にとって有利な行動が採れるようになったことで 遺伝的進化に依らずに過酷な食物連鎖から逃れることで「繁栄」という名の異常繁殖を遂げたのであり

むしろ化石の発掘からは ヒトはここ数万年はほとんど進化変異をしていないのが事実である

遺伝的進化というものは 突然変異や配偶交配によって様々な変異と過酷な自然選択によって 先天的に生存にとって有利な形質や習性を持った個体種以外が全て死滅しなければ促されることのないシーケンシャルな因果律であって 「賢い」わけでも「目的」であることの論証にも一切ならない

バカな大多数の生物学者や哲学者達は遺伝的進化という既存の「結果」を根拠に あたかも遺伝的進化さえすれば常に必ず正しい結果に導かれるという妄想観念に取り憑かれ 盲目的に信奉しているからこそ優生学などという非科学的オカルトに対する論理的反証を一切してこなかったのである

これは怠慢怠惰な愚か者以外の何物でもない

ゾロアスター教における超人妄想も 遺伝的進化万能妄想に取り憑かれたニーチェを鵜呑みにしている現状の「哲学者」達によって温存されたものであり 到底論理的根拠を伴った哲学的真理とは到底言えないオカルトである

こんなオカルトを哲学だと教えて学生から金をとっている大学というのは もはや合法的詐欺に他ならない

ゾロアスター教における超人妄想は フランシス:ゴルトンによる優生学に基づいたものであり これは遺伝的進化万能論が源である

リチャード:ドーキンスによる「利己的な遺伝子」などという話も遺伝的進化万能論に則ったものであり 遺伝的進化さえすれば自動的に倫理や人間性が組み込まれているはずだという非科学的妄想に基づいたお伽話に過ぎない

「ヒトという種の生物は先天的に人間性が組み込まれた優秀な存在である」かのような話をしておけば バカな大衆やマスコミからは人気を得ることは簡単であるが これは論理客観的根拠のない科学的真理を逸脱した大衆迎合以上の意味はないのである

「哲学は 役に立たなくても良い」とは言われるが これはあくまで「今すぐには役に立たなくても良いから真理とは何かを探求する」ことが哲学なのであって 論理客観的根拠をすっ飛ばした主観的満足安心を与えるだけの妄想観念まで哲学として扱って良いという意味ではない

真理というのは 全てがすぐに役立つわけではないが 「将来的に役に立つ可能性がある」からこそ探求する価値があるのであって 論理客観的根拠を無視した実証不能の謎の「叡智界」は哲学とは言えないのである

これは自然科学も同様で 砂漠の真ん中でトカゲを捕まえたからといって すぐに何かの役に立つわけではないが 生態系全体を把握する上においては重要な基礎科学であり 論理客観的な事実の地道な積み重ねをすることによって 将来的に何かの役に立つ可能性があるからこそ「科学」としての価値があるのであり

しかし 論理客観的根拠をすっ飛ばして身勝手な実証不能の観念に基づいた決めつけやファンタジーでは科学や哲学としての価値は全くないのである

科学的真理は100%ではないが 科学的真理ではないものは限りなく0%であることを自覚すべきである

怪異が起きて その原因がわからない場合 「わからない」と保留するのが科学であって 「理論的にはわからないけど 主観的にはわかったような気分になる話を鵜呑みにしている」のは科学でも哲学でもなく オカルト妄想やファンタジーでしかない

 

遺伝的進化万能論に基づいた優生学が論理客観的には科学的根拠を持たないことを生物学者や哲学者が指摘していれば 相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件は起きなかった可能性がある

この観点からは現状の生物学者や哲学者達は重大な危険性を放置した「A級戦犯」でもある

 

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ヒトという種の生物は遺伝的進化をしない

遺伝的進化というものは膨大な変異と淘汰圧力によって「生存」などの結果に適した個体種以外の全てが死滅するという過酷な状況が数千万年にわたって維持され続けなければならず これは人間社会の中で生ずるようなものではない

ジャイアントパンダは笹しか食わないが その歯は肉食獣のままであり 必ずしも生態と形質が一致する保証はなく 遺伝的進化に最適化の保証はない

それは ヒトという種の生物が非合理的な殺し合いを行うという先天的性質においても 遺伝的進化によって解消する保証もメカニズムも存在しないのである

スタンフォード監獄実験も スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験(通称「アイヒマン実験」)においても その結論の中には「普通のヒトの危険性」が立証されているのであって これらの客観的結論を主観的に「受け入れたくない」からといって無視するのは現実逃避でしかない

香港の民主化デモに乗じてデマや暴動が生じてしまうように ヒトという種の生物は理性を逸脱して短絡的に虚偽や暴力行為に簡単に流れてしまう先天的習性が存在しているのである

その原因は 感情という主観である

感情というのは大脳辺縁系によって促される行動バイアスであって これは先天的に決定している因果律であり 主体的選択ではなく無意識な本能習性でしかない

振り込め詐欺に騙されるのも 民主活動家がデマを流してしまうのも 感情という主観が論理客観的検証性という人間としての意識の本質を不具にしてしまうことで生ずるものであり

自律的論理検証性という客観的な理性なくして人間性や倫理を語ることはできない

エマヌエル:カントの勝手な妄想を鵜呑みにして理性を逸脱した謎の「叡智界」なんぞを鵜呑みにして満足しているからこそ 野依良治のように「主観が大事」などと言い出すことになるのである

間違った内容を提示された場合 すぐには論理的反証が出来ないとしても 直感的におかしいと感じることはある

将棋棋士が直感(主観)で将棋をさすことがあるからといって 誰でも直感だけで全て正しい判断ができるわけではない

野依良治なら女子受験者だけを一律に問答無用で減点することに対して直感的に「おかしい」と「思う」のかも知れないが 東京医科大学や順天堂大学の職員達の主観的には 入試不正こそが正しい選択だと「思って」いたのであり 断片的な個人の主観的判断だけを抽出して「主観の全てが正しい」と言い出すのは身勝手で傲慢である

目先の利益だけを目的とすれば 収益にとって都合の悪い者を排除しておけば「合理的」であろうが この「合理性」とは組織の利益に基づいたものであって社会安全性や持続可能性の観点からは極めて非合理な選択なのである

「合理性」という言葉に対して「利己的利益追求」だと短絡的に「思う」のが間違いであり そもそも「経済」の目的とは「経世済民」の略であり「世を経って民を救済する」ことが目的であり これこそが真の「合理性」なのである

アダム:スミスの「シャンパンタワー効果」を鵜呑みにし 個人が利己的利益さえ追求しておきさえすれば自動的に世の中全体が潤うと思っているのは その方が「個人が何も倫理を発揮しなくても良くて楽だから」鵜呑みにしているだけであって 実際には個人が主体的に自律的な社会的責任判断選択をしなければ社会は暴走破綻にしか至らないのである

ヒトという種の生物は 主観的に気分が良くなる「信じたい話」しか信じようとしないが

「信じたい」かどうかは主観であって 絶望しようが不条理であろうが客観的事実は受け入れなければならないのである

なぜ受け入れなければならないのかは それが社会安全性と持続可能性にとって有益な論理客観的な「真理」だからである

危険学や失敗学の目的は安全性の向上であり 安全性を高めるためには失敗や危険に真っ向から向き合う必要性がある

ヒトという種の生物の先天的欠陥や危険性を無視しておいて安全性が高まるわけがないのである

主観的に「自分には先天的危険性や欠陥が存在している」という話は 気分的には不都合な真実であるため ヒトの多くはこれを無視し

むしろ「ヒトという種の生物には先天的に人間性が組み込まれているはずだ 自動的に戦争はなくなるんだ」とでも吹聴しておけば気分的に満足して大衆人気を得ることも簡単である

「人を騙そうとする者にとって カモを見つけるのは簡単である」とはマキャベリの言葉だが これは客観的には真理でもある

マキャベリを主観的に嫌いかどうかは関係なく 事実は事実として「理解」しておかなければならないのであり 主観的に「信じたくない」という観念に執着すれば事実を見誤り 同時に人間としての倫理も失うことになるのである

マイケル:サンデルの講義に人気があるのは その内容に倫理や正義に対する客観的な真理が存在するからではなく むしろ主観的に満足感が得られるから人気を得ているに過ぎない

オウム真理教の教祖の人気と構造的には全く同じであり 洗脳でしかない

優生学だの叡智界だのゾロアスター教に人気があるのも そこに論理客観的真理があるからではなく 単なる気分的満足が得られて「信じたい」だけのことである

自らの頭の悪さを自覚することは 気分が悪いであろうが 自分の頭がどのように悪いのかを理解認識できれば同じような錯覚に陥ることを避けることができるようになるのであり それこそが本当の意味で「頭が賢くなった」と言えるのである

試験の成績だのクイズの正解率だのといった 知識の量だけひけらかして「俺は頭が良いんだ!」などと主張しても それこそが頭の悪さを証明しているようなものである

通り魔やテロリストの多くが学生時代に学力偏差値が高かったという客観的事実は 学力成績が人間としての本質的知能とは無関係であることを立証しているのである

そりゃゾロアスター教だの叡智界なんぞを哲学として教えてりゃバカが出来上がるのは必然というものである

 

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具体的には何ら他人に迷惑などかけていない人に対して 根拠のない観念的マナーを押し付け 異常に否定したり抑圧したりする人がいるんですね

個人的な嫌悪感に基づいて他人を攻撃することが自分の正当化になるという主観的感覚に基づいて 何かにつけて他人を攻撃してくる人

何で他人を否定し続けるのかと言うと こういう人っていうのは幼少期からの生育環境において親から主体的選択をさせてもらえなかったのが原因なんですね

だから論理的根拠も考えることなく 主観的に嫌いなものが短絡的に「悪いこと」になってしまい 自分の観念が絶対正義になっている

 ◇

親が何でも頭ごなしに決めつけてしまう環境下で育った子供は 主体的に何かを選択することが悪いことだと刷り込み学習されてしまい

物事を主体的に考えて行動選択することをしなくなってしまう

本質的な主体性がない状態だと 主観的好き嫌いと客観的な善悪の区別ができず 感覚的な嫌悪感に基づいて他人を攻撃するようになる

本質的な主体的意思 目的意識がないので 先天的本能習性が促す「正義」のために暴力的攻撃こそが解決だと錯覚している

大脳辺縁系が促す動物的な攻撃衝動までもが「自分の意思」だと錯覚している

 ◇

ヒトは誰しも自分の意思選択で産まれてきたわけではないので 自分の遺伝子は自分では選択不可能であり 遺伝的に決定している自己の形質や習性も選択不可能である

更に 自分が育った環境としても社会や時代といったものもまた 主体的選択が不可能なものである

従って 既に存在しているだけの自己というものは 全て環境依存的な「結果」に過ぎず 選択不可能なものである

「暴力(懲罰)こそが解決だ」という感覚も 生育環境下で植え付けられた根拠のない価値観も これらは全て因果律(結果)であり 個人の主体的選択とは無関係なものである

因果からの脱却 解脱に必要なのは 主体的に物事や自己を検証し 真理としての「本当のこと」が何なのかを見極め 区別することで 本当の意味での合理性ある行動選択を行うことである

オウム真理教などのカルト宗教では 盲目的に何かを信奉することで気分的満足や安心を得ることを「解脱」であるかのように錯覚させるのであって 全く逆のことを促してバカに陥らせることで洗脳する

主観的に気に入らない相手を「死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らしたり そうした感情論や精神論に同調迎合することには 本質的な合理性はなく 単なる目先の満足以上の意味がない

主観的感情や既存の価値観に惑わされることなく 本当に合理性のある行動選択とは 社会安全性や持続可能性に基づいた論理客観的行動選択をすることこそが 本当の意味での人間性であり 人間としての意思であり 人間としての意識でもあり また人間としての心でもある

単なる目先の感情だけでは人間としての心としては機能することはない

気分的に「優しい気持ち」になってさえおけば人間性や心だと思うのは ただの錯覚妄想に過ぎない

 

「共感性」さえ発揮しておけば人間性か何かの論証になるわけではない

共感性というものはヘイトスピーチでもテロリストや暴力団や振り込め詐欺の群れでも子供のイジメでも発揮されるものであり 単なる統率的協調行動バイアスを促す先天的行動習性に過ぎないからだ

先天的習性であるという時点で本質的な自己選択が介在しておらず これは意識ではなく 無意識な機械手続き的条件反射(因果律)に過ぎない

梅沢富美男やみのもんたに同調して「共感性」を発揮して死刑を多数決的に正当化しても それが社会安全性にとって合理的効果が存在する根拠は何もなく 単なる主観的満足(快楽)に溺れ 脳内麻薬に酔いしれているに過ぎない

 

ヒトの意識の9割以上は無意識である

それは ヒトという種の生物にまで進化する以前の過程の方が圧倒的に長く 動物的行動習性だけで行動が決定していた時間の方が膨大に長いためである

ヒトという種の生物は 遺伝的進化の歴史においては極めて「新種」であって 決して「人間になろうとして進化した」ものでもないのである

遺伝的進化というものは個体が主体的に選択できるようなものではなく あくまで偶発的にたまたま「生存にとって合理的な形質や習性を先天的(選択不可能)に持っていた個体種」に淘汰された結果に過ぎない

どんなに個体が願おうが 考えようが 呪おうが 先天的な遺伝的形質や習性そのものは選択不可能であり これは目的意識や意思とは無関係なのである

主体的な選択可能性がなければ目的としての論証は出来ない

選択不可能である時点で結果(因果律)以上の何物でもないからである

「欲望自体を欲することが出来ない」からといって 主体的に論理検証して 目的行動にとって合理的な行動選択が不可能であることの論証には全くならない

ヒトには理性が存在するため 単なる先天的本能習性や生育環境によって植え付けられた価値観に基づく行動バイアスだけでしか行動が決定できないわけではなく

論理客観的に自己の欲望の合理性に基づき選択することも可能ではあるが 生育環境で主体性を蔑ろにされて育った人には これが困難になる

自己客観性が全く働かない場合 主観的感情の強度程度でしか行動が決定しなくなり ヒト以外の野生動物の行動原理と全く同じ状態に陥る

それは「ヒトという種の生物」ではあっても 自律的な社会的責任判断選択を行う「人間」ではない

 

主観的に「好き」な食べ物ばかりを選んでいれば 糖分や脂肪分や塩分を過剰摂取して不健康に陥るのと同様に

社会的行動選択においても目先の欲望や感情に流されているだけでは社会安全性が向上するわけではない

ヒトがなぜ不健康な食生活に陥るのかと言うと 文明社会を作る以前の野生環境下においては糖や脂肪や塩分というものは摂取が難しかったため 積極的に摂取する習性を先天的に持った個体への淘汰圧力が働いた結果(因果律)である

ヒトが社会安全性にとって合理性のない懲罰的正義を振り回したがるのも そうした習性を持った個体種だけへの淘汰圧力が働いた結果である

野生環境において暴力は生存において必要であり ヒトに進化して文明を築く以前おける「結果」として 懲罰的暴力への行動バイアスが強烈に組み込まれているのである

 

麻薬中毒患者の脳においては 麻薬が欲しくてたまらない状態であり

それ以外の価値観が全て優先順位が下がってしまう

それでも「世の中が麻薬中毒患者ばかりになってしまえば社会が破綻崩壊すること」は理解することが可能である

理解は可能だが 本能的行動バイアスの方が優先してしまう

 

オウム真理教幹部も 地下鉄に毒ガスを撒くよう教祖から指示された時に 「自分は人を救うために医者になったのに 毒ガスなんか撒いて良いのだろうか」と悩んだという

論理客観的に考えれば 毒ガステロに合理性がないことは理解可能でありながら 主観的な感覚の方が優先したことで毒ガステロは実行されてしまったのである

 

優先されるべきは論理客観的な合理性であって 主観ではない

しかし ヒトという種の生物は所詮動物の成れの果てに過ぎないので 気分的に「悩んで」も 論理客観的な「考え」に基づいて行動選択することが困難なのである

教祖の命令に従って地下鉄に毒ガスを撒くべきか それとも自律的な社会的責任判断に基づいてやめるべきかにおいて 主観的に「悩ん」でも何の意味もない

気分的に「悩んで」いる時点で既に頭がイカれているのである

論理客観的に「考え」れば 「悩む」ようなものではなく 最初から答えは決まっているのである

仏教における「煩悩」とは 悩んでいる時点で人間性(仏性・悟り)を欠いているのである

ヒトの多くは「悟り」というものを 主観的満足感が得られるものだと勘違いしているが 凡夫が「悟り」だと思っている事柄の全ては単なる「諦め」の類いに過ぎない

「どうせナチスに反対したって勝てるわけがない」と諦めておいた方が気分的に楽になれる

「できそうにないことは やらない方が良い」とはフリードリヒ:ニーチェの迷言である

大衆の多くは 主観的に楽になれる話こそが哲学だと勘違いしているため エマヌエル:カントの「叡智界」などという訳のわからぬファンタジーでも哲学だと簡単に鵜呑みにしてしまうのである

哲学とは真理を追求することであって 主観的満足感を得るためのものではない

人間性や倫理における真理とは 社会安全性を優先することであって 社会安全性において論理客観的根拠は必須であり 理性を逸脱した「叡智界」というのは安全性の根拠が全くなく 人間性や倫理の論証には全くならない

科学的真理が100%であってはならないのは 未知の要素要因が存在する可能性を否定できないからであり あくまで既知の認識可能領域における要素要因に基づいた検証に過ぎないからである

しかし 「叡智界」というのは「絶対に知覚不可能」だとカントは決めつけ そもそも「なぜ知覚不可能だと言えるのか」も説明しないばかりか 「知覚不可能なものがどうして応用可能なのか」も一切説明していない

理由は簡単である 理性を逸脱している実証不能の観念に過ぎないからである

養老孟司はこう述べたことがある「論理整合性がないだけ 開かれているではないか」と

これは実証不能の観念を正当化するためには 論理客観的整合性の方を「開か」なくてはならないための「はぐらかし」であり 論理整合性がないというのはそれが嘘以外の何物でもない

そして 恐ろしいことにこの「はぐらかし」に誰一人として気づかないという頭の悪さを発揮しているのである

養老孟司がどのような養育環境で育ったのかは知らないが 明らかに相手を選んで嘘がバレないように巧妙なはぐらかし(嘘)を展開しており 世の中をおちょくっている

相手が何を言っても理解できないバカだと思えば「禁煙と書かれた看板の前でタバコを吸う ほら 私は脳化していない」などという訳のわからぬ話も平気でするが 相手がマトモな科学者だと思えば絶対にこうした訳のわからぬ話はしない

養老は相手を選んで無責任な嘘を言っているのである

養老が主張していた「脳化社会」云々の話には論理整合性どころか 何の根拠も応用性もない大衆観念に寄り添った人気取りのための戯言である

大衆の多くは知識の「量」さえひけらかしておけば「頭が良い」と錯覚する習性があるため その内容に論理整合性や根拠が伴わなくても鵜呑みにしてしまうという習性があるため これを利用して大衆人気を得ることは そんなに難しいことではない

マルクス:ガブリエルの手口も同じであり ガブリエル本人が言っている内容とは「世界は存在しない」だの「時間は無限に分割すればなくなる」だのといった非科学的オカルト観念である

ヒトは その場限りに気分が良くなるように誘導されておけば 言っている内容に合理的根拠や整合性が伴っていない無責任な話であっても疑うことをしなくなるという頭の悪さがある

主観的に「信じたいこと」だけを信じようとし 論理客観的に「理解」できなくても主観的に満足してしまえば鵜呑みにしてしまうのである

「ヒトには先天的に人間性が存在するはずだ」などといった科学的根拠のない山極寿一の観念に満足し 鵜呑みにするのも同じ原因である

安全性を向上するために最も重要なのは 危険性や失敗から学ぶことであり 「いままで安全だった」ことをどんなに陳列枚挙して主観的に安心満足しても安全性の向上にはならないばかりか むしろ危険性への自覚を喪失する大きな要因にしかならない

そもそも先天的習性というものは選択不可能なものであって 自律的に選択不可能である以上「自律的な社会的責任判断選択」とは関係がなく 「先天的習性に人間性が存在する」可能性は0%なのである

先天的に人間性が組み込まれているのであれば 何も考えずに本能習性のままに行動してさえおけば自動的自然にあらゆる問題は解決するはずであって そうならないのはむしろ「ヒトという種の生物には先天的に人間としての欠陥が存在している」からである

ヒトという種の生物の先天的危険性に向き合わずに安全性を向上することは出来ない

養老孟司はこう述べたこともある

「嫌な話は無視する 意識から外す」

「意識から外す」とは 考えることをやめることであり 考えずに無視してしまえば気分的に「悩まず」に済む

人生相談の類いというのは 主観的な「悩み」を解消するだけであって 人間性や倫理の論証とは無関係な主観的観念を満足させ 気分的に安心させているだけの戯言に過ぎず 哲学とは全く関係のない大衆迎合でしかないのである

哲学というのは 主観的悩みを解消して気分が良くなるためのものではなく 何が本当に正しいのかを探求する学問である

「哲学者に人生相談」などといのは勘違いも甚だしい

オウム真理教の信者達というのは 盲目的に教祖を信奉することによって安心満足を得ているため 「お前さんの信じている教祖はキチガイだぞ」と客観的事実を教えても一切信じず 拒絶反応を示すだけである

ヒトは 既に信じ込んでいたものを疑うことを拒絶する

理由は簡単で 何も考えずに盲目的に信じ込んでいた自分の頭の悪さを自覚認識すると気分が悪いからである

認知行動療法では 「なぜ そう思うのですか?」という問いかけの形を採ることによって あたかも自分で間違いを自覚認識できたかのように錯覚させるという手法を用いる

そうすることで直接間違いを指摘された時の拒絶反応(主観)を回避できるからである

しかし こうした手法では いちいち「なぜ そう思うのですか?」と他人から問いかけ続けなければ自分からは何も考えようともせず その頭の悪さは自覚することはない

環境依存的にしか物事が考えられない時点で 自律的には何も考えないという頭の悪さが立証されているのである

何も「考え」ない奴であれば 何の社会的責任も負えないのは当然の話である

社会的責任を負えない奴には人間性も倫理も 人間としての心も存在せず

気分的に「優しい気持ち」になりさえすれば人間としての心だと思ったら大間違いである

それはただの錯覚や身勝手な妄想に過ぎない

 

Ende;

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主体性とは似て非なるもの

2020年09月30日 10時05分19秒 | 意識論関連

本当の主体性というものは 自分自身の行為における好き嫌いが重要であって 行為以外の何か他者が好きだからといって正当化することは純粋行為にはならない

麻原彰晃が好きだからと称して 麻原彰晃の言っている内容を鵜呑みにしていたのでは本質的な主体性にはならない

それは養老孟司でもマルクス:ガブリエルでもイマヌエル:カントでも同じ事である

チンパンジーが好きだからといって チンパンジーの行動の全てを正当化しようとしても科学的論証にならないのも同じである

魚が好きだからといって 魚の形質や習性の全てに合理性や「賢さ」が存在すると正当化しても科学的論証にはならない

爬虫類が個人的に好きで研究しているとしても 爬虫類の遺伝的進化の全てには意味や目的があることの根拠には一切ならない

本当の主体性というものは 好きな「事」にある

好きな「物(者)」ではない

 

行為(事)自体を主観的に好きで熱中することにより 集中力や自己客観性をも持てるようになる

しかし 行為以外の「物(者)」が主観的に好きであっても集中力や自己客観性は育たない

サッカー観戦が好きで応援に熱中しても それは行為自体が好きなのではないため 時折フーリガンのような暴走に発展することがある

居酒屋で脳をエタノールで麻痺させながら仲間内で話を丸めて満足することが好きでも その「好き」というものは環境依存的なものであって 本当の主体的な純粋行為ではない

他人が大型レッカー車や鉄道列車を運転しているのを見て「かっこいい」と思ったからといって大型レッカー車や鉄道列車の運転手になりたがることは本質的主体性ではなく あくまで外見上の「かっこいい」に対する憧れに過ぎないため 行為自体が好きなわけではないので自律的な社会的責任判断選択ができるようにはならない

実際に「憧れ」で大型レッカー車の運転手になった者が持病のてんかんを隠して運転を続けた結果大事故を引き起こした例があり

航空機パイロットに憧れたが航空業界にすら入れなかった者がハイジャック事件を引き起こした例もある

芸能人(他者)を見て「自分も人気芸能人になって多数他人からチヤホヤされたい」という「憧れ」から芸能人になった場合も 芸能の仕事そのものが好きなわけではないために 無責任な不祥事を起こす事例も少なくない

「他人の成功」に対する「憧れ」というのは あくまで「他人の成功」ありきの動機であって 本質的主体性とは別のものである

「憧れ」というのは外見的な価値観であり 他人からの見た目であり 他人からの評価を基準とした価値観であるために 行為そのものが純粋に好きなわけではない

悪質なユーチューバーや悪乗り投稿というのも 別に動画撮影そのものが好きなわけではなく 他人からのウケ狙いでやっているだけであるため 自律的な社会的責任判断選択が出来ないのである

ノーベル賞受賞者の田中耕一は 別に他人が科学実験をしている姿に憧れたわけではなく あくまで自分が科学実験をしている行為自体が楽しいからこそ他人の評価や外見的「カッコ良さ」に左右されることなく地味な実験でも辛抱強く続けることが出来るのである

この違いを理解せずに ただ「好きなこと」に邁進していれば主体性だと思ったら大間違いである

怪しい薬だのエタノールやニコチンや他者への憧れや評価報酬に依存しない 自律的に好きな行為こそが本質的純粋行為であって これが本当の主体性や自己客観性を育むのである

脳内麻薬を自律的に自給自足できれば 環境依存性に左右されずに自律的に社会的責任判断選択も可能となり これが人間性として機能するのである

 ◇

根拠のない誹謗中傷をしているヒトというのは 精神に異常をきたしているのであって 何かストレスで脳が人間として機能していないから非人道的な誹謗中傷をしなければならなくなっているのである

根拠のない誹謗中傷なんぞに邁進している奴に対しては 「どうした? 大丈夫か? 何があった?(松田ゆう姫)」と思う方が客観的に正しい判断である

精神に余裕がないからこそ 他人に対して根拠のない誹謗中傷するなどしていないといられないのであって 認知的不協和を解消する形で他人を蔑み続けることで自分の優位性や正当性の立証か何かと錯覚していなければいられないのである

自分がやっている行為を客観的に鑑みることができないのである

これも一種の中毒であって どんなに誹謗中傷を繰り返しても満足することはなく むしろ中毒は酷くなる一方である

本当に純粋に好きなことに邁進していれば これは脳内麻薬を自給自足できるため どんなに身体的にしんどくても気分的には満足し 精神の余裕を持つことが出来るのである

精神に余裕があれば 根拠のない誹謗中傷に邁進することもなく 逆に論理客観的検証によって多くのヒトが気づかぬ誤謬にも気づくことが可能ともなる

根拠のない権威や多数への同調迎合というのは 精神に余裕がないために起こるものであって 他人からの評価を気にしない余裕がなければ権威の間違いにも気づくことはできなくなる

「これさえやっときゃ 全ては解決」という短絡的発想は 物事を深く考えるだけの精神の余裕がないからであって 薄っぺらで浅い発想に溺れて満足することしかできなくなっているという これもまた一種の悪質な中毒の原因である

目先の気分感情に左右されずに 客観的真理を見抜くために必要なのは 環境に左右されない主体的純粋行為の存在である

 ◇

「衝撃」とは「強烈な感情」のことである

純粋行為というのは 強烈な感情を伴うものではなく 平常心で「楽しい」と熱中できる行為のことを指すのである

散歩が好きな人は 別に散歩で強烈な「衝撃」を受けたりはしないが 日々の小さな発見で満足することが出来るから 毎日のように散歩に出かけるのである

「衝撃」というものは自己自身の主体的なものではなく あくまで環境から受けるものであり 「衝撃」という環境依存的なものが動機になっても純粋行為としての満足が得られるわけではなく

イマヌエル:カントのように実証不能の観念に一生を費やすことに陥る原因ともなる

「衝撃」というものが単なる主観的な感情の強度程度に過ぎないという客観性が働いていれば 地下鉄に毒ガスを撒いて「人類の救済だ」などと言い出すことにもならないのである

 

論理客観性という本質的な人間としての意識が働いていないからこそ 感情の強度程度に左右されるという環境依存的行動に陥ってしまうのである

それこそが「因果律(選択不可能な運命)」というものである

論理客観性があれば 環境依存的な「因果律」に左右されずに自主的な選択可能性を発揮することが可能となる

本当の意味での自己選択可能性が働かなければ 本質的な人間としての意思や意識や心の論証にはならない

 

 

 

Ende;

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悟性という妄想

2020年09月30日 10時02分09秒 | 意識論関連

縦割り行政の原因というのも 結局は原発事故と一緒で「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わない」から生ずるものである

「組織の利益を優先」とは言っても 別に組織への貢献が目的ではなく あくまで組織内部における地位や権益が目的であって 極めて利己的利益(欲望)追求に過ぎない

行政としての社会的目的としては 本来組織内部の既得権争いに囚われることなく 社会全体の公益的立場から行動選択を行うことが優先されるべきであって そうした大局的視点としての「人間としての意識」が働かない故に縦割り行政に陥るのである

 

「倍返し」の半沢直樹ではないが あんなにわかりやすく悪事を働いているつもりは誰にもなく あくまで「組織内部での自分の立場を守りたい」という小市民的発想の多数集積によって組織腐敗というのは進むのである

原発事故同様 東電内部では原発の津波に対する脆弱性放置も東電社員個人にとっては「自分の家庭を守るためにはやむなし」だと思っているのであって 縦割り行政によって国民が見えない迷惑を被っているとしても役人達個人には「自分のこと」という自覚はない

「どうせ自分だけが正しいことをしても 世の中が良くなるわけではない」という小市民的発想は 同時に「みんなやってる」という気分的安心感を伴う「ヒトという種の生物における先天的本能習性」でもある

「少しくらいは良いだろう」という「小さな無責任の多数集積」によって 大きな組織の腐敗は加速度的に進行し 最終的には組織のみならず社会全体を崩壊破綻させてしまうことに陥るのである

 

「ハインリッヒの法則」とは 「一つの重大事象の陰には無数の小さな事象が隠れている」というものである

ヒトは組織に属すると 組織に対する忠誠忠実さばかりを発揮し 組織内部での評価業績ばかりを追求するように陥りがちである これはオキシトシンというホルモン物質が促す動物的行動習性そのものであり ヒトという種の生物における先天的な「人間としての欠陥」でもある

子供がイジメを止められないのも イジメに加担したり傍観放置していた方が気分的に安心だからであって 客観的な「安全性」よりも気分的な「安心感」を優先してしまうヒトの先天的欠陥に起因するものである

半沢直樹のドラマでは 非常にわかりやすく悪人が特定できるのだが 実際の組織腐敗というものは大多数の無能なバカによって作り上げられた集団暴走(洗脳)状態であって 「赤信号みんなで渡れば怖くない」的に組織腐敗は傍観放置されるのである

内部告発者に対する冷遇も 大きな組織集団に対する同調迎合している方が気分的に安心だから起こるのであって 「社会全体」という括りのない公益性を優先しても 直接的には自分に利益が還元される保証がない

公益的な安全性や持続可能性への配慮というものは 目に見えて利益還元されるものではなく 個人では把握することの出来ない社会全体への貢献であって 無駄なのか役に立っているのかほとんど全く見えないものでもあり 同時に評価業績にもならない

温室効果ガス削減のために個人が努力しても 隣人が無駄に温室効果ガスを大量に放出していれば 気分的には「やってられない」と「思う」だろう それは車両運転でも原発事故でも同じことである

東電社内において 自分一人だけが津波に対する脆弱性を主張していても 他の誰も同意してくれなければ絶望しか「感じる」ことはないだろう

信号機のない横断歩道で歩行者が渡ろうとしていても 「どうせ誰も止まったりはしないのだから」という気分的安心感によって 誰も止まろうとはしなくなるのである

 

マイケル:サンデルの講義を受けたバカ学生達も 誰一人として「トロッコ問題には倫理の本質が存在していない」ことには気づいていない

それは「自分は頭が良くなった」ような錯覚によって 気分的に満足安心してしまうことで自律的な論理客観的検証(人間としての意識の本質)が働かなくなることで起きる洗脳状態である

主観的気分というものが 論理客観的根拠を伴う安全性への配慮を喪失させる最大の根本的原因なのである

ここまで述べてなを野依良治が「主観が大事」などと言い張るのであれば もはや老害としか言いようはない

 

遺伝的進化であれば 環境と調和できない個体種は環境もろとも崩壊絶滅することで 結果的に環境調和した個体種だけへと「進化」することもあるが

これを人間社会で起こすことは膨大な犠牲の果てに 成功する保証も何もなく 同じような組織腐敗を永遠に繰り返すだけの「ただのバカ」なら種ごと絶滅する以外に選択は不可能である

ヒト科の生物の大半が絶滅したのはなぜか チンパンジーや西ローランドゴリラの個体数が極めて少なく繁栄できないのはなぜか それは ヒト以外のヒト科の生物の大半がバカが酷すぎて絶滅の一途しか歩めなかったからであろう

たまたまヒトは今まで繁栄という名の「大量繁殖」をしてきたが バカが治らなければ結局は同じ道を歩む可能性は高い

NHK解説員の室山哲也のように「どうせ絶滅する」と「悟った」ような錯覚に陥ることは簡単である

「自分一人では どうすることもできやしない」と絶望することも簡単である

その簡単安易という結論は 思考を停止し 「個人が自律的な社会的責任判断選択」を放棄するための言い訳言い逃れ取り繕いはぐらかしごまかし嘘にとって都合が良いだろう

逆に 「ヒトは叡智界に属している」などというファンタジーで思考停止に陥ることも簡単である

簡単なことしか出来ない奴を「バカ」と言うのである

 

真理とは 「本当のこと」であり 嘘を見抜くために必要不可欠な人間としての意識の本質であり それなくして「人間」とは言えないのである

 

 

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原因は簡単である

2020年09月30日 09時57分01秒 | 意識論関連

他の動物にも見られるように ヒトにも順位序列への意識(無意識な行動バイアス)があるため 他人を「下」とみなして暴力的威圧を行うことがある

社会安全性や持続可能性の観点からは こうした本能由来の序列への執着は厳に慎まなければならないのだが 何せヒトというのは生物進化の歴史の中で極めて新種であり 人間として理性を働かせることが極めて下手くそなため 無意識に本能のままに行動していれば差別や暴力は自然と発生してしまうのである

子供だけを集団生活させておけば自動的自然に統率的協調行動をするようになり イジメも発生する

自然界においては統率的協調行動は生存にとって有利な性質として働くが そもそもこうした習性というものは「生存を目的として選択した」ものではなく あくまで「統率的協調行動を採る習性を持った個体への淘汰圧力の結果」でしかなく 生存そのものも結果でしかない

統率的協調行動というものは 一人では難しいことを可能にする習性ではあるものの その習性を何にどのように使うのかに目的意識(合理性)が働かなければただの本能の暴走しか招かない

その小さな事例がイジメであり これが差別は大量虐殺の原因ともなるのである

子供のイジメ程度が大量虐殺に発展するとは 大抵のヒトは「思って」いないようだが 川崎の中学生が殺人にまで発展したこともあり ナチスであろうとポルポトであろうと やっている事自体は規模が違うだけで内容は同じである

ナチスやポルポトのような独裁状態というのは 独裁者単独で成立するものではなく むしろ独裁者に同調する大多数の服従者によって作り出されるものなのである

警察や軍隊というものは独裁において非常に重要な役割を果たすものであり 警察や軍隊を構成する個人に自律的な社会的責任判断選択をされては独裁などというバカみたいな体制を構築することは不可能である

独裁者の命令に対して 唯々諾々と何の批判もなく服従してしまう大多数のバカによって独裁というのは作られるのである

なぜヒトは権威に対して批判精神を喪失するのかというと そもそも「権威」というものは本能的に「服従しておけば気分的に安心出来る対象」に過ぎないからである

自分が服従している権威対象が 人間として正しいかどうかを自分で判断することなく 単に「自分が所属している集団組織の序列」に従う形で 「上官の命令に従わなければ罰を受ける」という恐怖心だけで行動が決定してしまっているため 独裁だろうとカルト宗教だろうと唯々諾々と服従し 組織体制にとって邪魔な勢力を「敵」とみなして平気で暴力攻撃を加えることが出来るようになるのである

気分(主観)的な安心(感覚)だけで行動が決定しているからこそ 論理客観的な安全性の根拠を見失うことになるのである

都営三田線に毒ガスを撒いた者も 市民に対して発砲する香港警察官も 彼らは自分自身で社会安全性や持続可能性については一切考えることなく 所属している組織体制への盲目的服従性を発揮することで人間としての自己客観性を喪失し 独裁に加担することに陥っているのである

彼らの屁理屈は「勝てそうにないから」とか「生きるためには」などというものだが 「勝てそうにない」というのは主観的感覚に基づく勝手な予想に過ぎず 「生きるためには」などというのも利己的価値観に基づいた身勝手な屁理屈に過ぎない

「人を殺してはいけない理由」がないのと同時に 「他人を殺してまで生き続ける理由」もない

他人を殺してまで生き続ける社会というものが安全でもなければ持続可能性もないことは ちょっと考えれば誰でもわかるはずなのだが 論理客観的な「考え」よりも目先の主観的安心感の方につられることによって無意識に独裁への暴走に陥るのである

スタンフォード大学監獄実験の結果というものは あくまで「看守役」として与えられた役目に過ぎないにも関わらず 度を越した暴力虐待に陥ってしまう先天的習性がヒトには存在することを立証しているのであり こうした習性というものは先天的な統率協調行動バイアスが促す主観的感覚が行動と直結しているために生ずるものである

ヒトという種の生物は 先天的には差別暴力を行う習性が存在しているのである

オキシトシンが仲間内に対する安心感を作り出すのと同時に 仲間以外に対する恐怖感も作り出し これが排除差別の最も大きな要因でもある

学校におけるイジメでは 教室内で特定の子供へのイジメをしていても イジメられている子供が何らかの形で教室からいなくなると 別の子供がイジメの対象になってしまう

これは イジメられている子供の問題ではなく イジメをしている方の主観的満足の追求が問題であることの証拠である

イジメなどの差別排除が目的なのではなく イジメを統率協調的に行うことによる仲間意識の確認による満足感が目的なのである

主観的満足を目的としている時点で合理性が欠けていることには意識が働いていない

欲望を満たすための合理的行動というのは そもそも「欲望を満たす」という無意識な行動バイアスに基づいた合理性に過ぎず 論理客観的な合理性が存在するわけではない

生物学者達は動物の行動の全てにいちいち合理性をこじつけたがるのだが 先天的行動習性というものは結果に過ぎない「生存」にとって必然的ではあっても 環境依存性からは逃れることが出来ず 主体的選択可能性を持たないシーケンシャルな「因果律(先天的本能由来の運命)」に抗うことの出来ない非合理で脆弱なものでもある

しかし ヒトは先天的本能習性が促す無意識で非合理な行動バイアスだけでしか選択不可能なわけではなく 論理客観的に社会安全性や持続可能性に基づいた本当に合理的な人間としての行動選択(倫理)の可能性も持ってはいる

持ってはいるのだが 大抵の場合は働かず バカみたいにイジメや独裁に抗うことなく原発の津波に対する脆弱性を放置するといった非合理な行動を平気で採ることが大半である

 

ヒトは 主観的に安心すると論理客観的危険性に対する意識が働かなくなる性質がある

要するに気分的に安心満足するとバカになるのである

バカが独裁やイジメに陥るのは当たり前の話であり バカだからこそ洗脳状態も自覚できなくなるのである

 

マイケル:サンデルの講義を受けた学生達は「トロッコ問題」には倫理が含まれていないことには一切気づくことなく 主観的に「悩ん」だことを あたかも「頭を使った」かのような錯覚に陥ることで「自分は頭が良くなった」と勝手に錯覚し 「頭を良くしてくれた」と思い込んだことでサンデルを好きになり 満足して疑うことを一切しなくなる

トロッコ問題の類いでは どのような選択をしても倫理や人間性の論証には至らない

そもそも客観的には後から条件を追加して選択不可能に追い込んでくる命題には答えの出しようすらないことに対して誰も気づかない

黒い服を着た人達がバスケットボールを何回パスしたのかを数えるよう指示されると 黒い熊の着ぐるみを着た人が闖入してきても誰も気づかないという錯覚がある

サンデルの講義でも同じ錯覚を利用しており サンデルの出した命題の中の選択肢だけに意識を奪い 命題自体に倫理が存在しないことには気づかないよう誘導しているのである

サンデルは「正義や倫理の話をする」と称して 実際には倫理とは無関係な話しかしていない

これは ただの詐欺である

学生達はサンデルの不毛な講義で主観的に満足しているだけであって これは学生に対する嘘であるというのみならず 社会安全性に対する詐欺でもある

倫理でも正義でもない話を倫理だと信じ込んだ学生が社会に出て 社会の安全性が高まるわけもなく 危険性が放置されることによる社会的損失まで放置されることになるのである

サンデルの講義で満足したバカ学生が東京電力で原発の安全担当者になったとしても 決して自律的な社会的責任判断選択などするようにはならない

サンデルの講義で「自分は頭が良くなった」と勝手に勘違いした学生が香港で警察官になっても 決して自立的な社会的責任判断選択などすることはない

サンデルの講義には倫理の本質が一切含まれていないからである

サンデルを心酔している頭のおかしい病理診断医は 科学の話に「かっこ悪い」だの「恥ずかしい」だのといった主観を持ち込んでくる始末である

サンデルの講義を受けた学生が イマヌエル:カントの「純粋理性批判」の間違いを指摘できるようにもならない

原因は簡単である

バカだからだ

 

Ende;

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