書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

意思。

2011年04月29日 22時06分01秒 | 意識論関連
 公益倫理的判断を自律的にできるかどうか、それを判定する試験は存在しない。

 もし、それを規定したとしても、その試験自体の構造を「知って。」いさえすれば簡単に嘘がつけるからである。

 公益倫理的判断を自律的にできるかどうかは、最終的には当人の意識如何に拠る。

 自己自身が、単なる無意識的な生存本能だけで「生きよう。」とするだけの存在であれば、他人を騙すことに何らの躊躇もないであろう。本論では、「生存自体に意味などない。」と論じているが、生物本能的な生存自体に意味がないと言っているのであって、たとえスイス山中で自害しようともナチズムに反対するようなことこそに人間としての価値があるという意味である。

 自己の生物的な生存自体に「人間としての価値。」が存在するわけではなく。自己自身の生きるに値する社会を望むためには自己自身の生存をも放棄するだけの強い「意思。」にこそ本当の意味が存在するのである。

 自己自身が自己の存在を肯定できないヒトであれば、多数他人によって構成される「社会。」も肯定することはできない。「自分を大切にできない人は、他人も大切にできない。」のである。これは定理である。

 占い師だとかペテン師達は、必ず「社会のために生きろ。」などと偉そうに言う。そういう話は大衆にはウケるからだ。だが、これはとんでもない嘘である。通り魔だの暴走族に対して「社会のためになるように。」なんぞ説いたところで、何の効果も存在しないのである。もし本当に「社会のため。」になることを勧めているのであれば、暴走族相手にも勧めていなければおかしいではないか。占い師がそんなことをするか、絶対にしていない。占い師というのは論理的に考えることの苦手な、精神的に脆弱な人間を追い詰めて、金をむさぼりとる以外に何もしないのである。

 公益倫理的判断を自律的にできる人とは、社会的成功や利益、報酬などの物質的な豊かさを求めておらず。あくまで自己自身の日常の生活に生き甲斐を感じ、社会がより平穏で安全であることを自発的に望む人間であることが大前提である。

 自律とは自発の中にあり、他にはない。これもまた定理である。環境に左右されずに自律的判断をするということは、そこに本質的自発性が絶対不可欠なのである。

 公益倫理的判断を自律的にできる人とは、単なる生存本能、自己保存本能によって生かされているだけの生物的な存在ではなく。自発的に自己存在を肯定できるような生き甲斐を持っているかどうかが前提である。

 養老孟司にとって、生き甲斐とは「虫取り。」でありヒゲボソゾウムシのケツの穴である。こうした当人にとっての意識的存在価値を蔑ろにしていたからこそ養老は支離滅裂な人間になってしまったのである。養老は本当は科学にも「人間について。」も興味はない。にも関わらずやたらと「人間について。」語ろうとするのは、それが世間的にウケたからであり。報酬になるからなのである。

 これは極めて機械条件反射的な行動原理である。

 従って、単に生き甲斐を「知っている。」だけでは本当の「意思。」は発揮されず。その生き甲斐自体を自己自身の存在価値として大切にしているかどうかが重要なのである。

 養老であれば、「社会がそれを赦さない。」というであろう。「そんなことをして何になる。」とか「スルメ見て、イカがわかるか。」と言われて悔しいと恨みを連ねる。こうした他人からの評価に流されている時点で、本質的な「意思。」が極めて脆弱なのである。

 本当に自発的に「スルメ。」の研究をしていれば、「イカがわかるか。」などと言われても「別にイカを知りたいのではない。」の一言で済んでしまう話であり。別に悔しがる必要性も恨みを連ねる意味もないのである。

 「ヒゲボソゾウムシのケツの穴見て、自然がわかるか。」などと言われても、別に悔しくはないはずである。養老の「目的。」はヒゲボソゾウムシのケツの穴を見る行為そのものであるからだ。

 養老はそれを「社会的に純粋行為を認めないからだ。」などと言い出すが、これこそ環境依存性の典型的な「症状。」なのである。誰に認められなくも行うから「純粋。」なのであり、評価報酬がなければできないという「泣き言。」を言い出す根性が、根本的に間違っているのである。

 世間的なウケ狙い、社会的報酬、成功を「目的。」として、無意識的に解剖学を続けてしまったからこそ、そこに社会的評価としての「イカがわかるか。」という話に悔しがることになるのである。

 これを養老本人に言っても無駄である。既に散々当人には手紙を出している。ましてやこれをネタに養老の吊るし上げをすることも許さない。本論はそれが目的なのではなく、あくまで判りやすい一例、症例として挙げているに過ぎない。

 支離滅裂な「理論。」を展開しておいて、「読み手がバカなら説明しても無駄。」などと言い出すような単なるペテン師を再生産しないためにも、本当のバカが誰なのかを判断できる人が、より多く必要なのである。自発的に、何の役に立つのかもわからず研究するような「変人。」が必要なのである。そうした人というのは、単なる成績評価とは無関係の、本質的な自発性を持った集中力が必要である。

 多くの大衆は、多くの人と同じであることに執着する。それが気分的に「安心。」であるからだ。だが、その安心こそが安全性を不具にする可能性を拡大するのである。

 全員が同じところから物事を観察していれば、見えるものにさしたる違いはないだろう。それが「凡人大衆の安心。」というものである。逆にいえば、天才と呼ばれる人達というのは、そうした大衆迎合に興味のない、本当の「変人。」であり。本当の意味において「個性的。」なのである。

 一般的に、「個性的。」というと、単なる目立ちたがり屋の奇異行動を指す場合が多いが。そうした自己顕示本能とは無縁の、もっと地味で極めて個人的な価値観を大切にすることこそが本当の「変人。」なのである。

 こうした本当の意味での個性がなければ、皆して同じ認識しか持つことはできず。何ら新しい発見や発明はできないのである。


 アイヒマン実験のような環境下において、多くのヒトとは異なる行動を採るというのと。科学的業績としての発見や発明をするということに共通点は多い。どちらも本質的意識の存在なくしては実現不可能な「変わったこと。」であるからだ。

 どんなにたくさんの大衆観念を抽出しても、それはノーベル賞にはならないのである。ただ、金融工学などの「金儲け。」についてはノーベル賞が出るらしいが。これは最近問題視されているようだ。

 確か、千住真理子の父親は金融工学の研究者だったと思った。いや、研究すること自体に害はない。その技術を使う市場の方に問題があったのである。それは原子力の研究自体に害があるのではなく、その使い方に問題があったのと同じである。科学自体は単なる認識の拡大であって、それを使う段階において本能的無意識が優先するから問題が発生するのである。

 内燃機関自体の研究が温室効果ガスの大量排出を促したのではなく。その技術を用いる段階において金儲けという市場の欲望によって大量排出につながったのである。

 科学的認識がなければ、温室効果ガスの環境への影響も知らずにいるということである。それは単なる無知というものである。破局への可能性を認識することができるのは科学だけである。ゾロアスター教だの養老教などのペテンでは、単なる気分的な満足や安心を得るだけで、何ら本質的問題解決にはならないばかりか、論理的思考を撹乱し、無意識な自己満足のまどろみに誘うだけなのである。

 「自己満足。」というと、個人的な価値観に基づいて多数からの評価が得られないようなことをすることであると一般大衆観念的には認識されているだろう。だが、それは間違いである。どんなに多数からの評価を得ていようとも、ペテンに多数のヒトが引っ掛かっていることの方がはるかに無意味であり、有害なのである。

 こんな文章を書いても、誰からも評価されることもなければ、報酬にもなりはしない。それでも、本当に安全な社会を構築するためには無駄であっても書くべきであると判断しているから書いているのである。本当に無駄なのか、それとも有意義なのか、それは「やってみなければわからない。」のである。

 「現在の社会的評価。」に意味などない。まだ三ヶ月しかWeb上には掲載していないし、そもそも日本語でしか書いていおらず、評価が得られるとしても何十年かかるかわからない。だが、そうした社会的評価は本論の「目的。」ではない。



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メリトクラシー。

2011年04月27日 21時48分26秒 | 意識論関連
 ツイッターである人物に対して反論したら、「メリトクラシー。」がどうのこうのという話が出てきた。

 ググったら要するに、能力のある人間が社会統治に携わるべきという意味らしい。

 だが、現在における「能力。」基準というのは、認知科学的な根拠に基づくものではないし、一級建築士の免許を持っているからといって、その免許が嘘つきではないことを証明しているわけではない。自律的に正しい選択を行うことを保障していないのである。

 「原発は絶対に大丈夫。」という嘘を言っていた人間が原発に携わる現状が正しいわけがない。



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事故調査委員会。

2011年04月26日 19時54分28秒 | 意識論関連
 事故調査委員会と司法の間に交わされた覚書が問題なのではなく。司法そのものの根拠とされる刑法自体が全ての元凶なのである。

 刑罰を与えることそのものには、何ら原因究明や再発防止策の確立にならないばかりか。そもそも原因究明自体を阻害するのであり、百害あって一利ないのである。

 そもそも、罰に対する恐怖心によって法令遵守を行うというのは。そこには民衆自身の自律的な社会保全意識を無視した、強権的思想、観念に基づいた制度であり。全く民主主義とは相容れない独裁的な制度なのである。

 独裁がなぜ生ずるのか。それは民衆の多くが生物種としての「ヒト。」としての習性によって生ずる、権力者への服従への安心感や、或は責任放棄による責任回避意識によるものである。勿論こうした「意識。」とは無意識的な意識であり、慣習としての根拠なき安心感によって促される怠惰で感情的な行動である。

 いわば、ヒトという種の生物の習性として。民主主義というのは最初から相容れないものであるといっても過言ではない。ヒトという種の生物の習性としては、年功序列的な封建的社会制度が最も最適な「結果。」であるからだ。多くの「社会性。」を持つ生物がそうであるように、ヒトが作り出す社会性というもののほとんどは、実際には無意識的な本能に基づく習性としての行動結果であり。現在の生物学界や哲学界のような、極めて封建的で内部検証性を持たない年功序列的なバカの組織体制に、多くのヒトは安心して「信頼。」しているのである。

 現在の生物学のパラダイムに従えば、事故が起ころうが、何人死人が出ようが、それらは全て生物進化過程における「結果。」であると同時に、全ては「目的。」であるということになっているのである。だから長谷川眞理子は「将来犯罪が増えるかどうか、楽しみ。」などと他人事になってしまうのである。これは「客観性。」ではなく、単なる「他人事。」であって、科学的でもなければ当然糞の役にも立たない屁理屈でしかないのである。

 科学的でありさえすれば、何をしても許されると勘違いしてはいけない。少なくとも公費を用いて研究される機関において、全く無益な研究をして良い訳がないのである。

 生物学や脳科学、哲学が事故調査や事故原因究明に何かの役に立っているだろうか。否、全く役に立たないのである。それはこれらが全く論理的でもなければ科学的でもないからである。



 従来の事故調査委員会が、なぜ一つだけの原因への絞り込みをしようとするのか。それは本当に委員会の人間達が再発防止に対する「意識。」が足りないからであろう。逆にいえば、当事者である被害者遺族の提言に多重原因に言及できるのは、本当の再発防止への「意識。」が働いているからなのである。

 事故調査委員会というのは、いうなれば自主的に行っているものではなく。単に制度として作られた委員会に選出されただけの、雇われ委員でしかないからこそ、特定のバカでもわかるような単一原因への「絞り込み。」によって、「明確化。」した気分に陥っているのである。

 委員の一人はこう述べる、「仮定の話までしたら、キリがない。」と。事故調査や再発防止策の確立に、「キリ。」などというものは初めから存在しない。終わりなくどこまでも追求するための事故調査委員会でありながら、「キリがない。」つまり、「終りがない。」などと述べるというのは、最初から面倒臭い気分でやっているからなのである。こんなやる気のない委員など、北朝鮮にでも宅急便で送りたい気分である。税金の無駄遣いも甚だしい。

 「これさえ、やっておけば、頭が良くなる。」的な短絡的解答を大衆は喜んで鵜呑みにする。それと同じ無意識な感覚によって、「これさえやっておけば、事故防止になる。」的な短絡的解答を求めるのは、いかにも「お役所仕事。」の面目躍如といったところである。

 もはや特定のお役所仕事では、本当の原因究明など期待できないのである。本当に再発防止を追求するのであれば、根本的には刑法を廃止し、全てを公表することによって、あらゆる人が再発防止策に言及できるようにしなければ、構造的に無理がある。

 刑法という呪縛があるからこそ、責任追求を恐れて隠蔽が発生するのである。原発の情報隠蔽も、結局は責任追求を嫌って行われたものなのである。

 アンドロイドOSやそのカーネルとなるリナックスOSのように。オープンソースによって誰でも自由に言及できるような構造にするべきなのである。やる気のない特定の専門家だけを寄せ集めても、本当の再発防止など確立することはできない。やる気があれば無償でも行うものである。事故再発防止策というのは、全ての人にとって必要なものであるからだ。

 先程述べた、「キリがない。」とか言ってた委員が誰かも公表すべきである。もし危険学や失敗学の研究者であれば、こんな奴はとっととお払い箱にするべきであるからだ。別に責任は追求しない、単に社会的に考えて、研究者としての素養に欠けるからお払い箱にするのであって、研究以外のお仕事に就いて頂けばよろしいだけなのである。

 こうした研究者としての素養の欠けた人間が研究職に就いてしまっているのは、その基準として学力があまりに優先しすぎるからなのである。学力が高いだけのバカは、可及的速やかに研究機関から排除すべきなのである。それが社会的貢献というものであるからだ。


 そもそも「懲罰的指導。」などという、アナクロニズム丸出しの指導方法が未だに存在するというのは。指導を行っている人間自体が同じことをされたことを「連鎖。」しているのであり。これこそが無意識的な反射的行動結果に他ならない。

 優先されるべきは安全でなくてはならない。この安全を追求する時に邪魔なのが気分的な安心というものである。懲罰的指導を行っていた指導員は、それこそが安心だったからこそ行っていたのであり。無意識下に刷り込まれた情動行動であるが故に、それは異常なまでの執着を発揮することにもなるのである。


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自律。

2011年04月23日 13時20分23秒 | 意識論関連
 自分で自分自身の行動を律することができなければ、それは本質的に「人間としての知能。」ではない。

 特定の能力がどんなに秀でていようとも、それは「チンパンジーの瞬間記憶能力。」と何らかの変わりがないのである。世間一般においては、社会的に成功してさえいれば、それを「才能。」と勝手に規定するが。これには論理的根拠など存在しないのである。

 どんなに馬鹿げた多数の大衆観念をサンプリングしてきたところで、それが科学的、論理的な証明になどならない。

 もちろん、現在の生物学や哲学のようなオカルト状態の内部における観念の多数抽出でも同様である。

 「だって、皆が。」というのは論理的根拠、「理由。」にはならない。

 従来の教育システムにおいては、とにかく「学力成績さえ高ければ知能。」という論理性の欠落した観念に基づいて、成績ビジネスとして体制が出来上がってしまっており。成績さえ上がれば評価報酬となるように構築されてしまっているのである。

 さらに、大衆一般においては、とにかく自分さえ社会的評価が得られれば良しとする利己的な観念と結び付き。まるでオカルトのごとく学力成績を追求することばかりに執着するのである。これを「アスペクト盲。」とは呼ばないのは、単に多数の人が信じ込んでいるために気分的に安心であるためである。

 もちろん、建築設計を行うのに国家試験などは必要である。問題なのは単に国家試験さえ合格すれば、どんなに自律判断の欠落した人間であっても建築設計が行えるということである。

 ある特定の人物が、行動責任を全うする自律判断を持った人間であるかどうかを測定する基準などは存在し得ない。もしそれを規定したとしても、その規定に則って嘘をつけば良いだけのことであり。規定は意味を成さない。

 自律とは個人の意識に依存するものであり、外的には測定不可能なものである。アイヒマン実験の内容を既に知っている場合と、知らない場合では、被験者の行動が全く異なるのは予想するまでもなかろう。

 たとえアイヒマン実験を知っていて、実験に「引っ掛かる。」ことがなかったとしても。それが本当に個人の自律的な行動判断力を証明するわけではない。

 大衆観念からすると、個人の意識に依存する自律などというものは無益であると「思う。」らしいが。それこそそう「思って。」いる当人の意識の欠落を証明するものなのである。

 社会全体の信頼性というものは、あくまで個人の自律によって形成されるものであり。当然学力成績とは無関係であることは既に鬱陶しい程述べたはずである。どこまで鬱陶しく言わなければ理解できないのか、書いているこっちの方がよっぽど鬱陶しいのだが。そんなことにまでは大衆凡民の意識は働かないであろう。

 とかく自律のないヒトというのは、自分が今まで行ってきた行動に対して、何が何でも事後正当化するための屁理屈を取り繕う。だから自律的な脱構築可能性が失われるのである。

 年功序列体質などの、生物学上の「社会形成習性。」に由来する体制維持体質というのは、それが動物的な本能、情動行動によって結果的に形成されてしまったものであるために。その体制維持には感情論が先行するため、異常なまでの固執が生ずるのである。

 生物学や哲学といった、思考構造が文系の観念に由来する学者達にとって、従来のパラダイムを信じ込んでいた自分の愚かさを認識することを気分的に忌避するため。一向に改善することがないのである。

 それはカルト宗教の信者に対して「お前さんの信じているものは科学的根拠などないよ。」と諭しても、全く聞く耳を持たないのと同じ心理構造なのである。

 「養老訓。」とは、「嫌な話を意識から外す、無視する。」ための屁理屈の羅列である。従って、それを読んだ「ヒト。」の多くは気分的に満足し、自分勝手な観念の拠り所として異常なまでの執着をするのである。

 ドーパミンが作り出す気分的な「安心。」は、同時にそれ以外の事に対する気分的な「不安。」や「恐怖。」も形成してしまっていることを忘れてはならない。

 「社会の信頼性を高めるためには、先ず自分自身が行動責任をとること。」というあまりに自明な倫理を、大衆は意識から外そうとする。他人には責任を負えと言いつつ、自分は責任を取りたくないのである。こうした意識の低さこそが社会全体の信頼性を失う最も大きな原因なのである。

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ワトソン君。

2011年04月21日 19時32分20秒 | 意識論関連
 以前にもチューリングテストには意味がないことを書いたのだが。言語を理解したからといって、それが人間としての知能の論証にはならない。

 言語を理解し、相手を騙す詐欺師が。人間としての知能であるとは言えないのである。

 ディープブルーがチェス以外何もできないことは、最初からわかっていたことである。当然、ワトソンがクイズ以外に何も使い道がないことも、本当はわかっているのである。

 ワトソンは高価な玩具に過ぎない。いわば単なるお祭り騒ぎでしかないのである。

 ただ、機械が人間の言語を理解できるようになると、プログラミングは楽になる。難解なプログラミング言語を用いなくても済むようになるからだ。とはいえ、冷蔵庫10台分の大きさでは、家庭用というわけにはいかないだろう。ノートパソコン、あるいはiPadサイズにまで小型化されるには、10年以上はかかるのだろうか。最近はデバイス技術が壁に当たっているらしく、また、一般ニーズ自体がこれ以上の高速大容量を必要としていないこともあり。極端な高性能化の話も聞かない。

 昆虫や動物の持つ運動能力を機械に持たせるための人工知能の技術は現在成熟しつつある。しかし、単なる「チェスマシン。」とか「クイズマシン。」を作ったとしても、それが人間としての本質的知能による公益倫理判断を導き出すことにはならない。

 ヒトであっても、通り魔になることは時折あるし、また、「普通のヒト。」の6割以上はアイヒマン実験に「引っ掛かる。」のである。アイヒマン実験に「引っ掛かる。」のはなぜか。それは本質的意識が働いていないからである。

 現在の人工知能の技術においては、全て無意識な知能、動物的知能のエミュレートにしかならない。

 それこそヒトの脳を機械で作ったとしても、結局はヒト同様に、通り魔になるか、それとも禁欲的な研究者になるかは当人の「意識。」次第なのである。

 現時点においては、機械の知能に任せられる能力は、航空機の姿勢制御などの無意識機能の代替だけであり。行動責任を伴うような判断は構造原理的にできないのである。

 意識そのものが機械の上、あるいはヒトの脳の上で実現できなければ、発明や発見、あるいは問題解決自体は出来ない。

 機械であれ、ヒトの脳であれ、自律的に判断できないのであれば、本質的知能は発揮されることはない。つまり、本質的な意識そのものへの理解なくして本当の人工知能などというのは語るに足らない。

 学習によって高性能になるということは、つまり「何人の人を殺せば、人を殺さないようにできるのか。」ということであり。情動行動などの無意識的な刷り込み学習をする限り、そこには本質的な「学習。」としての判断は永遠にできないのである。

 どんなに無意識的学習を繰り返したとしても、全く経験のない状況に陥った場合には、全く信頼性がないのである。どんなに道徳的なことを子供に刷り込んでも、環境に因って通り魔になってしまったのでは、到底「教育。」として成立していないのである。




 なんだか、説明する気力がないので、かなりの散文乱文になってしまった。面倒臭いので今日はおしまい。

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タッチパッドの動作異常。

2011年04月21日 11時48分17秒 | 日記
東芝アンドロイドのタッチパッドが異常動作することがあるのだが。もしかするとブログを書いている最中にメール着信があると問題が発生するのかも知れない。

 以前、長文を書いていると異常が起こったと書いたが。短い文章の場合、途中でメール着信をしないから問題が発生しなかったということらしい。この前の記事を書いていた最中にメール着信があって、異常動作が発生した。

 とりあえずの対策として、メールソフトを立ち上げ、左クリックメニューから設定を「一時間毎。」に変更しておいた。着信自体を手動に変更すれば万全であろう。

 追記:

 メール着信とタッチパッド異常動作は無関係であった。なんだろね、面倒臭いわー。キーボード付きアンドロイド端末なんだから、CGIで文章が打てなきゃ意味なかろうと思うのだが。なんだかなー。
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再発防止。

2011年04月21日 11時42分21秒 | 意識論関連
 以前にも書いたんだけど、現在の司法制度というのは事件や事故の再発防止策に対して全く考慮されていない。

 先日のクレーン車が子供6人を轢いてしまった事故においても、死人が出る以前に既に怪我人が出ていて、法手続き的には執行猶予付きの判決が出ただけで、全く再発防止になっていなかったのである。

 クレーン車を運転していたくらいだから、それ用の免許を持っていたはずであり。それが病気のために失職するのであれば、執行猶予付きの判決なんぞ糞の役にも立たないのである。

 それこそ、薬を服用している期間は運転免許を失効させて、その代わりに何らかの保障のようなものをしてあげないと、こうした事故は一切なくならないのである。

 一体何人の死者を出せば、事故に対する再発防止策を検討するシステムが構築できるのであろうか。

 それこそ「ニーチェを読んで前向きに生きる。」だとか言っている場合ではないのである。哲学者達は一般市民の死者を全く他人事として、自分達の人気取りにばかり邁進しているのである。こんな馬鹿げた哲学など、糞の役にも立たないではないか。

 何も考えず、何も認識しなければ、大脳辺縁系は楽であろう。そうした安心のまどろみに浸っているから悲惨な事件事故は減少しないのである。

 大学もマスコミも全く役には立たない。市民一人一人が声を上げないと、こうした社会制度の変革は起きないのである。当然、人気取りでなっただけの国会議員であっても同じである。




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Apophysis。

2011年04月19日 22時56分30秒 | 日記

 「Pixiv」っつう、イラスト投稿サイトの中で、アポフィシスっつうフリーウエアを使った画像がたくさん掲載されている。

 マンデルブロ集合とかジュリア集合などの数学計算を用いて自動的に画像を生成するとのことなんだけど。「種。」の選び方とか設定によって、結構作者の個性が出るらしい。

 Pixivの内部検索で「Apophysis」と入力すれば、新作から一覧で見ることができる。

 Pixivでなくても、個人でサイトを運営している人もいるので、幾つか掲載してみる。

chloe
玲奈:この人のサイトには直接Apophysisの画像は掲載されていなかった。
Muzu

 もっと詳しいサイトがあるかも知れない。とりあえずです。でわまた。
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裏メニュー。

2011年04月17日 14時19分29秒 | 日記
 東芝アンドロイドのAZ05/Mのブラウザで、時折何かの拍子に「画像を保存。」とかっていうメニューが出てくることがあって、それを意図的に出そうとしてもどうしてもできなかった。

 実はなんてことなくて、左クリックボタンの長押しで表示されるのでした。

 んで、Pixivっつうイラストサイトから、Apophysisとかってアプリで生成したっつう画像とかをダウンロードして壁紙にしてみた。ここはフリー素材とか「使ってもいいのよ」っつう画像が結構ふんだんにあるので、見るだけでも結構楽しめます。
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進化。

2011年04月15日 11時53分46秒 | 意識論関連
 生存や繁殖につながれば「進化。」と呼び、それ以外を「退化。」或は「進化の袋小路。」と呼ぶ。

 生存や繁殖は全て結果論であって、それ自体は目的であることの証明などない。

 身体の構造に限らず、行動習性であっても、それらは先天的、或は後天的に決定されるものである。

 先天的であろうと、後天的であろうと。目的意識に基づいて選択された行動以外の全ては「目的。」であるとは言うことが出来ない。

 イヌがどんなに高度な社会性を発揮しようとも、それは習性によって導き出された結果的行動であって。イヌ自身が目的意識に基づいて、本質的な自発的選択をしているわけではない。ヤクザとか、カルト宗教だとか、北朝鮮だとか、ナチス、ポルポト、挙げればキリがないが、生物学上での社会形成習性それ自体には、目的などないのである。偶発的に指導者が目的意識を持って、その社会を統率することができるとしても、あくまでその統率者個人の人格性、公益倫理的な自律判断によるものであり。結局重要なのは個人の資質であることに変わりはないのである。

 優生学の危険性というものも、結局は生物学特有の「結果。」を「目的。」にこじつける論理性の欠落による曖昧さが原因なのである。

 意識論では、結果は結果であって、遺伝的要因に関わらず、個人の目的意識次第が重要であることを論じている。

 人間としての知能として、最も重要なのは公益倫理的な自律判断である。自律とは自発の中にあり、他にはない。そして、自発性とは意思と同義であり。意思とは個人の本質的選択の中にしかない。

 特定の能力だけを抽出して、「あれも才能。これも才能。」とテキトーな大衆迎合をしていれば、大衆の脳は気分良くいられるであろう。どんなに特定能力に優れていても、人間としての公益倫理的な自律判断ができなければ、それは「人間としての知能。」でもなんでもないのである。

 遺伝子解析からは、民族も国境も、そこからは抽出することはできない。従って科学的には民族浄化などという手法は存在し得ないのである。

 たとえ虐待をされた人であっても、それを子供に連鎖しないようにすることが可能であり。それを行うのが当人の「意思。」であり、また「意識。」なのである。

 本能の赴くままに、地動説を火炙りにしておけば多くのヒトは安心であろう。ヒトとはそういうものである。だが、ヒトは自らの意思によって人間としての行動を選択することも可能なのである。ただ漫然と論理性の欠落した生物学のパラダイムを鵜呑みにしておけば、多くの生物学者達は「安心。」であろうゾロアスター教に満足していれば、多くの文系哲学者達は安心して「前向きに生きる。」ことができるであろう。だが、それらは全て気分の問題でしかないのである。

 気分的にどんなに「安心。」していても、「恐くない。」としても。それが論理的根拠を持たない観念である限り、理論的には「安全。」ではないのである。

 「安全。」というものは科学的、工学理論的に追求するものであって、観念的に気分の赴くままに流されておけば確立されるようなものではない。世間では安全と安心をむやみにセット販売したがるが。気分的に安心しているから危険性が増すという事例は極めて多い。恐いと思うからこそ安全性への意識は働くのである。

 失敗学や危険学なども、あくまで過去の悲惨な事例を真正面から捉えることから始まるのであり。引きちぎられた航空機の機体の破片を見て、その恐ろしさ、怖さを知ることから安全性というものは確立されるものなのである。

 自らの意識の低さ、愚かさを認識して初めて自己自身の安全性というものは確立される。多くのヒトは、特に文系のヒトは気分的に荒むとしてこれを忌避したがる。こいつらは生物種としての「ヒト。」ではあっても、意識が働かない限り「人間。」とは言えない。

 アスペクト盲などの盲目性も、既に存在している自分を正当化していないと気分的に嫌であるために、「意識から外す。無視する。」ことによって現実逃避をすることから生じるのである。

 自分は責任を負う選択をせずに、他人にばかり責任をなすりつけるのは卑怯者でしかない。それを多くのヒトは「謙虚。」とすりかえ、自己正当化をしたがる。それは「卑屈。」であって「謙虚。」ではない。

 進化というのは、もはや遺伝的進化には意味がない。突然変異の結果自体に当人の「意識。」的選択は存在し得ないからである。発達障害、学習障害と呼ばれる人であっても、それは単に社会から疎外してしまうという構造的な結果論に過ぎない可能性も十分にある。当人の意思、自発性を無視した現在の学力偏重教育そのものからの脱構築を行わないと、本当の「才能。」を社会が潰している可能性は充分にありうる。

 逆に言えば、カルト宗教だの占いだのスピリチュアルだのといったペテンに多くの「普通のヒト。」が引っ掛かるのは、現在の教育システム自体に根本的欠陥があるからに他ならない。バカを大量生産しておいて、一体何が「教育。」であろう。

 私が論じる教育とは、別に奇異なものではなく。ノーベル賞受賞者達が論ずるような、本質的な自発性を重んじる教育をすべきであると言っているだけである。目先の学力だの成績に目を奪われ、本質的な自発性や、それに伴う自律判断を無視した大衆の基準を棄てて。深い考えに基づいた本当の天才達の言葉に耳を傾けろと言っているだけである。

 それによって社会全体の持続可能性を得ることが出来れば、本当の意味での目的意識的選択による社会の進化となるのである。どこに「進む。」のかもわからずに、「進化。」もすったくれもあったものではない。

 ナチスやオウムのように「進化の袋小路。」に陥ってしまうことを回避するには、個人が目的意識を持って行動選択することが大前提である。ただ漫然と体制に迎合していれば、気分的には安心かも知れないが、それは安全ではないのである。

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原発推進。

2011年04月13日 21時33分39秒 | 日記
 風力発電とか、太陽光発電といったものは、個人とか中小企業でも参画できるもんだから、原発みたいに独占することができなくて、関連天下り役人達が嫌がるんだね。

 採算性云々とかって話でもさ、結局安全性を優先したら採算採れないってことは、元々原発っつうのは採算性が悪いものなのでーした。

 地熱発電所が建設されないのは、温泉旅館街が温泉出なくなって商売に影響するかららしい。でも、原発抱えてまで温泉を温存する必要ってあるのかな。

 まあ、おいらは温泉好きじゃないから、そんなこと言うのかも知れない。

 都知事が言ってたけど、パチンコ屋電気使いすぎっつうのも大賛成。おいらやらないもんね。自販機も、東京都内であればコンビニは検索すればすぐ見つかる。ただ、検索しないと意外と見つからないんだけどね。コンビニって。セブンイレブンとかバリューローソンとかって地元密着型なので、表通りにはなくて裏道にあることが結構ある。「あ、こんなとこに。」っつう感じでいきなりあったりする。しかもフランチャイズごとに検索しないといけないから、統合コンビニ検索サイトがあれば便利そうだな。スーパーマーケットも一緒にね。

 何の話だっけ、ああ、原発利権ね。天下り役人がどうして天下りに執着するのかというと、それが社会的成功だと思っているからだね。

 「エサ。」のことだね。より効率良くエサを手に入れるためにだけ意識が働いていて、統合的に考えた上での公益性とか倫理なんか、あいつらにとってはどうでもいいわけさね。あいつらに言わせれば、「だって、みんなそうだろう。」ってね。天下り役人ってのは高学歴であり、高学力だったわけです。でも、それらも結局抽象化された「エサ。」に対する反射行動の結果でしかなかった。だから本質的には自発性がないので、結果的にも自律判断というものがない。「悪いのは、世間。」なのね。

 もちろん、おいらの指摘しているのも「悪いのは多数。」って言ってるよ。でもね、おいらの場合はきちんと原因とか再発防止策の再構築を提起してんじゃん。そうじゃなくて、あいつらの言っている「悪いのは、世間。」っつうのは、「俺が悪いことすんのは、お前らが悪いからだ。」っていう意味であって、根本的に構造が違うっしょ。違いがわからんかぇ。何の問題解決にもならんばかりか、むしろ問題を悪化させるようなことしかしてないだろ。

 ああ、もう花粉で目が痒くて集中できない。でわまた。



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twitter。

2011年04月13日 21時21分35秒 | 日記
 ツイッターから誰かがフォローしましたとかメールが来たので、早速ログインしてフォロー仕返したんだけど。全く相手のツイートが表示されない。

 なんだろうと思ったら、12時間まえのツイートだった。しかし、なんで急にフォローしてきたんだろ。ツイッターにログインしてないのに。

 で、思ったんだけど、もしかしてこのブログ見てフォローしてきたのかなって。

 一体何の理由でおいらをフォローしてきたんだろ。使い方も良くわからないのに。ブログ読んでいるならコメントしてくれた方が、おいら的にはありがたい。文字数少ないツイッターだと、どうも消化不良。

 しかも、なぜか東芝アンドロイドだとツイッターが重いのよね。変換に2秒くらいかかることもあるので厄介。

 ブログとツイッターが連携するっつう機能があるらしいんだけど。具体的には良くわからない。何が起こるんだろう。
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イデア。

2011年04月12日 23時44分18秒 | 意識論関連
 プラトンのイデア論とかっていうのは、要するに混沌とした現実世界を拒絶しているだけの観念の世界である。

 大脳辺縁系が促す抽象化、すなはち「整理。」された世界をヒトは求めるため。結果的にイデアという観念こそが実体であるという現実逃避の屁理屈がイデア論である。

 ヒトが見ている自然界というものは、数十億年の生物史の中で、ごく最近の状態しか見ていない。初期の生物、カンブリア紀の混沌とした生物進化の過程を経て、種の淘汰が充分に行われた結果だけを見ているため。世界は一見すると混沌ではないように見えるのである。

 その整然とした「結果。」だけを抽出しているから、イデア論などという気分的理想郷を勝手に妄想してしまうのである。

 カール:ライムンド:ポパーが大批判した「プラトンの呪文。」というものも、プラトンの異常なまでの権威に対する盲目的強迫観念の結晶であるからに他ならない。

 だからプラトンを哲学だと思ったら大間違いである。

 それくらいなら判っていると思うけど。気がつかなかった?。

 イヌとかって、ヒトが品種改良することによって、極めて多種多様な混沌とした生物になってしまっているでしょ。あれは本来イヌという種の生物の中にあった性質を先鋭化させたものであって、直接遺伝子操作をしたわけではないので、環境によっては混沌とした多様な品種になるものなのである。

 実はヒトもある種の「品種改良。」が結果的に行われてしまっている。相手を理性的に見極めずに、その場限りの性欲で子供を作っちゃうもんだから、結果的に離婚率が増えたりするのではないかと考えられる。

 「恋愛は自由。」だとかいう観念を盲信したがるのも、そのためだろうね。そういうことにしておかないと、自分の行動の結果を正当化できない奴が多いんだろう。



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キャラクター。

2011年04月12日 18時09分31秒 | 意識論関連
 「この人は、こういう人だ。」という風に、自分や他人を決め付けておくと、多くのヒトは気分的に安心するらしい。

 脳内麻薬ドーパミンは、その常習性によって行動や思考を「整理。」する。

 「整理。」されていると安心。

 だから「整理。」しておこうとする。

 シンボライズとか抽象化といったものは、いわば「分類。」である。プラトンの言う「イデア。」なんつうのも同じであろう。

 権威者を権威者として扱うときも、同様の機構が働いている。権威とは、生物学的な社会形成習性によって促される服従対象のことである。

 権威とは、科学的には立証されることはない。ヒトであることに変わりはないので、絶対服従対象などというものは科学的には立証されることなど有り得ない。科学的には、いかなる権威者であろうとも、その発言は常に検証され続けなければならない。従って科学というものには精密検証と、それに伴う批判精神が不可欠なのである。それが失われるから科学からの逸脱が生ずることになる。

 相手がノーベル賞受賞者であろうと、東大名誉教授であろうと。嘘や間違いは指摘しなければならないのである。それは誰であろうとも構わない。ただし、その検証性は論理的でなければならない。

 科学の世界に権威は必要ないのである。

 では、それ以外の世界に権威は必要か。

 実は必要ではない。必要であると「思って。」いるのは気分である。権威が存在すると気分的に安心なので、逆に権威が存在しないと気分的に不安であり、恐怖を感じるのである。

 イヌに見られる順位欲というものは。服従対象が明確であるとき、非常に従順で素直で情動的に安定した状態で盲目的に服従していることができる。

 つまり、権威が明確な状態というのが、ヒトにとっては精神的な安定をもたらし。逆に権威が不明確な状態に精神的恐慌をもたらすのである。生物学的な社会形成習性というのは、本能であるから、本能のおもむくままに行動していないと不安で仕方がないのである。

 ヒトという種の生物は、ヒトになる以前の単なるケダモノであった期間の方が圧倒的に長いのである。従って、そのケダモノがどのような進化過程、生存過程を経てきたのかなど、もはや知る由もない。それこそレイプとかSMに対する本能的快楽が、どのような過程によって本能として組み込まれていても、もはや自分自身ではどうにもならないものなのである。

 「レイプされて気持ち良かった。」という話も、それ自体は当人の「意思。」とは無関係な大脳辺縁系に組み込まれた機械手続き的な条件反射であり。そこに当人の選択の余地などないのである。いわば、「坊主の頭にハエがたかって、うっかり笑ってしまった。」ようなものであり。単なる条件反射でしかないのである。

 それと同じで、権威者に服従して他人や自分自身に多大な迷惑をかけてしまう「習性。」であっても、それは当人の選択によるものではない。だが、「権威にうっかり従ってしまって、600万人のユダヤ人を死体に変換しまった。」というのは「坊主の頭。」と同列に扱える問題ではない。途中にいくらでも権威と決別するチャンスはいくらでもあるからだ。

 それは「権威。」の代わりに「多数。」の意見に同調しても同じである。結局は気分的な安心によって促される行動選択でしかないからだ。

 権力者による統率こそが、治安維持に不可欠であるというのは、実は論理的な「考え。」ではなく。単なる観念的な「思い。」でしかない。

 だが、面倒なのはヒトが思い描く観念的安心というものは、本能に直結しているために、いわば強迫観念的にしがみついてしまうため。どんなに論理的に説明しても理解「しよう。」という気分的な「意欲。」がわかないのである。

 逆に、論理整合性のない、読み手が勝手な解釈をできるようなテキトーな話の方が、ヒトの脳が気分的に楽になるため、異常なまでの「意欲。」を持ってしまうものなのである。

 養老孟司とかニーチェの人気の原因は、そこにある。

 いわゆる「元気が出る。」とか「勇気がわく。」といった類の気分的な高揚を促進するのである。これが麻薬性、常習性を持っているのである。

 前向きな気持ちで600万人のユダヤ人を死体に変換したアウシュビッツの役人達の意識というものが、一体どういうものであったのか。一般的なヒトの多くは、「特殊な変質者の群れであった。」と分類し、抽象化し、決め付けることによって。自分とは無関係な現象であると意識から外すことで安心するのである。

 私自身、意識論関連の話を書くのは気が乗らない。面倒臭いのである。説明する方も、読む方も、共に気分的には嫌な話でしかない。それでも書かねばなるまいし、また、可能な限り読まなければならないのでもあろう。

 ヒトという種の生物は、理論的に考えるのが嫌なのである。そういうものなのである。それなら考えなくて良いなどというわけにはいかず、理論的に追求しなければならないのである。

 養老は、理論的追求というものは、中東由来の一神教特有のものであって。日本では馴染まないなどと言い張る。当然、論理的な根拠など存在しない。むしろ、論理的追求をされたくないから、予め予防線として敷設しておいた思考停止のための屁理屈に過ぎない。

 占い師が「人を信じないのは、心が狭いから。」などと言っているのと同じ構造である。

 ペテン師が相手を丸め込むときに使う常套手段なのである。

 養老は、非常に偉そうである。いかにも落ち着いた東大名誉教授然とした態度というものを心得ているのである。だから多くのヒトは騙される。

 ヒトというのは、見た目が9割なのである。つまり、言っている内容の論理的精密検証性とかには意識はいっておらず。単なる「見た目。」でほとんど判断してしまうものなのである。

 ヒトは、他人を評価するとき。ほとんど無意識に機械反射的に行っているものなのである。だから正しい判断ができなくなる。

 振り込め詐欺のように、相手が視覚的に見えない場合、多くのヒトは相手がどのような人物であるかを勝手に妄想し、作り出してしまう。警察官然とした言い方とか、弁護士風味な言い方というものによって、多くの人は無意識に、機械手続き的条件反射によって、相手がどういう人物であるかを、勝手にでっちあげてしまうものなのである。

 いわゆる、「説得力。」と呼ばれるものの99%は、実際には論理的根拠に基づく合理性ではなく。雰囲気的な気分の問題でしかない。だから詐欺とか占いが商売として成立するのである。


 意識論関連の記事を読んでいる人というのは、どう考えても漫然と無意識に読んでいるような人ではないだろう。しかし、果たしてどこまで理解して、何がわからないのか。それが私にはわからないので、記事を書くにも取っ掛かりがない。

 時折「お前らバカだろ。」とか書いているから、読み手としてもコメントは書き難いのかも知れないが、こちらとしても取っ掛かりがないのでどうにも書き難い。携帯電話で読んでいる人も多いようなので、コメントも書けないのかも知れない。

 まあ、思い付くまま書いておけばいいのかな。それで読者が満足しているなら、別に構わないのだが。



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変更?。

2011年04月12日 11時03分38秒 | 日記
 一時間くらい前にログインしたときと、ログイン画面が変わっている。なんだろ、事務局が対応したとか、そういうことなのかな。もし証明書が不一致でもセキュリティ的には問題ないって言ってたけど。なんかいろいろあるらしい。ブログ事務局さんも大変そう。ご苦労様です。
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