公益倫理的判断を自律的にできるかどうか、それを判定する試験は存在しない。
もし、それを規定したとしても、その試験自体の構造を「知って。」いさえすれば簡単に嘘がつけるからである。
公益倫理的判断を自律的にできるかどうかは、最終的には当人の意識如何に拠る。
自己自身が、単なる無意識的な生存本能だけで「生きよう。」とするだけの存在であれば、他人を騙すことに何らの躊躇もないであろう。本論では、「生存自体に意味などない。」と論じているが、生物本能的な生存自体に意味がないと言っているのであって、たとえスイス山中で自害しようともナチズムに反対するようなことこそに人間としての価値があるという意味である。
自己の生物的な生存自体に「人間としての価値。」が存在するわけではなく。自己自身の生きるに値する社会を望むためには自己自身の生存をも放棄するだけの強い「意思。」にこそ本当の意味が存在するのである。
自己自身が自己の存在を肯定できないヒトであれば、多数他人によって構成される「社会。」も肯定することはできない。「自分を大切にできない人は、他人も大切にできない。」のである。これは定理である。
占い師だとかペテン師達は、必ず「社会のために生きろ。」などと偉そうに言う。そういう話は大衆にはウケるからだ。だが、これはとんでもない嘘である。通り魔だの暴走族に対して「社会のためになるように。」なんぞ説いたところで、何の効果も存在しないのである。もし本当に「社会のため。」になることを勧めているのであれば、暴走族相手にも勧めていなければおかしいではないか。占い師がそんなことをするか、絶対にしていない。占い師というのは論理的に考えることの苦手な、精神的に脆弱な人間を追い詰めて、金をむさぼりとる以外に何もしないのである。
公益倫理的判断を自律的にできる人とは、社会的成功や利益、報酬などの物質的な豊かさを求めておらず。あくまで自己自身の日常の生活に生き甲斐を感じ、社会がより平穏で安全であることを自発的に望む人間であることが大前提である。
自律とは自発の中にあり、他にはない。これもまた定理である。環境に左右されずに自律的判断をするということは、そこに本質的自発性が絶対不可欠なのである。
公益倫理的判断を自律的にできる人とは、単なる生存本能、自己保存本能によって生かされているだけの生物的な存在ではなく。自発的に自己存在を肯定できるような生き甲斐を持っているかどうかが前提である。
養老孟司にとって、生き甲斐とは「虫取り。」でありヒゲボソゾウムシのケツの穴である。こうした当人にとっての意識的存在価値を蔑ろにしていたからこそ養老は支離滅裂な人間になってしまったのである。養老は本当は科学にも「人間について。」も興味はない。にも関わらずやたらと「人間について。」語ろうとするのは、それが世間的にウケたからであり。報酬になるからなのである。
これは極めて機械条件反射的な行動原理である。
従って、単に生き甲斐を「知っている。」だけでは本当の「意思。」は発揮されず。その生き甲斐自体を自己自身の存在価値として大切にしているかどうかが重要なのである。
養老であれば、「社会がそれを赦さない。」というであろう。「そんなことをして何になる。」とか「スルメ見て、イカがわかるか。」と言われて悔しいと恨みを連ねる。こうした他人からの評価に流されている時点で、本質的な「意思。」が極めて脆弱なのである。
本当に自発的に「スルメ。」の研究をしていれば、「イカがわかるか。」などと言われても「別にイカを知りたいのではない。」の一言で済んでしまう話であり。別に悔しがる必要性も恨みを連ねる意味もないのである。
「ヒゲボソゾウムシのケツの穴見て、自然がわかるか。」などと言われても、別に悔しくはないはずである。養老の「目的。」はヒゲボソゾウムシのケツの穴を見る行為そのものであるからだ。
養老はそれを「社会的に純粋行為を認めないからだ。」などと言い出すが、これこそ環境依存性の典型的な「症状。」なのである。誰に認められなくも行うから「純粋。」なのであり、評価報酬がなければできないという「泣き言。」を言い出す根性が、根本的に間違っているのである。
世間的なウケ狙い、社会的報酬、成功を「目的。」として、無意識的に解剖学を続けてしまったからこそ、そこに社会的評価としての「イカがわかるか。」という話に悔しがることになるのである。
これを養老本人に言っても無駄である。既に散々当人には手紙を出している。ましてやこれをネタに養老の吊るし上げをすることも許さない。本論はそれが目的なのではなく、あくまで判りやすい一例、症例として挙げているに過ぎない。
支離滅裂な「理論。」を展開しておいて、「読み手がバカなら説明しても無駄。」などと言い出すような単なるペテン師を再生産しないためにも、本当のバカが誰なのかを判断できる人が、より多く必要なのである。自発的に、何の役に立つのかもわからず研究するような「変人。」が必要なのである。そうした人というのは、単なる成績評価とは無関係の、本質的な自発性を持った集中力が必要である。
多くの大衆は、多くの人と同じであることに執着する。それが気分的に「安心。」であるからだ。だが、その安心こそが安全性を不具にする可能性を拡大するのである。
全員が同じところから物事を観察していれば、見えるものにさしたる違いはないだろう。それが「凡人大衆の安心。」というものである。逆にいえば、天才と呼ばれる人達というのは、そうした大衆迎合に興味のない、本当の「変人。」であり。本当の意味において「個性的。」なのである。
一般的に、「個性的。」というと、単なる目立ちたがり屋の奇異行動を指す場合が多いが。そうした自己顕示本能とは無縁の、もっと地味で極めて個人的な価値観を大切にすることこそが本当の「変人。」なのである。
こうした本当の意味での個性がなければ、皆して同じ認識しか持つことはできず。何ら新しい発見や発明はできないのである。
アイヒマン実験のような環境下において、多くのヒトとは異なる行動を採るというのと。科学的業績としての発見や発明をするということに共通点は多い。どちらも本質的意識の存在なくしては実現不可能な「変わったこと。」であるからだ。
どんなにたくさんの大衆観念を抽出しても、それはノーベル賞にはならないのである。ただ、金融工学などの「金儲け。」についてはノーベル賞が出るらしいが。これは最近問題視されているようだ。
確か、千住真理子の父親は金融工学の研究者だったと思った。いや、研究すること自体に害はない。その技術を使う市場の方に問題があったのである。それは原子力の研究自体に害があるのではなく、その使い方に問題があったのと同じである。科学自体は単なる認識の拡大であって、それを使う段階において本能的無意識が優先するから問題が発生するのである。
内燃機関自体の研究が温室効果ガスの大量排出を促したのではなく。その技術を用いる段階において金儲けという市場の欲望によって大量排出につながったのである。
科学的認識がなければ、温室効果ガスの環境への影響も知らずにいるということである。それは単なる無知というものである。破局への可能性を認識することができるのは科学だけである。ゾロアスター教だの養老教などのペテンでは、単なる気分的な満足や安心を得るだけで、何ら本質的問題解決にはならないばかりか、論理的思考を撹乱し、無意識な自己満足のまどろみに誘うだけなのである。
「自己満足。」というと、個人的な価値観に基づいて多数からの評価が得られないようなことをすることであると一般大衆観念的には認識されているだろう。だが、それは間違いである。どんなに多数からの評価を得ていようとも、ペテンに多数のヒトが引っ掛かっていることの方がはるかに無意味であり、有害なのである。
こんな文章を書いても、誰からも評価されることもなければ、報酬にもなりはしない。それでも、本当に安全な社会を構築するためには無駄であっても書くべきであると判断しているから書いているのである。本当に無駄なのか、それとも有意義なのか、それは「やってみなければわからない。」のである。
「現在の社会的評価。」に意味などない。まだ三ヶ月しかWeb上には掲載していないし、そもそも日本語でしか書いていおらず、評価が得られるとしても何十年かかるかわからない。だが、そうした社会的評価は本論の「目的。」ではない。
もし、それを規定したとしても、その試験自体の構造を「知って。」いさえすれば簡単に嘘がつけるからである。
公益倫理的判断を自律的にできるかどうかは、最終的には当人の意識如何に拠る。
自己自身が、単なる無意識的な生存本能だけで「生きよう。」とするだけの存在であれば、他人を騙すことに何らの躊躇もないであろう。本論では、「生存自体に意味などない。」と論じているが、生物本能的な生存自体に意味がないと言っているのであって、たとえスイス山中で自害しようともナチズムに反対するようなことこそに人間としての価値があるという意味である。
自己の生物的な生存自体に「人間としての価値。」が存在するわけではなく。自己自身の生きるに値する社会を望むためには自己自身の生存をも放棄するだけの強い「意思。」にこそ本当の意味が存在するのである。
自己自身が自己の存在を肯定できないヒトであれば、多数他人によって構成される「社会。」も肯定することはできない。「自分を大切にできない人は、他人も大切にできない。」のである。これは定理である。
占い師だとかペテン師達は、必ず「社会のために生きろ。」などと偉そうに言う。そういう話は大衆にはウケるからだ。だが、これはとんでもない嘘である。通り魔だの暴走族に対して「社会のためになるように。」なんぞ説いたところで、何の効果も存在しないのである。もし本当に「社会のため。」になることを勧めているのであれば、暴走族相手にも勧めていなければおかしいではないか。占い師がそんなことをするか、絶対にしていない。占い師というのは論理的に考えることの苦手な、精神的に脆弱な人間を追い詰めて、金をむさぼりとる以外に何もしないのである。
公益倫理的判断を自律的にできる人とは、社会的成功や利益、報酬などの物質的な豊かさを求めておらず。あくまで自己自身の日常の生活に生き甲斐を感じ、社会がより平穏で安全であることを自発的に望む人間であることが大前提である。
自律とは自発の中にあり、他にはない。これもまた定理である。環境に左右されずに自律的判断をするということは、そこに本質的自発性が絶対不可欠なのである。
公益倫理的判断を自律的にできる人とは、単なる生存本能、自己保存本能によって生かされているだけの生物的な存在ではなく。自発的に自己存在を肯定できるような生き甲斐を持っているかどうかが前提である。
養老孟司にとって、生き甲斐とは「虫取り。」でありヒゲボソゾウムシのケツの穴である。こうした当人にとっての意識的存在価値を蔑ろにしていたからこそ養老は支離滅裂な人間になってしまったのである。養老は本当は科学にも「人間について。」も興味はない。にも関わらずやたらと「人間について。」語ろうとするのは、それが世間的にウケたからであり。報酬になるからなのである。
これは極めて機械条件反射的な行動原理である。
従って、単に生き甲斐を「知っている。」だけでは本当の「意思。」は発揮されず。その生き甲斐自体を自己自身の存在価値として大切にしているかどうかが重要なのである。
養老であれば、「社会がそれを赦さない。」というであろう。「そんなことをして何になる。」とか「スルメ見て、イカがわかるか。」と言われて悔しいと恨みを連ねる。こうした他人からの評価に流されている時点で、本質的な「意思。」が極めて脆弱なのである。
本当に自発的に「スルメ。」の研究をしていれば、「イカがわかるか。」などと言われても「別にイカを知りたいのではない。」の一言で済んでしまう話であり。別に悔しがる必要性も恨みを連ねる意味もないのである。
「ヒゲボソゾウムシのケツの穴見て、自然がわかるか。」などと言われても、別に悔しくはないはずである。養老の「目的。」はヒゲボソゾウムシのケツの穴を見る行為そのものであるからだ。
養老はそれを「社会的に純粋行為を認めないからだ。」などと言い出すが、これこそ環境依存性の典型的な「症状。」なのである。誰に認められなくも行うから「純粋。」なのであり、評価報酬がなければできないという「泣き言。」を言い出す根性が、根本的に間違っているのである。
世間的なウケ狙い、社会的報酬、成功を「目的。」として、無意識的に解剖学を続けてしまったからこそ、そこに社会的評価としての「イカがわかるか。」という話に悔しがることになるのである。
これを養老本人に言っても無駄である。既に散々当人には手紙を出している。ましてやこれをネタに養老の吊るし上げをすることも許さない。本論はそれが目的なのではなく、あくまで判りやすい一例、症例として挙げているに過ぎない。
支離滅裂な「理論。」を展開しておいて、「読み手がバカなら説明しても無駄。」などと言い出すような単なるペテン師を再生産しないためにも、本当のバカが誰なのかを判断できる人が、より多く必要なのである。自発的に、何の役に立つのかもわからず研究するような「変人。」が必要なのである。そうした人というのは、単なる成績評価とは無関係の、本質的な自発性を持った集中力が必要である。
多くの大衆は、多くの人と同じであることに執着する。それが気分的に「安心。」であるからだ。だが、その安心こそが安全性を不具にする可能性を拡大するのである。
全員が同じところから物事を観察していれば、見えるものにさしたる違いはないだろう。それが「凡人大衆の安心。」というものである。逆にいえば、天才と呼ばれる人達というのは、そうした大衆迎合に興味のない、本当の「変人。」であり。本当の意味において「個性的。」なのである。
一般的に、「個性的。」というと、単なる目立ちたがり屋の奇異行動を指す場合が多いが。そうした自己顕示本能とは無縁の、もっと地味で極めて個人的な価値観を大切にすることこそが本当の「変人。」なのである。
こうした本当の意味での個性がなければ、皆して同じ認識しか持つことはできず。何ら新しい発見や発明はできないのである。
アイヒマン実験のような環境下において、多くのヒトとは異なる行動を採るというのと。科学的業績としての発見や発明をするということに共通点は多い。どちらも本質的意識の存在なくしては実現不可能な「変わったこと。」であるからだ。
どんなにたくさんの大衆観念を抽出しても、それはノーベル賞にはならないのである。ただ、金融工学などの「金儲け。」についてはノーベル賞が出るらしいが。これは最近問題視されているようだ。
確か、千住真理子の父親は金融工学の研究者だったと思った。いや、研究すること自体に害はない。その技術を使う市場の方に問題があったのである。それは原子力の研究自体に害があるのではなく、その使い方に問題があったのと同じである。科学自体は単なる認識の拡大であって、それを使う段階において本能的無意識が優先するから問題が発生するのである。
内燃機関自体の研究が温室効果ガスの大量排出を促したのではなく。その技術を用いる段階において金儲けという市場の欲望によって大量排出につながったのである。
科学的認識がなければ、温室効果ガスの環境への影響も知らずにいるということである。それは単なる無知というものである。破局への可能性を認識することができるのは科学だけである。ゾロアスター教だの養老教などのペテンでは、単なる気分的な満足や安心を得るだけで、何ら本質的問題解決にはならないばかりか、論理的思考を撹乱し、無意識な自己満足のまどろみに誘うだけなのである。
「自己満足。」というと、個人的な価値観に基づいて多数からの評価が得られないようなことをすることであると一般大衆観念的には認識されているだろう。だが、それは間違いである。どんなに多数からの評価を得ていようとも、ペテンに多数のヒトが引っ掛かっていることの方がはるかに無意味であり、有害なのである。
こんな文章を書いても、誰からも評価されることもなければ、報酬にもなりはしない。それでも、本当に安全な社会を構築するためには無駄であっても書くべきであると判断しているから書いているのである。本当に無駄なのか、それとも有意義なのか、それは「やってみなければわからない。」のである。
「現在の社会的評価。」に意味などない。まだ三ヶ月しかWeb上には掲載していないし、そもそも日本語でしか書いていおらず、評価が得られるとしても何十年かかるかわからない。だが、そうした社会的評価は本論の「目的。」ではない。