夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

茶花   気持ちを伝える

2006年10月16日 11時13分54秒 |  非・常識的茶道
Mixiのお茶のコミュで茶花は野にある花を使うことってことが話題になっていた。北海道の人は、もう山や野には花はないよって悲鳴を上げていたけど。

相変わらず無知蒙昧な私も恥じかきなレスをつけたけど:


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小間のあの限られた空間にそのコンセプトを支える程度に、自然の風景を取り入れるそれが茶花だと思いますし、広間や、大きな茶会での立華などとちがい、茶花の考え方はとても好きです。

でもXXさんのレスをみて、これから花がなくなるところもあると知り、そうだ東北から長崎へ来た友人が冬でも緑があると驚いていたのを思いだしました。

ここのメンバーの方の多くはお茶やお花を教えられている方だと思いますけど、先生方にお聞きします、外には花がない、その自然を茶室に持ち込むために、その時期、その地方ではあえて花を活けないのが本来なのでしょうか、それとも客の花を見てほっとする気持ちを大切に、人工的な花でもそこへ活けて行こうとするのが本来なのでしょうか。もちろんそのお茶会の趣旨やそのときの状況によって違うとは思いますけど。後者は受け入れやすいけど、前者は襟を正すような思いが込められているようで。

最近は電気の照明で茶室が明るくなりましたから夜噺のときでも色花でも大丈夫というどこかの脇宗匠の(馬鹿な)お話とはちょっと違って、すごく興味があります。
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書きながら、以前からよく言っている作家は自分の気持ちを表すのに、与えられた条件や、技術的な制限とかんなの一削りのような努力をしていることを思い出した。
もちろんそれ以前に自分の心、メッセージを突き詰めるというもっと大切な作業があるのだけど、その上にそれを現実にどう現していくかの問題。
でもその微小な差が見る人にはわかるし、だからいい作品を見たときには、作家と見る人の気持ちと気持ちの繋がりができるのだろうとおもう。
適当なところで手を売ってしまった作品や、自分の気持ちが自分ではきちんと把握していないで表面だけど感情でスタートしたものは、人の気持ちを打てない。

上の茶花にしても、亭主の気持ちは軸や道具組みで表されている。でもそれも決まりや伝統の上で決めていくのか、それを破ってもその場の気持ちを大切にするのか、亭主はそれを考えながら、気持ちを揺り動かせている、そしてその場はある一つの結論で座が持たれる。でも亭主の葛藤は伝わるようなものだと思う。それが亭主と主客の間の気持ちの交流だし、それがなければただのお稽古のお茶になるか、無駄な時間を費やして亭主のかってなマスターベーションに付き合わされるかってことだと思う。

創造的なものだけでなく、法と法の精神の葛藤とか、人間が関わっていくものには必ずこのような部分があり、それが生きる醍醐味なんだろうと思う。


ところでこのコミュの主催者の方が時々紹介されているお茶、素晴らしい道具組みで、お客も素晴らしい人々なんだろうと思う。これらの素晴らしい組み合わせでのお茶の楽しみは私にはなかなかたどり着けないと思うけど、一度雑誌に有名女優さんなどをお招きした朝茶を紹介されていた。
あまりお茶に詳しくはない女優さんを通して亭主と正客がお茶の美しさを紹介するという骨子だったのだろうけど、読むだけでも素晴らしいなと思った。
でもそのお茶の一番の要は後座にあって、そこで洒脱な切り替えしが用意されていて、女優さんや、読者にお茶ってこんなにも楽しいのですよ、堅苦しいだけじゃないんですよという場を用意してあったのだけど、女優さんの緊急事態で、そこがカットされてしまった。
私が思う限り、亭主のせっかくの心配りがふいになってしまった。
当座にいなくて、お話で組み合わせをお聞きするだけでも、私にさえ亭主の気持ちの一端がわかる素晴らしい企画だったのに。
お茶だけでなく、そのようなものは身の回りにあるれているのですけどね。

法律でも、ルールでも、本来はベターな解決の集大成。だからその場では当てはまらないこともあるし、もっと気持ちを大切にしなければならないこともある。その中で揺れ動きながらも、示される一つの決断は、言葉や、行動を超えたものなのかもしれない。 心に直接語りかけるものなのだろうと思う。