夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

松浦家とオランダ残照、、、、、因果は巡る  写真と文章を少し追加しました

2009年06月01日 11時58分28秒 |  岬な日々
        写真と、お約束の展覧会への私のコメントを追加して、タイムスタンプを新しくしました。





女もすなる「ぎゃ~、着るものがない!」といふ叫びを男もしてみむとてするなり、、、   ちょんちょん。

ワードローブを開けましたけど、なに、私の衣装って冬物のフリースの上下しかないの? 着るものがない。
今日は美術館に行こうと思ったのに、、、、、

仕方なく、有り合わせで間に合わせて、今日は五島美術館に「松浦家とオランダ残照」なる展覧会を見に行きました。

今年は1609年に平戸でオランダ貿易が始まってから400年目にあたり、その記念展でありました。

展覧会のことは、後ほど、、、、、(下に2,3行だけですけど追加しておきます)
でも、美術館に向かいながら、「はて?」って思いだしました。

先日来、いすみ市岬町の三門の駅を起点にした日記を書いています。
最初は森光子の放浪記の公演が2000回ということで、林芙美子の放浪記にでてくる三門の駅からの道の情景。
次が、その道沿いにある森鴎外の別荘、鴎荘の話。
そして、三番目に、梅屋庄吉の別荘と孫文
三門の駅とは関係がありませんけど、葵の紋で、大多喜の町やら源氏物語の葵の上やらなにやら、、、
今はいすみにおりませんので、珍しく写真抜きの文字だけの日記でしたね。。。

ところで、その「はて?」なのですけど、孫文の名前「中山」は孫文が東京の街を歩いていて、お屋敷の標識の中山を気に入って、自分の名前にしたと書きました。
それが
  「孫文の業績は本土の中華人民共和国でも、中華民国でも評価されていて、たとえば両国を代表する大学、中山大学(共和国) 国立中山大学(民国)も孫文の名前から取られています」
ということで、しかもその中山は明治天皇の生母の実家だったって。

その中山さんですけど、実は現在の松浦家の七代前の御当主の娘、愛子が中山家に嫁ぎ、その娘が中山慶子(よしこ)。彼女が明治天皇の生母なのです。

孫文はもちろん長崎にも来ていますけど、それ以外に梅屋は長崎人だったし、彼の名前の孫中山は松浦家の関係者の名前から来ていたりと、意外ととっぴなところで長崎と因縁があるのですね。

なんてことを頭の中に思っておりましたら、道を間違えそうになりましたよ。

そのついでにもう一つ、葵で源氏物語の葵の上を持ち出していましたね。
そこでは徳川の葵の紋についても触れていて、本多忠勝が葵の紋を許されていたのはいかに別格に扱われていたかなんてちょこっと触れています。徳川の葵は賀茂神社の神紋で、賀茂神社の神領が岡崎にあったからって書いていますけど、松浦家の祖先は、松浦家によると、、、、源融(とおる)嵯峨天皇の皇子で、、、と、ここまでは郷土史の本なんかを広げるとよく書いてあるけど、、、、その彼って、源氏物語の光源氏のモデルだって噂のセレブなんですよ、、、、
いぇ~~ぃ、葵の上の関係者がこちらでもでてきちゃった。

蛇の足です。
昨日、いすみの環境と文化のさとで捩花を撮りました
そして日記を書きながら思ったのですけど、この源融さん
古今集や小倉百人一首の

陸奥のしのぶもぢ摺りたれ故に
  乱れむと思ふわれならなくに

の作者の、河原左大臣その人ですね。



ちゃちゃちゃ、、、、って書きなぐったいすみの話4本の内、2本が今日の展覧会と因果があるなんて、、、、、 (なんて、言いながら、風が吹けば桶屋が儲かる話ですけど)

でも、私の家も、おばあちゃんの話では家は松浦家とはなんだか関係がありそうだったし、、(というのは真偽は定かではありません。興味のある方は、今彼女は天国におりますので、連絡して聞いてみてください)

それに、私の母、もともとは裏千家だったんですけど、家に嫁いできたら、家は表。祖母に笑われて、一念発起、、、、なんと、鎮信流の扉を叩いたんですね。
この子にして、この母あり。私の天邪鬼のルーツは明白ですな~
学生時代に、お茶をやりたいな~って母に言いましたら。鎮信流のお家元(先代のお家元)が東京で稽古場を持ってらっしゃるから紹介しますって、言われたのですけど、学生の分際でお家元のところに行くのはって、遠慮いたしました。今のお家元にその話をしましたら、「別にかまわないのに~」っておっしゃるけど、そりゃ上の方はそうでしょうけど、下のほうとしてはいろいろと慮ることがあるのですよね。
それにまだ学校に上がる前に、何年か表の稽古を見稽古させられていましたので、表のほうがまだとっつきやすいって感じで、、、それを言いますと、「家の嫁さんは表だから、いっしょにやれば?」なんですと、こちらもずいぶんと破天荒な、、、、
でも、おかげさんで、松浦のお茶は見ないままで過ごしましたけど、あそこもお辞儀をするときに、拳固で畳をえいやっとばかりに突くんでしょうかね~?

母親の裏風・鎮信流や、祖母や大叔母の表、おまけに、私が裏の袱紗捌きが好きだからとか、遠州さんの袱紗捌きは逆がっての時にはどうなるのかな~なんて言うものですから、師匠も面白がってああだこうだってお稽古のときにやっていて、二人とも頭の仲はごちゃごちゃ。師匠がほかの人のお茶席には出てはいけません。私が恥をかきますっていうのがよく理解できるほどに上達しましたよ。



もしかしたら、他の2本も松浦家とは関係ないかもしれないけど、意外や意外の関係がどこかにあったりして、

そういえば、森鴎外は斉藤茂吉が親しくしていた人、茂吉のお孫さんの由香さんのお話は以前書いたけど、茂吉は私の父親の先輩だし、伯父の文学の先生なんてのは関係ないか。。。。


蛇の足ですけど;
ところで、「松浦家とオランダ残照」に関しては、なんというか、学芸の人のコンセプトが私のような無学な人には はっきりわからなかった。
松浦家の展覧会は今までにも何度もあったし、その意味では面白い展覧会。
松浦家という日本史の中で1000年近くも海外との関係で特別な役割を果たしてきた一家、鎮信流というお茶の流れなど、見るものは多いはず。

以前の仕事から言えば、平戸や松浦家というのは私たちには重要な意味を持っていたのです。
おまけに長崎の新しい博物館ができるときに県の方が訪ねてこられて、(コンセプトを)どこにおきましょうね~なんて聞かれたときにも、オランダ、スペイン、ポルトガル以前に長崎は海外との長い交流の歴史があるのですから、その辺にももっと注意を払えば、もっと豊かな歴史遺産を紹介できるのでは、、、ってお話していたくらいですし、

でも、それとは別に、今回のコンセプトは平戸、松浦家とオランダの関係ということだったと思うのですけど、今回の展示は、展示品もその流れも、今までの「松浦家の展覧会」と何も変わっていない。
特にオランダ残照というサブタイトルをつける意味がどこにあったのでしょうかね。

展覧会は
五島美術館にて6月21日まで、、、


トップの写真は展覧会のときに五島美術館で見かけた美人さん。