写真に限ったことではないけど、焦点というのは何事にも必要ですね。
撮りたいものに向けてカメラを構える。その撮りたいものをどこにおくのか、中心なのか、それともわざとオフセットするのか。
もちろん、普通の場合にはとりたいものにピントを合わせます。でもほかをどれだけぼかしていくかも、その主題を明確にしていく必要な技術。
主題を浮き上がらせるのは、必ずしもピントだけではないですね、色や形が区別できればそれでもいいのですけど。
私はどうかすると、墨を流したような写真を撮りたがります。だから主題を明確にするって私が言うのはおかしいのかもしれませんけど、これはその主題になるものが私の心にすでに分かっているから、ただの墨流し写真でも私だけには意味があるのです。あくまで個人的な写真。だからこのような写真はPCにアップした段階で、削除してしまいますけど。それでもその墨流し写真でも、主題になるものにはピンとは合っているのです。そうでなければなんの意味もない色の流れだけになってしまいますからね。
ピントがあり、ぶれのない主題、、、、
そのピントやブレもブログ用にリサイズしたものではわからないかもしれません。でも、オリジナルの画面でよくよく見ると微妙にピントがずれていたり、にじみのようなブレが合ったり、、、、
このような写真をリサイズしても、実はどこかが甘いのです。
人間の微小な差を判断する力って実に凄いものがあります。
そんなことをなんどか書いたこともありましたね。
全体にピントが合っている写真というのがあります。でも全体のフレーミングや、色、形などをよく見ると、ほんとうはその何かに収斂するように、撮られているはずなのですね。
それがブログであれ、コンテストであれ、人に見せる写真は自分だけが分かっているものでは駄目、(なんていいながら、自分の作品はあまりにも自分本位のものですけどね~ 私は写真家ではないし、私の技術が及ばないだけの話なんですけど)見る人の目、心が、あなたの思っている主題に自然に流れ込んでくればそれは大成功なのでしょうね。
前にも述べたように、これは写真だけのことではありません。
あなたが作家であれば、作品を考えるときに心のどこかで考えていることでしょうし、私の以前の仕事であれば、展覧会を考えるときに、何の主題で、何を持ってきて、どこまでが目玉を集めて、あとはどのようなものをつけていくのか。
全てが超目玉級で構成、学芸員はそれを望むでしょうけど、お金ばかりがかかって、主題もぼけてしまう。けっして勧められるやり方ではないのですね。
でも、これは人に話をしたり、ごくごく日常の生活の中でも普通にあること。
ちょっと話題を変えて、考えてみれば、あなたもやっていることでしかないのですよ。
後は、その主題が、ほんとうにあなたが表現したかったものか、すべきものなのか、作品を作ったり、アートマネージメントをやったりするときの醍醐味はそこなのでしょう。主題をどう取り上げるか、展開するかなんてことはほんとうはたんなる技術的な問題にしか過ぎませんから。でもこれはあくまであなたの個人的なもの。学問としてのアートマネージメントでは取り上げられない問題ですね。
多少ともその後ろ盾になってくれそうなのが美学なのでしょうけど、これだって本当の意味でのあなたの手助けにはなりません。
ある学校から企画論を教えて欲しいと頼まれました。企画論とアートマネージメント、ある意味、技術的な部分はほとんど同じなのです。でもお断りしました。私のやっていることのベースはアートであり、その学校では美学の講座がなかったのです。たとえ美学が助けにならないとしても、ベースをまるで欠いた環境では無理ですからね。
作品作りに関しては私は門外漢。でもその作品を集めての展覧会なら、、
コンセプトを決め、主題となる主要作品を選び、話の流れを作っていく。
ほんと、この段階が楽しくって、三日やったら足抜けなんかできなくなります。
でも、それが上手くいったとしても、それはそれから何年も続く苦労の発端なのですけど。
私の仕事場はお金も、会場もありませんでしたから、その企画を新聞やテレビに持っていく。そしてスポンサードや会場を見つけてもらう、、、
名義主催料なんてものも払うお金もありませんから、仲間内で、相手の自主企画ということにしてもらうのですね。もちろんそうなれば私は終始黒子。本業の部分で表舞台に立ったことは一度もありません。でも、それでも自分のやりたいものができればいいじゃないですか。
でも、自分の仕事を振り返って、自分は幸運だったし、面白かったって今でも思えます。幸福ですね、、、、
なんて、またまた、常になく昔を振り返りました。
やはり、あのレジデンスのお話が私の気持ちに波を立てたのでしょうか。
それとも、お呼びが近いのでしょうか?