日本の詩は与えられたものそのままを受け止めるしかないけど、外国語である中国の詩は自分なりに訳を付けて遊ぶことができる。原文のままだと意味を取るのも難しいけど、この遊びが結構面白いし、詩の情景をもっとフレキシブルに楽しめる。
先日の中国の詩を自分なりに訳をした日記にレスをつけてくださった方が、口ずさむことができればとおっしゃっていた。
私も中国の詩をきちんと口ずさむことができればこんなにすばらしいことはないとは思うけど、正確に口ずさむということは厳密に言えばとても難しい。
古詩の自由な流れは四声を踏まえた韻の規則によって縛られてきて、それ以降の詩はこの韻を踏まなければ詩の構成を見ることも口ずさむこともできない。
しかも、字の発声は時代時代で変化しているのだから、今私たちが知っている音、あるいは中国の人が使っている音であっても、それが作られたときの音とは違うことがたくさんある。
詩を詠むこと、口ずさむことがもうすでにかなり大変なことだとすると、それに曲をつけたものを歌うということはそれ以上に大変なんだろうと思う。
中国詩をその当時の社会状況を理解しながらきちんと内容もわかり、その美的な価値もわかり、そしてそれをきちんと口ずさむ、本当にやってみたいことではあるけど、夢のまた夢。
それ以上に楽譜をそのもともとの意味合いの歌詞としてではなく、詩としてだけしか受け止められないとすれば、本来の評価とは異なる評価を与えているのだと思う。楽譜は本来は歌えなければ評価できないものだろう。
その辺で中国の人が下す評価と、私たちの評価が違うことがあるかもしれない。
以前お茶の道具は道具としての価値が最初にあるってことを書いた。美術館に収めるのはもともとの作られた理由を無視して、美術品としての評価を与えるもの。お茶の世界の評価と、美術品としてだけ見たときの評価が違うことも出てくるだろう。
長崎には唐の曲(というと唐の終わりごろのものだろうか)を楽しむグループが江戸時代から連綿と続けられていると聞いたことがある。たしか高校の漢文の先生がそのお仲間だったと思うけど。
先日の中国の詩を自分なりに訳をした日記にレスをつけてくださった方が、口ずさむことができればとおっしゃっていた。
私も中国の詩をきちんと口ずさむことができればこんなにすばらしいことはないとは思うけど、正確に口ずさむということは厳密に言えばとても難しい。
古詩の自由な流れは四声を踏まえた韻の規則によって縛られてきて、それ以降の詩はこの韻を踏まなければ詩の構成を見ることも口ずさむこともできない。
しかも、字の発声は時代時代で変化しているのだから、今私たちが知っている音、あるいは中国の人が使っている音であっても、それが作られたときの音とは違うことがたくさんある。
詩を詠むこと、口ずさむことがもうすでにかなり大変なことだとすると、それに曲をつけたものを歌うということはそれ以上に大変なんだろうと思う。
中国詩をその当時の社会状況を理解しながらきちんと内容もわかり、その美的な価値もわかり、そしてそれをきちんと口ずさむ、本当にやってみたいことではあるけど、夢のまた夢。
それ以上に楽譜をそのもともとの意味合いの歌詞としてではなく、詩としてだけしか受け止められないとすれば、本来の評価とは異なる評価を与えているのだと思う。楽譜は本来は歌えなければ評価できないものだろう。
その辺で中国の人が下す評価と、私たちの評価が違うことがあるかもしれない。
以前お茶の道具は道具としての価値が最初にあるってことを書いた。美術館に収めるのはもともとの作られた理由を無視して、美術品としての評価を与えるもの。お茶の世界の評価と、美術品としてだけ見たときの評価が違うことも出てくるだろう。
長崎には唐の曲(というと唐の終わりごろのものだろうか)を楽しむグループが江戸時代から連綿と続けられていると聞いたことがある。たしか高校の漢文の先生がそのお仲間だったと思うけど。