夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

歳とったのかな

2007年01月27日 11時02分18秒 | 日記
ちょっと前に、田舎町のグループで「あの駄菓子屋さんには子供のときに毎日のようにたむろしていた」って話がでて、今でも子供たちがたむろしているので、そのときには、この町は、表通りは新しいサーファーや別荘族のための店などがどんどん出てきているけど、ちょっと裏へ入ると、昔の雰囲気、生活が残っているのだなってこの小さな田舎町を好ましいと感じた。
実際、町を流れる川の流域や、町を取り巻く丘には今でも人が入れないような自然がたっぷりと残されていて、その自然を満喫している。

ところが、今朝、レストランの話をしていて、ふとこのことを思いだした。
大都会と違って私の育った町では、家から歩いて15分、20分の間にはお店は駄菓子屋さんが一軒しかなかった。家も軒を並べるのではなく、畑の間に点在していた。

小学校の低学年くらいまではお金のこともよく判らなくて、たんすの引き出しに転がっていたお金、今考えると戦前のお金だった、を見つけては駄菓子屋さんに飴玉を買いに行ったけど。それも一年に一度あるかどうかのことだった。
この辺の人は皆顔見知りだから、後から親に請求が来ていたのは当然だったろう。

長崎に移って高校に通いだしたころから始めて、クラブ帰りに小腹を癒すために学校の傍のうどん屋さんなどに入ったのがはじめての外食の経験だった。

高校をでて、東京に来たときに一番困ったのが食事。たくさん食堂やレストランはあったけど、入るのにとても勇気がいった。基本的に今でも外食は好きではないし、それ以上にレストランに入ることに抵抗がある。
だから私には人と話す話題が一つ欠如している。どこそこのレストランの何が美味しいとか、どんな料理が美味しいとかといった話題はやはり苦手。

今の若い人たちや、子供たちを見ていると、都会ということもあるだろうけど、レストランに入ったり、コンビニでの買い物など、生活の全ての面でお金を使うことに慣れている。社会が、殆どのサービスを経済として機能しているから当然といえば当然なのだろし、ある面とても便利になったことは事実だけど。。。

食事でもそう、家庭の味、母親の味、なんてものが少しづつ薄くなっていっているのじゃないかなって思ったりする。もっと広く取ると、厚意での人へのサービスなんてものはだんだんなくなってきているのじゃないかな。

日本でも一時、アメリカの風潮を真似して盛んに言われていた子供へのサービスへたいする対価。
私は子供に何かをしてもらうときに、お小遣いをあげるのは好きではない。
ゲマインシャフトとゲゼルシャフトは両立すべきだと思うし、そのなかで二つの価値観があってもいいと思う。むしろ、ある場所では愛情、厚意による無償の行為が期待されているし、それをするのが正しいというような価値観を持って育って欲しい。
例えば、業者によって温室で育てられた綺麗なバラよりも、持って来てくれた人が丹精を込めて作った虫食いのバラに感激する気持が欲しい。

ヨーロッパはそれでも宗教的な倫理みたいなものがあるから、手が空いてくるとボランティア活動を生活のスケジュールに入れるといったものがまだ残っているけど、でもこれも宗教離れ、アメリカ的な資本主義の広がりで、こちらも衰退しているのだろうか?


とりとめのない日記になりましたね。




今年は兎年かな、、ピョン、ピョン; 敷き松葉

2007年01月26日 09時03分58秒 | 芸術・文化

ちょっとしたキーワードで話がピョンピョン飛び跳ねているのを見ていると発想の転換を迫られてとても面白い。

知人が水仙を活けられていて、素敵だな、自分もアケビの籠に活けてみたいな、水仙はあちこちで一杯咲いているし、、
それともいっそ水盤にしてなんて写真を見ながら考えたのだけど、

でも水仙は好きな花だけどあの「お約束」の袴の付けはずしがいけない。どうも私の無骨な手には負えない代物。袴の付けはずしは嫁さんの仕事なんて負け惜しみを言っているけど。。。

それに袴の位置がよく判らない。低すぎると付けた意味がなくなるし、高すぎると変になる。
(それにそこまで上げると大概袴に傷を付けてしまう。葉っぱの細工も嫌いだし。師匠には哀れみの目で見られて、馬鹿にされるのが目に見えている)

水盤にして、松葉を敷いたらなんて思いながら読んでいた。
そんなことが頭にあって、その方の日記へのレスに敷き松葉って言葉が入った。

水仙は諦めて椿を活けてみたけど、やはりどうも不満なんてことが一つ余計なものとして入ってきたけど。
その水盤に敷く松葉が、茶室の庭の敷き松葉にとられて、死体を隠せになり、、(私は剣山を隠せの意味で使ったんだけど、ばらばら死体が日本の各地で発見されているご時世だから、それも世相の反映で面白いか)

それが庭の苔などを保護するための敷き松葉に変わって行っている。

きっとそのうち私はサーモンをさっと天日干にして、松葉の葉っぱでいぶすと、、、、
なんてことを書き出すのだろうなと、、、
今から予感している

高齢者の交通事故

2007年01月25日 13時24分46秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
警察庁から
高齢者(65歳以上)の事故死者が2809人で全体(6352人)の44.2%

という数字が発表になったとの報道があった。

普通に歩行していても、あるいは人と話をしながら歩行していても、目の前の道路を見ながらも、前後左右の車の音や気配を察知できるのに、高齢になるとそれができなくなる。

身体に感じ、危険信号を出すはずの感覚器官の衰えというのは如実に現れてくる。
目も悪くなるし、視野角も狭くなるということも言われている。
高い音が聞こえなくなったり(自転車のベルが聞こえない;チャイムやサイレンが聞こえない)、それ以外の音もよく聞き取れなくなることはよく知られていること。

足元も危なくなり、歩道のない道などでは傍をすり抜ける車に危ない思いをすることもある。

運動神経や、感覚が衰えていないときでも、注意力が散漫になり、回りのことがらがちゃんとした意味をもって感じることが難しくなっていることにふと気がつくこともある。

またとっさの判断が遅れていくのも自分でもわかる気がする。

認知症を予防、軽減するためにも高齢者を引きこもりにしないことの必要性が言われている。

高齢者はこれからも増えていくわけど、これからは今までとは違った観点(高齢者からはどう見え、どう聞こえるのかなども含めて)からの事故防止策、インフラの整備も必要になっていくのかもしれませんね。

植木鉢を抱えてうろうろと その2 ベランダからの報告

2007年01月25日 09時31分36秒 |  あなたの鼓動、華
1月13日の日記「植木鉢を抱えてうろうろと」で、うろうろと日差しを探しながら植木鉢を動かしていることを書いていますけど、その続編です。

以前からあるポインセチアやっと紅葉を始めました。家の子たちは私に似ておくてなのか、大器晩成なのか?





クリスマスにポインセチアと一緒に目を楽しませてくれたシクラメンはようやく花が終わりましたが、これから今年に向けて葉っぱを茂らせ始めました。



デュランタもまだ葉っぱを茂らせていますけど、どうしたものか?
このままでいいのでしょうかね。



これは上のデュランタを剪定した枝を水差しにしたもの。
先日ご報告したように、もう一月以上になりますが、根っこが出てきています。



なでしこはまだ花を咲かせ、蕾をつけています。一時期に比べて草丈も高くなったようです。



ナスタシアも夏の太陽を一杯に浴びた花も素敵ですけど、冬のちょっと侘しさが漂う色、形も捨てがたいですね。



カポックは2.5メートル以上に成長しました。



ゼラニウムやノボタンはもちろん元気です。
蕾もたくさんつけてくれています。






給食費未納 10万人、22億

2007年01月25日 08時16分49秒 | 日記
学校給食って食糧難のときに子供たちに栄養をつけさせるために始まったのじゃなかったっけ?
親が金を払わないというのなら、給食を全部止めにしたらどうだろうね。
子供たちは親の愛情のこもった食事を食べられるようになるから。
でも、今の親なら、コンビニ弁当代を持たせて終わりにするかな?

だいぶ前に、長野かどこかの村(町?)の長が、親の食事を食べられるようにと給食を止めようとしたら、そうすかんを食ったらしい。
子供の弁当を作る時間がないってさ。

刈りけりな一むらすすき年の暮

2007年01月24日 23時45分43秒 | 芸術・文化
先日、知人の日記に旧の正月は2月18日にあたることを書いていましたけど、今日はまだ12月の6日なのですね。

秋ごろから暮れにかけて薄の穂の写真をあちこちでアップしていました。今でもまだ完全に枯れ薄ってわけじゃない。
タイトルの薄刈りは枯れた薄を刈ることなんでしょうか?
なら、やはり関東以西では旧暦の暮れにならなければ、この状況にはならないのでしょうね。

新暦は便利ですけど、日本のいろんな文化が旧暦で行われてきています。それを無理に新暦に当てはめるのはやはり無理があるのでしょうね。


それにしても、茶室はないけど、松葉を庭に敷き詰めてみたいですね。雪の庭のように、風情が一変するのでしょうか?


写真は3日の散歩のときのもの

浅はかでした

2007年01月23日 09時08分22秒 | 芸術・文化
昨日の日記で椿の写真をアップしていました。
今朝よくよく見てましたが、反省しきり。

あれはこっちが自分のイメージで勝手にこうしたら綺麗だねって作り上げている。活け方も、写真も両方ともにね。
プロの作家ならそれでもいいのでしょうけど、私は単なるアマチュア。
綺麗なものなら、そのまま受け入れなきゃね。
浅はかな色づけなんか絶対にするべきじゃない。

あの椿を見てて、椿がどう見て欲しいのかを考えていないみたい。
活けるというステップがなくて、ありもの(自然のままの)の写真を取るというのだったら、もうすこし相手を見据え、相手に重点をおいて、自分のイメージは作らなかったかもしれないけど、、、、

現代美術を扱うときにはあれほど、白紙で見るんだって自分に言い聞かせているのに、不慣れなことをすると駄目ですね。
恥ずかしくなってきました。

人材不足? 

2007年01月20日 10時36分42秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
知人が医療現場での待遇改善を求める日記を書かれている。

この方は、今は介護師をなさっているけど、それまでは公立病院の看護師だったかた。ご自身が膠原病なのに結核病棟に移され問診などをさせられていたりして自分の健康が守れないと介護師へ転向された。
病院の人材配置の問題もあるけど、結局、個々の現場の問題よりも、医療全般での人員不足もその原因の一つにあるのだろう。
一頃は無医村問題などで、人材の偏在の問題があった。
でも今では大都市の公立病院などでも医師不足で入院を断ったり、科目の閉鎖などがたくさん報告されているし、先日も区立の病院で緊急手術を必要とする患者さんをスタッフの不足で手術できなくて都内、近県を当たったけどどこも受け入れられなく、静岡まで搬送したというニュースがあったばかり。

少子化が問題になって、政府も対応にやっきになっているけど、産院の閉鎖が相次いでいるのをご存知だろうか。

一般でも、病気になって病院に行っても診察を受けるのに何時間もまち、あちこちたらいまわしにされながら終了するのに一日がかりになっている。
その場で見てもらえるからと、何かあるとすぐに救急を呼ぶという人もいる。
あおりを食らって、救急車の出動が増え、緊急でない救急依頼は断れるようになってきている。

医療だけではない。昨日テレビで放映されていた都内のある特別医療老人ホームでは2-30人の入居者に介護師が2人で対応しているシフトもあったようで、痴呆や、身体に異常のある入居者が介護師の処置を待つために椅子に縛り付けられて半日以上廊下に並んでいることもあったようだ。
問題の発端は、介護師の入居者への心ない言葉を誰かが録音してテレビに訴えたことだけど、介護師は悪かったかもしれないけど、そこまで言わせるような勤務シフトを押し付けているホームや、それが日常化することを防げないシステムの問題なのだろうと思う。

でも、知ってます?
これを訴えようとしても、地方では弁護士も不足していることを。