淳は、教師をやり、農民になり、絵を描き、また郷里の山を海を楽しんで生きたが、それだけではない。彼は「9条の会・うすき」の代表として社会運動にも多くの足跡を残した。講演会や平和憲法の宣伝活動に取り組み、会の事務局長を務める女性を市会議員に当選させるなど多彩な活動をした。
中でも彼が最も自慢としたのは、「9条の会・うすき」の主催で、大江健三郎氏を臼杵に招き講演会を開催したことである。大江氏は、大分県では一度も講演をしたことがなかった。淳はその大江氏に、得意の画筆をふるって臼杵の風物や野上弥生子の生地であることなどを長文の絵手紙にしたため、大江氏の心を揺さぶり、ついに招致に成功したらしい。大江氏は大分県内で初めて開く講演会を、大分でも別府でもなく小都市臼杵で開催することになったのである。1300名入る臼杵市公民館は満席となり、大成功であったと報じられている。
私が見舞に帰った今月11日(死の一週間前)、ちょうどわが家で「9条の会・うすき」の事務局会議があった(事務局会議は代表の家で開くことを恒例にしているとのこと)。淳は私に、「兄貴、オブザーバー参加して東京の情勢でも話してくれ」というので出席した。淳は、熱に苦しみながらもベッドから起き上がり、わずか二間離れた客間までも車イスという痛々しさであったが顔をだし、開会の挨拶をした。
「ミャンマーでアウンサンスーチー氏が勝った。世界の民主主義運動は確実に前進している。民主主義の前進を阻むものには鉄槌が下されるのだ。皆さん頑張ろう」
彼は、「失礼だが私はこれで休ませてもら」と言い残してベッドに引き上げた。そしてこれが、淳の最後の演説となった。会が終わりベッドに行くと、「会議はどうであった?」と聞くので、来るべき「憲法9条にノーベル平和賞を」という大分の集会に、いかに多くの人を動員するかについて実にきめ細かい討議をしていたこと、みんな生き生きして実にいい会だ、と報告すると、
「兄貴、『党派を認め合い、党派を持ち込まず』、これが大衆運動の鉄則だ。これで俺は運営をし続けた」
と語った。多様な生き方を貫いたが、最後に、包容力を持った政治家淳の一面を見せてくれた。
大江健三郎講演会を報ずる大分合同新聞(2008年6月21日付)
写真は、大江氏に送った絵手紙を広げる淳
大江氏との懇談(左端が淳)
労働組合の指導者にしてもそういう理念が必要だと思います。民主主義の前進を拒むものには鉄槌がくだることにいう関しては、おそらく、北朝鮮の指導部と中国共産党はそういう運命をたどるような気がしています。吉本隆明は、戦後の自分の組合活動の体験からか、政党に加入している人は組合にはいれないようにすべきだとということを書いていた。
労働組愛も同じであろう、と思うが戦後の労働組愛には相当な問題があったのではないか? つまり、各政党が党派を持ち込んだのであろう。