淳は75歳で逝ったが、その生きた中味は、実に多様で豊かであった。
本業は教師であったが、まずその天分を発揮したといってよかろう。小中学校の教師として「よい先生」と慕われ、最後は臼杵小学校の校長まで勤め上げた。街を歩くと周囲から「先生、先生」と呼びかけられていたが、小学校の校長先生にとっては、町民は皆教え子に等しいのであろう。
山を愛し、絵を描いた。特に絵の才能は、私が最もうらやましく思った才能である。幾多の県展で入賞を果たし、地元紙大分合同新聞が漱石の『硝子戸の中』を連載した際、半年にわたって挿絵を描いた。「曇りガラス」などの新手法を編み出し、様々な画風に挑んできたようであるが、画題は主にブナにしぼられ、死ぬまでブナを描きつづけた。個展も、東京や秋田を含め数度におよんだ。
ブナは、絵の題材にしただけではない。教師を退職するや、退職金をはたいて九重の飯田高原に山小屋を構え、周辺にブナを植えた。ブナの素晴らしさを、それを育てる実践を通じて周囲の人に語りかけ、「いろり荘」と名付ける山小屋は仲間たちのたまり場になっている。
また、臼杵湾に面する佐志生の山にミカン山を経営し、採れた夏ミカンを毎年全国の愛好者に送っている。私の周囲にも、それを待ち望んでいる人が何人もいる。「兄貴、俺は今や農民だ」と語っていた。また、山菜類とともに魚貝を好み釣りを愛していたから、彼は、ふるさとの自然にどっぷりつかって生きてきたと言ってよかろう。
彼はただ自然とともに生きただけではない。「憲法9条の会・うすき」の代表として、その活動に多くの足跡を残した。その話は次回に譲ろう。
佐志生のミカン山で作業する弟夫婦(2012年夏)
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