旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

OECD大人の知力調査で日本一位の意味するもの

2013-10-09 16:33:53 | 時局雑感

 

 経済協力開発機構(OECD)が初めて実施した国際成人力調査(PIAAC)で、「読解力」と「数的思考力」で日本が一位となった。もう一つの項目「ITの活用力」では10位ということだが、これもコンピューターを使えない者が多く、それが不合格者とされたためで、コンピューター使用者だけの平均点では日本が一位であったという。
 近時、子供の学力低下が問題にされたり、若者の海外志向が失われたりしていることが指摘されて、暗い気持ちになっていたが、成人全体を見る限り日本はまだまだ負けていないのだ。
 これはおそらく、江戸時代からの寺子屋、明治からの国民皆教育、その後の義務教育の充実などがもたらしてきたものであろう。特に各紙は、義務教育後も社内教育や生涯教育が、高い教育水準を維持してきたとしている。
 
 私はそれらに加えて、戦後の高度成長と豊かな中産階級の構成が、現在の成人層の高知力を生み出してきたと思っている。各部門で日本が一位になった最大の要因は、傑出して高得点を取るものはいないが、上下の格差がなく平均して高得点を挙げた所為だ、とOECDも言っている。
 これこそ日本の最も強みとするところであろう。それにつけても気になるのは、この十数年来急激に進んでいる貧困層の現出と格差の拡大だ。貧困と教育不足は密接に結びつく。
 前述した近代日本が成し遂げてきた底辺教育の基盤が失われれば、この日本一位はもろくも崩れ去るのではないか…?


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1 コメント

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religious politics (noga)
2013-10-09 19:19:52
あらかたの日本人は、自分自身のことを無神論者であると考えているようだ。
それにもかかわらず、国の指導者が無宗教で (靖国神社とは無関係に) 戦死者に追悼の念を表明できないのはどういうことなのか。

人間は、基準に合わせて判断を下している。
日本人の基準は序列である。序列の基準は現実の中にある。非現実の基準は考えることができない。
英米人の基準は ‘あるべき姿’ である。この基準は現実の外 (頭の中) にある。人々が求めるものは、個人の頭の中にあるリーズン (理性・理由・適当) である。
彼らはリーズナブルの範囲での決着を願っている。リーズンを失うことは恥である。この恥は、見栄とも外聞とも関係がない。

我が国においては、お上の言うことは、理由のあるなしにかかわらず、現実の基準 (錦の御旗) になっている。そうでなければ非国民 (非序列人間)。こうした傾向は、国の内外から危険視されている。
民はお上の恣意に対して無防備・無力・無抵抗。’耐え難き’ を耐え、’忍び難き’ を忍んで、南の島に雪を降らせている。
民はたとえ反抗しても、筋 (リーズン) を通すことは難しい。筋により事柄を取り決める習慣が社会にないからである。

我が国の長は、自分が日本人の信頼を得るために、序列人間である証拠を示さなければならない。だから、神社参拝が必要である。カミに服従を示す態度・姿勢が欠かせない。信なくば立たず。村八分にされては活動できない。
序列人間の長であることが人々に確信できれば、いったん緩急あれば、’たとえ火の中水の中’ という人間がいっぱいいる。ともに散ります国のため。かれらは、そうでなければ動かない人たちでもある。
だから、我が国の政治家は、英霊の御霊に追悼の念を表す際に、宗教家の手を煩わさないわけにはゆかないのである。






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