旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

今年を振り返る … オーストラリア旅行②

2011-12-10 13:40:41 | 

 

 オーストラリアの植民地化に乗り出したのは、コロンブスでもオランダでもなく英国王室であった。ご存知キャプテン・クックの物語である。彼は1770年4月29日、シドニー郊外に上陸し、さらに北上して、オーストラリア東岸部の「英王室領有権」を宣言したとされている。
 考えてみればひどい話である。勝手に人の国に上り込み、ユニオンジャックを押し立てて自分の土地だと宣言し、しかも数万年前から住みついていた先住民アボリジニ族に不法占拠者のレッテルを張ったというのだ。そしてこの植民地に最初に英本土から送り込んだのは、囚人780人と海兵隊と家族1200人であった(1788年1月)。つまりオーストラリアは、イギリスの囚人の国としてスタートしたのだ。もちろん、私は囚人を悪い人間などとは言わない。政治犯など、囚人の中にはむしろ立派な人間も数多い。
 まあしかし、英国本土にとっては都合の悪い人間を遠くオーストラリアに流したのであろう。ところが、それから200年余で、オーストラリアは「世界一住みやすい国」に成長したのだ。英国『エコノミスト』誌によれば、「世界一住みやすい都市ベスト10」に、2位メルボルン、7位シドニー、8位パース、9位アデレードとオーストラリアから4都市も選ばれている。メルボルンはこれまで2回も1位になったというのだから、オーストラリアを、“世界一住みやすい国”と言っても文句は出ないだろう。
 そういえば、昼夜を問わず街を歩いて不安を感じることはなかった。行きかう人々は肩の力が抜けていた。けばけばしくはないが垢抜けしていた。そして郊外に出ると、どこまでも広い平原があり、土地はいくらでもある、と言っているかに見えた。空は高く、純白の雲が浮かび、果てしない平原に牛や羊がゆったりと群れていた。
 やはり彼らは、イギリスという最先端の国から、その良いところだけを持って来て、この広大な地に最上の国を築いてきたのだ。

        
       シドニー湾に突き出たオペラハウス
   
         メルボルン 大聖堂
   
   メルボルン フリンダースストリート駅


今年を振り返る … オーストラリア旅行①

2011-12-09 11:00:53 | 

 

 一昨日の「気がつけば年の瀬…」で、今年はいろいろとあったと書いたが、何と言っても最大の事件は東日本大震災であろう。そして私は、その最中にこともあろうにオーストラリアを旅していたのである。
 実は当初の計画は「オーストラリア・ニュージーランドの旅」であったが、出発の20日ほど前にニュージーランドを大地震が襲い、現地の合唱団とジョイントコンサートを行う予定であったクライストチャーチの大聖堂が倒壊した。急遽クライストチャーチを取りやめて、シドニーとメルボルンの日程に変えたのだ。そして3月9日東京を発ったところ、その2日後にあの大震災が東日本を襲った。つまり私は、20日の差でニュージーランド地震を避け、2日の差でわが東京の震度5を含む東日本地震を避けたのだ。
 これは、幸運といえばそれまでだが、特に日本の震災を避けたのは胸が痛む。何か逃げ回って自分だけがいい目にあったようで心の痛みは消えない。といっても仕方のないことでもあり、シドニーでもメルボルンでも、朝から晩まで日本震災のニュースを見ながら不安を共にした旅であったので、それで許してもらうしかない。もちろん、不安を抱きながらも旅は楽しんだ。初めて赤道を越えたオーストラリアは実に魅力に富んだ国であったから…。

 この旅は、前述したように現地の合唱団とジョイントコンサートをやる合唱ツアーであった。私はサポート隊の一員に過ぎないが、歌を通して現地の人々と触れ合うのは何とも楽しい。クライストチャーチがダメになったので、シドニーの南の都市ウーロンゴン市のコンサートだけになったが、これはいいコンサートであった。相手の合唱団は男声合唱団で、その名が「ランプライターズLamp Lighters]」。“灯をともす人たち”とでもいうのだろうか…。かなりの高齢の方々であったが、この街の人の心に長く「灯をともし続けてきた」のであろう。500人の会場は満員で、もちろんわが合唱団への拍手も含め、会場は熱い拍手に包まれた。終わってアフターヌーンティは相互の交流会となり、いつまでも名残尽きない交流が続いた。オーストラリアの歴史は未だ200年に過ぎないが、彼らはイギリスの悪いところ(宗教的しがらみとか階級制など)は捨て、いいところ(民主主義とか高い文化など)だけを持って、広大な土地に新天地を作ったのかもしれない。実に大らかな気持ちの良い人々であった。
 ただ、ちょうどその交流会の最中に日本を地震が襲ったのだが…。

  
 後列「ランプライターズ」、前列「登戸合唱団」の女性群


気がつけば年の瀬が迫っている。

2011-12-07 11:41:44 | 時局雑感

 

  今年はいろんなことがあったので、年寄りにしては時間のたつのが遅いようだ。と思っていたら、あっという間に年の瀬というやつが迫ってきた。
 まだ年賀状も書いてない。極力減らそうとしているが、どこまで圧縮できるか…? そういえば今年は「喪中につき…」という葉書が例年に比し少ない。考えてみれば、年賀状相手の人々の両親などがほとんど亡くなり、喪中の対象がいなくなったことが原因らしい。いよいよその対象は自分を含めた本人に絞られてきたのだろう。
 しかし世の中は課題が多い。来年に繰り越す課題で大きなものだけでも次のようなことがある。TPP問題…特に農業問題と絡めて。消費税問題…特に社会保障と一体的解決。この二つは国論を二分している。来年以降も二分して議論が戦わされるであろう。その点ではいいことだと思っている。原発是か非かも、国論を二分してたたかわされるだろう。
 沖縄普天間基地移転問題。これの国論をどう見るか? 沖縄でも意見は多岐に分かれているのだろうが、大方は「県外移設」で統一されていると思う。あの小さい島に米軍基地の74%を押しつけて半世紀を過ぎたのだから、本来は国を挙げて県外移設か無条件返還を求めるべきと思うが、日米関係の複雑さが物事を混乱させている。何とかすっきり、原則的立場に帰りたいが…
 何よりも大きな課題は、東北を中心にした「日本復興計画」に本格的に着手することだろう。来年を、震災、不況、低迷を乗り越えた日本復興元年の年にしたいものだと思っている。  


川内優輝選手(マラソン)の頑張りに興奮

2011-12-04 16:00:21 | スポーツ

 

  私の大好きなスポーツ、マラソンのシーズンが到来した。女子はすでに始まっているが、来年のロンドンオリンピック代表選考を兼ねた福岡国際で、いよいよ男子の選考も始まった。結果は“市民マラソンの星”川内優輝選手(埼玉県庁)が日本人トップ(全体で3位)となった。タイムが2時間9分57秒では、代表選考はどうなるかわからないが…。
 20キロ手前でトップ集団から遅れ、一時は先頭から数十秒は遅れたと思われる川内選手が、遅れたとはいえ1キロ3分強のペースを守り、36キロでもたもたしていた日本人先頭集団に追いついた。そこから今井正人選手と抜きつ抜かれつの激烈なトップ争いを演じ、40キロを過ぎてついに今井選手を振り切った。
 これには、興奮したと同時に驚いた。何といっても今井正人選手というのは、箱根駅伝の山登り専門の選手で、毎年何人抜きかを演じて新記録を更新し続けた選手だ。その才能はともあれ、大学で専門のコーチから専門教育を受け、長距離ランナーとして育て上げられた選手といえよう。一方の川内選手は、埼玉県庁に勤めるサラリーマンだ。仕事を休むこともない真面目なサラリーマンと聞いているし、練習は毎日仕事の前後の2時間と、土、日はほとんど市民マラソンなどの実践に参加し、それを練習代わりにしていると聞いた。まさにアマチュアランナーだ。それにプロ中のプロが勝てないとすれば、いったいどのような練習や教育をするのがいいのかを問いたくなる。
 いくら「走るだけのスポーツ」とはいえ、今や専門的指導を受けずに国際レベルに到達するのは無理だと言われている。そのような専門選手は、年に一つか二つのレースしか出場せず、満を持して勝ちに行く…、ところが川内選手は、毎週どこかの大会に出場しながら実践的練習を積んで、本番もその延長線上で勝利する。
 実際はそう簡単なものではないのであろうが、日本の、いや世界のスポーツ界は総反省の上、選手の育成方法を考え直すべきではないのか?
 それにしても今日のレースは興奮した。「川内がんばれ」と叫び続けて、最後に振り切ったときは胸のすく思いであった。


古き長き友、M君の死

2011-12-01 16:37:16 | 時局雑感

 

 不思議な縁で古く長き付き合いを重ねたM君が亡くなった。享年52歳。私たち夫婦が媒酌人を務めたので、友というより後輩とでもいうのかもしれない。実はM君のお父さんが銀行の先輩で、これこそ長きお付き合いで、こちらには私たちの媒酌の労をお願いした仲だ。そのご恩返しにご長男M君の媒酌人を務めたような関係だ。だから「古く長い」のだ。
 M君は9年前に、病名は忘れたが肺や横隔膜周辺を犯すガンに侵された。特殊なガンで進行が緩慢なため、何とかこれを克服すべく仕事をつづけながら病と闘った。2年後ぐらいに勤務会社(大手電機メーカー)の欧州会社社長の任命を受け彼は悩んだ。しかし医者の「5年はもつことを保証する」という言葉を受けて、彼は家族(夫人と子供二人)を引き連れてドイツに渡った。以降、月に一度は報告のために日本に帰ることも含めた激務をつづけながら闘病生活を送った。
 このガンは確かに進行は遅かったが、しかし確実に進行した。5年の社長任期を終えて3年前に帰国した時には、あらゆる新薬を使い果たしていた。しかし彼は、二人の子供を立派な国際人に育て上げた。長男を本人の希望する国立海洋大学に今年入学させ、高3の二男は英会話部の活躍で海外派遣の栄誉を国から受けた。その矢先、「緩慢だが確実に進行した」ガンは、9年間の闘病生活から52歳の命を奪った。
 通夜と告別式で、二人のご子息がそれぞれ父を語った。いずれも共通したことは「思うことを断固やりぬく姿勢を父に学んだ」ということであった。技術者の彼は、技術を身に着ける尊さと困難さを、子供に自ら示し語り続けたようだ。
 そういえば思い起こすことがある。まだ彼が元気であった頃、彼に求められて「酒が出来るまでの工程」を語ったところ、彼は米の精米のために研磨機を自ら作り、酒造好適米の山田錦を購入して、精米から始めてどぶろくまでを造り上げた。精米してもらった米や麹を買ってきて酒をつった人間はたくさん知っているが、精米のための研磨機から作った人間は見たことがなく、とても常人とは思えなかった、。
 しかし、彼の生き様は、二人のご子息の中に確実に生きている。
 


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