狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄の復帰34周年 基地撤去と軍雇用員

2006-05-15 16:15:54 | 未分類

今日5月15日で、沖縄は本土復帰して満三十四年を迎える。

沖縄タイムスは「国土面積の約0・6%の県土に、在日米軍専用施設の約75%が集中する過重な基地負担」と言う書き出しの社説を掲げている。

これに「日本で唯一の住民を巻き込んだ地上戦を強いられ」と「日本軍による住民虐殺」の表現がが加われば地元新聞が沖縄戦を表現する時の常套句の三点セットが完成する。

が、「住民を巻き込んだ唯一の地上戦」は元樺太住民や歴史家の指摘で沖縄だけではなく樺太でもあったことがわかり、最近では声高には言われなくなった。

琉球新報も「米軍再編問題」があったせいか、紙面の大部分を「基地撤去」の記事で埋めている。

「『反基地』へ大きなうねり」という大見出しの新聞と同じ紙面にいかにも沖縄らしい皮肉な広告が掲載されている。

「米軍従業員就職支援スクール」の「平成18年度前期受講生募集中!」と言う学生募集広告だ。

判りやすく言うと、在沖米軍基地の軍雇用員就職の為の予備校の学生募集である。

沖縄県外の人にとっては、新聞の大きな見出しや社説を読むと、この説明では余計わからなくなるかもしれない。

本土復帰前、基地内就職は軍作業と呼ばれ沖縄では憧れの職業であった。

当然基地就職の門は狭き門で優秀な人が合格し、あぶれた者は「先生にでもなろうか」と学校教師になった。

高校を出ると優秀なものは「軍作業試験」突破し、落ちたものは「軍作業あぶれもの」として琉球大学に入ったという話もある。

事実、高卒後軍作業で働きながら英語等を勉強し米国留学の恩恵に浴した人も沢山いる。

本土復帰後は学校教師は5月15日を期して学校教師、公務員、警察官等は一瞬の内に日本国の公務員となり身分待遇が復帰前とは比べられない程向上した。

弁護士等も簡単な資格試験で日本国の難関の司法試験合格者と同じ弁護士資格が与えられた。

彼らは、今では死語になりつつあるが、「布令弁護士」という自嘲的な言葉で呼ばれていたが日本国の弁護士として日本の何所でも開業できる資格があった。

復帰と共に「基地内就職」の地位が低下した、・・・と、思うのは沖縄の実情を知らない者の勝手な推測だ。

沖縄にある大学予備校は複数の学校が「基地内就職科」を併設しているほど米軍基地就職は依然として人気のある就職先なのだ。

もう一つ沖縄の矛盾を象徴する記事が今朝の琉球新報にあった。

自分自身がアメリカ人と沖縄人のハーフであり米軍人相手にロックを歌い続けていたロック歌手の喜屋武マリーさんが「基地撤去」叫ぶ県民大会で熱唱している記事だ。

◆琉球新報 2006年5月15日

「5・15平和とくらしを守る県民大会」に結集し、基地反対の怒りの拳を突き上げる3500人の参加者ら=14日、宜野湾市海浜公園屋外劇場

 沖縄が本土に復帰して15日で満34年を迎えた。1日に日米両政府が合意した在日米軍再編の最終報告では、名護市辺野古への新基地建設、嘉手納基地などの自衛隊との共同使用が盛り込まれ、県民が願い続ける「基地のない平和な沖縄」は、いまだ実現には程遠い。憲法・教育基本法の改正、共謀罪の新設など、「戦争への準備」を推し進める政府。14日夕に開かれた「5・15平和とくらしを守る県民大会」では、結集した3500人(主催者発表)が基地反対ののろしを上げ、怒りの拳を突き上げた。
 5・15平和行進を締めくくる「5・15平和とくらしを守る県民大会」(同実行委員会主催)には、県内3コースに分かれた行進団が、会場の宜野湾市海浜公園野外劇場に次々と結集。全員で、普天間基地の辺野古沿岸移設や憲法・教育基本法改悪の反対を訴える大会宣言を採択し、「戦争国家へ仕立て上げようとする政府の意図をくじこう」と気勢を上げた。3日間の平和行進には延べ7千人が参加した。
 主催者を代表して沖縄平和運動センターの崎山嗣幸議長が「私たちが願ったのは、核も基地もない平和憲法の下への復帰だった。しかし政府は、辺野古に巨大な軍事基地を造ろうとしており、われわれの願いを足げにするような対応だ。われわれは断固として闘う」と述べ、全国の仲間に共闘を呼び掛けた。
 連帯あいさつで、平和フォーラムの福山真劫事務局長は「この平和行進で沖縄の無念、怒りを胸に刻んだ」と述べ、政府の暴挙を阻止しようと訴えた。伊波洋一宜野湾市長も「普天間基地の問題を解決するため、長く粘り強く闘いたい」と語った。
 オープニングでは、ロック歌手のMarie(マリー)さんが「ラブ&ピース」の思いを込めて熱唱。最後は、全員で「頑張ろう」を三唱し、新たな闘いの構築を誓い合った。

(5/15 9:33)

 
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沖縄の「集団自決」

2006-05-15 10:24:46 | ★集団自決

昨日は沖縄の慶良間諸島の軍命令による「集団自決」について触れた。

これについては何れ稿を改めて書こうと思うが、今日は手抜き更新で「集団自決」の過去の新聞記事転載する。

産経新聞 平成17(2005)年7月24日[日]

沖縄戦集団自決「軍命令」…出版物・教科書で独り歩き

 集団自決が軍の命令だったとされてきた“歴史”が法廷で争われることになった。沖縄戦が住民を巻き込んだ悲惨な地上戦だったことは事実だが、軍の残虐性を示す“証拠”の発端は、島の長老と生存者による遺族のための悲しい口裏合わせだったという。最初に書かれた沖縄タイムス社の『鉄の暴風』の記述は大江健三郎氏の代表作『沖縄ノート』だけでなく、故家永三郎氏の『太平洋戦争』など多くの出版物や教科書で独り歩きしている。主なものを拾った。(教科書問題取材班)

 ◆鉄の暴風

 《恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた》

 《住民には自決用として、三十二発の手榴(しゅりゅう)弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。…阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた》

 《座間味島駐屯の将兵は約一千余、…隊長は梅沢少佐…。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。…村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した》

 ◆沖縄ノート

 《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞(ぎまん)と他者への瞞着(まんちゃく)の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう》

 《那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭(ふとう)では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである》

 ◆太平洋戦争

 《沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺進隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民三二九名が恩納河原でカミソリ・斧(おの)・鎌などを使い凄惨(せいさん)な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。座間味島の梅沢隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため三〇名が生命を失った》

◆教科書

  《日本軍にスパイ容疑で殺されたり、「集団自決」を強制されたりした人々もあった》《軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した》(日本書籍新社の中学歴史)

 《日本軍によって集団自決を強いられた人々やスパイ容疑・命令不服従などを理由に殺された人々もおり…》(実教出版の高校世界史)

 《犠牲者のなかには、慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本軍によって「集団自決」を強要された住民や虐殺された住民も含まれており…》(桐原書店の高校日本史)

 《日本軍に「集団自決」を強いられたり、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑をかけられて殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた》(三省堂の高校日本史)

 《戦陣訓によって投降することを禁じられていた日本軍では、一般住民にも集団自決が強いられたり、スパイ容疑や戦闘の邪魔になるとの理由による住民虐殺もおこった》(東京書籍の高校日本史)

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