ブッシュ米大統領がイラク、イラン、北朝鮮三国を「悪の枢軸国」と名指ししたのは未だ記憶に新しい。
「他国を悪と名指しするの怪しからん」とか、「あんな国なら悪と呼ばれても仕方ない」とか「ブッシュなら言いかねないし、云われても当然」と色んな意見があった。
仮に「悪の枢軸国」から「悪」の一文字を削除したとしても日本人なら既に「枢軸国」の文字に「悪」のイメージを刷り込まれている。
第二次大戦は「正義の連合国」対「悪の枢軸国」の戦い。或いは「民主主義国家」対「独裁主義国家」の戦いと学校時代に教え込まれた残影が大人になっても脳裏を過ぎるのだ。
歴史に「もしも」は無いと言うが、確かに枢軸国連盟と呼ばれた「日独伊三国同盟」は日本にとって歴史の大きな過ちであった。
三国同盟は悪玉の役者が揃い過ぎた。
ファッシズムの語源ともなるファシスト党を作った独裁者ムッソリーニ。
そして云わずと知れた独裁者と悪の代名詞ヒットラーが登場するとどうしてももう一人の悪役の登場を観客は期待する。
かくして「悪の独裁者3人男」の登場となる。
ヒットラー、ムッソリーニ、東条英機の三役揃い踏みだ。
が、判断ミスと「悪」とは別の次元の問題だ。
東条が宰相としては二流だったか、三流だったかの論議と彼が「悪事」を犯したとは別の論議だ。
政治・外交史は試行錯誤の歴史だ。
錯誤を悪と捉えたら世界史は悪の歴史と書き換えられねばならぬ。
◇
東条英機は「日米戦争」開戦時の首相である。
その意味では日本を敗戦の惨禍に導いた総責任者として責任を問われても左右の立場を問わず異論は無いだろう。
が、東条はヒットラーやムッソリーニに並ぶ独裁者では無かった。
何よりも東条が首相に就任したのは第三次近衛内閣が日中・日米関係を悪化させ内閣を投げ出した直後で、日米開戦(1941年12月8日)直前の僅か一ヶ月と二十日前(1941年10月22日)に過ぎない。
もはや日米関係は東条一人ではいかんともしがたいほど悪化していたのだ。
日本が独裁国家でなかった証拠は4年足らずの日米戦争の間日本の総理大臣は東条→小磯国昭→鈴木貫太郎と目まぐるしく変わっていた事でも判る。
ミズーリ号上の降伏調印時の東久邇宮稔彦王内閣を加えると日本の舵取りは実に4人の指導者にバトンタッチされている。
沖縄の「反戦歴史家」によると第二次大戦は日中の「十五年戦争」にまで辿らなければならぬと言う。
因みに沖縄平和祈念資料館によると「『平和の礎』に刻銘された沖縄戦戦没者は沖縄県出身者以外は昭和19年3月22日台三軍創設から昭和20年9月7日までをカウントし、沖縄県出身者は昭和6年8月18日の満州事変から昭和20年9月7日までをカウントする」と言う。
これでは他府県出身者は日本の歴史観で戦没者をカウントして、沖縄県出身者は中国の歴史観である「十五年戦争」でカウントした事になる。(沖縄平和祈念資料館http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/htmls/senbotsu/SN01EXPL040.htm)
話を東条英機に戻そう。
一歩譲ってその意見「十五年戦争」に従ったとしても満州事変の起きた1931年、職業軍人の東条英機は国政を動かすような地位にはおらず、その当時参謀本部の課長(47歳)に過ぎなかった。
日中戦争開戦といわれる盧溝橋事件の1937年に陸軍中将であり未だ国政には参加していない。(当時は近衛内閣)
日中戦争開始後三年目の1940年にして第二次近衛内閣の陸軍大臣としてやっと国政の一端をになうようになる。
つまり職業軍人の東条英機が近衛内閣の閣僚として大臣になるのは日米開戦の一年前のことなのだ。
◇
こうして開戦前後の日本史の概略を一瞥しただけでも、戦後刷り込まれた「マッカーサー史観」の亡霊が現代でも彷徨っているのが判る。
事を複雑にしているのは「マッカーサー史観」を引き継いでる人達が親米主義者ではなく冷戦時で云えば「親ソ主義」、現在で云えば「親中・親北朝鮮主義」の人達だと言う日本の摩訶不思議さである。
今や東条英機といえば「靖国参拝のネック」とさえなってしまい参拝強硬派の小泉首相でさえ「靖国参拝はA級戦犯を参拝しているわけではない」と言い出す始末である。
A級戦犯と言えば即、東条英機の顔が浮かぶほどマスコミの刷り込みが行き届いた国民は、国内親中メディアの「東条=独裁者・極悪人」説を信じ込んでしまう。
これは結局、ひたすら東条を悪の権化のように糾弾する中国の情報戦への敗北を意味する。
A級戦犯とは連合軍が便宜上作ったクラス分けであり、A、B、Cがそのまま罪の重さを繁栄するわけではない。
A級戦犯でありながら戦後、外務大臣(刑期年・重光葵)や法務大臣(終身刑・賀屋興宣 )になった人もおるしC級戦犯で死刑になった人は実数を掴めないほど多数いる。
何よりもA級戦犯に指定されながら裁判を免れ、戦後日本の総理大臣になった人(岸信介)もいるくらいだから、東条英機のみを悪と糾弾する「日本人が刷り込まれたA級戦犯」が如何にいい加減な言葉かが判る。
日本人的感情としては、「東条は日米戦争を指導した責任者だから責任を取れ」と言う気持ちは判る。
が、同時に日本には彼を悪の権化のように罵り死者に鞭打つ文化はない。
東条は、兎にも角にも、絞首刑と言う東京裁判の判決で罪を償ったのだ。
日本には絞首刑以上の極刑は無い。
◇
日本では「銅像が建つ」と云うと故人の偉業を称える像と相場は決まっている。
勿論、日本国内に東条英機の銅像が建ったと言う話は聞かない。
以前にも触れた記憶があるが、その東条英機の銅像が中国に建っていると言うと大方想像はつくだろう。
中国人は死人の墓を暴いても死者に鞭を打ち続け、日本人が考えるような罪の償いではけして人を許す事は無い。
今でも東条英機の後ろ手に縛られ膝まずかされた像は中国の地で唾を吐きつけられている。
◆東条英機の銅像
http://j.people.com.cn/2004/01/10/jp20040110_35732.html
以下はメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成18年(2006年)5月26日よりの転載ですが「中国人がいう 「日本の謝罪」”について」の読者の卓見にうなずかされる。
◇
≪(読者の声1)“中国人がいう 「日本の謝罪」”について。
中国人は「日本人は心の底から謝罪していない」という。日本人は「総
理や天皇が何度も公式謝罪したではないか。ODAも3兆円も供与した
ではないか。いいかげんにしてくれ。」という。
中国人がいまだに「日本人は心の底から謝罪していない」と言うのは、
日本人がまだ中国人が心の底で考えているような形の謝罪をしていない
からである。それでは中国人が考える謝罪とはどのようなものか?
その謎を解くためには、中国人が「心の底から謝罪している」と挙げる
事例を見なければならない。
私は3人の事例を紹介する。
私は日本人がこのような形の謝罪をすれば、中国人は「日本人はきちん
と謝罪した」と言うことを保証する。
(1) 汪兆銘の例
汪兆銘は清朝の国費留学生として法政大学に学び、孫文が日本で活動し
ていた頃、中国同盟会の設立に参画、その機関紙 「民報」の編集を行う
など日本での生活が長かった。
蒋介石の下で行政院長兼外交部長として第二位の立場にあったが、「一
面抵抗、一面交渉」 の方針を打ち出し、対日交渉の道を探り続けたため
「売国奴」と言われ、1935年、狙撃された。
蒋介石が毛沢東と抗日民族統一戦線を樹立すると、蒋介石と袂を分けた。
南京戦で蒋介石が重慶に逃れると、汪兆銘は1938年、南京国民政府
を樹立し、国家主席となった。
日本政府は、汪兆銘の政権を、唯一の中国を代表する政権として承認し
た。
だが体内に残った銃弾により症状が悪化し、1944年、名古屋の病院
にて死去した。汪兆銘の遺体は、南京に搬送され、南京市郊外の梅花山
に埋葬された。
夫の墓の将来を案じた夫人は5トンの鉄粉を混ぜたコンクリートにより
遺体の周囲を防護したが、終戦後、中国政府は汪兆銘を漢奸であるとし
て、その墓を爆破して遺体を暴き、遺体を引きずり出して暴行を加えた。
現在、墓があった場所には、汪兆銘が後ろ手に縛られ、跪いている像が
ある。頭を垂れている先は、孫文の墓 (中山陵) の方向である。
汪兆銘の下で働いた周仏海と陳壁君は奸漢裁判にかけられ牢獄のなかで
死亡した。
陳公博、堵民諠、梅思平、林栢生は奸漢裁判で死刑判決を受け、処刑さ
れた。
(2) 秦檜の例
檻のなかで縄に繋がれ、膝を屈服する像として有名なのは、南宋の宰相
であった秦檜とその妻である王妃の像である。
金との和平交渉を主張したため売国奴とされた。兵飛廟のなかで跪いて
いる夫妻の像に、唾をかけるのが今でも習慣になっている。
政権争いが起きたり、王朝が興亡を繰り返すたびに残忍かつ大量の虐殺
が行われてきた中国では、王朝を裏切ったり、王朝に反逆するなど、王
朝の体制を揺るがす行為に対しては、日本人には想像も出来ないほど重
い処罰を与える。
その死体や霊に対しても、恨みや憎しみをぶつけるが如く、繰り返し虐
待が行われている。
先の大戦後、日本に近い立場だった人々を「漢奸」と呼び、漢奸裁判で
処刑した。
中国には世界的にも珍しい、国を裏切った者を罰するため、特別な漢奸
刑法が存在していたのである。
(3) ブラント首相の例
中国人が「ドイツは謝罪した」というとき、彼らの念頭にあるのは19
70年12月、ワルシャワのゲットー跡記念碑の前で、跪いて頭を垂れ
ているブラント首相の姿である。 謝罪しない日本と謝罪したドイツを
比較する材料として、その写真がよく中国の雑誌や新聞に掲載される。
この3人の例に示されるように日本人の誰かが、北京に向かって、頭を
垂れ、後ろ手に鎖で縛られて、永遠に跪いている姿があって始めて、中
国人は「本気で謝罪している」 と感じるのである。
そのようなA級戦犯らの銅像を建てるのか、日本の総理大臣が毎日、国
会の庭で北京に向かって跪き頭を垂れるのか(小泉総理も、その次の総
理も、その次も永久的に)、それとも国民の祭日を設けて日本国民全員
が北京に向かって跪き頭を垂れるのか、そのいずれかであろう。
中国大陸の漢民族は、死者の霊に対する恨みや憎しみが世代を超えて続
く民族である。 汪兆銘や秦檜の如く、罪人は遺体であれ魂であれ、永
久的に罪を受け続けなければならないと考える民族である。だからこそ
心から信頼できる血縁で団結するのである。
A級戦犯やBC級戦犯を絞首刑にしたり、総理や天皇が謝罪したり、O
DAを供与した程度では心から満足しないのである。
最近、日本国内に「いつまで謝罪を続ければ気が済むのか」という声が
挙がっているが、漢民族は「永久に謝罪を求める」民族なのだ。
中国の歴史教科書には「あの惨劇を永遠に忘れてはならない」という記
述が至るところに見られる。
中国歴史教師教学書には南京事件の項目に「この項目は、鮮血したたる
事実をもって日本帝国が行なった中国侵略戦争の残虐性と野蛮性を暴露
している。教師は生徒をして、日本帝国主義に対する深い恨みを心に植
えつけるようにしなくてはならない」、また「授業に望むときは教師自
身が日本帝国主義を心より恨み、教えなくてはならない」とある。
(SN生)
(宮崎正弘のコメント)まことにおっしゃる通りのこと、ついでに言え
ば、人を食う(カーニバリズム)習慣が残るので、虐殺の方法があれほ
ど残酷、中国人が日本にきて犯した福岡一家四人惨殺事件に象徴される
幾多の惨劇を目撃し、多くの日本人が「なぜ中国人はあれほど残虐なの
か」と不審におもったことも、以上の歴史を踏まえれば分かります。
中国人とあるとき、日本のSM映画の話しになったことがあります。後
ろ手に縛られて歓喜にむせぶ被虐趣味。あれは中国人には理解のそと、
と断言されましたね。中国では後ろ手に縛られると、つぎは処刑を待つ
身ですから。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成18年(2006年)5月26日(金曜日)
通巻第1471号
より転載。