◆一昨日12日の琉球新報に「平和な沖縄・アジアを」という囲み記事が出ていた。
記事は「沖縄戦に強制連行され死んでいった元朝鮮人軍夫たちの思いを表現した恨(はん)之碑が読谷村に建立され、十三日に除幕式が行われる。恨之碑をすすめる会沖縄は十一日、県庁記者クラブで会見し、同碑の発案者元朝鮮人軍夫として沖縄戦で悲惨な体験をしたカン仁昌さん(八六)が思いを語った。」と語る。
「戦争犠牲者の為に国籍を問わず、慰霊碑を建立する」。
うーん、新報が心温まる美談を掲載か、・・・と思ったが、一寸待ってくれ。http://www.youtube.com/watch?v=lCbB1BAcN3w&search=korea
新聞の誤報が一人歩きして世の中を惑わした例としては「教科書の侵略・進出書き換え問題」や「従軍慰安婦強制連行」等がある。
この二例はその後の検証により誤報であったことは決着済みであるが、間違いと判ってもソレを認めない人やグループも依然として存在する。
例えば当初言われていた「強制連行された従軍慰安婦」も、強制連行された事実が無かったことがわかると「従軍慰安婦」に変化し、「慰安婦」は従軍看護婦や従軍記者とはまるで違う存在で、軍に群がる「売春婦」や「売春業者」であったことが検証されると、今度は全ての形容詞を省いてただの「慰安婦」と呼ぶようになった。
琉球新報の記事で当然のように使用されている「強制連行されて死んでいった元朝鮮軍夫・・」と、・・・又しても新聞は誤報を美談の隠れ蓑に隠して一人歩きさせるつもりなのか。
先ず前のエントリーで書いた谷沢永一いわく「現在の感覚を、過去にそのまま当てはめ、評価を下す史家は、常に歴史を過つ」を挙げておこう。
当時の朝鮮は日本の一部であり、朝鮮人も日本国民だった。
当時の日本国民なら成人男子は徴兵か徴用は当たり前で、軍夫は戦闘以外の雑用を行っていた。
一旦徴兵や徴用の命を受けると誰もこれを拒むことは出来なかった。
これは何も朝鮮人軍夫に限った事ではない。 日本人全てがそうだった。
これを現代の価値観で「強制連行」と決め付けるのは「歴史を過つ」ことになる。
そして今朝の琉球新報は9段抜きの27面(三面)トップで「平和な未来誓う」と題して朝鮮人軍夫追悼の恨之碑除幕式を大々的に報じた。
「日本兵に連行され、目隠しをして処刑台への階段を上る朝鮮人の青年と、足元で泣き崩れる母親」をブロンズで表現した碑は、読谷村在住の彫刻家金城実さんが手がけたという。
そして碑には、「この地に果てた兄姉の魂に」と題して「日本軍の性奴隷として踏みにじられた姉たち、軍夫として犠牲になった兄たちに深く頭を垂れる やがて固く結んだ鳳仙花の種が弾け 相互の海を越えて花咲くことを信じて 兄姉よ、あなたたちの辿った苦難を語り継ぎ 地球上から戦争と軍隊を根絶することを この地に果てた兄姉の魂」と記されているという。
これは「他国の戦没者も等しく慰霊する」と言った美談ではない。
「恨は日本語でいう恨みつらみや復讐を意味しない」と云うが、沖縄は韓国ではない。
この「恨之碑」を訪れる人は殆どが日本人だろう。
「恨之碑」の文字といい、ブロンズ像といい日本人にとっては恨みつらみそのものである。
「恨之碑」の第一号は韓国国内にあると云う。
沖縄の「恨之碑」は第二号となるわけだが、この韓国の反日イデオロギー塗(まみ)れの「記念碑」を沖縄に建立する理由が一体どこにあるだろう。
しかも琉球新報の報道は朝鮮人軍夫は「強制連行された」という誤報をあたかも当然の事実として煽る記事を書いている。
韓国が韓国の歴史観で韓国国内に「恨之碑」を建立するのは韓国の勝手だろうが、沖縄は韓国ではない。
沖縄は紛れも無く日本の一県だ。
反戦平和運動も結構だが、沖縄の新聞は他国のイデオロギーにまみれた一連の運動に自分の立つ軸足の位置を忘れている。
彼等は「琉球処分」の時、中国(清)にその軸足を置いた当時の琉球の一握りのインテリ(頑固党)と同じ反日主義者に変わりは無い。
新聞の誤報が一人歩きした話を書いたが、沖縄発の新聞誤報一人歩きした例が「軍命令による集団自決」だ。
沖縄タイムス社編の「鉄の暴風」の杜撰な沖縄戦取材が一人歩きし、ノーベル賞作家大江健三郎の「沖縄ノート」(岩波新書)まで飛び火して遂には教科書にまで載るようになったことでは「従軍慰安婦」と同じケースだ。
その後、曽野綾子の指摘により「鉄の暴風」の改訂版では「軍命による集団自決」は削除されたが「沖縄ノート」は改訂も無く誤報を載せたまま現在も販売されている。
大江氏によって集団自決を命令した悪の権化のように描かれた元守備隊長は現在も存命だ。
昨年、その元守備隊長ともう一人の指揮官の遺族によって大江氏と岩波書店は名誉毀損の訴えを起こさた。
◆産経新聞記事 2006年7月24日朝刊
沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ 「自決強制」記述誤り、名誉棄損
先の大戦末期の沖縄戦で日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする出版物の記述は誤りで、名誉を棄損されたとして、当時の守備隊長と遺族が著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店を相手取り、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こすことが二十三日分かった。
訴えを起こすのは、沖縄戦で座間味島を守備した陸軍海上挺進隊第一戦隊長を務めた梅沢裕・元少佐(88)と、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)。
訴えられるのは、『沖縄ノート』(岩波新書)の著者の大江氏と、他にも故家永三郎氏の『太平洋戦争』(岩波現代文庫)、故中野好夫氏らの『沖縄問題20年』(岩波新書)などを出している岩波書店。
訴状などによると、米軍が沖縄の渡嘉敷島と座間味島に上陸した昭和二十年三月下旬、両島で起きた住民の集団自決について、大江氏らは、これらの島に駐屯していた旧日本軍の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、そのような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。
沖縄戦の集団自決をめぐっては、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。
疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。
その後も、昭和史研究所(代表・中村粲元独協大教授)や自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝拓殖大教授)が曽野さんらの取材を補強する実証的研究を行っている。
◆琉球新報 2006年5月14日
平和な未来誓う 恨之碑が除幕 朝鮮人軍夫追悼 読谷村瀬名波
朝鮮半島出身者を追悼する恨之碑を見つめる元軍夫の姜さん(右)=13日午後2時すぎ、読谷村瀬名波(写真省略)
【読谷】沖縄戦に強制動員され犠牲となった元朝鮮人軍夫たちを追悼し、平和をつくり出す決意の場として、読谷村瀬名波に「恨(ハン)之碑」が建立され、13日、除幕式(主催・恨之碑建立をすすめる会沖縄)が行われた。式には沖縄戦中、阿嘉島で軍需物資の運搬作業などに従事させられ、日本軍による朝鮮人軍夫への虐殺など凄惨(せいさん)な場面に立ち会わされた元軍夫で、碑建立提案者の一人、姜仁昌(カンインチャン)さん(86)らも韓国から出席した。
碑の第1号基は1999年、韓国で最も多くの朝鮮人軍夫が強制連行された英陽(ヨンヤン)に建立され、沖縄側でも全国募金活動を行い建立が実現した。
日本兵に連行され、目隠しをして処刑台への階段を上る朝鮮人の青年と、足元で泣き崩れる母親をブロンズで表現した碑は、村在住の彫刻家、金城実さんが手掛け、「あなたたちの辿(たど)った苦難を語り継ぎ 地球上から戦争と軍隊を根絶することを この地に果てた兄姉の魂に 私たちは誓う」との碑文が刻まれている。
除幕後、姜さんは碑の前に立ち尽くしてブロンズの青年を見つめ、ハンカチで涙をぬぐった。姜さんは「韓国と日本が手を一つに携えて、2度とこのような戦争の惨禍が起こらないようにしなければならない。年に1度この場所でお参りしたい」とあいさつした。
建立をすすめる会沖縄の平良修共同代表は「“恨”は日本語の恨みつらみや復讐(ふくしゅう)を意味しない。仕打ちを受けた傷を心の底に深く刻みながらも、それをばねに新しい共生の道を切り開く未来志向の思想の言葉」と碑の趣旨を説明し「碑を歴史の学びと共生平和への教材として用いてほしい」と呼び掛けた。
碑前には韓国の慶尚北道から沖縄に強制連行された2815人の名簿などが姜さんらの手で埋め込まれたほか、韓国から持ち寄った石が朝鮮半島の方角に向かって並べ埋め込まれた。
除幕式後、姜さんは報道陣に建立への思いなどを聞かれ「それよりももっと、私たちが戦争中どんな経験をしたのかを聞くべきではないか」という怒りの交じった感想を漏らした。(5/14 9:59)