🌸奥州攻め
☆100年の栄華を誇った奥州藤原氏の最後
⛳平安時代の奥州攻め
☆無断任官を受けた義経を危険視した頼朝は、義経追討令を出す
☆頼朝は、義経追捕を口実に、守護・地頭を全国に設置した
☆追い詰められた義経
*奥州藤原氏が支配する平泉に身を寄せ、当主の秀衡の庇護を受ける
*秀衡は病死後、秀衡の後継者の泰衡は頼朝を恐れた
*父の遺言を無視して義経の居館を襲撃し、義経は自害して呆てた
*泰衡は義経の首を鎌倉に送り恭順の意を示す
*泰衡は義経の首を鎌倉に送り恭順の意を示す
☆頼朝は義経を秘匿したことを理由に奥州を攻撃
*泰衡は逃亡の末に家臣に討たれた
*北方の覇者・奥州藤原氏は滅びた
⛳頼朝の奥州攻め
⛳頼朝の奥州攻め
☆頼朝、三方向から奥州を攻める
*東海道を千葉常胤・八田知家
*東海道を千葉常胤・八田知家
*北陸道を比企能員・宇佐美実政
*中道を頼朝と軍を分け進軍する
☆藤原氏頼朝軍を迎え撃つ
*強力な防衛陣地を築いた阿津賀志山で
*激戦ののち、頼朝軍が勝利する
*その後、追激戦となり頼朝のもとに泰衡の首が届いた
⛳藤原泰衡、衣川で源義経を討つ
☆頼朝からの義経引き渡しを拒んでぃた藤原泰衡
☆頼朝からの義経引き渡しを拒んでぃた藤原泰衡
*朝廷から義経追討の命令が下ると
*義経を討つか頼朝と対決するかの選択に迫られた
☆義経を討つことを決意した泰衡
*衣川館にいた義経を襲撃し、義経は妻子とともに自害する
☆頼朝はそれにもかかわらず
*奥州藤原氏を減ぼすために兵を挙げる
⛳敗軍の将、藤原泰衡
☆100年続いた奥州藤原氏最後の当主
*藤原清衡に始まる奥州藤原氏の4代目
⛳敗軍の将、藤原泰衡
☆100年続いた奥州藤原氏最後の当主
*藤原清衡に始まる奥州藤原氏の4代目
*亡き父の意向に従い義経を守っていた
☆頼朝の脅しに屈して義経を攻撃した
☆頼朝の脅しに屈して義経を攻撃した
*義経側の弟の忠衡も殺害している
☆奥州征伐を望む頼朝の大軍に攻められると
*平泉に火を放ち逃亡
*罪の減免を願った書状を送るも、黙殺された
🌸承久の変
☆鎌倉幕府と朝廷の関係を逆転させた一戦
⛳平安時代の承久の変
☆武家政権を樹立した源頼朝が死去
⛳平安時代の承久の変
☆武家政権を樹立した源頼朝が死去
*嫡男の頼家が2代将年に就任した
*北条時政ら13人の宿老が、合議制を敷いて補佐した
☆北条時政は対抗勢力を次々と粛清し、頼家も葬り去る
*頼家の弟、実朝を将軍に据える
*実朝は後鳥羽上皇の覚えめでたかった
*実朝は後鳥羽上皇の覚えめでたかった
☆実朝は、2代執権・北条義時の時代に暗殺される
☆北条義時を疎む上皇は、義時追討の院宣を発する
☆北条義時を疎む上皇は、義時追討の院宣を発する
☆上皇の挙兵に動揺する御家人たち
*北条政子の叱咤により奮起した
*上皇軍を撃破し、乱は幕府軍の圧勝で終わる
⛳幕府は守る事よりも攻める事を選択
☆後鳥羽上皇の挙兵に対し
⛳幕府は守る事よりも攻める事を選択
☆後鳥羽上皇の挙兵に対し
*京へ攻め上がることを決定した鎌倉幕府
☆19万騎の軍勢、東海・東山・北陸の三道に分かれ京都へ進軍した
☆木曽川に達した、東海・東山道軍上皇方を破りさらに進軍した
☆北陸道軍も砺波山での激戦を制して京を目指した
☆北陸道軍も砺波山での激戦を制して京を目指した
☆上皇軍は、軍を再編し瀬田と宇治に兵を集めて防衛線を引いた
⛳最大の激戦となった宇治川の戦い
☆宇治橋を挟んでの戦いが始まった
⛳最大の激戦となった宇治川の戦い
☆宇治橋を挟んでの戦いが始まった
*橋桁は上皇軍に外されていた
*増水で幕府軍は宇治川を渡れずにいた
☆北条泰時の命令を受けた幕府軍渡河を強行
*多くの死者を出しながら
*宇治を突破し京を占領した
⛳勝軍の将、北条義時
☆北条氏の権力を確立させた男
*北条時政の次男、政子の弟で「宿老13人」の一人
☆横暴を極めていた父の時政を追放して幕府の実権を握る
☆承久の乱後は、朝廷を監視する六波羅探題を設置する
☆合戦により朝廷の権力が低下し、幕府の力が増大する
(敬称略)
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⛳出典、『日本の合戦』




(『日本の合戦』日本の合戦記事より画像引用)
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