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「大野治長」「家康と築山殿」「家康の女性関係」5

2024年02月19日 | 歴史
🌸「三英傑」の知られざる女性観5

『要旨』
 ☆秀頼が人前に出なかったのは、淀殿が本当の父親を明かさないため
 ☆徳川家康の最愛の人と言われてる正妻・築山殿?
 ☆築山殿と家康の別居生活=不仲だったのでは
 ☆徳川家康の側室20人以上


                      (家康と築山殿)





「大野治長」「家康と築山殿」「家康と女性」
(ネットより画像引用)

秀頼が人前に出なかったのは、淀殿が本当の父親を明かさないため
 ☆淀殿はひそかに不倫をして出来た子ども秀頼
 *淀殿は秀頼が表に出ることを、徹底的に避けていた
 *関ケ原の戦いや大坂の陣、秀頼が「出陣する」と言ったら
 *淀殿は「絶対ダメだ」と言って阻止した
 ☆彼女は秀頼が人前に出ることを、嫌がっていた
 *秀頼を見たら、誰の子どもかが一発で分かったのではないか
 *父親の面影が顔に現れていたからs
 *大野治長や石田三成など、考えられる候補者は何人か存在する
 *秀頼は、本当の父に似ていたので、淀殿は秀頼を表に出さなかった
 ☆秀吉も「淀殿がよその男と子どもを作った」こと知っていたのでは

⛳徳川家康の最愛の人と言われてる正妻・築山殿??
 ☆徳川家康の女性関係は、秀吉に比べれば地味だ
 ☆武家のお姫様好き丸出しの秀吉
 *家康の選ぶ女性たちはその対極にある
 *彼が愛した女性には、高貴な血筋の女性はほとんどいない
 ☆最初に彼が結婚した築山殿
 *「家康は築山殿が好きだったのか」と疑う根拠
 ☆家康が「桶狭間の戦い」の後に岡崎城に帰ったとき
 *それまで、家康は今川家の家臣として活動をしていたので
 *彼の正室築山殿と2人の子ども、今川家の人質で駿府におり
 *いつ殺されても仕方がない状態
 ☆家康は今川家の忠実な家臣であった鵜殿家を攻撃した
 *鵜殿氏長と鵜殿氏次を捕らえた
 *駿府で人質の築山殿と息子の信康、娘の亀姫たちと人質交換
 *家族を取り戻す、家族を無視した思い切った行動だった
 ☆その後の築山殿の動き
 *彼女は家康の住む岡崎城に入らず、城の近くにあるお寺に住む
 *その寺に日本庭園の築山があり、彼女は築山殿と呼ばれる

築山殿と家康の別居生活=不仲
 ☆普通なら仲睦まじい夫婦であれば、別居はしないはず
 *その後、築山殿は家康の子どもを産んでいません
 *結婚してすぐに子どもが二人生まれるほどの健康体
 *仮に夫婦関係を持ったら、子どもが生まれてもおかしくなかった
 ☆「2人はあまり仲が良くはなかつたのではないか」と思う
 ☆家康が岡崎城から浜松城へと拠点を移したら
 *築山殿は岡崎城に移り住み、息子の信康に世話になっている
 ☆築山殿が家康に悪い感情を抱いていた
 *浜松と岡崎ほど距離が離れてしまえば
 *当然夫婦関係を持つことはできません
 *現代でいえば、完全別居で離婚状態
                       (敬称略)
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⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典、『愛憎の日本史』

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