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比叡山延暦寺2( 聖地で起きた歴史的事件)

2021年03月10日 | 聖地
🌸比叡山延暦寺2( 聖地で起きた歴史的事件)

 ☆巨大な軍事力を有した比叡山延暦寺

⛳焼き討ちされた総本山

 ☆比叡山は、伝教大師こと最澄が開いた霊峰である
 *最盛期には3千を超える御堂が建つ
 *法然、日蓮、親鸞といった名僧が多数輩出された
 ☆織田信長は敵対する浅井・朝倉家の兵を匿った理由で
 *延暦寺への焼き討ちを決行、約4千人が虐殺されたとされている
 ☆敵対者を助けただけで攻撃し、信長も非道な仕打ちと言われている
 ☆当時の比叡山と延暦寺を知ると、違った見方も浮かび上がる
 *戦国時代の比叡山は聖地でない
 *自前の兵で周辺地域を脅かした軍事勢力でもあった

軍事組織としての比叡山
 ☆比叡山は、平安時代後期から江戸時代まで
 *独立した武装勢力で、「寺領」と呼ばれる独自の経済圏を持っていた
 *そこから得た収入で兵力(僧兵)まで保持していた
 ☆平安中期から治安の悪化、朝廷の支配力低下などが表面化する
 *寺院同士の対立や派閥争い、朝廷への示威行動に僧兵は動員された
 ☆比叡山は、経済力を背景に巨大な武装勢力を築き上げた
 *僧兵の数は最盛期には4千人、末社をすべて含めると数万規模
 ☆比叡山の横暴に、朝廷や幕府はなす術もなかった
 *幕府管領の細川氏が比叡山を焼き討ちしたが、すぐに復興された
 ☆寺院は、砦のように強化され武装集団のアジトのような有様

信長でも焼き討ちを躊躇していた
 ☆比叡山の焼き討ちを決行した信長、当初は攻撃を躊躇した
 *対話による解決を試みていた
 *信長は、比叡山との交渉でにかなり譲歩していた
 ☆信長の要求を比叡山が一切無視したので比叡山の攻撃を決めた
 ☆信長は比叡山への攻撃の理由として、僧侶の堕落を挙げている
 *比叡山には妻帯する僧侶多数おり、肉食や飲酒などの生活
 *金貸し業に手を染める僧侶もいた
 ☆焼き討ちにより比叡山は弱体化した
 *信長が死ぬまでは再建は許されなかった
 ☆復興が本格化したのは豊臣や徳川の時代に入ってから
                     (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
⛳出典、「本当は怖い日本の聖地」



比叡山延暦寺2( 聖地で起きた歴史的事件)
「本当は怖い日本の聖地」記事より画像引用)

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