🌸比叡山延暦寺2( 聖地で起きた歴史的事件)
☆巨大な軍事力を有した比叡山延暦寺
⛳焼き討ちされた総本山
☆比叡山は、伝教大師こと最澄が開いた霊峰である
*最盛期には3千を超える御堂が建つ
*法然、日蓮、親鸞といった名僧が多数輩出された
☆織田信長は敵対する浅井・朝倉家の兵を匿った理由で
*延暦寺への焼き討ちを決行、約4千人が虐殺されたとされている
☆敵対者を助けただけで攻撃し、信長も非道な仕打ちと言われている
☆当時の比叡山と延暦寺を知ると、違った見方も浮かび上がる
*戦国時代の比叡山は聖地でない
*自前の兵で周辺地域を脅かした軍事勢力でもあった
⛳軍事組織としての比叡山
☆比叡山は、平安時代後期から江戸時代まで
⛳軍事組織としての比叡山
☆比叡山は、平安時代後期から江戸時代まで
*独立した武装勢力で、「寺領」と呼ばれる独自の経済圏を持っていた
*そこから得た収入で兵力(僧兵)まで保持していた
☆平安中期から治安の悪化、朝廷の支配力低下などが表面化する
*寺院同士の対立や派閥争い、朝廷への示威行動に僧兵は動員された
☆比叡山は、経済力を背景に巨大な武装勢力を築き上げた
☆比叡山は、経済力を背景に巨大な武装勢力を築き上げた
*僧兵の数は最盛期には4千人、末社をすべて含めると数万規模
☆比叡山の横暴に、朝廷や幕府はなす術もなかった
☆比叡山の横暴に、朝廷や幕府はなす術もなかった
*幕府管領の細川氏が比叡山を焼き討ちしたが、すぐに復興された
☆寺院は、砦のように強化され武装集団のアジトのような有様
☆寺院は、砦のように強化され武装集団のアジトのような有様
⛳信長でも焼き討ちを躊躇していた
☆比叡山の焼き討ちを決行した信長、当初は攻撃を躊躇した
☆比叡山の焼き討ちを決行した信長、当初は攻撃を躊躇した
*対話による解決を試みていた
*信長は、比叡山との交渉でにかなり譲歩していた
☆信長の要求を比叡山が一切無視したので比叡山の攻撃を決めた
☆信長は比叡山への攻撃の理由として、僧侶の堕落を挙げている
☆信長は比叡山への攻撃の理由として、僧侶の堕落を挙げている
*比叡山には妻帯する僧侶多数おり、肉食や飲酒などの生活
*金貸し業に手を染める僧侶もいた
☆焼き討ちにより比叡山は弱体化した
☆焼き討ちにより比叡山は弱体化した
*信長が死ぬまでは再建は許されなかった
☆復興が本格化したのは豊臣や徳川の時代に入ってから
☆復興が本格化したのは豊臣や徳川の時代に入ってから
(敬称略)
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⛳出典、「本当は怖い日本の聖地」
比叡山延暦寺2( 聖地で起きた歴史的事件)
(「本当は怖い日本の聖地」記事より画像引用)
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