湯川・朝永生誕百周年企画展委員会編『素粒子の世界を拓く-湯川秀樹・朝永振一郎の人と時代』(京都大学学術出版会、2006年)を読む。
物理学のことは解らないから、それは読み飛ばし、人となり、研究の方法、時代との関係、平和運動などの晩年の社会活動などを興味深く読むことができた。本のつくりで、章が短いのも読みやすさに結びついているのだろう。湯川の中間子論というのは、ようするに原子核の陽子と中性子の間に働く力を、中間子をやりとりすることで生まれるものとして説明したもののようである。コミュニケーションでの言葉のやりとりによって親密な力が相互に発生するようなことにも通じるような気がしておもしろかった。
もしかしたら、物理の人たちは、文章を複雑に書かずに、シンプルことをよしとしているのかもしれない。もともと、湯川・朝永生誕百周年企画展の内容があり、展示ものをベースにした本作りということからかもしれない。
それはともかく、湯川も、朝永もどちらかというと一人で理論を構築していったように見受けられる(もちろん、最新の物理学の欧米文献をもとにしてだが)。その研究の気風には、欧米のようなディスカッションということが少ないような気がする。もともと、湯川は、漢籍の文献の素読などに通じているので、そういった特徴があるのかもしれないし、朝永は学生時代病弱だったということから来ているのかもしれない(戦後の学長時代や科学技術政策の推進をしていった時期はちょっとちがうかもしれないが)。ボーアのように、寝ても覚めてもしゃべって、議論して、研究を進めていくという動的な姿とは対比的な静的な姿があるように思える。
欧米の言語が、しゃべり言葉を基礎としているのに対して、日本語が書き言葉を基礎としているという違いかもしれない。
物理学のことは解らないから、それは読み飛ばし、人となり、研究の方法、時代との関係、平和運動などの晩年の社会活動などを興味深く読むことができた。本のつくりで、章が短いのも読みやすさに結びついているのだろう。湯川の中間子論というのは、ようするに原子核の陽子と中性子の間に働く力を、中間子をやりとりすることで生まれるものとして説明したもののようである。コミュニケーションでの言葉のやりとりによって親密な力が相互に発生するようなことにも通じるような気がしておもしろかった。
もしかしたら、物理の人たちは、文章を複雑に書かずに、シンプルことをよしとしているのかもしれない。もともと、湯川・朝永生誕百周年企画展の内容があり、展示ものをベースにした本作りということからかもしれない。
それはともかく、湯川も、朝永もどちらかというと一人で理論を構築していったように見受けられる(もちろん、最新の物理学の欧米文献をもとにしてだが)。その研究の気風には、欧米のようなディスカッションということが少ないような気がする。もともと、湯川は、漢籍の文献の素読などに通じているので、そういった特徴があるのかもしれないし、朝永は学生時代病弱だったということから来ているのかもしれない(戦後の学長時代や科学技術政策の推進をしていった時期はちょっとちがうかもしれないが)。ボーアのように、寝ても覚めてもしゃべって、議論して、研究を進めていくという動的な姿とは対比的な静的な姿があるように思える。
欧米の言語が、しゃべり言葉を基礎としているのに対して、日本語が書き言葉を基礎としているという違いかもしれない。